千年万年何年

十余一

千年万年何年

 弟の亀蔵が帰ってきた。

 亀蔵は決して悪人ではないが、怠け癖が酷く、労をいとうことにばかり悪知恵が働いた。だから奉公へ出された。親元を離れ厳しい環境に身を置けば心根も改まるだろうと。それが三月みつきもせず行方知れずになったと聞いたときは、「あの甘ちゃん、逃げ帰るつもりなのか」と思った。が、待てども俺たちの前に姿を現すことは無かった。

 それが今になってひょっこりと帰ってきた。奉公先へ送り出したときと然程さほど変わらず、幼さの残る顔でへらりと笑っている。今まで何処で何をしていたのか問い詰めても口を濁し、母と俺は戸惑いつつも迎え入れるほかなかった。

 亀蔵は空が白むと起き、熱心に野良仕事や行商を手伝う。「おっかぁの作るいなり寿司はやっぱりおいしいなァ」なんて、一度も言ったことのない褒め言葉をしきりに口にして飯を食う。殊勝なことに、毎朝、亡くなった父の位牌に手を合わせる。素直で、働き者で、まるで人が変わってしまったかのようだ。

 今日も亀蔵は手伝いに励んだ。俺の隣で軽くなった荷を担ぎ、家路に立ち並ぶ店に目を奪われている。

「つる兄ィ! 茶屋だ、茶屋がある! おっかさんにだんごを買っていこう」

 そうして足取り軽く茶屋へ向かうが、途中で「アッ!」と短い悲鳴を上げると、慌てた様子で俺のたもとを引っ張り後ずさる。

「やっぱり止めよう、だんごは止めだ。他のにしよう」

 茶屋では連れ立つお武家様が片や団子を頬張り、片や紫煙をくゆらせている。その強面にひるんだか。あるいは、屈託のない笑みを振りまくちゃみ女に照れでもしたか。弟もそろそろ、そういう年頃なのかもしれない。弟は……、弟が生きていたら、年の頃は……。

「あっちで飴を売っているよ! つる兄、あれにしよう!」

 真っ赤な傘の下で鐘を鳴らし客引きをする飴売りと、そこへ駆けてゆく無邪気な後ろ姿。その背に投げかけようとした「お前はいったい誰なんだ」という問いは、すんでのところで飲み込んだ。


 明くる日の暮れ時、煙草たばこぼんを手に縁側へ腰かける。火皿に詰めたほそきざみに火を着けると、深くゆっくりと一口。ため息のように流れ出た煙は茜空に溶けて消えた。

 こうして煙草をむのは何時いつぶりだろう。

 アレが誰であろうと何であろうと、いいじゃないか。そんな考えが頭を巡る。次男が行方知れずとなり父を病で亡くし塞ぎこみがちだった母にも、少しずつ笑顔が戻りつつある。孝行息子が増えて、いや帰ってきて嬉しいのだろう。食べ盛りのために飯を用意する横顔など活き活きとしている。

 久方ぶりに晴れやかな風が吹き込む家に思いを馳せながら、煙草をもう一口。拭いきれない違和感からは目を逸らしてしまえばいい。実のところ、俺もすっかりほだされてしまったのかもしれない。

「おっかぁ! つる兄ィ!」

 軽やかな足音と共に、喜色のにじむ声がする。いったい何事かと、手に持つ煙管きせるもそのままに出迎えてしまった。それがいけなかった。

「見ておくれよ! 山桃がこんなにたくさん――」

 言葉の途中で、両手いっぱいに抱えた鮮やかな実が転がり落ちる。きびすを返す亀蔵の尻には立派な尾が垂れ下がっていた。煙草の煙は天へと上る。

 夕日に照らされる金色の被毛を呆然と見送る俺に、いつの間にか表へ来ていた母が山桃を拾い集めながら言う。

「鶴吉、あの子を迎えに行っておやりよ」

「……、母ちゃんは気付いてたんか、アレが亀蔵じゃないって。気付いて可愛がってたんか」

「二人も三人も変わらないさ。そんでな、皆で楽しく暮らしていたらきっとそのうち、亀蔵も帰ってくるよ」

 そう言い残すと、母は「あの子が帰ってくるまでに稲荷寿司でもこさえようかね」と台所へ行ってしまった。

 俺は灰吹きのふちをコンと叩き、灰を落とした。これで狐狸が逃げ出すこともないだろう。

 まずは驚かせてしまったことを謝り、それから改めて名前を聞かねばなるまい。鶴吉と亀蔵の弟はいったい何というのだろうと思案しながら、夕焼けの小道を足早に追った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

千年万年何年 十余一 @0hm1t0y01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説