奇跡は驟雨が如くに我らを連れ去る

ぶざますぎる

奇跡は驟雨が如くに我らを連れ去る

もし人が、自分は何かを知っていると思うのなら、その人は、知らなければならないほどのことすら、まだ何ひとつとして、知ってはいない(コリント人への第一の手紙8:2)



[1]

 曩時、私はカラオケ店で夜勤スタッフとして働いていた。

 某県中枢都市にある主要駅の間近に居を構えていた其店は、平生より客脚の繁きこと甚だしく、昼夜問わずスタッフは皆激務に残息奄奄たる有様であり、私なぞはよく「アーア、こんなハードワークをやらされてるってえのに、雀の涙くれえのショッボい労賃しかもらえねえんだからよオ。まったく、やってられねえなア!!!」なぞとボヤいていた。


[2]

 併し、其晩に於いては土曜深夜だというのに異様なほどの不入りで、1時頃には客が途絶えた。ガランとした店内に流れる有線は渺として虚しく、その響きはある種幽邃めいた趣を呈していた。往時は私を含めて4人のバイトと、笹井という名の30代後半の副店長が出勤して居、バイト連は皆所在無げで、ある者はキッチンで呆っと待機し、ある者はフロントにて凝と虚空を見つめ、ある者は意味も無く各部屋を覗いて廻っていた。


[3]

 私はバックヤードにて金ピースの紫煙を燻らせながら、パソコンをカタカタとやっている副店長の笹井に向かって詮の無いことをピーチクパーチクと喋り掛けていた。

「いやア、土曜だってえのに、皆目お客が来ませんねエ。まあボクとしちゃア、ただ居るだけで時給が発生するんですから、ありがてえんですがねエ」

 私の言いに対し、笹井は不機嫌そうな口吻で返事を寄越した。

武座馬ぶざま君はバイトだから気楽で好いよな。おれはそうも言ってられないんだよ。売上が悪ければ、先ず店長がエリアマネージャから怒鳴られるだろ。で、お次は怒鳴られて不機嫌になった店長から、おれが怒鳴られるんだ」

「さいですか。でも、お給料はそれなりの額を貰ってらっしゃるんでしょう」

「それなりの額なんて貰ってないよ。君たちバイトの稼ぎに毛が生えた程度だよ。そのくせ、職務と責任だけは物凄いんだからね」

 そう語る笹井の顔はゲッソリとして居、目元にはえらい隈が出来ていた。

「でしたら、なんでお辞めにならねえんです? 」そもそもが割かしデリカシーに欠けている私は、聞く者を腹立たせる様なお気楽調子で言った「そんなにも不満を身の裡へ抱えてらっしゃるなら、こんな処とっととお辞めになって、もっとマシな場所へ転職なさりゃあ宜しいじゃないですか」

 おそらくは私の無神経な言いに腹を立てたのであろう。キーボードを打つ手を止めた笹井はキッと私の方を向いて、底冷えのする様な睥睨を寄越した。その威迫めいた笹井の態度に、そもそもが割かし小心者である私は、すっかり肝を冷やしてしまった。

はまだ若いから、そんなことが言えるんだろ。おれくらい歳を喰っちゃうと、もう色々と、ツブシが利かないんだよ」

 また、笹井の様子には些か錯乱の気配があった。月並みな言いをすらば、私は殺気を感じた。

「す、済んません。ボ、ボク、えらい調子に乗ったことを言っちまいまして……」

 私は即座に詫びを捧げ、スムーズに叩頭へと移行した。私は子供時分より、余計な口を利いて他人様を怒らせることが多かった。その度に謝罪の一献として安い土下座を捧げ、怒らせた相手の赦しを乞うた。

 併し、笹井は私の謝罪に対して特段の反応を見せず、「もう疲れちゃったよ。死んだ方がマシかもな。生きていてもロクなことが無いもんな。フン切りが付けばおれだって……」なぞと独り言ちながら体をデスクへと向け直し、復パソコンでの作業を始めた。

 <なんでい、何も怒るこたあねえだろうが。度量の小せえ野郎だナ。そんなんだから、万年出世識らずで上司からイビられるんだろうが。てめえの無能を棚に上げて、ボクにキレてんじゃねえやい!!!> と、私は胸中にて悪態を吐いた。

 すっかり気ぶっせいを感じてしまった私は、煙草を消してからソソクサとバックヤードを出た。


[4]

 バックヤードを出た私はキッチンへと赴き、換気扇の下に場を占め、そこに居た同僚――彼は大学の2回生だった――が迷惑がるのを一顧だにもせず、またぞろ煙草をスパスパし始めた。茶のミディアムヘアをした痩身の大学生同僚は煙を厭がり、キッチンの隅へと移動した。

 次第にジワリジワリと、私の身の裡で何やら憤懣めいたものが出来し、幾何級数的に度を増して往った。有り体に言えば、私は笹井に対してムカついたのである。さきの笹井との一件は十中十、己の無神経が因であったにも関わらず、そもそもが割かし逆ギレ体質であった私は、まるで自分がひどく理不尽な目に合わされたかの如く思い始めたのだった。畢竟、私は愚痴のひとつでも吐きたくなった。

「ボクはさっき、笹井さんからパワーハラスメントを受けちまったヨ」私は離れた処で雑誌を繰っている大学生同僚に向かって言った。

「なんすか、ソレ」雑誌を見つめたままこちらへは一瞥もくれず、大学生同僚は雑な返事を寄越した。往時、パワーハラスメントという言葉は、今ほど人口に膾炙していなかった。

「つまりさア」私は満腔の被害者意識で以て、自分に都合好く事情を説明した「ボクは何ひとつとして悪いことをしちゃいねえんだが、笹井さんの方はえらい虫の居所が悪かったらしく、すっかり八つ当たりされちまったって塩梅ヨ」

「へえ」大学生同僚は如何にも興味無さげに、素っ気無い一言だけを寄越した。

 大学生同僚の冷然たるレスポンスに、私は慊りないものを感じてえらい不機嫌になり、爆裂な舌打ちをひとつカマした。

 <愛想の無えゴミ野郎が!!! もっとボクを大切にしろい!!! >と、私は心中にて大学生同僚へ鬼の一喝を浴びせた。

 而してすっかり不貞腐れた私は、口元を苛立ちで引き攣らせつつ、煙草をスパスパやった。大学生同僚の方も、私のそうした挙動なぞへは一切の関心が無いらしく、ただ一心に雑誌を弄っていた。大学生同僚から斯様な舐め切った態度を取られたことに由り、私は身の裡でフラストレーションを増大させ、またぞろ大音量の舌打ちをカマす仕儀と相成った。


[5]

 吸っていた煙草が大分短くなった頃、換気扇横に備え付けられていた小窓の向こうで、ザアっという音が響いた。

「雨か」私はボソリと独り言ちた。

 降雨とならば、傘立てや雨天用のマットを出さねばならなかった。どうで客の気配は無いのだから、そうそう焦って用意する必要も感じなかったが、あまり呆っとして居れば、曩に怒らせてしまった笹井から厭味のひとつでも言われてしまうやもしれぬ。 

 私は一瞬、ひどく面倒に感じたが、丁度煙草も吸い終わることだし、このままここへ残って不愛想な大学生同僚と一緒に居ても、不興が募る一方である。それに手持無沙汰でブラブラと過ごすよりは、何かしら作業をしていた方が好い消閑ともなろう。

 結句、私はキッチンを出、フロントへと向かった。

 フロントでは最前より、坊主頭で黒ぶち眼鏡を掛けた百貫デブの同僚が、所在無げに突っ立て居た。

「おお、武座馬っち。今日は暇だねえ」百貫デブ同僚は私の姿を認めると言った。

 この百貫デブ同僚は、平生より随分と馴れ馴れしい態度で私に対して話し掛けて来た。で、そもそもが割かし誇り高い騎士ナイト気質であった私は、そうした百貫デブ同僚の振舞いに内心穏やかでなかったが、相手が自分よりも1年先輩だったこともあり、左様な業腹は表へ出さぬ様にと我慢していた。

「へい。休日だってえのに、不思議なこともあるもんです」併し一方で、そもそもが割かし惨めな舎弟気質でもあった私は、卑屈に媚びた緩頬と口吻で言った「どうも雨が降って来たみてえですヨ。ちょっくらマットと傘立てを出して来ます」

「え、予報ではそんなこと言ってなかったけどなあ。おれも手伝うよ」

「いえ、それには及びませんゼ。どうで暇で仕方が無えですからネ。先輩はゆっくりしといておくんなさい」

 曩に叙した様に、私は本心百貫デブ同僚へあまり好い感情を抱いていなかったので、極力一緒に過ごすことは避けたかったのである。

 <誰がてめえの助けなんぞ要るもんかい!!! 馴れ馴れしいデブ野郎が!!! ラード臭えんだヨ!!! 痩せろ、馬鹿が!!! > と、私は心中にて百貫デブ同僚へ唾を吐き掛けた。

 而して、私は百貫デブ同僚をフロントへと残し、備品一般の収納部屋へと向かった。


[6]

 収納部屋より雨天用のマットと傘立てを携えて私がフロントへ戻ってみると、百貫デブ同僚が客の対応をしていた。客は男一人で、黒いローブの様なものを纏って居、頭は短く刈り込んである。

 <あらあら、ようように御来客かしら> 私はそう思いながら、二人を後目にマットと傘立てを設置し始めたが、作業途次に、どうも様子のおかしいことに気付いた。

 百貫デブ同僚はカウンタ越しに「あの、もしもし」とか「済みません、聞こえていますか」なぞと客に向かって話し掛けている。どうも普通のフロント対応ではない。そして客の方はといえば、両手を真下へだらんと下げ、少し俯いた姿勢で身動みじろぎ一つせずカウンタの前に突っ立て居、百貫デブ同僚の呼び掛けへは一切の反応を呈さない。

 そこで私は気付いたが、客の男は裸足であった。その気付きと同時に、私の鼻が饐えた臭いを捉えた。悪臭は明らかに客の男から発せられていた。男の羽織っているローブの様なものはえらい襤褸であり、悪臭と相俟ってひどく不潔な印象を私に恵えた。挙動といい風体といい、どうやらこの男は、規範的社会人としての最低限安定した精神状態は持ち合わせて居ない様子である。

 <こりゃあ、面倒くせえなア> 私は身の裡で悪態を吐いた。

 稀に斯様な客がやって来るのだった。鯨飲の挙句に前後不覚になった酔客や、一体何を摂取したものか挙動の明らかにおかしい奴ら等等々……。概して、こういった手合いの御来臨を賜った際にはロクなことが起こらない。そもそもが割かし不運体質であった私は、何かといえばそうした迷惑客にカチ遇って被害を蒙ることが多く、それまでにも幾度か泣きを見ていた。

 触らぬ神に祟り無しである。私は貧乏神の対応をすっかり百貫デブ同僚へ任せてしまって、仮令トラブルが生じたにしても自分だけは安全で居られる様に、さっさとその場を離れることにした。

 併し、一瞬目が合った百貫デブ同僚が、私に向かって求救の意が明々白々たる哀れな視線を寄こして来たので無視する訳にも往かず、結句、仕方が無しに援護することにした。

「お客様、如何なさいましたか」私は男の横へ立ち、訊ねた。だが、男は最前からと同じく何の反応も示さなかった。歳は50ほどであろうか、男は能面の様な顔をしていた。私はそこに、えらい気味の悪さを覚えた。百貫デブ同僚が、私に向かって軽く小首を傾げて見せた。

「あのオ、お客様」私はオズオズと媚びる様な口吻で再度話し掛けた。この手のイカれを不用意に刺激してしまうと、何をされるか理解ったものでは無い「さすがに何もお応えを頂戴出来ないとなりますと、当店と致しましても……」

 私がそこまで言い掛けたのを遮る様に、男がサっと右手を前に上げた。男は何かを指差して居た。私と百貫デブ同僚は男の示す方向を見遣った。そちらにはバックヤードの入り口があった。そして、そこには何らの変哲も無かった。

「わっ」百貫デブ同僚が声を上げた。

 その声に驚いて私は視線を元に戻した。そして同じく私も「わっ」と発声した。

 視線を外したのはホンの一時であったにも関わらず、そこに突っ立って居たはずの男が忽然と姿を消していたのである。

 私と百貫デブ同僚は茫然として居、互いに口を利くことが出来なかった。が、不図私は最前まで男が立っていた処へ、はがき大の紙切れが落ちていることに気が付いた。私はそれを拾い上げた。下級印刷用紙の様に薄灰色で、若干不快な出触りのその紙には、ミミズがのたくった様な黒字で


 ""おんちょう ささいみきお""


 と書かれていた。


[7]

 ""ささいみきお""、とはともすると副店長の笹井のことを指しているのやもしれぬ。笹井の名は笹井幹夫なのである。併し、""おんちょう"" とは一体なんぞや。恩寵のことであろうか。さすれば紙の文言は ""恩寵 笹井幹夫"" となろうが、一体その意味とは。そして、男と笹井の関係とは。

「とにかく、その紙は笹井さんへは見せない方が好いと思うな」百貫デブ同僚が言った「あの人、最近はだいぶ参っているみたいだから。余計な心配は掛けちゃ駄目だよ」

「ボクも同意見でさあネ」私は返した「最前もえらい切羽詰まった雰囲気でしたからねエ。ボクは

「え、あの笹井さんが? そりゃあ相当だね」

 夙に叙した通り、私が八つ当たりをされた事実なぞ無く、単に笹井は私の無神経に対して若干の不快感を示したに過ぎなかったが、そもそもが割かし自分に都合好く事実と記憶を改竄する癖のあった私は、此際も遺憾無くその悪癖を発揮していた。

「では、この紙は処分しちまいやしょう」そう言って私は、カウンタ下に設置してあったシュレッダへ紙を差し、スイッチを押した。メリメリという音を立てながら、シュレッダが紙を飲み込んだ。

「まあ、あの男にしたって、ボクらの隙を見てズラかっただけですヨ」

「そうだよね。うん、そうだよ。おれもそう思う。まあ、おれらも夜勤だからね。自覚無しに疲れが溜まっているのかもしれない。おれらがあの男から目を離していた時間は、おれらの体感以上に長かったのかもしれないよ。併し、気持ちの悪い奴だったなあ。一寸目を離した隙に突然カウンタの前へ現れて、復一寸目を離したら今度は消えちゃうんだからなあ」

 腑に落ちない点は多々あった。併し、考えた処で詮が無いのである。不可思議な現象に遭遇した際、人間というのは往々にして無理やりの理屈付けを行うか、その現象自体を極力気に留めぬ様にして時の忘却効果へすべてを委ねるものである。実際、其際の我々は、そうした平俗的振舞いの顰みに倣ったのだった。

 プルルルル、とフロントのインターホンが鳴った。機器との距離は私の方が近かったので、百貫デブ同僚へアイコンタクトをして私が応対することにした。

 <お客は居ねえハズだから、きっとアイツからだろうナ>と、私は思った。

 曩に述べた通り、此日は私の他3名のバイトが出勤していた。ひとりはキッチンで雑誌を弄っている大学生同僚。もうひとりが百貫デブ同僚。最後のひとりが、バンドマンをやっているという30過ぎの金髪ロン毛男であった。このバンドマン同僚は先般に「今日は時化っぽいから、おれはそこらをウロウロしてるよ。何かあった呼んでくれ」と言い残して、客室方面へと姿を消していた。

「へい、フロント」私は送話口に向かって言った。

「おお、武座馬か」案の定、連絡の主はバンドマン同僚であった「ちょっと来てくれよ。部屋がヤベーんだよ。マジでチョーヤベーの」

「はア、一体何がそんなに ""ヤベー"" っていうんです」

「とにかくヤベーんだよ。マジで、チョーヤベー。204な、204。マジヤベー。お前と一緒に、もう一人連れて来てくれ」

 通話が切られた。

「一応訊くけど、今のは誰から? 」若干顔を引き攣らせた百貫デブ同僚が訊いて来た。先般の怪現象に由り些少の不安を感じているのであろう。

「油井さんですヨ」私はバンドマン同僚の名を告げた。

「そうか」百貫デブ同僚はホっとした様な表情をした「で、何だって? 」

「204が ""チョーヤベー"" んですって」

「は? 」

「どうで些末事ですヨ。まあ、有り体に言っちまえば油井さんは馬鹿ですからねエ」そもそもが割かし性悪であり、意味も無く他人様ひとさまを見下しがちな処のある私は言った「とんだボキャブラリー貧困野郎だから、いつも一寸したことでも ""ヤベー、ヤベー"" なんて言いやがるんですヨ」

「でも、わざわざ連絡するくらいだからなあ」

「いやア、どうで大したことじゃありゃしませんぜ。馬鹿は概して大仰なんです。よくもまア、あんな猿公えてこうめいた間抜けな頭でバンドなんざやれたもんですねエ。まるで音楽に対する冒涜ですよ。恥ってもんが無いんですかねエ。まア、馬鹿に人並みの慚羞心を期待するだけ無駄かも識れませんがネ。もしかしたら、手前のことを一丁前のアーティストかの如くに勘違いしてやがるのかも識れませんゼ。まったく、馬鹿に限って己惚れが激しいですからねエ……あ、この言いは油井さんへ告げ口しないでくださいヨ」

「相変わらず、武座馬っちは口が悪いなあ」

「へへへ。まあ、人手が欲しいとは言ってましたんでねエ。そのリクエストを無視してヘソを曲げられても適いませんから、ちょっくら成田のことを借りて往きますヨ。という訳で、フロントは頼んます」

「おう、了解」百貫デブ同僚は言った。 

 成田というのは、キッチンで雑誌を読んでいた大学生同僚の名である。

 私はキッチンへと顔を出して成田へ用向きを伝え、露骨に渋々とする彼を半ば強制する形で204へと向かった。


[8]

「ナニコレェ……」私はボソリと独り言ちた。

 煌々と電灯が点いた204のルーム内には、赤黒色の液体がそこら中へ飛散して居た。壁やソファーや機器に赤黒い飛沫が掛かっている。白色のボックステーブルの上には多量の赤黒い液溜まりが出来、それに浸かった歌本はすっかり潤けてしまっていた。

「血っスか、これ? 死体でもバラしたんスか? 」成田が言った。

「血じゃねえだろ、多分。臭くねえし。それに、おれは何もやってねえぞ」と油井。

「確かこの部屋は、1時くれえに若いアベックが取払ってからは、ずっと空き部屋でしたゼ」私は言った「部屋の掃除をしたのはボクですが、そん時はこんなことになっちゃいませんでしたゼ」

「ああ、最後の客だろ? 」と、油井「あいつら、イチャイチャしやがってムカついたわ」

「で、結局なんスか、これ? 」と、成田。

 さあ……、と私と油井が同時に言った。皆目見当がつかなかった。

「おれも廊下をウロウロしながら何度かこの部屋を覗いたけどよ、その時は何も無かったぜ」油井は言った「で、おれは直ぐそこで煙草を吸ってたけど、誰もこの部屋には入らなかったぞ。なのに吸い終わってから復何気なく覗いてみたら、この有様だもん」

 油井は部屋の外を顎でしゃくりながら言った。204は廊下の最奥に設えられた部屋だった。204を出て直ぐの処に出窓があって、そこにパイプ椅子が2つと灰皿が常置されていた。油井はそこで煙草を吸っていたのだろう。

「じゃあ、なんスか、これ?」成田が訊いた。

 さあ……、と私と油井が復言った。

「気味悪いな」油井が呟いた。

「取り合えず片付けましょうよ」気怠そうに成田が言った「あと笹井さんに報告」

「ボクはやりたくねえな。あ、報告のことな。笹井さんはえらい不機嫌だからよオ。ボクがやった訳でもねえのに、八つ当たりで怒鳴られるに決まってらア」

「じゃあ報告は遠藤さんにしてもらえば好いじゃないですか」成田は百貫デブ同僚の名を出した「武座馬さんはインターフォンで遠藤さんに伝えておいてくださいよ、おれと油井さんはモップとかを持ってきますから」


[9]

 油井と成田が離れ、私は独り204に居た。フロントへ連絡する前に、私は部屋裡の被害状況を仔細に見分することにした。赤黒い液体で汚された部屋は凄惨言語に絶す塩梅で、私の身の裡では、この怪現象への怯懦よりも、向後の片付けの手間を厭う骨惜しみ感情の方が強かった。おそらくは油井と成田も同じ心境であったろう。このウィアード・インシデントを目の当たりにした我々が最前に交わした実に味気の無い遣り取りは、それを裏付けていた。

 <それにしても、この液体は何だってんだ> 私は液体の正体へ些少の稚気めいた訝しを惹起されて、テーブルへと顔を近づけた。

 突然、バァンという大きな音がして、部屋の電気が消えた。

「ひぃ」をつかれて、私は情けない声を出した。

 一瞬、停電したのかと思った。併し、ドアガラスの向こうに見える廊下では電灯が明明赫赫として居、その明るさが私の考えを否定した。ガラス越しに暗い部屋へと差し込む光がテーブル上に広がる赤黒い液体に反射し、不気味な光輝を放った。その輝きが私の背筋に冷たいものを走らせた。とりあえず部屋を出よう。私は思った。

 私はドアの把手を引いた。ドアはビクともしない。私は軽ろきパニックを起こした。より力強く引いた。だが変わらずドアは開かない。

「油井さん! 成田! 助けてくれ! 」私は號呼しながら、破壊しかねない勢いで把手を引き続けた。併し、誰も私の叫びにはレスポンスを返さず、ドアも相変わらず緘黙としていた。

 私は半狂乱になってドアを開けようとした。体感として、10分ほどはそうしていた。異様であった。何故、油井と成田は戻って来ない? 悪戯ではないハズだ。こんなに部屋中を汚してまで厭がらせめいたドッキリを仕掛けるほど、連中はデスペラードな性分ではなかった。それに、それに……。

 そう、それに、気配が、否、確とした存在感が、先ほどからずっと私の後ろにあった。居る。私は振り向きたくなかった。後ろにはボックステーブルがある。居る。そして今、そのテーブルの上に、ソレが居る。今、私の背後に、明らかに、居る。私は、ソレを見たくなかった。だから、絶対に開かないと理解っていながらドアと格闘を続けていたし、絶対に油井と成田はやって来ないと理解っていながら、私はずっと叫び続けていた。私は、理解っていた。私を現況へと置かせた何かは、私が振り向いてソレを認めない限りは、決して私をこの部屋から出すつもりが無いのだということを、理解っていたのだ。

 その裡に、私はドアの把手を放し、力無く両腕を下げた。ヒトの手に由り水を張ったビーカに落とされたマウスが当初は脱出の希望を胸に奮闘するものの、暫後に脱出の不可能を悟って無気力となり、畢竟は目に諦観を浮かべて静かに水底へと沈んで往く様に、私は、最前から存在が著の如くである背後の気配へと屈服したのである。諦念満腔となって自棄を起こしたからか、それとも抵抗を止めた私を何かが強制したのか、私は後ろを振り向いた。

 テーブルの上に、副店長の笹井が仰臥していた。

「さ、笹井さん? 」私は頓狂な声を上げた。

 笹井は私に応えなかった。ハナ、死んでいるのかと思った。併し、彼の胸が呼吸で小さく上下するのを見、生きていることが理解った。彼は双眸をひたと閉じて居、静謐な眠りの海を揺蕩っている様だった。穏やかな顔だった。曩にバックヤードで見せた悄然たる面持ちとは全く異なっていた。

 不図、天井に新しい気配を感じた。私は仰向いた。

 天井から、蝋の様に真っ白い手が一本生えていた。仄暗い部屋の裡で、まるで発光しているかの如くに尋常ならざる白。指の形からして、それは左手らしかった。

「ひぃ」軽ろき悲鳴を漏らして、私は腰を抜かした。

 白い手がゆっくりと伸び始めた。最初、それは手首までしか出ていなかったが、徐々に前腕、肘、上腕と露出した。手はズルズルと伸び続けたが、そこからは上腕部分が延々と続くだけで肩部は一向に現れなかった。天井から伸び続けた手は遂に、テーブル上へ横たわる笹井の腹の上に到着した。笹井は相変わらず静かに仰臥していた。

 手は暫時笹井の腹部を弄っていた。それからスーッと胸の上を這う様にして顔の位置へと移動した。手が、笹井の目鼻立ちを確かめる様に顔面を撫でた。

 <止めてくれ……頼む、止めてくれ……> 心中、私は手に向って哀訴した。

 手の出現で腰を抜かしてから、私は体の自由が利かなかった。併し、それ自体はどうでも好かった。悪い予感があった。今から、間違い無く恐ろしいことが私の眼前で起こるのだった。その予感が私を煩擾とさせて、手前の体の自由云々なぞ二の次にさせた。

 予感は身の裡で確信となり、目の前で現実となった。

 手が、瞼が閉じられた笹井の左目の上へ、親指を据えた。そして、手が、笹井の眼窩へと、親指を押し込んだ。ヌチャ、という厭な音がした。笹井の目尻から、涙の様に血がサラサラと流れた。笹井自身は相変わらず、何らの反応も見せなかった。手は、更に深く、親指を突っ込んだ。今度はミチュ、ミチュという音がした。

「ああ気持ちいいなあ。ああ気持ちいいなあ」

 先般まで人形の様に沈黙していた笹井が、初めて口を利いた。どこか陶然とした口吻であった。笹井は微笑していた。

 手が、笹井の眼窩からゆっくりと親指を引き抜いた。それへ合わせる様に、ゴボボ、と血が溢れた。

 手が、反対側の目へと移動した。そして同じ様に、親指を眼窩へと押し込んだ。

「ああ気持ちいいなあ。ああ気持ちいいなあ」笹井が復、口を利いた。

 両目を潰されたというのに、笹井の口元からは心地好さ気な緩みが消えなかった。

 手が親指を引き抜いた。

 今や笹井の血で赤く染まった手が、笹井の喉元へ移動した。

 手が、笹井の首を絞め始めた。

 ミシ、ミシ、ミシ、と音がした。笹井の顔が、次第に青黒く変色した。目が潰れて、そこから血の涙を流し続けている笹井は、満足気な緩頬を浮かべていた。

「しあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせ」

 笹井が言った。

 夙に述べた様に、私は体の自由が利かなかった。だから、私がそこで仰向いたのも、おそらくは何かが、私の頭を掴んで、強制的に見上げさせたのだろう。

 天井に、今や、数えきれないほど大量の白い手が、新たに生え出ていた。

 スルスル、スルスルと、沢山の白い手が、ゆっくり、静かに、天井から、下がって来た。やがて、すべての手が、笹井の体の位置まで伸びた。

 ある手は笹井の足首を、ある手は笹井の膝を、肘を、肩を、指を……手は、笹井の体の節々に触れた。そして、大量の手は、協力し合って、笹井の関節を、本来の可動範囲とは別の方向へと、捻じ曲げた。バキバキ、メキメキ、笹井の体が、ひしゃげて往く。

「しあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせ」

 復、笹井が言った。

 複数の手が、笹井の頭部を掴み、他複数の手が、笹井の胴体を抑えた。

 笹井の頭が、蛇口のハンドルの様に、何回も何回も、グルグルと、捻じられた。

 ミチミチ、バキバキ、ボキボキ、グチャ。

 笹井の首が、畢竟に、ちぎれた。切断面から、血が、溢れ出た。

 複数の手が、髪を掴み、捥ぎ取った笹井の頭のぶら提げた。

 潰された目からは、相変わらず、血涙が流れていた。

 笹井の表情に、変化が見られた。

 最前まで法悦めいた表情をしていた笹井の顔に、些少ながら困惑の色が浮かんだ様に見えた。

 笹井は大きく口を開いた。

「違う」

 空気が漏れる様な声で、笹井の頭が言った。

 私は失神した。


[10]

 掃除用具を携えた油井と成田が204へ戻ってみれば、私が無様に気を失い床へ伸びていたのだから、ことは奇態という他無かっただろう。糅てて加えて奇妙なことに、最前まで部屋に塗れていた赤黒い液体が、今やきれいさっぱりと消えてしまっていたし、事情を訊こうと彼らが助け起こした私はと言えば、意識戻りたれど語ること能わずといった態であったから、まさに狐に抓まれた様な気分であったろう。

 そもそもが割かし可憐な乙女気質であり、お花めいた処のあるデリケートな私は、おそらくは曩に目撃した酸鼻極まる光景にショックを受けたのであろう、口中にて舌が麻痺した様に動かず、復喉にも何かが詰まった塩梅で、一言も口を利くことが出来なかった。

「意味が理解らねえな」油井は胡乱な目で私を見遣りながら言った「コイツは一言も口を利かないし、部屋は綺麗になってるし」

 私は私で、口は利けないまでも必死の身振り手振りで以て、体験せしめられた恐怖のことを伝えようと先般より必死になっていたが、結句はその一分すらも承知してもらえず、すべては徒労となった。

「だってよ、さっきまではこれだってビショ濡れだったんだぜ」油井は歌本を取り上げながら続けた。最前には赤黒い液体に浸かって潤けていたソレは、今では水気ひとつ無かった。

「まあ、好いんじゃないスか。手間は省けたし」成田が言った「武座馬さんは部屋のこと、もう遠藤さんか笹井さんに言ったんスか?」

 私はかぶりを振った。

「なら、尚のことっスよ。結局、何も無かったんスよ。好いじゃないっスか、そういうことにしておけば。それに、さっきのは……そうっスね、まあ、あれっスよ、いわゆる、集団ヒステリーって奴っスよ。変な夢でも見てたんスよ」

「おお、それ識ってるぞ。前にUSOジャパンで言ってた」

 違う、のだ。私はそう言いたかったが、やはり口は利けなかった。

 私は爾後にも度々思い識らされることになるのだが、神秘や怪奇を目撃した処で、それが目に見えてマイナスの影響を齎さない限りは、実際の人間の態度や対応というのはひどく現金だったり冷然だったりと、えらい鼻白むものであることが殆どなのである。併し見方を変えれば、これは危うき未知へと不用意に近寄らぬための、人間の防衛本能めいたものであるのやもしれぬ。

 閑話休題、其際に於いても、どうで考えても詮の無いことは一切気に留めずに忘れてしまうという、実に現代的でプラグマティックな判断を油井と成田の二人は下していた。私の方は相変わらず一声も発することが出来ず、独り完全なディスコミュニケーション状態にあり、そのせいで学習性無気力めいた不貞腐れ根性を爆発させて、今ではブスっと自分の殻に閉じこもってしまっていた。

 プルルルル、とインターフォンが鳴った。

「ん? 遠藤かな、何だろ」

 油井が受話器を取った

「ハイ、204、油井……。……はあ? それで、おまわりと救急車は? ……とりあえず、そっち往くから待ってろよ」

 油井は受話器を戻した。

「どうしたんスか? 」成田が訊いた。

 油井は一寸、沈黙した。それから口を開いた。

「……笹井さんが死んでるって」


[11]

 百貫デブ同僚こと遠藤は、フロントに戻った我々3人を青褪めた顔で迎えた。遠藤は離脱症状を起こしたドラック・アディクトかの如くに痙攣的な顫動を体に表して居、「笹井さんは……?」という油井の訊き掛けに対しては黙として口を開かず、ただバックヤードの方を顎でしゃくり、我々を誘導する様な目配せをした。


[12]

 笹井はバックヤードの床に仰向けで倒れ、幸福そうな笑みを面上へ浮かべていた。心地好さ気な莞爾たる表情だけを観れば、それはまるで親の腕に抱かれた子どもの様であった。併し、笹井の右首筋に出来た裂傷と、そこから絶え間なく零れ続けている血が、彼の死を証明していた。

 血の海が出来ていた。私たち4人はなるたけそれを踏まぬ様にして笹井の死体の側へ寄った。バックヤードの白い壁に、血飛沫が掛かっていた。笹井の右手には、カッターナイフが握られて居た。

 我々は凝と笹井の死体を見下ろした。

「自殺しちゃったのか? 」油井が口を開いた。

 遠藤がチラと油井の方を見た。

「おれは……ずっと……フロントに……居たんだ」訥々とした口吻で遠藤は言った「急に……笹井さんの声が……すごく大きな笑い声だったんだ……それが……あまりに異様だったから……」

 些か噛み合わない返答であった。

 須臾の沈黙を挟んでから、油井がボヤく様に言った。

「何もこんなひどい死に方をしなくても……」

 実際、凄惨な死に様であった。併し、夙に叙した通り、当の笹井の死顔はそうした状況に不適当なほど穏やかなものだった。誰が見ても、そこへは苦痛の生活を捨てることで漸くに手に入れた精神的安寧への満足が明らかであった。

「これ、遺書なんスかねえ……」成田が言った。

 はがき大の紙片が血の海に浮いていた。それを指して成田は言ったのである。紙にはミミズがのたくった様な黒字で


 ""おんちょう ささいみきお""


 と書かれていた。 

 成田の言いには誰も応えなかった。遠藤が、私に向かって怖気を含んだ眼を向けて、直ぐに逸らした。私は相変わらず口が利けなかった。

 誰も喋らなかった。どんよりと床へ広がった血と脂の海が、じわじわと朱殷の世界を伸ばし続けた。

「嘘だろ、夢だろ、これ、なあ」

 油井が言った。

「否かな、夢幻ゆめまぼろしにあらず」

 誰かが言った。

 我々4人は、ギョっとして互いに顔を見合わせた。遠藤、成田、油井の顔が、滑稽なほど急速に青褪めた。おそらくは私も同じであったろう。

 声は、笹井の死骸を囲む我々の後方、バックヤードの入り口から聴こえた。

 示し合わせたかの如く、我々は一斉にそちらを振り返った。

「あ」遠藤が声を漏らした。

 そこに、頭を短く刈り込んで黒いローブの様なものを纏った男が立っていた。饐えた臭いが私の鼻を突いた。曩にフロントへ現れ、急に姿を消したあの男であった。併し、最前には能面の様な表情をしていたその男は、今では口が裂けんばかりにニタニタと笑っていた。口裡に白く鋭い歯並びが覗いた。目には獰猛なほどの光りがあった。

 私は悪意を感じた。

 それと同時に、曩まで麻痺していた私の舌が解放された様に軽やかとなり、喉に詰まっていたものが解消された気配があった。喉に力が入り、舌が軽く痙攣を始めた。 

 私は何かを喋ろうとしていた。併し、それは私の意図する処ではなかった。

「いと高き者、なやめる霊魂たましいの哀慟せるを確とみそなわし、仁慈を以て彼をあしらい給わん」

 私の舌が、私の意思とは関係無く勝手に動き、私にそう言わせた。

 油井、成田、遠藤が、驚いて私を見た。

 男は相変わらずニタニタとしていたが、私の様子を見ると更に口角を上げ、さも満足といった態で軽く頷き、両手を掲げ天を仰ぐ姿勢を取った。

 瞬間、まるでテレビのチャンネルを切り替えたかの如くに、男の姿が消えた。

 併し、笹井の死体とバックヤード中に散飛した血は、消えずに残った。

 出血に由ろう、笹井の死顔が青黒く変色しはじめていた。そのせいか、従前から彼の面上へ浮かんでいた穏やかで満足気な表情に、翳が射した感があった。私は、死体の表情に些少の変化を認めた。

 喩えるならそれは、親から約束を反故にされた子どもの様にも見えた。泣き出す寸前の困り笑いめいた表情。絶望を悟りながらも、それを認めたがらない表情。冗談でしょう、本当は、ちゃんと約束を守ってくれるんでしょう? 媚びる様な、縋る様な表情。 つまる処、そこにあったのは期待を裏切られた者の表情だった。

「死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利」

 相も変わらず私の舌が、やはり私の意思とは関係無く、勝手に動き続けた。

 <なんとかしてくれ! 助けてくれ! > 私は愁訴の目を3人へ向けた。だが、彼らはただ呆然と、奇矯な言辞を弄し続ける私を眺めるだけだった。

「死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利死の勝利」

 足元で、すべてを呑み込まんとするマグマが如く、血の海がじわじわと広がった。


〈了〉







 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

奇跡は驟雨が如くに我らを連れ去る ぶざますぎる @buzamasugiru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説