父とのドライブ

島本 葉

最後のドライブ

「今度の休みにちょっと出かけないか」

 父からこんなふうに連絡があったので、朝から実家に向かっていた。こんなお誘いは初めてのことだ。何があったのかと聞くとドライブに行くとのことだった。妻と娘を連れてきたほうが良いのかを確認すると、どちらでもということで、なんとなく一人で帰省する方がいい気がした。

 実家は同じ県内にあるので、電車、バスを乗り継いでも一時間かからないくらいの距離だ。ただ、二年ほど前に、母が施設に入ってからはなんとなく足が遠のいていて、久しぶりの実家だった。

「おはよう、父さん」

 バス停から徒歩で実家に到着すると、父は涼しそうなポロシャツ姿で車のボンネットを開けて点検をしていた。

「ああ、おはよう。わざわざすまんな」

 懐かしい光景だった。ちょっとした外出のときでも、父は車を使うときは運行前に点検をする。免許の講習でも習うような基本的な点検だ。

「万が一にも事故を起こすわけにはいかん」

 どうしてそんな点検をするのか、だれもやってないのにと聞くと、父は確かそのように答えた。それは夜行バスの運転手という職業からの矜持だったのかもしれない。

 俺にとって父の記憶は常に車とともにある気がしていた。近所へちょっとした買い物に行くときも車を出す父。いつものように点検。休日に車を洗う父。家族で旅行に行くときも、たいていが父の車だった。

「じゃあいくか」

 慣れた点検を終えて、父が言った。

「なあ、どうしてドライブに?」

 運転席は父だ。俺は助手席に乗り込んだ。俺自身も運転はできるものの、街で暮らす分には車は必需品ではなく、すっかりペーパードライバーだった。

「免許、返そうと思ってな」

 父はシートベルトを締めながら、なんでもないことのようにそう言った。


 車は住宅地の道を進み、少し大きめの国道に出た。窓の外には、青々とした街路樹が過ぎていく。それほど交通量が多いわけでもなく、父はのんびりと車を走らせる。

「どこに行くの」

 尋ねると、ちょうど信号待ちで止まったため父がこちらを向いた。

篠山ささやまの方。昔母さんと三人で行った温泉覚えてるか?」

 篠山というと、ここからだとかなり山の方になる。はっきりとは覚えていないが、何度か車で日帰りの温泉に行った記憶はあった。あのどれかが篠山だっただろうか?

「どうして篠山?」

「いや、とくに理由はないぞ。日帰りで行くのにちょうどいい距離だからな」

 車は市街地を抜けて山間の風景に変わっていった。少し遠くに見える山々はゆっくりと流れ、手前の時折凹みがあるくすんだガードレールは勢いよく通り過ぎていく。道はだんだん蛇行して、左に右にとかかる重力に身体を踏ん張る。

「圭子さんや花蓮かれんは元気にしてるか?」

「ああ、元気にしてる。こんどまた連れてくるよ」

 運転しながら父はぽつりぽつりと話題を振ってくる。最近家庭菜園できゅうりを作ってること。隣の家が飼ってる犬のこと。朝晩散歩に行ってること。俺の仕事のことや妻や娘のこと。俺は受け答えをしながら、父はこんなに喋る人だっただろうか、と不思議に思った。

 少し開けた窓から涼しい風が吹き込んできて、濃い緑の匂いが車内を満たした。

 

 一時間ほど山道を走ると、目的の温泉に到着した。温泉と道の駅のような野菜などの販売所、レストランなどが一緒になった施設で、広い駐車場にはそこそこ車が停まっていた。

 車を停めて、温泉に。七百円と思ったより安い入浴料だ。父がまとめて払ったが、タオルなどは別料金になっていてそれも払う。

「母さんがいたら、ちゃんとタオル持って来たんだろうけどな」

 男二人ならこんなもんだ、と笑い合った。

 脱衣所で手早く服を脱ぎ浴場に入る。昼間から父と風呂に入るなんて、不思議な気分だった。洗い場に向かって少し前を歩く父の背中。あんなに小さかっただろうか? それに昔は少し中年太りしていたはずだが、今は痩せてしまって骨が浮き出ている。

 身体を洗って、湯船につかると少し熱めのお湯が気持ち良い。浮力を感じて全身の緊張がほぐれるようで思わず声か出た。 

孝宏たかひろ、メガネかけたままなのか?」

 父が隣にやってくる。

「ないと見えないんだよ」

 父も湯の中で身体を伸ばして「ふう」と声を出す。慣れているとはいえ、ここまで運転して来た疲れもあるだろう。

「免許、どうして返納するの?」

 俺はなんとなく聞きそびれていたことを口にする。口にして、ずっとそれが気になっていたことを自覚した。父と車と。どうしても分けてイメージできなかったのだ。

「どっか悪いの?」

「いや、この歳だから身体はあちこち痛むけど、それが理由ではないな」

「じゃあどうして?」

「そうだなぁ……」

 父は浴槽の縁の少し段になっている所に座る。 

「安心してもらうようにかな」

 思わず父の顔を見た。ぼんやりと波打つ湯面ゆおもてを見ている表情は穏やかで静かだった。

 ──諦観

 そんな言葉がよぎる。

 安心してもらうというと、それは母に対してだろう。仕事で夜間に運転する父をとても心配していた母。口には出していなかったが、子供の俺にもその気持ちは伝わっていた。電話で無事故で定年を迎えたと報告してきた母さんの嬉しそうな声を覚えている。

 しかし、その母は数年前から認知症を患い、今は施設でお世話になっていた。いったいどれくらい理解できるのだろうか。

「帰りに、母さんの所に寄っていこうか」

 それは今日のこのドライブの本当の目的地なのだと思った。


「母さん、来たよ」

 母が入所している施設にやってきた。面会ができる広いテラス席には、午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。母はにこにことして父と俺の向かいに座っているが、どことなく知らない表情に見えた。

「あら、こんにちは」

 今日はわからない日のようだ。父のことも息子である俺のことも認識できないでいる。朗らかな母の姿と重ならず、胸が苦くなる。

 父は気にした素振りも見せずにゆったりと話しかける。元気に過ごしているよ、とか今日行った温泉の話。俺のことや孫の花蓮のこと。

 母はにこにこと笑って相槌を打つ。

「母さん、ぼく今度免許返してくるな」

 父がそう言うと、母は少し悩むような素振りを見せ、

「それは、お疲れ様でした」と言って笑った。


「ここからは孝宏が運転してくれ」

 父に言われて、実家までの短い距離は俺がハンドルを握った。父がいるのに運転をするのは不思議な気分だった。助手席を見ると、父の表情はとても穏やかでリラックスしているようだった。先程の母への報告で最後だったのだ。免許を返すまでの期間も、父はもう運転することはないのだろう。

 父との思い出は常に車とともにある。

 これからは、その中でもこのドライブのことを一番に思い出すのだろう。


 完

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