煙草と、弾丸

壱単位

煙草と、弾丸


 ヨセフは先月、四十二歳になった。


 幸福だったころは、四十を越えたら煙草をやめる、と、妻にも娘にも公言していた。


 だから、いま、その灰皿でくすぶっている一本は、家族との大事な約束に背叛した存在なのである。


 警察官というしごとは、夜中の退屈な警邏中、あるいは極限まで追い詰められた場面において、その不健康な円筒の先端に火をつける快楽に縋ることを、かれにおしえて、刷り込んだ。


 それでも、娘のユレイカが五歳になった日、いつものように抱き上げようとしたときに、お父さんはたばこくさいよお、と、宝玉のような蒼い瞳を隠してしまったから、ヨセフはたいへん慌てて、その日からいくにちかはかれの家の空気は清涼だったのである。


 その数日を除いて、かれはいつでも、指に、あるいはくちに煙草をおいていた。今日も、昨日も、そうして、あの日も。


 その日は雨が強かったから、くちに咥えた煙草はぬれていた。


 傘もさしていない。コートのポケットに突っ込んだ手を引き抜くことも忘れている。自宅の戸口を、ずいぶん離れて、呆然と眺めている。


 立ち入り禁止をしめすロープの向こうで、同僚の警察官たちが忙しくたちはたらいている。知ったかおも、しらない顔もある。ただ、知っているはずの顔も、その日のかれには名前を思い出すことができなかった。


 かれの妻の遺体には、多数の殴打痕と、ふかい刺し傷ひとつが確認されたという。


 朝方、わらってかれを見送ったひかりの象徴は、布をかぶせられ、四人の警察官にかかえられて、搬出された。


 娘、ユレイカは、行方がわからなかった。


 ヨセフが関わっていた麻薬関連の捜査で、追い詰められた元締めが見せしめとして実施したその犯罪は、新聞をおおきく賑わせ、また、かれの職を奪った。


 元締めは海外に逃亡した。政財界と繋がりの深いその男は、他の国でとても苦労して暮らしていると、かれの耳にはいってきた。苦労は、ありあまるカネを遣うさきが、その国には乏しいからだと。


 ヨセフは、魂を、けずりおとした。


 けずって、場末の盛り場で用心棒と、チンピラから金品をうばうことを生業とし、夜のなかに、ほそく、ほそく、生きた。


 雨がふると、かれをあの日の情景がおそった。そのたびに、腐った生ごみでいっぱいのバケツにあたまを突っ込んで、朝まで、吼えた。


 事件から十五年たったころ、仇が帰国するとの報があった。時効をむかえ、また、いまこの国を動かしている政治家が、その男の後ろ盾を必要としたためだという。


 かれの人生の意味が、変化した。


 わずかに貯めたかねで、できるだけ強力で、精度のたかい銃を購入した。


 つかえるだけの手段をもちいて、仇の行動を調査した。


 やがて帰国の日時と、国内での仇の居場所を特定することが叶った。場所は、かれがいま暮らすまちのすぐ近くだった。かれは十五年ぶりに神に感謝することを思い出し、それを最後の祈りとした。


 祈りはそのあと、悪魔のほかには向けられることがなかったためだ。


 数日まえから、かれは仇が棲むはずのビルがよく見える建物に潜み、そうして今日、帰国の日を迎えた。情報に狂いはなく、仇は、複数台の豪奢な車を連ねてあらわれた。


 とりわけおおきな一台がビルに横付けになる。


 銃をとりだし、構える。この日までに数万回反復した動作は、紙いちまいほどの狂いもなく、指をうごかすだけで敵をほふることをかれに可能とさせている。


 拡大鏡をのぞきこむ。


 車から降りる、仇の姿。初老となった男は、女をつれて、笑っている。血液が沸く。指が、うごく。


 が、その指が、とまった。


 女が、こちらに向いたのだ。


 もちろん、かれが見えているわけではない。


 が、女がかれの存在を感じたことを、かれを知っていることを、自身で理解している。


 そしてかれもまた、女を、知っているのだ。


 女が、わらったように思えた。泣いたのかもしれない。宝玉のような蒼い瞳は、すぐに隠されたのだ。


 女は、明るい色のドレスの裾をひらめかせて、太腿の内側から短銃を取り出し、横にいる男のこめかみに押し当て、作動させた。


 男は斃れた。部下たちは瞬時まよい、武器を取り出し、女に殺到する。


 ヨセフはそのひとりひとりを精確に撃ち抜いていった。


 やがて拡大鏡の向こうに立っている姿が女ひとりとなる。


 女は、こちらをみて、くちを動かした。


 かれはたちあがり、はしりだした。


 拡大鏡を置いていったから、ユレイカもまた、ヨセフがいる方へ歩き出していることを見てはいない。


 狙撃手が消し忘れた煙草は、そのあとしばらくは、窓際でくすぶっていた。



 <完>






 

 

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