先生と藤波

松田鶏助

先生と藤波

プロローグ 編集者小山内の偏見


 その日の鎌倉は、五月の強い日差しが降り注いでいた。

 例年通りの異常気象で年々春は短くなり、夏が来るのが早くなる。そのくせ気温は曖昧で、五月ともなると晩冬のような寒さと盛夏のような暑さを繰り返していて、編集者の小山内は不幸にも服選びをしくじった。

 朝晩は冷えるからと、春仕様のスーツを選んでしまったのが悪手になってしまっていた。

 小山内は白いシャツに滲みるほど汗をかきながら、緩やかなカーブを描く長い坂を登っている。タイトスカートが汗で湿って捲り上がってくるので、度々立ち止まらなければならないのも歩みを遅めた。

額に滲んだ汗が伝い、眼鏡の鼻にあたるパッドに溜まるのを鬱陶しく思いながら、パンプスで靴擦れ寸前の重たい足を一歩一歩進めていく。腕に抱えた、役立たずのスーツの上着が邪魔ったらしくて、この世のなによりも憎かった。

(どうして、作家先生というものはこんな辺鄙な場所に住みたがるんだろう)

 都心から近いとはいえ、鎌倉は古都らしく、どこかオフィス街とは違った華やいだ印象を与える。町のどこを歩いても古めかしい木造の民家や、青々と茂る木々が見える鎌倉の街は、山を背に海が見える、竈門のような地形だ。南には弓形になった湾と、北の山の方には切り通しがあって、戦国の頃であれば敵に攻められにくいという寸法なのだが、このために街のどこを歩いても坂、坂、坂が現れる。

 いっそタクシーでも使えば良かったのかもしれないが、経理部に領収書を渡したところで出してくれそうな気はしなかった。編集者たるもの、足で原稿を取りに行け。先々代あたりの社長のありがたいお言葉は、どうやら令和になっても生きているらしい。まったくもって糞食らえの昭和思想である。

 小山内の向かう作家の家は、交通の弁が悪く、最寄駅の由比ヶ浜から山方向へ三十分以上登り続けた先にあると聞いて、小山内は自らの死さえ覚えた。

 都会の舗装された平らな道のりを三十分と言われれば少し遠いなあくらいの感想で済んだだろう。しかしグーグルマップの示した場所は急勾配の山だ。それも三十度近いからっからの五月の炎天下に、スーツ姿にパンプスで踏破しなければならない。

 小山内は久方ぶりにビジネスマナーを憎んだ。

「運動不足の編集者に……こんなとこまで原稿、取りに来させるなっての……!」 

誰にともなく文句を垂れながら、ようやく小山内はスマホの地図に表示された住所までやってきた。

 門扉に『月岡』の表札を見とめて小山内は愕然と目の前を見つめる。目の前には両脇に紫陽花の植え込みを構える古びた階段があった。

「……勘弁してよお……」

 小山内はがっくりと肩を落とし、自分に担当編集を任命した上司たちを恨んだ。



「小山内、お前たしか結婚してたよな?」

「え、ええと……はい。半年ほど前に……」

 編集長の高田に会社近くのカフェに呼び出され、小山内はやや緊張した面持ちで答える。

 入社して七年目。今更、上司相手に仰々しく畏まることもないのだが、その隣に座る人物の見慣れなさについ萎縮してしまった。

「まあ、それじゃあ新婚さんね?」

 赤い唇をの女性がはコーヒーカップを置きながら、上品に微笑む。

 六十代手前と見られる彼女はシワひとつないスーツを纏い、銀縁の眼鏡を掛けている。知的な女性と呼ばれるにふさわしい姿に、よれよれの私服を着た小山内は身を縮こませることしかできなかった。

「なんだお前、朝比奈さんとは話したことなかったか?」

「お、お名前は存じておりますが、なかなかお話しする機会はなくて……」

 朝比奈編集長。文芸編集部の総括であり敏腕編集者として名を馳せる彼女のことを知らぬ社員などこの会社にはいないだろう。

 勤続四十年以上の大ベテランで、数多くのヒット作を手掛けてきた伝説的なやり手だ。定年間際の今も最前線で活躍するその雄姿は、児童文学編集部に配属された小山内でも噂を聞いたことがある。

「先輩から、朝比奈さんのご活躍はよく聞いております。同じ女性として、とても憧れる人だな、と以前から思っていました」

「まあ、お上手ね。高田さんにそう言えって言われたのかしら」

「朝比奈さん、あんまうちの小山内をいじめないでください。あんたそんなだから魔女って言われんですよ」

「あら、そういう風に言われているの?私」

 楽し気に微笑む朝比奈と、困ったように顔をしかめる高田に置いてけぼりにされているような気がして、小山内はただ困惑することしかできなかった。

(なぜ、私はこの編集長二人組に呼び出されてぬるいコーヒーを啜っているのだろうか)

 助けを求めるように高田の方を見ると、上司である高田は頭をぼりぼりとかきながら「あー」と声を漏らした。嫌な予感がした。

 高田がこんな風にわざとらしく言葉を濁らせるような動きをするときは、大抵厄介な頼みごとをする時だ。

「小山内、これからお前に新しい仕事を頼むんだが」

 ほらきた、と小山内は内心ため息をつく。

 今度は一体何を頼まれるのだろうか。これまでも編集から逃げ続ける作家の原稿の取り立てや、締め切りを過ぎた作品の無茶な製本依頼などという面倒な仕事を「何事も経験」の一言で押し付けられてきた。

 ただ、別部署の長である朝比奈がいるから、もしかすると異動の話なのかもしれない。それはそれで嫌だな、と小山内は考える。ようやくこの部署を好きになってきて、一人前に原稿を取れるようになって、新人発掘だってはじめたというのに、また一からやり直しというのは気が進まない。望み薄ながら異動ではありませんようにと願いながら、小山内は高田の次の言葉を待った。

「お前には、文芸部の仕事を手伝ってもらうことになった」

「…………手伝い、ですか?」

 高田の思わぬ言葉に小山内は呆けた。手伝いとは何だ?異動とは、違うのだろうか。

「突然のお話でごめんなさいね」

 言葉を継いだのは、朝比奈だった。

「実は、うちの部署で一人産休に入る方がいるんだけど、作家さんが一人、引継ぎできていないの。ほかの社員にお願いしようと思ったのだけど、人手が足りなくて……。高田さんにご相談したら小山内さんにお願いできるかもしれないってことで、こうしてお話の場を設けさせていただいたの」

「は、はあ…………」

 朝比奈から補足を受けても、何の意味も分からなかった。

「でも、なぜ私なんですか?文芸って、今そんなに忙しいんですか?」

 朝比奈は首を振る。

「そういうわけではないの。ただ、難しい作家さんがいてね。女性の担当編集でなければ仕事を引き受けてくださらないの」

 嫌な予感が走る。これは想像以上に厄介な話なのかもしれない。

「それは……どういう方なんでしょうか」

 まだ急くのは早いと、小山内は自分を宥める。もしかすると男性恐怖症の女性作家かもしれないじゃないか。それならば納得のいくのだが……。

「月岡凛太朗という作家さんよ。小山内さんも、名前くらいは聞いたことあるでしょう?」

 その名前に、小山内の儚い予想が音を立てて崩れた。

「……はい、存じ上げています」

 存じ上げているどころではない。

 月岡凛太朗。彼の作品は何作もこの出版社の看板作品となっている。ファンタジーを主体としてホラーやSFなど幅広く執筆してきた大御所だ。売れっ子である彼が、いまだにこの小さな出版社で本を出すのは、かつての会長が月岡を作家として見出したからだとか、なんとか。

 月岡の作品に憧れてこの出版社に入社する社員も少なくない。小山内も学生時代に彼の作品のいくつかを読んだことがあったほどだ。

 そして本名の月岡倫太郎をもじったペンネームから察する通り、彼は男性作家だ。

 あの伝説的な大御所が女性の編集を指名する。小山内にとって、どうしてもそれは落胆を覚える事柄だった。

 小山内とて、この会社に入ってもう長い。厄介な作家の話など、耳にタコができるほど聞いてきた。その中には決まった男性編集相手にしか原稿を渡さない女流作家や女性編集にしつこく迫る男性作家というものが幾人か存在した。会うたびに尻を触ってくる作家なんてものも先輩の話に聞いたことがある。そういう作家でさえ、売れる本を書くのだから質が悪い。それとも、売れっ子になったから調子に乗ってしまうのだろうか。

 ともかく、わざわざ女性編集を指定する月岡にも、なんらかの癖があるのには違いない。

(だめだ響子。決めつけるのはまだ早い。月岡先生が女好きの好色爺だなんて、そんなわけがないじゃない。それにこれは、まだ担当を受け持つと決まったわけじゃないんだから……)

 なんとか自分を鼓舞しつつ、それでも小山内はどうにかこの場から逃れられないかと模索する。

「わ、私のような若輩者が月岡先生の担当だなんて、恐れ多いです……!」

「安心しろ小山内。あくまで一時的な担当だ。短期間担当したらお前は元の仕事に戻れる」

 高田の無神経な声が神経を逆なでする。問題はそこではないのだが、男である高田には分かるはずもない話だ。

「引継ぎといっても、たいしたことはないの。内容の打ち合わせはほとんど終わっていて、あとは原稿の進捗を確認するくらいだから問題ないわ。元々月岡先生は、編集に内容の相談とかしない人だし。本当はうちの担当者が最後まで受け持つつもりだったんだけど、どうしても産休に間に合わなくてね……。でも、すぐに原稿は上がるはずだから」

 朝比奈の薄っぺらいフォローが、小山内の耳を右から左へと抜けていく。小山内が口を挟む猶予も与えず早口に語られる仕事内容はどう聞いてもトラブルの予感がした。

「とりあえず七月の末まで、お願いしたいの」

 朝比奈の言葉が、さらに追い打ちをかける。小山内は諦観した。

 令和の世だ。セクハラやパワハラのあるべきではない時代だと世間が謳っても、それは上っ面だけのもので古い会社ではこうしてあからさまな部分が出てくる。「仕事を頼みたい」などと高田は都合のいい言い方をするが結局、小山内の引継ぎは決定事項なのだ。

「ま、何事も経験だ」

 会社とは、なんとも理不尽でできている。



 悪夢のような引継ぎから休日を挟んで二日。小山内は鎌倉の月岡邸にやってきた。

 炎暑の中の更なる行軍を覚悟した小山内だったが、不思議なことに月岡邸に一歩足を踏み入れると、そこだけ打ち水をされたように冷気を感じた。

 長い階段の両脇には紫陽花が色鮮やかな花を咲かせていた。紫陽花の低木はすべてがきれいに丸く刈られており、花に詳しくない小山内でも手入れが行き届いていることがよくわかる。

(でも、五月に紫陽花……?)

 紫陽花といえば、六月の花である印象があるが、ここの紫陽花は今が盛りと言わんばかりに咲いていた。

そう言う品種なのかと思いながら、小山内はまた一段、古びた石造りの階段を上っていく。紫陽花の後ろには楓の木が連なっていて、青々と茂った葉がちょうど階段の天井を覆っていた。自然のトンネルを通り抜ける風が涼やかで、小山内は思わずほう、と息をつく。

 なんとなく小山内は、以前に担当した作家が神社の境内などを涼しく感じることがあるのは、その場所周辺が木々に覆われていることが多いからだと言っていたのを思い出した。

 涼風に吹かれると会社の理不尽にささくれだった心が解けていく気がした。

(自然の力って偉大だなあ)

 月並みな感想を胸中で述べながら最後の階段を上ると、突然目の前に立派な屋敷が現れた。

「なにこれすっご…………」

 小山内が声を漏らしてしまうのも無理はない。鎌倉といえば古民家に住むイメージが強いが、月岡邸はその予想を凌駕していた。

 武家屋敷風、とでもいうのだろうか。まるで時代劇のドラマにでも出てきそうな古い屋敷が林の開けた中に建っている。

 いっそ幻想的な光景を前に小山内はただ感嘆の声を漏らすことしかできない。広大な敷地の中には田舎の一軒家である小山内の実家を五つは並べられるのではないだろうか。

 本当に大先生のお屋敷なのだと緊張しながら、小山内は恐る恐る玄関のベルを鳴らす。少し錆び付いたベル音が響き渡る。屋敷のどこか遠くから「はーい」という声が聞こえ、間をおいてから人がやってくる気配がした。

 ガラリと、少し立て付けの悪いガラス戸が引き開けられ、中から一人の青年が現れる。その姿に、小山内は少しだけ面食らってしまった。

 年齢は、大学生くらいだろうか。小山内が見上げるほど高めの身長であるものの、どこか細い体の線が男か女かの判断を曖昧にさせた。淡い亜麻色の髪を三つ編みにして、緩いTシャツとジーパンの上に黒いエプロンを付けている姿は、まるで都会のカフェ店員のようで、純和風の屋敷にはあまり似つかわしくないように思えてしまう。

「はい、どちら様でしょうか?」

 低く、嫋やかな声に訊ねられて、小山内ははっとして背筋を伸ばす。

「私、麗泉社の編集者で、小山内と申します。本日は月岡先生と原稿の打ち合わせで参ったのですが……」

 青年はゆっくりと瞬きをして、それから「ああ」と小さく声を漏らした。

「お話は聞いて居ります。どうぞお上がりくださいな」

 その人は柔らかく笑んで、小山内を家の中に招き入れた。

「お邪魔、します」

 玄関で靴からスリッパに履き替え、小山内は青年のあとをついていく。

 屋敷の中は流石に幾度か改装されているのか、現代的な間取りで小山内はほっと息を吐く。

 冷房が効いているのか、どこからともなく冷風が吹いてきた。

 見た目の通りに大きな屋敷の中には長い廊下がどこまでも続いており、歩幅の広い青年についていくのに小山内はつい小走りになってしまう。それでも青年が容赦なく薄暗い廊下を右へ左へと曲がるので、小山内はついていくのに必死になった。

 一体この家はどれほど広いのか、このまま廊下に果てなどないのではないかと不安に思った頃、突然視界が開けて小山内の頬を涼やかな風が撫でた。

「わあ……!」

 思わず声をあげた小山内の眼前には遠く水平線まで広がる海の景色と、その手前で風に揺れる見事な藤棚があった。

 庭の草木をフレームにのようにして、その奥に目覚ましいほどの青と鮮やかな紫が広がっている。思わぬ絶景に小山内はそのまま数秒、見とれてしまった。

「こんにちは。見事でしょう。この庭は、うちの自慢でしてねえ」

 不意に背後から男の声がした。はっとして振り返ると、上品な藍色の着物を着た老人が縁側に座っていた。老人は縁側から立ち上がり、柔和な笑顔で小山内にお辞儀した。

 銀縁の眼鏡の奥に漆黒の目を宿しているのが、妙に印象に残った。

「初めまして、月岡凛太朗と申します。玄関まで迎えられず申し訳ありません」

 月岡の名を聞いて、小山内はさあっと血の気が引くのを感じた。

「あ、こ、こんにちは!麗泉社の小山内と申します。この度は、よろしくお願いします!」

 慌てて礼を返す小山内の焦りに反し、月岡はのんびりとした態度だ。

「そう、畏まらないでくださいな。前任の樋川さんから話は聞いています。これから、どうぞよろしくお願いしますね」

 目の前に節くれだってしわくちゃの手を差し出され、小山内は握手を返して、恐る恐る顔を上げる。

月岡は、藍色の着物に薄墨の帯を合わせた格好をしていた。確か今年で八十五歳だと朝比奈から聞いていたが、とてもそんなに高齢とは思えなかった。見た目だけの印象でいえば、六十歳そこらの初老の男性に見える。

 少し縮んだ背骨や、刻まれた皺が老齢を窺わせるものの、しゃんと伸びた痩躯と後ろへ撫で付けた生糸のような白髪と切れ長の目は見るものに凛とした印象を与える。

 月岡倫太郎は老齢にも関わらず、未だ恋文めいたファンレターが届くことがあると編集部の噂で聞いたことがあるが、なるほど。ファンが色めき立つのもわかる気がした。

「どうぞこちらへ」

「はい。あ、あのこちら、つまらないものですが!」

 部屋に案内される前に小山内は慌てて手にした紙袋を差し出す。前任の樋川に「必ず持っていけ」と差し出された品だった。都内にいくつもの店を展開する洋菓子屋のふわふわのレアチーズケーキ。持ち歩きのために念入りに保冷剤を入れてもらったので袋はキンキンに冷えていた。作家の家に挨拶に持っていくには渡しづらい品なのではないかと小山内は訝しんだが、樋口はまず絶対にこれを持っていけと含んで言われたので仕方なく経費で買ったものだった。タクシー代は出ないくせに、こういうところは緩い会社である。

 樋川が一番重要としたものだ。さぞかし先生の気に入りの品なのだろうかと思ったが、月岡は特に感動をあらわにするわけでもなくただ受け取った。なんだか拍子抜けした小山内だが、大御所ともなるとこれくらいは普通のことなのかもしれないと考え直す。

「ああ、わざわざすみませんねえ。藤波、お茶の用意をお願いしますよ」

「はい、先生」

 藤波と呼ばれた青年はにっこりと笑って月岡から紙袋を受け取り、ぱたぱたと足音を立てながら奥へと引っ込んでいった。

 小山内は縁側からすぐ隣の部屋に案内された。

 部屋の中は板張りの床に青い絨毯が敷かれ、一対の本革のソファーとローテーブルが置かれていた。どこか純和風の外観と合わぬ内装だと思いながらも正座が苦手な小山内はありがたくソファーへ腰かけた。

「まだ五月だというのに、暑くて敵いませんねえ。この家は古くて、なかなかエアコンが付けられないのでこの部屋も少し暑いかもしれません」

「いえ、そんなことはないです」

 小山内の言葉は本心からだった。確かにクーラーの効きすぎたオフィスよりは暑いかもしれないが、海風の運ぶ冷気は思いのほか涼しく、今が秋なのではないかと疑ってしまうほどだ。

「立派なお屋敷で驚きました。とっても広いんですね」

 小山内の言葉に月岡は小さく首を横に振った。

「いえ、古いばかりで二人で暮らすには広すぎるので、手前の部屋ばかり使っていますよ」

「二人?」

 小山内は首をかしげる。聞いた話では月岡は独身のはずだ。

 月岡は「ああ」と声をもらし、藤波の引っ込んでいった部屋の方を軽く指さした。

「藤波には住み込みの手伝いとしていてもらっているのです。老人の一人暮らしは何かと不便ですから」

「へえ、そうなんですか……」

 月岡はそういうが、小山内はいまだに藤波がこの家で働いている姿にピンと来なかった。まして住み込みのヘルパーなど、あまり聞いたことはなかったが、金のある作家ならではかもしれない。

「さて、それじゃあお仕事をしましょうか」

「はい!」

 月岡に言われて、小山内は慌てて鞄の中から資料を取り出した。

 仕事と言っても、今日は顔合わせと月岡の進捗確認だけで大したことはない。月岡も慣れたように小山内の質問に答え、話し合いは一時間にも及ばなかった。月岡の執筆している原稿はほぼ完成に近く、来週にはできあがるということだった。

 出会って少ししか経っていないが、小山内の月岡に対する印象は様変わりしていた。女性編集を指名する女好きの老爺作家という先入観は剥がれ落ち、目の前には少し気やすい上品な大御所がいた。

仕事の話があらかたまとまった頃、トントンと扉の叩かれる音がした。

「失礼します」

 藤波が盆にチーズケーキを乗せて入ってくる。ご相伴にあずかれるのが嬉しくて、小山内は平静を装いながらも心の中でガッツポーズをした。

 藤波は月岡と小山内の前に置き、コーヒーのお代わりを注いでくれる。

 あまりじろじろみては失礼かと思いながらも、藤波はこっそりと藤波の美しさに見惚れた。伏し目がちの睫毛は小山内からの距離でも分かるほどふさふさと長く、毎朝苦労してマスカラを塗っている小山内は羨ましく思った。ふと、視線を上げた藤波の紫の目とかち合ってしまい、小山内はバツが悪そうに視線を逸らしたが、視界の端では藤波がほんの少し笑ったように見えた。

「それじゃあ、いただきますね」

 藤波がまた部屋を出ていくと、月岡はスプーンを手にとり、チーズケーキに手を付けたので小山内もぺこりと頭を下げてもそれに倣った。

「このチーズケーキは樋川さんのおすすめですか?」

「へ?」

 問われて思わず間抜けな声が出る。チーズケーキを渡したときは、月岡が土産の菓子に興味を持ったようには見えなかったので、不意を突かれた気分だった。

「いえ、すみませんね。あれは樋川さんがよく買ってきてくださったものなのですよ。彼女選んだお菓子の中で、藤波が一番褒めたものですから」

 月岡はにこやかに笑いながらチーズケーキを一口食べる。

「そう……ですか」

 答えながらも小山内は混乱するばかりだった。なぜここであの青年の話が出るのだろうか。

 広すぎる屋敷と言い、月岡という作家といい、ここに来てから小山内は混乱するばかりだ。手土産のレアチーズケーキは、緊張で味が分からなかったのが少しだけ残念だった。


「……それでは、今日はこの辺で。ありがとうございました」

「こちらこそ、わざわざご足労頂きありがとうございます」

 玄関口で別れを告げ、小山内はあの五月とは思えぬ炎天と向き合う覚悟を決める。あれから日はそんなに傾いていないので、行きと同じくらいに暑いのだろう。

「それでは、失礼します」

 小山内が引き戸に手をかけたその時、ぱたぱたと奥から足音が聞こえてきた。藤波だ。

 水仕事をしていたのか、わずかに濡れた手をエプロンで拭っている。

「編集さん、もうお帰りなんですか?」

「はい、今日はお邪魔しました」

「外、暑いでしょう。俺が送っていきますよ」

「ああ、そうだね。藤波、そうしてくれるかい?」

 エプロンを外し、藤波が玄関脇に置いたキーケースから車のカギを取る。

「そんな、申し訳ないです!」

「いいんですよ。ちょうど今夜の晩御飯の材料に使うナスを忘れてて、買いに行くところでしたから」

 小山内の静止も聞かず、藤波はさっさとつっかけのサンダルを履いてしまう。

「それじゃあ先生、ちょっと行ってきますね」

「はい。いってらっしゃい。小山内さんも気を付けてお帰りくださいね」

「あ……ありがとうございます……」

 押されるままに断るタイミングを失い、小山内は礼を言って藤波の後についていった。

 玄関から門扉まで伸びる草木のトンネルの階段を藤波はさっさと降りていく。前に揺れる三つ編みを小山内はパンプスで必死に追いかけた。一番下の段まで下りると、藤波はくるりと振り向いた。

「車取ってくるんで、少し待っててくださいね」

 そういうと返事を待つことなく近くの駐車場へ行ってしまう。それからほどなくして道の向こうから一台の車がやってきた。湘南の海に似合いの、ぴかぴかで真っ赤なスポーツカーだった

「……まじか」

 思わず口をついたのは、運転席に藤波が乗っていたせいだ。

「どうぞ乗ってー」

 藤波に促され、小山内は車に乗り込む。車内の内装までしっかりとカスタマイズされていた。

「これ、ポルシェですよね………。藤波さんの車?」

「まさか!」

 藤波は面白そうに笑いながらアクセルを踏み込む。

「先生の唯一の趣味ですよ。歳とって免許を返納しているくせに、俺が運転するからってこんなかっこいいのを買っちゃったんです」

「へえ……」

 売れっ子作家の考えることは、分からないものだ。小山内は月岡の原稿料のことを考えて、そっと鞄を抱きしめた。

 車は小山内が苦労して上ってきた坂を風のように駆け下りていく。

「鎌倉駅でいいですか?」

 最寄り駅よりも先にある駅を指名され小山内は慌てて首を横に振る。

「いや、大丈夫です!由比ヶ浜のほうで……」

「遠慮しなくていいですよ。ここらへんちょっと不便でね。鎌倉駅まで出た方が、なにかと買い物できるんです」

 小山内の了承を得る前に、藤波はウィンカーを上げてハンドルを切り、鎌倉方面へと進路を変えた。

「あ、ありがとう、ございます」

 五月の陽気に浮かれるサーファーたちが波間に遊ぶ由比ヶ浜を横目に、車は爽快なスピードで進んでいく。冷房の効いた車内から見る分には、あの憎々しい炎天の景色もさわやかに見えるから不思議だ。

「そういえば前任の樋川さんはおめでただそうですね。無事に生まれたらお祝いを送りたいので、先生に連絡をくださいな」

「ええ、もちろん……。樋川さんともお知り合いなんですね」

「はい。樋川さんが担当になったころから知っていますよー」

 藤波の言葉に、小山内は思わず瞬いた。聞いた話では、樋川は三年近く月岡の担当編集をしていたはずだ。その頃から知っているとなると、二十代に見えるこの青年は一体いくつなのだろうか。

「藤波さんは、いつから月岡先生のところで?」

「小さい頃からです。家との繋がりがあって、それでずっと」

 それを聞いて小山内は納得がいく。きっと月岡と藤波の家は家族ぐるみの付き合いで、それで旧知なのだろう。

「編集さんは、お家はどちらなんです?」

 藤波の言う編集さん、とは小山内を指しているのだろう。

「横浜です。それと、小山内で構いませんよ」

「これは失礼。それじゃこのあとは家に帰るんですか?」

「いえ、まだ仕事があるので……一度社に戻ります」

 直帰したいのは山々なのだが自分の仕事がまだ放りっぱなしなのだ。小山内は自分のデスクに積み上がった書類のことを考えて少し憂鬱になった。

「大変ですねえ」

「まあ編集なんて、ようは使いっ走りですからら」

 取り留めのない会話をしているうちに車は鎌倉の駅前まで来ていた。

「着きましたよ」

「わざわざありがとうございます。本当に助かりました」

 小山内は心の底から礼を言う。扉の向こうに足を出した途端、強い日差しが肌に感じた。

「あ、小山内さん」

 藤波が小山内を呼び止め、走り書きのメモを渡す。

「俺の電話番号です。連絡をくれれば次から迎えに来ます」

「そんな!悪いですよ」

「いえ、またあの炎天下を歩かせるわけにはいきませんよ」

 それに、と藤波は付け加える。

「チーズケーキのお礼ですよ」

「チーズケーキ……?」

 ぽかんとする小山内に藤波は悪戯っぽく微笑んで「それじゃ」と車を出してしまう。

 赤いスポーツカーが疾風のように立ち去るのを見送りながら、小山内ははたと気がついた。

「あのお菓子、藤波さんのために持ってけってことだったの……?」



『よかったじゃーん。電話番号までくれたってことは、藤波さんに気に入られたってことじゃない?』

「気に入られたとか言う話なんですか?」

 小山内は会社に戻ってから念のため先輩の樋川に連絡を入れた。樋川とは大学時代にゼミの先輩後輩だったこともあり、少しばかり気やすい仲なのだ。さっそく藤波に車で送られた話をすると、樋川はさもありなんと言わんばかりに笑った。

『言ったでしょ?あのチーズケーキを持っていくべきだって。私なんて藤波くんに気に入ってもらうのにめちゃくちゃ時間かかったんだから』

「うーん。それには感謝してますけど……」

『それで?月岡先生はどうだった?』

「なんというか、普通に礼儀正しい人でしたね」

『女編集を指名するエロジジイかと思ったのに?』

 樋川のからかうような返しに思わず言葉が詰まる。確かに事前の物々しい辞令に小山内は戦々恐々としたが、会ってみればそのような印象は全くなかったのだ。

『みーんな意外がるんだよね。ほら、編集に条件を入れてくる作家って癖の強い人が多いから』

「それは……よく分かりますけど。でもなんで藤波さんの機嫌をとることが重要なんですか?」

『小山内あんたねえ、何年編集やってるの。将を射んと欲すればまず馬を射よって言うでしょ?作家先生本人よりも、家を仕切る鬼嫁を味方につけた方が楽って事だよ』

「ふーん……」

 納得しかけて小山内はうん?と引っかかる。

「え、先輩。その言い方だとまるで藤波さんが……」

『あれ?言わなかったっけ』

 いけしゃあしゃあと樋川は続ける。

『藤波くん、先生の愛人よ。多分だけどね』

「多分って……」

 戸惑いながらも小山内は妙に引っかかる部分があったことを思い出す。

 藤波の月岡に対する態度や、逆に月岡から藤波に対する態度は確かにただの主人と使用人とは言い難い気もする。

「そっかあ……そう言うこともありますよね」

『そーそー。まあ、私も直接切り込んだことはないし、首を突っ込む必要もないよ。ただそうなんだろうなあって思ってれば仕事に支障はないしね』

「……ですよねえ」

 小山内は複雑な気持ちで、苦笑いした。



 そうは言われても、一度かけた色眼鏡はなかなか外せないのが人間である。

 今の時代は多様性がトレンドだし、なんでもないことだと自分に言い聞かせても、どうしたって特殊な色恋には関心が湧いてしまうものだ。

 再び月岡家を訪れた小山内だったが、月岡と藤波の関わりの一挙一動に目を奪われて、つい気もそぞろになってしまう。

「すまん藤波、アレどこやったかな」

「万年筆ですか?朝縁側で書き物をしてらっしゃったからそこじゃないですか?」

「いや、その後昼に新聞の原稿を書いたから居間の机かもな」

「もう〜。いつも同じ場所に置いてくださいって言っているでしょう」

 だが、実際目の当たりにしてみると、二人の間に恋人らしい空気というのはあまり感じられない。今も打ち合わせを前に、万年筆の置き場所をめぐって他愛のない言い合いをしている程度だ。

年が離れ過ぎているせい、というのもあるかもしれないが、少しゆっくりな月岡の足取りを支える姿や、世話を焼く様子はほとんど介護のような触れ合いだ。

 確かにハウスキーパーとその主人としては距離が近いように感じるが、それもむしろ孫と祖父の空気感に似ている。

(でも本当に先生と藤波さんがそういう仲だとして……。仕事で気にかけなきゃいけないって相当の関係だと思うんだけど)

「小山内さん?どうか、しましたか?」

「えっ……あ、いえ。すみません。少し考え事を」

 ぼんやりと意識を飛ばしていた己を叱咤し、小山内はソファーに座り直す。

 二回目の打ち合わせでは完成に先駆けて本の表紙イメージを固めるための話し合いが行われていた。

 テーブルにはイメージを形にしやすくするためのカラーチャートと藤波の入れてくれたアイスカフェラテ、そして小山内の持ってきたクッキーが置かれていた。

 チーズケーキが好きということを鑑みて、味もチーズ系に寄せて見せたが玄関先で手渡した藤波の反応は嬉しそうであったものの前回ほどではなかった。

(難しいよう……樋川先輩……)

 心の中で樋川に助けを求めてみるものの、樋川はすでに大きなお腹を抱えて実家に戻ってしまっている。今時珍しい里帰り出産とのことだ。

「表紙のイメージですが、今回は海が舞台なので青色とかどうでしょうか」

「悪くはないですね。ただ、恥ずかしながら今までの作品も青色を多く使っているので、それでは過去作と雰囲気が被りませんか?」

「確かに……それもそうですね」

 カラーチャートをぱらぱらとめくりながら小山内は頭を悩ませる。

 装丁のデザインは専任のデザイナーに一任してあるが、大元となるイメージを固める必要があった。できるだけ作家の中にあるイメージ通りの表紙を作らなければ、内容と齟齬が出る装丁ではいい本にならない。

うんうんと唸りながら小山内が色見本を広げていると、不意にふしくれだった指がついっと伸びてくる。顔を上げると、月岡の漆黒の目が一つの色を捉えていた。

「これなんて、いいと思いますよ」

 月岡の示した色を見ると、それは青に近い、薄い紫だった。

「藤色、ですか」

「ええ」

 月岡が目元に笑い時皺を刻ませながら言う。

「夕暮れの、海の色です。私の一番好きな色」

「………へえ」

 曖昧に返事をしながら、手元のカラーチャートを見下ろす。夕暮れの海の色は赤ではないのだろうか。小山内の心を読んだかのように、月岡は呟いた。

「この庭から、山陰になっている岩場が見えるでしょう。あのあたりが、よくその色になるんです。夕日が沈む間、青い海は燃えるような赤色へと変わる。そして、太陽が水平線の向こうへ沈み切った後、わずかな時間だけ。赤から青へと戻るほんの短い間だけ淡い藤色になるんです」

 小山内は、月岡の言葉を聞いて窓の向こうに広がる海を見た。

 今はまだ陽が高く、太陽に照らされた海は青い水面をきらきらと金色に輝かせている。あの宝石のような海が、陽が沈み、闇に飲まれる間際の一筋の光を纏って薄い藤色へと、ほんの僅かな時間だけ染まっていく。それはなんだか、儚くて、とても寂しいような気がした。

「確かに、そう考えるとこの色は作品にぴったりですね」

 今、月岡が書いている小説は老いらくの恋を描いている。

 定年退職して勤め人としての役割を終えた男が、自分よりもずっと若い女に恋をしてしまう最後の恋の物語。男は浮かれる恋心と、己を律する理性との間で七転八倒した結果、死んでしまう。しかしそこで話は終わらない。男は恋した女に焦がれるあまり、幽霊になってしまう。幽霊となった男は女の守護霊として動き回るが、やがて女の身に危険が迫り……と言う、一風変わった恋愛喜劇だ。

 物語のラストでは、若い女は同い年の男と結ばれ、男はそれを見守りながら海辺で静かに成仏していく。コメディでありながら、どことなく寂しさのある終わりを考えると、確かにイメージが合う。

「では、それで進めましょう」

 月岡も納得したように頷く。

 ふと、廊下の方で電話が鳴った。二つ目のコールが鳴るまでもなく音は止んだが、数秒後、ぱたぱたと廊下を小走りで歩く音が聞こえてきた。

「失礼しまぁす」

 部屋の入り口を少し開けて、藤波が顔を覗かせる。

「先生、広倭出版の方からお電話です。来月の文学賞の審査員についてお話ししたいと」

「やれやれ、一度断ったはずなんですけどねえ」

 月岡はため息を吐きながら席を立つ。

「小山内さん、打ち合わせ中にすみませんが、少し席を外させてもらいます。良ければ庭でもみて待っていてください」

「は、はあ……」

 打ち合わせの中断に若干戸惑いつつ、小山内は曖昧に頭を下げる。

 月岡はそのまま電話に出るため、部屋を出て行ってしまった。しばらく待っても月岡は戻って来ず、これは長くなると考えた小山内は月岡の勧め通り、庭用のサンダルを借りて庭を見物することした。

 正直、普通であれば『庭を見ろ』と勧められても、特に植物に対して興味があるわけでもない小山内は「だからなんだ」と退屈にするのが普通であろうと思ったが、月岡邸の庭はそれなりに見応えのある庭だった。

 藤の花は五月の半ばには散ると聞いていたが、この家の藤棚は未だ堂々と咲き誇りながら海風に揺れている。

 薄紫の花弁の香りを確かめようと、幼いが藤棚にふらふらと近づくと、垂れ下がる藤の隙間から小さな黒い影が大きな羽音を立てながら飛び出してきた。

「きゃっ!」

 思わず悲鳴をあげて身を躱す。影の正体を確かめると、それは黒い体に黄色い毛を持ち、ブンブンと不安定に飛び回る、大きな熊蜂だった。

「ちょ、やだ来んな!」

 自分の周りをぶんぶんと飛び回る熊蜂を追い払おうと手を振っていると、縁側から楽し気な笑い声が聞こえてきた。

「あはは。大丈夫ですよ、小山内さん。熊蜂は意外と穏やかな虫ですから、ゆっくり離れれば害は無いですよ」

 庭用のサンダルに履き替えて、藤波が近づいてくる。

 そうして小山内の周りを飛んでいる熊蜂に指を差し出すと、熊蜂は指の周りを確かめるようにくるくると回ってからそっと藤波の指に留まった。

「ふ、藤波さん、それ危ないんじゃ……」

「平気平気。人に寄ってくるのはオスばかりですから。熊蜂のオスには針が無いんですよ」

 焦る小山内とは裏腹に、藤波は楽しそうに熊蜂を眺めている。熊蜂は首を傾げるような動きをしながら、藤波の指の上でこそこそと触覚を動かしている。

「ご存知ですか?熊蜂は、藤の花の蜜だけを運ぶんです。ほら、ここの顎がとても大きいでしょう?これで固い藤の花の花弁をこじ開けて、中の蜜を取るんです」

「へ、へえー……」

 虫が苦手な小山内は薄目にしながら、熊蜂を見る。よくよく見ると、真っ黒な瞳と瞳の間に、三角形の模様があり、鼻眼鏡をかけているような愛嬌が無くも無いように思える。

「でも、藤の花の方は無理やり蜜を取られて、たまったものじゃないですね」

「そうでもないですよ。むしろ、藤の花は熊蜂にだけ穴を開けられるよう、花弁を固くしているそうですから」

 藤波は藤の花の近くに指を寄せて、熊蜂を逃がしてやる。熊蜂はまた激しい羽音を立てながらフラフラと藤の花の方へと飛んでいった。

「藤の花は熊蜂にだけ蜜を吸わせてやる代わりに、熊蜂に自分の花粉を優先的に運ばせるんです。そうやって藤の花は実を付けて増えて、次の年にはまた熊蜂を育てる。そうやって何年も互いに支え合って、熊蜂と藤は共生してきたんですよ」

 小山内は感心しながら、藤棚を見上げる。

「よく、ご存知ですね。藤波さん」

「まあ庭の手入れも、俺の仕事ですから。植物のことはよく調べておかないと」

 にっこりと笑いながら藤波は髪を耳に掛ける。その表情を見ながら、改めて整った顔だなあと小山内は見とれてしまう。

「あ」

 はたと、藤波の薄紫の目が合う。その色にはどこか見覚えがあった。

「どうかしました?」

「いえ、その……藤波さん、綺麗なカラコン入れてるんだなー、なんて思って」

 ぎこちなくそう誤魔化すと、藤波がまたくすりと笑う。

「これ、カラコンじゃないんですよ。自前です」

「へ?」

「珍しい色だからよく、カラコンだと誤解されるんですが、どうやら俺の先祖には異国の方がいたようでして。隔世遺伝、ってやつです。実はこの髪もそうなんですよ」

 自分の三つ編の毛先を弄びながら言う。

「ご、ごめんなさい!私、失礼なことを……」

「気にしないでください」

 頭を下げる小山内に、藤波は肩を竦めて見せる。

「よく間違われるんです」

 本当に気にしていないように見えるあたり、藤波にとっては日常茶飯事なのだろう。

 小山内は自分の無礼を恥じるとともに、小さな確信を得てしまっていた。

(あの目の色……さっき先生が選んでいたカラーチャートと同じ色じゃない……)

 自分のことではないのに、なんだか月岡と藤波の関係を覗き見てしまったような気まずさを感じて、小山内は顔が熱くなりそうだった。

 藤波は小山内の胸中も知らず、ふと思い出したように「あ」と呟いた。

「……話は変わるんですが、小山内さん。この庭は自由に歩いていいんですけど、一か所気を付けてほしい場所があるんですよ」

「気を付けてほしい場所……ですか」

 首を傾げる小山内に藤波はこくりと頷く。

「一応、場所を教えておきますね。こちらです」

 藤波に案内され、小山内は庭の奥へと進んだ。

 月岡邸の庭の奥には崖が聳え立っている。周囲には鬱蒼とした木々が影を作っている合間からは鼻をつくような濃く、甘ったるい香りが漂っていた。

 足元を見ると、低い木々には白い花が咲いている。

「これは山梔子ですか?」

「ええ、そうです。本当は夏が盛りの花ですが、ここらのは少し早咲きでして。それで匂いにつられたお客様がたまにここまでやってきてしまうんです」

 藤波はつい、と下り坂になっている木陰の先を指さした。

「崖の壁のところに、穴があるのが見えますか?」

 影になっている場所に目を凝らすと、確かに崖には人が身を屈めて入れそうな大きさの黒い穴が開いていた。

「はい。なんですか?あの穴。人が掘ったみたいに見えますけど……」

「『やぐら』ですよ。簡単にいうと、昔のお墓です」

「お墓……?」

 そう言われてもピンとこず、小山内は頭にはてなを浮かべる。自宅の敷地に墓を持つ家というのは、今でも稀に見かけるが、これが墓だとは到底思えなかった。

「中世の頃に使われていたお墓の名残なんです。昔はああいった穴を崖に掘って、中に仏様を祀ったり、ご先祖様の遺骨を安置したんですよ。あのやぐらは、大昔は月岡家の人間に使われていたものでもあるんです。ただ坂の下の暗がりにあるのと、雨が降るとぬかるむせいか、少し危なくて……。先生なんかは、子供の頃にあのやぐらに落ちて怪我をしてしまったんですよ」

 藤波は目を細めながら、やぐらの奥を見つめた。

「庭で遊んでいた時に空襲警報に驚いて、転んであそこまで滑り落ちてしまったんですって。先生はわんわん泣きじゃくったんですが、誰にも気付かれず、怖い思いをしたそうです。それ以来、大人になっても先生はやぐらに近づくのが少し怖いみたいなんですよ」

 くすくすと、まるで見てきたかのように藤波は笑う。

「だから小山内さんも、この辺りにはあまり来ないようにしてくださいね」

 垂れた前髪を耳に掛け直しながら、藤波は小首を傾げる。ふと、小山内は胸の奥で心臓が小さく跳ねた気がした。

 自分より若く美しい青年に会うのは久しぶりだからだろうか。こうした小さな仕草一つにも色気があって、小山内はほんのちょっぴり、どぎまぎしてしまう。だがそれは小山内が夫に感じるようなときめきとは違うという気もした。

 自分より年下であるはずのこの男からは時折円熟した未亡人のような、余裕めいた色香を感じる。

 ぶわりと風が通り、小山内は思わず身震いした。

「そろそろ戻りましょうか。先生の長電話も終わった頃でしょうしね」

 そう言うと藤波は先立って屋敷の方へと歩き始めた。

 小山内はそれに従いながらも、ちらりと背後の墳墓を見やる。言われるまではなんとも思わなかったのに、墓と知らされた途端に妙な恐れが付き纏う。木々に隠されるようにして墳墓の穴ぐらは闇を吸い込むような暗さがあって、真昼だと言うのに背中にひやりとした寒気を感じた。



[やぐら。中世の鎌倉にてよく見受けられる横穴式墳墓。平地の少ない鎌倉において、墓の占有面積を減らすために作られたと見られる。やぐらの内部は長方形の小部屋のようになっており、内部には納骨のための穴や、供養塔、本尊仏が置かれている。祖霊崇拝・神仏崇拝と混ざり合い、信仰の場として使われたことも………]

 ネットの情報をぼんやりと拾い上げながら、小山内は昼食のコンビニおにぎりを口へ運ぶ。

あれからどうにも藤波や月岡のことが気になって、小山内は時々こうしてあの家に関連しそうな情報を調べていた。

 月岡の家は元々、鎌倉時代の将軍家に仕える血筋だったそうで、その影響から多くの軍人を輩出している。そうなるとあの立派な屋敷にも納得がいくような気がした。

「あれ?小山内ちゃんじゃーん」

 頭上から声をかけられて、小山内は顔をあげる。声の主を見て、小山内はぱっと顔を明るくした。

「元原さん、お疲れ様です!」

 小山内に声を掛けたのは、小山内が入社当初に世話になった先輩だった。小山内に一年間ほど仕事のイロハを教えたのち、文芸部に移動になり、またすぐに結婚そして産休に入ってその後は事務方に移ったので、仕事の関わりは薄くなってしまったが小山内にとっては仕事の師匠である。ついでに言えば、酒の飲み方を教えたのも元原であり、新人期の苦しい時期を支えてくれた先輩として小山内はよく懐いていた。

小山内が入社した当初、元原の長かった髪は明るいショートヘアーになっており、バチバチのカラーコンタクトも縁が太めのメガネになっていた。

「お隣お邪魔していいかしら〜?」

「もちろんです、どぞ!」

 小山内は荷物を片付けて元原のために机の上を片付ける。

「聞いたよ〜。いま部署掛け持ちなんだって?小山内も出世したねえ」

「ただの体のいいパシリですよー。高田のヤロウ、私のことボロ雑巾かなんかだと思ってるんですよ」

 周囲に上司がいないことを確かめてから小山内は小声で愚痴を吐き出す。

「高田も相変わらずだねえ〜?最初っからあいつの下にいて逃げなかったのは私とあんたくらいだよ」

 くすくすと笑いながら元原は水色のランチョンマットの上に美味しそうな唐揚げと、冷凍食品の惣菜が詰め込まれた弁当を広げる。

「と言うか元原さん、よく私が文芸部を手伝っていることを知ってましたね」

「人事はね、噂話に聞き耳立てんのが仕事なのよ。ってかあれでしょー?月岡先生のとこ行っているんだっけ」

「ええ、まあそうです」

「若く見えるよねーあのセンセ。八十代とか嘘みたい」

「わかります。最初会った時びっくりしましたよ」

 合槌をうちながら、元原はふと白ごはんにふりかけをかける元原の指先に視線をやる。短く整えられた爪は飾り気がない。子供を産む前の元原はいつでもネイルを欠かさず、宝石のように指先を輝かせていたものだが、今は保護用のベースコートさえ塗っていないようだった。

「てかさ、先生のとこって相変わらずあの子いるの?」

「あの子?」

「ほら、お手伝いの男の子。きれーに髪染めてて、紫のカラコンをいつもつけてる……なんだっけ、藤波くん?だっけ?」

 藤波の話題が出るとは思わず、小山内は面食らったように瞬いた。

「ああ……はい……。元原さんもご存知なんですね、藤波さんのこと」

「そりゃあまあ、月岡先生の担当はいかにして藤波くんに気に入られるかがキモだからねえ」

 やはりそうなのか、と納得しかけながら小山内は元原が月岡の担当になったのは五年くらい前ではなかったか?と首を傾げた。

「……藤波さんってかなり若いですよね。まだ二十代前半くらいっていうか、大学生くらい?元原さんが月岡先生の担当になったの、結構前じゃありませんでした?」

「あー?まあ確かにね。でも私の前の数井さんも藤波くんのことは知ってたよ?」

「数井さんって……」

「ああ、小山内はあまり知らないか。あんたが入ってすぐにデキ婚で寿退社した人だよ。今は秋田の旦那の家で子供と楽しくやってるみたい」

 プチトマトを口に運びながら、元原は言う。小山内は妙な引っ掛かりを感じる。

 どう見ても二十歳そこいらの青年が、三年も五年もあの月岡の元にいるならば、藤波は一体いつからあの家にいるのだろうか?

「藤波さんってもしかして、私が思うより年上なんですか?」

「さあ知らないわよ。でも、前にお酒の話もしてたし、二十歳は超えてるでしょ。それにしてもあの二人、ほんと若々しくて羨ましいわねえー。やっぱり恋が若さの秘訣だったりして?」

 わざとらしくにやにやとしながら元原は肩を竦める。

「もー元原さんまで樋川先輩みたいなことを言うー」

 呆れる小山内だが、内心彼らの関係は気になっていた。あの二人は果たして本当に恋仲なのだろうか。

「元原さんが担当してた頃から、あんな感じだったんですか?」

「ん?二人の愛人関係のこと?やっぱ小山内も気になる?」

 元原はそわそわとしながら頬杖を付く。根も葉もない恋の噂話に興じようとする下心が丸見えだ。

「うう……その、作家先生のプライベートに首を突っ込むのは良くないですけど……あそこまであからさまだと流石に突っ込まざるを得ないというか……」

「わかるわ〜。でも、私も小山内が知ってるほどのこと以上のことは分からないかな〜。あの二人、関係性は匂わせるけど、はっきりとは示さないのよね。ああでも、藤波くんの方が牽制が強いかも」

「藤波さんの方が、ですか?」

「うん。前にね、月岡先生を飲みに誘ったんだけど、ちょっと離れたところで仕事したのに藤波くんがスススーッとやってきて、私と先生の間に入ってさ。『生憎ですが先生はお酒を控えてるんです』って。その時あからさまにむくれた顔してたのよ。あれは面白かったわ〜」

 よほどその時のことが気に入っているのか、元原はくすくすと思い出し笑いした。

「『じゃあ藤波くんも飲もうよ!』って誘ったんだけど、やんわり断られちゃった。編集時代唯一誘えなかったのはあの二人だけだよ」

「え、元原さん、月岡先生と藤波さんを飲みに誘ったんですか?」

 小山内としては、藤波のことよりも元原の無鉄砲さに引いてしまった。

 酒豪で知られる元原は、担当する作家をとにかく酒に誘うことで有名だった。現代にそぐわないようにも思えるが、それが、元原流の仕事術でもある。しかし、あの老人までも刺そうとは小山内は思っていなかった。

「あーあ、また編集に戻って作家と酒を飲み倒したいなー」

「もうー元原さんったら。……というか、編集に戻ってくる気があったんですね」

「まあねー。うちの子も保育園でだいぶ落ち着いてきたし、次の異動でどこか入れてもらえないかお願いするつもり」

 弁当箱の白米を平らげて、元原はにやりと笑う。

「案外、今度は小山内に子供ができて、私が穴埋めで児童書部に戻ったりしてねー」

「そんな玉突きみたいに異動するわけないじゃないですかー。………それにうちはまだ子供って感じでもないですし……」

 小山内は少し冷めた気持ちになりながら視線を落とす。

「甘い、甘いよー小山内。赤ちゃんはほんといつできるか分からないんだからねー?」

それに、と元原は続ける。

「あんたが担当してる月岡先生、なんて呼ばれているか知らないの?」

「さ、さあ?」

 月岡についてはファンタジー界の重鎮であるとか、決して原稿を落とさないと言う話は聞く。しかし、元原の口ぶりからして、その手のものではないことは分かった。

「子授け先生、って呼ばれているんだよ。昔から月岡さん先生の担当になった女編集は、子供ができて産休に入るか辞めるか、結婚してないなら結婚して子供ができるか。我が社の都市伝説だよ。十数年前までは、『子供が欲しけりゃ月岡の担当になれって』言われるくらいにはね」

 元原はさぞ面白げに言うが、信憑性の無い、オカルティックな話だと小山内は呆れた。

「……女の人は誰でも結婚するし、妊娠するじゃないですか……」

「全員がそうなわけじゃないよ。朝比奈さんだって結婚してるけど、子供はいない。かと思えば、西松さんみたいなパターンもあるしね」

「西松さんって、ちょっと前に高齢出産で辞めた人ですよね」

「そ。あの人もね、月岡先生の担当だったのよ。たしか私の後に担当に入って、樋川の前に辞めたんだったかな?」

 「は」と声が出る。元原の言い方では、ここ数年の短いスパンで月岡の担当のほとんどが産休に入っていることになる。子は授かり物とは言うが、いくらなんでも異常な気がした。

「だから言ったでしょ。月岡先生の担当になると、どう言うわけかみーんな子供ができるんだよ」

怯えた顔の小山内にあっけらかんと元原は言う。

 無意識に手元に力を入れてしまったのか、おにぎりの具のたらこがゴロリと机の上にこぼれる。しかし小山内は、それを拾って食べ直すような食欲は失せていた。



 昨今はなかなか子供ができず、不妊に悩む夫婦も多い。

 知人が子宝に恵まれるという神社を渡り歩いているなんて話も聞いたことがある。

 子授け先生、と呼ばれる月岡のことを聞いたらあやかりたい人間は数多くあるのではないか。

(いっそ帯の煽りに書いて見ようか?子授け先生最新作。読めばあなたも子宝に恵まれる……なーんて)

その場合小説の表紙は月岡本人の写真になり、中身もファンタジー恋愛小説ではなく、ハウツー開運本になるのかもしれないが。

「何か、考え事ですか?」

 月岡に声をかけられ、小山内ははたと我に帰る。

「いや、その、少しぼーっとして……はは、いらっしゃったのに気が付かず、すみません」

 誤魔化し笑いしながら立ち上がり、小山内はぺこりと謝る。

(そもそも、この上品なお爺様にインチキっぽい本は書かせられないか)

 月岡が子授け先生であるという話しを聞いた時は得体の知れない不気味さに襲われたが、数日経てば飲み会の話の種でしかないという気になった。

(元原さん、昼休みにあんな話をするなんて、かなり飲み会に飢えてるんだろうな。今度誘ってみるか)

 気を取り直して、小山内は仕事へと向き直る。

「月岡先生、お体は大丈夫なんですか?藤波さんからあまり調子がよろしくないと伺いしました」

 今日も今日とて、小山内は月岡との打ち合わせのために月岡邸を訪れていたが、月岡の体調がすぐれないと言うことで数十分、待たされていた。

 月岡は穏やかに笑って、顔の前で手を振った。

「いやいや、老人にはよくある癪のようなものです。お待たせしてしまって申し訳ない。どうぞお掛けになってください」

 月岡に椅子を勧められ、小山内は会釈をしてソファーに座る。いつものローテーブルを挟んで、こうして大御所と向かい合うことにも少しは慣れてきた。それは、月岡が大御所という割に穏やかな好々爺であったためかもしれない。

「それでは早速打ち合わせを進めさせていただきます」

 こうして小山内の方から場を取り仕切ることもスムーズにできるようになってきた。

 時が経つのは早いもので、もう六月の半ばになっていた。

 部屋から見える庭の花々は相変わらず美しく咲き誇っている。早散りであるはずの藤の花でさえ、薄雲の下で房を優雅に揺らしている。

「………と、いうわけで単行本のデザインはこのような形でまとめたいと思います」

「うん。それでお願いしますよ」

「ありがとうございます。……ところで、原稿の進捗はいかがでしょう?」

 小山内は少し遠慮がちに月岡の様子を窺う。

 本を作るまでの過程も、発売時期も滞りなく進んでいる。だが肝心の原稿について、ここへきて月岡が「ラストを書き換えたい」と進言してきたのだ。

 小山内としては初めに読ませてもらった結末で十分だと思ったのだが、月岡としては納得がいかないらしい。文芸部の朝比奈に相談しても『月岡先生にとっては最後となり得る可能性のある作品だから仕方ない』と首を横に振った。 

 トラブルを想定して余裕をもった締め切りになっているとはいえ、これには小山内も流石にやきもきとした。

 作家というのはたった一行の文章にさえ、何年も時間をかけることがあるという。

 朝比奈は小山内の任期である七月を過ぎるようであれば、文芸部の人間へ担当を変更し直すとは言われているが、小山内とて編集の端くれだ。短い間でも原稿の最後を任されたのなら、完成まで見届けたいという欲がある。なにより、月岡が猶予までに仕上げられなかった場合、さまざまなスケジュールが狂ってしまう。

「そう、時間はいただきませんよ。予定している発売日には必ず間に合わせます」

 小山内の不安を見透かしてか、月岡はそう言う。

 年の功か、はたまた月岡が人の感情の機微に敏感なのか、月岡は時折こうして小山内の欲しい言葉を先んじることがあった。

 小山内は不安が顔に現れていたのかと焦り、笑顔を取り繕う。

「いえ、お気になさらないでください!……朝比奈さんから聞きました。月岡先生はこれまでに一度も原稿を落としたことがないのでしょう?だから心配していません」

「……そうですか。ありがとうございます」

 月岡が微笑んで礼を言う。

 その時、トントンと戸が叩かれて奥から藤波がやってきた。

「失礼します。先生、お茶をお持ちしました。今日は小山内さんがプリンを持ってきて下さったんですよ」

 藤波は盆に乗せたプリンと紅茶をテーブルに置く。

 今日は風が冷たかったので、小山内は温かい飲み物にほっと人心地ついた。

 打ち合わせの終わり際を見計らって出されるお茶の時間になると、月岡との話も世間話へと移り変わる。初めの頃は疑問に持っていたおもたせも、会社の経費と見れば悪くない。もしかすると月岡の担当たちはご相伴に預かれるのを分かっていて、この伝統を受け継いでいるのかもしれない。

「そういえば小山内さんは元々児童文学の担当でしたね。今も並行してお仕事をされているんですか?」

「ええまあ。とはいえ、いま受け持っているのは、幼児向けのおとぎ話をリニューアルしてしゅっぱんしなおす、という仕事ですが」

「おとぎ話というと、桃太郎や赤ずきんのような?」

「はい。その通りです」

 小山内が本業として請け負っているのは、アンデルセン童話やグリム童話といった、いわゆる『名作おとぎ話』の刷新版である。昔から語り継がれてきたおとぎ話を現代の倫理観に合わせて書き直す仕事で、小山内はなかなかにこの仕事を気に入っていた。

「刷新に合わせて、絵柄も現代風に変えるんです。今、人魚姫の編集を進めているんですが、イラストレーターさんに描いていただいた新しい絵がとても綺麗で……」

 つい興奮気味に話してしまったことに気づいて、小山内は慌てて口を噤む。

「すみません、別のお仕事のお話なんてしてしまって……」

「いえいえ。他のお仕事についでお話を聞ける機会はそうそう無いですから、大変興味深いですよ。なによりアンデルセンともなれば、我々にとっては大先輩にあたりますからね」

 冗談めかしながら、月岡は微笑む。

「でもやはり、いくら現代に合わせて内容を変えるとはいえ、人魚姫のラストは変えられないでしょう?」

「そうですね。アニメ映画だとハッピーエンドになっていますけど、人魚姫は元々悲恋のお話ですから」

 小山内はアンデルセン作の人魚姫の内容を思い出しながら話す。

「陸の王子様に恋をした人魚姫は、声の代わりに足を手に入れて王子と出会う。しかし、王子は人魚姫に優しくしてくれるものの、お声の出ない人魚姫ではなく別の姫と結婚してしまう。王子と結ばれなければ、死ぬさだめの人魚姫は、悲しみの果てに海の泡へと姿を変えてしまう。……泡となった人魚姫は、風の精となり、王子に姫に祝福を与える……。大人になってから読むと、なかなかにビターな話ですよね」

 肩を竦めながら小山内は言うが、小山内は子供の頃からこの悲しくて美しい話が好きだった。大学の卒業論文の題材にもしたので、思い入れが強いと言うのもあるかもしれない。

「へえ、人魚姫ってそんなお話なんですね。俺、映画の方しか知りませんでした」

 そばで話を聞いていた藤波が感心したように息を吐く。

「そういえば先生、この家にも古い人魚伝説がありますよね。折角だからお話ししたらどうでしょう?」

 藤波に問いかけられて、月岡は「ああ」と声を漏らした。

「恵比寿信仰のことだね。確かに、少し日本版の人魚姫とも言えるかな」

「恵比寿信仰……。もしかして鯨のことですか?」

「ほう。さすが、博識ですねえ小山内さん」

 月岡に褒められて、小山内は内心少しだけど誇らしくなった。専門ではないものの、恵比寿信仰については大学で論文を書くときに少しだけ聞き齧っていたのだ。

 日本の海沿いには海から漂着した様々なものを神として信仰する文化がある。恵比寿信仰と言ってまず挙げられるのは、海辺に打ち上がる鯨の死体のことだ。

 大昔の人間にとって、海から運良く流れ着いた鯨の肉は思ってもない恵みだったのだ。

その一方で、漢字を変えて『蛭子』と呼ぶこともある。こちらは日本神話にあるイザナミとイザナギの子供のことで、生まれながらに不具の子供であったがために海へ流されたという。しかし蛭子は流されたて漂着した土地で神になり、人々に恩恵を与えたなどという神話もある。ということを小山内は記憶の中から掘り起こした。

「まあ、鯨に似たようなものです。うちに古くから伝わる、話がありまして。……時代としては確か、戦国時代の頃、鎌倉で大津波がありましてね。ほら、長谷寺の大仏様は雨ざらしでしょう?あれはその時に起きた津波で大仏殿が流されたからなんて言われておりますが、その津波で陸に流れ着いた物を、私の先祖が拾って祀り上げたところ、家がみるみるうちに栄えたそうなんです」

「流れ着いた物ってなんですか?」

「……信じがたい話ですが、私の先祖は人魚を拾ったと、言い伝えられているんですよ」

「人魚を……ですか……?」

 恵比寿信仰の中には鯨の他に難破した船から流れ着いた仏像や水死体を恵比寿とするものものあるが、人魚というのはあまり聞いた事がない。

 小山内が困惑していると、月岡はふふっと笑った。

「まあまあ、古い家にはたまにある、大袈裟な伝承ですよ」

 一般家庭に育った小山内にとっては途方もない話だが、民間伝承は得てしてそういうものであるということも、なんとなく理解できた。

「その拾った人魚を祀ることで、お家が栄えたんですか?」

「伝わっている話によるとね。その人魚を家で祀って以来、船で海に出たら大漁が続いたとか。嵐で沈没した船から落ちた大仏が網に引っかかって、それを殿様に献上したら、なかなかお子ができなかった奥方が御懐妊されたとか。その功績を讃えられて部下として取り立てられただとか、ね。祖母や大叔父が語るだけでも様々なバリエーションがあって大変なのですが、まあとにかく人魚を祀って以来、この家はいい事づくめだったそうです」

 小山内は感心して頷きながら目を輝かせる。こう言った伝承は小山内もなかなか好きだった。

「そんなに古くからのお話が伝わっていると言うことは……月岡先生のお家は今もその人魚を祀っていらっしゃるんですか?」

「ええ。庭の奥にやぐらがありますでしょう?あそこに祭壇があって、まだ足の自由が効く頃には、たまに掃除をしてお供えをしたものです」

 やぐらと聞いて、小山内は先日、藤波に案内された梔子の坂のことを思い出す。

「あああの、先生が子供の頃に転んでお怪我をされたという……」

「おや、どこでその話を?」

 何の気なしに口をついた言葉だったが、月岡が驚いたように目を見開くのを見て、しまったと唇を引き締めた。

 慌てて藤波の方を振り返ると、藤波は笑いを堪えきれずに吹き出して肩を震わせているところだった。

「あー……その、藤波さんに、お伺いしましてえ……」

 気まずげな小山内は言う。月岡は少し恥ずかしそうに藤波を睨みつけた。

「全く、おしゃべりが過ぎるぞ藤波……」

「別にいいじゃないですか。先生の失敗談の一つや二つ。先生、大御所っぷりが板につき過ぎているからいつも編集さんを怯えさせているんですよ?少しは気安くしないと」

 楽しそうに笑いながら、藤波は盆を持ってくるりと踵を返し、立ち去ってしまった。

月岡は少ししょんぼりした顔で腕を組む。

「……そんなに怖いですかねえ、私」

「いえ、その、そんなことは全くなくて!むしろとてもいい先生でいらっしゃると思います!はい!」

 突然気まずい空気に放り出されて、小山内は慌ててフォローを入れた。

 むしろ小山内のような若い編集が月岡のような大御所に怯えるのはそのカリスマ性ゆえの部分が大きいのだが、若輩者の小山内がいくら言ったとてゴマスリにしか聞こえないであろうことが残念だった。

その後、時間が押していることもあり、人魚の話はこれまでとなってしまった。

 帰り道、再び藤波の車に乗せてもらいながらそういえば、と小山内は思い出す。

(人魚を祀ったら、仏像が海から上がってお殿様の奥様が妊娠したって言っていたけど………もしかして子授け先生と関係があるのかな?)

 小山内は別にオカルティストではない。だが噂話程度の怪談を嗜む情緒は持ち合わせていた。もし何らかの関わりがあるとしたら、自分も人魚の信仰で子を宿したりするのだろうか。

 そうだとしたら少し薄気味悪い気がする。

 小山内は思わず、自らの腹を摩った。

 結婚して一年。まだ、子供はできない。もしかしたら一生そうかもしれなかった。

 元から月経不順だったが、二十歳を超えてからは月のものはほとんど来なくなった。昨年の婦人検診では、既に不妊の可能性があると告げられている。不妊治療という言葉は、三十歳を超えてから聞くものと思っていたが、まさかこんなにも早く失望を突きつけられるとは思ってもみなかった。

 二十代のうちに子供を産んだ方が良いと言われても、あまりピンとは来なかったが、いざ産めないと医師に言われると、目の前が真っ暗になってしまった。

 診断書を出された夜、共に泣いて背中を擦ってくれた夫に申し訳なくて仕方が無くて、小山内はそれ以来、妊娠の話題が出ると少しだけ苦しくて仕方がないのだ。

 産休で休む同僚や先輩を花束で送るたび、小山内の胸には小さな棘のようなものが刺さっていく。故に元原から子授け先生の噂を聞いたとき、もしかしたらと、つい考えてしまったのだ。

 考えてしまう自分が、嫌だった。

「小山内さん?どうかしました?」

 信号待ちで車を停めている間、腹を摩る小山内に気づいた藤波が声をかける。

「あ、いえ!何でもないですよ」

「そうですか?お腹さすってるから、痛いのかと……」

「全然大丈夫です。ちょっと、考えごと、してただけでして……」

「そうですか」

 信号が青になり、藤波は前を向いてアクセルを踏み込む。

「…………そういえば、編集部に朝比奈さんってまだいらっしゃるんでしたっけ」

「は、はい。います」

「ふうん……」

 静かなエンジン音が車内に響く。藤波の表情がどことなく暗いのは、今日が曇りだからと言うことではないような気がした。

「藤波さんも、あ、朝比奈編集長のことをご存知なんですね」

「まあ、そうですね。よく知っていますよ。元気でいらっしゃいますか?」

「はい。なんかもう六十歳くらいなのに、定年退職とか知らないって感じで……」

「そうですか」

 坂道のカーブを曲がりながら、車はゆっくりと大通りへと入っていく。夕方の時間帯だからか、道は少し渋滞していた。

 ゆっくりと進む車の中で小山内は、藤波の様子がおかしいと、何となしに察した。

 いつもであればもう少し朗らかに話す藤波のテンションが、朝比奈のことを聞いてから明らかに低いのだ。

「俺、あの人のことあまり好きじゃないんですよ」

「え?」

 藤波のはっきりとした声音に驚き、小山内は肩を震わせる。

「編集として、先生とお仕事の付き合いが長いのはわかりますけど、先生のことを何でも知っているような態度が気に食わないんですよねえ」

 不機嫌そうに話す藤波に何と答えたら良いか分からず、小山内は「はあ」と曖昧に返事を返す。

これは嫉妬、なのだろうか。

「……こんなこと言うと、俺が朝比奈さんに嫉妬しているみたいに聞こえるかな?」

 心を見透かされたのかと驚いて小山内が藤波の方を見ると、藤波は横目でにこりと微笑んだ。

 藤波といい、月岡といい、人の心を読むのがうまい。

「編集部では、俺が先生の愛人だってことになっているみたいですね」

 小山内はぎくり、と身を固くした。自分が言い出したことではないが、人の色恋に関心を持っているとバレてしまうのは何だか気まずかった。

「いやその……すみません。不躾な先輩ばかりでして……」

「別に気にしてないですよ。それよりも小山内さんは聞かないんですね。俺と先生の関係について」 

「は………それは……まあ、プライベートなことですから……」

 言葉を選びながら、小山内は慎重に答える。

 気にならないと言えば嘘になる。しかしここで図々しく二人の関係に踏み込めるほど小山内の心臓は太くない。

「ふぅん」

 今度は少し明るい調子で返事をしながら藤波はにやりと笑う。

「教えてあげましょうか?」

「うぇっ!?」

 小山内の素っ頓狂な声を聞いて、藤波は声をあげて笑った。

「あはは!小山内さん、反応いいなー。なんか面白くなっちゃいます」

 くすくすと笑う藤波に揶揄われて、小山内は気が気では無かった。

「か、勘弁してください。こういう話題はやっぱりセンシティブなところが多いというか……作家先生のご事情を探るのはあんまりしたく無くてですね……」

 下手に作家の色恋に首を突っ込んで、悲惨な目に遭った先輩編集のことを思い出して小山内は耳を塞ぐ仕草をする。上司の高田に聞いた話では、作家の恋人に浮気相手と勘違いされて刺された編集もいるらしい。

「そんなに怯えなくたっていいじゃないですか。…………別に、俺と先生には何もありませんから」

「へ?」

 思わず間抜けな声が出る。

 あれだけ噂されて、月岡も思わせぶりな態度をとっていると言うのに出された答えは拍子抜けするものだった。

「いやまあ、本当に何もないわけじゃないか。俺、前に先生に告白されたし」

「ええ!?」

「振りましたけど」

「ほええ!?」

 次から次へとジェットコースターのように情報を出されて、小山内は眩暈がしそうだった。当の藤波はおかしくて仕方が無いと言うように、くすくすと笑っている。

「それももう、かなり以前に終わった話です。そうでなきゃ、今もあの人の家にいない。だからそうですね。今、俺と先生には何も無いんですよ」

 穏やかに笑いながら、藤波はそう首を傾げる。

 小山内はどっと疲れたように座席の背もたれになだれかかる。藤波はなんてことのないように言うが、ある程度社会というものを渡り歩いた小山内は知っている。

 『何も無い』ということは『何かはある』ということだ。

(少なくとも、月岡先生は藤波さんのことが好きなんだろうなあ)

 そうでなければ、振られた相手を雇い続けたりはしないだろう。

 作家のプライベートに首を突っ込むものでは無いというのは自戒だが、ここまで話されて踏み込まないほど、小山内は無粋では無い。

「ふ、藤波さんは……月岡先生をどう思っているんですか?」

 その問いに、藤波の口元からふつりと笑みが消えた。そうして考え込むように首を傾げる。伏せられた睫毛が、カーミラに反射した夕陽を浴びて透明に輝くのを見て、小山内は綺麗だな、と場違いに思った。

「……さあ、どうなんでしょう?……でも、もう後がないのかなって思うと、気持ちというのは変わるものなのかもしれませんね」

 藤波は眩しそうに目を細める。まるで苦痛に耐えるかのように。

 窓から差し込んだ夕日がアメジストの目を揺らしたうように見えたのは、彼が泣いていたからかもしれない。

「先生は…………もう、長くないそうなんです」



 凛と立って、平気なように見えるが、月岡の体調はあまり芳しく無いようだ。

 本人はそれを隠して作品を書き続けていると、藤波は言う。

 あの日、藤波に伝えられた月岡の余命について、誰かに話すべきか、小山内はしばらく考えあぐねた。しかし、やはり『言うべきタイミング』というものは巡り来るものである。

編集の朝比奈に呼び出されたカフェで、小山内は初めて担当の引き継ぎを言い渡された日のように身を縮こまらせていた。それは上司に対する緊張のためだけではなかった。

「月岡先生の原稿は、修正が入ったようだけどどうにか間に合いそうね」

「はい。さすがは月岡先生って感じで……私も安心して仕事を終えられそうです」

 小山内はそう言いながらも、自らの声に覇気が無いなと感じた。それはもちろん目の前にいる臨時の上司にも伝わったようで朝比奈は不思議そうに首を傾げた。

「元気が無いわね。もしかして、月岡先生となにかあった?」

 朝比奈に問われて、小山内は言うならばここかと、覚悟を決める。

「実は……月岡先生に直接聞いたわけでは無いのですが、先生、お体があまり良く無いそうで……」

 小山内は膝の上に置いた手を握りしめる。

「もしかすると、朝比奈編集長には早く伝えるべきだったのかもしれませんが……私、編集としてどこまで出張っていいのか、分からなくて……。しかも私は昔からの担当ってわけじゃ無いし、むしろ臨時だしで……」

 消沈する小山内に、朝比奈はコーヒーカップをソーサーの上に置いて、軽く手を組む。引継ぎを言い渡した時とは違う、明らかに深刻な表情だった。

「……月岡先生のご容態については、誰が言っていたの?」

「藤波さんです。月岡先生のところの……ハウスキーパーの方の……」

「……………そう」

 少しの沈黙がある。

 朝比奈は何かを考え込むように目を閉じて、ゆっくりと瞼を開いた。

「藤波さんが言うのなら、間違いはないようね」 

 朝比奈は「小山内さん」と向き直り、真っ直ぐに向き直る。

「酷なことを言うかもしれないけど、どうか原稿をあげることだけに集中して。月岡先生を心配する気持ちは分かるけれど、それはここでだけ、吐き出せばいいわ」

 優しげな普段の朝比奈からはあまり感じられない、冷淡な反応に小山内は困惑するように眉根を寄せる。

「え……でも、朝比奈編集長、これは、先生の遺作になるかもしれないって……」

「だからこそよ。私たち編集の仕事は作家の作品を読者に届けること。月岡凛太郎の新作を多くのファンが待ち侘びている。エンディングの書かれていない本を出すわけにはいかないの」

 小山内は言い返そうと口を開いて、自分にそこまでの主張が無いことに気がつき、口を閉ざした。

月岡のことは心配だ。その寿命を削ってまで作品を書かせることに抵抗はある。しかし、月岡の体調を気にするのも、結局は彼の書く新作のためだ。

 小山内が何も言えずにいると、朝比奈は慰めるようにそっと小山内の肩を叩いた。

「……残酷ね、私たちの仕事は。作家が命を削って書いたものを売って生きているのだから」

 朝比奈は自嘲するように笑った。

 ふと、小山内は自分の肩に乗せられた朝比奈の左腕の袖口に、傷跡のようなものを見つけた。

古いものなのか、痛々しさはほとんどないが、周囲より一際濃い肌色が、朝比奈の細くシワを刻み始めた腕に一文字を引いている。

「……ああ、嫌なものを見せてしまったわね」

 小山内の視線に気がつき、朝比奈はそっと左腕を引っ込めて、もう片方の手で押さえる。

そう言えば今日の気温も高いというのに、半袖の小山内に対して朝比奈はきっちりとスーツを着込んでいた。

「その……どうなされたんですか?その傷……」

 聞いていいものかどうか迷いながらも小山内は訊ねる。朝比奈は罰の悪そうな顔をすると、赤い口紅を引いた唇を開いた。

「古株の中じゃ、有名な話よ。あなたも聞いたことはないかしら?スキャンダルで作家の恋人に刺された編集の話」

 あっと、小山内は小さく息を飲む。一度、飲みの席で冗談混じりに高田から聞いた話だ。

『作家の恋人に浮気相手と勘違いされて刺された編集がいるらしい』と。

「高田さんから聞いたことない?あの人、社内で一番の噂好きだもの」

「その……はい。……すみません、まさか朝比奈編集長が事件の当事者だなんて……」

「謝ることはないわよ。ずっと昔からの語り種ですもの。……作家のプライベートに首を突っ込んではいけないなんて、戒めでもあるしね」

 朝比奈は腕の古傷をさする。

「……浮気相手と勘違いされた、なんて言われているけど、本当は私から月岡先生に近づいたのよ」

「え?」

 驚いて顔を上げると、朝比奈は情けなさそうに眉をハノ字に開いていた。

「若気の至りって、誤魔化せたら良かったのだけど、私が先生と藤波さんの間に入ろうとしたのがいけなかったのよ。自業自得だったの」

 恥いるように朝比奈は俯く。しかし小山内の頭は混乱でいっぱいになっていた。

 朝比奈が月岡に言い寄っていたという話を本人の口から聞いたことも驚きだが、それよりも今、朝比奈は藤波と言わなかっただろうか?

 朝比奈の傷はかなり古いものだ。高田の話ぶりからしても、事件があったのは昔のことだろう。

しかしそうなると少し、年齢が合わない。小山内は朝比奈に、恐る恐る訊ねた。

「朝比奈編集長、それって一体、何年前の話ですか?」

「……随分昔のことよ。そうね、かれこれ三十年前になるかしら」

(でも、それっておかしくない?)

 藤波はどう見ても二十代だ。どんなに若作りだとしても、三十年前にも月岡の愛人だったとは思えない。

何かの勘違いか、あるいは藤波は家族ぐるみで月岡と付き合いがあるらしいから、藤波の家族の誰かが、月岡と愛人関係だったのだろうか?

 様々な可能性を考えて思考を巡らせる。しかしそれら全てを、小山内の直感が否定した。

 あの日、車の中で月岡に告白されことがあると笑い、朝比奈を嫌いだと言った藤波の美しい顔が脳裏に焼きついて仕方がなかった。

 彼は一体、何代前の編集から知られていただろうか?

 青ざめる小山内の顔を見て、朝比奈は首を傾げる。

「どうかしたの?小山内さん」

 小山内は何も言えなかった。今自分の中に浮かんだ考えは、あまりにも馬鹿げた妄想だ。この頃、妙な話ばかりを聞いたので思考がオカルト寄りになっているだけだ。

 小山内は手元のコーヒーを抱え込み、ぎこちなく笑って見せた。

「いえ……少し、ここの冷房が効き過ぎたみたいで……」

 その時、小山内のポケットでスマートフォンが震えた。

 朝比奈に断りを入れ、スマートフォンの画面を確認すると、そこには一通のメッセージが通知されていた。差出人は、藤波と表示されている。

 あまりにぴったりなタイミングに小山内は嫌な予感を感じながらメッセージを開ける。そして、その予感は的中してしまった。

「朝比奈編集長……………。月岡先生が、倒れたそうです」



 小山内が、再び月岡邸を訪れたのはそれから一週間後のことだった。 

 編集部と月岡には長年の関わりがあるとはいえ、面会謝絶となってはそこに入り込むこともできない。結局、藤波からの連絡を待ち、容体が落ち着き自宅療養に入ってから改めて小山内が見舞いに向かうこととなった。

「お加減はいかがですか?」

 見舞品の高級ゼリーと花を藤波に預け、小山内はベッドで半身を起こす月岡に声をかける。

一週間前まではしゃんと背筋を伸ばし、ハキハキと喋っていた月岡だったが、今はすっかりと頬がこけ、目も落ち窪んでいる。

 ほんの数日で、人間はこんなにも弱るものなのかと小山内はショックを受けた。『ああ、この人は死ぬのだ』という確信めいた予感を抑えたくても、表情に出さないようにするだけで精一杯だ。

「いやはや、見た目ほどは酷くはないんですよ。病院にいる時より、むしろ家にいた方が元気でしてねえ。お医者様に無理を言って自宅療養に切り替えてもらったんです」

 弱々しい声音で月岡は言う。

「病室で原稿を書こうとしたら看護師さんに酷く叱られてしまいましたよ」

「当然ですよ。今はお体を治すことに集中して……」

「いやね、小山内さん。原稿は出来上がりました。」

 そう言って月岡はベッド脇の小机の上に置いた、分厚い封筒の一つを震える手で持ち、小山内に差し出した。

 小山内は驚いて瞠目した。差し出された原稿を受け取り、断りを入れて中身を確認する。

「……拝読しても、よろしいでしょうか?」

「ええ。お願いします」

 小山内は出来上がった原稿に目を通す。大筋はほとんど書き換えられていない。

 言葉の表現や、ちょっとした言い回しが赤字で直されてはいるが、ブラッシュアップに近いものがほとんどだ。そして問題のラストシーンについても、完璧なものができあがっていた。

 哀愁を伴いながら、愛した女の幸せを願って成仏する男の心情が、暮れなずむ空に溶け込んでいくように、詳細に美しく描写されている。

 小山内は震える手で原稿を整え、深く息を吸った。

「……ご病気の中で、これを書かれたのですか?」

 なぜそのような無茶をするのかと問いただしたげに小山内は月岡を見上げる。

「……自分の体のことは分かるものです。これはもうダメだと思いましてね、大急ぎで仕上げました。………寿命、でしょうねえ」

 呼吸をするたび、喉が掠れるようなひゅーという音がする。目の前の老人がゆっくりと死に向かう姿を見て、小山内は何も言えずにいた。言葉を扱う仕事をしているくせに、こう言う時に何も言えないことが辛かった。

 それでも社会人として、溢れそうになる涙を堪え、小山内は顔を上げた。

「先生、ダメですよ。きっと、これは素敵な本になります。ファンが喜ぶ姿を見るまで、気を強く持ってください」

 どこまで行っても、仕事に絡めたことでしかうまく話せない自分の立場が悔しかった。数か月にも満たない作家と編集の関係で踏み入れることができるのは、ここまでだった。

そんな小山内の心中を察してか、月岡は優しく笑ってみせる。

「……ありがとう、小山内さん。私の作品のことを、よろしくお願いしますね」

 小山内ははっと顔をあげる。編集として、今自分は『遺作』を託されたのだと直感的に分かってしまった。

 また、なにか言葉を紡ごうとして、小山内は口を閉じる。そうしてただ、深く深く、一礼をした。 


 月岡とのやりとりはそれが最後になった。

 月岡の部屋を後にして、小山内は小さく鼻を啜った。そこでちょうど様子を見に来た藤波とかちあい、小山内は少し気まずそうに会釈をする。 

 藤波はそれにただ頷き、小山内に声をかける。

「小山内さん、お茶飲んで行ってください」

「あの、藤波さん。私はここで失礼を……」

 遠慮しようとする小山内に藤波は首を横に振る。

「そう言わないでくださいな。ここ数日、先生以外とお話ししていなくて、少し寂しいのです」

 見れば藤波の顔色はいつもより精彩を欠いていて、目の縁は涙の痕で荒れていた。

 きっと今は話し相手が欲しいのだと悟った小山内はそれ以上何も言わず、ただ頷いた。

「あ、それともお忙しかった?」

「いえ。大丈夫です。今は、この仕事だけですから」

 月岡が倒れてから、小山内の仕事は月岡の小説編集だけに集中させてもらっている。

 高田の判断によっては本来の仕事である絵本の担当は代理が入るかもしれなかったが、構わなかった。

「そう……それじゃあコーヒー淹れますね」

 小山内を客間に通すと、藤波は台所へと向かった。

 客間に残された小山内はいつものソファーに座り、開け放たれた庭を見る。

 ざわりと淀んだ空気が、冷たいのと熱いのが入り混じった風にかきまぜられている。

 季節外れの台風になると天気予報があったが、確かに空はどんよりと暗く濁り、空の色を映す海もまた、鈍色に白い荒波を立てていた。

 月岡の庭には相変わらず、美しい藤の花が揺蕩っている。

 六月も終わると言うのに、異常な咲き方だ。こういうものを狂い咲きというのだろうか。

 小山内は視線を室内に移し、ぼんやりと客間に置かれた飾り棚へと目をやった。

 飾り棚には様々な写真が飾られている。どれも色褪せてはいるものの、この家の歴史を表しているようだった。

 一番古いものは家族写真だろうか?軍服を来た二人の若者と着物の姿の中年の男。それと、幼子を抱いた着物姿の女の人が写っていた。

 恐らくは月岡の家族写真なのだろう。

 それ以降に家族写真はなく、若かりし頃の月岡のみが映る写真が置かれている。どれも入学や卒業といった節目に取られたものばかりで若者然とした浮かれた写真は少なかった。

 青年時代の月岡はスラリとした目鼻立ちに銀縁の眼鏡をかけた美丈夫で、今と同じ漆黒の瞳がよく目を引いた。きっと周囲の女の子は放っておかなかったであろうだろうなと、小山内はくすりと笑った。

ふと、数少ない写真たての中に小山内は見覚えのある顔を捉えた。

 まだ二十代と思しき月岡と共に写るのは、ワンピース姿の若い女と、ぎこちない笑みを浮かべる藤波だった。

 小山内は我が目を疑いたくなった。

 親戚であるとか、血縁であるなどという言い訳が通じないほどに、写真にいる亜麻色の髪に紫の目をした男は藤波そのものだった。

 何かの悪戯としか思えない。だが、そんな悪戯をこの家の人間がするとも思えない。頭の中を、これまでの先輩の話や、朝比奈の話が過る。

 何代も前の編集から藤波を知っている。それに若い頃に朝比奈を刺したという月岡の恋人。月岡の恋人が藤波であるのなら、藤波は一体いつからこの家にいるのだ———?

「小山内さん?」

 声をかけられて、小山内はびくりと肩を震わせる。

 振り返ると、コーヒーを盆に乗せた藤波が客間の入り口に立っていた。小山内は写真立てを慌てて元に戻す。

「ご、ごめんなさい。つい見てしまって……」

「良いんですよ。飾ってあるものですから」

 藤波はコーヒーをテーブルに置いて、小山内に近寄る。

 小山内は何か言われないかびくびくとしたが、藤波はただ、小山内の目の前にある写真を見て、穏やかに目を細めた。

「ああ……この写真。びっくりしたでしょう?」

 藤波は、三人が写る写真を手に取り、亜麻色の髪の男を指さす。

「これね、俺の大叔父なんです」

「大……叔父?」

 間抜けにオウム返しをする。

「この人、藤波さんのご親戚なんですか?」

「ええ。そっくりでしょう?大叔父と僕って、おじいちゃんの血の影響なのか、すごく似ているんです」

 藤波はにっこりと笑って言う。

 そういえば以前、藤波の家は月岡と古い付き合いがある、と言っていた。

 小山内は納得すると同時に、自分の妄想を恥じて、小山内はどっと力が抜けそうになった。

(そりゃあそう……藤波さんが大昔から若いままなんて、あり得るわけないのに何を考えていたの……) 

 ファンタジックな妄想癖は子供のころからのものだが、最近はどうにも現実と混同してしまいがちな気がした。それもこれも目の前にいる、藤波という非現実な雰囲気を纏った男のせいなのだが。

「……先生が僕に告白をしたのは、きっと大叔父に似ているからなんです」

 藤波は伏し目がちに写真を見つめながら言う。

「このワンピースを着ているこの子がね、月岡先生のことが好きだったんですけど、振られてしまったんですって。大叔父がどうしてこの子を振ったのだと聞いたら、大叔父のことを好いているからだ、と」

 思わぬ泥沼な恋模様に、小山内は思わず息を飲む。

「え、じゃあその時、大叔父さまは月岡先生とお付き合いを?」

 藤波はゆるりと首を横に振る。

「いいえ。大叔父は先生を酷く振ったそうです。当時は今よりももっと、男同士の恋愛が難しい時代でしたからね」

 ああ、と小山内は息を吐く。同性愛への偏見は昔より薄まってきているとはいえ、そうである人と、そうでない人では相互理解が難しい。月岡が青年だった頃は殊更、奇異の目で見られたことだろう。

「でも、交友は続いたようでして。僕もご縁があって、こうして先生のとこでハウスキーパーの仕事ができているんです」

「そうだったんですね」

 大叔父が若い頃からの付き合いということは、きっと藤波は幼い頃から、月岡のことも知っていたのだろう。

 それ故に月岡と藤波の関係は気易く、互いに誰よりも近い場所にいるのかもしれない。

「じゃあ、月岡先生にとって、藤波さんは、家族みたいなものかもしれませんね」

 小山内は素直な感想として、そう告げた。その言葉が意外だったのか、藤波は少し呆けた顔をして、照れるような寂しいような不思議な表情で笑った。

「そう見えていたら、嬉しいですね」

 その時、小山内たちの背後で空がごろりと鳴った。あ、来るなと思った次の瞬間には空が明滅し、鋭い雷鳴がとどろいた。

 轟音に肩を震わせて庭を振り返ると、ぽつ、ぽつと小さな間を置いてバケツをひっくり返したような豪雨が降って来た。

「まずいですね」

 藤波は顔を顰めて慌てて雨戸を閉じ、小山内に声を掛ける。

「もう空が荒れて来ましたね。電車が止まる前に、早くお戻りになったほうがいいかもしれません」

「そうします」

 こくこくと頷きながら、小山内は身支度をする。

「ごめんなさい、今日は俺、車で送れないんですよ。タクシーを呼びますから。コーヒーを飲んで待っててください」

「大丈夫です。歩いていけますから」

 遠慮しようとする小山内の肩に触れ、藤波は半ば無理やりに小山内をソファーに座らされた。

「何を言っているんですか。台風が来るんですよ?女の人を雨風の中歩かせるわけにはいきません。タクシー代くらいは俺が出しますから、ね?」

 藤波に諭され、小山内は身を縮こまらせて「すみません」と小さく誤った。

 スマホを手に取り、藤波は手早くタクシーを手配する。

 待っている間に小山内はせっかく入れてもらったコーヒーを慌てて飲む。まだコーヒーは熱かったのか、少しだけ舌を火傷してしまった。


 藤波は小山内を門扉まで見送った。

 すでに風が出てきているのか、傘をさしていても横殴りの雨が小山内の服を濡らす。

月岡邸の入り口に停まったタクシーに乗り込み、慌ただしく礼と別れを告げようとすると、藤波が封筒を差し出してきた。

「これ、朝比奈さんに渡してください」

「なんですか?これ」

 封筒の大きさからして原稿にも思える。しかし月岡の原稿は防水用のビニール袋に入れられてしっかりと小山内の鞄の中に入っていた。

「手紙です。朝比奈さんへの」

 小山内が顔を上げると、藤波は雨に濡れる前髪を避けながら微笑んだ。

「先生は朝比奈さんに渡すかどうか、悩んでいたみたいなんですけど。きっと届けた方がいいと思ったから」

 それは、どういうことだろうか。

 小山内は疑問に思ったが、問いかける暇は無いと二度目の雷鳴が知らせた。

「……わかりました、朝比奈さんに渡します」

「ありがとう。小山内さん」

 藤波はほっとしたように微笑む。

 タクシーのドアが閉じられ、車が発信する。

 後ろを振り返ると、雨で滲んだ窓越しに藤波の見送る姿だけが映っていた。



 鎌倉駅に着くと、駅は線路への落雷があったらしく、あらゆる路線に『運休』の表示がされていた。

「げええ……嘘でしょう?」

 深いため息をついて、小山内はがっくりと肩を落とす。

 会社からは、既に直帰して良しとの連絡が来ているがこのままでは自宅の横浜まで出るのにも苦労しそうだ。

 途方に暮れていると、小山内のスマートフォンが鳴った。ディスプレイの表示は夫になっている。

『もしもし響子?まだ仕事中?』

「ううん。もう帰るとこ」

『そっか。鎌倉の作家さんのところに行くって聞いていたけど、さっきニュースで全線運休って出ていたからさ。もしかしたら帰れなくなってるんじゃないかって』

 夫の心配に小山内はじんわりと泣きそうになり、つい弱弱しい声になった。

「そうなの~、今鎌倉なんだけど、どうしようかと思っていたところで……」

『分かった。そっちに迎えに行くよ。どっかカフェでも入って待ってて!』

「うん。分かった……ありがとう」

 電話を切り、小山内はほっと息を吐く。優しい夫に感謝しつつ、ひとまず小町通りに入ってすぐの場所にある喫茶店へと逃げ込んだ。

 さすがに台風ということもあり、店の客数はほとんどいない。

 小山内は早く帰りたそうにしている店員にコーヒーを注文し、ようやく一息ついた。

 夫が鎌倉に着くまでにはまだ時間が掛かるはずだ。今のうちに月岡の原稿を見ておこうと鞄を開いて、ふと藤波からもらった封筒が目に入った。

 月岡から、朝比奈への手紙。しかし、月岡は渡す気が無く、藤波が渡した方が良いと判断した手紙だった。

 封筒を手に取ると、封はされておらず、ちらりと中身が覗けてしまった。他人の手紙を見てはいけないと理性で押しとどめようとするが、小山内はどうにもその中身が気になって仕方なかった。

 恐らくは編集部への仕事に関する手紙だろう。しかしもしかすると、朝比奈と月岡の間におきたスキャンダルに関することかもしれないと思うと、好奇心が抑えられない。

(……少し、はじめの文を見るだけ。プライベートなものだったらすぐに元に戻して誰にも言わないし、見なかったことにするから)

 そう自分に言い訳をして、小山内はちらりと封筒の中身を引き出す。そして、一番初めにあった文章に、釘付けになり、背筋が凍った。

 読んではいけない。見てはいけない。それでも震える手は無我夢中で手紙を捲った。運ばれてきたコーヒーはとっくのとうに冷めているが、それに構う余裕もない。

 二十枚以上にも及ぶ手紙の最後の一枚を読み終えて、小山内は真っ青な顔で手紙を机の上に置いた。

 これは、何だ?何かの冗談なら誰か早く言ってくれ。すべてはフィクションだと、ここに書き記してくれ。

 しかし小山内がいくら手紙の文字を探しても、そこにあることは真実として書かれていた。

(朝比奈編集長に電話……いや、それよりも月岡邸に戻って…………………………)

「っ!」

 とにかく動こうと立ち上がった瞬間、腹部に鋭い痛みが走り、自分の中からどろりとぬるいものが流れ落ちていった。

(どうして、どうして今になって……!?)

 体全体が、氷のように冷たくなっていく。それに反して全身の血は忙しなく巡り、体に起きた異変を脳へと伝えていた。ここ数年音沙汰の無かった月経が突如、訪れた合図だった。

 久方ぶりに訪れる子宮の痛みに冷や汗を溢しながら、小山内は呻きながら疼くまる。

 小山内の異変に気がついたのか、店員が駆けつける。しかしその声も酷く遠くに感じた。

 苦し紛れに机に置いた小山内の手が手紙を引きずり落とし、濡れた床に手紙が散らばった。


『拝啓 朝比奈様

このことをあなたにお伝えすべきか、随分と悩みました。しかしあなたはれっきとした我々の被害者です。きっとあなたには知る権利がある。

故に月岡の手記をあなたに預けます。

月岡の家に住む憑き物。藤波についてのお話を』




章題 月岡の手記



それは名を『藤波』と申しまして、代々我が家に伝来するものでした。このように言うと、『藤波』とは骨董か何かのように思われるかもしれませんが、そう言うわけではありません。

それはモノではなく、かと言ってイキモノでもなく、ならばその正体は何かと問われれば、答え難き存在ではあるのですが、とかくこの『藤波』というものは人の形をしておりました。

男とも女ともつかぬ、美しい顔をして、切れ長の目にはその名を示すように藤色の瞳を座している。薄い唇はいつも微笑を湛え、見るものに妖しい感情を抱かせた。亜麻色の髪は異人のようでして、後から聞いた話では藤波は海の向こうからやってきたと、伝えられていたそうです。


さて、その頃は歴史上で二回目の大戦が終わったばかりの頃でありました。残念なことに戦の最中に父は夜盗に襲われて死に、一番上の兄は志願兵として。二番目の兄は徴兵にて戦争へ赴き、それっきりになってしまいました。夫と息子を亡くした母は家にいることが辛くなったのでしょう。あるいは自分を家に縛る男が居なくなったので、自由になったとでも思ったのでしょうか。

いずれにしても、早い結婚で三人の子を産んでなお、若い人でしたから、いつのまにやら他所へ男を作り、帰ってこなくなりました。

そうして戦火を免れた広い屋敷に私だけが取り残されたのです。

しかしまあ、家の近くにはそう言った子供は多くありました。何より世間は孤児一人に構うほど暇ではなかったのです。

空襲で焼け野原になった東京ほどではなかったにせよ、五月には鎌倉の畑に米軍の焼夷弾が落とされたり、爆撃機による機銃掃射が行われたりと言ったことがありましたので、皆いつ頭の上に火の玉が落ちるのかと戦々恐々としていたのです。

その日も私は配給の芋をそのまま食らい、暇を持て余して庭で土いじりをしていました。

ふと、真っ青な空に空襲警報が鳴り響き、私は慌てて立ち上がり、庭に掘った防空壕へと走ろうとしました。

しかし運悪く木の根に躓き、私は庭から伸びる坂道を転げ落ちてしまいました。

山梔子の低い枝木に絡め取られ、どうにか転げ落ちるのは止まりましたが、起き上がると足がじんじんとして痛みます。起き上がってみると両方の膝小僧には赤く血が滲み、どくどくと熱い血潮が流れ出していました。喉の奥から耐え切れず、嗚咽が零れます。

鬱蒼と生い茂る木々の中で、警報と自分の泣き声が共鳴して、余計に心細くなって、恐ろしさと痛みで私は声を上げて泣きました。

するとやぐらの中から、声がしました。

「そこの子供。こちらへ来なさい。よく知らぬがアレがなる時に外にいては、まずいのでしょう?」

宥めるような嫋やかで低い声音に吊られ、私は暗い穴蔵へ歩み寄ります。

そして穴蔵の前に立ってようやく、そこが父に行ってはならないと言われていた場所だと気がつきました。

やぐらと呼ばれる崖の穴には、時が来るまで近づいてはいけないと。

一番目の兄は、人を食う化け物がいるのだと言いました。

二番目の兄は、天女がいるらしいのだと言いました。

どちらも正解でした。

「ほうら、そんなところにいないで。こちらへおいで。あの音が怖いのなら、耳を塞いであげよう」

暗闇から伸びた白い手が、私の腕を掴みます。

思わず悲鳴をあげそうになりましたが、暗がりから現れた化け物の姿を見て、私は息を飲みました。

見たこともないほど、美しい男のひとでした。

その人は、ボロ布のような着物を纏っていて、髪も海藻のように乱れていましたが、それでも美しかったのです。

とびきり晴れた日の砂浜のような髪の隙間から覗く藤色の目が私を捉えて煌めきます。

「おやおや。お前は月岡の末子ですか。もう供物を寄越すとは、感心感心」

化け物の薄く乾いた唇から、赤い下がちらりと覗く。

私はそれにさえ目を奪われて、何も言えずにいました。

「して、お前の父はどうしたのです?自分の息子が食われると言うに、見送りにも来ぬのですか?」

「お、お父さまは、死にました!」

振り絞るような私の言葉に、藤波は驚いたように目を見開きました。

「母はどうした?兄も二人、いたはずでしょう?」

「いちばん上のお兄さまは、戦争へ行って死にました。二番目のお兄さまは、パラオへ行ったきり、帰ってきません。お母様は……」

 私ははく、と息を飲みこんで、どうにか言葉を続けようとしますが、どうしても涙交じりの声になってしまいました。

「お母さまは、家を出て行ってしまいました。もうずっと、帰ってきません……」

 えぐえぐと、涙が次から次へと零れて止まりません。

「……そうかそうか。可哀想に。」

 男は私の頭を撫で、優しく抱き寄せてくれました。

「今はほら、アレに見つかるといけません。ここで静かに、静かにしていましょうね」

そういうと化け物は私を抱きしめ、やぐらの中でうずくまりました。化け物の薄い胸に抱かれて、私は息を殺すように空襲が遠ざかるのを待ちました。警報のサイレンと、自分の吐息と、頬に触れる化け物の冷たい手だけが世界の全てでした。

ようやく空襲警報がなりやんで、世界の音が元通りになると、私は美しい化け物の顔を見上げて訊ねました。

「あなたは、だれですか?」

「俺はこの家の憑き物だ。名は、藤波。お前さんの名前はなんです?」

「月岡、倫太郎……」

 私は舌ったらずに自分の名前を告げます。

「そうですか。倫太郎と言うのですね」

藤波と名乗った化け物は薄く目を細めて笑います。

「お家が万全でないのなら、今はお前を食べるのはやめておきましょうかね」

藤波がどう言うつもりで言ったのか私は分からず、ただ首を傾げるばかりでした。

後ろを見上げると、やぐらの奥の壁には古ぼけて形を失った仏様が彫られていました。

もしかするとこの人は御仏の使いかもしれないと思い、私は藤波にぎゅっと縋りつきました。


藤波は私を連れて穴蔵を出ると、身なりを整えて私の身の回りの世話を始めました。

初めの頃は電灯の使い方やラジオに驚いたりしておりましたので、まるで古い時代の人が間違ってこの時代へやってきたようでした。しかし藤波はあっという間に慣れて、私の家のお手伝いと近所に名乗りながら共に暮らすようになりました。

なにかとそれぞれの家に事情がある時代でしたから、私の家に藤波が現れたことに、とやかく言う人間もいませんでした。

それよりも周囲の大人たちも自分たちのことで手一杯といった風体で、右へ左へと慌ただしく動き回っていたのを覚えていました。



それから間も無くして、二番目の兄がパラオで戦死したと言う訃報が入りました。

「命拾いをしましたね、お前」

訃報の内容を私に読み聞かせたあと、藤波は柔く笑いながらそう言いました。細められた目から覗く紫が、宝石のアメジストのように煌めいています。

「俺はね、ずーっと昔に、お前のご先祖様に拾われて、この家を栄えさせる代わりに贄の子供を頂戴していたのですよ。この家の家長が変わるたび、末の子の命を食らってきたのです。お前はね、本当なら十になる前に死ぬはずだったのですが、お前の父と兄らが死んだ今、月岡の血筋はお前だけになってしまった。月岡の血を絶やさぬようにするのが俺の勤め。ならばお前を死なすわけにはいかないでしょうね」

私はまだ五歳ほどの子供でしたので、藤波の言うことの半分も分かりませんでしたが、どうやらこれからは二人で暮らしていかねばならないのだということは、ぼんやりとわかりました。

「藤波は、私の親になるのですか?」

そう言うと藤波はびっくりしたように目を見開き、それからくつくつと、堪えきれぬように笑い声を漏らしました。

「親!親か!それも悪くはないですねえ」

唇をにんまりと釣り上げ、藤波は意地の悪い声で言います。

「そうだね、お前が望むなら親になりましょうか。父親がよいですか?それとも、母親がよいでしょうか?好きな方になってあげましょうね」

言われた途端に、私はなんだか急に心細くなってしまいました。藤波が母親になるというのなら、私の本当のお母さんはどうなってしまうのでしょう。

「母さんは、もう戻らないの?」

訊ねた私は、どんな顔をしていたのでしょう。幼い頃でありましたから、自分のことはよく覚えておりません。悲しかったとか、辛かったとかいう感情はあったのでしょうが、あの頃は私の家よりも悲しい話がたくさんあって、お前の家はまだ幸福だと、たくさんの人に言われたのもあって感情の記憶が曖昧なのです。

しかし、藤波の笑みがふつりと消えて、迷子のように頼りなく眉を下げた悲しげな顔は今でもよく覚えています。

「……あの嫁子に少しでも月岡の血筋を愛す気持ちが残っていれば、やりようはあったでしょうが、あの子はこの家を出ていってしまいましたらねえ」

可哀想にねえと呟いて、藤波は私を抱きしめました。それでなんとなく、私の母はもう戻らないのだと悟り、わんわんと泣き始めてしまったのです。

「せめて、この藤波がお前の親代わりとなりましょう」

柔く、母のような声で藤波が言うものですから私は余計に母を恋しがって藤波の胸元に縋り付きました。

その日から藤波は、私の親となりました。

藤波は。子供が眠らない時に歌う子守唄を知りません。藤波は、子供が悪さをしたときの叱り方も知りません。唯一知っていたのは、私が嬉しかったり、悲しかったりした時には頭を撫でてやると良いということだけでした。

私の母と違って柔くもなく、私の父と違って汗ひとつも流さない、象牙でできた仏像のように冷たく美しい親でした。




藤波が人でないと理解したのは随分早かったように思います。

終戦の日、蝉時雨が鳴り響く中、町の方へ行くと大人たちがラジオの前に座り込んで何やら深刻な顔をしている者が見えました。

ラジオから聞こえるお経のような男の人の声を聞いて周りの大人たちは泣いたり、笑ったりする者で様々でした。

幼い私は大人の話はよくわかりませんでしたから、それが玉音放送だったということは随分後になってから知ったことです。

「ああ、戦争が終わったのですね」

藤波が私の手を引きながら言います。

「本当に?戦争が終わったの?」

「ええ。終わりましたとも。天皇が負けを認めたのですから、そうなのでしょう」

「負けたの?」

私は絶望した声で聞き返します。幼心に、戦争に負けると言うことは絶望的な話だとわかっていたのです。

「そう怯えることはありませんよ。戦争に負けても民草は死にません。むしろ誰かが戦争に勝つと言うことは、これ以上民草が死なないということなのですから。これで良かったのです」 

それが真実であるかのように藤波が語るので、私はすっかりと安心してしまいました。しかし、往来で私たちの話に聞き耳を立てていた女はそうではなかったようです。

不意に、藤波の頭に石が投げつけられました。鈍い音と共に、藤波の額が裂けて赤い血が噴き出すのを見て、私は悲鳴をあげました。

「なにが良かったんだ!戦争に負けたんだよ!」

石を投げてきたのは、近所でも有名な国防婦人会の人でした。男の人が戦争に行くのを、応援していた女の人です。

ご婦人は狂ったように叫びながら、二つ目の石を藤波に投げつけます。

「私の旦那は戦争で立派に戦って死んだ!命を賭して戦ったのに、お上はあっさりと負けを認めやがった!こんなのあんまりじゃないか!お前、異人の子だろう!?お前たちの親が私の夫を殺したんだ!」

ご婦人がまったくもって見当違いなことを言うので、私は藤波を庇うように前に出ました。

「違うよ!藤波は異人の子なんかじゃない!」

「いいのです倫太郎。ほら、行きますよ」

ご婦人の罵倒を背に、藤波は私の手を引いて、家路へと向かう坂を登っていきました。

私にはあの婦人がなぜ叫ぶのか分からず、とても恐ろしく感じたのを覚えています。

「藤波、血が」

「平気ですよ」

先を行く藤波の顔は見えませんでした。しかし、血がぱたりぱたりと落ちて地面の砂がそれを吸って赤い跡を残していきます。しかし家に近づくにつれ、血の流れは減り、到着した頃にはすっかり血が止まっていました。

「倫太郎、前がよく見えないので、桶に水を入れてきてくれますか?」

玄関先に荷物を置いて、私は言われた通り、桶に水を入れて藤波のところへ持っていきます。血は乾いて、赤黒い汚れになっていました。

藤波が桶で顔をすすぐと、顔の血は綺麗に落ちて傷一つない綺麗な額が現れました。私は驚いて、わあと声を上げました。

「藤波、怪我は治ったの?かさぶたにはならないの?」

不思議がる私に、藤波は手拭いで顔を拭いてからこくりと頷いた。

「ええ。もう平気です。俺はお前や他の人と違って、傷の直りがはやいのですよ」

どうやら藤波は、恐ろしい速さで怪我が治るようでした。

その後、落ち着いてから藤波は私にしっかりと教えてくれました。

「お前には、説明しておきましょうね。しかし、よそで決して話してはいけませんよ」

そう言って藤波は一つ一つ、自分のことについて話してくれました。

「俺はお前と同じ形をしていますが、お前のように年を取りません。ずっとこの姿のままでいます。食事も食べられますが多くは必要としません。水だけでも俺は生きられます。そして怪我を負うことも、病にかかることもありません」

そうした生き物を不死、というのだと藤波は教えてくれました。

他にも藤波はいろんな力を見せてくれました。

家で飼う鶏の卵から雛をかえす力。植えたばかりの種を花へと成長させる力。そして、老いた猫に子供を産ませる力。しかしその力の源はすべて同じだというのです。

「俺の力は全て、これまで食らった子供の力です。生きようとするためにその身にたっぷりため込んだ生命力。月岡の子供を食らうことで、俺は周囲のものを栄えさせる。他から命を奪い、その力を元に消えそうな命には、その先を続ける灯を与え、命を宿すものにはその手助けをする。そうあるようにとされた憑き化け物なのです」

夏の終わり、縁側で右手に羽化したばかりの蝉を、左手に死にかけの蝶を持ちながら、藤波は悲しそうにそう言います。

藤波が見せてくれたのはある実験でした。

左手の蝶は庭に落ちていた、死にかけの蝶でした。もう飛ぶ元気もなく、地べたに落ちて足を震わせることしかできないほど衰弱していたのを、私が拾ったものでした。

薄い黒と青の翅の色は褪せ、足も二本、折れています。幼い私から見ても、もう死ぬであろうとわかるものでした。

一方で右手の蝉は今朝羽化したばかりの蝉で、体もまだ翡翠のように緑色めいた茶色をしていました。蝉は藤波の手から逃れるためにいやいやと脚を動かしていました。

藤波が左手の蝶の翅を壊さぬよう、輪郭をなぞるように撫でます。

すると蝶の羽に艶が戻り、ぴくりと二、三度脚を痙攣させてから起き上がり、力強く羽ばたいて藤波の手から夕景の空へと飛び立ちました。

右手の蝉は、動かなくなっていました。藤波が握り潰したわけでもなく、綺麗な形のままで死んでいたのです。

私が見たものは、奇跡でした。

「分かりましたか?俺の力は奪った命を他の命へと移す力。元になる力が若ければ若いほど、吸い取る力は多くなる。奪い、与える栄えの力」

藤波は少しだけ辛そうに眉根を寄せて呟きます。

「人間の子供は生きる力が漲っているので、そうねすね……赤子を一人を食らえば百年はお前たちに栄えを与えられるでしょうか」

死んでしまった蝉を土に返してやりながら、藤波は説明してくれますが、私はと言えばそれどころではありませんでした。

私はしきりに興奮し、藤波の手を取り、あれやこれやと調べました。けれど藤波の手は、そこらの人の手と同じ形をした、細く白い、美しい手であることしか分かりませんでした。

「お前が私の力にあやかれるのは、きっともう少し先でしょうね」

くすくすと笑いながら私の頬を撫でる藤波の手は少し湿って冷たくて、夏の陽気に熱った頭を心地よく冷やしてくれるものでした。私は藤波の手にすり寄って、懐くようにその手を握りました。

「私、藤波が好きだな」

私はよくそのように、脈絡もなく藤波への好意を口にしていたように思います。その度に藤波は優しく笑って、こう言うのです。

「それはきっと、気のせいですよ」


私は、藤波が好きでした。

まだ母恋しさと愛しさに区別のない児戯の恋でした。ですので、私は何度も藤波に「好きだ」と言いました。しかしその度に藤波は分かったような顔をして「知っていますよ」と答えて、二言目には「でも、それは気のせいですよ」と嗜めた。

幼な心に私は傷つきました。

間違っているのは、藤波の方だ。私は藤波のことを好きなのだ。すぐにでもそう言い返したいのに、藤波が私を撫でる手があまりに優しく、美しく笑うものだから、私はいつも、何も言えなくなってしまうのでした。

成長するにつれて、私は藤波への恋慕を口にしなくなりました。



私が十代の頃、戦後の混乱期としては幸運なことに私は中学校に通うようになりました。家のお金については、父と兄たちが、私と藤波がしばらく生きていけるほどの遺産を残してくれていましたので、幸運にも子供の頃から働かず、勉学に励むことができたのです。

どう見ても親子には見えない私と藤波は、近所の人々には、戦後にはよくあった、訳ありの親子として我々は見られていたようで、特にとやかく言われることもありませんでした。

やがて私には友もでき、部活動にも勤しむどこにでもいる思春期の子供に私はなりました。

その頃には、自分の中にある感情が萌し始めている事に気づきかけていました。

藤波の薄い唇や、亜麻色の髪を括った時に見える白い頸を見るたび、如何にも胸と腹の間に鋭い針が刺さったような気持ちになったり、酷く喉が渇いたようになったのです。

幼い恋慕が確かに、成長と共に情欲へと変化していることに自分で自分に嫌気がさして、わざと藤波を避けて、心無いことを言うようにもなってしまいました。まるで自分が別の生き物に変容したような心地です。

藤波はといえば、長いこと人間を見てきたからでしょうか。私の変化にさえ動じることはなく、普段と変わらずに過ごしています。

変わったことといえば、私に好きな子はいないのか、ガールフレンドはいないのかと、やたらに聞くようになったことでしょうか。

私はそれさえ腹立たしくて、藤波をつい無視してしまうこともあったのです。


ある春の日。学校の帰り道で私を待ち伏せている少女に呼び止められました。白いシャツに紺のスカートを履いたおさげ姿の少女に、私はまるで見覚えがありません。しかし少女の方は、そうでないようです。

「これ、読んでください!」

差し出した桃色の便箋と同じ色に頬を染めながら、少女は真っ直ぐに私を見つめて来ました。私は「はあ」と覇気のない返事をしながら手紙を受け取り、少女の顔をもう一度よく見ました。やはり、見覚えはありません。

「……失礼ですが、あなたはどなたですか?」

そう訊ねると少女ははっと傷ついたような顔をして目を逸らし、お下げを揺らして私の前から走り去ってしまいました。

「月岡ぁ、お前は罪な男だなあ」

私の肩にわざともたれ掛かりながら、級友が言います。

「まあ、お前はそれなりに顔も良いしな。目はちょっと切れ長だが、女にはそれがウケるんだろうよ」

「ウケるって、なんだよ」

「お前まさか、分からないわけじゃないだろう?」

級友が呆れたような顔をするのがなんだか腹が立って、私は彼をそっと小突いて引き剥がしました。

気恥ずかしくて誤魔化したのです。私も男でしたから、手にした手紙がどんな意味を持つのか、それを知らぬほど子供ではありません。


「今日、恋文をもらったんだ」

夕飯後に藤波が洗い物をしている側へ寄って、私はそう告げました。すると、藤波は目をぱちくりとさせた後、ぱあっと顔を輝かせて嬉しそうに笑ったのです。

「あら、あらあらまあまあ。それは良かったですねえ」

くふくふと、嬉しそうに笑う藤波を見て、何故だか私は胸に蟠るような感情を覚えた。

「……良かったのかなあ」

 気乗りしない私に対し、藤波は興奮を抑えられないようにそわそわと訊ねて来ました。

「良いことですとも。それで?どんな子なんです?」

「どんな子、って……?」

「恋文をくれた子ですよ!可愛い子なんですか?」

洗い物を終えたばかりの手を布巾でパタパタと拭いて藤波は振り返る。

「その子と、お付き合いするんですか?」

かっと顔が熱くなったのは、照れや恥ずかしさからではなかった。

「藤波には関係がない!」

そう怒鳴って私は自分の部屋へと引き下がり、明かりをつけぬまま、カバンを乱暴に投げ捨てて、机に突っ伏しました。

私が恋文をもらったと言っても、なんとも思わない藤波が腹立たしくて仕方なかった。と、同時に、そんな藤波に嫉妬か何かを期待していた自分に気づいてしまったのです。

一時間ほど、そうして拗ねていたでしょうか。しばらくして、藤波が私の部屋の戸を叩きました。

「倫太郎、入りますよ?」

断りを入れて、藤波が戸を開ける。そして部屋が真っ暗なのを見て、呆れたように小さくため息をつきました。

「……明かりもつけないで、もう眠るつもりなんですか?せめて制服は脱がないと、シワになりますよ」

暗い部屋に藤波が入り込んでくる足音を聞きながら、私は黙り込んでいました。

「本当に眠ってしまったんですか?」

藤波の細い指が、肩に触れる。私は思わず肩をびくりと揺らして、頭をあげました。

「起こしてしまいましたか?でも寝るなら布団になさい。そうでないとか背中を痛めますよ」

嗜めるような優しい声でそう言いながら、子供をあやすように藤波は私の頭を撫でました。

「呆れた子。恋文をからかったくらいで、不貞寝するなんて、子供ですねえ」

そう言いながら私の頭を撫でる藤波の手は優しくて、涙が出そうになりました。

藤波は、私に無垢でいて欲しいのです。他の少年と同じように、少女に恋をし、成長し、子を成して欲しいのです。

ずっと語り聞かされたことでした。それこそが藤波の悲願であり、存在意義なのです。

私は庇護されるだけの存在で、藤波はにとってそれ以上でもそれ以下でもありませんでした。絶望に苛まれて、私はつい唇を強く噛みました。

「……藤波は、僕に恋人ができたら嬉しいのですか?」

私の問いかけに、藤波はそっと目を細めながら柔らかく笑んだ。

「ええ、もちろんですよ。そうなってもらわないと困ります」

「どうして?」

「どうしてって、そりゃあ昔に話したじゃあありませんか。俺は本来、お前を食べようとしていたんですよ?」

そう言われて、幼い頃に藤波に説かれた言葉を思い出す。

「俺はこの家を栄えさせる代わりに、歴代の家長の、末の子を食らってきた。そうあれとされた、化け物なのですよ。…………それともお前は、俺が只人のように、本当にお前を我が子として愛すと思ったのですか?」

藤波の手が、私の頭を掴む。側頭部に添わされた手に込められた力は強く、藤波が本当にやろうと思えば私の頭を砕くことくらいは容易いのだろうと分かった。

「早く良い娘と番って、子を産みなさい。そうして二人でも三人でも子供を作って、その末の子を俺に捧げるんです。そうすれば、こんな親子ごっこも終えられる。お前の家族はまた、千代に八千代に栄えることができるのですから」

「嫌だ」

 反射的に言葉が飛び出ていました。拒絶されると思っていなかったのか、藤波は面食らったように息を飲みました。

「……どういうことです?」

「私の子なんて、食べさせたくない。いっそ私が、お前に食われても構わないと言ったら、どうするのだ?」

私の問いに、藤波の顔からふっと笑顔が消えた。ぞくりと、背筋が震える。

私は、藤波を試したかったのかもしれません。自分を食べていいと言えば、藤波はどんな顔をするのでしょうか。

呆れて笑うでしょうか。それとも、怒るでしょうか。

藤波はすっと、私の左手を取りました。

何をされるのか分からず、私は首を傾げます。藤波は私の手を口元へ持っていき、口を小さく開けて人差し指の先をかちり、と軽く噛みました。

「そうですねえ。食べていいというのなら、遠慮なく。爪の先からゆっくりと味わいましょうか?」

藤波の舌が、私の指先をなぞります。ぬるりとした感触に、私は背筋がぞわりとしました。

「こうして肌を舐って、お前の味をしっかりと堪能して、その顔が恐怖に染まった頃に………」

藤波の口が開かれ、白い歯が覗く。赤い唇の端に見えたえ犬歯に目を奪われた隙も無く、熱い痛みが指先に走り、私は思わず手を引きました。

見ると、左手の人差し指には赤い歯形が付いています。指を抜く時に藤波の歯と擦れたせいか、歯形の周囲の皮膚は少し削げて、血が滲んでいたました。どくどくと震える心臓に合わせて、赤い色はじわじわと私の指を染めていきました。

「………馬鹿ですね。手を引くのが遅いですよ」

藤波は口元を拭って私の手を取り直す。流石に怯えて手を引きそうになりましたが、藤波は有無を言わさず私を立たせ、台所へと連れていきます。そして私の手を蛇口の下へ持っていき、綺麗な水で洗い流しはじめたのです。

ピリリとした痛みが走り、私が渋い顔をすると藤波はくすくすと笑いました。

「呆れた子。俺が本気で噛まないとでも思ったんですか?」 

藤波に顔を覗き込まれ、私は俯いて顔を逸らしました。

愚かなことに、私はこの時、藤波に食べられるなど、露程も思わなかったのです。

「痛いでしょう?これに懲りたら、もう二度と自分を食べればいいなど言ってはいけませんよ」

「私を、食べないのか?」

執拗にまた訊ねると、藤波はため息を吐き、蛇口を止めて、私の手を綺麗な布巾で拭いた。

「……俺が、本当にそうするとお思いなのですか?確かに私は、人の子を食らう化け物ですが、自ら餌場を無くすなんて愚かな真似はしません。お前が子供を作るまではね」

藤波は近くに置いてあった救急箱から手際よく消毒液と絆創膏を取り出して、私の手当をします。

「……大人になって、子供をあげてからも、私はいらないか?」

「嫌ですよ。大人なんて筋張っていて、旨くもない」

藤波は即答する。

ピンセットで摘んだ綿に含ませた消毒液が傷に触れる。じくりとと染みるような痛みが指先に走り、思わず息が詰まりました。絆創膏を綺麗に貼られ、ようやく藤波は私の手を解放してくれました。

「はい、おしまいです。ちゃんと寝る前に着替えるんですよ」

 藤波は救急箱を片付けると、ほったらかした家事をするためにどこかへ行ってしまいました。

絆創膏に包まれたおかげでいくらか痛みはマシになりましたが、私の喉の奥にはまだ熱いものがぐるぐると蟠っているような感覚がありました。



1960年某日


先日、私は二十の歳を迎えました。

近頃は幸運にも私の作品が文壇で評価されるようになり、少しずつ雑誌にも載せていただけるようになりました。藤波は時折、からかいまじりに私のことを「先生」などと呼ぶようになり、よそと会う時はやたらとそれを強調して楽しんでいるようです。

十八の時から通い始めた横浜の大学へ通もそれなりに楽しく、私の世界は少しずつ、外へと開けていくように思えます。

煙草や酒と言った少しの悪さも覚えはしましたが、概ねは好青年として範疇ではないでしょうか。

最も、藤波は煙草の匂いを嫌うので、私も仲間との付き合いでしか吸いません。


そう、藤波とは言えば、まったく変わりがありません。出会った頃のまま、若く美しいままでいます。

私の背もとっくのとうに藤波を追い越し、二人並んでいると友人同士に見られることが増えたように思います。

私が高校に上がったころから藤波は私の親代わりを名乗るのをやめ、近所の人には、『先代の藤波』の親戚で、お手伝いさんとしてこの家にいるのだと言うようになりました。

元からご近所づきあいの薄い家でしたから、大きく疑問には思われなかったようです。

他に少し変わったことと言えば、近頃は庭仕事に精を出しているようでした。

私が子供の頃に山で拾ってきた藤の花の苗木を、藤波は上手に育てています。

今年の春には大掛かりな藤棚を二人で組み立てました。

毎年五月に咲き始める藤の花は、他の藤と違って夏の初め頃にまで花を咲かせ続けます。きっと、あれも藤波の力なのでしょう。

初夏の風に吹かれて揺れる紫の花房越しに、庭にいる藤波を見るのが私は好きです。

薄茶の髪を日に透かして虫や花と戯れる藤波は、見目麗しい夏の神さまみたいで、ここが極楽のように思える時さえあります。

このまま死んで魂が空気になって、庭の日差しを浴びて微睡む藤波の睫毛を透かす光になれたら、きっと幸せでしょうなどと、夢見がちな幻想を抱くことすらままありました。


……私は今でも、藤波が好きです。幼い頃に言わなくなってから、随分長いこと口にしてはいません。きっと藤波も、私が今でも彼を愛しているなどと、思わないでしょう。

なにせ女友達を交えて遊んでくると言うたびにどこかそわそわと、息子の恋人を期待する母親のように落ち着きがなくなるのですから。

もっとも、母親の記憶はおぼろげなので、母のようだと言うのも、想像でしかないのですが、正直これには参ります。

きっと私が好きだと言えば、藤波はきっと困ってしまう。悲しい顔をして私を叱り、この心を否定するでしょう。私はそれが恐ろしくて堪らない。

藤波に拒絶される夢を見ては、夜中に飛び起きてしまうたび、胸を搔きむしるほど気が狂いそうになるのです。

ですが、一体誰にこの心を白状できましょう。

家に憑く化け物に恋焦がれている。美しい不死の男に、この愛を受け止めて欲しいのに、言えば二人が壊れてしまう。

もし人に言えば、きっと夢物語の書きすぎで、頭が狂ったと思われて、笑われることでしょう。愛しい人に、恋焦がれる心を伝えられぬまま、私はこうして紙にインクを滲み越せることでしか、感情を吐露できないのです。



1965年 夏


嬉しいことに、少し大きな出版社で妖怪退治の小説の続きを書かせていただけることになりました。

編集長は『祓い屋青紅葉シリーズ』と銘打って続き物にしようと進言してくださっていますが、正直あの話を長く続ける自信はありません。とはいえ、せっかく巡って来た好機です。

ここはひとつ、力を入れねばならないでしょう。


……近頃は、ちょっとした出来事がありました。他人から見れば些細な、それでも私からすれば人生を揺るがす大事件でした。 

藤波と、喧嘩をしたのです。


きっかけは、ある女友達を家へ連れて行ったことでした。

その子は名取という子で、長い黒髪と丸い額の綺麗な可愛らしい子です。名取とは大学時代に同じ授業で隣同士だったことを理由に仲良くなった友人の一人でした。

文芸の趣味が良く合い、帰りの電車がなくなるギリギリまで喫茶店で語り合うことも多々ありました。

周囲からは恋仲ではないのかと揶揄われたこともありましたが、名取は凛とした態度で周囲のおちょくりを聞き流していました。

「はしゃぎたいのなら、はしゃがせておけばいいのよ。周りの囃し立てで変わるくらいなら、あたしと月岡くんの関係はその程度ってことよ」

名取は独特の感性を持った女性でした。周囲に流されず、常に自分に芯を持つ、名取のあっさりとしたところが気に入って、私たちは随分と長く、友としてあったと思います。


卒業して幾年か経っても、名取との交流は続いていました。

先日も鎌倉では毎年花火大会をやるのだと話したら、名取は是非とも行きたいと言ったので連れて行くことにしたのです。

花火大会の日、名取は朝顔柄の浴衣を着て、髪型も少しおしゃれしているようでした。

由比ヶ浜の花火大会は浜を埋め尽くすほどの人が集まります。

沖合に出た漁船から打ち上げられる花火が、濃紺の海面に打ちあがる様は何度見ても見事なものです。

屋台を冷やかして、人混みでごった返す浜辺にどうにか落ち着ける場所を見つけて、私と名取は今か今かと花火の打ち上げを待ちました。

「ねえ、本当に藤波さんは来ないのかしら?」

「いいんだ。本人が来ないと言うのだから仕方ない」

「ふうん。せっかく噂の藤波さんに会えると思ったのに、残念だわ」

名取は頬を膨らませながら軽く拗ねました。名取は藤波のことをよく知りません。ですが、私がよく話題に出すものでしたから、彼のことが気になって仕方ないようでした。

花火が始まるまでは互いの近況を話したように思います。

名取は東京の出版社に就職したようでしたが、お茶汲みばかりで全くつまらないのだと愚痴を溢していました。

他にも学生時代の共通の友人が結婚したと言う話、あるいは、別の友人はもう子供が三人いると言うような取り止めのない話ばかりをしていました。

「そういえば聞いたことがなかったけれど、月岡くんは好い人はいないの?」

首をこてんと傾げながら訊ねられて、私はなんと答えたら良いか、ひと時の間を置いてしまいました。

名取とは恋の話をしたことはありません。名取自身、あまり色恋に興味があるような女性ではありませんでしたから。ですが名取であれば、話しても良いかという気もしたのです。

「………好きな人は、いる。まったくもって、叶わない人だが」

口にしてみると、心臓の奥がぎゅうっとしまって、鼓動が早くなるのが分かりました。そしてどうしようもなく、己の中にあり続けた感情の大きさを自覚してしまうのです。

名取は私の言葉が意外だったのか、黒目を大きく見開いて、それから小さな声で呟きました。

「そう、なんだね」

「名取?」

唐突に沖合からヒューという甲高い音が響きました。

夜空が明るくなり、千紫万紅の色が濃紺の海と夜空の二つに現れる。

「わあ、すごい!綺麗ね、月岡くん!」

名取がはしゃいできゃあきゃあと歓声を上げます。

しかし、私は少し呆けて、二、三個の花火を見逃してしまいました。

「月岡くん、今の見た?綺麗な紫の花火!」

目の前に弾ける色を見て、私ははっと我に返り、すぐさま花火に夢中になりました。

ですが、気のせいでしょうか。花火が打ちあがった一瞬だけ、花火の光に照らされた名取の顔は、泣きそうに見えた気がしたのです。


花火大会が終わり、家路につく群衆に紛れて帰ろうとした時、名取が「あっ」と声を上げました。

「どうした?」

「やだ、下駄の紐が切れちゃった……」

「どれ、見せてみろ」

私は屈んで、名取の下駄を直そうとします。しかし下駄の親指と人差し指の真ん中にある前坪が真ん中からぶっつりと切れており、すぐに直すのが難しそうでした。

「こりゃあまずいな……」

どうしたものかと考えて、私は名取の足が、擦れて真っ赤になっていることに気が付きました。

名取は普段、パンプスを履いていましたから、今日は浴衣に合わせて慣れない下駄で歩いて痛めたのでしょう。

痛々しい足が可哀そうで、私は名取に自分の靴を貸しました。

「名取、私の家に寄ろう。道具があるから下駄を直せる。それに、足も休めた方が良い」

「え、でもお家の人に悪いわよ」

名取は困ったように遠慮しましたが、私は首を横に振りました。

「いいんだ。どうせ私と藤波しかいないのだから」

私は名取を連れて、家に帰りました。

玄関先で藤波に声を掛けると、藤波は驚いたような、気色ばんだような笑顔で私と名取を迎えました。

「おやおや、もしかして名取さんですか?倫太郎、どうしてまた急にうちへお呼びしたのです?」

にこにこと機嫌よく私に訊ねる藤波の態度が、私には少し不愉快でした。あからさまに、私と名取になんらかの関係があることを望んでいる風でしたから。

「名取の下駄が壊れてな。道具を使うよ」

「ええ、わかりました。おや、名取さん真っ赤になってしまっているじゃないですか。手当てしてさしあげますから、こちらへどうぞ」

藤波は名取の靴擦れを看止めると、彼女の手を取り客間へと連れて行きました。

戸惑う彼女に、私は遠慮することは無いからね、と精いっぱいの笑顔で見送ったのです。

それから私は玄関で十分ほど、下駄の修理に勤しみましたが下駄の鼻緒はなかなかに手ごわい壊れ方をしていて、新しい紐が必要でした。奥の座敷から代わりの紐を取って玄関へ戻る途中、ふと客間の戸が薄く開いていることに気が付きました。

そのまま通り過ぎればよかったのですが、客間から聞こえてきた声が気になってつい、立ち止ってしまいました。

「それで、うちの作家先生とはどのような関係でいらっしゃるんです?」

藤波の浮かれた声がしました。まさか名取に直接そんなことを訊ねるとは思っていなかったので、私は戸惑いました。

しかし、名取は冷静なようでした。

「残念だけど、藤波さんが期待するようなことではないの。本当よ?私たち、大学時代からずっと仲のいいお友達だもの」

「そうなんですか?それは残念。倫太郎が女の子を連れてくるなんてめったに無いことですから、期待してしまいました」

くすくすと揶揄うように藤波は言いますが、その言葉尻には本当にがっかりしているような無念さが含まれているのが分かります。

「……月岡くんは、私のことよりも、きっとあなたのことを気にするわ」

「……どう言うことでしょう?」

藤波の声に戸惑うような震えが混じりました。名取が、小さくため息をついて、内緒話をするように声を顰めます。

「月岡くんね、昔から時々、恋をしている顔をするの。誰のことを考えているのかなって思っていたけど、きっと藤波さんのことを考えていたのね」

名取の言葉に私は息を呑みます。彼女は一体、何を言うのでしょう。私は一度も名取に藤波のことを好いている白状したことがありません。

彼女が私の気持ちを知り得るはずはないのにと、私は狼狽えました。

名取はまだ、言葉を続けます。

「初対面のあなたにこんなことを言うのもおかしいけれど、私ね、月岡くんが好き」

今度こそ、息が止まりそうになりました。そんなことは初めて聞きました。それと同時に、やめてくれと、全身から汗が吹き出るほどに願ってしまったのです。私は名取の思いには答えられない。名取に好きだと言われて仕舞えば、私たちの関係が壊れるのは明らかです。私は一瞬にして名取との友情が壊れてしまいそうなことに気が付いて、酷く怯えました。

しかし名取は私が思うよりずっと賢くて、冷静な女性でした。

「私ね、月岡くんに振り向いて欲しくて、おしゃれしたり、本を読んだりしたわ。でも全部、彼には意味のないことだったの。今日だって、月岡くんに褒めてほしくて慣れない浴衣を着てきたけど、彼一度も私のことなんて見ていなかった。視界には入っても、心では見てくれないの。でもね、この家に来て、藤波さんを見て、分かっちゃった。女の子ってこう言う時、勘がいいから嫌よね。……ねえ、きっと月岡くんは、藤波さんのことが好きよ」

最後の方は涙の混ざった声で名取が言います。

 藤波は、戸惑うように黙り込み、必死に言葉を探しているようでした。

「……それは、貴女の気のせいですよ。私は男ですしそれに……」

“それに化け物だ”とでも続けようとしたのでしょう。しかし言葉を飲み込んだ藤波に、何も知らない名取は否定の言葉を投げかけます。

「いいえ。藤波さん、そんなことはどうでもいいの。理由やしがらみなんて、言い訳にしかならない。だって恋って、そんなもの。シェイクスピアの昔から、そう決まっているのよ。知らなかった?」

静かな沈黙が、家の中に流れます。

庭の方から気の早い鈴虫がチロチロと羽を鳴らす音が耳の奥にまで聞こえるような静寂でした。

しばらくしてようやく、藤波が口を開きます。

「倫太郎に、好きとは言わないのですか」

「言えません」

はっきりとした声で名取は言い切ります。

「どうせ叶わぬ恋だから。玉砕して月岡くんとの関係が壊れてしまうのなら、私はずっと彼の友人としてありたいの」

それに、と名取は続けます。

「言ってみてから、やっとわかった。私きっと、あなたに恋する月岡くんが好きだったのよ」

……それ以上聞いていられなくて、私は足音を忍ばせながら玄関へと戻りました。

私は自らの愚かさを呪いました。己のことしか考えない馬鹿だと気づいてしまったのです。

目頭から熱い涙が溢れそうになりましたが、私には泣く資格などありません。

名取は私に想いを寄せながら、それを壊すのを拒んで自分の恋を捨てたのです。


少しして、名取の「そろそろお暇しなければ」という声が聞こえてきました。下駄はとっくに直っていましたが楽なんとなく私は声をかけられずにいました。

客間から出てきた名取の足は応急処置の包帯が巻かれており、藤波に手厚く看護されたようでした。

私は名取を駅まで送ることにしました。

名取は、何事もなかったかのように振る舞っています。

「そういえば川端先生の新作はもう読んだ?」

「いいや。まだだなあ」

「とても興味深いわよ。主人公が女の子なのだけど、愛する人の姿が見えなくなる奇病に掛かってしまうの。新潮のバックナンバーをうちに取っといてあるから今度貸してあげるわね」

「それはありがたいな」

名取の足を痛めぬようゆっくりとした足取りで、私たちは駅へと向かいます。

花火客はすっかりといなくなり、静かな由比ヶ浜を三日月が朧げに照らしていました。だんだんと話題も尽きてきて、私たちは無言で浜のそばを歩きました。

「………足、辛くないか?」

「うん、平気……藤波さんとっても上手く手当してくれたみたいでもうちっとも痛くないの」

ふと、私は藤波の力のことを思い出しました。触れたものの命を華やがせる藤波の力は、名取のような女にも現れるのでしょうか。

ようやく由比ヶ浜駅が見えてきて、別れの時がきました。私は最後まで、名取に何か言うべきかと悩みましたが、結局何も言えませんでした。言えば、数少ない友を失うと恐ろしくなったのです。それは名取も同じようでした。

ですから私たちが取り交わした言葉は、いつもと同じものでした。

「それじゃあ、また」

「ええ、また」

それが私たちの関係を決定づけるものになりました。

名取の乗った電車を見送り、私は一人家路につきました。来た道を戻るだけのはずなのに、見慣れたはずの道はまるで知らぬもののようでした。

宵闇に響く波の音が鼓膜の奥へ響くほど私の心が静かでした。

全くどうして私は身勝手な男でしょう。私は名取の愛に応えられないことに傷ついて、一人センチメンタルに陥っていたのです。

私は、なにをしてやれたでしょうか。名取の思いを受け取って、嘘をついてでもその思いに報いてやればいいでしょうか。ですがきっとそれは、彼女を侮辱する行為です。だって彼女は、私の本当の気持ちも知っているのですから。彼女はきっとすぐにそれがうわべだけだと気がつくでしょう。

きっと名取は今日、恋を失った。彼女はどれほど傷ついたでしょう。もしかすると、今宵は枕を濡らすでしょうか。いいえ、私には彼女のそれからを想像することも許されない。彼女は私と友であるために自分の心を殺したのですから。

私はずっと、名取の優しさに救われていたのです。

それでは私は?私もまた、名取と同じように、藤波と二人を壊さないために恋を諦めるべきでしょうか?ぐるぐると考えがまとまらないまま、私は気が付けばとっくのとうに家へついてしました。

「おかえりなさい。今日はお疲れ様でしたねえ」

少しくたびれた様子で、藤波が私を迎え入れます。

私は何も言わず、ただ汚れた足を洗いに風呂場へ行きました。花火大会から帰る時、名取に靴を貸したので、足の裏は土で汚れて真っ黒になっていました。

水道の水を桶に溜めて足を濡らす。石鹸を付けて足を洗うと、これまた黒い泡が次々に溢れてきました。無言で足を洗っていると、藤波が脱衣所からこちらを覗き込んで来ました。

「ねえ、倫太郎。名取さんはとても良い子ですね。賢くって器量も良い。それに、お前を好いているようでしたよ?」

白々しい藤波の態度に、私は苛立ちを覚えました。名取が私を諦めたことを知っていて、私が本当は、藤波を好いているのだと知っていて、よくもまあ言えたものです。

「……私と藤波はただの友人だよ」

「ただの友人のために、果たしてあんなにおしゃれをするでしょうか?」

「近頃の女の子は、ああしていつも着飾っているんだよ」

「ですが、わざわざ東京からお前に会いに来てくれたのに?」

「花火を見に来たんだ。私に会ったのはついでだ」

 藤波の問いかけに、私は静かに否定の言葉を返します。段々と藤波の声に焦りが混ざってきました。

「けれど、倫太郎……。あの子は、お前に恋していたのですよ……?」

切羽詰まったような声で、藤波が言う。振り返ると藤波は苦しそうな顔で胸を押さえながら、私のことを睨んでいました。

「…………知っている」

そう言って私は足にまとわりついた黒い泡を水桶に溜めた水で流しました。淀んで濁った水が、排水溝の中へと吸い込まれていきます。

「お前も名取から聞いて、知っているのだろう?」

自分がどんな顔をしていたのか、わかりませんでした。ですがきっと、怒った顔をしていたのでしょう。藤波は怯えたようにアメジストの目を見開いて、二歩下がりました。

「………倫太郎、なぜあの子ではいけないのです?知っていながらどうして?」

分かりきっている答えをなぜ訊ねるのか、不思議でなりませんでした。私の心を知っていながら、そうでなければ良いと願う藤波が嫌でした。

きっと私は頭に血が上りきっていたのでしょう。後先も考えずに、ただ、喉の奥から血が滲みそうな告白だけが溢れ出していました。

「………お前を愛しているからだ。藤波」

 口から吐き出してしまうと、やはりどうしても、自覚してしまう。それと同時に、原の中へすとんと落ちるものがありました。

 どうしたてきっと、私はこの恋を諦められません。

息の詰まるような間がありました。藤波は狼狽えて絶望に満ちた顔をして、私から目を逸らしました。

「…………いけません。それだけは、いけない」

か細い声が私を否定する音を聞いて、頭の奥で何かが弾けました。気がつけば私は藤波に詰め寄り、声を荒げていた。

「何故だ。お前以外誰も好きになんてなれない」

「なりません。それだけは許されない。倫太郎、お前はもう大人です。早く子どもを作らなければ、間に合わなくなる。お前に子供ができなければ、俺も月岡の血筋も、ここで滅びてしまうんですよ!」

「滅びたってかまわない!」

自分でも驚くほど、空気を震わせる怒号が飛び出しました。

「家がなんだと言うんだ!月岡の血筋はもう私だけだ。家の存続なんて、知ったことではない!」

その途端、藤波が手を振り上げて私の頬を打ちました。弾けるような音がして、左頬の頬骨に熱い痛みが広がります。藤波に打たれるのは初めてのことで、私は思わず目を剥きました。

「何を、怒っているのですか。倫太郎?」

藤波が私を睨みつけます。熱を帯びた涙に覆われた、いつもより深い紫が私を虐みます。

もう、耐えることはできません。胸の内にしまっておいた言葉が、次から次へと溢れて来ます。

「…………私は悔しいのだ藤波。お前に私の気持ちを味合わせてやりたくて仕方がない。呼吸ができないほど苦しくて、心臓は引き攣れそうなほどにお前を愛しているのに、お前は一つもわかってくれない。藤波、お前の心は氷のようだ」

喉が焼けるほど煮えたぎる憎しみを声に乗せても、藤波の言葉はずっと冷めたままでした。

「心などありませんよ。そんなことずっと前に知っているはずでしょう?俺は人間ではないのだから」

幼い頃に幾度も聞かされた言い訳をされて、私はいよいよ脳髄が焼き切れそうでした。きっと藤波の中では、私はまだ戯れ事を本気にする小さな子供でしかなかったのです。

違うと言わねば。目の前にいる男は頭のてっぺんから爪先まで、お前のために心を燃やしているのだと伝えねばなりませんでした。

「目を逸らすな藤波。私を見てくれ。お前を愛する男の顔は、一体どのような顔をしている?」

藤波はこちらを見ません。ただ深く目を瞑り、嵐が去るのを待つように耳を塞ごうとします。

「こんな思いをするくらいなら、あの時お前が私を殺してくれれば良かったのに。お前をただ純粋に好きな子供のままで、お前に食われたかった。こんなに苦しくて汚い心を、私は持ちたくなかった!」

「……やめてください」

「嫌だ!私はお前が好きだ藤波」

「やめて……」

「お前が私の愛を要らぬというなら、死んだって構わない!」

そう叫んで私は藤波の腕を引き、顔を引き寄せました。藤波の紫の目が、恐怖で見開かれて、涙でいっぱいになるのが分かりました。

「やめろ!!!」

叫ぶと共に、藤波が私を突き飛ばしました。

ビシリと何かが割れる音がして、黄色い電球が落雷のように弾け飛ぶ音がしました。暗闇に包まれた中で、二人の荒い呼吸だけが響いています。

「………お願いです……倫太郎……俺に触らないでください……俺は憑き化け物です……。お前の心には、応えられない……」

「藤波……?」

 暗闇の中で、藤波が泣いているような気がしました。ですが、次に聞こえたものは、冴え冴えとして、氷の刃のように冷たい声でした。

「………………話は終わりです。金輪際、そのようなことは口にしないでください……」

藤波の声が、遠ざかっていきます。私はすぐに藤波を捕まえねばと腕を伸ばしましたが、藤波の着物の端が、するりと手の中をすり抜けて行くだけでした。


…………あれから、藤波とは口をきいていません。

家にいても、藤波の顔を見るのが辛くて近頃は鎌倉まで出て適当な喫茶店で原稿を書く始末です。このままいっそ、遠くの地へと行ってやろうかとも考えましたが、それでも家の中に一人でいる藤波を思うと、どうしても躊躇われました。

あの憑き化け物は、家から遠くへはいけないようです。と言うのも藤波と会ってからこの方、彼が鎌倉から出るのを見たことがありません。きっと彼はあの家に縛られているのです。そういう呪いが彼にはあるのです。

もし、藤波の呪いが解けたらどこかへ行くでしょうか。それとも籠の鳥のように、大空に怯えて飛び立てぬままでいるでしょうか。

……正しき人であるのなら、藤波の自由を願ってやるべきでしょう。ですがそれと同じほどに、藤波が家に囚われていることに安心している己がいるのです。

これでは名取に顔向けができません。

むしろこのような碌でもない男との恋を諦めてくれて良かったとさえ思います。

自分がこんなにも汚れた人間だとは、私は知りたくありませんでした。



# 

1965年 秋


藤波と喧嘩をしてから、一月経ちました。

九月も半ばに入り、空模様もぐっと秋の様相を表してきました。先ほどまで晴れていたかと思えば、大風が吹きたちまち雨になる。不安定な天気に自然とこちらも気落ちが進むばかりです。

「はあ………」

また一つ、大きなため息をつきます。

「ねえお兄さん。また大きなため息ついてるよ?」

ウェイトレスの少女が私に声をかけます。

「ああ、すまない……ここのところ上手くいかなくて……」

白紙の原稿に万年筆を転がしながら私は頬杖を付きました。

頭の中に話はあるのに、それをどうにも引き出せない。

「ふーん。でもそれって、ここに来るようになってからずっとじゃない?」

ウェイトレスは気安い態度で、私の断りもなく、コーヒーのお代わりを注いで来ます。

あまりにも長くこの喫茶店に居着いたせいで、近頃はマスターやウェイトレスともすっかり顔馴染みになってしまいました。ここのコーヒーは味が良いのはもちろんとして、店奥の窓から見える庭が気に入っていたのですが、ウェイトレスが馴れ馴れしいのがたまにキズでした。

「まだ仲直りできてないのー?例のお手伝いさん」

コーヒーをテーブルに置いて、ウェイトレスは訊ねます。

「ああ……まあね。ずっと口をきいてくれない。朝も夜も、ずっと家にいるのに……。自分が透明人間になった気分だ」

ひと月も顔を合わせていると不思議なもので、自然と愚痴の一つや二つが口からこぼれ落ちてしまう。このウェイトレスはそういった話のタネを目ざとく見つけて弄ぶのが得意なようでした。

「奥さんやガールフレンドと喧嘩しちゃった〜って話はたまに聞くけどさ。作家先生んところは相当だね。私が聞いた中でも最長記録の喧嘩期間だわ」

ウェイトレスは意地悪くくすくすと笑います。

「うるさいなあ……。私を揶揄う時間があるなら仕事しなよ」

私は苦笑いしながら彼女を追い払う仕草をしました。ウェイトレスは気にするでも無く「怒られちゃった〜」と笑いながら給仕の仕事へ戻って行きました。

近頃の少女は皆あのように遠慮が無いものでしょうか。時々、同い年の名取のことが少し恋しく感じる時もありましたが彼女も忙しいようでなかなか連絡が取れません。

コーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。少し甘くなったコーヒーを飲むと、頭が急に冴えてくるようでした。ですが一行二行書き込んでみても筆はそれ以上進んでくれない。粘り気のある泥の中を必死にかき分けて進んでも、また目の前に新しい泥が流れ込んでくるようでした。

またため息をつきながら机に突っ伏して、喫茶店の中庭へ目を向けます。

中庭の木々は夏頃よりも葉を落としてきて、秋の準備を進めるかのように少しずつ黄色へと染まってくる頃でした。

午前は晴れていた空は徐々に雲に覆われて雨を集めているようでした。藤波は今頃、夕食の支度をしている頃でしょうか。私が家にいない時、藤波は何を考えているでしょうか。藤波は……私をどう思っているでしょうか。

いつまでも女の子と付き合わず、藤波に執着する私に呆れ果てているのは明らかです。もしかすると聞き分けのない子供くらいに思っているかもしれません。

ふと、天上からゴロゴロと雲がぐずる音が聞こえてきます。

まずい、と思った矢先にぱたり、ぱたりと空から雫が落ちてきてあっという間に庭に大粒の雨を降らせ始めました。

「ああ……参ったな。今日は傘を持ってきてないのに」

私は独り言のように呟くと、同じく天気の様子を確認しに来たウェイトレスが「あらまあ」と窓から空を見上げました。雲は分厚く、すぐには雨も止まないことは明白でした。

「……ねえ、もしかしたらチャンスじゃない?」

ウェイトレスがニヤニヤしながら私を見ます。その言葉の意味がわからなくて、私は首を傾げました。

「なにが?」

「そのお手伝いさんに電話して傘を持ってきてもらえばいいのよ。そうしたら、仲直りのきっかけくらいにはなるでしょう?」

そう言うとウェイトレスは軽い足取りでキッチンへと引っ込んできました。

何を馬鹿なことを、と思いましたが、流石のこの雨では、原稿も無事ではすまないでしょう。私はしばし悩んだのち、覚悟を決めて喫茶店の電話を借りることにしました。

電話のダイヤルを回す指がとても重たく感じます。最後のダイヤルを回し切ると、数回のコール音が鳴り響きました。コールの合間に聞こえる雨音がいやにはっきりとしていて、不安ばかりが駆り立てられていきます。

がちゃり、と受話器の向こうで電話を取る音がして私は息を飲みました。

『……はい、月岡です』

久方ぶりに、藤波の声を聞いた気がしました。

「あー、藤波、私だ。倫太郎だ」

『ああ……どうかしたんですか?外から電話をかけてくるなんて珍しい』

いつもどのように話しかけていたか思いだせなくなって、なんだか舌がもつれそうでした。

「それが、この雨なんだが傘を忘れてしまってな。原稿を濡らすといけないから、由比ヶ浜駅まで迎えに来てくれないか?」

我ながら稚拙な言い訳に聞こえるな、と思いました。電話の向こうでは藤波が小さくため息をつきます。

『……わかりました。迎えに行きますよ。もう帰るところですか?』

「ああ」

『それじゃあ、由比ヶ浜の駅に着いたら待っていてください。風邪を引かぬように、あまり濡れないでくださいね』

そう言うと藤波は電話を切りました。通話の切れる音を聞いて受話器を戻して、深く息を吐いて自分の席に戻ると、ウェイトレスがにやにやとしながら会計用の伝票を持ってきました。

「ねえねえ、うまくいった?仲直りチャンス、来ちゃった?」

「馬鹿を言わないでくれ。ただ、傘を持ってきてもらうだけだ」

こちらが一世一代の気持ちで電話を掛けたというのに、このウェイトレスは私の事情をただのおもちゃとしか見ていないのでしょう。それを本人も分かってやっていそうなところが余計に腹立たしい。

「まあ!拗ねちゃって可愛くないの。でもなんでもないきっかけで、意外と世の中うまくいくものよ?」

そう言いながらウェイトレスは私のテーブルにこじんまりとしたケーキ箱を乗せました。

「これはマスターからのサービス~。良い加減お手伝いさんと仲直りして、辛気臭い顔で埋めてる特等席を空けろってさ」

ウェイトレスはウィンクしながら、キッチンの奥に立つマスターを指し示しました。この店中に己の境遇を心配されているのかと思うと情けなくて、私は思わず天を仰ぎました。


原稿を抱えるように鎌倉駅まで走って電車に乗り、私は由比ヶ浜駅まで戻ってきました。電車を降りると雨はいよいよ酷くなっていて、私は藤波に傘を頼んで良かったとつくづく思いました。改札を出た駅の軒先には、先客が一人いました。

おかっぱ頭の女学生が一人、途方に暮れたように空を見上げていました。私はとくに声を掛けるでもなく、同じようにただ振り続ける雨を見ていました。彼女も誰かの迎えを待っているのでしょうか。それとも、傘を忘れて成すすべもなく雨が止むのを待っているのでしょうか。

そんなことを考えていると、向こうの道から藤波がやってくるのが見えました。藤波は自分の傘を差しながら、もう片方の手に私の傘を抱えています。

「おそくなりました」

「いや、迎えに来てくれて助かった」

ぎこちない手つきで藤波から傘を受け取って、私は藤波に礼を言いました。何気ない言葉のやり取りのはずなのに、どうにも緊張していけません。

ふと、隣にいた女学生に目をやると少女は憂うように視線を下へと向けていました。

「……なあ君、迎えは来るのかい?」

私が話しかけると、少女はびくりと肩を震わせて首を横に振りました。

「雨が止むのを……待とうと思って……」

雨音に消え入りそうな声で少女が言います。どうしたものかと藤波と顔を見合わせます。藤波が、仕方が無いと言うように肩を竦めたのを見て、私も頷きました。

「ねえ君、雨が止むのを待っていては夜になってしまうよ。私の傘を貸すから早く帰りなさい」

「え、でも申し訳ないです!」

 少女は恐縮したように身を竦めます。

「遠慮してはいけない。それに、ここに立っていたってことは、君は由比ヶ浜の子だろう?ご近所さんなら助け合わねばね。傘は晴れてから、ここの駅員に預けてくれてば構わないから」

半ば押し付けるように少女に傘を渡すと、少女は悩みながらも傘を受け取ってぺこりと頭を下げました。

「ありがとう……。あの、お名前を聞いてもいいですか?」

「私は月岡と言います」

「きっと傘はお返しします。本当にありがとう、月岡のおじさま!」

おじさま、と呼ばれて私は少しだけ面食らいましたが少女は傘をさすと急ぎ足で家路へと駆けていきました。

「おじさま、ですって。お前も歳を取りましたね、倫太郎」

「からかうな。私はまだ二十代だぞ」

くすくすと笑う藤波を軽く小突いて、私はふくれっ面を仕舞いました。

「それで?格好つけて傘なんか貸しちゃって。どうやって帰るおつもりなんですか?」

「お前の傘に入れてくれ。原稿が濡れなければそれでいいさ」

「わかりました」

藤波は少しだけ傘を掲げて、私を傘のなかに迎え入れてくれました。雨の中、肩を寄せ合うようにして私たちは帰途につきます。いざ歩き出すと、また二人とも無言になってしまい、雨音が布地を叩く小気味いい音が傘の中に響きました。

「……今日は夕方から雨だと、ラジオでも言ってたのに、どうして傘なんて忘れたんです?」

「ラジオを聞きそびれたんだ」

「……そうですか」

由比ヶ浜の隣を通り過ぎで、山へと昇る坂道を歩き始めると、上から流れてくる砂と雨水が私たちの足の間を通り過ぎていきました。

どこかの家に植えられた金木犀の花の香りが、冷たい風に乗って傘の中へと舞い込んできます。

寒さにくたびれた足をゆっくりと進めていると、ふと、藤波が口を開きます。

「ねえ倫太郎。聞きたいことがあるんです」

「……なんだ?」

一体何を聞かれるのだろうかと、私は身構えました。少しして、躊躇うように藤波の唇が震えました。

「倫太郎は……私を怖いと思ったことはありますか?」

どうして藤波がそんなことを聞いたのでしょう。不思議に思って顔を覗き込もうとしましたが、長く伸びた亜麻色の髪で隠れてよく見えません。仕方なく、私は思ったままに答えました。

「……ない。藤波を怖いと思ったことは、一度も無い」

私の言葉に藤波が立ち止まったので、私も歩みを止めます。静かな雨音だけが、私たちの周りにありました。

藤波は、眉根を寄せて、今にも泣きだしそうな紫の目で私を見上げました。

「……おかしな人ですね。普通は、不気味に思うものですよ。お前と違って俺は歳を取らず、姿も変わらず。両の手は触れるものの寿命を好き勝手に弄ぶ。いつかは自分の命までも脅かされるかもしれないとは、考えないのですか?」

言われてみて、初めて、私は藤波の力のことを考えました。あの夏の日、蝉の命を奪って蝶を生かした藤波の力。それはきっと恐ろしいものです。ですが私はそれを怖がったことなど、一度もありませんでした。

「……そんなことは、考えたこともなかった。だって藤波が私に触れる手は、ずっと優しかったから」

私の言葉に藤波はころりと、涙を一滴零しました。

「お前は藤波だ。確かに人ではないし、不思議な力もある。だけど私は一度だって、それを不気味だなどと思ったことはない。私は、お前の優しいところが好きなんだ」

嘘偽りの無い真っすぐな言葉が、自然と口から出てきました。改まった告白とは、胸の大騒ぎするものだと思っていたが、私の心は不思議と凪のように静かでした。

「……倫太郎、お前はきっと俺と小さい頃から一緒にいるせいで感覚がおかしくなっているんですよ」

藤波は呆れたように、自嘲気味に笑ってこぼれた涙を拭いました。

赤くなった瞼をしっかりと開けて、藤波はアメジストの目で私を真っすぐに見つめます。

「俺、お前の気持ちには答えられません」

失望するような、ですが同時に分かり切っていた答えでした。

「それでも構わない。藤波が私の愛に応えなくても、私の心は変わらない」

毅然と答える私に藤波はこくりと頷いて、そうしてようやく、いつものように呆れた笑みを浮かべてくれました。

「……わかりました。負けました。それならもう、お前の気の済むまで、そうしていなさいな。倫太郎」

それが藤波から貰える、精いっぱいの答えでした。ですが、今の私にとっては十分すぎる答えでした。

「うん。そうする」

私たちは再び、雨の中を歩いて家へと帰りました。

抱え込みすぎた原稿は少しだけ皺が寄っていたものの、中身は無事でした。それと、ウェイトレスのくれたケーキ箱を開けてみると、中には二切れのレアチーズケーキが入っていました。

その日の夜。雨の上がった縁側から、海の上に上がった満月を眺めながら私たちはレアチーズケーキを食べました。マスターのくれたレアチーズケーキは、固めのタルト生地に乗った白いムースがとても甘く、そしてほんのちょっぴり酸っぱかった。

「……ちょっと変わった十五夜ですね」

「……そうだな」


次の日からは、私たちはまた元通りになりました。

少し変わったことと言えば、藤波が以前のように結婚を急かさなくなったことくらいでしょうか。

いずれにせよ、私は人生で初めての失恋を経験しました。願っても無いほどに、穏やかな失恋でした。


#


あくる春、名取が再び家を訪ねてきました。

久しぶりに出会う名取は以前とは少し違う雰囲気で、強気な化粧が少しだけ柔らかくなっているようでした。 

桜の見えるように客間の窓を開け放った客間で私たちは名取の持ってきたマドレーヌでお茶をしている時に、彼女が朗らかに笑って言いました。

「私ね、結婚するわ」

藤波の淹れてくれたお茶を思わず吹き出しそうになりましたが、なんとか耐えました。嚥下した喉が熱湯に焼けてしまって、しゃがれた声で私は聞き返します。

「だ、誰と?」

「月岡くんの知らない人。年下の男の子でね。この春に貿易の会社に入って社会人になったからと、プロポーズされたのよ」

名取は幸せそうにくすくすと笑いながら言います。カップを持つ彼女の左手の薬指には確かに、細い銀の婚約指輪がはまっていました。

「まあまあ!おめでとうございます名取さん」

藤波が嬉しそうに笑います。

「式はいつあげるんです?」

「五月よ。それで今日はね、月岡くんに招待状を持ってきたの。もちろん来てくれるわよね?」

「ああ、当たり前だ。おめでとう、名取」

私は心からの祝福を名取に送りました。しかし同時に、あの夏の騒動は一体何だったのかと拍子抜けしてしまったのは秘密です。

「うれしい。ありがとう月岡くん。それと、藤波さんもよかったら出席しないかしら?」

まさか名取が藤波まで招待したがるとは思っていなかったので、私と藤波は思わず顔を見合わせました。

私は可能であれば藤波を連れてってやりたいですが、果たして藤波はどうでしょうか。

「……せっかくですが、遠慮させていただきます。俺がいては、先生も羽目をはずせないでしょうから」

「あらそう……残念だけど仕方ないわね」

藤波は申し訳なさそうに首を傾げながら名取に謝る。それに対して名取はがっかりしたように肩を竦めました。

「結婚式のことに絡めてもう一つ、お願いがあるの」

名取は鞄をごそごそと漁り、一台のフィルムカメラを取り出しました。銀の機体にレザーの覆いが巻かれたカメラは新品そのもので、キャップを外すと傷一つないレンズがきらりと光り輝きました。

「結婚式でお友達との写真を使ってスライドショーをやろうと思って過去の写真を探してたんだけど月岡くんの写真だけ全然いいのがなかったのよ!」

名取はわざとらしく頬を膨らませながら言います。

「そうかな?集合写真とかはよく撮っていたんじゃないか?」

「どれも小さくて月岡くんの顔なんて分かんないわよ。数少ないスナップショットだって、半目かブレてるやつばかりだったの。だからね、今日は私と一緒に写真を撮って欲しいのよ。今をときめく月岡大先生とのお写真なら、編集者として箔がつくしね」

にやりと笑う名取につられて私も思わずくすりと笑ってしまいました。

「お前は昔から、そういうところは調子いいよな」

「いやだった?」

「いいや。いっそあっけらかんとしていて、友として好ましく思うよ」

 名取はふふふ、と満足そうにうなずきました。

「そう来なくちゃ。早速撮りましょう!藤波さん撮ってもらえるかしら」

「ええ……構いませんが……僕はこの手の写真は不得手でしてねえ……」

藤波は名取から恐る恐るカメラを受け取り、落とさないようにためつすがめつした。

この家にはカメラがありません。数少ない私の写真も学校行事や友人との遊びで取られたものか、卒業や入学と言った節目に撮ったものばかりでした。そういえば、藤波の写真は、一度も撮ったことがありません。

「大丈夫よ。シャッター押すだけだもの。しかもこれ、タイマーがついている優れものなの」

そうだ、と名取が手を叩く。

「藤波さんも一緒に撮りましょ!」

名案だとばかりに藤波の手を取りながら名取が言う。藤波は当惑したように首を振る。

「ええ?でも結婚式に周りの誰も知らない男の写真があったら変ですよ」

「それじゃあ、私の個人的な思い出として、一緒に映ってくれない?結婚式に来られない代わりとしての。ね?」

「でも……」

「お願い!ね、この通りよ!」

ぐいぐいと迫る名取の態度に押し負けて、口籠る藤波はなんだか珍しいような気がしました。

「……それじゃあ、一枚だけなら」

「やった!嬉しいわ藤波さん!」

結局、名取の圧に押し負け、藤波も写真に映ることになりました。

庭の桜と海の見えるところを背景にしようと、私たちは縁側に本を積み上げて簡易的な三脚を作り、その上に名取のカメラを乗せました。

名取がうまい具合に調整してくれる間、藤波は目に見えてそわそわと所在無げにしています。

「……俺なんかがカメラに撮られて、写真に変なものが映ったりしないでしょうか?」

「何を馬鹿なことを言っているんだ。そんなわけないだろう」

「でも、心霊写真なんてものがあるくらいですよ?縁起が悪くなったりしないでしょうか……」

藤波は本気で心配しているようで、私はなんだかおかしくて噴き出してしまいました。

「だったら日本初の、本物の心霊写真になるかもしれないな。藤波はお化けだから」

意地悪くそう言うと、藤波が怒ったように睨みつけて来ましたが、気にしません。

「きっと世界一綺麗な心霊写真になる」

藤波は私の口説き文句に驚いたように目を見開き、すぐに呆れたように口角を持ち上げました。

「……馬鹿なことをいうんじゃありません」

カシャリ、とシャッターの音が切られた音がして名取の方を見ると、名取はにやにやと笑っていました。

「あら~?ごめんね、間違えてシャッターを押しちゃったみたい!もう一回調整するね!」

藤波は良く分からないようで、首を傾げていますが、私は名取がわざとシャッターを切ったのだと分かって苦笑いしました。

「よし、今度こそオッケー!いくよー!」

名取が慌ただしく走ってきて、私の隣に立ちました。カシャリと音がして再びシャッターが切られます。今度はうまくいったようでした。


その後、私は約束通り名取の結婚式に出席しました。初めて見る西洋式での結婚式はとても煌びやかで、やはり藤波も連れてくれば良かったかと思ったほどです。

緊張した年下の新郎の隣で、白いウェディングドレスを纏い、誰よりも幸せそうに笑う名取は、世界で一番綺麗な花嫁だったことでしょう。

あの時撮った私と名取の写真は披露宴の見ることができました。新婦と新郎のこれまでを紹介するスライド写真に使われていたのです。

私は大学時代からの友人の一人として、紹介されました。月岡の名を呼ばれた途端に、名取の同僚数名に振り向かれたのは少しだけ気恥ずかしくもありましたが、三人での写真撮影の後に藤波が撮ってくれた写真はちょっぴりぼけていて、それがまた笑えて来ました。

帰り際、引き出物の折詰と一緒に名取は一通の封筒を寄こしました。家へ帰ってから封筒の中身を空けてみると、中には結婚式へ来てくれたことの感謝の手紙と、二枚の写真が入っていました。

一枚は、私と藤波と名取で取った三人の写真。そしてもう一枚は、私と藤波の写真でした。

……私は、こんな顔をしているでしょうか?

写真を見ていると、頭から湯気がのぼりそうになります。

小さな紙の中にいる私は、藤波の隣にいるというだけで、世界の誰よりも幸せそうで、しまりのない腑抜けた顔をしていたのです。

この写真を見たらきっと名取でなくたって、私が誰を想っているかなんて分かるでしょう。

私は親友に白旗を上げながら、自室の畳の上でもんどり打ちました。

「ちょっと倫太郎、せっかく上等なモーニングなんですから畳に擦り付けないでください!」

私の部屋の前を通りがかった藤波から叱責の声が飛んできます。まったくなんて酷いやつでしょう。私がどれほどお前に心酔しているのか知っているくせに、モーニングコートの心配ばかりをするのです。

私は藤波と私の写った写真をそっと鍵付きの引き出しへと仕舞いました。

こんなものを見られては叶いません。

なにより、私のことを振った男にこの写真を見られることが癪でなりませんでしたから、これは墓場まで持っていきましょう。



1989年 春


気が付けば、私も五十を近くなりました。

近頃は、バブル景気だとかで、世間はおおい賑わっているようです。

かくいう私もこの好景気にあやかり増して、先日念願だったポルシェを買いました。

憧れの赤いスーパーカーで近所を走ると、あっという間に小学生のヒーローになれるので大変愉快です。

意外なのが、藤波も免許を取ったことです。免許を取るために必要な戸籍などといったものはどうしたのかと訊ねると、戦後の混乱に乗じて兄の戸籍を誤魔化していたので、それを使ったと言うので、驚きました。

藤波は私が思うよりもずっと小賢しい生き方をしていたようでした。

赤い車を運転する藤波は少し格好良くて、私よりも車に似合っているのがほんのちょっぴり、羨ましく思います。

小説を書かない日には、時折湘南の道を二人でドライブへ行くこともあります。行きは私で、帰りは藤波でといった具合に交代で運転するのが私たちのひそやかな楽しみになっているのです。

ある日、江の島まで行った帰りの車で、私は開いた窓にもたれ掛かりながら少しばかり微睡んでしました。夕刻の時間帯の風は少し冷たくもありましたが、薄桃に染まる空を眺めながら風に当たるのは爽快でした。

ふと、藤波がなんてことの無いように、私に訊ねます。

「そういえば倫太郎。お前、今年で五十になりますけど、本当に嫁をもらわなくていいんですか?」

久方ぶりに聞く質問だな、と思いながら私は座席にもたれ掛かるついでに背伸びをして答えます。

「気が変わるまでそうしていろと言ったのは、藤波じゃないか」

「そうは言いましたけど、もう大分時間が経ってしまったじゃないですか。……お前も、もうすぐ、若くないと言われるような歳になってしまうんですよ?」

いつもの呆れ笑いで藤波は言います。

「もうとっくになっている。誰かさんが答えてくれないせいでな」

「まったく、相変わらず憎まれ口を叩くのだけはうまいんですから」

そう言う藤波は、昔ほどがっかりした様子もなく、まんざらでもないように見えるのは、私の希望的観測でしょうか。ですが、人生は短いのですから、それくらいの夢を見ても罰は当たらないでしょう。


そうそう。それと、最近担当の編集者が変わりました。

保志野さんという女性の方で、流行りのかっこいいレディーススーツにブランドバッグを下げて、唇に真っ赤な口紅を引いた派手な女性です。

まだ若い方なのですがやる気に満ち溢れていて、新作の打ち合わせも大変よくしてくださいます。しかし困ったことに、保志野さんは私のことをやたらに知りたがり、仕事に関係のない話をしたがるのです。

仕事終わりにいつまでもうちに居座るので、近頃は藤波も辟易しているようでした。

今日も冷め切った紅茶のカップを抱えながら、保志野さんがおしゃべりに精を出しています。

「ねえ、月岡先生って美容とかに気を遣ってらっしゃるの?」

「特に何もしていませんよ」

私がそう言うと保志野さんはえー、と声をあげます。

「うっそだあ。だって先生、五十歳くらいなのに、私よりちょっぴり年上くらいにしか見えないもん」

ぴくりと、カップを持つ指が震えました。

近頃、見た目が若いというようなことをよく言われるようになった気がします。流石に髪も白髪が増え始めて、昔のような体力もありませんが、言われてみると私は同い年の友人たちと比べて、少しばかり肌の張りがあるようにも思いました。

もしかするとこれも、藤波の影響によるものかもしれません。


藤波はもちろん、昔と同じままです。

ずっとあの象牙菩薩のような美しさを保ったままで、彼だけが時間に置いてけぼりにされたままのようでした。

数年前までは付き合いの長い友人やご近所に会っても若作りなのだと誤魔化していましたが近頃はそう言うわけにもいかず、藤波は以前にも増して外との付き合いを避けています。特に初対面の編集者なんかには「父の代から月岡家で幼い頃から家の手伝いをしているのだ」と言うようになりました。ですので、保志野さんも藤波のことは少しも疑問に思っていないようでした。

「どうしても教えてくださらない?先生の若さの秘訣」

「秘訣も何もありませんよ。ただ早寝早起きをして野菜を食べているだけです」

あながち、嘘ではありません。私のやっている健康法といえばそれくらいのものでしたから。

しかし保志野さんは納得がいかないのか、頬杖をつきながら駄々を捏ねています。

「保志野さん、ここは喫茶店じゃないんですよ。少しは弁えていただけませんか?」

少しきつめに嗜めても、保志野は頬杖を止めるだけでにやにやと笑っています。

「えーじゃあ一緒に喫茶店行きましょうよ。あたし、先生のお話を聞くのが好きよ?」

「……仕事をしなくていいんですか」

「今日はこのまま直帰だもの。月岡先生、お仕事の話が早いからもう終わったようなものです」

仕事が終わったのなら早く帰って欲しいと思いました。私はこの女性のことが、どうにも苦手でした。

見兼ねた藤波が客間の入り口から声をかけます。

「保志野さん、先生はこのあと別の出版社と打ち合わせがありますので……」

「えー、先生ほかの出版社でも書いてるんですか?浮気者だー」

保志野は文句を言いながらようやく帰り支度を始めてくれました。重たそうな鞄を肩にかけて、保志野は私に振り返ります。

「ねえ先生、今度は外で打ち合わせしましょうよ。出版社がお茶代出しますから」

「……考えておくよ」

適当にあしらって、私たちは保志野が帰るのを見送りました。どっと疲れが出て、私は今のソファーに深く沈み込みます。

「……倫太郎、編集長に言って担当を変えてもらったらどうですか?」

藤波がお茶を片付けながら進言します。

「そうは言ってもなあ。こちらも随分と無理を言っているから……」

藤波のこともあり、私は編集部にあるお願いをしていました。

私の担当編集をできるだけ女性にして欲しい、と言うものでした。

彼女たちに失礼であるとは分かっていますが、女は結婚して、子どもを産みます。そうなれば自然と、仕事から離れ、私たちからも離れていくのが常でした。

それに藤波の力で祝福を与えた女は、その身に命を宿せる。そう藤波が言うので、私たちは力を使い、周囲にいる人間を、必要以上に自分たちの傍に近づけさせないようにしました。

残酷なことをしたと、分かっています。ですが女の身で仕事をなさる方は、子供ができれば必ず、その身を仕事から家に置く。新しい命を前に、私たちのことを覚えている余裕などなくなる。

そうして何人もの女性を私たちの元から去らせていきました。

案外、うまくいってしまったものです。巷では「授かり先生」などというあだ名がついていたようですが、構いません。

傍から見れば私のような男に、そのような不思議な力があるとは思わないでしょうから。

ただ、二十年前とは様子も変わったのでしょう。近頃の社会は、女性はお茶汲み、結婚をしたら寿退社をするというわけでもなく、女性の社会参加に精力的な企業が増えてきたと、聞いています。うかうかとはしていられないかもしれません。

「保志野さんは、性格はああだが、仕事はとても早いんだ。編集長に聞いたら実際、とても優秀らしい」

念のため、保志野のことを弁明しますがふうんと藤波はつまらなそうに生返事をするだけです

「俺はあの人、あまり好きじゃ無いですよ。無遠慮で無作法で馴れ馴れしいじゃないですか」

「なんだ藤波、いつもは編集さんに文句なんて言わないのに」

藤波がこんなにも分かりやすく人を嫌うのは珍しいと思って訊ねると、藤波は拗ねたような顔をしてぷいと顔を背けました。

「別に?俺にだって、人の好き嫌いくらいはあると言うことです」

そう言うと藤波はそそくさとお茶を片付けて奥へと引っ込んで行きました。

近頃の藤波は保志野が来るたびにこの有様で、彼女が帰ってからもしばらくは不機嫌な様子でした。ですが私や彼女に当たるわけでもなく、一人で機嫌を損ねているだけなので何もしてやれないのが少しだけ歯痒く感じます。

いっそ保志野と外で打ち合わせようかとも思いましたが、それは良くないような気がしました。

保志野は、時折隙を狙っては私の肩や手に触れて思わせぶりな態度を取るような事があるのです。もちろん私自身は何も思いません。

……いいや、実を言うと少しだけ、困るのです。

彼女の化粧臭い手に触れられるたび、肌が粟立つような不快さを感じます。保志野が私に気があるのではないかと勘繰って、そんなことを考える己に嫌気がさすのです。

何を今更五十を越えた男が色気付いているのでしょう。それも本気にする気のない相手に対してなど。

保志野だって、何の気なしにそうしているように思えます。彼女のような女性は初めてで何かと持て余すことが多く感じますが、近頃の若い人はとても奔放であると聞いています。

あるいは、私が彼女の若さを理解できないほど、歳を取っただけかもしれません。


#

1989年 夏


暑い日差しの日でした。

保志野がいつものようにうちへ来て、打ち合わせをしていましたが、藤波が聞いていたラジオで光化学スモッグ注意報が出たのです。

警報が頻発していた十年前よりはましとはいえ、これほどの警報が出るのは久しぶりでした。念のため、あまり外へ出ない方がいいだろうと私は保志野を引き留め、窓を閉め切って、警報が収まるのを待っていました。

やがて夕方になると警報が解除され、藤波は昼間にできなかった朝顔の剪定を始めました。

保志野も帰り支度をはじめていましたがふと、庭から見える景色に気が付いたようで、縁側の方へと近づいていきました。

「わあ、先生のおうちからだと夕日が海に沈むのが見えるんですね。素敵―」

そういえばこの時間まで保志野がいたことはなかったな、と思いました。

丁度、赤い太陽が湾を越えて稲村ケ崎の山陰に消えていくところでした。

山向こうから漏れる夕日に照らされた海は、オレンジから青に染まる空の色を映して、綺麗なグラデーションを波間に描いていきます。

やがて太陽が沈むと、わずかに残った残り火が空と海を淡い紫に包んでいきました。私と保志野はひと時、夕暮れ時のマジックアワーに見惚れていましたが、ふと保志野がぽつりと呟きます。

「もう、このまま泊まりたいなー」

またいつもの調子が出たと思って私は小さくため息をつきました。

「何を言っているんですか。早く帰らないと暗くなりますよ」

「暗くなっても構わないですよ。その方がきっと都合がいいもの」

保志野は手を後ろに回して、私の方へと歩み寄ってきた。彼女の赤い唇が、悪戯っぽく開かれます。

「ねえ、先生。一緒のお布団に入れてくださいな。夜はまだ、冷えるそうですし」

あまりにあけすけな言い方に、私は唖然としました。

「……保志野さん、揶揄うのも大概にしなさい」

私は少し語気を強めて叱ります。そうやって突き放せば、保志野も悪ふざけしただけと笑って誤魔化すだろうと思いましたが、保志野は私が思うような女性ではありませんでした。

「……揶揄ってなんかいませんよ。あたし、先生を誘っているの」

いつもより静かな声でそう言って、保志野は私の肩に手を置きました。

「ねえ先生。あたし先生のことが好きよ?」

気が付けば、保志野の鼻先が私の顔に触れる位置にありました。油断をしていた私の唇に、保志野の吐息が掛かります。

世界が停まったかのような錯覚がして、「いけないと」思った時、がしゃんという大きな音が庭から聞こえました。その音に驚いて保志野を突き放します。

音のした方を見ると薄暗くなった庭で、藤波の足元に割れた朝顔の鉢植えが転がっていました。

右手に生花挟を持ったまま、藤波は立ち尽くしています。逆光で暗くなった藤波の顔の真ん中で、藤色の目が白目がはっきりとこちらを凝視しているのが見えました。

次の瞬間、藤波が駆けだして、保志野に掴みかかりました。

「きゃあ!」

保志野が藤波に引き倒されて床に転がります。すかさず藤波は右手に持った生花鋏を保志野に向けて振り下ろしました。

赤い赤い鮮血が、辺り一面に飛び散ります。

「藤波ッ!」

劈くような悲鳴が喉からはじき出されました。

私の声に藤波は息を荒げながら顔を上げます。その顔面は蒼白で、我に返ったように藤波は自分の手と保志野を見比べて、ふらふらと後ろへ座り込んでしまいました。

何が起きたのか、頭がパニックになって、現実に戻る数秒が永遠にように感じました。

「…………倫太郎、これはなんですか」

震える声で、藤波が私に問いかけます。

「こんなものを俺は知りません。知らないのに、この女がお前に触れた途端、目から炎が吹き出しそうになる程、脳が灼けたのです……ねえ、倫太郎……俺は一体、何をしてしまったのですか?」

藤波の目は、青ざめた表情とは裏腹に悋気の炎を灯していました。水膜に揺れる瞳は、縁側に転がる女を灼いてしまいそうなほどに強い嫉妬を孕んでいます。

その色に気を取られて一拍、反応するのが遅れてしまいました。

「保志野さん、大丈夫ですか保志野さん!」

慌てて保志野を助け起こすと、保志野は涙を流しながら震えていました。咄嗟に顔を庇ったのでしょう。鋏は保志野の左腕を切り裂いていました。薄手の白いブラウスが、流れる血で見る見るうちに真っ赤に染まっていきます。

「いけない、救急車を……」

「いいえ先生!救急車はだめ!」

叫んだのは、保志野でした。

「止血を……それで、車で、病院へお願いします……救急車は、騒ぎになります……」

保志野は低く息をして、脂汗をかきながら私の目を見て言います。普段のふざけた態度からは感じられない気迫に圧倒され、私はただ頷いて、保志野を助け起こしました。一刻も早く、藤波から彼女を引き離すべきだと考えたのです。

ですが、庭を振り返ると当の藤波は茫然自失としたまま、ただ虚空だけを見つめていました。


車を運転し、鎌倉の大きな病院へと彼女を連れて行きました。病院へ着くころには血は止まり始めていたものの、五針縫う大怪我になってしまったようです。

「一体、どうしてこんな怪我をしたんですか」

処置が落ち着いたころに医者に訊ねられ、私は口ごもりました。家の者が刺したと言えば、きっと警察を呼ばれるでしょう。そうなれば藤波は司法で裁かれることになる。そうなった時に私はどこまで藤波を守ってやれるでしょうか。

そのように身勝手なことを考えていると、私より先に保志野が口を開きました。

「あたしったら、先生のお庭でうっかり転んでしまって。転んだ先に鋏が落ちていて、それで怪我をしてしまったのよ」

いつものおちゃらけた様子の保志野の言葉に。私は瞠目しました。

「保志野くん、何を……」

私が口を挟もうとすると、保志野は私をキッと睨みつけました。

「ね?先生。私何も間違ったこと言ってないわ」

保志野は私に視線で従えと命じてきました。先ほどの気迫と同じような目に私は何も言えず、こくりとただ頷きました。

医者も不注意からの事故として納得し、私たちはそのまま返されました。


保志野を家まで送る車の中で、私たちはしばし黙り込んでいました。

高速道路に入って少してから、沈黙に耐えかねて先に口を開いたのは私でした。

「保志野さん……なぜ、藤波に刺されたと言わなかったんだ?」

保志野は少し悩んだそぶりを見せたのち、伏し目がちに話し始めました。

「……編集と作家の間で起きた刃傷沙汰なんて、週刊誌のいいネタになってしまいます。先生は売れっ子なのだから、あっというまに根も葉もない噂が広がってしまう……私のミスで、あなたの本に傷をつけるのだけはダメだわ……」

自分が刺されたと言うのに、保志野は冷静そのものでした。まるで人が変わったかのような態度に、私は驚きました。

「あたし、浅はかでした……。同い年の男の同僚たちが次々に昇進していく中で、私だけずっとヒラのままだったのに、焦っちゃったんですよね。作家先生とお近づきになれば、ラクに出世できるかもなんて甘い考えで……一方的に押しかけて既成事実を作ろうとしたんです」

聞きながらとんでもないお嬢さんだと今更に怖気が走り、私は思わず顔を顰めました。

「先生が迷惑がっているのは分かっていたけれど、一度寝てしまえばこっちのものだと思ったんです。馬鹿な女でしょう?でも、それでしか男に勝つ方法を知らないんです。私」

自嘲気味に、保志野は鼻をならしました。

もしかすると彼女はそうやって、今までも生き抜いてきたのかもしれません。男だけが活躍できる社会で、女が武器にできるのは己だけということでしょうか。

「藤波さんが先生のことを好きだなんて、考えもしなかった。……あの人に刺されて『あー私、ほんとに愚かだったんだ』って、急に頭が覚めたんです。まあ、血が抜けたせいってのもあるかもしれないけど」

冗談交じりに保志野は言いますが私はひとつも笑えませんでした。

軽はずみに自分を使う保志野も、突然悋気を起こして人を傷つけた藤波も、そして、何もできずにただ見ていることしかできなかった自分も、全てに腹が立っていました。

高速道路のランプが明滅するように次々と後ろへ消えていく様が、カーブミラー越しに流れていきます。

悔恨と憤怒と罪悪だけが、永遠と私の中に蟠っていました。

「……私が言うのもなんですが、どうか自分を大切にしてください」

精いっぱい言葉を選んだつもりでしたが、保志野が噴き出したように笑いました。

「ほんと、どの口がって感じになっちゃってますよ。月岡先生」

 またしばらく、無言の時間が続きます。

高速道路を下りて、彼女の住まいへと向かうした道に入ってから、保志野が私に問いかけて来ました。

「ねえ、先生。あなたは一体、何と暮らしているんですか?」

 保志野の口元は笑っていましたが、伏した目は恐れの色に染まっているのが分かりました。

「藤波さんに掴みかかられた途端、体中の力が抜けたんです。腕を動かせたのが、運がよかったってくらい。まるで、私の血が全部抜き取られていくみたいな……生きる力が失われるような感覚がしたんです。……あの人、きっとただの人ではないでしょう?」

「…………」

どう答えるべきか、私は随分と悩みました。

 おそらく保志野はあの時、藤波に命を奪われたのでしょう。それがどれほどのものかはわかりません。もしかすると、彼女の命は随分とすり減らされたのかもしれません。

 しかし、私は藤波の罪を理解していながら、どうしてもそれを言うことができませんでした。

「……教えられない。ただ藤波は、私にとっては誰にも奪われたくないものです……」

振り絞るような私の答えに、保志野は「ふうん」とだけ答えました。

「先生も、藤波さんにぞっこんでいらっしゃるのね。本当に、私の入る隙なんて、どこにもなかったんだわ」

 保志野は深く息を吸って、背筋を伸ばしました。

「……わかりました。月岡先生がどうしてもとおっしゃるのなら、これ以上は聞きませんわ。……ただ、もし今際の時に、私にだけ真実を教えてもいいと思ったのなら、きっと教えてくださいね」



保志野を東京の家まで送り、鎌倉の家へ帰ると時刻はまもなく日を跨ぐ頃でした。

玄関の灯りに照らされて、ようやく私は自分の服が血で汚れていることに気が付きました。服を着替えて家の中を見回ると、中は暗く、縁側の窓も空いているようです。

「…………藤波?」

暗い家の中へ藤波の名を呼び掛けてみますが、返事はありません。

不思議に思い、庭のほうへ行くと、そこには血で汚れた服のまま、縁側に座って空を見上げている藤波の姿がありました。

もしやずっと、何時間もそこでそうしていたのかと心配になり、私は藤波に歩み寄りました。

「…………藤波。大丈夫か?」

私が問いかけても、藤波は答えません。まるで魂が抜け落ちたかのように、ただ黙り込んでいます。

風音が私たちの間をすり抜けていく音だけが、しばらく聞こえていました。ふと、風に混ざって藤波の唇から音が漏れました。

「ふふ……ふふふふふふ…………あはははは………」

藤波は、笑っていました。狂ったように顔を覆ってまた静かに黙り込みました。

長い長い沈黙の後、ようやく藤波は口を開きます。

「……ごめんなさい倫太郎……………自分でもどうしたことか、よく分からないのです。お前があの女と番になることは、私にとっても喜ばしいことのはずなのに。あの女がお前に触れた途端、どうしてか、嫌だと思ったのです………。俺のものではないはずなのに、俺のなにかが奪われる気がして、怖かったのです……」

低い声で、藤波は私を見ます。苦悶の表情で眉間に皺を寄せ、藤波は自らの薄い胸を押さえました。

「ここが、苦しいのです。あるはずの無い心臓が煮えたぎっていて、臓腑の奥まで焼けただれそうなのに、どうしてか寒いのです。………本当は、どうすればお前や、あの女への罪を贖えるかを、それを考えなければならないのに。それができないのです。浅ましい心が、どうしたらお前に愛してもらえるか、そればかりを考えるのです」

藤波は手を伸ばして、私の手を掴みます。その手は氷のように冷たくて、もう片方の手で触れてやらねば、今にも死んでしまそうな気がしました。

藤波は私の手を縋るように握りしめ、そっと自分の頬へとすり寄せました。掠れた声が、私の耳殻に響きます 。

「寒いのです。倫太郎。どうしようもなく寒い」

心臓が、震えるとはこのことでしょうか。長年私の中で折り重なった仄暗い感情が沸き上がって、黒煙のように思考を奪っていきます。

私はもう、保志野のことなど気にかけていませんでした。

ただ目の前にいる、美しい化け物に捕らわれて、動くことができません。

「倫太郎。どうか俺に情けをください。お前の熱が、欲しくてたまらない。俺の正体がなくなるまで……骨も身も砕くほど、強く抱いて……!」

アメジストの目が、深い紫になって涙に揺れる。夏の夜だと言うのに、どうしてか薄ら寒い宵でした。

私は自らの腕に縋る化け物を両の腕で抱きしめて、それが己と同じ、寂しい魂の形をしていることに初めて気が付いたのです。

どちらからともなく、私たちは互い唇を奪い合いました。藤波の柔らかな唇に触れると、湯に触れた陶器のように、徐々に熱を帯びていきます。

お互いの体温を写し合うように、私たちは一つになろうとしました。孤独な魂と魂がぶつかって、少しずつ互いの刺をそぎ落として、東の空が白み始めても、私は藤波を離しませんでした。


「ねえ……倫太郎。どうして俺を、諦めてくれなかったのですか。お前が諦めないので、俺はお前の愛を望んでしまった。手に入れても、指の間からこぼれ落ちていくものが欲しくて欲しくてたらなくなってしまう……」

私の腕の中で、藤波はすすり泣くように嘆息しました。藤波は、怖いのでしょう。愛を消えるものと知っているから、失うことを恐れてはじめから触れようとしないのです。しかし、藤波は触れてしまった。気が付いてしまった。私たちの間にあるものが、どうしようもなく、手放しがたい祝福であるということに。

私は藤波の亜麻色の髪に口づけながら、ずっと前から決めていた答えを口にします。

「藤波。堪忍してくれ。私はお前に、共に滅びてほしいのだ」

隠し続けていた私の思いに、藤波はただ黙って、こくりと頷きました。




2000年 五月


先日、久方ぶりに保志野さんとお会いしました。

新世紀を迎えた記念として、今年はいつもより大きな会社記念パーティーがあったのです。私はいつも通り欠席するつもりでしたが、担当の編集と編集長にどうしてもと言われ、出席することにしました。

久しぶりのパーティーでは、昔の編集担当や、顔見知りの作家ともお会いできて、なかなかに楽しくはあります。……何名かの同世代作家が、既に早世していたと知るのも、この仕事ならではかもしれません。

こうして同世代の中へ混ざりこむと、自分の若作りが異様に思えるような気がしました。誰もかれもが久しぶりに会う私の見目に驚き、そしてお化けでも見るような顔をするのです。

私は六十歳を越えますが、見た目だけであれば十から二十、若く見えるようですので、私は少しだけ、自分が化け物にでもなった気持ちになりました。

「おや、お久しぶりです。月岡先生」

「……ああ、保志野さんでしたか」

先に声を掛けてきたのは保志野でした。

恥ずかしながら、一瞬彼女が一体誰であるのか、分かりませんでした。すっかりと落ち着いたスーツを着て、顔も十年前よりは少し老けたようでした。それでも、強気な色のルージュを引いた唇が、彼女を彼女たらしめているのが、はっきりとわかりました。

あの事件の後に保志野のほうから担当編集の変更を申し出たようで、あれ以来、彼女には会っていませんでした。

「本当にお久しぶりです。十年ぶりくらいですかね」

つい固くなる私に対し、保志野はくすりと笑ってみせました。

「そんなに畏まらないでください、月岡先生。あなたはいまや、うちの看板作家なんですよ?」

保志野が髪をかき上げようと左手を上げた時、ちらりと袖口にヒビのような傷が見えて、私はすっと心の臓が冷えたような気がしました。

「……傷は、消えなかったんですね」

「ああこれ?気にしないでください。あれは全部、身から出た錆ですから」

保志野はそっと左手を隠すように押さえました。

「本当に、若気の至りというには愚かなことをしたと思っています。あなたを襲ったりして、本当にごめんなさいね」

謝るべきはこちらのはずなのに、申し訳なさそうに眉を寄せて保志野は微笑みます。つくづく、強い女性です。

「そうそう、最後に。今の私は保志野ではありません。結婚して名前が変わりました。今は朝比奈と、そう呼ばれています」

保志野の左手の薬指には、銀色の指輪がはまっていました。

そう言えば、藤波に装飾品を送ったことはないなと、私はその時場違いにも考えてしまったのです。



パーティーの帰り道。新宿駅での乗り換えでふと、私はジュエリーショップへ寄ることを考えました。こんな時間にやっている店などあるだろうかとも思いましたが、意外にも新宿の夜は賑やかなものでした。

浅葱色の看板のジュエリーショップに駆け込んで、私は指輪を二つ買い上げました。

何を考えているのだろうと、想いながら、浅葱色の袋を抱えながら私は電車に乗って帰途につきました。

ですが同時にどこか緊張と浮かれた気持ちが私を高揚させてくれたように思います。

家へ帰ると、藤波はもう寝る支度をしていました。昔から着慣れた着物姿に、三つ編みを下ろした姿は、あの日やぐらで出会った時を思い出させるようで、不覚にも鼓動が早くなりました。

「おや、今日はもう帰ってこないのかと思いましたよ」

「そうはしゃぐような歳じゃないさ」

平静を装いながら靴を脱ぎますが、私の胸は年甲斐もなくどくどくと強く脈打っていました。下手をするとこのまま心臓発作で死ぬかもしれません。どうにか落ち着こうと深呼吸をして、私は藤波を縁側へと呼びました。

「なんです?なにかいいものでも買ってきたんですか?」

「ああ、うんまあ。そんなところだ。」

縁側に座ると、藤棚の花が風に揺れているのがよく見えました。

藤波は私の隣に座って、次の言葉を待っています。私はぎこちない手つきで袋から手のひらに収まる小箱を取り出して、藤波の前に差し出しました。

流石の藤波も、それがなにか気が付いたようで、驚いたように目を丸くしていました。

「……私たちには、必要のないものかもしれないと思ったが、一度くらいは形にしても構わないだろうと思ったんだ」

取り繕ったような言い訳をしながら、私は小さな箱を空けました。藤波が、小さく息を飲むのが分かります。

箱の中には月の光に照らされて、二つの銀色の指輪が光を帯びて輝いていました。シルバーだけで作られた指輪には、波を思わせるような流線形のデザインが施されています。

藤波は、揺れる瞳で指輪を見つめてそして、幸せそうに笑いました。

「……憑き化け物が、一体何に愛を誓うというんです?」

「それはお互いにで、構わないだろう」

私も笑って、藤波の左手を取り、指輪の片方を薬指へと通しました。いつもよく触れる手でしたから、大きさはぴったりと合っていました。

藤波は嬉しそうに左手を月に翳して「綺麗」と呟きました。

「失くしてしまわないようにしないと、いけませんね」

「失くしたって構わないさ」

「嫌です。これはずっと、大切にします」

左手をぎゅっと握りこみながら藤波は言います。

「いつか来る滅びが俺たちに訪れるまで、絶対に失くしません」

頬を紅潮させて、アメジストの目を輝かせながら藤波は言います。

やはり、藤波は出会った時から変わりません。ですが、変わったものも、多くありました。

「ねえ倫太郎。お前の手にも付けさせてください」

そう言って藤波は私の左手を取り、薬指に銀の指輪をはめます。

なるほどこれはなかなかに、気恥ずかしくも嬉しいものだと、私は微笑みました。

「……愛している、藤波」

「ええ、知っています。」

でもそれを気のせいとは、藤波はもう言いません。

「俺も愛していますよ。倫太郎」


 私たちの指輪は、紐に通して首から下げることにしました。なにせ左手の薬指に飾りがあると、目ざとい女性編集たちが大喜びして祝福と噂話を振りまいてくれるでしょうから。これは、私と藤波だけの、秘密にすることにしたのです。


#


2020年 某日


蔵の奥から先祖の書いた記録のようなものが見つかりました。どうやら藤波に関するもののようで、内容は要約すると次のようなものでした。

「月岡の岩倉に藤波という憑き物あり。曰く、藤波の呪いは月岡の嫁御に必ず三人の子を産ませる。三人目の子を五つまでに必ず藤波に食わせること。さもなければ、月岡の血は弱まり、血が絶やされることになる。藤波は子を食らうことで弱い月岡の血を強める。月岡の治める土地に命を与える。されど藤波の力がなければ、たちまち我らは滅びる」

……どうやら、私の血筋は体の弱い家のようでした。それを藤波に子を捧げることで、家の者に生命力を与える力の恩恵を受けていたようです。

逆に言えば、藤波がいなければ私の家はとっくの昔に途絶えていたのでしょう。

父の代から考えても、藤波に子が捧げられないまま百年が経つ頃になりましょうか。

私はもう八十歳を越えました。……私の体には、いくつかの癌があるそうです。

進行が遅々としていたため見つかるのが遅くなったそうですが、きっとそれも、藤波の力のおかげなのでしょう。

私は藤波に、私の体のことを話しました。藤波もそれを承知のようで、涙ながらに分かったと頷いてくれました。

私たちの終わりが、もうすぐそこまで来ているのです。


少し強い日差しを涼しい風が冷やす爽やかな昼下がりでした。

藤の花の咲く縁側でひとしきり泣いてから、私たちは二人で肩を寄り添わせました。

そのままぼんやりと過ごしていましたが、ふと藤波が口を開きます。

「倫太郎、俺ね。何度か考えたことがあるんです」

「……何を考えたんだ?」

「……どうして俺は、女の形で生まれなかったのかって、ことをです」

思いもよらぬ発言に、私は呆気にとられました。

「憑き化け物でも、女の姿であれば、お前の子を生めたかもしれないのにね」

例えばの話です、と言い添えて藤波は悲しそうに微笑えみました。私は小さくため息をついて、藤波の肩を抱き寄せました。

藤波がそんなことを気にしているのは、おそらく彼が、数々の女たちに祝福を与えた存在だからでしょう。月岡の始祖から数えて五百年。ここ八十年は殊更に、彼は子を生み、愛を与える女たちを見てきたのです。

命を与えることができても、命を作り出せないことに、歯がゆさでも感じていたのでしょうか。ですが私にとっては、そんなことは必要のないものでした。

「堪忍してくれ藤波。お前が女に生まれたら、きっと月岡の誰かが娶っていたに違いない。……それに結局、お前が月岡の憑き化け物だったから、私はここに在るんじゃないか」

藤波は、少し驚いたように目を見開いてそしてくしゃりと笑いました。

「そうですね……。俺が生まれた先にいたのが、倫太郎であったというのなら、それはきっと良い終わりですね」

藤波が私の胸に肩を預け、ゆっくりとなる心臓の音を聞いています。

こうして穏やかに滅びていけるのなら、きっとこれ以上のことは無いでしょう。

私と藤波は、きっと世界で一番、幸せでした。



この手記を、見つけた時、他者に見せるべきかどうか随分と悩みました。

なにせ手記というにはあまりにも赤裸々な事情が書き連ねてあるものでしたから。

だがどうか許してほしい。なにせ月岡は八十年もの間、誰にも惚気ることができなかったのだ。

この手記を、創作だと思うが、事実だと捉えるかはあなた次第だ。

真実かどうかはあなたたちが決めるといい。それが私からあなたがたに差し上げられる、唯一の贖罪なのだ。

それにこれが世に開かれたとて、俺は一つも困らない。

あなたたちが真実か気づく頃には、月岡も藤波も、もうきっとどこにもいないのだから。



エピローグ 編集者・小山内の偏見2



 晴れた空の下、由比ヶ浜の浜辺を小さい子供が駆けていく。

 最近になってようやく走ることを覚えた小さな命は、親の手を離れてどこまで走れるかを試すことに躍起になっていた。

「待ってー!お母さんから離れちゃ駄目っていったでしょー」

 小山内が慌てて小さな手を捕まえても、娘はそれさえも楽しいようできゃあきゃあとはしゃいでいる。

 いまからこれでは、暴れん坊盛りには大変なことになるかもな、と少し先の未来を憂いながら、小山内は我が子を抱き上げた。


 月岡邸の一件の後、小山内は突然訪れた生理に驚き、慌てて婦人科に行った。

 医者曰く、それまでほぼ動いていないに等しかった小山内の子宮が突然活発化し、不妊状態を抜け出したというのだ。

 医学的には考えられない自然回復を医者は奇跡、と呼んでいた。しかし小山内は少なからず、奇跡の正体を予想できた。

 あまりに突飛な話で誰にも話すことはできないが、「子授け先生」とその愛人のおかげであるかもしれない。

 小山内は帽子で日をよけながら、由比ヶ浜から見える山の斜面を見上げた。

 由比ヶ浜から極楽寺へと延びる道の途には、ぽっかりと土色の穴が開いている箇所があった。


 あの日の台風で、月岡邸の周りには大きな土砂崩れが起きてしまった。 

 救急と消防が駆けつけて、数日にわたる救出作業が行われたが、月岡も藤波も出てくることは無かった。

 月岡邸の横にある崖が、更なる崩落を巻き起こす可能性があると判断し、救出はそこで断念された。

 藤波から預かった手記を朝比奈に見せると、あらかたの予想はついたのか、特に驚いた様子もなく二人の終わりを悼むだけに留まった。

 あの手記が、真実であるかどうかは、小山内たちに確かめる術はない。もしかすると最初から最後まで、月岡というファンタジー作家が頭の中で作り出した恋物語であると言う可能性の方が高い。

 それでも、月岡の担当をした女の編集たちは、誰が真実と明言せずとも、あの二人の恋は実際にあったものだと証言するだろう。


 もしかすると、と小山内は考える。

 彼らは二人だけの場所へ行ったのかもしれない。

 誰にも脅かされることの無い、滅びを迎えるための場所。あの家にはうってつけの場所があった気がする。

「まま!」

 我が子に呼ばれ、小山内ははたと我に返る。

 小さな娘の手には、綺麗な貝殻が握られていた。

「これ、あげう!」

 舌ったらずな言葉と共に差し出されて、小山内は慈愛に満ちた顔で微笑む。

「ありがとー!ママうれしいなー」

 おでこをくっつけて礼を言うと、娘は嬉しそうにえへへと笑った。

「あのねー、ままだいすき!」

 何の脈絡もなく、我が子はそう叫ぶ。

 その言葉に愛が返されることを知っている、自信に満ちた愛情表現だった。

 だから小山内も幸せに目を細めながら、心を込めてその言葉に愛を返す。

「ママも大好きだよ~」

 望もうとも手に入らなかったかもしれない宝物が、小山内の腕の中でもじもじと笑う。

 きっとこの子は、あの二人からの祝福だと、どうしても思ってしまう。

 噂を聞いたときは不気味に思っていても、実際にこの暖かい命を腕に抱いてしまうと、原因などどうでもよくなってしまう。

 きっとこれまでの編集者たちもそうだったのだろう。

 だって彼らがくれたものは、こんなにも美しく、愛しい祝福だ。

 その祝福に感謝して、これ以上詮索するのはやめようと、小山内は娘を抱いて、浜辺にテントを張るのに苦労している夫の元へと戻っていった。



#


 土砂崩れの上には、狂い咲いた藤の花が風になびいて波打っている。

 その向こう側で、山梔子の花が覆い隠すように、崩れたやぐらの入口を固く閉ざしていた。

 その中に、化け物がいるのかどうか。きっと誰も知ることは無い。





先生と藤波・終

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先生と藤波 松田鶏助 @mathudaK

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