第8話

いよいよ、佳穂が恐れていたことが起きてしまった。義清は、そうなる選択をしてしまったことを後悔していた。彼女の宣言に心を揺さぶられて、最優先すべきは彼女の安全であったことを見落とした。


なんとか彼女だけは逃がせないだろうか、という義清の思慮とは裏腹に、佳穂は勢いよく一歩前へ踏み出した。


「義清君の正義は、多分何も間違ってない。ただ、完成されちゃってるんだと思う。」


彼女は、消え入りそうな、だけど確かな声でそう言った。目線は前の二人をまっすぐと見つめていたが、その目は少し涙を浮かべているようにも見えた。


「でも、私の正義はまだ未完成だから、だからきっと私なら……。」


彼女は拳を握りしめた。強く握りすぎているのか、その震えは脚まで及んでいた。


完成。確かに、と義清は思った。正義は普遍的な概念なのだから、当然完成されている。しかし今この正義に、一体何ができる? 彼女を泣かせ、あまつさえ拳を握らせる正義に、自分自身はおろか、自分の守りたいものさえ守れない正義に、どれほどの価値があるというのか。


「……まさしく、完成品の代償というものか。」


彼は呟いた。この期に及んで事実を受け入れ難く思っている自分に、少し嗤ってしまった。今の俺は、正義という甘美な言葉に籠って自ら手を下すのを恐れているだけの、ただの卑怯者だ、と自分自身を貶した。やがて怒りは未練を断ち切った。


彼は今にも飛び出しそうな佳穂の肩に手を置いて言った。


「ありがとう。でも大丈夫、やっと目が覚めたから。ここはどうか、俺に任せて。」


「でも……。」彼女はまだ震えていた。


「それにほら、この前は無様な姿を晒したわけだから。今日こそは格好付けさせてよ。」


努めて明るく振舞った。そうでもしなければ、佳穂の震えが移ってしまいそうだった。


「……本当にいいの?」


「見せかけだけの正義より優先するべきものがあるって、君に教えてもらったから。」


彼女の震えはやっと収まった。一度深呼吸をして、彼女は言った。


「じゃあ、なるべく怪我しないでね。」


「それも含めて善処するよ。」


そう言って三人衆のほうへ向き直った。すると、またしても後ろから声が聞こえた。


「おい、まさか本当にやる気じゃないだろうな。」


「止めてくれるなよ、正和。せっかくの決心が揺らいじまう。」


「もしこいつらと殴り合いなんかしたら、お前が今まで積み上げてきた正義は、一瞬のうちに瓦解するんだぞ。それが本当に理解できているのか?」


「ああ、これっぽっちで崩れるなら、最初から無かったも同然だったってことをな。」


「……なに?」


「つまり、俺たちが崇拝していた普遍的な正義なんてものは、どこにも存在してなかったんだよ。」


「何を言っている。俺たちはいつだって正義という唯一の指針に基づいて行動してたじゃないか。」


「じゃあ、その正義で佳穂ちゃんの笑顔は守れたのか?」


「……。」正和は反論に詰まった。義清は、ここぞとばかりに言葉をまくし立てた。


「俺が傷ついて、あるいは俺が行動をしないことで、佳穂ちゃんが悲しんだり傷ついたりするのなら、それは断じて正義ではない。正義は善だが、最善じゃないこともある。俺は、今ある最善の選択をしたい。」


両者はしばらく睨みあった。片方は非難の目、もう片方は決意の目だった。


「……わかった。そこまで言うのなら、好きにするといい。」


ついに非難は諦観へと変わった。義清は再び男たちに向き直った。


「彼女との涙のお別れは終わったか?」


「心配しなくても、お前の後でたっぷり可愛がってやるぜ。」


義清は一つ大きく息を吐いた。そして、自らを鼓舞するように言い放った。


「お前ら、よく聞け。これは宣戦布告である。」


あるいは、これは革命の狼煙でもあるかもしれない。


「これから俺は、俺の正義を執行する。つまり、お前たちを殴り倒して、この道を押し通ることにした。」


これまでの信念、行動、結果の全てと、決別する。


「だから、お前らはお前らの正義でもって対抗しろ。」


どちらが正しいか、もといこの選択が最善かは、勝敗でもって決するだろう。


「今度は俺の台詞だな。なあ、どんなのが……。」


そう正和に問おうとして、やめた。開戦の口上は、他の誰のものでもなく、自分自身の言葉で言うべきだと思った。


「……まあ、なんだ。こっちには恨みもあるんでね。多少は大目に見てくれよ。」

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