第9話

義清は、威勢良く啖呵を切ったものの、これまで喧嘩というものをしたことがなかった。何度も喧嘩を売られたことはあったが、相手を傷つけまいとそれらを断り、それでもどうしようもない時はされるがままにしていた。そのため、見よう見まねでただ闇雲に腕や脚を振り回すことしかできなかった。


三人の男も最初こそ警戒していたものの、この様子を見て攻勢に出た。しばらくは前回の再演のような状況が続いた。しかし、三人にとって唯一誤算だったのは、義清が全霊を込めて四肢を振り回していたことだった。一つ一つの動作は大振りで避けやすいが、こちらが攻撃するために近づけば当たる危険性は増す。それでもと殴りかかった男の一人の腹部に、ついに拳が直撃した。


「……っ!」男はみぞおちを抑え、膝から崩れ落ちた。


「すまない、痛いだろう!」


彼は謝った。偽りなく、心からの謝罪だった。


「そう思うなら、大人しくやられてろよっ!」


「そういう、わけにも、いかないんでな!」


顔への攻撃を左手に食らいながら相手の襟首を掴み、壁に向かって投げ飛ばした。


「お前らにつけられた、寝てれば治るような傷でも、悲しんでしまう人がいるんだ!」


義清は叫んだ。どのくらいの声で叫んだのか、自分ではわからなくなっていた。


「お前らは見たことがあるか? 人のために泣く人の、そのあまりに儚い涙を。感じたことがあるか? その慈愛の味を!」


地面にうずくまっている男の脇腹に蹴りを入れると、男は壁にもたれかかっているもう一人にぶつかって倒れた。同時に横から飛び蹴りを受け、彼自身も路地の奥へ吹っ飛んだ。


「俺の正義において、あれを許すわけにはいかない。」


よろめきながらも立ち上がり、彼は再び己を奮い立たせるように言った。


「だから、俺はもう負けない。」


それからは、まるで獣同士の争いだった。殴り殴られ、蹴り蹴られ、その場にいる誰にとっても、もはや戦う理由などどうでもよくなっていた。ただ目の前にいる者を自分より早く地面に叩きつけるために、お互いを傷つけ合った。



佳穂にとっては悠久の、他にとっては刹那の攻防にも、終わりが訪れようとしていた。男の一人は立ち上がろうとして体勢を崩し、近くのごみの山に仰向けに倒れた。ごみ箱に頭から突っ込んだ男はそのまま動かなくなった。最後の一人も、朦朧とした意識を立て直す前に、義清の無慈悲な右を顎に受けて気絶した。戦場に立つ者は、ただ一人となった。


義清は、あるいは義清もと言うべきか、すでに疲労は限界に達していた。理性を失った狼のように、ぼやけた視覚の中辺りを見回した。


「正和……?」


正和は路地の外へと歩き始めていた。陽光が眩しいくらいに差し込み、正和の姿がよく見えなかった。


「おい、どこに行くんだ?」


聞こえなかったのだろうかと、今度は強く叫んだつもりだった。正和は立ち止って、


「お前に俺はもう必要ない。」少しも義清の方を振り返ることなくそう言った。


「……そんなことは」


「あるんだ。」


正和は首を振った。視点が定まらない。頭を振っていたかどうかさえ、確証が持てない。


「お前も薄々はわかっているだろう? 俺という存在が、お前が普遍的な正義を執行する際の責任を押し付けるために生まれた、お前の中の幻想だってことに。」


「……。」


「ついさっき、お前は俺を振り切って行動した。お前はもう、行動を自ら決定し、その行動に対して責任を負えるんだ。いや、負わなくちゃいけない時が来たんだ。」


日差しは強さを増し、後ろ姿はついに黒い影となった。彼に応じる言葉を紡ごうにも、何を言えばいいのか、義清にはわからなかった。


「これからは、お前一人でやるんだ。」


正和は強く、そう言ったように聞こえた。それほどまでに彼の声は遠く感じられた。日が陰り、路地の外の景色が見えた。彼の姿はもう見えなかった。


「正和……?」


彼の名前を呼んだ。返事はなかった。あるいはずっと、彼の名前を呼んでいだ気になっていただけだったのかもしれない。

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