現に今を生きているのになぜか「体験版」をしている感覚

脳幹 まこと

あるいはとても贅沢な悩み


 最近、トシのせいなのか、悲観的に見える考えが頭をよぎるようになった。

 そんなはずはない、絶対に間違っていると思いながらも、どうしても否定しきれない考え。


――自分だけ「体験版」を生きているような気がする。


 文章にしてみて、改めて苦笑してしまう。

 今流れる時間も含め、間違いなく「本編」である。お前はたった一つの命を生きているのだ。

 こんなくだらない考えに時間を費やすのはやめろ、と。


 とはいえ、幸か不幸か時間があるので、少しばかり考えてみることにする。



 この考えをもたらしている要因は、技術革新による「便利な世の中」なのだろうと思っている。

 現代の日本は昔の人からすれば、神々の領域に見えるだろうなと、誇張抜きで思っている。

 夜に怯えることはない。空模様を気にする必要もない。

 誰もが何処へでも行ける。美味しいものを腹いっぱい食べられる。衛生面に気を使う必要もない。

 仮想空間が出来上がってからは、物理的な制約すらも乗り越えるようになった。今や、図書館でも収まらないような情報量を片手で、しかも誰もが持つことが出来る。


 何でも出来る……可能性はどんどんと広がってゆく。

 その代償として、経済格差や環境破壊をはじめとした、決して安くはないコストが支払われているのだが、今回は外に置くことにする。



 人生が「遊戯ゲーム」のように見えだした、というと何だか剣呑な感じがするが、でも実際のところ、多くの人がそう考えているのでは? と思っている。

 安定した世界、予想が出来る世界というのは、ゲーム的だ。「世界が開発者、プレイヤーにとってのにある」という意味で。

 スリリングなアクション、予想外なシナリオ、またはカテゴライズされたことのない未知のルールと、いくら脚色し、それにプレイヤーがどれだけ興奮や感動をしようとも、それはゲームである。


 ゲームに見えることに何か問題があるのか。

 ある。ゲームだとすると「楽しみたくなる」し、楽しめないと損だと思って、愚図りたくなってくる。「友達の持っている方をやりたい」とか言い出したくなる。

 ゲームは商品であり、交換・代替が可能なものだから。

 しかし、より根深い問題はゲームの性質上、一人用なら「攻略が出来る」ものだと思ってしまうし、二人以上のものなら「勝ち負けがある」ものだと思ってしまう点にある。

 今回はこの一人用の問題が、私に「体験版」という感覚を与えているのだろうと見ている。



「楽しさ」をどこに見出すかにもよるのだが、私はきっと、与えられたゲームは完全に・・・試してみたいタイプなのだろう。

 しかし、技術の進歩……それによる個人が取れる手段の爆発的な増大により、私は自分の人生が、まったく制御できないものだと知ってしまった。

 世界が広く、その中で自分が小さいのはまだ承知できる。小さい自分を完全に使いこなせばそれで満足だったから。

 だが、他ならぬ自分自身が巨大になり、それを使えないのは承知できないのだ。


「ああ、何と規模の大きい体験版・・・なのだろう」と毒づきたくなる。体験版の先には本編があり、それはそれはやりごたえのある内容に仕上がっているのだろう。

 本来であれば、この類稀なる現代のサービス精神に喜びを抱くべきなのだ。バグ技込みで攻略サイトを使って四六時中プレイしても、本編クリアに到達できない神ゲーの存在を。


 この空しさは、自分の待遇によるものからではない。

 よって、メタバースなどの先進技術が仮に発展して、理想の姿や声になっても状況は多分変わらない。

 むしろ、出来ることが多くなるので、本編との距離は広がるばかりになっていくだろう。

 だってそうじゃないか。いくらバリエーションが増えたからって、そのうちの一つにしか集中できないんだから。下手に複数のモニタを使って同時並行しようとしたら、二兎の例を持ち出すまでもなく、みんなボロボロになるのが目に見えている。

 これから先の時代になれば「本編」を楽しめるかというと、そういうわけでもないだろう。



 満ち足り過ぎたことによる疲れ。

 この如何ともしがたい症状を取っ払うために、私の前には二つの道がある。


 一つ。

 この疲れすらも吹き飛ばすような刺激スリルに身を浸す。


 ゲームであるとか、体験版であるとかは、この空しさとは直接は関係なく、やっているゲームが自分の好みに合わないだけではないか。

 例えば「どうぶつの森」に「グランド・セフト・オート」の要素を期待してはいけないのと同じだ。

 人生における「刺激」となると、犯罪やギャンブル、といったこれまた剣呑なイメージがあるのだが、実際はカッターナイフを指先にあててみたり、自分でも時刻が分からないようにアラームを設定するだけでも発生する。

 刺激とはすなわち予想外なのだ。ゲームによる倦み疲れが「予想可能」であることから起因するのなら、それを超えればいい。恐怖や驚愕はそのうちの一つの例でしかない。


 問題は、時間とともにエスカレートする必要がある・・・・・ことだ。

「ほんの少し」があっという間に致命的な量になるというのは、学生時代に薬物依存のパンフレットか何かで見たことがあるが、

 刺激による興奮が脳内物質によるものなら、同じ刺激を繰り返すことで慣れが生じる。同じ興奮を味わうには、より高度なことをしなければならない。より崖の方向へと近づかなければいけないのだ。

 長期的な目線で見ると「破滅的な行為」と受け取られても仕方がない。



 もう一つは諦めることだ。

 自分が行える実に多くのことについて、その権限を放棄する。

 なまじ出来るから諦めがつかなくなる。ならば止めてしまえば良いというシンプルな理屈だ。

 巨大になった自分の大半を捨て去り、ミニマムな、等身大の自分になることで、人生のゲーム感、体験版感を根本から改善する。


 と書くのは簡単だが、「諦める」というのは実に苦行である。

 周りの評価はどうやっても入ってくるし、先進技術を湯水のように扱う各国の企業達は「今のあなたにピッタリなソリューション」を日夜提供してくる。

 しかも、自分の意志で、姿形も分かっていない自分にとっての「骨子」を見つけなくてはならないのだ。それがこの時代に適応するもの(すなわち「生きやすい」)かどうかすら分からない。


 ひょっとしたら未来のAIは「不適切な情報として候補から消す」という方法を取ってくれて、「諦める」などという苦痛を伴う行為を我々がする必要はなくなるのかもしれない。

 またはソリューションに従うことで、誰もが「自分主役の神ゲー」を楽しめた感じになるのかもしれない。

 ディズニーランドばりの「夢の体験」を損なわない努力、配慮、演出によって、「○○、サイコー!」みたいな映画の感想CMみたいな展開になるのかもしれない。


 それが悪いことだとは思わない。「人生は楽しんだもの勝ち」という理屈でいくなら。



 傷つけあって、殴りあいをして、お互いの気持ちを確かめあう時代があった、らしい。

 熱血漫画と称されるものは、大体あるシーンなのだが、そう言うのを現代の感性で観ると、野蛮だとか下品だとか、とにかく汚いイメージを受けるのだ。

 

……


…………


 なんだろう。なんだか異様だ。

 今までこういった荒れそうな話が浮かんでくるのは、「嫌なニュースを見たから」「自分が冷遇されていたから」「周りと比較して劣等感を覚えたから」という理由だと思っていた。


 しかし、平穏な凪のような状態で、ここまで無感動なものが出てくるということは、どうやら今までの仮説は違っていて、本心でこんなことを思っていたということになるのだろうか。

 ゲームも攻略サイトの台頭もあって、作業的に進める人とかが出たと言っていたし、似たようなものかもしれない。


 しかし、それにしたって……


 自分って、ここまで冷笑的なヤツだったか?

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現に今を生きているのになぜか「体験版」をしている感覚 脳幹 まこと @ReviveSoul

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