本作は、いじめについてのお話ですが、私たちが生きている中で出会ってしまう、様々な出来事についてお話ししています。
私たちは言葉を使って生きていきます。でも……言葉を使うってどういうことなのでしょうか。そこに立ち返らせてもらえるお話です。
あるものと別のものを区別するからこそ、何かを別のものに喩えられるからこそ、言葉は成立するし、私たちは気持ちを伝え合うための動画になる。
でも、その言葉の性質は「あれはいじめて良いもの/悪いもの」、「人間のように見える動物/人間」といった区別をする道具にもなる。
私たちは言葉という道具を使って生きているが、簡単にこの言葉に支配されてしまう。
哲学者ジョルジュ・アガンベンのアウシュビッツについての発言の中に、「悪」を探そうとすることに意味はあっても「悪人」を探そうとすることは慎むべき、といった趣旨の言葉があったと記憶している。他人を動物にしたり、悪人にしてしまうことで、誰かを容易に、かつ、合理的に排除してしまうからだ。
本作は私たちの身近に実感しやすいいじめを話題にしている。しかし、いじめに限らず私たち一人ひとりがやってきてしまったことや、あるいは広く人類がこれまで犯してきた罪に関わるお話をしている。
私たちは、カクこと、ヨムことを愛するからこそ、言葉というものの危うさを踏まえていきたい。何気ないところでもこの言葉の性質は作用しているのだから。
村八分という言葉がある。
わたしは都会に暮らしているが、甚大な災害が起こっても、ご近所の助け合いには一切入れてもらえない。
長年、自己愛性人格障碍者に付きまとわれているのだが、その自己愛性人格障碍者がターゲットであるわたしの居住地域一帯に、
「ターゲットとは付き合わないほうがいいよ。注意喚起します」
そう触れ回ったからだ。
悪評を吹聴してターゲットを忌み嫌わせて孤立させる。
これは自己愛の最も特徴的な行動パターンで、わたしも見事にやられている。
精神科医も自己愛にはお手上げだ。「逃げて下さい!」としか云わない。
それほどまでに凶悪な自己愛性人格障碍者について、どれほど厄介な「害虫」であるのかを被害者が説明しても、それは「いじめ」だと云われやすい。
被害者は無理解にさらされるのに、自己愛が人に耳打ちする、「ターゲットは害虫だよ。あなたも気をつけてね……」は一発で浸透する。
なぜか。
自己愛は被害者面が巧く、善人演技で人から同情心を引き出すのが得意で、「正義の美談」を武器としているからだ。
自己愛は「わたしほど清く正しく有能な人間はいない」と自負している。
こんな自己愛性人格障碍者に対して「いじめ」を指摘しても無駄である。
自己愛の彼らは、
「いじめなんてまさか! だ、誰がそんなことを!」
「わたしこそ被害妄想のターゲットから虐められている!」
と猛烈に反撃をしてくる。
彼らの頭の中では、「いじめ」は「いじめ」ではなく、「優秀な自己愛さまから害虫への、ありがたい躾と指導」と置き換わっているからだ。
子どもを虐待して死に至らしめる親も平然と同じことを云うがそれだ。
自己愛はとる行動と、口から出るきれいごとが真逆という性質をもっていて、訊かれもしないのに「わたしは正直者だから」としきりに云ったりする。
脳幹まことさんは触れておられないが、悪質な虐めの裏には、かならず自己愛性人格障碍者がいる。
彼らにとってターゲットとは、「害虫」である。
これも、「害虫なんだから嘲り笑って殴ってもいいですよね」そんな自己愛の独特な脳変換のなせるわざである。
自己愛の手口は巧妙狡猾だ。人はたやすく洗脳される。
「認知が歪んでいるターゲットに間違いを指摘し、有能な自己愛さまが正しい道を教えてあげようとしたら、感謝されるどころか拗ねて恨まれた」
こんな話をターゲットの周囲にびっしりと触れ回り、ターゲットの価値を暴落させ、交友関係を取り上げる。
とくに『ボス』的な人は自己愛の好物である。
ボスの権力や人望をわが物にして、虎の威を借る狐のように「ボスもターゲットを憎悪し、忌み嫌ってるよ!」と名を出して触れ回るのに役立つからだ。
一方でボスの方には、「あなたのように優秀で有能な方も、害虫ターゲットの被害妄想の被害にあったのね」と理解者のような顔で篭絡しておくことも忘れない。
わたしは害虫だろうか。
害虫ならば、攻撃してくる自己愛と距離をおいた時点で、「害虫がやっと去ったか」と終わるだろう。
だがそうはならない。
自己愛は、ターゲットを定めた時点で、「こいつの価値を引きずり落とすことで上になった気分を堪能せずにはいられない」そんな中毒性の高い行動パターンが出来上がっている。
なのでターゲットが何処に移動しても猛烈に追いかけてくる。
そしてまた、「害虫ターゲットのことで注意喚起があります!」と同じ洗脳工作をやり始めるのだ。
こんな習性をもつ自己愛は、前頭葉に異常があり、人よりは爬虫類に近い。
自己愛被害者が集まると「全く同じことをやられました」とその行動様式の同一ぶりにびっくりする。
自己愛は学年に一人はいるそうだ。
あなたの学校にも、職場にも、ご近所にもいる。
自分の拡散した悪評でターゲットが憎悪されようが、ターゲットは「害虫」なので、偉大な万能の神である自己愛は何の痛痒も覚えない。
精神科医が「逃げて下さい」と云うのは、それしか有効な手段がないからだ。
なぜなら被害者が自己愛をどんなに避けても、自己愛は猛追撃してきて、注目を浴びるチャンス到来とばかりに「話し合いもせずに害虫扱いされて無視されている!」と大勢の人に泣きつき、さらにターゲットの敵を激増させてしまう結果になるからだ。