第八話 ナナガミ

 ナナガミ。俺はそう名乗る事にしている。

 何故なら縁起がいいからだ。

 七という数字には奇跡が宿っている。まさに神がかりだ。


 とは言え、いつもじゃない。社会に馴染むにはきちんとした名前が必要になる時があるからだ。きちんとした、というのは法に従ってと言う事だ。戸籍謄本に載っている名前が社会に馴染む為の名前だ。


 名前は大事だ。単に個人や個体を呼び分ける為だけじゃない。分類、区分、種族、何科の生物であるとか、ウィルスの変異株だとか。そこには意味があり、名前とは、それそのものの意味を引き出す役割がある。


 図鑑や辞典、歴史の本も名前がなければ作れなかったと思わないか? 

 名前がなければ、俺たちはその知識を引き出す事すら出来ないと思わないか? 

 検索エンジンで何も検索出来なくなるだろ? 


 ……何の話だったか? 


 ああ、そうだ、思い出した。


 具体的なあれそれは省くが、とにかく俺はナナガミと名乗る事にしている。


 特に、仕事の時はそうだ。


 ◇


 がたん、と車内が大きく揺れ、目が覚めた。徹夜明けの重たい瞼で今がどこの駅なのかを確認する為、首を動かす。口元を涎が伝っているのが分かり、ポケットティッシュで拭う。目の前の窓を見れば、住宅街、高層ビル、一瞬だけ見える看板が車窓を流れては去っていく。まだ駅には到着していないと理解して、もう一眠り出来るか、と考える。

 そこへ、『既に降りる駅を通り過ぎてる可能性』が頭を過った。

 反射的に立ち上がり、車内乗り降り口上部に備えられたディスプレイへと眼を向ける。ディスプレイには、明日の天気や、沿線沿いにある美味しい居酒屋の情報が流れており、本当に知りたい情報が流れるまで二分を要した。そして、安堵する。


 目的の駅まではあと一駅、つまり丁度、到着するところだった。運がいい。少しよれた背広の襟を正して降りる準備を始める。腕時計を確認すると、短針が三を丁度指すところだった。一五〇〇。キリが良いタイミングで時計を確認するとは、やはり運が良い。気分が乗ってきた。


 車内の揺れが大きくなった。駅が近づいて、ホームの様子が見える。様々な人々が俯いたり、真顔だったり、呆けた様子で電車が到着するのを待っていた。

 頭の中で電車が完全に止まるまでの秒数を唱え始めた。


 五、四、三、二、一。停止。ジャストだ。


 しゅー、と音が鳴って扉が開く、その時先頭で待っていたのがとびきり好みの美人だった。運が良い。更に、考えて乗ったわけじゃなかったが、降りた所も丁度エスカレーターの位置だった。運が良い。


 気分良くエスカレーターに足を乗せる。

 この世をば我が世とぞ思ふ。そう言ったのは誰だったか。思い出せなかったが、まさにそういう気分になった。


 その時、どん、と右肩に何かが強くぶつかって体が揺らされてよろめいた。特に気分の良かった私は、それで酷く害された気持ちになった。非難の面持ちで、その方向を見やる。そこには、エスカレーターの右側を駆け登ってきたであろう男がいた。


 私よりずっと大柄で、黒いロングコートを羽織り、その下に着物らしき物を着込むという浮世離れした格好をしていた。少し見上げ、顔を確認して、私は男の目つきに、思わず息を呑んだ。


 迫力がある、とかそういうのではなく、むしろ真逆の目だ。私の事など、道端の石ころ程度にしか思っていない。そんな虚な目が見下ろしていた。


 男は一瞥するだけで、ぷい、と顔を背けてエスカレーターを昇っていく。そこで我に返り、私は男を追いかけてその肩を掴んでいた。想像していたよりも、がっちりとした男の体に躊躇いかけるが、私の気分を害した男がそのまま過ぎ去るのは許しがたかった。


「おいお前、人にぶつかっておいて一言も謝らないのか!」


 男はまたしても、虚な目を向けてこちらを振り返った。そこで、黒のロングコートの内に着込んだ蒼色の着物には、白い陽炎を思わせる柄が入っているのを知る。男の顔は整ってはいるが、顎には無精髭を生やし、口元は力を入れていないのか小さく開けたままで、髪もボサボサの鳥の巣頭だ。服装のインパクトはあるものの全体的に覇気が無いと評する事が出来た。だからなのか、私は更に強く出る事にした。


「謝罪だ。今すぐ謝罪しろ!」


 たかだか肩がぶつかった程度で、ここまで要求する道理は無い。しかし、ここで私が退くのはどんな道理を蔑ろにしてでも納得出来ない。特にこの運の良い私を、石ころの様に見たその目は許し難い。

 私は更に、男へと詰め寄り、指先を顔の前に突きつけた。


「なんとか言ったらどうなんだ!?」


 男の眼前で大声を出すと、ようやく男が反応を示した。そして、やっと口を開いたと思った男が口にしたのは、奇妙な事だった。


「ああ、思い出した。そうだった。オマエ、確か〈柊 鉄茂ひいらぎ てつしげ〉だったか。そうだよな?」


 男がゆっくりとした動作で、私を観察する。その不気味さ、得体の知れなさに私がたじろぐと同時、突きつけていた指先を、がし、と掴まれた。


「は、離せ!」叫んでみるも男に聞いている様子は無かった。指を掴んだまま男は言葉を続けた。


「合ってる事でいいか? いいよな? 運が良い」男は一人で勝手に納得して頷く。


 私の分からない内に物事が進んでいく不気味さ、この男が私が知っている不可解さ。何かが起きている事しか分からない。どうして、この男は私の指を離さないんだ?


 そうして、耐えきれなくなった私は叫んでいた。


「なんだお前は!? 一体何者だ! 私が誰だか知っていて、こんな事をしているのか!?」


 私の力があれば、多少の人死になど容易く隠蔽出来る。弟が運営している宗教団体ならばそれが可能だ。弟の組織も財も、私の力には他ならない。この奇妙な男も弟を使って始末してやろう。


 その時、ぼき、と音がした。


「ぼき?」思わず音を真似て口に出していた。冷静になって、男の顔を見た。次に男に掴まれている指を見た。人差し指の中節から先があらぬ方向を向いている。認識すると、途端に、痛みが襲ってきた。


「ぎゃあぁぁ!」指を抑えてその場に頽れる。躊躇いもなく指を折るなんて──なんてイカれ野郎だ。


 痛みを堪え、男を睨む。この場は見逃してやる。だが、必ず報復してやる。そのために、男の名前を聞き出すのだ。


「お前、名前は? この事は必ず後悔させてやるぞ……」


 名を問われ男は、少し考える仕草をして、口を開いた。


「法的に。じゃないだろうな、この場合。いや、そもそも仕事だ。ならこっちを名乗った方がいいか」そんな事を自問自答して、男は私に視線を定めた。最初と同様の虚な目が私を見つめる。


「ナナガミだ。そう名乗る事にしている。ところで、気付いているか? 誰も、俺たちを見ていない事に」


 男に言われ、はっとする。そう言えば、これだけ騒いだにも関わらず駅員はおろか、通行人の誰一人として声を掛けてくる者は一人もいなかった。おかしい。それは分かる。だけど、何故だ?


「みんな急いでいるんだろうな。見向きもしないで、他人に構ってる暇がないって事だ。仕事をする俺としては、運が良い」


 運が良い? 男の言葉を反芻し、そんな訳がないと脳内で唱える。運が良いって言うのは、降りる駅の直前で目が覚めたり、時計を確認したらキリの良い数字で止まってたり、ホームで美人を見かけたり、降りた場所がエスカレーターだったりする事だろう? こんなのは運が良いなんてのじゃ説明が付かない。そのはずだろう。


 通り過ぎていく人々に手を伸ばすも、忌避する事はおろか、気付きすらしていない。こんのはあり得ない。脳内で唱える。口にしてみる。誰も、気付かない。背後に気配を感じた。振り返る事は出来ない。肩が震える、歯が鳴る、強く目を瞑った直後、永遠の闇が広がった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

九重クシナの怪異相関説 ガリアンデル @galliandel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ