第3話

 家に帰った先生は目を丸くした。


「……叩いて」


 いつもなら玄関を開けると元気いっぱいの笑顔で〝おかえりなさい!〟と言われ、せがむように差し出された少女の手のひらにレモンパイが入った紙袋を乗っけるのだが。

 今日、言われたのは〝叩いて〟という不穏な言葉。出迎えたのは俯き、青ざめた顔の少女。差し出された手のひらにはどこから見つけて来たのか、おそらく馬用の鞭が乗っていた。


「これは?」


「いいから!」


「いや、しかし……」


「いいから叩いて!」


「……」


 鞭を胸に押し付けられて、それでも戸惑うばかりで一向に叩こうとしない先生を睨むように見つめているうちに少女の目にはじわりと涙が浮かんだ。


「……私を買った店、覚えてる?」


「あぁ」


 片膝をつくと先生は白い指で少女の涙をそっと拭う。


「その店の店主が今日来て話してったの。竜人族は常に半分が人で半分が竜なわけじゃないんだって。竜を好むか人を嫌えば竜に、人を好むか竜を嫌えば……人に、近付くって」


 先生が必要としていたのは竜の血だ。竜の代替品としての少女だ。


「だから、先生は私に優しくしちゃいけなかったんだよ」


 日の当たり具合によっては黒色にしか見えない髪からほんのわずかのぞいている角を撫でながら吐き出すように言った。


 この一年で少女の外見はずいぶんと変わった。

 背が伸びた。ふっくらと女の子らしい体付きになった。血のように濃い赤色だった髪はほとんど黒色になった。水牛に似た黒く立派な角は親指ほどの大きさにまで縮んだ。丸太ほどの太さがあったトカゲに似た尻尾も細く短くなって長いスカートの下に隠れてしまうようになった。肌の鱗模様はずいぶんと薄くなって目をこらさなければわからない。


 少女の姿は竜よりもずっとずっと人に近いものになっていた。


「今朝、言ってたでしょ? 杖の推定増幅量が一年前よりも減ってるって。きっと私が竜よりも人に近くなったせい。私の中の竜の血が少なくなったせい。だから……」


 少女が再び差し出した手のひらには薄茶色の線がいくつも残っていた。鞭で叩かれてできた痕だ。一年前、まだ血が滲んでいる新しい傷は先生の治癒魔法でキレイに治った。でも、すでにふさがっていた古い傷は少女の体のあちこちにそのまま残っている。


 小さな手のひらに今も残る痛々しい傷痕を見て。

 俯いてギュッと目をつむる少女を見て。

 胸に押し付けられた鞭をにぎりしめて――。


「もう、必要ない」


 先生は少女の震える手を取ると手のひらにキスをした。柔らかくて、でも、ちょっとだけひんやりとした唇の感触に少女はハッと顔をあげ、目をしばたたかせた。


「……先生?」


「竜の血はもう必要ないんだ。だから、キミを叩く必要もない」


 手のひらにキスするために俯いた表情がどこか暗いことに気が付いて少女は心配そうな表情で先生の顔をのぞきこんだ。


「杖のこと、少将から何か言われた? 怒られたの?」


 少女の問いに先生は力なく首を横に振る。


「軍からの依頼なんだ。この杖が……〝すごい魔法〟が何に使われるかなんてわかりきっていたのに。私は魔法道具の研究にしか興味がなくて、そんな単純なことに気付きもしなかった」


 長い黒髪がさらりと落ちて先生の表情を覆い隠す。でも、途方に暮れた迷子のような顔をしているのだろうことはこの一年、家族か友人のように接してきた少女には簡単に想像できた。

 研究に没頭すると視野が狭くなるけど根は優しい。自分の研究の成果がたくさんの命を奪うことに繋がると気が付いて平然としていられる人間ではないのだ。


「私は黒竜の血の杖と研究成果を持ってこの国を出ようと思う。私以外にも杖を解析できる者はいるから」


 解析できる者がいるということは、置いていけばいずれまた複製品が作られ、いつか本物の黒竜の血の杖も使えるようになり、たくさんの命を奪うことになるかもしれないから。


「だから、この杖と研究成果は持っていく。きっと軍に追われることになる。だから、キミは……」


「うん、私も一緒に行く」


 先生の言葉をさえぎって少女はきっぱりと言った。弾かれたように顔をあげると先生は勢いよく首を横に振った。


「殺される可能性もあるんだ。だから、キミは……」


「うん、先生と一緒に行く」


 話の流れを完全に無視して少女はやはりきっぱりと言った。困り顔の先生を見つめて少女はくすりと微笑んだ。


「黒竜の血の杖を持っていくんでしょ? だったら私も行かなきゃ。この先、どれくらい竜の血が私の血の中に残るかわからないけど私の血を使って研究を続けてよ」


「でも……」


「この杖は武器じゃない」


 武器として使おうと思えば武器になるけど、武器として使おうと思わなければ武器にはならない。

 少女と先生にとっては――。


「この杖はすっごく大きなレモンパイを作るための魔法道具だよ!」


 太陽のような少女の笑顔を先生はぽかんと見つめた。そのうちに困ったように、でも、どこか嬉しそうに微笑んだ。先生の微笑みに少女も笑い返す。


「誰に追われても、殺されるかもしれなくても、私は先生と一緒に行く。だって、私は人が好きなわけでも竜が嫌いなわけでもないもの」


 小さな手で前髪をかきあげて少女は手のひらへのキスのお礼に先生の額にキスをした。


「私は先生が好きで、先生と一緒にいたくて、先生に近付いただけだも」


 ***


 巨大な船が到着すると港は一気に騒がしくなる。各国の新聞を取り扱う売店にも船旅で得られなかった情報を求めて人だかりができた。

 自分よりもずっと背の高い大人たちにもみくちゃにされながらもどうにか手に入れた新聞を道のすみに落ち着くなり広げる。


 新聞の一面を飾るのは軍所属の研究者が貴重な古代の魔法道具を盗み、奴隷の竜人族の少女を連れて逃亡したというニュースだ。先生と少女の似顔絵も大きく載っている。

 でも、この似顔絵で見つけるのは難しいだろうと少女は微笑んだ。


 この世界に黒髪黒目の細身の二十代女性は山ほどいる。だからこそ少将は少女の似顔絵も公開したのだ。水牛に似た黒く立派な角、トカゲに似た丸太のように太い尻尾、鱗模様が浮かぶ肌の竜人族の少女は目立つから。


 だけど、それは一年前の少女の姿。

 今の少女とは別人だ。


「道を聞いてきた。レモンパイを食べに行こう。そのあと宿探しだ」


「はーい!」


 先生に呼ばれて少女は元気いっぱいに返事をすると駆け出した。少女の姿にすれ違う人すれ違う人が振り返り、微笑む。

 サラサラの黒髪から角らしきものは見えていない。短いスカートの下から尻尾がのぞいたりもしていない。肌の鱗模様はすっかり消えてなくなっていた。


 先生の腕にしがみつく少女の姿は誰の目にも甘ったれの妹にしか見えないだろう。

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いつか、大きなレモンパイをあなたと。 夕藤さわな @sawana

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