第2話

「起きて! ほら、起きて!」


 少女の元気な声が寝室に響く。カーテンを開け放つと朝陽が差し込み、部屋は一気に明るくなった。固く目を閉ざしたままの先生は眉間にしわを寄せると――。


「……」


 ふかふかの布団を頭からすっぽりと被って隠れてしまった。少女は腰に手をあてて盛大にため息をつく。


「もう……起きてってば! 今日は少将のところに報告しに行く日でしょ? 出かけなきゃなんでしょ?」


「……少しくらい遅れても待ってくれる」


「少将はそうかもね。でも、私が作った朝ごはんは待ってくれないよ。テーブルの上でどんどん冷たくなっていくんだから!」


 少女の言葉に先生は押し黙った。

 そして――。


「それは大問題だ」


 小さな声でぼやくと名残惜し気に枕を抱きしめてからのそりと体を起こした。


「おはよう」


 どうにか目を覚ましてくれた眠り姫に少女はにっこりと笑いかけた。


「おはよう、先生!」


 少女が引き取られて一年が経っていた。


 家具がそろった広い部屋を与えたり、量だけは十分すぎるほどの食事を用意したり。〝キミのことは責任を持って養育するつもりだ〟という約束を先生は生真面目に守ろうとしてくれた。


 でも、圧倒的に家事スキルが足りていなかった。

 ついでに家計を守るだけの経済観念も足りていなかった。


 少女の部屋は蜘蛛の巣が張って綿埃が転がっている程度だったからマシな方。先生自身の部屋はカビにキノコまで生え、お風呂やキッチンなんかの水回りはぬるぬるのぬめぬめ。

 さすがにこのままではまずいと先生が頼もうとした家事代行業者の一回の金額と、先生が想定している利用頻度を聞いて少女も、子供服を持ってきてくれた少将の奥さんも悲鳴をあげた。


 そんなわけで少女が〝家事は全部、私がやる!〟と言い出すまでに半日。

 〝やりくりは私がするから一か月分の生活費をちょうだい!〟と言い出すまでに一週間しかかからなかった。


 一年が経った今では広い家のどこにもカビもキノコもぬるぬるぬめぬめも存在しない。室内はすっかり明るくなり、しっとりかび臭かったベッドもふかふかお日様の匂いになり、気を失うように床で寝ていた顔色の悪い魔女こと先生も少女が用意する栄養バランスばっちりの美味しい食事のおかげでお肌つるつる髪の毛さらさらの眠り姫に変わり――。

 少女もまた、一年前よりもずっと背が伸び、ふっくらと女の子らしい体つきになり、濃さを増して黒に近づいた赤髪を揺らして金色の目を細めて笑うことが多くなっていた。


 ***


「終わった。……めまいは?」


「大丈夫!」


 採血を終えた先生は少女の返事にほっと息をついた。

 一年前は何度も刺し直し、少女の腕を針の穴だらけ内出血だらけにしていた先生だったけど今では一発で成功させられるようになった。腕を針の穴だらけにされながらも練習台になってくれた少将の部下たちのおかげだろう。


 採ったばかりの少女の血を先生が黒竜の血の杖についている赤い石に落とす。ぽたりと一滴。血は伝い落ちることなく赤い石に吸い込まれ、竜の目が赤く輝いた。

 杖が起動したのだ。

 杖の先を計測器に押し当て、表示された魔力の推定増幅量を先生が読み上げる。


「……三二〇一倍」


 数字をノートに書き写した少女が顔をあげると先生の眉間にしわが寄っていた。


「どうかしたの?」


「一年前の半分ほどになってる」


 杖は媒体を用いて起動し、魔力と魔法式の入力を行い、魔力を集約・増幅して魔法を出力する道具だ。本物の黒竜の血の杖は出力部分が壊れているか、特殊な仕掛けがあるらしい。一年経った今も起動、入力まではできるが出力はできていなかった。


 本物は、というのは黒竜の血の杖の複製品を先生が作ったからだ。


「本物とはずいぶんと見劣りする。推定増幅量が雲泥の差だ」


 先生はそう言って口をへの字に曲げていたけど〝複製品ができたから試してみたい〟という報告を聞いた少将の、電話から漏れ聞こえる声で十分にすごいことだと少女にもわかった。

 先生は今日、その複製品を試すために軍の施設に行くのだ。


 複製品の杖と媒体である少女の血をカバンにしまい、先生は研究室を出た。少女も小走りに追いかける。玄関までお見送りだ。


「ねえ、先生。本物の黒竜の血の杖が使えるようになったらどんなことができるの? 複製品をたくさん作って何をするの?」


「すごい魔法を使えるようになる。たくさんの人がすごい魔法を使えるようになる」


 大真面目な顔で答える先生を見上げて少女は首を傾げた。


「すごい魔法で何をするの?」


 そう尋ねられて先生は黙り込んだあと――。

 

「……さあ」


 結局、首を傾げた。


「この杖や魔法道具自体には興味があるがこの杖を使って何をするかには興味がないし、何をしたいかなんて考えたこともなかった」


 世紀の発見でもしたかのように目を見開いて言ったあと、先生はまばたきを一つ。


「キミなら何をする?」


 少女に尋ねた。少女はまばたきを一つ。


「大きなレモンパイを作りたい。すっごく大きなやつ! 家に入らないくらい大きなやつ!」


 金色の目をキラキラと輝かせて両腕を広げてみせた。


「そんなに大きくてはオーブンに入らないのでは? 乗せる皿もないし、そもそも皿に移すときに崩れてしまう。すべて食べ終わる前に傷んでしまう可能性も……」


「そのためのすっごい魔法だよ!」


 少女の答えに先生はなるほどと深く頷いた。


「なら、本物の黒竜の血の杖が使えるようになったら大きなレモンパイを作ろう」


「すっごく大きなやつ!」


「すっごく大きなやつ」


 復唱して先生は玄関のドアを開けた。


「それじゃあ、行ってくるよ。……今日のところは普通のレモンパイを買ってくるから」


「……!」


 途端に少女の目がキラキラと輝いた。

 先生と初めて会った日以来、レモンパイは少女の大好物になっていた。


 ***


 先生を見送った少女は朝食後、そのままにしていたテーブルを片付けながら考えていた。

 まずは皿洗い。そのあとは洗濯だ。天気がいいから布団も干そうか。いや、先生が留守の間に研究室の掃除を――。


 ジリリリ……と玄関ベルがけたたましく鳴った。


「はーい!」


 慌てて玄関ドアを開けた少女はそこに立っているでっぷりと太った男を見上げて凍り付いた。


「おはようございます。こちら、先生の……と、お前か。一瞬、誰だかわからなかったよ」


 少女を売り物として扱い、檻に閉じ込め、ことあるごとに鞭で叩いていた店主がそこにいた。客に向けるニコニコ顔はドアから顔を出した少女が店の売り物だった少女だとわかるなり冷ややかなものに変わる。


「先生はずいぶんとお前のことを丁寧に扱っているようだね」


「……先生は出かけてます。用件はなんですか」


 首をすくめながらもきっぱりとした口調で言う少女に店主はますます目を細く、鋭くする。


「買い付けのためにしばらく街を離れるからその前にお得意さんまわりをと思ってね。しかし、これは……もう少し早くに様子を見に来るべきだった。取扱説明書をきちんと読むようにと言っておいたのに少しも読んでいないと見える」


 ため息をつく店主を見上げて少女はドアノブを強く握りしめた。取扱説明書に何が書いてあったのかはわからない。でも、ろくでもないことが書いてあるのだろうことは想像できた。


「先生が欲しがっていたのは竜だ。半人半竜の竜人族であるお前は代替え品。でも、竜人族は常に半分が人で半分が竜というわけじゃない。竜人族は――」


 頼んでもいないのに店主はペラペラと話を続ける。耳をふさいで逃げ出したいのに少女の足は震えてその場から一歩も動くことができなかった。


 ***


 ただの歩兵が放った火炎魔法の熱風に、腕で顔をかばいながら少将は言葉を失った。魔法を放った歩兵自身も呆然としている。


「本物の黒竜の血の杖と比べると十分の一ほどの威力ですが」


 長い髪が熱風で乱れるのも気にせずに先生は計測器を見つめて淡々と言う。唇がへの字に曲がっているのは複製品の出来に満足していないからだ。

 苦笑いして少将はひらりと手を振った。


「十分だ」


 この世界のほとんどの人間が魔力を持っている。しかし、魔法兵として魔法攻撃を行えるほどの魔力を持つ者は軍全体で三パーセントほど。

 でも――。


「この杖があれば五○パーセント以上を占める歩兵が魔法兵に化けることになる。それも歩兵としてのスキルと体力を持った、魔法兵に」


 というわけだ。

 何を想像したのか。少将は身震いして満足げな笑みを浮かべた。


「では、複製品については一旦、ここまでで」


「あぁ、設計書を提出してくれ。それと明後日、定例会議があるから出席を。……基本的には私が喋るから」


 会議と聞いて露骨に嫌そうな顔をする寡黙な部下に少将は苦笑いする。先生は渋々、承諾すると用件は済んだとばかりに荷物をまとめ始めた。


「本物の杖の解析は引き続き行います。人工的に竜の血を生成できないかの研究も引き続き」


「媒体である竜の血の確保が最優先だ」


「わかりました。竜の血の研究を優先させます」


 短く言ってカバンの中に入れておいた複製品の設計書を取り出そうとして――ふと先生は手を止めた。


「少将、本物の黒竜の血の杖も複製品も通常の杖より遥かに〝すごい魔法〟が使えますよね」


「ん? あぁ、そうだな?」


 寡黙な部下の唐突な質問に、意図がわからず少将は首を傾げる。少将の困惑など気にもせず先生はさらに尋ねた。


「少将はすごい魔法で何をしたいですか」


 先生の質問に少将は目を丸くした。そして、ハハ! と思わずといった感じで笑って、当然と言わんばかりに答えた。


「我が国の輝かしい未来を邪魔する者をせん滅する。まずはアザラシ共だな」


 〝アザラシ〟が北方の大国を指す蔑称べっしょうだということは魔法道具の研究にしか興味のない先生でも知っていた。

 一年前よりもずっとサラサラになった黒髪を耳にかけ、指に触れていた複製品の設計書は出さないまま。


「では、また明後日。設計書もそのときに持ってきます」


 先生はそう言ってカバンを閉めたのだった。

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