後篇
首都展開している大型書店の正社員として、俺は普段は店に出ている。値引きワゴンから適当に選んで買ったTシャツにジーンズ、黒縁めがね。書店の制服ともいうべきエプロン。うちの書店では隣接しているカフェと提携して飲食しながら試し読みをしてもいいことになっているが、日本人ゆえの衛生観念なのか、遠慮深さなのか、あまりやる人はいない。
「薫お姉ちゃん」
薫。
何の気なしにそちらを見ると、中学生らしき少年とその姉がこちらに背を向けて雑誌の棚の前に並んでいた。
姉と弟は必要以上に声をひそめて、顔を付き合わせて何かを喋っている。俺は身をかがめて、棚の下のストッカーから上に並べる雑誌の用意をしていた。油断していると職務中にも関わらず『フレイヤ・プレイヤー』を鼻唄しそうになる。深夜アニメ『星間のアルカス』の主題歌だ。武道館でも聴いた。
炎で射抜け 真紅の世界
赤い星は君の心臓
フレイヤ・プレイヤー
「ヒュウガ・アヤ。あなたはわが姫の影武者。ですが、わたしの友でもあるのです」
先週の『星間のアルカス』は最高だった。深夜枠ではあるがあの作品にかける製作者側の気合がひしひしと伝わる。創り手にやる気がなかったり、上辺をなぞっただけのような作品には興味がない。第一シーズン終了後すぐに『星間のアルカス』第二シーズン王都篇の製作が発表されたのも、製作者側の熱意が冷めやらず、熱狂的なファンがいたからだ。
王都篇の開幕早々、郊外で刺客に追い詰められる日向彩矢。元弓道部の彩矢は弓で応戦するが手許の矢も尽きる。馬車の中でカ・エル嬢は彩矢から腕輪を取り上げる。腕輪は王からもらったフリージア姫の証だ。
「何をするの」
「アヤ。あなたがこの世界にやってくる以前は、わたしが姫の影武者でした」
「かえるちゃん」
「カ・エルです。わたしの方が姫のふりが上手です。心配はいりませんアヤ。将軍の屋敷で落ち合いましょう」
馬車から降りてしまうカ・エル嬢。
フリージアは此処にいます。
暴漢の前に出たかえるちゃんは腕輪をつけた手を上げる。
何用か。王に招かれたわたくしの身は王の庇護下にある。かような狼藉者を差し向けた者はそれを承知の上でのことか。
アルカスの空に昇る紅い月。日向彩矢を乗せて走り去る馬車の音が王都の夜空に無情に響く。To be continued.
帰宅したらもう一回最初から観よう。
「カルピス」
「アルカスだよ」
「星間のカルピスの方が覚えやすいんだけど」
「勝手に既存の商標をくっつけるなよ。アルカスはギリシア神話にも出てくる単語だよ、お姉ちゃん」
気になるのは王宮の動きだ。若くして戴冠した豪華王を背後から操ろうとして摂政と枢機卿がひと目を忍んで接触している。彼らは豪華王とフリージア姫の結婚を阻止したいのだ。
「とうの昔に存在を忘れ去られたあの姫を迎えても国の利益にはならぬというのに」
「豪華王は幼き頃の姫との約束を違えるわけにはいかぬと頑固に仰せだ」
「聴くところによるとフリージア姫は赤子の頃から何かと床に伏せがちというではないか。そんな女は風邪でもひけば呆気ないものだ。ここは王の機嫌を取り、正妃に立てておいて、フリージア姫の早逝を待つのも手かもしれぬ」
摂政と枢機卿が手を組む展開になりそうだ。フリージア姫が危うい。気になるのは豪華王だ。ビジュアルしかまだ出てこないが、声優が三島康生だぞ。
俺は安全カッターを使ってストッカーから取り出した雑誌を固定してある結束バンドを解いた。
三島康生を起用したくらいだ。絶対に王は後半に大活躍するに違いない。三島康生といったら平成後期を代表するアニメ『時を翔けるカイザー』の頃から、一癖も二癖もある貴人がはまり役だ。女子に人気のあるイケメン声優三島康生の起用により第二期に入った『星間のアルカス』ファンは確実に増えている。前回のコミケではフリージア姫とカ・エル嬢の百合小説を買いそびれそうになったくらいだ。
その百合小説がこれまた良かった。
「フリージア姫。御許に。エルの忠誠は姫君に」
「エル」
「いつでも馳せ参じます。決して姫から離れません」
姫と嬢と日向彩矢。出来たらこの三人の3Pが読みたい。エグいのは要らない。パジャマ・パーティーでいいんだ。あの三人がきゃっきゃっしてくれたらそれでいい。誰か同人誌にしてくれ。
自他ともに認めるオタクの俺の膝に乗せていた雑誌が床に落ちた。立ち読みしているきょうだいの姉の足許に滑っていく。俺は本を追いかけた。
一昨日の武道館もサプライズだった。先週の『薫Kaoru公園ライブ』の最後でアンコールに応えた薫さんが、
「姫君の武道館コンサートに、かえるも行くかも~?」
バックライトに髪を輝かせながら笑顔でほのめかしていたので、正規の二倍の金を出して闇チケットを購入して武道館に行ってみたところ、本当に薫さんがゲストとして出てきたのだ。
喉も裂けよとばかりに俺は絶叫した。薫さん薫さん。
フリージア姫とカ・エル嬢が顔と顔を寄せ合って歌うところを観れて良かった。本当に良かった。
蜜柑の花の香り。
床に片膝をついて雑誌を床から拾い上げた。視線の先に女の子の手があった。横顔を見上げた。フェイスラインと、ほくろの位置。
「お姉ちゃん、ほら」
弟が姉に週刊誌の頁を開いて見せている。
「特別ゲストで薫Kaoruも登場だって。お姉ちゃんのことがちゃんと出てるよ」
声を掛けるべきだ。こんな機会は二度とない。俺は筋金入りのオタクだが、生身の女の子をふつうに、こんなにも好きになることがあるのだと、眼の前の彼女を通して知ったのだ。
夢と現実の区別がつかない。両脚が震える。愕きと緊張で心臓が痛い。
わたしは欠伸をして、弟を促した。
「買わなくていいわよそんな雑誌。一行だけでしょ。もう行こう。お昼は何が食べたいの」
「待ってて、これ買ってくる」
他の雑誌を抱えて弟はレジに行ってしまった。足許に落ちていた誰かのボールペンをわたしは拾い上げた。ちょうどそこに床に膝をついて陳列棚の下のストッカーを整理している店員がいる。
「これ落ちてました」
「あ、はい」
イベントでは何百人ものファンと握手をして言葉を交わすが、受け取った店員の、その声、その手に覚えがあった。すぐに分かった。そして店員の方も明らかにわたしのことが分かっている顔をしていた。
さっと血の気が引いた。
しかしこんなこともあろうかと、わたしはシミュレーションを重ねてきていた。主にそれは変態対策だったが、備えていたお蔭で意外なほどわたしは落ち着くことが出来た。大丈夫、対応できる。
「もしかして」
「あう、はい」
店員は下を向いてわたしが渡したボールペンで何かやっている。
「わたしのライブにいつも来てくれる方ですよね。最前列にいる。お顔を憶えています」
「あ、はい」
「こちらの書店の店員さんなんですね。応援ありがとうございます。次のライブも来て下さいね」
「あのあの握手」
「ありがとう。今日つけているトワレはあなたから頂いたものなんです」
元気よく、相手を頭から喰う勢いの眼力と、圧迫面接に等しいほどの満面の笑み。
「次のライブにもぜひ来て下さいね。それでは」
オタクはうろたえながら片手を差し出して来た。オタクの求めに応じて、きっちりと握手をした。いつもの両手挟み。わたしはすぐに背を向けて、会計を済ませて戻ってきた弟と共に書店を立ち去った。
やるじゃんあのオタク。
「お姉ちゃん。大丈夫だった」
握手をしたわたしの手に、あのオタクは氏名と電話番号を書いた紙片を滑り込ませていたのだ。そんなもの棄てなよと弟に云われた。わたしもそう想う。
次の日、もらった紙片に書かれた番号に電話をしてみた。彼は出なかった。
台風銀座と呼ばれる九州四国地方に台風が停滞している。首都圏には既に風が吹いている。天気予報をスタッフが数分毎に確認していたが、関東に接近するはずの台風の脚が遅くて明朝までは天候がもちそうだ。握手会つきのライブが中止にならなくて良かった。
「あの人」
いつもの彼だ。わたしのキモオタくん。開演の三時間前からずっと待っているのだ。雨が降らなくて良かった。彼が濡れなくて良かった。
「薫さん。中身は蜜柑の香りのトワレです。蜜柑がお好きなようだから」
彼もカ・エル推しなのだろう。アニメの放映直後から出現したオタク軍団の一員だ。わたしは彼の手を包み、眼をみて微笑みかけた。
「昨夜は第一期『星間のアルカス』の総集編放映日でしたね」
「カ・エルのことじゃなくて」
黒縁めがねの彼は、少し口ごもった。それから、はっきりと云った。最初はそうでした。ライブに来たのはカ・エルにあなたが似ていたからでした。
「でも今は薫のファンです。カ・エルじゃなくてあなたのファンです」
おっと。
そう想った時には、彼はもう次の人に場所を譲って立ち去っていた。
わたしのオタクたち。会場を埋め尽くす暑苦しいキモオタ。推定だが年齢が高めのおやじ共は重度のロリコンだろう。
B級アイドルとしてやっていく覚悟はあったけれど、オタクに支持されるとは想定外。わたしとカ・エルは本当に似ている。水色のウィッグを外してもまだ似てる。いつも最前列にいるわたしのキモオタくん。
着信記録に刻まれた知らない番号。遅番の日で夜九時までの勤務中にかかってきたので気づかなかった。もう日付が変わろうとしている。俺は慌てて電話してみた。昨晩の『星間のアルカス』は悪漢に囲まれたカ・エル嬢の許に馬車で去ったはずの日向彩矢が乗馬鞭を片手に駈け戻ってくるところから始まった。
「アヤ」
「かえるちゃんを一人で闘わせるものですか」
鼓膜に響く呼び出し音。
どうかどうかお願いします。彼女が出ますように。
事務所のマネージャーが鏡の中のわたしの表情に釣られて笑顔になりながら、どうしたのかとわたしに訊いた。
「いいことでもあったの薫ちゃん」
書店での出逢いだなんて、ジュリア・ロバーツ主演『ノッティングヒルの恋人』みたい。B級アイドルのわたしと違いジュリア・ロバーツは実物も、映画の中の役柄もハリウッドの大女優だが。あの映画の中でヒロインはこう云うのだ。
I’m also just a girl, standing in front of a boy, asking him to love her.
べしゃ。
かえるを壁に投げつけた王女さま。
(好きになって欲しい男の子の前では、わたしはただの女の子)
わたしが本物の姿に戻っても、あなたは王子さまになってくれるだろうか。
薫です。
あの、夜分遅く失礼します。電話にすぐに出れなくて……。
訊きたいことがあってお電話しました。
はい。
なぜいつも数時間前に現地に来ているのでしょうか。チケットには立ち位置指定が記入されています。早く来ても場所は変わらないのでは。
それは、薫さんが何時間も前から楽屋入りしているからです。少しでも近くにいたいと想ったからです。
気持ち悪いです。
すみません。
でも嬉しいです。わたしはKaoruでもなくカ・エルでもなく、ただの女の子としてあなたに逢えたらと想います。
大歓迎です。
ステージ衣裳でなくともわたしが分かるかな?
分かります。書店で普段着の薫さんを見てもすぐに気が付いたくらいです。
わたしにもすぐにあなたが分かりました。
本当ですか。
武道館でも声が聴こえました。
「アヤ、わたしこそ、この赤黒い世界のなかの迷子だったのです」
「援軍がいつの間に、こんなに」
「あの方のお蔭で自分を見失わずにすみました。騙していてごめんなさいアヤ」
「あそこにいる、あの男の人が豪華王……!」
「これなる淑女らを害する者は王を殺めんとしたも同罪。そちらは枢機卿の配下のものか、それとも宰相の手のものか」
『星間のアルカス』王都篇。先帝の政敵の娘にあたるフリージア姫と豪華王は幼馴染だ。父親が政争に敗れた後、本物の姫は生き延びるために侍女に扮していたことが明かされる。
「じゃあ、かえるちゃんが本物の姫」
「無事かフリージア」
「誰かがわたしの名を呼んでくれたから、その人がいたから、わたしはわたしでいられたのです。まことのわたしは此処にいる」
光線が飛び交う昂奮の坩堝。わたしは彼らのアイドル。彼らの姫。
薫さん。
その声だけがわたしを呼んでいた。
[了]
わたしのキモオタ君 朝吹 @asabuki
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