わたしのキモオタ君
朝吹
前篇
教壇に立ったこと、あるよね。日直の時とか課題を発表する時に。あそこに立つと教室のみんなの様子が一望できるよね。
ステージに立つのはあんな感じ。今日は野外ステージだから屋根のかわりに頭上に広がるのは都会の夜空。雲がすごい速さで流れてる。
「今日は来てくれてありがとう」
ひらひらしたミニスカ姿でわたしは手を振る。台風が接近しているせいで下界も風が少し強い。公園の樹木が騒がしい。
「雨が降る前に気をつけて帰って下さいね。逢えて嬉しかった。みんなありがとう。おやすみなさい。またね」
またねー。
いい歳をしたおやじたちの大声援が返ってくる。まったねー!
この人たちも普段は真面目に仕事をしているのだろう。家庭持ちや彼女持ちも中にはいるはずだ。そんな彼らがステージに立つ小娘に向かって推しグッズのうちわやペンライトを振り上げて、夜の公園の隅に迷い込んだ動物の群れのように雄叫びを上げていらっしゃる。
「かえるちゃん、またねー!」
わたしは見た目十代の実年齢二十二歳。好物はグラタンと蜜柑とマフィン。遺憾ながらキモオタ層に熱狂的なファンを持つ、B級アイドルだ。
かえるちゃん。
薫Kaoruで売り出したわたしが、何故、かえるちゃん。
その理由はオタクたちに聴いたほうが早いだろう。わたしにはよく分からない。何かの? 何か? 何とかの深夜アニメ? そこに出てくる女の子の名が「かえるちゃん」なのだ。かえるちゃんは脇役だ。そのアニメは、最近の流行にのっとり女子高校生、
オタクが好きなキャラ。
アニメによく出てくる甲高い声で「やだもう駄目だと云ったのに、ぷんぷん」とか云っているアレな物件なのだろうか。
勇気を振り絞ってちらっと観てみた。件のそのアニメを。
「カ・エルと申します」
「かえる」
「カ・エルです」
かえるちゃんはお仕えしている病気がちなお姫さまの為に、お姫さまとそっくりの女子高生、弓道部所属の日向彩矢をお姫さまの影武者に仕立てて王都に送り込む大役を負っていた。想っていたよりはしっかり者のキャラだったけれど、かえるちゃんを担当する声優は完全なるソプラノだ。
云うな。絶対に云うなよ。
フローリングの床に直に座りブラッドオレンジ・ジュースを飲みながら祈るようにして動画サイトを見ていたが、カ・エルちゃんはやっぱり、
「ヒュウガ・アヤ、それはやったら駄目だと云ったじゃないですか~」
とやらかしていた。
俺はオタクだ。二十代半ばの社会人だ。女は二次元に限る。そんな立派なオタクだ。女体は推しキャラがプリントされた等身大の抱き枕で十分。
そんな、二次元キャラ萌えに身悶えしている正統派のオタクの俺が、何故、B級アイドル薫Kaoruに夢中になってしまったのか。
それはフリージア姫のせいなのだ。
深夜枠のアニメはマニアックなオタクたちには外せない。作画の確かさと硬派な作風で知られるスタジオが送り出した異世界アニメ。そこに出てくるフリージア姫はその名のとおり花のように可愛く美人。
作品は放映開始前からコスプレ界隈にまず支持された。裁断から自作で創り込むコスプレイヤーの審美眼に独自性が高く細部まで凝った衣裳デザインが受けたのだ。美人コスプレイヤーがこぞってフリージア姫の恰好をし始めた。
そんなフリージア姫に似ていると云えなくもない美女が、主題歌を担当する三人組の人気アイドルグループの右翼にいた。そこでオタクたちは想い立った。
姫に似た生身がアイドルの中にいるのであれば、姫の侍女のカ・エル嬢にだって似た娘がいるのでは。
検索の手練れ揃いの電脳オタクたちが地下アイドル薫Kaoruに辿り着くまで0.1秒もかかっていないだろう。
薫Kaoru。
発掘されたB級アイドル薫は、愕くほどにカ・エル嬢に似ていたのだ。3Dプリンターで打ち出されたのかと想うほどに。
動員観客数がそれまで数えるほどだった薫Kaoruは、アニメの放映開始以降、うなぎ昇りに人気が出てライブ会場を満員にするほどになった。彼女をカ・エル嬢と同一と見做すオタクたちが熱烈なファンになったからだ。薫Kaoruはもはや薫ではなく、オタクにとってはカ・エル嬢。愛称「かえるちゃん」だった。
「いつもありがとう」
水色の髪をしたアニメのカ・エル嬢と同じく水色のウィッグを付けたB級アイドル薫さん。薫さんは握手の仕方に特徴がある。
「来てくれて嬉しいです」
男たちが差し出す手を、素早く両手で挟むのだ。眼と眼を合わせて薫さんはにっこり笑う。
「本日の深夜ラジオ。お客さまは、薫Kaoruさんです」
「こんばんは薫です」
「何と読むのが正解ですか? かおるかおる」
「薫で大丈夫です」
「薫さんはアニメのキャラにそっくりということで昨年バズってましたね」
「そうなんです。カ・エルというキャラです。偶然ですがほくろの位置まで同じなんです」
「手許にパネルを用意していますが本当によく似てますね! Kaoruとかえる、名も一文字違いなんて運命的ですね。薫さんのことを全く知らなかったアニメの制作サイドもリアルなカ・エル嬢の存在に愕いているとか」
ラジオの生放送。推しアイドルの声を聴きながら、カ・エル嬢の等身大がプリントされた抱き枕を俺は横抱きにする。
毎晩のお供のそれは、いつしか、生身の薫さんの面影にとって変わった。
逢いに来てくれてありがとう。
薫さんが俺に添い寝をしている。片手に残る薫さんの掌の感触。
B級アイドルになったことで、紙袋いっぱいに集まってくるもの。
それは、ハンドクリーム。
サイン会ではプレゼントを手渡しできる時間がある。そこでわたしのオタクたちは三段論法で考える。かえるちゃんにプレゼントがしたい。何がいいのか分からない。調べてみるとハンドクリームならどんな女でも必需品として重宝するらしい。
だからといって皆が皆それを選んでどうするの。
「ありがとう」
「来週はかえるちゃんの、誕生日だから」
「嬉しいです」
B級アイドルの哀しさだ。上級アイドルたちのように高級ブランド品は望めない。ファン層も実に庶民的で、いただく品々は高校生の男の子がはじめて彼女にプレゼントをするかのようなラインナップだ。でも不満はない。何が混入しているか分からないので即ゴミ箱行きになる手作りのお菓子なんかとは違い、ハンドクリームなら事務所の女性スタッフに配れるからだ。
人気が出てきた最初のうちは推しキャラのアニメグッズでも大量に贈られるのではないかと戦々恐々としていたが、オタクもゲーマーも一般社会と溶け込んでいる昨今ではありがたいことにそんなガチ勢は全体の一割未満だった。少しは彼らに喜んでもらおうかと、そのガチ勢から贈られたカ・エル嬢のイラストのついた公式Tシャツを着てインスタに載せたところ、ばか受けで、さらにそれがTwitterにも流出し、「リアルかえるちゃん」としてトレンド入りもした。
いい香り。
蜜柑の花の香り。
部屋のなかに白い花の香りがしている。いつも最前列にいるいかにもオタクめいた男子から贈られたトワレ。
「ハンドクリームは沢山あるかと想いまして、選ばせてもらいました」
オタクはコミュ障が多いイメージがあったが、社会人として働いている人はそれなりにみんなきちんとした言葉遣いだ。
「ありがとう」
わたしはいつものように、彼の手を両手で包んだ。この握手の仕方に変えたのは、握手会では故意なのか何なのか、力任せに握ってくる奴が必ずいるからだ。男が想っているよりもずっとこちらは痛いのだ。
「蜜柑の花って、蜜柑と同じ柑橘系の香りと想われがちだけど、まったく違いますよね」
「えっ、そうなんですか」
蜜柑の花はジャスミンの香りに近い。香水のことなど全く詳しくなさそうだった。
アニメ一筋で歳を重ねたおっさんが目立つせいか、最前列にいる比較的若い彼のことが何となく、いつも眼に留まっていた。平凡な顔立ち、素朴な恰好。教壇から教室を見渡すように、会場にいる男たちの様子はステージからはよく見えるのだ。
わたしのキモオタくん。
いつしか、わたしは彼にそんな綽名をつけていた。蜜柑の花の香りはいいセンス。
ファンからの贈り物。わたしにはハンドクリームでも、フリージア姫は流石だった。一オンス数万円はする高価なパルファムが彼女の楽屋からは香ってきたし、ハイブランドの最新作のバッグや時計が無造作にそのへんに転がっている。
かえるちゃーん。
姫ー! かえるちゃーん。
アーティストの殿堂、日本武道館にわたしは立っていた。例の三人組アイドルグループの右翼を占めるフリージア姫のお蔭だ。彼女たちの武道館コンサートの余興に呼ばれたのだ。
「特別ゲスト。それは。それは~。じゃん。かえるちゃんです」
耳を聾するという言葉があるが、まさにそんな感じだった。沸き上がる歓呼は埋め尽くす観客のほとんどが男なだけに、戦場の怒号のようだった。
若さが売り物になる年数は限られている。短期間しか許されないアイドル生活をわたしは満喫することに決めていた。武道館を埋め尽くす男だらけの観客と、一等星のように明滅する眩しいライト。蛍の群舞のようなペンライト。アイドルはその中を泳ぐ鑑賞用の魚だ。
「みなさん本当にカ・エル嬢がそこにいるようですね」
「次の曲は、かえるちゃんも私たちと一緒に歌ってくれます」
「それでは聴いて下さい。アニメ主題歌『フレイヤ・プレイヤー』」
惜しみないレーザー光線とプロジェクションマッピング。銀河を映したステージでアイドルが舞い踊る。もともと視聴者もファンも限られていた深夜枠のアニメ作品だ。一般的にはカ・エルなんて誰も知らないだろう。
しかしS級アイドル三人組の御威光もあり、ステージの上でフリージア姫とカ・エル嬢が並んで歌い始めると、武道館の底が抜けて天井が吹き飛ぶのではないかと想うほどの盛り上がりを男たちはみせてくれた。
薫Kaoruにしてかえるちゃん。わたしはカ・エル嬢。異世界に飛び去った女子高生、日向彩矢の代わりに、カ・エルがこちらの世界に来ているのかもしれない。
待って待って。わたしの大切な金の毬。
「お姫さま、池に落ちてしまったお姫さまの大切な金の毬。わたしが取ってあげましょう。お礼にかえるのわたしと結婚して下さい」
あんたと。かえるなんかと。かえると結婚するなんて絶対に厭だわ気持ち悪い。
「さあお姫さま。寝巻きに着替えていらっしゃい」
マジで。
「毬を取ってあげたお礼にわたしとの同衾を王さまの前で約束したはずです」
キモすぎる。かえるの分際で。お前なんか、お前なんか。
お前なんか、こうだ。
かえるをひっ掴むと、お姫さまはかえるを寝所の壁に向かって投げつけました。
べしゃ。
グッジョブ姫。
「薫お姉ちゃん、それ途中でお話変えてるだろ。グリム兄弟『かえるの王さま』」
「大筋はそのままよ」
「さすがにグッジョブ姫は書いてないと想うな」
童話の本を放り出して、わたしはベッドに仰向けに転がった。ライブやイベントのたびにキモオタのエキスを大量摂取しているせいか、たまに普通の人間が無性に恋しくなる。
そこでわたしは中学生の弟を呼び出したのだ。高校受験を控えた弟も息抜きがてら、問題集を抱えて小旅行気分で隣県からわたしの暮らす単身者用マンションにやって来た。
「そこで終わりなの。べしゃ」
「違うわよ」
わたしは伏せていた本を取り上げた。
べしゃは未遂だ。壁にぶつかる寸前にかえるは立派な王子さまの姿に変わるのだ。べしゃが完遂していた場合は壁に激突して死んでいたのか、魔法が解けたのか、あのままお姫さまが嫌々ながらもお床入りしていたら最後までキモいかえるのままだったのか違うのか、そこはまるで不明なのだ。壁に向かって誰かに投げつけてもらうのが魔法が解ける肝だったのだろうか。まったく謎だ。
「姉がアイドルをやっていること、学校で云ってないでしょうね」
「云わないよ。完全なる黒歴史だし」
「傷ついた」
「いいじゃん、目立たないB級アイドルならいつでも世俗に戻れるよ」
そうなのだ。
わたしは元々モデル事務所に登録していて、イベントのアシストをしたり、たまに女性誌に読者モデルとして出てお小遣いを稼いでいただけなのだ。歌唱力があったのでそこからB級アイドルになる話が出てきてそれに乗ったが、決まっていた就職先が倒産しなければ今頃は会社員だったはずだ。素顔のわたしは何処にでもいるような地味な女の子。
「台風すごいね」
暴風域に入ったのか、窓を叩く雨風が強くなっていた。
》後篇
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