さらりと書いてあるが、難易度が高い

 自分の経験したことしか書けないんだぞ!
 自分の中にあるものしか書けないんだぞ!

 ある粘着質の方からしきりに云われた言葉なのだが、わたしの考えは異なっていた。
 そう云っている本人も言葉の意味を理解していないような感じだったので、どこかで聞きかじった、「賢そうにみえる言葉」をただ放言していただけなのだろう。
 なぜなら、上から目線で怒鳴りつけるだけ怒鳴りつけてくるわりに、「それはどういう意味でしょうか」と少し内容に突っ込むと、本人自身の考えは無いために、何も応えられない人だったからだ。

 ともあれ、その言葉に対してわたしは「違うな」と毎回、想っていたのだ。
 不倫をしたことがなくても、不倫をする人を書き、人を殺したいと想ったことがなくとも、それをそのように書けるのが、物書きだと想うからだ。
 書くにあたり資料にあたったものを指して、「自分の中にあるもの」と呼ぶのであれば、それはそうだろうとしか云えないが、経験については完全に意見が異なっていた。

 殺人ならば、「書ける」者は多いだろう。
 殺した後、解体して煮込む描写も、細部まですいすいと書ける人は多い。
 しかし、日常の延長上にある「きちがい」を書くのは存外に難しい。

 全てが少しずつズレているのだが本人の意識ははっきりしていて、難癖つけの文章も文章的には破綻なく書け、云い分においても何らおかしいとは想っていない自信が滲む。
 誤字脱字について執拗に触れているあたりも、異常者であることをじわじわと醸し、まともな人ではないのだと読者に痛感させていく。
 スーパーや電車の中でたまに見かける変な人を、傍観者の側からではなく、その人本人の側からそのように書いている。
 やばい、こいつに関わりたくない。
 読者にそう想わせながらも、「きちがい」は意気揚々と重箱の隅つつきに励むのだ。

 面白いかどうかを超えて、この小作品にはそうざさんの物書きとしての底力を感じる。