世界を描け

秋保千代子

 親を選んで生まれてくることはできぬ。兄弟の生まれる順序すら、己の意思で決められぬ。故に、この時代この場所この家に斯様な身で生まれたことを天の采配――運命と言わずして何と呼ぼうか。


 宝暦四年、徳川家の征夷大将軍が世を統べる中で恭信とものぶが生まれ落ちたのは、画業を生業とする狩野の家だった。

 この狩野の家、祖から続いて京に残る者もあれば、京から江戸に下ってきた者もいて、千々に分かれた血脈のどこまでを我が家と呼んでいいのか難しい。

 恭信にとっては、命を授けてくれた父母のいる江戸木挽町の狩野家が『我が家』だ。徳川家の征夷大将軍に御用絵師として重用される江戸の一族、その中でも宗家に次ぐ勢いを持つ家。お城にも近い場所に屋敷と、全国から弟子が集まる画塾を構えた家。その一員である恭信の人生は、端から見たら華々しいものなのだろう。

 だが、恭信当人はくすぶっていた。

 原因は兄だ。

 一つ年上の兄。数え十二の年から奥御用を承り、働いている。

 それは長男だからだ。たった一年、恭信より生まれたのがたった一年早かっただけで長男という立場を手に入れて、重用されている。

 背がずば抜けて高いということはなく、体つきが逞しいわけでもない、おっとりとした性格の持ち主だ。描く絵も、繊細に過ぎる線と淡く滲む色彩で、迫力に欠ける。四方八方どこから見ても、これからの狩野家を担う絵師として、静か過ぎた。

 対する恭信は、太い線に濃い色の大胆な絵を作る。腕も太く、体も大きい。頼り甲斐という意味ではどうやったって己の方が優れているはずだ。

 なのに、周囲はそう見てくれない。

 次男の恭信は二十五になるまで出仕できなかった上に、一月経った閏七月にやっと、上様に拝謁できた。


「兄上」

 緊張の初お目見えの後。上様の御前を辞して、屋敷に帰りつくなり、恭信は兄の私室に飛び込んだ。

 嫡男らしく、兄が使っているのは、陽当たりが良い広めの部屋。陽当たりの良さこそ負けないものの、自室を手狭に感じている恭信にとって、この部屋は羨ましい。

 やはり広いと思いながら見回せば、奥に布団を敷けるだけの隙間を確保して、床には筆と紙が散乱していた。どの紙も既になにがしかの線が走り、色が載せられている。表の画塾で描くのとはまた別の絵を描いていたと思われたのだが。

 特に大事そうに広げられた紙には、墨しか走っていない。

 本題を忘れて。

「今度は何を描いているんですか」

 墨一色の一枚を指差すと、兄は困ったように微笑んだ。

「お寺で見た曼荼羅図を見よう見まねで描いているんだが…… 難しいな、これは」

 中央に題目。周囲には如来菩薩明王天高僧の名前がひしめき合って並ぶ。なるほど確かに曼荼羅図だ。

「何故、突然」

「世界を描いてみようと思ってね」

「仏ではなく?」

 この兄はとことん穏やかな気質で、得意とするのは仏画だ。釈迦如来、観音菩薩、毘沙門天に鬼子母神、慈愛を湛える顔を描かせると実に良い、というのが師でもある父の言。

 とはいえ、字だけが躍る紙は。

「絵師の作るものではないでしょう」

 呆れを隠さず声を出す。

「やはり変だよな。字を書くのは難しいと痛感したよ」

 恭信の呆れを間違って受け取った兄は、笑い直した。

「俺にはやはり絵がいいな。お坊様には怒られるだろうけど、周りの仏様を絵に換えて、もう一度書き直そうかな」

「……そうなさいませ」

「よし。ありがとうな、聞いてくれて」

 うん、と頷いて。兄は筆を握り直し、紙に向かう。

 その背中にはっとなる。

「そうじゃない。俺の用事は曼荼羅ではないです、栄二郎兄上」

 わざとらしく幼名で呼ぶ。

「なんだよ、白川はくせん

 振り向いた兄はあざなで呼んできた。

 名も呼ばれぬ、とこめかみを引き攣らせて、恭信は言った。

「先ほど、上様と初めてお会いしました」

「ああ、そうだったな。お疲れ様」

「本当に疲れました。あなたの話題になったんですよ!」

 いわく。二年前に日光山に絵馬を奉納する際に、その絵馬の装飾を任せたが、出てきたのは吉祥天の微笑む姿であった、と。

「武士が捧げる一枚なのに、何故武者絵でなかったのですか」

「俺に刀は似合わないんだよ」

「そういう問題でないでしょう。仮にも、武士の集う場所に、武士が慕う東照権現様に捧げるものに、勇ましさがなくてどうするのです」

 恭信が捲し立てる間、兄はずっと苦笑いだった。はぁ、と息を切ったらやっと。

「おまえが描いたら、雄々しいものが出来たのだろうな」

 と言ってきた。

「全くです」

 目の前がクラクラする。

 優れていると自負する画才、兄がいるせいで活かせない。



 その日は浄瑠璃を観に行った。嫁がその姉妹と観劇の約束をした、付き添いだった。

 演目は、それぞれの家の金と身分の違いを苦に川に身を投げる恋人たちの噺だ。滔々と述べられる切ない心情に、嫁と姉妹たちは鼻を啜っているが、恭信は苛々していた。

「嗚呼、此れもまた運命よ」

 と、変えられないものを受け入れる姿勢が気に入らない。そこまで想い合っているのならば、もっと足掻け、添い遂げよ。来世の再会などに期待してどうする。

 幕が下りた瞬間、天を仰いだ。運命運命運命、と苛々する。


 けろりとした顔でお喋りを続ける姉妹たちを置いて、恭信は先に家路についた。

 がつがつ足を動かすと、道の石がコツンと当たり、勢いよく転がっていった。すれ違った女人がぎょっとした顔で振り返る。気づかないふりで、肩をいからせて歩く。

 歩き続けたかったのに。

「おおい、そこな少年」

 声がかかった。一回目は無視。

「おぬしだよ、おぬし」

 二回目。石をぶつけてすみませんでした、心の中で呟いて、走り出そうとして。

「おぬし、止まらぬか」

 逃げられなかった。

「苛々しているな、少年」

「そんな年齢じゃない。二十五だ」

 毒突きながら振り返ると、道端に敷いた茣蓙の上に、胡散臭げな男がいた。

「儂からすれば十分若い」

 そう言った男は、胡座をかいていても背中が曲がっている。顔や首、手の甲には皺が目立つ、相当な年寄りだ。

「なんだあんたは」

「陰陽師さ」

「胡散臭い」

 恭信が睨むと。

「世間では、詐欺師と呼ばれて形見が狭い」

 だが、と老翁は喉を鳴らした。

「陰陽道に不思議なし、と言ってだな…… 人や物事がどう進むのか、見えてしまうものなのよ」

「冗談はよせ」

「さらに、見えたものを告げたくなるのがさがというものでな」

 顎の肉まで揺らしながら、老翁は、じっと恭信を見つめてきた。

「当ててみせよう。おぬし、苛々しているな」

「それは人が進む道と関係ないだろう」

 鼻を鳴らしても、老翁は視線を外さない。

「原因は家族か。親か兄弟か……」

 むしろ体がこちらに傾いてきている。

「ふむ、兄弟か」

「何故分かる」

 ガッと踏み出して、老翁の茣蓙の正面に立つ。恭信が老翁を見下ろせる位置に、その気になれば拳を振り下ろせそうな場所に来たにも関わらず、老翁はびくともしない。

「だから、陰陽道に不思議なし、とね。おぬしの在り方は家の在り方と深く結びついているようだ。だから尚のこと、兄弟の縁を簡単に切れぬのだろうよ」

 ひたと見つめられて。

「……だとしたらどうしたらいい」

 呻くと。

「諦めよ。運命じゃ」

 聞きたくない返事があった。

 なんの解決にもならない。恭信は特大の溜め息を吐き出した。



 それでも毎日は続く。将軍家から御用を承ることも、画塾で弟子を指導することも続く。

 本来であれば、木挽町の画塾の指導に当たるのは父だ。だが、今日に限って兄がいた。

 襖も障子も取り払った大きな空間で、机が並ぶ。それぞれの前に座るのは、父の若い弟子たち。その間を歩き回っていた兄に。

「何をなさっているのです」

 問うと。

「代理だ。父上は上様のお呼びがあったんだ」

 答えはあっさりと返ってきた。恭信がいるのを知りながら、兄はまだ歩き続け、弟子たち一人一人の手元を覗き、一言二言告げて、模本や紙を置いていく。

 その肩に手を置いた。

「勝手な指導を」

「しているつもりはないよ」

 柔らかな笑みで、兄は恭信に向いてきた。

「狩野の指導の方法は祖父までの代で出来上がっている。山水人物図を模写し、花鳥図を模写し、彩色を学んでいく。そのとおり進めば必ず上達する。俺がやっているのは、模写を進めるためのコツを伝えることだけだ」

 粉本主義、前例を続けていくことを是とする言い方だ。決まった道を、運命を進むことを受け止めた言い方。

「だから、同じ題材しか描かないのか、兄上は」

 嫌味を言った。

「そうかな?」

 兄はそれに気付かない。恭信はまた言った。

「仏ばかり描く」

「うん、そうかもな。言われてみれば、まだ曼荼羅を描いているよ」

「まだ!?」

 素っ頓狂な声が出た。脳裏に中央に題目が置かれた図を思い描きながら、兄を見つめる。彼は頬を掻きつつ言った。

「今ので十二枚目かな」

「そんなに描いて…… いったい、何が気に入ったんだ」

「世界を描くんだよ、曼荼羅というのは。面白いよ」

「左様ですか……」

 まだまだ呆れた声が出る。兄に対してはこんな声ばかりだ。

「まあ、いいじゃないか。御用の時は違う絵も描いているよ」

 それでも笑う兄に。

「仏が、曼荼羅が好きか」

 ふと、問うた。

「そうだな」

 兄の表情は変わらない。

「相対していると、心が落ち着く。それに、同じものを描いていると言っても、その都度で変わっていくから、その変化を自分でも面白いと思うよ」

「全部取ってあるのか」

「さすがに捨てるのは忍びない。願いを託した存在だからでもあるな」

「祈ってどうする」

「祈るしかできぬことが多い故」

 その瞬間。兄の顔から笑みが消えた。静かな、怒りもなにもない顔になって、そして。

「そう思わないか、白川?」

 問うてきた。ぐずり、心臓が跳ねる。



 外。夏の暑さを通り越した日差しは穏やかだ。伸びやかな雲も澄んだ空も、人々の笑い声も。耳に目に、肌に、心地良い。それが江戸の街だ。

 だと言うのに。

「苛々しているな」

 道端の茣蓙に座った老翁は恭信に苦笑いを向けてきた。

「またおまえか、占い師」

「陰陽師だ」

 行けば会えると踏んでいたから此処に来た、むしろ会いたいと思っていたのかもしれぬというのに。いざその顔を見ると腹が立った。

「おまえ、なんでまだ此処にいるんだ」

「ここにいろ、という導きがあるんじゃよ。運命ともいう」

 また運命の話か。眉が寄る。老翁は扇を広げ、その陰で笑う。

「太陽が勢いを増すと、雪が溶け春が来る。だがその太陽もやがて息が切れ、すると北風が吹き、また雪が降る。季節の移り変わりの理は、人間には変えられぬ」

 な、と同意を求められ、恭信は曖昧に頷いた。

「変えられぬ理を、はっきりと見つけるのが陰陽道よ」

「それが、陰陽道に不思議なし、の正体だと?」

「然り」

 ぎゅっと眉根を寄せると、老翁は扇を閉じ、欠けた歯を見せた。

「同じように、人間にも外れられぬ理がある。だが、それは時に人間が生きる理由ともなる。その一つだと考えるのだが、儂は得た知識と術で、人の悩みを助けることができると自負している。そのためには此処にいるのが良いのだと納得している。儂が人を助けるための道だ。そして、誰しも、何にも、そういう道がある。無論おぬしにも」

 そこまでを一息に言っておきながら。

「道を知りたいか?」

 これだけはゆっくりと老翁は告げた。

「知りたいと言えば教えてくれるのか」

「おぬし自身ではっきりさせるんじゃよ、絵師殿」

「……俺が絵師と知っていたのか」

「これもまた、陰陽道に不思議なし、よ」

 ふふふ、と口元の皺を弛ませて、老翁は続けた。

「絵師殿に運命は既に見えているし、形にできるだろう?」

「知らぬ」

 運命などあって堪るか。己の意思で選んだわけでない立場を甘受することなどできない。

 唇を曲げると、老翁がまた言った。

「では、知らぬと言うことを描くか?」

「知らぬ、か。いいや、違うな」

 知らないわけではない。己の望む道ならば分かっている。今の世界と食い違っているというだけだ。

 ならば。その理想の世界を描け、ということか。

「いいだろう」

 恭信はぎゅっと口の端を持ち上げ。


 屋敷に走って帰った。食事は、という問いに首を横に振り、机の前に滑り込む。

 世界を描いてやる、恭信が理想を描いてやる、と墨を含ませた筆を握った。

 そして、白紙の中央に題目を書いた。そこから世界が広がる。恭信の願う世界を広げる。

 運命よ、そこのけそこのけ作家が通る。

 願いを囲うのは、釈迦如来に毘沙門天、八百万の神々。世界の守護者たちの目元に、最後、魔除けの朱を入れた。

「出来た」

 鼻息荒く立ち上がり、紙を持ち上げた。目の高さにやってきた曼荼羅、その全体を目に入れる。

 すべてを把握したはずの世界に。

「なんだ、これは」

 恭信は愕然と呟いた。

 何千何万と描かれてきただろう曼荼羅と、兄が描いた世界と、恭信のこれに違いが見つけられない。

「なんてことだ」

 正体は、中央の題目。揺るぎない祈りだ。それがあるが故に。

 世界のあり方は決められている。人間がどんなに喚いたところで変えられない絶対のものがある。

 それが故かは分からぬが――もしかしたら、これこそ陰陽道の範疇なのかもしれないが。

 親を選んで生まれてくることはできぬ。兄弟の生まれる順序すら、己の意思で決められぬ。故に、この時代この場所この家に斯様な身で生まれたことを天の采配――運命と言わずして何と呼ぼうか。

 指からするり紙が落ちた。目の端からは涙が。

 はは、と嗤う。

「儘ならぬものだな」

 だから人は神仏に祈るのだ。

 せめて寿命くらいは兄に勝らせてくれ、と恭信は両手を合わせ、南無と呟いた。


(了)

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