2 紳士の選択

「……もしかして、私を食べようということですか?」


 そう考えれば、彼が遠縁の親戚に過ぎない私を、今になっていきなり家に招待したことにも説明がつく。


 私の両親はどちらも早逝で、母は私が大学生の頃に、父も数年前に他界してしまっている。また、そういう家系なのか、父方母方どちらの祖父母もすでに亡くなっていた。


 加えて、私は一人っ子で他に兄弟はおらず、親戚付き合いもほとんどない。血縁以外に人間関係を広げても、妻や恋人どころか、定期的に連絡を取り合うような親しい友人さえいなかった。


 つまり、私がいなくなったとしても、そのことを問題にする者はまず現れないのである。食材にするには、都合のいい人間だと言えるだろう。


 それに、自身の家に招くというやり方も巧妙である。どこかに怪しさを感じていたとしても、日本有数の富豪である彼からの招待は断りづらい。それどころか、何かあることを期待して、喜び勇んで誘いに応じるに違いなかった。


 今でこそ彼と二人きりだが、部屋に案内されるまでに、使用人が何人もいるのを見てきた。その中には、格闘家顔負けの屈強な男たちがいたことも覚えている。この家から力ずくで逃げ出すのはまず不可能だろう。


 言うなれば、私は彼という巨人の口の中に、自ら飛び込んだようなものだったのだ。


「ははは、まさか」


 私の想像を、彼はそう笑いながら否定した。


「君は小説家なんだろう? だから、知恵を借りたいと思って、今日は来てもらったんだ」


「知恵……ですか?」


 彼が訂正したのを聞いても、私の顔つきはまだこわばったままだった。


「それは、その、人を殺しても捕まらない方法を考えろという……?」


 犯人が特定されないような誘拐の仕方。あるいは、失踪しても騒ぎにならないような標的の選び方。そういったことを相談するために私を呼び出したというのだろうか。


 確かに、昔はミステリ作家を志望していたから、完全犯罪の方法についてはあれこれとない知恵を絞ったものだが――


「まさかまさか」


 彼は再び私の想像を笑っていた。


「私だって人並みに良心はあるつもりだよ。他人を殺したり傷つけたりするのは可能なかぎり避けたい。だから、君には他人を害することなく人肉を食べる方法を考えてほしいんだ」


「そういうことでしたか……」


 私はようやく安堵の息をもらす。


 冷静に考えてみれば、象の肉の話をした時にも、彼は似たようなことを口にしていた。


『味はぼんやりしていたけれど、食べられないというほどじゃなかった。問題は象は狩猟が禁止されていることだ。だから、自然死した個体が見つかるまで、現地で何ヶ月も粘らなくちゃいけなかった』


 彼は珍しいものを食べることに関して、並々ならぬ情熱を燃やしている。もはや異常者と言っても過言ではないくらいだろう。


 しかし、その一方で、彼は人並みの倫理観も、いや金でいくらでも揉み消せそうなのに違法行為に手を出さないあたり、人一倍の倫理観も持ち合わせているのだ。


 だから、彼は続けてこうも問いかけてきた。


「それとも、たとえ他人を傷つけないとしても、人肉を食べること自体が問題だと思うかね?」


「……いえ、そこまでは思いませんね」


 自分と同じ人間の肉を食べるというのは、それだけで猟奇的で非人間的な行為に思えてしまって、私はとても実行したいとは思えない。


 だが、海外の一部の地域では、自然死した集落の仲間を葬儀の意味を込めて食べるという、一種の文化的な行為として人肉食が行われていた例もあったという。そのため、彼の願望が絶対に許されないものかと問われると、必ずしもそうではないのではないかという思いがあるのも確かだった。


「先程は失礼なことを口走りまして、申し訳ありませんでした」


「いや、構わないよ。妙な話を持ちかけた私のせいだからね」


 本当に失言を気にしていないらしい。寛大にも、彼は柔和な表情を浮かべて、私のことを許してくれたのだった。


 もっとも、それは単に、他に気になることがあったせいかもしれない。


「それで何か思いついたかね? いいアイディアを聞かせてくれたら、相応の謝礼はさせてもうつもりなんだが」


 実のところ、彼に話を打ち明けられた時点で、案ならすでに思い浮かんでいた。


「遺族を買収して、死体の一部を分けてもらうというのはどうでしょうか?」


「それにはいくつか問題がある。一つは鮮度だ。牛肉や豚肉だって、死んだあとすぐに下処理を始めないと、味が落ちてしまうだろう?」


「珍しいものを食べたいとおっしゃっていましたが、やはり味も重要なんですか?」


「なるべく最高の状態で食べなければ、その食材を本当に味わったとは言えないと思うのだよ」


 食べようとしているのが人肉だという点を除けば、至極もっともな意見だろう。私は案を取り下げるしかなかった。


「では、死ぬ前に契約をしておいて、死後すぐに肉の処理を始めるというのは?」


「そうすると、保険金目当てで事件が起こるように、契約金目当てで殺人や自殺が誘発されかねないだろう? それがもう一つの問題だ」


 先程、彼は「他人を傷つけずに人肉を食べたい」と言った。それは彼自身が直接傷つけるのはもちろんのこと、他人が間接的に傷つけることさえも認めないという厳格なものだったようだ。


 であれば、あらかじめ傷つくことが決まっている者を対象にすればいいのではないだろうか。


「病気で手や足を切断する予定の人に声を掛けるのはどうですか?」


「それも考えた」


 そう頷く彼の表情は決して明るいものではなかった。


「だが、『人の口に戸は立てられぬ』と言うからね。金で患者や医者を抱き込むにしても限度というものがある。

 人肉を食べることについてはいろいろ議論があるが、少なくとも現代のこの国では禁忌扱いだ。たとえ傷害や殺人を伴わないとしても、人肉を食べたと知られたら、まともな人間と見なしてもらえなくなるだろう。


「私だけの問題ならそれでもいいかもしれない。だが、非難の目は間違いなく家族にも向くだろう。それに会社のみんなにだって迷惑がかかってしまう。それは困るんだ」


 彼が言う「他人を傷つけたくない」というのは、単に食材になる人間の肉体的な面だけを指したものではない。彼の周りの人間の精神的あるいは経済的な面まで含めてのものだったらしい。彼は人肉を食べることに取り憑かれている一方、奇妙なまでに周囲に対して心を砕いているのだ。


「失礼を承知で言えば、君に相談したのもその打算からなんだよ。もし言いふらされても、君の職業柄、ただの妄想だと世間は考えると思ってね」


「ああ、なるほど」


 私は小説家(正確にはシナリオライター)である。彼の後ろ暗い秘密を吹聴したところで、周りからは「想像と現実の区別がつかなくなった」と思われるのがオチだろう。あるいは、私のうだつが上がらないことを槍玉に上げて、「金持ちに嫉妬して妙な噂を流している」と馬鹿にされてしまうだけなのではないか。


 また、遠縁とはいえ、私と彼とは縁戚関係にある。少なからず血の繋がりのある相手なのだ。そういう意味でも、彼の秘密を誰かに話す気にはなれなかった。


「それなら胎盤はどうですか? 人体の一部ではありますが、出産したあとはへその緒と同じく不要になる器官ですから、たとえ世間に食べたと知られても風当たりはそう強くないのではないでしょうか。確か、海外では食べる風習がある国も存在していたはずです」


 アメリカの一部の人々の間では、胎盤食は産後の体調回復に効果があると考えられているそうだし、中国でも古くから『紫河車』という漢方薬として利用されてきたという。私の記憶が正しければ、日本でも有名人が食べたことを告白した例があったはずである。


 一般的とは言えないまでも、この通り国内外に前例が存在しているのだ。たとえ彼が食べたとしても、非難の声は少数に留まるのではないだろうか。


「……胎盤ならもう食べたことがあるんだ」


 思わぬ返答に、私は拍子抜けしてしまった。


「なら、人肉を食べるという目的は達成されているのでは?」


「胎盤というのは内臓の一種だろう? 内臓を食べただけなのに、『牛を食べた』と主張する人間がいたら君はどう思う?」


 その味を否定するつもりはないが、やはり肉といえばロースやカルビといった筋肉の部分になるのではないか。レバーのような内臓だけでは、牛肉を食べたとは言えないだろう。彼は人肉に関しても同じように考えているのだ。


「では、培養肉はどうですか?」


 培養肉とは、動物から採取したわずかな細胞を、培養し量を増やして作った人工の肉のことである。コストなどの問題からまだ流通はしていないが、牛肉や豚肉の培養肉の作成自体にはすでに成功していると聞いている。その技術を応用すれば、人肉の培養肉を作ることも可能なのではないか。


 しかし、この提案を聞いても、彼の表情は浮かないままだった。


「培養肉ももう食べたよ。だが、あれはまだ技術的に未熟なようでね。培養の牛肉も食べたから分かるが、元の味を再現できているとは言いがたいんだ」


 本物と味が違うようでは、人肉を食べたとは言えない、ということだろう。私はこの案も取り下げざるを得なかった。


 彼を満足させるには、やはり本物の人肉を食べさせるしかないようだ。


「でしたら、飛行機や船に乗るのはどうですか?」


「どういうことかね?」


「飛行機や船が事故に遭って、遭難するのを待ちます。そして、食料がなくなって、死体の肉を食べるしかないという状況になるのを期待するんです。

 緊急避難といって、自身の命を守るためなら、違法行為をしても罪に問われることはありません。もちろん騒ぐ人間は出るでしょうが、擁護してくれる人も多いはずです」


 実際、過去にはそういう事例が存在している。


 ウルグアイの学生ラグビーチームを乗せた飛行機がアンデス山脈に墜落。遭難した場所が何も食料になるものが存在しないような高山地帯だったため、彼らは生き残るために仕方なく、事故死した友人たちの肉を食べることを決断した。


 けれど、生還後にその事実が明るみに出た際、彼らの行動は死体損壊などの罪には問われなかったし、彼らを非難する声もさほど上がらなかったそうである。それどころか、時のローマ教皇が直々に赦しを与えるとのメッセージまで送ったほどだという。


 このように、法的にも倫理的にも、緊急事態での人肉食はやむを得ないものだと考えるのが社会通念なのである。だから、偶然が重なりさえすれば、彼が望みを果たすことも可能で――


「それはあまりに確率が低いだろう」


「…………」


 飛行機や船舶の事故に遭う確率。他の客が死亡したのに、彼は生存する確率。救出までに食料が足りなくなる確率…… と考えていくと、実現することはまずありえないだろう。


 それに彼の信条として、事故が起こるのを――傷つく人間が出るのを期待するような方法は好ましいものではないはずである。提案を却下したのには、そういう理由もあったのではないか。


「やはり難しいかね」


 私が黙り込んでしまったのを見て、彼は半ば諦めたような口調で呟いた。


 だが、私は考えるのをやめていなかった。


 もちろん、謝礼金が魅力的だったということは否定できない。彼は国内でも指折りの大富豪なのである。口止め料も兼ねて、かなりの額を支払ってくれるのは間違いないだろう。私のような下流の人間には見逃すことのできないチャンスだった。


 また、彼への謝罪の意味もあった。最初、「私のことを食べようとしているのではないか」と失礼な誤解をしてしまったから、その埋め合わせをしておきたかったのである。


 しかし、何よりも、私は彼の力になりたかった。人肉を食べたいという異常な欲求に取り憑かれ、それを簡単に実現できそうなほどの金や権力を持ちながら、それでも人の道をはずれるようなことは決してしようとしないこの屈折した紳士のことを、私はいつの間にか好ましく思うようになっていたのだ。


「……一つだけあるにはあります」


「何かね?」


 実を言えば、真っ先に思いついた方法の一つだった。ただ内容が内容だから、これまでは口にするのを躊躇ってしまっていたのだ。


 それどころか、彼のことを好意的に思い始めていた今この時の方が、ある意味では言い出しづらいような内容だった。


 その方法とは――


「あなた自身を食べることです」


「何?」


 彼は驚いたように目を剥く。


 つまり、すでに検討した上で却下していたわけではない、ということだろう。だから、私は説明を続けた。


「指か耳を切り落とすか、太ももの一部をえぐるという手もありますか。なるべく生活に支障が出ない部分の肉を採取するんですよ。これなら他人を傷つけることなく人肉を食べることができます。

 それに、対外的には事故で切断したと説明すれば、あなたやご家族が責められることもないでしょう」


「そうか。そんな手が……」


 彼の出した『他人を傷つけたくない』『新鮮な状態で下処理を行いたい』『筋肉部分の肉を食べたい』といった条件を、この案ならすべてパスできるだろう。


 もっとも、周囲が彼の怪我に心を痛めるという意味では、他人を精神的に傷つけてしまっているという見方もできる。また、指や耳は食肉の部位としてはマイナーで、本当に人肉を食べたと言えるかどうか微妙なところかもしれない。


 それに、そもそもが自傷行為なのである。他人が傷つかないというだけで、彼自身は肉を切る時や怪我が治るまでの痛みに耐えなくてはならない。その上、切り落とした部位を食べる以上は、たとえ治療が済んだとしても、怪我が障害として体に残り続けてしまう。


 そのため、あれだけ人肉食に情熱を燃やしていた彼も、すぐには決断しかねるようだった。「いや、しかし……」などと呟きながら、考え込み始めてしまったのである。



          ◇◇◇



 後日――


 私は再び、彼の家に招かれていた。


「先日は素晴らしい助言をありがとう」


 そう言うと、彼は紙切れを差し出してきた。一万円札……などというケチくさいものではない。0がいくつも並んだ小切手である。


 しかし、私にはその額面よりも気になるものがあった。


 小切手を差し出した時の彼の手である。


 彼の左手には包帯が巻かれており、さらに小指の根元から先がなくなっていたのだ。


「……お食べになられたんですね?」


「ああ」


 家に招待された時点で正直予想はしていた。それでも本人の口から実際に聞かされると、どうしても面食らってしまって、表情をこわばらせることしかできない。


 そんな私とは対照的に、彼は嬉々として感想を語り出していた。


「人肉は栄養がないという話を聞いていたから、正直味の方はあまり期待していなかったんだがね。これがなかなか美味くて驚いたよ」


「そうですか。それは……」


 よかった、と言っていいものなのか。それが分からず、私は言葉を濁すしかなかった。


 いくら自身の体とはいえ、彼に人肉食をさせてしまった。また、人肉食をさせるために、彼に自傷行為をさせてしまった。本当にこれでよかったのだろうか。止めるべきだったのではないだろうか。


 それに、たとえ自傷行為をさせるとしても、もっと別の方法があったはずである。


「手の指を食べられたのですね」


「ああ、そうだよ」


「足の方が支障が少ないかと思ったのですが……」


 いくら利き手でない方の小指だけとはいえ、なくなれば物を握る時などに不便だろう。失うなら足の指の方がまだ負担が軽かったはずである。


 前回相談を受けた時、私は障害の影響が出にくい箇所として、指や耳を例に挙げただけだった。だが、それぞれの器官を失うとどんなリスクがあるのか、もっと詳しく説明をしておくべきだったのではないか。


 そう後悔や罪悪感を覚える私に対して、彼はあくまでも紳士的な微笑みを向けてくるのだった。


「足の指ならもうすべて食べてしまったよ」




(了)

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人喰い紳士 蟹場たらば @kanibataraba

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