人喰い紳士
蟹場たらば
1 紳士の欲望
芸術作品かと見まがうほどの美しいケーキだった。
ルビーのように輝きを放つイチゴ。フリルのように愛くるしい形のホイップクリーム。
イチゴの赤とクリームの白の下には、ふわふわとしたスポンジの黄色が続き、さらに再び白、赤、黄と色を重ねていく。断面でさえ華麗で、今まで食べたショートケーキのそれが地層だとすると、このケーキは
このまま見ているだけでも十分楽しめそうだったが、そういうわけにもいかないだろう。芸術作品を破壊してしまうことに躊躇いを覚えながらも、私はフォークを突き立てる。
その味は――
「どうかね?」
彼の質問に、私は微笑を浮かべた。
「ええ、美味しいですよ。とても美味しいです」
嘘だった。
まったく美味しくなかった。
しかし、まずいというわけでもなかった。
本当のことを言えば、緊張のせいでちっとも味が分かっていなかったのである。
一緒に出してもらったコーヒーに関しても、似たような感想しか思い浮かばなかった。ケーキと同様におそらくトップクラスの高級品なのだろうが、脳に何の味覚情報も伝えてこないまま、舌から喉へとただ流れていくだけだったのだ。……もっとも、私の貧相な味覚では、コーヒーの味など普段から「苦い」か「薄い」かくらいしか分かっていなかったが。
この日、私は遠縁の親戚の家を訪れていた。
より正確な表現をするなら、これまで一度も顔を合わせたことのない親戚に招待されて、彼の住む豪邸を訪れていたのだった。
フットサルでもできそうなくらい広い部屋。海外ブランドのオーダーメイドとおぼしきテーブルやイス。そして、レストランでもめったに出てこないような高価なケーキとコーヒー…… それぞれの品自体には親しみがあるはずなのに、素材が高級だったり作りが丁寧だったりして、今までに見てきたそれらとはまったくの別物のようだった。
そのせいで、私は美しさや華やかさ以上に、居心地の悪さを感じてしまっていた。それどころか、「こんなきらびやかな場所に、自分のようなみすぼらしい男がいていいのだろうか」と、劣等感さえ覚えていたほどだった。
「あのー」
ケーキをしばらく食べ進めたあと、私は初めて自分から彼に口を利いた。
仕立てのいいスーツ、気品あるデザインの腕時計、紳士的な顔つきと態度…… 家具やケーキセットなどと同じく、本来なら相手は私が一生接することのないような雲上人である。声を掛けるだけでも緊張してしまう。
しかし、かといって、このまま彼とここで過ごしていたら息が詰まりそうだった。だから、今すぐにでも帰れるように、私はさっさと用件を済ませてしまおうと意を決したのである。
「自分に相談したいことというのは?」
「うむ……」
そう答えたきり、彼は黙り込んでしまう。
どういうことか分からないが、彼は彼で緊張を覚えているらしかった。
自分の死後、遺産を私に与えたい……というような話ではないだろう。確か、彼の年齢はまだ六十手前だったはずである。遺産相続のことを考えるのは、まだ十年、二十年先の話なのではないか。
また、仮に彼が大病を患っていて、余命がいくばくもないとしても、私を相続人に選ぶかは疑問である。私と彼は今日が初対面というほどの、遠い遠い縁戚関係でしかない。いくら遺産が莫大なものになるとはいえ、渡すのにふさわしい人物がもっと他にいるはずだろう。
かといって、まさか私の本当の父親が彼だというような展開も、あまりにドラマチック過ぎて非現実的だが……
などと、私が想像を巡らせていると、彼はようやく口を開いた。
「君は小説家なんだそうだね?」
「え? ええ、まぁ。正確にはシナリオライターですが」
ミステリ作家になることを夢見ていた私は、大学卒業後もしばらくはフリーターをしながら、新人賞に投稿するという生活を続けていた。しかし、何年経っても芽が出なかったため、将来を考えてやむなく就職を決意。その結果、運よくゲームアプリの制作会社に拾ってもらえたというわけである。
もっとも、長年投稿生活を続けても作家志望者止まりだった私は、シナリオライターとしてもパッとしなかった。上が考えた大まかなストーリーに従って、細かく台詞を調整するだけというのが主な業務内容だったのである。その上、それも決して会社やユーザーから高く評価されているわけではなかった。
この家に招待される前にネットで調べたことだが、私と同じ年の頃には、彼はもう自分の会社を興して、社長という立場で働いていたらしい。それどころか、すでに外食産業界隈では、有望株として認知されていたそうである。ここまで差をつけられてしまうと、大した才覚だと驚き感心するばかりで、嫉妬する気にもならない。
しかし、彼は彼で、決して順風満帆な人生を送ってきたというわけではなかったようだ。
「今でこそ、この通り不自由のない生活ができるようになったけれど、子供の頃の我が家はひどく貧しくてね。平日は給食をめいっぱいおかわりして、休日は腹を空かさないように外に遊びに行かずに、代わりに家で内職を手伝うという、そういう生活を送っていたんだよ」
「それは大変でしたね」
ネット検索で出てきたから、彼の生い立ちについても概ねのところは把握していた。幼い頃に父親が失業した上に再就職が上手くいかず、また母親も体が弱くて働きに出るどころか逆に薬代を必要としていたくらいだったという。そのため、文房具を買うのにも困るような貧しさやそれに伴うクラスメイトからのいじめなど、かなり辛い少年時代を過ごしたようだ。
しかし、どうして彼は身の上話を始めたのだろうか。老境にさしかかって自分が生きた証を後世に残したくなり、そこで自伝を書くことを思い立って、その指導役として私を呼んだ……ということだろうか。だが、それなら三流シナリオライターの私よりも、もっと適任がいるはずだろう。
それとも、自身の貧しい生い立ちから、同じ苦境にある人間を救おうと考えたのだろうか。つまり、私が元作家志望だと聞きつけて、パトロンになってくれるつもりなのだろうか。けれど、それなら食べる分には困っていない私よりも、まず養護施設などへの寄付を優先する方が筋が通っているだろう。
そうしてまた勝手な想像を始めた私に対して、彼は話の続きを語った。
「そんな子供時代の反動なのか、私は特に食にはこだわりがあってね」
舌の回りをよくするように、あるいは自身の言葉を行動で示すように、彼はそこで一度コーヒーに口をつけた。
「最初の内はとにかく量を食べた。米だのうどんだの、安くて腹の膨れそうなものを買い込んだんだ。肉を買う時も、大抵は一番安い鶏肉ばかりを選んでいたよ」
「分かります分かります」
私はお追従を言うでもなく、本心から彼の話に頷いていた。というのは、私自身が現在似たような食生活を送っていたためである。
「収入が増え始めると、次はそれに比例して質を上げていくことになった。つまり、味にこだわるようになったわけだ。
自炊をやめて、外食をするようになり、行く店もチェーン店からどんどん高級な店にランクアップしていった……」
「なるほど」
私だって懐に余裕がある時には、高級店とは言えないまでも、それなりの店に行くこともある。だから、今度も彼の話は理解できるものだった。
「そして、最後に珍しさを追求するようになった。美味しいとされるものはもうほとんど食べ尽くして、飽きてきてしまったからね。まだ経験したことのない新鮮さや驚きを食事に求めるようになっていったんだ」
「そういうものですか」
美味しいものはどれだけ食べても美味しい、というのが私の正直な感覚だった。以前、運よくネットの懸賞で大量のブランド和牛を手に入れたことがあったが、食べきるまで毎日のように食卓に並べていたくらいである。
それにしても、珍しい味を追求しだしたという話が、私に何の関係があるのだろうか。もしかして、一風変わった食体験を自慢する相手として、決して裕福とは言えない私が選ばれたということなのだろうか。
味がほとんど分からなかったとはいえ、彼にはケーキをご馳走になっている。だから、その分働くくらいのことは構わないが……
「珍しいものというと、たとえばどんなものでしょうか?」
「君はブラックアイボリーという名前を聞いたことがあるかね?」
「確かコーヒーの品種でしたか。象にコーヒー豆を食べさせて、フンから豆を回収するんですよね。そうすると体内で豆が発酵して、マイルドな味になるとか」
「おお、よく知ってるね、さすが小説家だ」
正確には、元作家志望のシナリオライターである。
しかし、私が主張したくなったのはそのことではなかった。何故なら、目の前には彼が出してくれたコーヒーがあったからである。
「あの、つかぬことをお伺いしますが……」
「フンから採取するということで、悪い印象を持つ人もいるからね。さすがに了解もなしにお客様に出したりはしないよ」
彼が微笑を浮かべながらそう答えるのを聞いて、私はホッとした気分になる。それで改めてコーヒーに口をつけるのだった。
ジャコウネコを利用したコピ・ルアクしかり、ハナグマを利用したウチュニャリしかり、その手のコーヒーを一度くらいは飲んでみたいという気持ちもなくはない。だが、何も知らないまま飲まされるのは遠慮したかった。
「そうそう。象といえば、象の肉も食べたことがあるよ」
「象の肉……ですか?」
「ああ、そうとも。あの時は大変だったなぁ」
「美味しくなかったんですか?」
「味はぼんやりしていたけれど、食べられないというほどじゃなかった。問題は象は狩猟が禁止されていることだ。だから、自然死した個体が見つかるまで、現地で何ヶ月も粘らなくちゃいけなかった」
象の肉を食べたことのある人間が日本に、いや世界にどれだけいるだろうか。その話だけでも十分驚きである。その上、さらに象の肉を食べるのに手を尽くしたという話まで聞かされて、私は完全に度肝を抜かれてしまった。
そんな私の反応に、彼は気をよくしたらしい。これまでの食の遍歴について、熱っぽい様子で語り出したのだった。
「珍味というと、一般的には虫になるのかな。ハチにアリ、セミ、タガメ、カ、ウジ、ゴキブリ…… そういうものももちろん食べた。
ただ私は食べ物の中では特に肉が好きでね。まずは日本でも比較的入手しやすいイノシシや熊の肉なんかから手をつけた」
「熊というとカレーですか?」
「あとは鍋とか、中国料理の掌の煮込みとかね。イノシシはカツや生姜焼きにして、豚肉と食べ比べるのが楽しかったよ。
その次は確か犬だったかな。日本でもスープやなんかを出す店があるからね。同じように猫も食べたことがある。……失礼。こういう話は嫌いだったかな?」
「いえ、大丈夫ですよ」
洋の東西を問わず、それこそ日本でも、かつては犬や猫を食料にしていた時代が存在していたそうである。また、国によっては、現代でも犬食・猫食が文化として残っている地域があるという。
それに私はヴィーガンというわけではなく、牛肉や豚肉については当たり前のように食べている。感情的、習慣的な面から犬食・猫食に馴染めないというだけで、決して肉食全般に反対しているというわけではないのだ。そのため、自分自身は犬猫を食べようとは思わないが、他人が食べることまで批判するつもりはなかった。
私がそう答えたのを聞いて、彼は安心したようにまた
「猫といえば、君は肉食動物の肉はまずいという話を聞いたことは?」
「ええ、たまに。牛は草食ですし、豚や鶏も雑食ですからね」
「ただ、あれは実際のところ俗説のようだ。肉食動物は肉を食べるから餌代が高くつく。それに人になつかないことがほとんどだから、飼育に手間がかかって人件費も高くなる。味の問題もないとは言わないが、それ以上にコストが問題なんだな」
そういえば、以前読んだ本にも似たような記述があった。「飼育下でも繁殖活動を行うか否か」「成長するまでの時間が短くて済むか否か」など、野生動物を家畜化するにはいくつかの条件があるという。単純に味の面だけで牛や豚が家畜に選ばれたわけではないのだ。
「肉食動物は何をお食べになったんですか?」
「いろいろ食べたが、個人的に一番美味しかったのはジャガーの肉だね」
「ジャガー……」
想定外の回答に、私はたじろいでしまう。ワニ肉くらいなら聞いたことがあるが、その程度のものは彼にとってはおそらく初歩中の初歩に過ぎないのだろう。
「他の肉食動物だって、牛や豚のように品種改良をしたり、餌や環境を工夫したりすれば十分美味しくなるかもしれん。これはまだ研究中だがね」
彼はさらりと言ってのけたが、先の通り肉食動物の飼育にはコストがかかるはずである。それを可能にするほど彼が莫大な財産を持っていることがまず驚きだし、また珍味を食べるためにそれだけの情熱を燃やしていることも驚きだった。
「そんな風に草食肉食にこだわらずに、私は世界各地を回ってさまざまな動物の肉を試してみた。カンガルー、コウモリ、キリン、アルパカ、カバ、センザンコウ、クイ、コロブス……」
確か、クイはモルモット、コロブスは猿の一種だったはずである。私が名前さえおぼろげにしか覚えていない動物を、彼は食べた経験があるのだ。彼の話にはこれまでさんざん仰天してきたが、私はまたまた仰天させられてしまうのだった。
ところが、彼の目的は自慢話というわけではなかったらしい。驚く私を見ても、彼は今までのようには喜ばない。それどころか、顔を曇らせていたほどだった。
「しかし、その内に珍しい肉もだんだん尽きてきてしまってね……」
生活苦と無縁な金持ちの下らない悩みだと言ってしまえば、それまでのことかもしれない。だが、長年珍味を追求してきた彼にとっては、生きがいを失いかねないほどの深刻なものなのだろう。それで私に相談を持ち掛けてきたのだ。
「自分が何か知らないか、ということでしょうか?」
「いや、それは別の人間に調べさせているよ。一応あとで聞かせてもらうがね」
確かに、私は食文化や動物に精通しているというわけではない。珍味について聞きたいのなら、学者あたりの方がよほど適任だろう。
しかし、だとしたら、私は何のために今日呼び出されたのだろうか。
「実は、次に食べたいものはもう決まっているんだ」
「何ですか?」
「人間の肉だよ」
その瞬間、私は一足飛びに彼の真意を理解するのだった。
「……もしかして、私を食べようということですか?」
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