浄化部怪異見聞録

野村絽麻子

ほどける

 これは私がここに勤務するようになる前のお話です。

 私の生家は片田舎のいわゆる名家で、父も母も家のお役目や跡取である兄の教育に忙しくしており、私は一日の大半を祖母と一緒に過ごしていました。

 優しくて裁縫の上手な祖母は、私にも刺繍や編み物を教えてくれました。土地柄で雪も深く、冬などは暖炉の前で日がな一日何かを作って過ごしたものです。


 ある時、暖炉の前で足の爪を切っていると、左足の小指に糸くずが付いている事に気が付きました。何とはなしに取ろうとしましたら、それがするりと伸びたのです。あら、ほどけた。そう思いました。

 でも変なのです。だって爪を切っていましたから私は素足です。では何がほどけたのか。覗き込んで驚きました。その糸は、私の足の小指に繋がっていました。繋がっていると言うよりもむしろ、私の足の小指が「ほどけて」いたのです。

 薄い桃色の、細めの毛糸のような感触の糸でした。しばらく悩んでから、私はそれを誰にも相談せずに、ほどけた部分を小さく束ねて左足ごと靴下にそっとしまいました。

 翌朝目が覚めて確認してみても状況は変わらず、それどころか、どんなに注意深く生活をしていても、私の左足は日を追うごとに少しずつほどけていきました。小指と、薬指が半分程にほどけた頃、今度は右足の小指がほどけてきました。思い余って切ってみようとしましたが、ハサミを入れた箇所が鋭く痛んだのでやめました。ほどけるのを食い止めようときつく縛っても痛く、縫いつけようとしても針を刺すことが出来ず、なす術もないまま、私の足は端からだんだんと静かにほどけていきました。


 その日、私は途方に暮れていました。これまでは足だったので誰の目からも隠せていましたが、朝起きたら左手の小指がほどけ始めていたからです。

 絹の手袋をして食卓についた私は、母に問われると「手が荒れてしまって」と答えました。この言い訳も長くは保ちません。

 父が、上の空の私に何やら熱心に説明をしているようでしたが、言葉は私の耳のそばをぼんやりと通り過ぎただけでした。

 午後になると来客があり、私は応接間に呼ばれました。そこに居たのはスーツ姿で丸いレンズの眼鏡をかけた男の人と、街の若者のようなラフな格好をした少年と青年の間くらいの男の人でした。スーツの男性は癖のある長い黒髪を頭の後ろで無造作に一括りにしていて、もうひとりの方は長めの前髪の間から時折り鋭い目つきでこちらを見ていました。破れたデニムの間から膝が見え隠れしていて、なんだかアンバランスな二人組でした。

 なんとなく気まずくて目を逸らしながら過ごしていましたが、そうしている内に父とスーツ姿の男性の間で話が進んで、私はその人達の所属する機関で働く事に決まったようでした。何でも、国の中枢に存在するけれど大っぴらには情報公開されていない特別な機関なのだそうで、今朝父が上機嫌で話していたのはどうやらその事だったのかと、その時初めて父の弾んだ声を思い出しました。


 父母が手続きについて聞いている間、自室に引きあげていると、先程のデニムの方の彼が部屋に現れました。

「手、見せてみろよ」

 大変ぶっきらぼうな言い方でしたが、彼が私室の扉を閉める時に全部を閉めてしまわず、細く開けたままにしている事に気が付きましたので、きっと気遣いの出来る方なのだと思いました。私はゆっくりと左手を差し出しました。

 彼はそうっと手袋を外しました。小指の先から伸びた糸を丁寧に検分して何度か頷き、それから背後の扉を振り返りました。

「おい先生、やっぱコイツだ」

 廊下を小走りにやって来る足音に続いて勢いよく扉が開け放たれ、丸眼鏡をかけた顔が覗きました。頬は上気しており、心なしか笑顔でしたので私は少し驚きます。

「いやぁ、こんな仕事してるけど実は僕の方はさっぱりでね! その点ハヤテくんは大変優秀なんだよ。実に羨ましい!」

「……ごちゃごちゃとウルセェんだよ先生は。んで、祓っていいのかよ」

「あぁ! 待って! ね、お嬢さん、写真を撮っても良いかな? 良いよね! 映る保障は無いんだけど〜」

 私の返事を待つ暇もなく「先生」が鞄からカメラと言うよりは写真機と呼んだ方がしっくり来るような大仰な機械を取り出して、三脚にセットし、それからストロボが何度か光りました。イライラした様子で腕組みしていた「ハヤテくん」が舌打ちをします。

「……おい、もうイイだろうが」

「もうちょっと! あと二枚だけ!」

「あーもー……ウルセェ。おわりだ終わり。祓うぞ」

 先生を押し退けたハヤテくんが私の正面にゆっくりと胡坐をかいて、また再びじっくりと指先の糸を検分します。

「やっぱりしゅかい?」

「だな。コイツじゃなくて、この『家』にしゅがかかってやがる」

「家に呪いが?」

 思わず口を挟むと、ハヤテくんの目が私の方を向きました。強い光。何故だか後ろめたいような気持になり視線を逸らします。

「そうだ。アンタじゃなくて、アンタの両親よりも前の代の誰か……かなり酷いことしてきたのが居そうだ。……こいつ、すぐには祓えねぇ」

「恨んだ誰かが此の家を呪って、結果、比較的『力』がある為に体質的に影響を受け易かった貴女に現れた。まぁ、これまでの事案から察するに……糸になるのだったら、『縫い合わせる』か『編み込む』のが良さそうだねぇ」

 先生の言葉を受けてしばらく思案顔をしていたハヤテくんは、ふと部屋の中を見回すと「借りるぞ」と言いながら出しっぱなしになっていたかぎ針を手に取りました。それを構えると再び私に向き直り、小指から出た糸に絡め始めます。

「僕にはただの指にしか見えないのだけどねぇ」

 先生が首を傾げつつしげしげと見つめる中、かぎ針に絡め取られた糸は残りの指先に溶け込むように編みこまれていきました。優しい丁寧な手付きで丹念に糸を編み、先端をそっと絞り止めにして端の糸を潜らせれば、それは元どおりの小指になりました。次いで右足、左足と指先を編んで貰い、私は久しぶりに心から笑うことができました。


 それから少しして、私はこの機関に勤めることが正式に決まり、こちらの部署へと配属になりました。初めてこの部屋を訪れた時、ハヤテくんには少しだけ反対されました。

「いいのかよ、良家のご息女様がこんな汚れ仕事の部署で」

「いいえ、むしろ志願して参りましたから」

「他にもあんだろ……受付嬢とか」

 尚も渋るハヤテくんでしたが、私ももう、決めたことなのです。

「あの『家』にあのまま居てもどこか有力者の所に嫁に出されるだけです。だったらせめて、信じたいんです。自分の『力』で出来ることを」

 前髪の間から鋭い視線で見つめられましたが今度こそ逸らしません。それを見て取ったのか、先に視線を逸らしたのはハヤテくんの方でした。仕方ないというように溜息を洩らし、小声で悪態をつきます。

「……ったく。だりぃのが増えんのかよ」

 ハヤテくんが言い終わらないうちに廊下のほうから派手に何かをひっくり返すような音がして、続いて扉がノックされました。

「おおーい、開けてくれないか。すまないが両手が塞がっているんだよ」

「あー、うぜぇのが来たか……っておいっ! 先生!」

 現れた先生が両腕に抱えていた物は巨大な木彫りのクマでしたが、それを覆うようにどす黒い煙のようなものが取り巻いています。いかにも邪悪。見るからに呪物です。

「まんまとヤベェの掴まされてんじゃねぇか!」

「おやおや、僕には単なる木彫りのクマに見えるんだけどなぁ。そうかぁ、トロイの木馬とは恐れ入ったなぁ」

 慌てて『浄化』の準備に取り掛かる私たちでしたが、こういったことはこの部署では日常的に起こります。そうそう、私の手足の先のほうも未だにほどけてくるんです。その都度ハヤテくんが編み込んでくれますので、とりあえずは平穏といったところです。

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