ゴースト
大隅 スミヲ
【三題噺】会議、ダンサー、文庫本
東京都千代田区神保町。
そこは古本屋が多く立ち並んでいることで有名な町である。
かつて幕臣・神保長治の屋敷があったことから、この名前に由来する。
その古本屋に足を踏み入れたのは、気まぐれからだった。
特にほしい本があったというわけでも無いのだが、なんとなく店の雰囲気に引かれて入ってみたのだ。
店内には様々な本がジャンルごとに分けられて並んでいる。
中には本棚に黄色い紙が貼られており、初版本全巻で40万円などと赤字で書かれていたりするものもあった。
見たことのあるタイトルの文庫本を一冊手に取り、中身をパラパラとめくってみる。
少し日に焼けてしまっているこの文庫本は100円という値札が付いていた。
100円ぐらいならいいか。
そう思った私は、その本を手に取りレジへと向かう。
レジには白髪頭の男性が座っており、私から100円玉を受け取り「まいど」とひと言だけ呟くように言った。
近くにある喫茶店で時間を潰すことにした。
左腕にはめた腕時計へ目をやると、時間はまだ早かった。
これから会うことになっている男は、まだ会議中のはずである。
コーヒーを飲みながら文庫本に目を通し、私は有意義な時間を過ごした。
私がこうしている間、あの男は自分の企画を通すために必死で重役たちを説得しようとしているのだろう。
そう思うと、哀れでしか無かった。
時間になったため、私は席を立ち上がった。文庫本はテーブルの上に置いたままにしておく。もし、店員が忘れ物だと気付いたとしても、私に追いつくことはできないだろう。
ゴースト。誰かが付けた、あだ名。
日本語に直訳してしまうと、幽霊や亡霊となってしまうからちょっと残念だった。
私は生きた人間だ。
店を出ると、歩いて男の働くオフィスビルへと向かった。
ここからオフィスビルまでは、時間にして10分程度の距離である。
オフィスビルの一階にあるエントランスホールには、制服を着た警備員が立っていた。私は事前に用意しておいた社員証を首から下げると、そのままセキュリティゲートを通り抜ける。
向かう先は14階だった。男はこの時間、14階のオフィスで仕事をしているはずだ。
エレベーターは、そこそこ混んでいた。二人組の女性が社内の噂話を大きな声で話している。10階を過ぎると、エレベーターに乗っていた人たちはみんな降りてしまい、私だけとなった。エレベーターの表示板の裏側には防犯カメラが仕込まれていることは事前の調査でわかっていたため、そちらからは死角になる位置で顔を伏せるようにしていた。
14階に着くと、彼のオフィスへ行く前にトイレに寄った。
個室の中で着替えを済ませた後、洗面台の前で身だしなみを整える。
すぐ隣に人がやって来たが、鏡の中の自分を見ることに夢中で私には興味などひとつも示そうとはしなかった。
さりげない様子で彼の働くオフィスの中に入り、彼のデスクへと近づいていく。
途中、何人かの社員とすれ違ったが、誰も私の存在に気がつくことはなかった。誰もがスマートフォンの画面に視線を落とし、相手の顔などは見て歩いていないのだ。
彼は自分のスペースでデスクワークに勤しんでいた。
私がすぐ近くに行っても、パソコンの画面から目を放そうとはしなかった。
それは彼だけではなかった。このフロアで働いている人間は皆そうなのだ。自分の目の前にあるディスプレイに映されている文字や数字の羅列に集中しており、誰も周りのことには興味を示そうとはしない。
きっと、ここで私がタップダンサーのように踊ったとしても、誰も見向きもしないだろう。
私はそっと彼の首の後ろに手を当てると、そのまま振り返ることなくオフィスを後にした。
彼の死去が報道されたのは、その日の深夜のニュース番組だった。
トリカブトの成分を使った暗殺。
報道では、その点には触れられてはいなかった。
きっと警察は今頃、彼の働いていたオフィスビルのエレベーターの防犯カメラに映っていた男のことを探しているだろう。
だがそんな男は、この世には存在しない。
私は女だからだ。
確かに彼のオフィスのある14階に行くまでは、男の格好をしていた。
しっかりと顔を見れば女だとわかってしまうだろうが、防犯カメラの映像くらいであれば簡単に騙すことはできる。
それに彼のオフィスに入った時は、女の格好になっていた。
スーツを着替え、革靴をヒールの高いものに変えた。
誰も私のことを見ていなかったようだが、私は男から女に変身を遂げていたのだ。
ゴースト。誰が呼びはじめたかはわからない、私のあだ名。
存在しない存在。だから、ゴースト。
私が仕事をしたお陰で、どこかの地域で進められていたリゾート都市計画という名のゴルフ場建設の話は中断された。
彼の死が、誰か怒らせてはならない人を怒らせたのだと噂になるだろう。
私はその怒っている人のことなどは何も知らない。
ただ、私の使っている裏口座には、振込人不明で多額の金が振り込まれる。
その金の出どころも知らなければ、振り込んだ人間も知らない。
ただ、私は請け負った仕事を正確にこなすだけなのだ。
ゴースト 大隅 スミヲ @smee
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます