幸せの無言歌

湾多珠巳

A Fortunately Song without Words


「うちに来るか?」。あの人は優しくそう囁いた。

 ふちなしレンズの向こうで、小粒の目が柔和な光を湛えてた。あたしの顔に触れた手のひらは、そこだけホットカーペットみたいにあったかい。

 改めてあの人の目をのぞいたのは、念を入れたかったから。薄っぺらな同情とか、かすれば剥げるような責任感なんかが透けて見えないかどうか。

 何しろ条件は全部揃っていた。冷たい霧雨の中、公園の植え込みに隠れてうつむいてる、足をケガした女の子だ。欠けてることと言えば、シクシク泣いたりしてなかったことぐらいだ。

 期待と好奇を、あえて無表情の裏へ隠そうとしているあたしに、彼はそっと促すように、差し掛けた傘を、ほら、と小さく揺らした。――大丈夫だ、この人なら信頼できる。

 あたしは何も言わず、血のにじむ左足を引きずるようにして歩き出す。挨拶一つしない態度は、相当無愛想に見えただろうに、あの人は何も言わず、傘をかざしながらぴったり寄り添ってくれた。

 下手になれなれしく抱き上げたりしなかったことで、あたしは却って彼への信頼を深めた。初対面でそんなことをされたら、傷口を広げてでもダッシュで逃げていただろう。

 目の前に玄関の灯が見えた時――彼の足取りから、言われなくてもそこが目的地なのは分かった――あたしはしばらくぼうっとなって、その前で棒立ちになってしまった。

 こじんまりとした家で、決して大金持ちではなさそうだったけど、そんなことは問題外だ。あたしはただ、再び暖かいおうちの中に入れることが、まだ信じられなかった。

 気後れしているように見えたんだろうか、彼はあたしを振り返るとちょっと笑って、さあおいで、と明るく促した。

 彼――ジョウとあたしとは、そんなふうにして始まった。


 なのに、あたしが家に入った直後、さっそく一悶着あった。彼には父親と母親がいたのだけど、その母親がいい顔をしなかった。いや、正確に言おう。あたしは危うく、襟首を捕まえられて放り出されるところだった。

 正直、さっきの公園に戻る用意は出来ていた。期待しないこと。いつでも最悪に備えること。短い短い半生で、あたしはそれがいちばん傷つかない生き方だって学んでいた。

 けれども、ジョウは全身であたしをかばってくれた。十分ぐらいの激しいやりとりが頭上で行き交った後、どうやらあたしは彼の庇護の元での存在を許されたようだった。もっとも、母親の憎々しげな視線は到底あたしを許したようには見えなくて、遠からず火の手が上がるのは間違いなさそうだったけど。

 同じようなことが以前にもあったのだろうか。手慣れたふうでジョウはあたしを浴室に連れていくと、全身を洗いにかかった。さすがにあたしは抵抗した。恥ずかしいのは当然ながら、あたしは何よりお風呂が大嫌いだったのだ。足の傷はそうひどくないとはいえ、傷口がちりちりと浸みるのも不快だった。それでも、ばたばた暴れて彼に嫌われるのは避けたかったから、すぐに観念して最後までお行儀よく洗われた。ジョウはあたしがお風呂嫌いなのは何となく察していたようで、じっと耐えるようにシャンプーの泡の中にいるあたしに、「偉いぞー」とか色々誉めていた。

 すっかりいい香りになったあたしをドライヤーで仕上げると、彼はさっさと寝床の準備にかかった。用意してくれたのは彼のベッドのすぐ脇。再び母親が抗議した。まあそうだろう。母親でなくても、ここは揉めやすい。すったもんだのあげく、とりあえず今日だけは彼の部屋で、明日以降はまた改めて考える、と言うことで双方妥協した。

「ふん。これだけ世話になって感謝の一言もないなんて。ずいぶんと澄ましたお嬢様でいらっしゃいますことね」

 軽蔑と嫌悪をこめて母親が毒づいた。

「そりゃあね」

 ジョウは小さく笑いながら返した。

「仕方ないんじゃないか。この子、声が出ないみたいだから」


 本当は、あたしは声が出ないんじゃない。

 物心ついた頃には、あたしは一人のおばあさんの家にいた。あたしとその人との関係は今でも知らないけど、静かな安らいだ日々だった。当時はもちろん普通に声が出せた。

 けれどもある日、急におばあさんが目を覚まさなくなったと思ったら、見慣れない人たちがいっぱいやってきて、平和な生活は終わった。最後に見たおばあさんの様子は、たくさんの花に埋もれて、窮屈そうな寝床にはまりこんでる姿。あたしが顔を寄せても何の反応もなかった。なおもじっと見ていたら、突然黒服の女性に乱暴に庭へ連れ出され、直後に窓も扉も全部閉められて、家の中には入れなくなった。何となく、ここにはもういられない、と感じた。

 あるいはずっとそこにいれば、いつか誰かが引き取ってくれたのか。今となっては知る故もない。とにかくあたしは家を出た。町をふらふら歩いてると、その日のうちにくたびれたおじさんが声を掛けてきた。どこにいくの? 迷っているのかい? よしよし、おじさんのところにおいで。

 あたしみたいなのは、町のその辺でも珍しくなく、それを連れ帰る人もそれなりにいた。彼もそんな一人だったのだろう。最初、その男性は一応の面倒を見てくれた。あたしはただ気まぐれに撫でられたり抱かれたりしていればよかった。半ば演技でも甘えた声を出していればよかった。

 でもある日から、急にその人は家にいる時間が長くなり、なぜかあたしに暴力を振るうようになった。ぶったり蹴ったり振り回されたり溺れさせられたり、とにかく大ケガ寸前のあらゆることだ。思い切って逃げ出さなかったら、そのまま殺されてたかも知れない。

 再び町をさまよったあたしは、またその日のうちに若い女性に連れていかれた。

 そして、同じことが起きた。何日もしないうちに、女性は荒々しい本性をあらわにした。夜になって、すえた臭いの飲み物が入ると、いい機嫌だったのが急に乱暴になるのだ。しばらく我慢したけど、結局また逃げ出した。

 直後、今度こそまともな人に引き取ってもらおうと、あたしは少し積極的に動いてみた。通りでじっくり人々を観察し、この上なく温和そうな人柄と思えた青年を見定めて、呼吸を見計らってできるだけ愛らしく笑みつつ、近寄ってみたのだ。ところが、どうやらあたしには人を見る目がなかったらしい。青年はこちらを認めるやいなや、一瞬で憎々しげな表情に豹変し、危うく足蹴にしかけたのだ。あたしはほうほうの体で逃げ出すしかなかった。

 立て続けに不幸が続くと、何か共通する原因があるんじゃないかと考えたくなる。で、あたしはすぐ、一つの法則に気づいた。声だ。さっきの青年といい、くたびれたおじさんといい若い女性といい、あたしが間近で声を出したのをきっかけにして、毎回恐ろしい行動に出ていた。

 あたしの声はことさら甘えるように聞こえるらしく、通りすがりの道行く人でさえ、一声でみんな優しく頭をなでてくれるけれども、どうやらこの魔法はその場限りの効き目しかないらしい。暮らし始めて数日もすれば、たまさか声を上げかけただけで、同じ手が容赦のない制裁を加えるようになるのだ。中には、さっきの青年のように、初対面で暴力を振るう輩もいる。まるで、耳障りな声を出したお前が悪い、と言うかのように。

 だから、あたしは決めた。

 もう、一切声は出さない。何も言わない。誰も連れて帰ってくれなくてもいい。

 挨拶めいた声一つも出さなくなると、スカウトの機会はなくなった。それで、しばらく痛い目に遭わずに済んだ。食物探しは難しくなかった。町中で自分だけ生きていくぐらい、どうでもなるものだ。

 ただ、寂しかった。物陰にうずくまってじっとしてると、寂しさが大きな影になって、頭から全身にすっぽりかぶさってくるような感じがした。

 そうして、寂しさすら感じなくなるほど感情が麻痺しかけた頃に、ジョウが現れた。

 彼は、あたしが甘え声どころか、愛想笑い一つよこさないのに、手を伸べてくれた。むしろ、無口なあたしを知的でプライドのある高貴な存在とでも見なしているようだ。

 もっとも、基本的には彼も人の子だった。最初の夜、まっ先にしたことは、あたしを抱き寄せて一緒の布団で寝ることだったのだ。

 丁寧に体を洗ってきた時点で、多分これが狙いだろうな、とは思っていた。別にイヤじゃあない。ただ、胸の上というのは頭がどうにも不安定で、もうちょっと楽な位置で抱いてくれればいいのに、とは思う。

 それでも、その夜の眠りが何ヶ月ぶりかの満ち足りたものになったことは、認めないわけにはいかない。あたしはちょっとだけ、もう一度未来に期待してみようかな、と言う気分になっていた。


 翌朝になると、ジョウはどこかへ出かけてしまった。あたしの頭を撫でて、ちゃんと待ってろよ、と言い置いて。

 父親も出かけたところで、予想通りの展開になった。母親が今度こそあたしの襟首を捕まえて、表に放り出そうとしたのだ。でも、あたしはさっさと逃げた。一度表に出たあたしをさらに切り刻もうなどとは母親も考えなかったようだ。あたしはそのまま門柱そばで夕方までジョウの帰りを待つことにした。

 彼と一緒に玄関を上がった私を見て、母親は大いに不満そうに鼻を鳴らしたものだったけど、それ以上のことはなかった。ただ災難だったのは、その日もお風呂で洗われたことだ。寝床に関してはその日も揉め、うやむやのうちに結局ジョウの胸の上で寝た。

 翌日も同じようなことになった。あたしは母親から逃げ、夕方彼と帰り、お風呂で苦行に耐え、ジョウの薄い胸板に寝顔をのせた。

 その翌日も、そのまた翌日も、似たようなものだった。土砂降りの日でも、あたしはためらわず外に逃げた。ジョウが夜遅くまで、さらには翌日まで戻らないことがあっても、パターンを守った。

 昔みたいに、可愛い声ですがりつくという方法もあった。声の魔法はいまでも効果を保っているはずだ。心を込めて訴えれば、幾分待遇はましになるだろう。でも、それでは繰り返しになると思った。何よりも、下手な甘え方をしなかったからこそ、ジョウはあたしを連れ帰り、かばってくれたのではないか?

 結局はそれで正解だった。深夜までずぶぬれのまま門柱の陰にうずくまっているあたしを見て、母親も根負けしたらしい(あるいは充分に虐めたと思ったのか、近所の外聞を気にしたのか)。行儀のよさも得点になり、あたしは改めてその家に住まう者として再確認され、母親ももうあたしを追い出さないと約束した。寝場所も同じだ。ただ、今後は清潔を心がけるように、と言われた。あたしは、この家で暮らし続けられるのなら、時々お風呂に入れられるのは仕方がないな、と思った。

 立場が安定すると、今度は父親もあたしに話しかけたり撫でたりするようになった。どうやら今までご夫人の手前、我慢していたらしい。あたしは相変わらず一言も喋らない、無愛想な女の子のままだったのに、その父親は一度あたしを抱き上げると、なかなか膝からおろさなかった。ジョウは苦笑していた。

 そうやって、昔ほどじゃなくても充分安らいだ日々が始まった。

 ところが、それから間もなくして、その家の中に大きな変化が起こった。ジョウがどこからか、別の女の子を連れてきたのだ。


 女の子、とは言っても、その人はあたしよりずっと大柄だった。もう子供の体ではなかったし、女性と呼ぶべきだろう。

 彼女はユリーナと言った。ユリーナが上がり込むに当たっては、あたしの時などと比べものにならないほど揉めまくり、ジョウの父親母親を交えて三日ぐらい話し合いが続いた。あたしはかやの外だった。そもそも何が問題なのか分からなかったし、彼女の出現で生活がどう変わるのかも見当がつかなかった。

 話し合いの後、ユリーナは本格的に家に上がり込むことになった。つまり、一緒に住むのだ。広くはないジョウの部屋に、あたしに加えてユリーナまで詰め込まれることになった。数点ながらユリーナ個人の家具などが運び込まれ、カーペットの模様が半分に減った部屋で、夜はみんなで一つの布団に寝るのである。

 家のあちこちでも、それなりに何らかの変化があったのだろう。けれども、あたしにとっての最初の大事件は、初日の夜にジョウの部屋の中で起きたことだった。

 最初ユリーナは、単純にあたしの歓心を買おうとした。無造作に手を伸ばし、頭を撫でて可愛がる仕草をした。あたしは逃げもしない代わりににこりともしなかった。

 きっとユリーナはタイミングを推し量っていたのだろう。そろそろ寝ようとする頃、ジョウが席を外したのを見て、不意にあたしを抱き上げ、部屋の窓を開けると、そのまま外へ放り出したのだ。中でジョウの「あれ? あいつは?」という声が聞こえて、ユリーナの「うん、何か、気を利かせてくれたみたい」なんてすっとぼけた返事が続いてるのが聞こえた。

 唖然としたあたしは、もう少しで大声を上げ、窓を開けてと二人に泣き叫ぶところだった。が、辛うじて止めた。こんな所で泣くものか。ユリーナに弱みなんて見せないんだから。

 あたしは一つ鼻を鳴らすと、屋根を回り(ジョウの部屋は二階にあった)、ぎりぎり体が入る天窓にとりつき、隙間を作ってくぐり抜け、玄関に着地、ホールの隅で丁寧に泥を拭ってから、階段を駆け上がり、身を伸ばしてドアハンドルを引き下げ(この家のドアはみな、小柄なあたしでも手が届く位置にハンドルがついていた)、扉を開けて堂々と中に舞い戻ってやったのだ。あたしがそこまで厚かましいとは思ってなかったらしい。ユリーナはうろたえ、ジョウは苦笑してた。

 すぐにジョウが電灯を消して寝ることになった。それまでの生活で、あたしはジョウの寝具の中がそれなりに気に入っていた。抱かれたままで熟睡できる体の位置もつかんでいた。だから何も考えずに、その日もシーツの横からジョウの胸に這い上がろうとした。ところが何としたことだろう。先客がいたのだ。ユリーナがまるでふたをするみたいに、べたっと半身をジョウに貼りつかせ、あたしを彼の体から遮っていたのだ。

 以前は一応置いてあったあたし専用の毛布も今はなく、マットレスの上は二人の体でいっぱいだ。のみならず、寝っ転がった途端にユリーナは昔のあたしなんかよりもずっとずっと甘えた声で、ジョウに何かをひっきりなしに囁いていた。声でもあたしを遮ろうとしてるみたいだった。

 ユリーナの首の狭間から、ちょっとだけジョウが困ったようにあたしを見たけれども、それでどうするというつもりはないようだ。そのままその辺のソファで寝られないわけじゃない。でも、まるで経験のない、ひどくすっきりしない気分がわき起こって、あたしは部屋を出た。

 階段を下り、リビングを抜け、まだ明かりのついてた父親と母親の部屋に入った。二人とも、あたしがむっつりと入ってきたのにちょっとびっくりしたみたいだったけど、どういうわけか、すぐに事情が分かったようだ。

「追い出されてきたのかい?」

 愉快そうに父親が言った。

「まあ気の毒だこと。もう構ってもらえなくなったのねえ」

 母親の声は、あたしをからかうようでいて、どこかしみじみともしていた。

「なんだい、同病相哀れんでいるんだな」

「いやなことを言うのね、あなた」

 会話の意味はよく分からなかったものの、少なくともあたしを叩き出すつもりはないらしい。父親はジョウみたいにあたしをベッドの中に入れたそうな素振りだったけど、夫人の目の前では、やはりためらわれたようだ。

 あたしは二人の足元のカウチに横になった。父親が以前の毛布を持ってきてくれた。おかげで、それほど寒い思いをしなくて済んだ。

 けれども、一晩明けて思ったのだけど、そもそも寝場所を移動しなきゃならない理由なんてない。ジョウ本人があたしを追い出したのならまだしも、そうではないのだ。

 あたしは昔よりも欲張りになってたようだ。何より、ユリーナの甘えた声がやたらとムカついた。あんな声じゃ遠からず彼女もぶたれるようになる――のはどうでもいいけど、一時でもあたしが得たものを独り占めするのは許せない気がした。ジョウはそんな安い男ではないはずだ。きっとあたしを試してるんだ。

 夜になった。前日と同じように、ベッドに横たわるやいなや、ユリーナはジョウに覆いかぶさった。昨日はよく分からなかったけど、明らかにその背中はあたしを小ばかにしていた。思えばあたしもどうかしていたのだ。ジョウの胸がユリーナに占拠されていて使えないのなら、寝るべき場所は一つだけではないか。

「ひゃ!」

「ど、どうしたんだ?」

「せ、背中に、ひぃぃ!」

 ちょっとだけ首を伸ばしたジョウは、すぐに笑い声を立てた。シーツをもこもこ動かしながらユリーナの背中の感触を試してるあたしが見えたからだ。そう、あたしは彼女を寝床にすることにしたのだ。

 もっとも、半身をジョウにもたせかけているために、ユリーナの背中は常時傾斜していて、体を預けようとするとすごく不自然な姿勢になる。真っ平らなジョウの胸板と違って曲面もあり、どうも寝心地が悪い。

 あたしの毛がくすぐったいらしく、ユリーナは変な声を切れ切れに出しては固まっていた。それでもジョウから身を離そうとはせず、背中を丸めるようにして耐えている。下手に騒げばあたしが襲ってくるとでも思ったのか。

「大丈夫だって。この子は別に君に噛みついたりしないよ」

「そ、そんなこと言ったって……やあん!」

 だんだんユリーナの声が泣き声に変わっていった。それはそれで妙にどす黒い快楽も感じられたのだけど、それ以上に眠かった。ようやく背中の真ん中に適当な位置を探り当て、ユリーナと同じように、半身をもたせかけて寝入ることにした。

 しばらくユリーナは固くなって息を潜めていた。面白そうに事態を眺めていたジョウは、あたしが静かになるとすぐに寝息を立て始めた。それ以上甘えることも出来ず、かといって今さらジョウから離れるわけにもいかず、相当居心地が悪そうだった。あたしはそれほど意地悪を仕掛けてるつもりはなかった。その証拠に、あたしはユリーナがいつまでもぞついていたかなんて知らないまま、さっさと安らかな眠りに落ちていたのだ。


 翌朝、あたしは二人が言い合っている声で目覚めた。片目を開けると、ユリーナがあたしを指さしながら駄々をこねるように訴えている。

「一晩中背中にくっついてたんだよ! とても寝られないよ!」

 ジョウの方は含み笑い混じりの、適当なあやすような口調だった。

「リーナの背中が気に入ったんだろ。しょうがないじゃないか」

「ひどいー! 何とかしてよ! これからずっとこんな調子ってこと?」

「まあ元はと言えば、お前がこいつの寝場所を取ったわけだし」

「何それ! 私とこの子とどっちが大事なの!?」

「これはそういう問題じゃないだろ――」

 雲行きが怪しくなってきたところで、あたしは一階に下りた。朝食の最中の父親が、あたしを見るとぎこちなく笑いかけた。

「悪い奴だな。一晩中邪魔をしてたのか?」

 よくわからない。邪魔をしたのはユリーナの方だと思うんだけど。

「ほんと、性悪な子。いけすかないったら」

「内心誉めてやりたいと思ってるんだろ?」

「徹底していやな人ね、あなた」

 二人の会話はますます理解不能だった。母親のあたしを見る目が、以前のようにただ嫌ってるだけの色でないのは実感できたけど。

 その日の夜は、最初からユリーナの背中が強ばっていた。あたしは気にせず、昨日と同じポジションを確保すると、ちょっとだけ頭をくねくねさせて眠りについた。ユリーナが必死になって声を殺しているのが感じられた。そしてそれ以上は何事もなく、夜が明けた。ユリーナは決して熟睡できたようではなかったけど、どこか諦めたような気配があった。

 その夜もあたしはユリーナの背中で眠りに落ちた。次の夜も、その次も。そして、五日目の夜だったか、とうとう彼女が叫んだ。

「わかったよ。もう、あんたの好きな所で寝ればいいでしょう!」

 そう言ってあたしをジョウの胸に押しつけたのだ。あたしは戸惑った。勘違いは困る。あたしが守りたいのはジョウの胸ではなく、快適な寝場所なのだ。それに五日も経つと、今さら、という気分にもなる。なおも背中にすり寄るあたしを見て、今度はユリーナが戸惑っていた。

「ちょ、ちょっと、どういうつもりよ!」

「だから、リーナの背中が気に入ったんだって」

「何よそれ。やめてよー!」

 ユリーナが体をひっくり返した。あたしはそのまま彼女のお腹の上に頭を置いた。ぽにぽにしてて、ジョウの胸よりいいかも知れない。

「リーナの腹も気に入ったってさ」

「もういやだってえ! こんなんじゃあたし達、ずっと出来ないままじゃない!」

「大丈夫だよ。部屋から追い出されるのが嫌なだけなんだから、やってる間ぐらい、こいつも待っててくれるよ」

 その通りだった。それでユリーナも妥協し、部屋から追い払うことも諦めて、ようやくあたし達の共存体制は安定したのだった。



 ユリーナがやって来て一月半ぐらいだった。

 日曜日の夕刻に近い頃。もうしばらくすると、ユリーナと母親が未だぎくしゃくした空気の中で食事の準備にかかるはずの、そんな時刻。

 彼女とジョウは部屋にいた。二人は時々昼間から寝っころがることがある。あたしは何も昼間までベッドにもぐりこもうとは思わないので、雰囲気を察すると部屋を出ていくことにしてる。そして、ちょうどそんな気配だったのだ。

 階段を下りて書斎をのぞいてみると、ベージュのセーターが床に無造作に広げられていた。普段あんな所に衣類を置いたりしないのに、変だ。一歩部屋に入って、あたしは気がついた。セーターが落ちているんじゃなくて、ジョウの父親が床に伸びているのだ。

 彼の顔はこちらを向いてたけれども、目が開いてなかった。寝てるわけではない。手先が、何かを求めるように弱々しく動いてる。口からも意味のないつぶやきが聞こえてた。

 あたしは数秒間動けなかった。どうしよう。いや、あたしではどうしようもない。誰かを呼んで……でも、意志が伝わるだろうか? そうだ、こういう時こそ昔みたいに声を出せばいい。きっと来てくれるはずだ。

 書斎を駆け出て、リビングに向かう。母親は一人でテレビ映画に見入っている最中だった。慌てて体に触れようとするあたしを、彼女は身をねじって嫌悪した。

「何よ、いきなり。食事ならまだよ。もうすぐ山場なんだから邪魔しないでちょうだい」

 そんな場合じゃない。あたしは身振りで事態の深刻さを示して、人前では何ヶ月ぶりかで、のどの奥からうなり声をほんの少しだけもらした。その途端。

「何、あんた声が出たの!? こんな所で声を上げる気!? いやらしい、あっちへお行き!」

 きっと喜劇的なまでにバカげた誤解があったに違いなかった。けれどもその時のあたしは、その一言だけで完全に打ちのめされて、逃げるように二階へと走った。

 慌てふためいてドアハンドルを回すと、ジョウとユリーナはまだ真っ最中ではなかった。が、さすがに不愉快さは隠すべくもなかったようで、ジョウがあからさまに口をとがらせた。

「おい、勘弁しろよ。日曜ぐらい二人……」

「ちょっと待って。何か変だよ、この子」

 すがりつくような目であたふたしているあたしに、尋常ではないものを先に感じたのはユリーナだった。跳ねるようにして階下へ、書斎へと誘導する。じれったくなるほどのとろさでついてきた二人は、ようやく書斎の奥に父親の姿を見つけて――。

 白づくめの男達が赤い光の瞬く車に父親を乗せて家を出ていくと、玄関では少しばかりの口論があった。父親を追ってみんな出るようなのだけど、残った三人とも出ていくべき、と主張する母親と、母親は残るべき、と主張するジョウとで意見が食い違ったのだ。

「長くなるかも知れないし……よくても親父の服なんか、これから必要になるはずだから……連絡があるまで家で用意しといてよ」

 そんな風にジョウが説得して、結局母親は折れた。あたしは一緒になって、車で出るユリーナとジョウを玄関先で見送った。うめくような声が聞こえてきたのは、その時だった。

「あんたが、ちゃんと知らせてくれていたら……こんなに、遅くなってしまって……」

 振り返ると、苦悩にゆがんだ顔で母親があたしに手を伸ばしてる。この家に来ていちばんの恐怖で、思わず縮み上がった。またぶたれる、殴られる! けれども目をつぶってると、不意にあたしは抱き寄せられてた。母親の目から、露玉のようにきれいな涙がぽろぽろと流れるのが見えた。

「いいや、あんたは一所懸命教えようとしてくれたんだねえ。私が聞く耳持たなかっただけなんだ。あの娘でさえ分かったのに……」

 深いため息をついて、あたしの頭を撫でる。いや、それは違う。あたしが下手に声で気を引こうとしたからだ。甘え声の魔法に頼ろうとしたからだ。苦い思いで胸がいっぱいになる。でも、どこかしら、今ようやく母親と心が通じた気分になってるのはなぜだろう?

 何となく、あたしは思った。もしかしたら、気持ちを伝えるのに声を出すとか出さないなんて関係ないのかも知れない。ただ信頼があれば。信頼を安く作ろうとさえしなければ。だとすると、あたしとジョウの家族達とは、もう充分結ばれているだろうか? 意固地になって声を封じなくても、大丈夫だろうか?

 ほんの少しだけ、のどの奥に含むような声を出してみる。恐れと甘えとを、手探りで出しかけて引っ込めたような声。今の気持ちそのままの、彼女への問いかけ。

 母親が微笑むのが分かった。またひとしきりあたしの背中を撫でる。

 あたしも何だか泣きたい気分になって、腕に力を入れた。冷たい夕風が吹いていたけど、あたし達の触れ合ってる部分だけは、しみ入るように温かかった。



 かなり経ってから、ある日父親は元気な姿で帰ってきた。

 それからしばらくばたばたした状態が続き、やたら日が長くなって、きつめの日差しが多い時期になったある日、家族で朝から大きな建物にお出かけした。みんなひどく服に気を遣ってた。あたしもビロードのリボンを結び、かなり念入りに身繕いをしてもらった。

 父親と母親に連れられてだだっ広い部屋に行くと、ジョウとユリーナが白い服に身を包んで、おかしなぐらい神妙な顔で現れた。窓からの陽光の中、ユリーナの方はまるで白い大魚だった。

 部屋中にぎっしり詰めかけていた人々の前で、二人が主役らしい集会がひとしきり続く。どうも、ジョウとユリーナは二人ともダイガクインセイという身分で、ブンガクなるものを研究している者同士なんだそうだ。ジョウはニッポンブンガクで、ユリーナはゲンゴガクのホープだとかなんとか。

 そこそこ難しい言葉の飛び交っていた集まりが、よくわからない問答の後にジョウとユリーナのキスで締めくくられる。その後はにぎやかな食事になって、打って変わってはじけた空気が人々の間に満ち満ちた。そして、なぜか話題の中心があたしばかりになった。今まで行儀のよかった人々が大挙してあたしに触りたがり、ずうずうしく抱きつく女までいた。

「全然声を出さないね、この子」

 感心したように、ユリーナの友達らしい一人が言った。

「こんなにおとなしいのに、夜の邪魔はするわけ?」「部屋から追い出せば?」「だめだめ、ドアハンドルとか勝手に自分で開けるんだから」「うそー、かしこーい。連れて帰っていい?」

 一人の言葉にあたしはびくっとなって、慌ててジョウの元に逃げた。それを見て、なぜかまた感心したような声と笑いが起こった。

 ほんとうに一度も声を出さないの? という問いに、ユリーナが頷いた。

「全然、じゃないらしいけど……少なくともあたしは聞いたことがない」

「じゃ、飲ませてみようか」

 なんだか甘ったるいような、少しすえた臭いの飲み物が、あたしの前に持ってこられた。どこかに逃げたかったのだけど、ジョウまで「ほら、どうだい」なんて言うから、ちょっとだけ口をつけてみる――ほんの数口で、あたしは妙に体が軽くなって、なのに足には力が入らなくなって、女達の前で床に崩れた。

「わあ、やっぱりこうなるんだ」「だめよう、悪さしちゃあ」「少しすれば大丈夫でしょ」

 ひときわどっとにぎやかになった会場で、あたしは一時体の抑制が利かなくなっていた。多少いい気分になっていたのかも知れない。頭と口とのどがバラバラになって、ほんとうにまるで自覚しないうちに、とってもご機嫌な声を上げてしまったのだ。


   みゃあおおおおおう!


 一瞬会場が静まって、さっきの倍ぐらいの大騒ぎになった。

「なんだ、鳴いてるじゃん」「ええ、酔っぱらった時だけ声が出るの?」「かわいい!」

 争うようにあたしに手を伸ばしている人々から慌てて逃げると、会場の大きな窓から外に出た。芝生の中に隠れようとしたけど、まだ足がふらついていたのか、小さな池に派手な水しぶきを立てて落ちてしまった。パニックになってばたついているあたしを、腕まくりしたジョウがさっとすくい上げた。

「やれやれ、これで溺れ死んだらソウセキそのまんまだな。なんてったって、お前には名前がまだないんだから」

 父親と母親が笑いながら、どこからかタオルをたくさん持ってきた。そばでジョウとユリーナが、この場でこの子の名前を決めよう!とか何とか声を張り上げてる。あたしはしっぽまで拭いてもらいながら、名前が付いても溺れる時は溺れるんじゃないかなあとぼんやり考えて、やはり穏やかで安らいだ日々を維持せんとするならば、鳴き声を上げるのは緊急の一大事だけに限るべし、と結論した。



  <了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幸せの無言歌 湾多珠巳 @wonder_tamami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ