番外編 美術の授業 【後編】
休憩時間を挟み、後半に入った。
不承不承ながらにユキノは教壇に上がり、四十分間そのポーズをとっていると間違いなく全身筋肉痛になりそうな体勢でデッサンが始まった。
「しかしリッちゃん、意外だったよ」
「ん? 何が?」
描き始めてすぐ、隣に座っていたケイがしみじみとそんなことを言った。
早くもぷるぷる震え出したユキノがいつまで耐えられるかでアイスの支払いを賭けて、私が十五分以内にダウンするとベットしたことを言っているわけではなさそうだが。
「てっきり
「あー……それね。文化祭で多少クラスに馴染んだとはいえ、まだまだミカは人目を集めるようなことをしたがらないし、私としてもそんなことさせられない。だからそうならないように、私怨込みでユキノを担いだわけで」
「ほほぅ。ちゃんとカノジョしてるんだねー」
「まあね。そもそも、ミカならモデルに立ってもらわなくてもそらで描けるし」
ついさっき、二、三分で描いたミカの似顔絵を見せてやった。ケイはちらりと覗き込み、目を見開いて固まってしまった。
「……驚くほど似てるし美術家並みに上手いんだけど……。その画力をどうして普段から発揮できないかねー?」
「ミカ限定だからね。愛があるからできる芸当よ」
「愛、ね……。恥ずかしいことを臆面もなく口にできるリッちゃんが羨ましいよ」
「
「さあね」
ふふ、と小さく笑って、ケイは鉛筆をスケッチブックに走らせた。
その日の授業は無事終了し、放課後になって私はユキノにアイスを奢ることになった。
あれだけ「もうダメ、限界!」という顔で震えていたのに、きっかり四十分間耐えやがったのだ、この女は。正直、陸上部の筋力と持久力を侮っていた。
まあ、必死に耐えているときの変顔がみんなのスケッチブックに刻まれたと思うと感慨深いし、アイスを食べて幸せそうな顔をするユキノを見せられちゃ、何も言えなくなるけども。
「ユキノ。あんまり食べ過ぎると、このあとの部活に響かない?」
「大丈夫だよ、リッちゃん。そうなったら
「悪い子だなぁ……」
昔はこんな子じゃなかったのに……。いや、昔を知らないけど。出会ったころからこんな感じだけど。
ただ、陸上――特に走り高跳び大好きっ子だから、少々のことで部活を休んだりしないことは知っている。
「あ、これ美味しい。リッちゃん、一口食べる? 遠慮しなくていいよ」
「遠慮も何も私のお金で買ったものなんですがそれは」
「左様でございましたな。どうぞ、お納めくだされ」
「んむ」
差し出されたスプーンに乗ったオレンジ色のアイスを口に含むと、柑橘系の香りが鼻腔を通り抜け、甘さと酸っぱさが絶妙なバランスを保った冷たい塊が舌の上でサラサラと溶けていった。確かに美味しい。ミカが好きそうな味だ。
「それにしてもケイたち、遅いね」
「ねー」
今いる学食は、私とユキノの他はこれから部活だという生徒でにぎわっている。運動前の腹ごしらえ、ということなのだろう。ガッツリとカレーライスやラーメンを食べる野球部員たちの食欲が恐ろしい。
私はユキノにアイスを奢るという約束のために学食に来ているが、美術教師から呼び出しを食らったケイとミカを待つためでもある。内容は聞かされていなかったので、戻ってきたら尋ねてみるつもりだ。
「お二人さん、お待たせー」
ユキノが三つめのカップアイスを開けたとき、ケイが呼び出しから帰還した。
「お疲れー、ケイ。……あれ、ミカは?」
「第二図書室に直行ー。学食は人が多いから遠慮するって」
「
「デッサンの再提出。もうちょっと真面目に描けって怒られた」
「ええ? ケイ、真面目に描いてたよね?」
「それがねー。リッちゃんは描きやすかったけど、ユキノどんは複雑なポーズだったから時間がなくて顔まで描けなかったんだよー。で、記憶を頼りに仕上げてこいって」
やれやれ、とケイは肩をすくめた。
記憶を頼りにって、それはもはやデッサンと言えなくないだろうか。見た
それにしても……再提出なんて、なんでも
「
「ミカも? ……あれ、ミカって挿絵とか表紙絵も描くから得意なはずなんだけど」
「さあ、あたしにはわかんないよ。これから行くんでしょ? 訊いてみたら?」
「そうする」
ユキノとケイに一つずつアイスを買ってやってから二人と別れ、ミカがいる第二図書室に向かった。おみやげにアイスを買っていこうと思ったが、行き先は飲食禁止だ。倉庫状態と言っても、一応は『図書室』だから。
特別教室棟の三階、第二図書室に入ると、ミカがいつものように書架の奥にあるデスクにいた。ただ、今は外国語の物語の翻訳ではなく、スケッチブックを手にしている。
「ミカ、美術の呼び出しってなんだったの? ケイは再提出って言ってたけど」
「はい、私も同じです」
「何で? ミカって絵が得意だったよね? デッサンくらい余裕でしょ」
「なぜって……」
言いにくそうに顔を伏せて、ミカは手元に視線を落とした。
スケッチブックにはユキノの姿が描かれていて、素人目には十分上手くできているように見えた。美術教師からするとこれでは不十分なのだろうか。
……いや、これで不十分なら、私が描いたユキノなんて描きかけも同然だ。
「ふうん……ちゃんと描けてるのにね」
「いえ、こっちではなくて……」
とミカがページを戻す。
そこには、輪郭だけをなぞった、かろうじて『座っている人を描いた』とわかる程度の線が残っているだけだった。まるで数分で描いた
「全然描けてない……どういうこと?」
「リコのせいに決まっているでしょう」
「え? 私?」
ぷう、と頬を膨らませ、恨みがましく私を睨むミカ。
そう言われても心当たりがないんですが。
「あんなに見つめられたら……目が合うたびにリコを意識してしまって、恥ずかしくてまともに描けるわけがないじゃないですか……。これで精いっぱいだったんです」
「照れて描けなかったってコト? 何をいまさら……」
ずいぶん可愛いことを言い出したミカの顎を右手で持ち上げて、視線を合わせてやる。
途端にミカの顔が紅潮し始めた。
「いつもキスするこの距離で見つめ合ってるのに、あんな遠距離で照れちゃうの?」
「距離は関係ありません。リコに見つめられていると思うだけで、そうなるんです」
「それは喜んでいいことかな?」
「さあ、どうでしょう。リコがどう感じるかじゃないですか」
「そうだね。すごく嬉しい。なので、キスしたいんですが構いませんね?」
「断ってもしますよね」
「嫌?」
「いいえ」
ふふ、と小さく笑ったミカの吐息が私の頬を撫で、耳朶を抜けていった。それだけで背筋がぞくぞくと震えてしまい、そのこそばゆいものをこれ以上溢れさせてはたまらないとばかりに唇で閉じ込めてやった。
「……オレンジの味がします」
「ああ、さっきユキノが食べてたカップアイスだね。一口分けてもらった」
「カップアイス……? 美味しかったですか?」
「結構ね」
「そうですか。よかったですね」
「……?」
なにやら急にご機嫌斜めのご様子。
私に何か落ち度でも……あー、一口分けてもらったというところにスネてるのか。間接とか気にしているのだろう。
何だよもー、嫉妬かよー。ほんっとに可愛いなぁ。
「ごめんね、ミカ」
「な、なんですか急に……」
「んー? なんとなく」
軽率だったと反省し、ぎゅっとミカを抱き締めてぽふぽふと頭を撫でる。しばらくそうしていると、不機嫌オーラがみるみるうちに蒸発して空気に混ざって消えていった。怒った顔も悪くないけど、やっぱりミカは笑顔がいいんだ。
さらにそのまま数十秒待って。
「それじゃ、さっさと再提出のデッサンを仕上げて、学食でアイス食べようよ。私、モデルやるからさ」
「え? いえ、別にアイスを食べたかったわけでは……」
「私がミカと一緒に食べたいの。それぞれ違う味のアイスを買ってね」
「……わかりました。では、お願いしますね」
私の言外の意図を理解し、そう言って笑うミカにもう一度キスをして、私は再び『考える人』になった。
「その前に、リコ。授業のときみたいに見つめるのはナシですからね」
「どうして?」
「また描けなくなるからに決まってるじゃないですか」
「できるまで付き合うよ?」
「そういうことではなくて……」
「君が、描き上げるまで、見つめるのをやめない」
「…………。勝手にしてください」
諦めたように息をつき、ミカは鉛筆を手に取った。
結局、描き上がるまで放課後四日分の時間を要したが、なんとかミカは課題を提出することができたのだった。
終
翻訳さん。 南村知深 @tomo_mina
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