金魚の池 2/2
陽は傾き、辺りは薄暗くなっていました。だけど僕は、仲間の制止も聞かずにフェンスを潜ったんです。
「もう帰ろうよ」
「早く帰らないと怒られるよ」
さっきまで夢中で遊んでいたくせに、いい気なもんだと思いました。でもね、彼らは間違った事言ってませんからね。夕方のチャイムは、もうずっと前に鳴り終わっていましたから。
徐々に暗くなる景色に、心細さを感じていたんでしょう。
だけど僕は、そんな事にはお構いなしでした。懐中電灯で水面を照らし——お化けの顔を見てやろう——その事だけを考えていました。
物干しロープの安心感からか、両足をフェンスに引っかけるようにして、胸が水に浸るほど身を乗り出した——その時。ふと、近くの水面が揺れたのに気付きました。
さっと懐中電灯を向けて見えたのは…………見慣れたオレンジの背びれでした。
「何だよ。また金魚——」
一瞬でしたよ。水の中に落ちるのなんて。あれだけ身を乗り出していれば当然でしょう。
水の中は酷く濁っていて、どちらが上なのか下なのか分からない。ただ静かに落ちていく感覚だけがありました。
運が悪い事に、お腹に巻いたロープは、水に落ちた時に取れてしまったようでした。物干しロープなんて、固くて結びづらいですから。後で解きやすいように蝶結びしていたことも災いしました。
海水と違って、淡水に落ちたらすぐには浮かべませんよ。体に纏わり付く服は邪魔でしかない。藻掻こうにも、水が重くてうまく泳げなくて…………。
後悔と恐怖で諦めかけたその時——何かが僕を押し上げたんです。
水の底から水面に向かって、真っすぐ僕を押し戻してくれたんですよ。
息も苦しい、何が起こっているのかも分からない。だけど僕はなぜか懐中電灯を水底に向けました。すると、目と鼻の先に——白髪の、皺だらけの恐ろしい顔のお婆さんの顔が見えたんです。
驚いて息を吐き出すと、お婆さんはより険しい顔をして、手を水面へと伸ばしました。そうして僕を助けてくれたんです。
気付けば、フェンスの外で倒れていました。起き上がって友達を見上げると、二人は金魚の池の方を見て呆然としていました。つられて僕も池の方へと振り返り——あんぐりと口を開けました。
緑の水面に二つの白い手が見えました。骨と皮だけのその両手が、水面からどんどん伸び始めたんです。手は金魚の池の中心から、異様な光景に呆然と立ち尽くす僕たちの方へとゆっくり伸びてきました。
やがて伸びた二本の長い手は、フェンスをがっしり掴みました。そして、鼓膜を破るような声量のしゃがれた声で——
「水の中に引き込むぞ!」
——そう脅かされたので、一目散に逃げかえりました。
家に帰ってからも、母からキツイお叱りを受けたんですけどね。
それから、僕たちの話がクラス中で話題になって、それが他のクラスにも伝わって、ついには学校中で噂されるようになりました。多少は尾ひれが付いて、子供を食べる恐ろしい化物が金魚の池に住んでるなんて噂も耳にしましたけど。
そんな噂が広がったので、皆金魚の池には近寄らなくなりました。
今思えば、それが彼女の作戦だったのかもしれません。
水底から伸びた手が子供を驚かす話は、意外と他の地域にもあるようです。ある地域では、彼女の事を【手長ばばあ】と呼んでいるのだとか。
手長ばばあは、水の底に住んでいる手の長いお婆さんで、水辺で遊ぶ子供がいるといましめる妖怪の仲間なんだそうです。
水辺の怖さを知らせる為に、彼女は水底で目を光らせているんです。
きっとあの時も、僕たちを見ていたんでしょう。すぐに現れると面白がる悪ガキに違いないから、水の怖さを分からせてから助けてくれたに違いありません。
そうでなければ、『水の中に引き込むぞ』なんて、わざわざ宣言しないでしょ。本当に引き込むつもりだったなら、水を覗いた子供をその長い手で捕まえてしまえば済む話です。それに、僕を助けてくれましたから。
そんな事があったので、水辺にいる子供達を見ると、ふと昔の自分を思い出して心配になるんです。あの時は、偶然彼女がいたから助けてもらえたけど、そうでなければ悲惨な事故でしたから。
妖怪に心配されるような悪ガキだった僕も、今じゃ一人の教師です。職場は母校の小学校。あの頃の防火水槽は埋め立てられたようですが、今も昔も、子供たちの水辺への関心は変らないようです。
ついこの間も、クラスの子達が噂してましたよ。
「もう鯉の池に行くのはやめようよ。お婆さんのお化けが出たらしいよ」
「えー。鯉の餌まだ残ってるのに? そんなの嘘に決まってんじゃん。行こうよ」
いつの時代も、彼女の心配は尽きないようです。
大人になって、僕もようやく彼女の心労を知る事ができましたよ。
「コラ。水遊びする時は大人と一緒って、今朝お話したばかりじゃないか」
水遊びは、大人の目の届くところで 木の傘 @nihatiroku
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