記憶をなくした雷
大隅 スミヲ
記憶をなくした雷
雨が降っていた。
男は酔いつぶれたのか、カウンターに突っ伏している。
「お客さん、そろそろ閉店時間になります」
若いバーテンダーが声を掛けると、男は突っ伏した姿勢のまま片手をあげて、勘定を頼んだ。
財布の中には、一万円札が二十枚ほど入っており、男はその中の一枚を取り出して勘定を支払った。
雨脚は強くなっていた。
バーを出た男は、夜空を見上げながらどうしたものかと考えていたが、すぐ近くに二十四時間営業の喫茶店を見つけ、そこまで小走りで移動した。
ホットコーヒーを注文し、空いている席に腰をおろす。
時間も時間なだけに、客はまばらであった。髪の毛を緑やピンクに染めた若い女や始発待ちであろうサラリーマン風のスーツ姿の男、職業不詳の中年などがそれぞれの席にいる。
席に着いた男は、財布の中身をもう一度確認した。
一万円札は十九枚残っている。それに千円札が数枚。小銭もいくつかあった。
ただ、財布の中に入っているのはそれだけであり、身分証明書となるようなものやクレジットカードの類は入っていなかった。
男は小さくため息をついた。
自分が何者なのかわからないのだ。名前も住所も年齢も。何もかもの記憶が失われていた。
気がついた時、男は駅のホームにあるベンチに座っていた。
そこがスタートだった。
持っていたのは、この財布とスマートフォンだけ。スマートフォンには、通話機歴などは残されておらず、電話帳にも何も登録はされていなかった。
「私は、何者なのだ」
男は独り言をつぶやき、ホットコーヒーをひと口飲んだ。
しばらく喫茶店で時間を潰した。
始発電車が動き出す時間になると、客がひとり、またひとりと喫茶店から出ていく。
雨は止んでいた。
男も他の客と同じように喫茶店を出たが、すぐにその足は止まってしまった。
どこへ行けばいいのか、わからないのだ。
この街に来た事はあるような気はしていた。駅の場所や商業ビルの中にどんな店が入っているかなどがわかるため、何度かはこの街に来ているはずだ。
少し疲れを感じたため、駅前にあるサウナへと向かった。このサウナは数時間であれば、仮眠を取ることができるスペースがある。そういったことは、しっかりと記憶にあるようだ。
受付でロッカーのカギを受け取り、浴場へと向かう。
鏡に映った自分の姿を見た男は、他人を見てるような奇妙な感覚に陥っていた。お前は誰だ。そう問いかけたくなる。
浴場で身体を流した後、髭を剃ってからサウナに入った。
サウナの中で過去の記憶を辿ろうと男は頑張ってみたが、出てくるのは汗だけであり、何ひとつ思い出すことは出来なかった。
サウナを出た後は、休憩室の椅子に座り、少し眠った。
奇妙な夢を見た。
誰かに追いかけられており、隠れる場所を必死に探している夢だった。
なぜこのような夢を見るのか。これは、自分が忘れてしまっている記憶なのだろうか。
目を覚ました時、びっしょりと汗をかいていた。
さきほどサウナで汗を流したばかりだというのに。
男は冷たく冷えたタオルで顔を拭き、自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲んで喉の渇きを潤した。
結局、なにもわからないままだった。
ロビーに置かれている大型テレビでは、朝のニュース番組が放送されていた。
トップニュースとして取り上げられているのは、とある国会議員の死であった。
ニュースによれば、その国会議員は闇献金疑惑が掛けられているさなかに、ビルから転落して死亡したとのことだった。警察は事件と事故の両面から捜査を進めているということを女性アナウンサーが読み上げている。
男はその国会議員のことを知っていた。
『私が死ねばすべては闇に葬られるのか』
それが最期に残した言葉だった。
電話が鳴っていた。聞き覚えの無い着信音だったため、男は自分のスマートフォンが鳴っているということに気がつくまで時間がかかってしまった。
見覚えのない数字の羅列が表示されている。
「もしもし」
「いかずち、今朝のニュースはお前の仕事で持ちきりだな。仕事が確認できたので、金をいつもの場所に置いておいた。また何かあったら連絡をする」
相手は一方的にそれだけ喋ると電話を切った。
男はすべてを思い出していた。
そう、私の名前は
なるほど、そういうことか。すべてを思い出した私は笑っていた。
記憶をなくした、
もう少しで、そう呼ばれることになるところだった。
記憶をなくした雷 大隅 スミヲ @smee
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