外伝~沫雪~

ソンギョンは、ありし日のジョンウと共に春道港しゅんどうこうおもむいた時の夢を見ていた…



春道港までの道のり、輿こしには2人きり…



並んで乗る輿内の甘い匂い…



重ねられた手、時おり重なる視線、見つめ合う時の流れ、微笑ほほえみ合う幸福感…



この上ない幸せな空間が春道港へ到着したことで、終わりを告げた…



しかし到着した春道港は、雅都宮がときゅう都城とじょう、から離れているため、都城と都河港とがこう拠点きょてんに生活をしている、ソンギョンとジョンウの知り合いはほとんどいなかった。



ソンギョンとジョンウは互いに目を見合せ、笑顔で頷く。



ジョンウが左手を差し出し、ソンギョンが右手を重ねる。



2人の心は、こうであった…



「今日は心ゆくまで、今までやりたかったことを!」



ソンギョンの祖父チャン・ヒョイルから使いを頼まれた店、春香道しゅんこうどうまでの道すがら、2人は手を繋ぎ、屋台で目につくものを食べ歩き、そろいの指輪を買って身に付けたり、と都河港では到底とうてい出来ぬ振る舞いを存分ぞんぶんに楽しんでいた。



祖父の予想した天気予報では、日が沈む前まで持つとのことであったが、あいにく祖父が外れ、大通りで楽しんでいた2人に強く激しい雨粒が振ってきた…



祖父の使いを頼まれていた、春香道はまだまだ奥まった場所にあり、もうしばらく歩かねばならぬ。



たらいをひっくり返したような雨足あまあしから逃げる2人はちょうど目に入った茶館ちゃくわんに入った。



茶館の大広間は雨宿りの客でごった返しており、仕方なく給士係きゅうしがかりの店のものを呼んで2階の個室へと案内してもらう。



2人ともに大粒の雨のせいで、すっかりねずみになっていた。



春道港にも都河港の支店である、搬行李はんこうり春道店しゅんどうてんを持っているジョンウは、茶館の者に自身の店まで使いを頼み、着替えなどを用意してもらえるように手筈てはずを整えた。



ジョンウの店は茶館からさほど離れておらず、そう時間はかからぬはずであった…



が…



互いにずぶ濡れであり…



先ほどから、ソンギョンは自身の体に張り付くチマ・チョゴリが気になって仕方がなかった。



体に張り付いて、体の線がまるで見えてしまっているし、こんな日に限ってソンギョンは白生地しらきじを選んでしまったのである。



恥ずかしさのあまり、ジョンウと部屋に入ってからずっと背を向けたまま下を向いて立っていた。



一方ジョンウもソンギョンに背を向けていた…



恥ずかしそうにしているソンギョンを気遣きづかっている建前たてまえなのだが、ずぶ濡れでチマ・チョゴリが身体に張り付き、身体の線がまるで丸見えであり、しかも白生地から透けて綺麗な肌の色まで分かってしまうほどのソンギョン…



それらを恥ずかしそうにしているソンギョン…



どれを取ってもジョンウの方が恥ずかしく、見てはいけないものを、見ている気持ちをさらに増長させてしまうのであった。



ジョンウが自身の店・搬行李春道店へ頼んだ品物が届くまでの時間が何年も先に思えるほどに長く気まずい空気がずっと漂っていた…



『失礼します。』



と、扉の前で声がした。



着替えが届いたのであろう。



ジョンウが親しげに話しているのを聞くと、搬行李店の者であると思われる。



ジョンウは一言二言ひとことふたこと、続けて何かを話し、終えるとその使用人は去っていった。



ジョンウが恥ずかしそうに、ソンギョンに背を着けたままの体制で包みを手渡す。



『着替えの衣が入っている。身丈みたけは大丈夫かと思うが、たがっておったら許してくれ。私はしばらく席を外す。ゆっくりと着替えをしてくれ。』



そう言い残し、部屋を後にした…




手渡してもらった包みを解き、中のチマ・チョゴリを見てソンギョンは目を見張った…



ソンギョンが普段着ているような品ではなく、生地からして高直こうじきだと分かり、その高直な生地に意匠いしょうらした刺繍ししゅうが散りばめられている、冠婚葬祭かんこうそうさいでもめったに見ることのないほど豪華なチマ・チョゴリであった。



おまけにソンギョンが好きな、鮮やかな若草色わかくさいろに染め上げらた生地きじであったのだ。



ジョンウがソンギョンへ特別にあつらえたチマ・チョゴリであることがうかがえる。



ジョンウがこのチマ・チョゴリをあつらえてくれた時の気持ちをかんがみて、遠慮をしたい気持ちを抑え、着替えることにした…



店の者に頼み、屏風びょうぶを持ってきてもらったので、屏風の後ろ側へ移動して着替える。



生地はしっとりと滑らかで、縫製ほうせいも動きやすくしっかりしており、寸法すんぽうもソンギョンにぴたりと合った。



先ほどジョンウにそろいで買ってもらった翡翠ひすいの指輪がとてもよく似合っているチマ・チョゴリである。



持ち歩いている巾着きんちゃくから、白粉おしろいべにを取り出し、軽く化粧直しをして完成した。



着替え終わると、いつの間にか戻ってきていたジョンウが茶卓ちゃたくに腰かけていた。



ジョンウに着替えたソンギョンを見せに行く。



初めは呆然ぼうぜんとし、何も話さなかったジョンウがはにかみながら「よく似合う」とめてくれた…



ソンギョンの幸せが心から溢れ出ていた。






着替えが届きソンギョンにはゆっくり気兼きがねせずに着替えて欲しく、ならばと部屋を出たところで、昼時だったのをジョンウは思い出す。



先ほどまで屋台で散々食べ歩きをしたので、茶館で軽く飲茶やむちゃを頼み、冷えた体を温かい茶で温め、しばらくのんびりと自分のあつらえたチマ・チョゴリを着ているソンギョンを独り占めしておく予定であった。



廊下を忙しく歩く店の者を呼び止めて、飲茶の注文と自らの着替えの場所をどこかへ融通ゆうずうできないか、頼んでみる。



飲茶は、少し時間を置いて部屋へ持ってくるように追加で伝え、自身も着替えをした。



着替え終えて部屋へ戻ると、ソンギョンはまだ屏風びょうぶの向こう側にいたので、茶卓に並んでいる飲茶の茶を飲みながら、一人でほくほくとした気持ちで回想かいそうしていた。



ソンギョンとこの様な時間を持てるなどと、思いもよらなかった…



幸せを噛み締めているジョンウに、はにかみながらソンギョンが「着替えた」と話しかけにくる。



ジョンウが平静へいせいよそおって「似合う」と伝えると、頬を染めてお礼を口にし、ジョンウの向かい側の茶卓の席にソンギョンは座った。



向かい側のソンギョンは、飲茶をきっしながら嬉しそうに先ほど屋台で見つけた翡翠ひすいの指輪をくるりくるりと回している。



ジョンウは天にも昇る気持ちで、ソンギョンを見つめていた。



先ほどは、ソンギョンが「着替え終えた」と屏風に背を向ける格好で椅子に腰かけていたジョンウの肩を叩いたので振り向くと…



この世の者ではないほど、美しいソンギョンが立っていた…



一瞬いっしゅんにして見惚みほれてしまい、言葉が何も出てこなかった…



ソンギョンが今目の前でしているのは、何かの時にソンギョンにおくることができるかもしれない…



と、ソンギョンに似合うチマ・チョゴリを生地から選び、刺繍ししゅうも自ら指示し、あつらえておいたものだ。



渡せる日など来ないかもしれない…



諦めていたところ、今目の前でソンギョンがそのチマ・チョゴリを着てくれている。



「ありがとう」と喜んでもくれた…



しかも、自分とそろいの指輪で嬉しそうに遊んでいる…



ジョンウは…



ジョンウは…



本当に本当に幸せであった…






飲茶も食べ終え、雨も止んだので、2人は春香道しゅんこうどうへ出発することにした。



雨上がりの大通りは、きらきらと雫が煌めいて元よりはずんだ気持ちのソンギョンとジョンウの心を更につややかな気持ちにさせてくれた…




大通りを十字に走る通りを右に少し進んだ場所に春香道は店を構えている。



店の玄関を2人でくぐると、すぐに店主が出てきた。



店内は広くはないが、威厳いげんのような、重厚じゅうこうな雰囲気をまとう店で、香の道では知らぬものがいない、と評判通りの店構みせがまえであった。



『これはこれは、搬行李店の若旦那ではありませんか。今日はどんなご用でお立ち寄りに?』



と、店主がたずねてきた。



万治通まんじつうの使いで参りました。チャン・ヒョイルより、こちらで香を預かってくるように言われておりますが、お耳に入っていますでしょうか?』



ちょうど店主から見えぬ、ジョンウの後ろに隠れていた立ち位置であったソンギョンが、左側へひょこりとでる…



と、春香道の店主の目が見開かれた。



『あなた様が、ちゃん様のお孫様で…はい、うかがっております。ただ、あいにく2日前の時化しけ支那しなの国からの船が遅れておりまして…今朝、張様へのお知らせの便りを出したところにございます。行き違いになってしまったようで…申し訳ございません。』



店主は、深々と頭を下げる。



『どれくらいで到着するのですか?そう時間がかからぬのであれば、お待ち致します。』



まだ、日が落ちるまでには時間があるし、その間ジョンウと春道港の時間が過ごせるのであれば、幸いであるソンギョンは気軽に「待つ」と答えた…



が…



『明後日には必ず届くかと思います。』



と、店主から予想外の答えが帰ってきた。



困った…



2日後だと言う…



都城とじょうの屋敷を何日も空けることはあるが、それは祖父の万治通で過ごしているからで、それは両親も承知しており、何も言わず好きにさせてくれている。



しかし、両班やんばんで名家と呼ばれる家に名前をつらねるほん家の息女そくじょが、港町みなとまち幾日いくにちも滞在するなどと、外聞がいぶんが悪い…



しかし祖父の話しぶりからして、祖父自らが、ないしソンギョンでないと、この仕事は勤まらぬ様子なのである。



かなり高直こうじきで、なかなか手に入らぬ品であり、品を納める先方も無下むげにはできぬ相手なのだろう…



困った…



と、考え込んでしまったソンギョンに、隣から助け船が出された。



『私に妙案みょうあんがあります。ソンギョン、詳しい説明は後で…とりあえず、春香道のご店主殿、ここは一旦いったん承知したということで、話をまとめてもよろしいですか?万治通の張様には、私から便りを出しておきます。では、明後日にまた…』



そうジョンウはまとめて、ソンギョンをともなって店を出る。



店を出て、どこかへ向かいながらジョンウは続けた。



『連れて行きたいところがあるのだ。機会があれば、ソンギョンに見せたかったところなのだ。そこへ行く前に、店に立ち寄りたい。とりあえず付いてきてくれ。』



そう言って、ソンギョンの手を取る…



不思議に思いながらも、ソンギョンは大人しく連れられて行く。



搬行李店の春道港支店に到着すると、ソンギョンをジョンウがいつも使用している部屋へ案内し、ソンギョンに待つように伝え、自分は店に戻っていった。







ソンギョンは、たまに訪れる都河港とがこうの時のジョンウしか知らなかった…



春道港しゅんどうこうにも度々たびたび訪れているからこそ、この部屋が用意されているのであって、それすらも知らずにいた…



ソンギョンは、ジョンウをどれくらい知っているのだろう…



自分をジョンウはどれくらい知ってくれているのだろう…



と、回想しながらジョンウが案内してくれたジョンウの私室ししつながめ歩いた。



本棚の前で立ち止まる…



ソンギョンに貸してくれた本も何冊か見つかり、本の題名を流し読みしながら目だけ移動する。



本当に沢山の本が並べられていた…



まだ識字率しきじりつが低い鮮国では、本は高価こうか贅沢ぜいたくなものであった…



その本が数えきれぬほど棚に並べられていたし、鮮国の言葉ではない本も多数混じっていた。



見たことのない文字もある…



ソンギョンでも数ヵ国語ならば日常会話から文字ならば扱えるが、その数を優に越えてる様々な言語の本たちが並んでいた。



ソンギョンが知っているジョンウは、ほんの一面でしかないのだと、何だか寂しさも覚えはじめた頃、部屋の戸の外で使用人であろう…



ジョンウではないが聞いたことのあるような気がする声がした。



『茶をお持ちしました。失礼いたします。』



戸を開けて入ってきたのは、都河港の搬行李店本店で何度か見たことのある、ジョンウより少し年上の青年であった。



ジョンウと比べると、役者の様な優男やさおとこ面構つらがまえであるが、鋭い目付きを持っており、ソンギョンをその双眸そうぼうで見つめていた…



主人の隣に立つに相応しい人物なのか、見極めをしている…



と言ったところか。



せっかくなので、話しかける機会が訪れてくれた、と考えることにした。



『ありがとう。よく都河港へ訪れると搬行李店で見かけるわ。私は、ホン・ソンギョン、あなたのお名前を聞いてもいいかしら?』



ソンギョンに話しかけらるとは考えていなかったのだろう…



一瞬止まったのち、話し始めた。



『チェ・イアンです…』



気乗りしない、と言った雰囲気でぼそりと答えてくれた…



ソンギョンは、ややあってたずねてみることにした。



『相談に乗ってもらいたいことがあるの。この匂袋においぶくろたちの中で、あなたのご主人様に贈るなら、どれがいいかしら。』



ソンギョンは話しながら、先ほどの雨で濡れてしまった荷物の包みから、いくつもの匂袋を取り出した。



いつも一緒にはいられないジョンウに匂袋をつくってみたが、あれもこれも思い付きで作ってしまい、たくさんの数の匂袋が出来上がってしまった…



『どれもジョンウ様なら、お似合いになるかと思います…』



また、すげない返事が返ってきた。



『この色ならあなたにも似合わないかしら…先ほども茶館まで雨の中着替えを持ってきてくれたと思うの。あなたと同じ声がしたわ。気に入らないかもしれないけれど、あなたが大切にしているご主人様を思って作った匂袋なの。よかったら受け取ってもらえないかしら…なかなか会えないから、ジョンウを想って作っていたらこんなにたくさん出来上がってしまって…まだ屋敷にたくさん残っているのよ。生憎あいにく香は入っていないのだけど…』



初めは遠慮しようかと考えていた雰囲気のイアンだが、ソンギョンの笑顔の裏に見える譲らぬ目の光に気づいて、お礼を伝えて受け取る…



『私はあまりジョンウといられる時間が持てないの…いつかもっとたくさんの時間を一緒にいられるようにするのが、今の私の夢よ。たまにしか会わない私に言われることではないかもしれないけれど、これからもジョンウをよろしくね。お茶ありがとう、頂くわ。』



そう言って茶を頂こうと茶卓へつくとソンギョンの好きな睡蓮茶すいれんちゃ月餅げつべいが添えられていた。



イアンは、黙ったまま頭を下げて部屋を出ていく…



初めのとげとげとしていた雰囲気ではなくなり、とげを丸くして部屋を後にした。



『美味しい…陽国のものだわ!』



なかなか手には入らないはずの珍しい睡蓮茶であり、本場の陽国茶葉産地の味は鮮国では滅多にお目にかかれない。



チマ・チョゴリもそうだが、ジョンウがソンギョンの為に用意してくれていたのだと想像した…



イアンに選ぶために広げたいくつもの匂袋に手を伸ばす。



ソンギョンの縫い物は、職人の様だと皆に誉められる…



が、今までジョンウに何かを贈ったことはなかった。



ジョンウは受け取ってくれるだろうか…



気に入ってくれるだろうか…



喜んでくれるだろうか…



考えを巡らせながら、2つ目の月餅に手を伸ばすと戸が叩かれる音がした。



振り向くとジョンウが立っていた。



『冷めてしまっているけど、ジョンウもいかが?』



そう言って、小さなわん睡蓮茶すいれんちゃを注ぐ。



ジョンウが茶卓ちゃたくに座る…



と、広げてあった匂袋を見つけたようだった。



『ジョンウ…気に入るものは、あるかしら…』



ジョンウの目線が匂い袋にあるのを好機ととらえ、おずおずとソンギョンはジョンウにたずねてみる…



『見事な匂袋だな。この金糸に白地が気に入った…が、こんなにたくさんの匂袋をどうしたのだ?』



ジョンウは先ほど、部屋から出てきたイアンが似たような匂袋を持っていたし、本当に沢山の匂袋が並べられてあり、不思議に思ってソンギョンにたずねてみる。



『私が作ったものなの…ジョンウにいつもしてもらうばかりでしょう? だからジョンウに似合いそうなものを作りたくて、色々とつくってみたら…こんな数になってしまったのよ。まだまだ、屋敷にもたくさんあるわ。手帕はんかちもあるわ。しんの字にちなんで「こぶし」の花を刺繍してみたの。この手帕なのだけど…どうかしら…』



ジョンウは一瞬止まってしまった…



ソンギョンが、自分を想って何かを作ってくれていた…?



想像をしたこともなかった…



『ありがとう、ソンギョン…』



思わず席を立ってソンギョンを抱きしめてしまう…



『喜んでもらえてよかった。』



ふふ、と嬉しそうに答えるソンギョン…



『先ほどの、イアンにね。いつもジョンウの手伝いをしているかと思うのだけど、合っているかしら。今日も雨の中、茶館まで着替えを運んでくれたでしょう? だから、ジョンウに似合わないかな?と思える匂袋を、いつもジョンウがお世話になっているお礼に…と考えて、もらってもらったの。イアンは、渋々といった雰囲気だったんだけれども。』



ジョンウは、ソンギョンのすることならば何でも許してしまい、ソンギョンの全てが正解なのであるからして、ソンギョンがジョンウの為にすることは、すなわち大大大正解なのであった。







匂袋と手帕を大切に手に取り、眺め、ひとつひとつに喜びを隠さなかったジョンウがようやく席を立つ。



そんな様子をソンギョンは嬉しそうに黙って眺めていた。



『待たせてしまったな、ソンギョン。出発しよう。輿こしを待たせてある。』



ジョンウに案内され、輿に乗って搬行李店を後にする。



春道港の繁華はんかな場所を少し離れ、山あいへと進むと、春道港の海が一望いちぼうできる小高こだかい場所に瓦屋根かわらやね白壁しらかべの屋敷が見えてきた。



ソンギョンとジョンウの乗る輿は、この屋敷の前で止まった。



ジョンウが手を添えて、ソンギョンが降りるのを手伝ってくれる。



輿から降りると、辺り一面いい香りがした。



まだ建てられてから日が浅いのか、白木が白いままであり、木の香りが漂っている。



『素敵なお屋敷ね。見張らしもとてもいい。』



そう、ソンギョンが言い終わるのが早いか遅いか…



後ろからジョンウがソンギョンを抱きしめていた。



『ソンギョンと共に年を重ねて、共に白髪になるまで時を過ごせる家を作ってみたのだ。気に入ってもらえそうでよかった…』



後ろから大好きな声が静かにソンギョンに届く…



『ありがとう、ジョンウ。』



ソンギョンも静かにジョンウにお礼を伝えた。



『そこでなのだが…祖父どのが所望しょもうしておる香が届くまでの間、この屋敷で過ごすのはどうだろう…もちろん、嫌なら春道港に戻り、宿を用意させる…』



ジョンウに後ろから抱きしめられたまま、ソンギョンは重大な決断を迫られていた。



まず、良家の息女が港町に宿を取ること自体、はしたないと世間より言われてしまう…



そんな世の中を生きるソンギョンに、ジョンウは共に連泊をしたいと決断を迫っているのであった。



待ちきれず、後ろから念を押すようにジョンウがソンギョンに気持ちを吐露とろしてくる。


『ソンギョンと共に時を過ごせることを夢見て作らせた屋敷なのだ。ソンギョンと過ごしてみたいのだ…』



ソンギョンは体をひねり、ジョンウの顔を確かめ、眼差しを確認してみた。



ジョンウは少し照れながら真剣な眼差しをソンギョンに向けている。



一瞬、間があり…



ソンギョンは嬉しそうにはにかみながら、頷くことで返事をした。



ジョンウは嬉しさのあまり、ソンギョンを自らの方へくるり、と反転させ、柔らかく抱きしめた。






ソンギョンとジョンウは共に連れだって、門をくぐった。



ジョンウの案内で玄関から入る…



壁は白壁、柱や床、天井は白木しらき、屋根は瓦屋根、ぜいの限りを尽くした造りであった。



ジョンウがソンギョンの為に用意した部屋は、南向きで光がふんだんに差し込む明るい部屋であり、ジョンウとの部屋の間に月が差し込むように設計された池が互いの部屋の真ん中に設計されていた。



しかも、その池の畔には東屋あずまやも用意されており、2人でのんびりと食事をしたり、語らう空間があつらえてあった。



互いの部屋の真ん中にある池は、秋夕ちゅそくの日に月が池に浮かぶのだそうだ。



月を閉じ込める仕掛しかけがしてある、とジョンウはソンギョンに教えてくれる。



何とも風びな造りである。



ソンギョンがジョンウにこの部屋を、と案内された部屋を改めて見回すと、豪華な装飾そうしょくほどこされた調度品の数々が所狭ところせましと並んでいる。



ジョンウの心遣こころづかいは、ソンギョンが想像していたよりもはるかに上回っており、嬉しさと照れ、温かさと柔らかさ、それらが運んでくれる酩酊感が織り混ざり、えも言われぬ幸福をソンギョンに運んでくれた…



夕食時まで、池を見に外へ出ようとソンギョンが誘う。



池には見事なはすが生えており、春になると見事な花が楽しめそうであった。



池の両脇には、様々な樹木が植えられており、更に楽しませてくれそうだと期待がふくらむ。



もちろんソンギョンが好んでいる芍薬しゃくやくも、牡丹ぼたんも、椿つばきも、多種多様な種類が見事に植えられていた。



ひとつひとつがソンギョンへの贈り物だと、説明などなしに伝わってくる。



そんな庭をのんびりと散策しながら歩いていると、イオンが夕食の準備が整ったと知らせに来てくれた。



イオンは早速先ほどの匂袋を腰から下げてくれていた。



ソンギョンが匂袋に気づくと、イオンは目礼して答えてくれる。



イオンの匂袋とソンギョンの目礼にちゃんと気づくジョンウ…



『後で私にも匂袋を選んでくれるな?』



と、ジョンウは口を尖らせながら、ソンギョンに話しかける。



『ジョンウには香を一緒に選んでから入れ物を…と考えていたのよ。春香道で選ぶ予定でいたのだけど…明後日までかかるわね。ジョンウは香の余分があるかしら? もしよければ、いつも使っている香を食後に一緒に合わせましょう? それからその匂いに見合う袋を選べばいいかと思うの。せっかくだから、香に合わせた匂袋を使って欲しかったの。夕食が終わったら早速さっそく選びましょう? イオン、用意をお願いしてもいいかしら。今日は天気がよくて、乾燥しているから、匂いを選ぶのに丁度ちょうどいい日だわ。ね?』



と、話をソンギョンから聞いて、機嫌が大きく直ったジョンウに、ため息を隠さずにソンギョンへの返事をしてイオンは去っていく。



『ふふ』



と、ソンギョンに笑われ、すたすたと早歩きになったジョンウの手を取るソンギョン。



二人で池の畔にある東屋まで、手を繋いで連れだって歩いてゆく。



幸せとはこう言うものだと、二人が教えてくれているような後ろ姿であった…







東屋の離れに着くと、2人分の食事が用意されていた。



離れの戸は開け放たれ、池と庭が一望できる…



本日はあいにく満月ではないが、半月が綺麗に空に浮かび、無風むふうなので池にも月が綺麗に写し出されている。



時おり、雲までもが池に写し出される。



まこと幻想的であった…



『この離れを2人の食事の場にしようと考えているのだ。ここで互いに1日の出来事やその日にあった嬉しかったことや悲しかったことを話せたら、毎日が楽しかろうと思ってな…ここを造ろうと考えた時もそうだったのだが、ソンギョンと共にやりたいと思えることが、どんどんあふれてきて、きぬのだ…そして、ソンギョンと共にあることができれば、どんなことも楽しくなろう、と思えてな。現実に乗り越えねばならぬ課題が横たわっておるのは知っておるが、それでも共にあることを楽しみにしておる…さあ、冷めてしまう前に食べよう。』



空に浮かぶ月と、池に浮かぶ月の幻想的なさまに見とれていたソンギョンに静かにジョンウは語りかける。



庭からジョンウに視線を移し、食卓へと視線を移動させたソンギョンは、並べられたご馳走の数々にまた驚きを隠せずにいた。



食卓には、ソンギョンの好きなカニなどの魚介類が所狭ところせましと並べられており、食後にはソンギョンが好物なので、様々な産地の果物が用意されている。



ジョンウはソンギョンの取り皿に、ソンギョンの好物を取り分け、笑顔でソンギョンが口をつけるのを今か今かと待ちわびていた。



ソンギョンはジョンウの進めてくれるご馳走を端から美味しそうに平らげていった。



食事が終盤に近づくと、今度は食後の果物や甘味がまた食卓へと並べられてゆく。



ジョンウはソンギョンの大好物である茘子らいちを皿に乗せ、ソンギョンの前へ置いた。



『とても美味しい…この茘子らいち越南国えつなんこくのものね。甘さが違うわ…ジョンウありがとう。』



『ソンギョンの好物をあまり知らぬので、知っている限りで用意したのだ。また追々おいおいでいいので、教えてくれるか?』



『ありがとう、ジョンウ。ジョンウも好きな食べ物や味付けを私に教えて欲しいの。ジョンウと共に過ごすことを考えたら、今のままのかこわれた両班やんばん息女そくじょのままではいられないでしょ? だから、少し前から屋敷の水刺間すらっかんの使用人に料理を習っているの。あきないで船出もするでしょう? ならば、包丁ほうちょうくらいは握ることが出来なければ、ジョンウと共にいられないと思ったの。留守番は嫌よ? お祖父様と商船で今まで何度も船旅はこなしているわ。一緒に連れていってくれるわよね? だからね、洗濯や掃除も習っているの。言葉と算術は大丈夫だから、あとは料理や洗濯だと思っていたのよ。ジョンウとの暮らしを楽しみにしているのは、私だって負けないわ。』



また、ふふ、と笑いながらソンギョンは話す…



ジョンウと船旅でどこまでも行ってみたい、それもまたソンギョンの夢のひとつであった。



『楽しみだな…しかし、両班のお嬢様がそこまで出来るものなのだな。ソンギョンは、両班の囲われた奥さまでは収まらぬのかもしれぬな…水を得た魚のように生き生きとしているソンギョンが目に浮かぶ…本当に楽しみだ。』



ジョンウもまた、そんなソンギョンと様々な国へおもむき、様々な人やものに触れ、新しい発見をしながら、笑い合う時間を共にすることが夢のひとつであった。



2人で様々な話をしていると、あっという間に夜も更けていく…






食事を終えて、それぞれの部屋に移動し寝支度をすることになった。



『おやすみなさい、また明日。』



『おやすみ。』



互いに席を立ち、池に沿った回廊かいろうへ互いに背を向けて別れ別れに出発する。







部屋に戻ったソンギョンは、湯浴ゆあみの準備が整っているとの使用人の声で、湯浴みの場へ向かう。



湯浴みの場は、秘境ひきょうの温泉のような、しかし南国の原生林の木々に囲まれているような、ソンギョンが今まで見たこともないような造りをしていた。



湯には菊の花が浮いており、菊の匂いが湯殿に漂っている。



この屋敷は、本当に贅を尽くした造りをしていた。



ジョンウのソンギョンへの想いがあちこちに見参けんさんされる屋敷であった…



湯を浴び、寝室と続きになっている私室に庭を一望できる縁台えんだいがある。



その縁台で外を眺めて、湯浴みの後の休息をする。



湯上がりに用意されていた香油を体に塗ったソンギョンは、自らでも分かるくらい肌からとてもいい匂いが漂い、縁台に備え付けてあった階段から、庭へ降りて池に浮かぶ月を一人静かに眺めていた…



幼少の頃より、夜空に浮かぶものに惹かれる少女で、望遠鏡や双眼鏡を祖父にねだり、時が許せば夜空を眺めていた。



それを知ってか知らずか、ジョンウはソンギョンの想像を遥か越えた特別な贈り物を目の前の池に閉じ込めてくれた。



湯上がりの温かな身体から漂う、菊湯と香油の自身から放たれる匂いと、想い人からの極上の贈り物に、ソンギョンの心は酩酊感で満たされていた。



湯冷めするとよくないと思い立ち、縁台へ上り、部屋に戻ってきた。



と、同時に戸の向こう側からジョンウの声がした。



『ソンギョン、起きているか?』



『今、湯浴みが終わってひと息ついていたところよ。素敵な庭が一望できて、眺めていたの。茶を入れるわ。縁台で待っていて。』



使用人に湯を頼むと、すぐに用意してくれた。



茶器を盆に乗せて、ジョンウの座る茶卓で茶を淹れる。



睡眠の前なので、甜茶てんちゃを選び、ジョンウへ勧めた。



ジョンウはソンギョンの淹れた茶をひと口含み、目を細めて茶を楽しむ…



『ありがとう。とても旨い。これは甜茶で合っているか? 湯冷ましの口にとても合う。』



ジョンウは、甜茶にこのような使い方があるのか、と独り言を話ながら、茶を含み美味しそうに干していった。



ジョンウが落ち着いたところで、ソンギョンはジョンウに提案をしてみる。



『ジョンウ。まだ眠くなければ昼間に話していた、香を合わせたいとおもうのだけど、どうかしら。匂袋を用意してくるわね。ジョンウの香はあるかしら。』






『イオンに用意させるゆえ、少し待っていてくれ。』



ジョンウは廊下に控えているイオンを呼んで、用意するように伝えている。



ソンギョンも匂袋を用意し、机に匂袋を並べた。






匂袋と香を2人で相談しながら選び合わせた。



何と…



ジョンウは、香もソンギョンに合わせて用意してあったのである。



当然ながら、ソンギョンの香も2人で選び終えたところで、ソンギョンがいつも休んでいる時間を大幅に過ぎていたことに気づく。



『…ジョンウ、そろそろ休まないと明日に響くわ…』



そうソンギョンに告げられ、ジョンウは意を決して背を向けていたソンギョンに向き合う…



『共にい寝をしてもらえぬか?…嫌ならば…そう言ってもらえばよい。今日はソンギョンと共にありたいのだ。もちろんソンギョンの嫌がることはせぬし、一線は守る…朝まで共にあってはくれぬか?』



ジョンウの言葉は、緊張で所々、震えていた…



大切に想っているソンギョンと、このような長い時間を共にしたことは、今までなかった…



ソンギョンと共に過ごす時間が楽しく、幸せで、離れがたく…



本音を言えば、このままこの屋敷で老いるまで寝食を共に過ごしたい。



何よりも、ソンギョンが自身が思っていた以上に、ジョンウを想ってくれていること、離れて過ごす時間にもジョンウと心は共にあってくれたこと、その事実がジョンウにとってこれ以上にない喜びであった。



ゆえに、心を震わせながら一世いっせい一代いちだいの賭けに出たのであった…



そんなジョンウの申し出に一瞬いっしゅん戸惑とまどい、返答へんとうに困ったのか…



返答を考えていたのか…



動きが停止してしまったソンギョン。



しばらくの沈黙ののち、ジョンウをしっかりと見つめ、微笑む。



『うん。大丈夫。』



そうソンギョンに答えてもらい、胸を撫で下ろしたジョンウであったが、続きがあった。



『ひとつだけ…お願いがあるの…いいかしら?…』



ソンギョンは涙目の上目遣いで、ジョンウを見つめながら話し始める。



ジョンウの心臓は飛び出てきてしまいそうなほど、心臓がどくりどくり、と動いていた…



『わたしね…とても…えっと…その…

寝相ねぞうがね…寝相が…悪いの…』



最後の方は、あまりの恥ずかしさにソンギョンは下を向いてこそこそと、そしてぼそぼそと言葉を繋げる…



?…



今、ソンギョンはなんと言った…?



寝相が悪い…?



そんな理由で…?



…………。



思わず、ジョンウはソンギョンを抱き締めていた…



『そのようなこと、気にはせぬ。それよりも、何の約束も表だってしておらぬのに、添い寝をしたいと申し出たのだ…私はソンギョンに嫌われてしまったかもしれぬと心配になってしまっていたのだ。…よかった…』



ジョンウはソンギョンを抱き締めながら、そう呟いた…



ソンギョンはジョンウから少し離れて、顔が見えるようにして、ジョンウに真剣な顔で語りかける。



『もし、私たち互いの身分で婚姻こんいんを許してくれる世であったら…きっと私たちはとっくにこのお屋敷で暮らしているわ。そうでしょ?ジョンウ。』



微笑みながら、ソンギョンはジョンウにそう告げた…



『先を越されてしまったな、ソンギョン…私はどのような困難が待ち受けていようとも、ソンギョンと共にある未来を諦めることはせぬと誓う。共にあることを望んでくれるな?』



微笑み合いながら、互いに見つめ合っていた2人は、どちらともなく互いに唇が重なる…



ほんの数秒の出来事であったが、どちらの心にも生涯しょうがいわすぬ幸福を運んでくれた泡沫うたかたであった。







こののち、2人は大きな大きな河の流れに飲み込まれる、ひとつぶしずくとなってゆく…



大河を作り上げる、ひと粒の滴はそれぞれの力では何もなし得ることは出来ず、それぞれに協力せぬことには形すら作ることも出来ぬ。



果たしてそのひと粒とは、しっかりと目を凝らして見てみると…



そのひと粒ひと粒の小さな滴に宿るひとつひとつの心が尊い輝きなのだと…



ひと粒ひと粒が全くの異なる色で綺麗に光輝いてもいるのだと…



そう世に向かい輝きを一層強め、そうすることで伝えていたのだと…



ソンギョンは眠りが覚める夢と現実との酩酊感めいていかんの中でふわりふわりと浮かぶ雲のような回想かいそう彷徨さまよっていた…



このジョンウとの幸せな出来事は、ソンギョンの心に宿るほんの小さな、しかしとても強く輝く、生涯でただひとつの宝石となったのである。



どこまでも続く幸せを夢見た二人に、突如として現実は残酷で残忍な裁きを下すのであった…





泡沫うたかた

【儚くすぐに消えてしまう、泡のようなひととき。】

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滴〜SIDUKU〜 立華 久々莉 @2357chibiko

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