第4章~不香の花~

東宮殿のすぐ隣に、見事な蓮池があり、その蓮池に掛かっている橋を渡ると、陽国ヨウコク風の瓦屋根が見事な東屋がある。



その東屋は蓮池に掛かる橋を渡ろうとしなければ、誰が中にいるのかを確認することができない造りになっていた。



その造りから、別名「蓮隠閣ヨノルガク」と呼ばれている。



その東屋はいつしか、嬪宮ピングン洪氏ホンしの隠れ家になっていた。



今日もひとりぼんやりと時間が許す限り池を眺めているのである…



『嬪宮様、王妃様がお呼びでございます。』



そうミン尚宮サングンことユナに呼ばれる。



身重になり、最近はお腹も目立つようになってきた嬪宮はのっそりと立ち上がり、ミン尚宮が一段下がったところで差し出してくれた手を取り、東屋の階段を一歩ずつ確実にゆっくりと降りた。



嬪宮一行は交泰殿ギョテジョンへ歩みを向け、蓮隠閣を出発した。






父がソンギョンにシムソ大君テグンへ嫁ぐことを告げたあの日から、ソンギョンの日常は大きく様変わりした。



両班ヤンバンの息女としての学びはほぼ全てを習得していたが、それらを超えて、陽国をはじめとして東洋、西洋、南洋、様々な国々、特に鮮国と深い関わりのある国の言語から歴史、統治、貿易、宗教、文化、人々の系統や、その国独自の芸術の造詣ぞうし、などをもっと掘り下げること、など学びは多岐に渡るものを必要とされた。



それらに加えて鮮国センコクについても、更に更に深いところまで学ばなければならず、以前のようにスンアの部屋で人形遊びをする時間など、とても持てる状態ではない生活を余儀なくされていた。



ただ学びはじめは難航した部分もあったが、元より鼻が通る程の賢さを持っており、学ぶことが苦にならずどちらかと言うと好きなソンギョンは、そう習得に時間はかからずに終えていく。



元々は、祖父チャン・ヒョイルに連れられ商船で貿易をしていた、お転婆少女である。



諸外国についてなど、そう新たに学ぶことも多くはなかった。



嬪宮ピングン修行が一段落したある日、ソンギョンは母に部屋を訪ねるように言われた。






母の部屋を訪ねると、母が出かける支度をしていた。



都河港トガコウへ参ろうかと思っています。そなたも支度をなさいませ。共に参りますよ。』



そう母に突然宣言をされ、部屋に戻り急いで身支度を整える。



身支度を終えて、屋敷の門を出ると母がもう、輿に乗って待っていた。



『今日は万事通マンジツウに泊まり、翌日は春道港シュンドウコウへも足を延ばす予定です。必要なものは、万事通で揃うでしょう。嬪宮になる修学ばかりで、そなたも疲れているはずです。たまにはのんびり過ごすのもいいかと思いましてね、出かけることにしたのです。』



母は何も話さずにいるソンギョンに、これからの予定を伝えた。



『お祖父様はおみえですか?お借りしたい書物があるのです。』



と、ソンギョンがたずねると…



『父上は…どうでしょう…。また万事通で自由気ままにしておるのでしょうか…』



母は祖父の私生活に興味がない様子で、淡々としている。



『それよりも…』



と、母は続けた。



『ソンギョンはドンウさんのご子息の…確か名前は…ジョンウ…と言う名でしたね。その青年への気持ちは決着がついたのですか?』



不躾にそうたずねてくる。



ソンギョン自身、ジョンウへの気持ちはなくなることは、ない。



ただ、消えてなくなることもないし、消せるとも考えたこともなかった。



ただ、そこにある。



そこにある、が今は鳴りを潜めている…

そんな感じであるのだった。



言葉でうまく言い表せられない感情であるが、母には



『心にしまってあります。』



とだけ、答えておいた。



さすがソンギョンの母だけあって、そのひと言で察するものがあったのであろう…



『そうですか。』



と、あっさりとした答えのみであった。



『それはそのままにして…そなたは、シムソ大君テグン殿下との婚姻について、何も申しませぬが、何か思うところはないのですか? 王家へ嫁ぐとは、何があろうとも死ぬまで逃げ出すことは許されぬ身になると言うことです。ごく一般の両班ヤンバンの家へ嫁ぐこととは、訳が違うのですよ? 既に存じているかと思いますが、ミギョンは王妃様の姪御さんとの婚姻を白紙に戻しました。寺へ入るそうです。父上は、表立っては許されておりませんが、黙認と言うかたちで認めておいでです。親は子には勝てませぬ。兄の身勝手にならえとは、申しませぬが…。何も語らず、黙々と入宮の準備を進めていますが、そなたはこのまま王家への道を歩むことに異議はないのですか?』



母にそうたずねられ、しばらく考えてからソンギョンは口を開いた。



『幼少の頃より、いつかは父上のお決めになった御家へ嫁ぐことになると考えながら育ちました。けれどもお祖父様のお仕事の手伝いをさせてもらい、様々なことを学び、それがまた喜びに繋がっていった先に、ジョンウの存在があり、ジョンウと共に様々なことを共有し共感する幸福感を覚えました。いつしかジョンウと共にあることが私の思い描く幸せな未来予想図になり、人生をジョンウと共に歩む夢を見て、その道を強く望みました。しかしそれは淡く儚い夢だったのだと現実に引き戻され、今に至ります。シムソ大君殿下は、幼少の頃より互いによく顔を合わせ、共に遊び、共に大きくなった姉弟のような間柄です。価値観をはじめ、様々なことに共通するものが多いように思えます。本で読みましたが、夫婦とはそう言った殿方と添うことが女の幸せだと書いてありました。しかも父上と母上になられる方、王様と王妃様は、以前より私にとてもよくしてくださっています。シムソ大君殿下とのご縁は、この上ない縁談なのではないでしょうか。ジョンウが存命であれば、このような気持ちは起きなかったかもしれませぬが、ジョンウとはこのままどれだけ時が過ぎても、この世では添えませぬ。それにソルを共に偲んでくれるお人たちの中に入るのです。父上のご期待に添えるかは分かりませぬが、私が思うに、この縁談が今の自らの最善の道かと存じます。』



と、ソンギョンは答えた。



『よく分かりました。そのように考えていたのですね。まこと立派です。しかしソンギョン、今の貴女はまだ道に迷うことも、頭をぶつけながら歩むことも覚えなければならぬし、それが許される年ごろです。時に心のままに、心の声に耳を澄ますのも大切なことなのですよ。』



そう母に言われてしまう…



しかし、こう考えに至るにはソンギョンなりの思いもまた、あったのだ。



『初めて心のままに生きたいと願い、大切にしたかったその夢をわたくしは抱きました。でもそれが絶たれたのです。いつだったか、ジョンウと添いたいと母上にお願いした、あの時は目に写るもの全てがきらきらと輝き、心のままに生きてゆきたい、未来を思い切り思うままに送りたい、共にありたいお人と過ごせる喜びで、わたくしは満たされておりました。だがしかし叶わなかったのです…。しばらくの後どこへも嫁がず、都城を離れてお祖父様のお仕事を手伝うことも考えておりました。でもお祖父様の仕事が楽しいと思えたのは、ジョンウがいたからだったのだと気づいてしまったのです…ジョンウがいて、ジョンウがあり、ジョンウと共にあるわたくしが存在して初めて、そこで夢や希望、わたくしの望む未来が生まれる空間があったのです。』



そう悲しそうな微笑みをたたえ、話をおしまいにしたソンギョンに、母は何も言えずにいた…



しばらく静かな時間が流れたのち、母がまた口を開いた。



『わたくしたち家族もヘジョがあのようなことになり、短い間に色々なことが随分様変わりしましたね。ミギョンは寺へ入ると決めてしまっていますが、きっと父上に腹立っている故の考えなのでしょうね。旗揚げをし、娘を後宮に入れるなど、何を考えているのか、と…実はわたくしも同じことを考えていたのです。父上はヘジョの葬儀にも出席しませんでしたからね。そんな中、久し振りに屋敷へ戻ったかと思えば、そなたの婚姻話を持ち帰ってきて…。あまりの口惜しさに駆られて子どもたちを連れ、張家へ参ろうかと考えた程です。こたびの後宮入りのこと、そなたは何も申さぬ故、あえてわたくしからは何も話しません。ですが…。父上には父上のお考えと、それなりの思慮あってのことなのだと、覚えておきなさい。もし知りたくなる時がきたら、いつでもお話して差し上げます。忘れずにしかと、心に留めておきなさい、約束ですよ。貴女は両の親に大切に思われている、わたくしの大切な娘なのです。政の道具になり果て、入宮するのではないのですからね。』



母は静かに、しっかりとした重みのある声音で、ソンギョンの手を握りながら、ソンギョンを見つめながら、ゆっくりと語りかける。



そんな母にソンギョンは、小さな声で



『はい。』



と答え、こくり、と頷いた。



それからは、母と世間話をしていたらあっという間に都河港にある万事通へ到着した。






ダオンは泊まり込みの修練を終えて、兄のミギョンと共に使っている、山小屋へ到着した。



手には、酒と肴の干し鱈、竹でできた水筒には水が入っている。



家には帰らずに、このまま山小屋で次の泊まり込みの修練まで過ごす算段であった。



小屋の扉を開けて、奥まったところに上から紐が下りてくる仕掛けを施した踏台が埋まっている。



そこを踏むと、上から階段が下りてくるからくりが動いて紐が上から垂れてきた。



下りてきた階段を上り、二階へ上がる…



と…



二階では、兄のミギョンがくつろいでいた。



『修練は今日までか?』



とダオンに話しかけてくる。



先客があったことに幾ばくかの落胆を覚え、気を取り直して兄に聞きたかったことを、兄の向かい側にどかりと腰を下ろして息を吸って、一呼吸置いた。



そして、挨拶もそこそこに突然切り出した。



『…洪の家は…私が跡を繋げばよいのですか?…』



ダオンとしては、兄が当たり前に洪家を継がなければならない、とも考えてはいないが…



兄弟が二人だけなのである。



兄が継がぬのであれば、我が身を跡取りにせねばならない。



兄の出家は兄だけの問題ではなく、弟の自身にも影響が過分にあった。



だからこそ、ひと言くらい相談があってもよかった、と考えており、ここ数日は心にもやがかかる程、気分が晴れずに鬱々としていた。



『ダオンは最近の父上についてどう考える? 私は洪家を後世へ残さねばならぬ家だとは思えぬ。ヘジョがあのようにこの世を去って、今度はまたソンギョンを後宮へ送り込むそうだ。都河港へヘジョと出掛け、戻ってきた後ソンギョンがどのような生活をしてきたのか、ダオンも知らぬわけではなかろう。そのソンギョンを後宮へ入れると聞いて、もう屋敷には居られぬと考えたのだ。私は何もダオンに押し付けて出ていこうとは考えておらぬ。そなたにはそなたの考えがあり、未来もある。何も洪家に縛られずともいいのではないかと、私は考えている。身勝手だと言われれば、頷くしかないがな。』



ミギョンの答えに、ダオンは戸惑いしか浮かんでこなかった。



『では、洪家はどうなるのです?母上やスンアはどの様に生きればいいのです?』



この時代、女性、特に両班やんばんと言う特権階級の女性に働く道など世には存在しないのである。



働き口もなければ、自身で部屋を借りる、所有することも皆無に等しい。



儒教を根幹として、統治をしている鮮国せんこくでは、後の世では男尊女卑と呼ばれる思想が当たり前であり、それらが当然の道理であった。



跡を取る者がおらぬ、と言うことは、家がなくなり、その世界で生きる女性にとって死活問題であるのだ。



ダオンの狼狽に、ミギョンは静かに答える。



『遠縁からでもしかるべき人物を頼べばよかろう。ソンギョンが都河港トガコウの店の息子と約束を交わしていたのは知っているであろう? あの二人は、家に縛られてどんどん引き離されていったのだ。家とはなんだ? 人が生きるよりも尊いものなのか? 今度はソンギョンがまた、家の為に犠牲になり、籠の鳥になるのだぞ? 何と言われようが、私はもうこれ以上家族が家の為に犠牲になるのは見ていられぬのだ。こんな私が家を継いで、誰かと家族を作るなど、到底できるはずもなかろう。』



ミギョンはこれ以上、家族が犠牲になるのを見ていられないのだ。



まして四人もいた妹は、もう残り一人になるのである。



心が張り裂けそうであった。



ダオンも二の句が継げずにいた…



ダオンとて以前のように、今の洪家が仲の良かった、笑いの絶えぬ理想の家族ではないことは重々承知している。



それに父が政治的な立場で登り詰める為の駒に自分たち兄弟が使われているのも薄々気づいている。



だからと言って投げ出していいものでもない。



ダオンにはダオンの思いもあった。



結果だけを見るとすれば…



ヘジョを失った洪家は、ひとり、またひとり、といなくなっていく末路を少しずつ進んで行くのであった。







万事通へ到着した、ボヨンとソンギョンを出迎えてくれたのは、ボヨンの父であり、ソンギョンの祖父である、チャン・ヒョイルであった。



『久しぶりじゃの。』



そう一言だけ口にして、すたすたと店に入り、母屋へ歩みを進めていく。



母屋の来客用の部屋へ入ると、どかり、と部屋の奥へ座る。



『して。どの様な用向きで参ったのだ?』



そう、母ボヨンに少々険のある言い方をする祖父に、母は負けずと



『父上のお気に入りのソンギョンを連れて参ったのです。大君妃テグンヒになればそうそうこちらへ参ることも出来なくなりますでしょう。それに、ソンギョンの輿入れのお品をお願いしようと思いまして。ソンギョンに適当なものをお見繕い下さい。』



そう、平然と言ってのけた。



『せっかくなので、しばらく滞在させて頂きます。明日は、春道港シュンドウコウへソンギョンと訪れる予定です。』



そう宣言し



『では。わたくしは出掛けて参ります。』



と、ひとり万事通を後にした。



分かってはいた…



だが祖父の前で母の振る舞いは、若い頃そのもので、良くも悪くも変わらずに…



なのであろう…



ソンギョンはもちろん既に知ってはいたが、久しぶりに目の当たりにして、しばらくあんぐりとした心持ちであった。



残された祖父と娘は、我に返るのに少し間が必要であったが…



焦点の合わぬ目を、互いに見合わせて我に返った。



先に口を開いたのは祖父であった。



『元気にしておったか?』



『はい。この通りです。お祖父様は?』



『見ての通りだ。』



ふふふ、と互いに微笑み合いながら近況報告をする。



『シムソ大君殿下に輿入れすると聞いたが…その…』



最後は茶を濁すように、祖父の言葉の歯切れが悪くなる…



『お祖父様。わたくしは名門めいもん洪家ホンけの息女であり、幾度となく王妃様と王様よりご寵愛を頂くご側室を輩出している名家めいけ張家チャンけの縁者にございます。王家に連なる大君テグン殿下に輿入れするのは、何ら不思議ではないはず。しかもシムソ大君殿下とは幼なじみであり、気心も知れておりますし、何よりも父同士が竹馬の友でもあります。これ以上にないほどの縁談ではありませぬか?』



そうソンギョンは答えた。



『わしが言いたいのは、そうではなくて…』



と、また祖父は困っている…



『ジョンウ…のことにごさいますか? …お祖父様…わたくしは、無理に忘れようだとか、心から追い出そうとは、考えておりませぬ。ただ中身は変わらずとも、衣を重ねるように、一枚ずつ時と共に重ねられる思いもあるはずでございます。見える衣が変われば、見え方も変わりましょう。様々なものが重ねられて、わたくしソンギョンになってゆくのも、それはそれでよいのかと。それにジョンウがこの世に存在せぬ現実はどう転んでも変わりませぬ。しからば、この身を流れに委ねることは両班の息女としては当たり前の生き様ではないかと考えております。お祖父様、ご案じなされては困ります。ソンギョンはどちらに参ろうとも、健やかに過ごせるように努めます。お祖父様のソンギョンはいつ何時も、どんな場所でもソンギョンにございます。お祖父様のソンギョンですもの。』



祖父は微笑みながらこう話す孫娘に複雑な思いを隠さずに、薄く微笑み何度も頷いた。



他の者を心に住まわせたまま婚姻をすれば、不幸な結末を迎えることが少なくないと言う見知った年長者のいらぬ考えが頭をよぎる…



しかしソンギョンの言うように、両班ヤンバンの娘がこのまま独り身でいいはずはないのである。



ゆくゆくはソンギョンが煩わしさがない、都城から離れた都河港でジョンウと共に暮らし、万事通の跡を取ればいいとさえ考えていた祖父は、ソンギョンがどの様な状況にあっても健やかにあることだけを、願っていた。






雅都宮ガトキュウでは、ソンギョンを大君テグン妃に迎える準備で大あらわであった。



王家の決まりごととして、ソンギョンの夫になるシムソ大君は成人に達した年齢ではないが、婚姻によって成人と見なされ、雅都宮を出て都城に居を構える習わしである…



が、世子である兄が病弱な為、世子の勤めを代理でこなす日々が続くこともあり、このまま雅都宮で新居を構えることになっていた。



シムソ大君の暮らす、草照殿プルピョッジョンでは造営も進められていた。



ソンギョンが花を好んでいることを知っているシムソは、ソンギョンの好きな椿、芍薬、牡丹、桂華、など様々な樹木を庭に植えるよう、忙しい日々の中で時間を作り自ら花の種類や咲く花の色を選び、指示を出していた。



草照殿の中でも、シムソが独りで寝起きしている部屋は手狭になる為に、新しく造営されている部屋でソンギョンと過ごすことになっている。



その新しい部屋の調度品なども、シムソが手ずから選び吟味し、揃えていた。



ソンギョンの輿入れを待ちわびている、と言う風ではなく…



何か手にしていないと、落ち着かず心許ないのであった。



そのような心持ちで、ソンギョンを妃に迎えるシムソであった。






万事通を後にしたボヨンは、同じ通りの搬行李店ハンコウリテンの敷居をまたいでいた…



『ごめんください。』



と、ボヨンが店へ入るとすぐに



『お久しぶりです。』



そう話ながら、主人のシン・ドンウが出迎えた。



『こちらへ。』



と以前、訪ねた時よりも少しやつれた様子のドンウが、店から母屋へ続く店用の客間へ通してくれた。



先をゆくドンウの後を、黙ってついてゆくボヨンは、案内された部屋へ静かに腰を下ろした。



茶を運んでくれた店の使用人に礼を告げて、ボヨンの好物の温かい菊茶を口に運ぶ。



茶菓子は、砂糖と落花生を煮詰めて作った、竜国リュウコクの菓子が添えてある。



あれからどのくらいの時を越えたであろう…



壮年になってもなお、ドンウはボヨンの好みを忘れていなかった…



ボヨンは菊茶を口に含み微笑んだ後、ドンウを見て口を開いた。



『ソンギョンが、シムソ大君殿下に輿入れすることが決まりました。』



ドンウは黙ったまま口を開くことはなく、ボヨンの次の言葉を待っていた。



『子どもたちの代で、ドンウ様とのご縁ようやっとが繋がるかと思っておりましたが、叶いませんでしたね。縁とはまこと、望んで手に入るものではないのだと…』



そう寂しい微笑みをたたえて、菊茶へ視線を落とすボヨンに



『ソンギョンさんにお幸せになられるよう、お伝え下さい。』



ドンウも、寂しい微笑みをふくんだ。



ボヨンが通された部屋からは、大きくはないがよく手入れされている見事な庭が一望できた。



二人の間に、静かな空間ができ、穏やかな時が過ぎてゆく。



しばらくそう過ごしたのち、ボヨンはおもむろに立ち上がり



『お暇致します。ドンウさん、ご健勝で。』



そう伝えて、搬行李店を去ってゆく。



ボヨンが見えなくなるまで、通りに出てドンウは見送っていた。






都河港へ到着した次の日、ソンギョンとボヨンは春道港を目指し、輿の中で揺られていた。



『春道港では、宿を取りました。恐らくこの先もう、そなたは来られる機会には恵まれぬでしょう…。存分に心置きなくお過ごしなさい。わたくしとしたことが、ひとつ失念していたことがあります。そなたに聞いておかねば、と思いましてね。輿入れの前に、どこか参りたい所はもうないのですか? 輿入れ後は、雅都宮からはまず出られぬでしょう…。この旅が終われば、雅都宮から大君妃としての教育のために、急ぎ入宮せよと報せが来るでしょう。王様をはじめ、王妃様、シムソ大君殿下は、そなたを待ちわびてお出でです。心残りをせぬよう、思い付く場所をひとつ残らず言ってみなさい。』

わたくしが叶えます、と母に提案され、ソンギョンはしばらく考えてみた…



本当はジョンウが健在であった頃、いつか二人で訪れたいと話していた、越南エツナンがふと頭に浮かんだ…



しかしこれも、ジョンウあってこその話であり、ジョンウが共になければ意味を成さなかった。



そのまま黙ってしまい返事もなく、眉毛が下がる娘の困り顔を見て、ボヨンはそれ以上は何も話さず、視線をゆっくりと景色へと向けた。






ほどなくして、春道港へ到着する。



『着きましたよ。この宿です。』



母に案内された宿は、ソンギョンが想像していたよりも豪奢で歴史が刻み込まれた重厚な建物であった。



『洪様、ようこそお出でくださいました。』



そう入口係が対応し、奥からは



『お久しぶりでございます、ボヨン様。』



と、主人も出迎えにわざわざ顔を出した。



『お変わりありませんな。相変わらずお美しい。こちらはお嬢様にございますか。お久しぶりにございますな…。初めてお目にかかったのは、可愛らしいお嬢さんの時で。お母様に似て、綺麗なお嬢様にお育ちあそばれて。』



と、ソンギョンにも挨拶を向けてくれた。



『張様もお変わりなくご健勝であられますか?』



『父も息災です。予定では、3日ほどお世話になる予定でいますが、しばらく延びるやもしれませぬ。世話になります。』



『お部屋をご案内致します。』



母と店主は二言三言、言葉を交わして部屋へ案内してもらう。



部屋へ案内すると、店主は軽く挨拶をして去っていった。



『ここの店主とは、私がそなたの父上と婚姻する前、父上の仕事を手伝っていた時からの付き合いなのです。紆余曲折の歴史を経て現在は、万事通の春道港の拠点はこの宿なのです。屋号は水媒花閣すいめいふぁぐぅです。覚えておくと何かの足しになるやもしれませぬ。して。これから、どこかへ行く当てはあるのですか?』



そうたずねられた…



もちろん、ジョンウとソンギョンの新居となるべく建てられた、あの屋敷へ参る予定であった。



『お母様もご一緒しませんか?わたくしの一番大切な場所にございます。』



寂しい微笑みをたたえて、ソンギョンは母へ提案をした。



おそらく入宮すれば、訪れることは叶わぬであろうと思われる。



此度があの屋敷とも最後の別れであろう。



輿を用意してもらい、早速出発し、海岸沿いの山道を登って行く。



山道を登る前は見えなかった立派な屋敷跡の門が開けた高台に見えてきた。



ソンギョンはこの門の前で止まるように御者へ指示を出し、しばらく待っているように伝えた…



門を開けると、そこには母屋などは焼けはだが目立っているが、庭は変わらずに洪家の屋敷にも植えられている、ソンギョンの好んでいる花たちが迎えてくれた。



見事に咲き誇る花たちの真ん中に、ジョンウの幻影が見えた気がして、ソンギョンは歩みを進めていった。



少し後ろを歩くボヨンは、娘の向こう側に広がる屋敷跡と、見事なしつらえの池と庭に息を飲む。



青年ジョンウの手腕と娘ソンギョンへの想いが語らずとも伝わってきて、感嘆の思いであった…



奥へ奥へと歩みを進めると、母屋の中に焼けずに残っていた部屋があった。



ソンギョンは懐からジョンウに貰った見事な漆塗りの懐刀の短剣を出し、まだ新しい檜の白木を削った。



また懐から手巾を取り出し、その削った白木を大切に包んで懐へ戻す。



ひと息ついてくるりと踵を返し、母の待つ広い庭へと戻って行った。



後日談であるが…



春道港にある、水媒花閣すいめいふぁぐぅは、ソンギョン亡き後、皇孫である忘れ形見の息子ウンが、ソンギョンの後妻としておさまった王妃キム氏から身の危険から守る為に、ミン尚宮サングンと共に身を隠した隠れ家へと繋がってゆく。



人生の道は思わぬところに、思わぬ時、意図せぬ方向へ進むものであったのだ…






不香ふきょうの花~

【香らない花。例えて雪の美しさになぞらえられ、雪の別称となっている。】

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