第3章~暗晦~

久しぶりにジョンウの夢を見た。



少女ソンギョンが、初めて少年ジョンウに出会った日の夢である。



祖父に連れられてここへ来たが、祖父はソンギョンを気にすることなく、整った顔立ちと高直そうな召し物をまとった男性と商売の話をしている。



そして目の前に意識を向けると、利発そうな整った顔立ちの身なりのいい少年が存在している。



祖父と話し込んでいる、背の高い男性の子どもであろうか…



面差しと雰囲気が酷似している。



『はじめまして。』



勇気を出して、そう少女ソンギョンが少女らしい可憐な笑顔をたずさえて話しかける…



が、しかし。



『………』



少年ジョンウは、何も話せずにいた。



それもそのはず…



少年ジョンウはその時、一目惚れという体験を初めて、していたのである。



ジョンウの住む都河港トガコウで、この様な可憐な少女は見たことがなかった。



母方の容姿を色濃く受け継ぐソンギョンは、中身は違えど外見は花畑に咲き誇る花々ような可愛らしい少女であった。



ソンギョンはふっと笑みを浮かべたかと思ったら、急に全停止してしまっている少年ジョンウの手を取り、



都河港トガコウの港に珍しい船が着いたと聞いたの。一緒に見に行きましょう。』



そう言うやいなや、港の方角へそのまま走り出した。



『日が沈むまでに戻って参ります。』



そう、ジョンウの父と商談をしている祖父へ振り返りながら告げる。



ひとり歩きは祖父に叱られ、心配をかけるので、放心状態になっているままの、目の前の少年を勝手に道連れにしたのだ。



手を引かれるジョンウは何が何だか分からず、なされるがままであった。



こんな状態になっても引っ張られ小走りになっているジョンウは、綺麗に編まれた長い髪が弾む背中の向こう側に見える可愛らしい顔立ちに見とれ、呆けていた。



ほうけていたジョンウの顔に突然、柔らかい壁がぶつかる…



思考を無理やり覚醒させて状況把握をする…



と、それはソンギョンの背中であったようだ。



どうやら目的地に着いたようである。



目の前には、今ままで見たこともないような超大型の帆船ほせんが停泊していた…



そして少年ジョンウの心は忙しく、一目惚れとはまた別の感情で口がきけない状態におちいっていた。



『私はホン・ソンギョン。あなたのお名前は?』



帆船をあんぐり眺めていたジョンウの視界がソンギョンの顔に占められる。



ソンギョンがジョンウ少年の顔へ自らの顔をぐい、と鼻と鼻がぶつかりそうな距離へ近づけたのである。



すると、ジョンウはみるみる耳まで真っ赤になったのが、自分でも理解できるほどであった。



『…シン・ジョンウ…』



ようやくぼそり、と呟いた。



『よろしくね。ジョンウ。』



まだ赤面が治らないジョンウは



『あ…ああ…』



そう答えるので精一杯だった。



ソンギョンはこの日を境に、都河港へ訪れた際は必ずジョンウに会いに出かけるのがお約束になり、やがてジョンウと共に過ごす時間が楽しくてたまらなくなり、祖父の店へたびたび出かけて行っては、ジョンウと共に笑って過ごした。



ジョンウもまた、ソンギョンが祖父の店へ訪ねるのを心待ちにしていた。



この奇妙な出会いが、ソンギョンとジョンウの馴れ初めであり、成長するにつれ互いが互いにとって大切な存在になり、年ごろになった互いの心の大部分を占め、その想いに名前が付くようになるのは、もう少し先のことであった。







次兄のダオンと共に春道港シュンドウコウへ訪れてからしばらく経ったある日、スンアの部屋を訪ねようと屋敷を歩いていたソンギョンは、ダオンの友オ・イノと出会った。



『お久し振りです、イノ様。本日は兄を訪ねてお出でになられたのですか? ご案内致します。私がご案内するので、茶の用意をお願いしてもいいかしら。』



そう使用人から引き継ぎ、兄の部屋へ案内する。



『お久し振りです、ソンギョンさん。おすこやかにお過ごしでしたか? 私は昨日まで兵舎へ泊まり込み、先ほど訓練を終えてお邪魔した次第です。厳しい訓練からやっと解放され、ダオンの顔を拝みに参りました。』



兄の部屋までの道すがら、イノと並んで話をする。



『お渡ししたいものがありますので、後で兄の部屋へおたずねしてもよろしいでしょうか?』



そうたずねるソンギョンに「もちろんだ」とイノから返事がきた。







イノをダオンの部屋へ案内して、スンアの部屋へ向かう…



と、また屋敷内の人間ではない者と出会った。



雅都宮ガトキュウからの使いであろうか…



尚宮サングンの身なりをした女性が、ソンギョンに一礼をして、母ボヨンの部屋の方向へ歩いていく。



スンアの、部屋でスンアとソンギョンがこしらえた人形に専用のチマ・チョゴリを着せ替えて遊んでいた。



近ごろのソンギョンは、スンアと共に過ごすことが、何よりも心安らかになるひとときであるのだ。



今日も時間が許す限り、スンアの部屋でスンアと共に過ごしていた。



と、そこへ母の部屋へ来るよう言伝てを持って、母付きの使用人が戸の前でソンギョンを呼んだ。



ソンギョンは、スンアにまた戻ってくるから待つように伝え、部屋を後にし、母の部屋へ向かう。



母の部屋のすぐ隣は、父の部屋であった。



その父と母の部屋の向こう側の、陽当たりのいい一番明るい部屋が、長兄のミギョンの部屋である。



奥の部屋の様子をうかがう為に、一旦立ち止まる…



やはり父と兄の部屋からは、今日も人の気配が感じられない…



父は今日も雅都宮ガトキュウへ出仕して留守であり、長兄のミギョンも同様に留守であった。



先王が防御ほうぎょし、ムアン大君は王となり、その王の古くからの友である父はムアン大君の片腕として王宮内で力を持ち始めた、と伝え聞いてはいたが、その頃からであろうか…



長兄のミギョンが屋敷を頻繁に留守にするようになっていったのだ。



屋敷内で会っても、何か思い詰めた表情をしており、何度か声を掛けてやっとソンギョンに気づいてくれる、と言う有り様であった。



何か心のおりでも抱えているのであろうか…



ソンギョンは大好きな長兄のミギョンが心配でならなかった。







母の部屋へ到着すると先ほどすれ違った、王妃おうひ尹氏ユンしに仕える尚宮サングンが訪ねてきていた。



ソンギョンは尚宮サングンに王宮用の挨拶をして、母の向かい側の座布団へと静かに腰を下ろした。



『こちらが、ソンギョン様でこざいますか。ほんに綺麗なお顔立ちと優雅な所作しょさでありますこと。こちらは王妃様よりソンギョン様へとお預かりしました菓子でございます。どうぞ召し上がり下さいませ。』



包みを解いて、中の菓子をソンギョンへ見せようとした尚宮の動きが止まる。



包みの中に、綺麗な模様の入った封があり、中を確認すると手紙が入っていた…



「ホン・ソンギョン様」



と包みに書いてあり、ソンギョン宛てであった…



尚宮に手渡され、内容を確認する為に広げる…



と、シムソ大君テグン殿下からであった。



「ソンギョンさん


お変わりありませんか?


お会いせずにいる時間が随分長くなった気がしています。


母上の尚宮が洪家ホンけへ出かけると聞き、その手土産がソンギョンさんにも用意されていると知り、手紙をこっそりと忍ばせました。


宛名を書いておいたので、ソンギョンさんに届くことを期待しています。


最近の私は…


つい先日より、病弱な兄の代わりを務める将来がやってくるかもしれないので、世子セジャの勉学を始めるようにと、父上から命が下りました。


大君テグン時代の勉学とは全く違い、量も多く、内容も難しく、深く、とても大変です。


気持ちが滅入めいった時は、ソンギョンさんに貰った匂袋に入っている香が心を癒してくれています。


都城トジョウの屋敷から雅都宮ガトキュウへ入る行列の知らせを送っていたので、ソンギョンさんに会えると思い、必死に探しましたが見つけられませんでした。


また、お会いして話がしたいです。


王宮へお出かけの際は、必ずお知らせ下さい。


ウ・ユル」



シムソからの手紙に目を通し、動きが止まったままのソンギョンに、母が話しかける。



『ソンギョン?…ソンギョン。どうしたのです。誰からの、どんな手紙だったのですか?』



そう母にたずねられ…



『シムソ大君テグン…殿下…からの…文でした…』



と、答える。



すると、王妃尹氏の尚宮が



『まぁまぁ。シムソ大君殿下からのお便りでしたか。して、何とおっしゃっておられますか?』



と、問われ



『…息災そくさいにしていますか?…との内容でした…』



と、当たりさわりのない返答をしておく。



これ以上の文の内容を、他でもない王妃の尚宮には伝えたくはなかった…



大君ではなく…世子様…の勉強…?



シムソ大君テグン殿下は世子セジャ様になられる…の…?



そんな方から手紙をもらう…



しかもこの年頃の男女の間で会いたい…



これはとてもまずい…



のでは…



ないだろうか…



この結論に行き着いたソンギョンは、慌てて母の部屋から逃げる策を思い付いた。



『ダオン兄さまに呼ばれております。おいとまを頂いてもよろしいでしょうか。』



とソンギョンは早口で母に伝える。



『これは気が回らず失礼を致しました。どうぞおでになって下さいませ。』



と母ではなく、尚宮から返答があったので



『王妃様によろしくお伝え下さいませ。』



と、また王宮用の挨拶をして、母の部屋を辞した。





ソンギョンが立ち去った部屋では、母ボヨンと王妃尹氏の尚宮が容態が徐々に悪化してゆく世子セジャウィソングン殿下とその弟シムソ大君殿下の話をしていた…



先日の政変で即位した、ムアン大君は王になり光祖クァンジョ(と死後に呼ばれるようになるのだが)となった。



その光祖こと現王には、歳の離れた二人の皇子がいた。



ひとりは嫡子ちゃくしである世子セジャウィソングン殿下、次男はソンギョンの幼なじみであり、亡き親友ソル公主の弟であるシムソ大君テグン殿下。



世子ウィソン君とシムソ大君の年の差は10歳であった。



嫡子である世子ウィソン君の皇子たちがまだ幼子ゆえ、ウィソン君にもしもの時がやって来た場合、シムソ大君に跡を継がせることを、王と王の親友かつ側近でソンギョンの父であるホン・ジュギルが、秘密裏に進めていた。



おまけにシムソ大君の妃候補として内定しているのが、他でもないソンギョンであることを、ボヨンに伝え、共に喜びを分かち合おうと、王妃尹ユン氏付の尚宮サングン洪家ホンけ屋敷へ赴いていたのである。



世子ウィソン君殿下の容態は、もう一刻を争う状態であり、シムソ大君の世子要請は近日中にも確実のものになる、とのことであった。



シムソ大君が世子になれば、早々に嬪宮ピングンとの婚姻をせねばならず、その嬪宮ピングン選び、いわゆる揀択カンテクに時をいている暇がどうやらなさそうなのだ…



それだけ、ウィソン君の容態は予断を許さぬし、おまけに政権交代をして日が浅い現王は、とにもかくにも想定できるうれいはできる限りの取り除いておきたいのである。



しかも現王は強い王室を掲げていた。



それはすなわち、後宮こうきゅう安寧あんねいは必須中の必須であることへ、直結すると言っても過言ではない。



王家の血を絶やさず、脈々と繋げていくことが、強い王室の一番の命題であるのだ。



そして後宮の安寧あんねいとは、すなわ妃嬪ひひんたちの心の安寧あんねいとは程遠いものになる。



古今東西ここんとうざいにおいて、後宮とは妃嬪が心身共に健やかに過ごし、王に愛され、王を愛し、の夢見物語の場所では決してなく、王室を形作り、その形作られたものを、出来るだけ末永く後世へと綿々めんめんと続けて行くための、組織であり、その組織がよどみなく運営されるための箱なのである。



その箱に、妃嬪の心など考えるに値しない。



しかも、脈々と繋げてゆかねばならない王家の血脈に、生家の血脈を一滴でも多く残したいと、一族の望みを一身に背負い、後宮を目指す子女にとって、後宮はまさしく戦場である。



後宮は女の戦いの場であり、この箱の中では誰も彼もにとって、勝者でも敗者にでもなり得る世界なのであった。



いかに国の頂点に君臨する王と言えど、その後宮への勝手は基本的には許されはしない。



そしてまた、大切な娘が後宮へ入ると言うことは、ごくごく一般的な幸せと呼ばれる結婚生活を享受きょうじゅできる見込みはかなり薄いのだと、覚悟をすることを意味する。



ボヨンの頭の中に様々な思いが交差しては消えて行く…



しかし、ボヨンの思いもよらぬことが起きていたと知らされるのは、この後のことであった…






王妃尹氏の尚宮が、洪家屋敷へおもむいた次の日の夜、夫のジュギルが帰宅した。



夫のジュギルの姿を確認したボヨンは開口一番、娘を後宮へやるなど気が触れたのかとすさまじい剣幕で詰め寄った。



と、久しぶりに帰宅したジュギルは洪家を揺るがす話を携えて雅都宮を後にしていた。



何も知らず、娘の幸せを願う母ボヨンへ夫ジュギルは、妻の用意した茶を喫しながら静かに話し始めた。



先に起きた、シムソ君とヘジョの件で、陽国ようこく側へソンギョンの話がひとり歩きしたと現王の斥候せっこうたちが集めてきた情報の中に、ジュギルを震撼しんかんさせる内容がまぎれ込んでいたのだと、親友である王から報告を受けた。



何と…


ソンギョンの容姿が陽国へと伝わってしまい、時の皇帝の第四皇子の側室として、来年の貢女こんにょにソンギョンを献上させろ、と陽国の朝議であがったと言う内容であった。



その話を聞いた後のジュギルの焦燥しょうそうぶりは常軌じょうきいっしており、竹馬の友たちも心配でならなかった。



そんな折、ムアン大君であった現王が次男シムソ大君の妃選び、ソンギョンの貢女の件、が同時期に重なり…



シムソとソンギョンは互いに仲の良い姉弟のような関係であり、シムソの初恋の相手でもあるソンギョンとの縁談は、全てが良い方向へと向かうのではないかと、ジュギルへ妙案みょうあんを持ちかけた。



シムソ大君が大君から世子へとなる日は、そう遠い未来ではない。



ともすれば、一介の両班やんばんの息女だったソンギョンが、未来の国母になる王妃おうひ洪氏ほんしソンギョンになるのである。



これはソンギョンを守る最高の鎧でもあった。



いくら冊封さくほう鮮国せんこくに強いている陽国ようこくでも、世子であり未来の国母を貢女に献上しろ、とはさすがに言えぬであろう。



そしてシムソ大君の気持ちを知る、王妃尹氏の息子を思う母心が重なり、物事がとんとんと運び、夫ジュギルが妻へ報告するよりも、喜び勇んでしまった王妃尹氏の尚宮が先んじて一番乗りしてしまったことが、事をこじらせ、ボヨンに不振の種を蒔いてしまったのであった。



まだこれを知らぬ母ボヨンは、高みへと登る為に、娘が必要になったのか…



と、夫に不振を抱き始めてしまっていた。



現王と親友で現王擁立の立役者の筆頭、ホン・ジュギルとが既に話を詰めており、相談ではなく報告と確認を含めた、云わば決定事項への最終確認のようなものになっていたことが、尚宮の話しぶりから伝わってしまい、ボヨンはその日よりずっとジュギルが帰城するまで悶々もんもんと考えあぐねていた、と言う顛末であった。








尚宮はボヨンが全てを承知しているものと思い込み、ボヨンからの色好いろよい返答を王妃に伝えるつもりで、意気揚々と雅都宮がときゅうを出発してきていたのだが、ボヨンは何も言葉にはせずにいた…



大切な娘は、先より続いた酷な体験がやっと落ち着き、近ごろ妹のスンアの前だけであるが、少しずつ以前のような柔らかい笑顔を見せてくれるようになったのである。



魔の住みかと噂される後宮へなどと…



そんな場所へ娘を閉じ込めて住まわせる?…



その様なことが許されるはずもなく、すなわち即断できる話でもない。



現王や夫ジュギル、王妃尹氏、おまけにシムソ大君でさえ、ソンギョンを超える全てにおいてぴたりとはまる妃などおらぬではないか、と皆が皆で口を揃えて言うであろう。



がしかし娘の心を思いやれば、とてもではないがそう簡単には首を縦には振れぬ。



考えあぐねた末、父であるチャン・ヒョイルから先日もらった、竜国りゅうこくの珍しい折菓子と時節の挨拶をしたためた文を尚宮へ王妃尹氏様への土産にと預けた。



夫であるジュギルは、旗揚げのあの日から殆ど屋敷には戻らぬ生活をしている。



現に顔を見たのは、日を数えるのも嫌になるくらい日が経っており、夫不在の毎日を送っていた。



ため息が出る…



夫はボヨンの知っているジュギルではなくなったのであろうか…



おしどり夫婦と周囲に呼ばれた自分たち夫婦は、とうの昔、過ぎ去った過去なのかもしれぬ…



ボヨンの心に染みが広がるように、闇で覆われていくのが、自分でも分かった。



この頃からであったかは、定かではないが…



皆が皆気づかずにいるうちに、洪家に、ジュギルとボヨンの心に、それぞれの子どもたちの心の間にも、隙間風と溝が生まれ始めていた。



この後、屋敷の中で笑いの絶えぬ仲の良かった洪家は少しずつ少しずつ、ほころんでいくのであった…







母の部屋から逃げてきたソンギョンは、怪しまれぬように次兄ダオンの部屋の戸を叩いていた。



『お兄様、イノ様、お邪魔してもよろしいでしょうか。』



そうソンギョンがたずねると、中から兄の声がした。



『待っていたぞ。』



口にしながら、兄が戸を開けてくれる。



『ありがとう。お兄様。』



部屋へ入り、兄の向かい側、イノの隣に腰かける。



『先ほどお話していたものです。兄と共に香を選んでみました。お気に召すと幸いですわ。』



微笑みながらソンギョンがイノへ手渡す。



イノは嬉しそうに受け取り、しばらく匂袋の説明をしているソンギョンを眩しそうに眺めていた。



そんなイノにダオンが



『訓練の話だか…』



と話題を変えて、自分の方へとイノの心と話を向けようとしていた。



ダオンは妹にでれでれと嬉しそうな態度を取る友人に腹を立てる兄そのものであったと言ってよい。






その後も三人で談笑し、イノは自身の屋敷へ帰宅し、ダオンはイノと入れ違いに訓練の為に宿舎へ出仕して行った。



ソンギョンは次兄とイノと三人で談笑し、本当に久しぶりに声をあげて笑った。



あの日、あの惨劇が起きた都河港から帰宅し、かなりの時が過ぎていた。



そしてオ・イノと言う人物は、これより先もソンギョンの心の支えになってくれる存在へとなってゆく。



それはまた後の話である。






ダオンが宿舎へ泊まり込みの修練へ出仕した次の日、久しぶりに洪家屋敷へ主人のホン・ジュギルが帰宅した。



ソンギョンは、スンアの部屋で過ごしていた為、気づかずにいたがソンギョンの世話役のユナが父ジュギルが部屋で呼んでいると、知らせにきた。



ソンギョンは、帰宅の挨拶を済ませていなかった為に呼ばれたのだと思い、父の部屋を訪ねた。



すると、部屋には母のボヨンと長兄のミギョンが既に座っていた。



『失礼致します。』



そう伝えて、部屋に入る。



ソンギョンは長兄ミギョンの隣に腰かけると、父が口火をきった。



『そなたたちの母には既に伝えてあるが。すぐに禁婚礼きんこんれいが敷かれ、揀択カンテクが行われる。本来、揀択は世子セジャ様の嬪宮ピングン選定のみに行われるはずであるが、今回はシムソ大君テグン殿下の妃になられる方を選ぶことになっておる。して、だが。我が洪家ホンけからは、ソンギョンを献上しようと考えておる。これは、有りがたくも王様、王妃様、のたっての願いでもあるのだ。ボヨンよ、ソンギョンを揀択が行われるまでに、磨き上げてくれ。頼んだぞ。』



そう、父が話ながら母を見やる。



母は黙って頷き、目に力を宿したような眼差しになった。



一方ソンギョンは、まるで他人事であった。



ジョンウ亡き後、この様な話が舞い込むことは覚悟をしていたし、今後において自らの意志決定はないと諦めてもいた。



祖父の営む万事通マンジツウにおいて、女主人も程遠い夢見物語であることも承知している。



シムソ大君には全くもって失礼な話であるのは理解しているが、ジョンウ以外の誰かとの婚姻は、ソンギョンにとって誰でも同じなのであるのだ。



だからこそ、顔見知りのシムソ大君との婚姻は運が良かった、と考えるところに着地していた。



今のソンギョンの心を占める気持ちは、ただそれだけであった…







そして、この一連を黙って見守っていた長兄ミギョンが口を開く。



『父上にお話したいむねがございます。』



そう話し始め、頭を低くしたのである。



驚いた母は優しく



『何があったのです。顔を上げてお話なさい。』



と語りかける。



『何だ。申してみよ。』



と、父も続けた。



『私の婚姻について、でございます。勝手を申しますが、私の婚姻を白紙に戻させては頂けませんでしょうか。私は、ソンギョンの婚姻が無事に済みましたら、寺へ入りとうございます。ヘジョが亡くなり、屋敷内の皆の心が寂しく侘しくなり、ずっと考えておりました。先様にも、王妃様にもまことに申し訳が立ちませんが、このまま世俗に留まることが、自らの居場所ではない、との思いに至っております。このような心持ちのおとこが、所帯を持ったところで、尹家ゆんけの大切なお嬢様を幸せにできる約束も出来ませぬ。父上、どうかお考え頂けませんでしょうか。』



場が静まり返る…



ソンギョンは元より、誰も何も話せずにいた…



そこで開口したのは、母ボヨンであった。



『あなたの考えは分かったわ。ただ、洪家にも私の生家である張家にも、これまでに出家した僧侶がいたと言う話は聞いたことがないの。あなたも存じているかと思うけれど…人にはそれぞれ役割があるのよ。それに、将来国母になるソンギョンの兄が俗世を捨てたとなると、外聞も悪いわ。おまけに鮮国センコクで国を挙げて尊ばれる存在は仏ではないのよ。急ぐ理由はないのでしょう? 一旦尹様にはご挨拶を申し上げて、ゆっくり話をしましょう。大監テガムよろしいでしょうか?』



さすが、母である。



きちんと、そしてしっかりと整理整頓されたボヨンの話に、父も兄も、何も言えないままであった。



ただひとりソンギョンだけは、



『お兄様のお決めになったこと、私は応援しております。近ごろ思い詰めたお顔をなさっていたので、心配しておりました。どうか心安らかにご自愛下さいませ。』



それだけ口にして、兄に微笑んだ。








シムソ大君は、草照殿プルピョッジョンのすぐ近くにある菖蒲池のほとりに寝転び広い空を眺めていた。



先ほど思政殿スンチョンジョンに父王から呼ばれ、自身の揀択カンテクについて話と言うよりも、一方的な通達の方が的確な、話があった。



シムソ大君の人生の先の先までが決められた、と言うことである…



話によれば、ソンギョンの父上であるジュギル殿も屋敷に戻られ、同じ頃にソンギョンに話をしている、とのことである。



世子になることよりも、このような形でソンギョンと夫婦になるとは思いもよらず、一連の話を聞いたソンギョンがどんな反応を示したかと、自身の心の置き所のなさに困り、何もかもに手がつけられぬ状態であった…



何よりもソンギョンに会いたかった…



顔を合わせてどんな気持ちでいるのか、ソンギョンがどんな表情をするのか、直に確かめたかった…



実のところ…



雅都宮ガトキュウとソンギョンの暮らす、洪家屋敷はそう遠くないのだ。



ただ、二人の置かれている立場、それぞれの環境、その他諸々が二人を天と地程遠くさせていただけであった…



シムソは初恋が実ったことと、ソンギョンを自身が助けることができるのだ、と言う自負に心が高揚していく、自身の心の変化が嬉しくもあった。



ソンギョンに会える日が楽しみでたまらない気持ちも、もちろんある。



不安もあるが、それよりも喜びの方が正直に言えば勝っている。



ソンギョンと何かの約束ができる自分になれることが嬉しかった。



ただ不安があるのは、ソンギョンがシムソ自身を拒絶しないでいてくれるか、それだけである。



今は難しくとも、ソンギョンの心には、またいつか誰かの入る場所が生まれるのであろうか…



嬉しさと、喜びと、不安と、恐怖、様々な気持ちが、振子のように激しく忙しくシムソ大君の心で揺れていた。



今日はもう何もしたくはない…



ただ、よどみのない青空にわずかに浮かんでいる雲を無心に眺めて過ごしていたかった。






ダオンは宿舎での修練を終えて、屋敷へ帰宅した。



帰宅してすぐに湯浴みをしたところで、使用人に父の部屋へ顔を出すように伝えられた。



修練が思いのほか厳しいものだったので、今日は早く休みたかったダオンだったが、仕方なく父の部屋へ訪れた。



『父上。ただいま戻りました。』



そう戸の前で告げると



『入りなさい。』



と、中から父の声がする。



戸を開けて入ると、父は書簡に目を通していた。



『修練は辛かろう。疲れているかと思うが、そなたの耳に入れておかねばならぬことがあってな、しばらく辛抱して座っておれ。』



父はいつもダオンには、こう砕けた言葉を使い、友に語るように楽しそうに話す。



『して、お話とは…』



と繋げるダオンに、ミギョンの話とソンギョンの話を伝えた。



ただ母であるボヨンと相談をし、ソンギョン本人には貢女の話はせずにいようと決めたので、ミギョンにもダオンにも口止めを忘れずにいた。



ダオンは黙って最後まで話に耳を傾けていた…



何も語らずにいたダオンだか、ひと言だけ父に添えたことがある。



それは…



ソンギョンには長い間心を寄せていた者がいたこと、その者が去年亡くなったこと、その者とソンギョンは将来の約束をしていたこと、ソンギョンには両班ヤンバンの妻ではなく別の道を行く夢があったこと、を父上は知っていたか、と問うた。



もちろん父は今の今まで預かり知らぬ事であった…



ダオンとしては、何も策略と権謀の渦巻く後宮になどソンギョンを囲わずとも、適当な両班の家へ…



例えはソンギョンへの気持ちが諦めきれずに苦悩している、オ・イノが思い浮かんだ。



親友のオ・イノと語らうソンギョンは実に楽しそうにしており、早急に婚姻をまとめてしまえば、陽国への返答もできるであろうに…



とも、頭に浮かんでいる。



ただ、この時の父の焦燥ぶりはダオンにも目を見張るものがあり、母も心配をしているだろうことを考えると、互いによく知る昔馴染みであるシムソ大君が安牌なのであろうと回想していた。



そんなダオンの回想とはまた違う回想を、向かい側に座る父は思いを巡らせていた。



後宮は自らもよく知る、魔の巣窟である。



貢女コンニョの報が入ってきた以上、その事実を見過ごす訳にもゆかず、安全な場所と言えど、魔の巣窟である後宮に娘を閉じ込めたいと考えてしまうのは、親の傲慢であろうか…



ジュギルはジュギルで、既に二人の娘たちを失った父としてこれ以上の悲劇が家族に降り注がないよう、苦悩を抱えているのであった。



死後ジュギルの遺品からは父として、娘たちの人生への自らの賽の振り方に間違いはなかったのか、を生涯において問い続け、苦しんでいたのだと、思いが綴られた日記が見つかるのであった。







様々な事象が入り交じって、綾の紋様になり、人と人の繋がりは出来上がって行く。



父には父としての思いだけでなく、自身の野望も生じていたであろう…



母には母の思いも、願いもある…



長兄ミギョンは、どこまでの事実を知り得た上で、俗世の世界を捨てると考えたのであろう…



次兄ダオンはこの時どの様な思いで、家族を、そして自らを、見据えていたのであろう…



ソンギョンは…



人の数の分だけ、思いや願いも同じだけの数が生じている。



ただ、この先のソンギョンは自身は何に心動かされ、どのようなものに心惹かれるのか、何に喜びが生まれるのか、ずっと思い悩み続け、答えの出ぬままこの世の生に終焉しゅうえんを迎えたと言えよう。



懸命に生きようと言う約束を果たすために、必死でもがけばもがくほどに、心に闇が広がり、出口が見つけられず、彷徨い続けているうちに、終わりへと道が続くのであった。






暗晦あんかい

【一粒の明かりが一つもない、一寸先も見通せない漆黒の闇。新月のを意味することもある。転じて、出口の見えぬ心の不安、希望を見いだせない絶望、などの意味あいで使用されることもある。】

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