第2章~雨夜の星~

空を見上げると満天の星空が広がっていた。



今夜は刺すような寒さであるので、空気が冴えているのであろう。



月も半月が、綺麗に浮かんでいる。



ソンギョンにとって、月や星は小さな頃からすぐそばにある存在であった。



祖父の望遠鏡は月の、凹凸おうとつまで確認できたし、祖父の商船に乗せてもらえれば、夜の海に浮かぶ空はそれは美しいものであった。



今日も祖父におねだりして手に入れた望遠鏡で月の凹凸おうとつを見ている。



すぐ側ではミン尚宮さんぐんこと、ユナが身重の身体に風邪でも召されたら…と、気を揉んでいる。



東宮殿で暮らすようになり、嬉しいことがいくつかある中の、これはそのひとつであった。



誰にも邪魔されず、暗く広くひらけた場所での天体観測は、いくら大きいと言えど洪家ほんけの屋敷では満足にできなかった。



今夜も満足に天体観測ができ、上機嫌の嬪宮ピングン洪氏ほんしは、白い息を出しながらミン尚宮さんぐんを振り返り、東宮殿の私室へ戻ると伝えた。






昨夜から小雨こさめが続いている。



秋も深まり肌寒さが日を追うごとに増していた。



この日、先王の嫡子であったヤンミョンぐんはムアン大君てぐん譲位じょういの意思を示す書を送った。



ムアン大君へ先頃崩御した父王の遺言がムアン大君の元へと到着する頃…



雅都宮ガトキュウを追われたヤンミョン君が居を移した都城トジョウの屋敷から、暖池ナルチ御用邸ごようていへと、出発する刻限となった。



ヤンミョン君は短期間に繰り返し、繰り返し、居を移す流浪の民のような身にやつしていた。



父王ちちおう順宗ジュンチョン崩御ほうぎょし、父王の跡を継がねばならない身であったが、父王の遺言で叔父であるムアン大君が王位を継いぐ。



父王が召されてから、事は転がり落ちるように運んでゆき、わずかな時間でヤンミョン君は暖池なるちへと旅立つ日がやってきた。



陽帝ようていよりヤンミョン君が奏請そうせいによって世子せじゃと認められていなかったことも、ムアン大君側に功を奏した。



当然この事態に反発する者が多数出たが、ムアン大君側の勢力によって、それらの者たちへの粛清しゅくせいが一通り終わりを迎えた。



その反発者の筆頭がヤンミョン君の生母である王妃閔氏おうひみんしの実家・閔家みんけであり、閔家みんけは一族郎党、三親等の親族、それらに関わる使用人、老若男女ろうにゃくなんにょ問わず全てが粛清の対象になった。



母は雅都宮がときゅうへ留め置かれている。



雅都宮がときゅうの西の外れに、西琵殿そぴじょんと呼ばれる楼閣ろうかくがある。



誰も訪れることのない場所に位置する、西琵殿そぴじょんへ皇后の住まいである交泰殿ぎょてじょんから移されたと聞いている。



母上は健やかにお過ごしであろうか…



都城とじょうを離れる身になり、母が酷く心配でならない。



都城とじょうを離れれば、しばらくは戻ることは叶うまい。



閔家みんけがなくなってしまった今、母上の身の上はもの寂しい風しか吹かぬであろう。



せめて暖池なるちへ共にお連れできたら…



ヤンミョン君の妻の実家も、閔氏みんし門閥もんばつ東論派とろんはの奥深くに組み込んでいた為、当然この粛清で消えて失くなってしまっていた…



そして妻である金妃きむひのお腹には新しい命が宿っている。



この新しい家族と金妃、この2人だけがこれからヤンミョン君の家族である。



屋敷の門を出ても見送りの者は誰も立たず、列を成す使用人は必要最低限の者たち、身の回りの品も必要最低限の品数、身重の妻が冷えぬようヤンミョン君は輿の中で自身の綿入りの外とう着を妻の肩へ掛ける。



暖池なるちまでは、春道港しゅんどうこうよりもまだ南へ下らねばならず、長い長い道のりであった。










思政殿すんじょんうぉんでは、ムアン大君、ホン・ジュギル、カン・テウン、チャン・ノギョル、が集まり、これからのまつりごとの話をしていた。



陽国ようこくへの此度こたびの一連の話は、既にカン・テウンより薫城くんじょうへ報せを飛ばしてある。



その他周辺国へもチャン・ノギョルの父ヒョイルの人脈により、手詰まることなく進められた。



外へのうれいを固めたムアン大君たちは内政へと目を向け、話の濃さを深めていた。



まずは、粛清した臣下の空いている役職に誰を当てるか、である。



と言っても、既に重要な役職はほとんどがムアン大君の手の者たちで埋められていた。



数少ない残った外堀を埋めていく作業を進めるのだけであった。








粛清はまず兄王の外戚から始まったのである。



しゅうとのミン・ハユル



王妃の兄ミン・イド



三親等と決められていたが、連座し関係のないものたちに無情にも火の粉がひらひらと付着していった。



次は、ヤンミョン君の妻、つまりヤンミョン君の外戚にも及んでいく。



しゅうとのキム・ミジン



金妃きむひの弟キム・ウジュ



この期を逃さず、東論派とろんはの勢力を少しでも削ぎたい中論派ちゅほろんは門閥もばつたちは、躍起になって閔家みんけ金家きむけとの繋がりと、ありもしない罪を仕立て上げていった。



そしてカン・テウンが徴鈍ちゅんどんから集めてきた兵たちは、武の名門・洪家ほんけの陣頭指揮により、速やかに鮮やかに、そして迅速に粛清を進めていく。



後世に残る、この時の出来事を書きしるした書によれば。



「洪家当主ホン・ジュギルの指揮はまことあざやかであり、北方民族への襲撃かと思われるほどに残忍でもあった。



襲撃された屋敷からは悲鳴や叫び声は一切聞こえず、次々にむくろが重ねられていく。



兵が去ったあと、一族郎党、老若男女、差は何もなく、屋敷内の生き物は家畜でさえもぴくりとも動かなかった。



長く忘れ去られてしまっていたが、鮮国民せんこくみんがもとは残忍で恐れられる遊牧民であったと思い知らされた惨状でもある。」



と記されるほどに、粛清は凄まじいものがあった。



たった一晩で粛清された人びとの数はいかほどであったであろう…



数百、いや数千であった、と諸説さまざまである。







『今帰った。』



そう話しながら、ホン・ジュギルは自身の屋敷の門をくぐる。



すると、すぐに愛妻である張氏ちゃんしボヨンが出迎えた。



『無事のご帰還、お疲れさまにございまする。まずは湯浴ゆあみをされ、汗を流しなさいませ。お食事の支度をして参ります。』



そう告げて、水刺間すらっかんへ去っていく。



ジュギルは湯殿へ向かい、湯に浸かったところ、今まで気づかなかったが、体には無数の傷ができていたみたいで、身体中のあちこちが酷く滲みて痛かった。



ボヨンが気を利かせてくれたのであろう、湯に浮かぶよもぎを眺めながら、今日一日の自身をぼんやりと振り返る…



洪家当主であることが、鮮国に有事が訪れた際、ここまでの重責であったとは知らずにこれまで来た自分に驚きを隠せずにいた…



しかもカン・テウンが徴鈍ちょんどんで集めてきた兵たちの殆どは、洪家ほんけ配下の者たちであった。



有事があれば北方民族との対峙の際に、息子二人を連れ、徴鈍ちょんどんに程近い洪家ほんけの領地である平北州ぴょんぷくじゅへ赴かなければならないのかと、改めて知らされたことも、今まで考えもつかずにいた。



武家に生まれ落ちても、自らは文官になりたい、などと今思えば若造のただの我がままを通し、武官の道へは進まず、都城で安穏あんのんと暮らしてきた。



が、次男のダオンは武官へと科挙で進んでいる。



いずれは洪家ほんけ代々の領地、平北州ぴょんぷくじゅへの赴任が決まるであろう。



洪家に生まれつき武官になる、とはそう言う意味が含まれているのである。



此度こたびの兵たちはどの者たちも、都城の捕禁府ほきんぶの武官とはまるで違い、屈強で無骨でしかし真っ直ぐで、駆け引きをする時間と労力を真正面からぶつかって行くことに割いてしまうような、者共であった。



その者たちをまとめ上げるだけでも、随分と骨が折れそうである。



しかも平北州ぴょんぷくじゅの冬は、都城の比にならぬ程の厳しい寒さでの越冬である。



まことダオンがその道へ進むのか…



そんなことを考えながら湯浴みをしていると、夕餉の支度が整った、との知らせが届く。



ボヨンのあつらえてくれた新しいパジ・チョゴリに着替えて、湯殿を出た。



自室へ戻る道すがら、ソンギョンとスンアの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。



しばらく立ち止まり、愛娘まなむすめたちの声に耳を澄ます…



目を閉じると、先ほどまでの体験が走馬灯そうまとうのように頭に浮かんでは消える。



明と暗、太陽と月、陰と陽、今日一日で体験したことと、まるで対比の象徴であるかのような、そんな笑い声であった。



今日のジョンウが成したことは、二人の娘の笑い声との引き換えであること、粛清された側の人びとにもまた、ジョンウと同じくらい大切な何かを持っていたであろうこと。



様々な思いが溢れ出るが、今は静かに心の内へしまっておくことにしたジョンウであった。







ソンギョンの二人の兄である、ミギョンとダオンは、父が竹馬の友たちと事を成していた頃、あの秘密の小屋にひっそりと潜んでいた…



洪家ほんけの人間である以上、必ずまつりごとの動乱に巻き込まれるであろう…



と覚悟はしていたが、屋敷で父や一族の働きを間近で眺め、いちいち入る報せをつぶさに耳に入れ、と言うことから、兄弟は逃げた、と要約すれば分かりやすい。



洪家ほんけとは、王より鮮国一せんこくいちの軍の指揮を任され、燕慈国えんじこくの末裔を称した、鮮国の前王朝である燕紫国えんしこくの建国より平北州ぴょんぷくじゅを領地として治める洪家ほんけは、防衛上だけでなく情報や貿易などの面においても、陽国との密な関係を通して、貿易で得る財が懐を潤しており、鮮国せんこくでは旗揚げをするならばまず洪家ほんけを味方につけろ、と言われる程の家であった。



まだ年端もゆかぬ少年を過ぎたばかりの青年二人である、洪家ほんけの子息たちは、あえて表立っては表現はせぬが、反発のようなものを心に抱いていたのかもしれぬ。



とにかく、父の帰りを屋敷で待つようなことはせず、二人だけの秘密基地で時が過ぎるのを待っていた。



父がこの日、陣頭指揮を取り、何を得るために、何を成したのか、の詳細を知るのは、もう少し後のことである。



皮肉にも、この日の出来事が洪家ほんけの子どもたちに大きな大きな影響を与えてゆくことになる。



それは、また更にもう少し後の話であった。







この日、ムアン大君をはじめ、ホン・ジュギル、カン・テウン、チャン・ノギョル、はそれぞれの屋敷へ足早に帰宅し、それぞれに夕餉ゆうげと寝支度を整え、早々に休み、翌朝早くから雅都宮がときゅうへと出仕した。



そして次の日よりムアン大君てぐん家族は、居を大君邸てぐんていから雅都宮がときゅうへと移すことになる。



即位式までの間、様々なことが次々に決められてゆき、ムアン大君の家族はこれより先、ソンギョンの知っている家族ではなくなり、鮮国王せんこくおうの第一家族として存在することになるであろう。



ソンギョンは、ムアン大君てぐんの家族が屋敷から雅都宮がときゅうへ出立する報せを受けていたが、見送りに立つことはなく、洪家邸ほんけていでスンアと過ごしていた。



おそらくソンギョンが雅都宮がときゅうを訪れ、王になったムアン大君てぐん国母こくぼになった尹妃ゆんひ大君てぐんになったシムソ君に会うことがあれば、彼らは亡きソル公主こうしゅの親友ソンギョンとして変わらず接してくれるのであろうが、それはもう叶うまい。



しかも住まいになる、雅都宮内がときゅうないではもう隣に座り、茶を飲むことはまず許されなくなるであろう…



そう思うと、ソルを共にしのぶ存在がひとつ失くなってしまったような気になり、少し寂しく思えてしまうソンギョンであった。



人は役割を演じなければ、社会生活が営めない窮屈な生き物であるのだとソンギョンは考えている…



王家とは、その頂点を極める窮屈さで日々が散りばめられていると、想像する。



ムアン大君てぐん尹妃ゆんひ、シムソぐんの笑顔がソンギョンの知っている笑顔のままで、いつまでもあって欲しい、トッケビが住むと言われる雅都宮がときゅうで心穏やかに暮らして欲しい、とソンギョンは願っていた。







ある日のこと。



ソンギョンが朝餉を食べていると、次兄のダオンが、部屋を訪ねてきた。



『ソンギョン。今日の予定は何かあるのか?』



「おはよう」もなく、やぶから棒にそうたずねる兄に



『お祖父様のお屋敷へ訪ねようかと考えているわ。何か用事でも?』



と答えた妹に



『春道港へ共に行かぬか?』



と兄から誘いがあった。



一瞬止まるソンギョン…



あの海には、たくさんの思い出と未だ色褪せぬたくさんの思いが置いてある…



しばらく思案したのち



『行くわ。』



そう答えたソンギョンであった。









雅都宮で生活するようになり、数日が過ぎた。



もとより何よりも本が好きなシムソぐん、もとい大君てぐんは、今日も住まいとして与えられた、草照殿そうしょうでんの先にある菖蒲池の東屋で本を読んでいた。



明日より本格的に大君としての教育が始められると聞いている。



父上はこのような日がいつかやって来る、と知っていたのであろうか…



都城とじょうの屋敷で受けていた教育で、大君としての学びは殆ど終了しており、これより世子と変わらぬ教育が成されていくと聞いている。



兄であり、おそらくすぐに世子に承認されるであろうウィソン兄上は、ずっと臓腑ぞうふの病をわすらっていた。



妻もおり、子も三人いるが、病は依然そのまま良くなるわけでもなく、悪くなるわけでもなく、ずっと変わらず兄を苦しめ続けている。



聡明で、分析力や探究心に富み、慈愛に溢れ、冷静沈着で激昂したことなど、見たこともない、そんな人柄の兄上である。



自らが、その座の修学を修めたとて、代わりになれるはずもないであろうに…



シムソ大君は、独り心の中で呟いていた。



大君になるとは、いわゆるそう言うことである。



難しい表現で言うと、皇位継承第二位シムソ大君殿下てぐんでんか、になったと言うことで、病弱な兄の皇子、皇孫こうそんは二人共にまだ乳飲み子であり、父上の世は始まる前であった。



打てる布石は確実に打っておかねばならない。



父上の座は、磐石、安泰、ではないのである。



世子の教育は、大君のそれとは比べ物にならぬほどに膨大な量と厳しい訓練も待っていると聞く。



気が重くて仕方がなかった…



ごろり、と横になり、天井を仰ぎ見る。



すると考えないようにして、ふたをしていた思いが、また込み上げてくる。



都城とじょうの屋敷から出立する行列の見送りが、雅都宮がときゅうまで途切れることなく、民衆の温かい歓迎をもらえていた。



ソンギョンが当たり前に見送りに立ってくれているものだと信じていたシムソは、雅都宮がときゅうの門をくぐるまでソンギョンを民衆の中にずっと探していた。



しかし、見つけられずに終わってしまった…



知らせを送ったはずである…



知らぬはずはない…



そう言うことであるのであろう…



仲の良かった四つ違いの姉・ソル公主こうしゅに以前、ソンギョンを諦めるように諭されたことがあった。



叶わぬ想いである、と…



しかしそう簡単には諦めきれず、ソンギョンが想いを寄せると聞いた、シン・ジョンウと言う男を都河港とがこうまで見に行ったこともある。



淡い思い出にするには、もうしばらく時が必要なのであろう。



目を閉じると姉と笑いあう、あのたおやかな笑顔がすぐに浮かび頭から離れない。



淡い微笑みを浮かべながら「シムソぐん」と自らを呼ぶ、鈴ののような声が忘れられぬ。



隣に並んだ時に、ふわりと香る甘やかで静寂な、ソンギョンがまとう香りも鼻の奥に残っている。



全ての所作は、雲がたなびくように優雅で無駄がなく、とても美しいものだった。



シムソの腰からは今日も、見事な宝珠ほうじゅが刺してある匂袋が下がっている。



どのみち雅都宮がときゅうで暮らすシムソにはもう、以前のようにソンギョンに気安く会える訳もなく、過去の人だと認めざるを得ない。



始まってもいないものを、どのように終わらせたらよいのか…



思案して、また振り出しに戻る。



時が流れるのを待とう、と。







ソンギョンは、次兄のダオンと共に春道港ちゅんどんこうに赴いていた。



春道港ちゅんどんこうは繁華な通りはひとつしかなく、通りも都河港とがこうほど長くもない。



都河港とがこうが浅瀬がつづく湾であるため、大型の商船は春道港ちゅんどんこうの方が勝手がよかった、と言う土地柄で栄えている港町であった。



しかし都城とじょうからは、半日は十分かかる距離であるので、都河港とがこうの方が港町として栄えている。



商いを専門にする商人や人足しか往来せぬので、あの日ソンギョンとジョンウは身分の差を気にすることなく、自らの立場も知るものもおらず、自分たちらしく振る舞うことができたのであった。



今日はジョンウと訪れたあの日から、おおよそ一年が過ぎた頃である。



春道港ちゅんどんこうの何もかもが、あの日と何も変わらず、ただ隣にいるのがジョンウではなく、兄のダオンであることだけの違いであった。



大切に置いてあった思い出をひとつひとつ拾うように、ゆっくりと歩く。



少し後ろを決して急かすことなく、黙って兄は付いてきてくれている。



まこと優しい兄であった…






ダオンは何も話さず、店も都河港とがこうと比べると人通りも少ない春道港ちゅんどんこうの通りをゆっくりと歩く妹の後ろを静かに付いて歩いている。



先日、友のオ・イノにソンギョンのことをたずねられた…



「ソンギョンに決まった相手はいるのか…」



と…



「今はいない。」



そう答えた…



その時に思ったのだ。



ソンギョンを前に進めるように背中を押してやらねば、と…



この一年で、洪家ほんけは大きく様変さまがわりした。



表向きは、以前と変わらぬままに見えるが、実はそうではない。



その証に、ソンギョンが頻繁に末の妹であるスンアの部屋でよく過ごしている。



スンアは、鼻が通るほどにさとい娘であった。



心優しいソンギョンはそんなスンアが、今の洪家ほんけの何かをぎ分けるのを懸念しているのであろう。



ソンギョンもまた、さとい娘であるのだ。



おまけにソンギョンは、いつもたおやかに他の者を思いやり、自らの心はいとも簡単に伏せてしまう。



そんなソンギョンが唯一、自身でいられたのがジョンウの前でだけなのを、ダオンはよく知っていた。



そのジョンウの存在はあの日からなくなってしまったのだ。



休まる時と場所を作ってやらねば、はかなあわやわい妹のソンギョンが氷のように溶けてなくなるような気がしていた。



洪家ほんけの家族は皆、このソンギョンの柔らかい春の日差しのような笑顔と存在にいつも癒され、支えられてきた。



ダオンは、ソンギョンに心休まる時間を持たせてやりたいと、新たな一歩を一日も早く歩めるよう、春道港ちゅんどんこうへと連れ出したのであった。







『ごめんください。』



そう言いながら、春道港ちゅんどんこう春香道しゅんこうどうの敷居をまたいだ。



すると中から店主が顔を出す。



『これはこれは。洪様ほんけのお嬢様。ようこそお越し下されました。お久し振りにございます。』



店主は懐かしそうに目を細めた。



『以前求めた香をまたお願いできるかしら。今回はどれも少し多めにお願いしたいわ。』



そうソンギョンが告げると、店主は奥に入り、香を集めて出てきた。



『お兄様。お兄様は、香は召されないの?』



とソンギョンがたずねている会話を耳にし、店主が改めて挨拶をする。



『これはこれは。洪様ほんさまの若様でございましたか。わたくしは、万事通まんじつうのお祖父様によくお世話になっております、春香道しゅんこうどうの店主にございまする。何とぞこれからもご贔屓に。』



『こちらこそ。祖父が世話になっている店でしたか。祖父、妹共々これからも世話になります。』



ダオンが店主に頭を下げ、ソンギョンに、向き直る。



『香を好まぬわけではないが、香りは武道と仲が良くないゆえ…な。』



『では。わたくしがお兄様に選んで差し上げますわ。ひとつくらいお持ちになっていてもいいはずです。』



ソンギョンは嬉しそうに沈香の匂いを選び始めた。



一通りダオンの匂いを選び終えたところで、ソンギョンは兄の友であり、先日匂袋をあつらえ終えたオ・イノの香を選んでみようと思い立つ。



兄に、オ・イノの人となりを聞きながら香を重ねていった。



オ・イノ、と言う人物はソンギョンが想像していたよりも、繊細で優しい面を持ち合わせている青年らしかった。



人を第一印象や外見だけで判断し、そのままの評価で分かったつもりであった自分に恥も覚えた。



春香道しゅんこうどうで用事を済ませ、一端大通りにもどり、通りで花を求める。



二つの花束を作ってもらい、春道港を去る前に最後に寄りたい場所がある、と兄へ伝えた。



春道港の港町から、四半刻しはんどきほど歩くとその場所へ到着する。



今日は許された時も残り少なくなっていたので、輿で移動することにした。



輿の中では兄は何も話さず、またソンギョンも何も口にはせず、静寂が空間を支配していた。



輿から見える景色は、あの日と変わらず綺麗な海岸線を望みながら、山の傾斜を登っていく。



どこへ連れていかれるのであろうと、探求心的なわくわくした気持ちと、ずっと手を握られている胸を締め付けられるような高揚感とがない交ぜになった幸せな空間が、あの時のまま甦ってきた。



あの場所へもうじきに到着するであろう、と景色が通りすぎるのを待っている。



輿での移動だったので、想像していたよりも早くソンギョンはその場所に降り立つ。



話には聞いていたが、あの騒動で火事になり、建物の殆どが見るも無惨な状態になっていた…



ジョンウと共に二晩過ごした、白木の匂いがほのかに香る屋敷は跡形もなかったが、庭だけは辛うじてあの時のままであった。



あの日毎日の食卓に使おうと約束した東屋は屋敷よりは形状を保っており、いくばくかはましであった。



蓮池の側に花をたむけ、そのまま腰かける…



のんびりと眺める焼け焦げた屋敷は、ひと目で終わったのだと、気持ちのいい諦めができる程の「終焉」であった。



ソンギョンの中に大切にしまってあった、ジョンウの笑顔。



ソンギョンが大切にしていた、ジョンウとの時間。



ソンギョンの心の片隅に引っ掛かっていた、ジョンウとの未来の欠片かけら



全てが「終わり」だと告げていた。



残していいものは、これからのかてになる思い出と支えになる想いのみ、である。



ジョンウとの約束であった。



「懸命に生きること」



最後の締めくくりをして、静かに立ち上がるソンギョンを、黙って見守ってくれていたダオンが優しく問いかけた。



『歩いて行けるか?少し登るとこの先にあるそうだ。』



『ええ。大丈夫よ。このまま向かいましょう。』



薄い笑みを浮かべながらソンギョンは答える。



親友のソル公主こうしゅと、その想い人カン・ジフの最後のあの場所へ向かう為に腰を上げた…







雨夜あまよほし

【雨が降る夜の星、転じて、あるはずのものが見えない、ごく稀なこと。】

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