第2幕
第1章~閃光~
どこまでも…
どこまでも…
白みがかった世界が続いている。
しかし足元は、沼の様な
助けを呼んでも、誰も助けてはくれない。
とうとう
抜け出せるのであろうか…
しばらく足掻いてみていたが、足掻くのを止め、全てを諦め、ただ一点を見つめることしかできなくなっていた。
残された方法は、見ているだけ。
見ることは許された、と考えればよいのであろうか…
大人しく屋敷で過ごしていたソンギョンに、祖父が急いで訪ねてきた。
『ソンギョン!ソンギョンや!』
いつになく、慌てている祖父に嫌な予感がした。
『お祖父様どうなさったのですか?』
部屋から急いで出てきたソンギョンを見つけ、ソンギョンの両腕を持って伝える。
『よく聞くのじゃ。ソル公主とジフが亡くなった。そなたの貸したあの屋敷のすぐ近くでな。あの屋敷はまだ建てられてから日が浅く、運良くジョンウのものだと世間には知れてはおらぬ。ジョンウが依頼し建てた者の屋敷だと調べがついたと聞いておる。ソル公主とジフの件、
頭がぐるぐると回っている…
祖父は、何を話しているのだろう…
ソル…が…?
ジフ様…が…?
こうも立て続けに大切な人たちがいなくなるのは、そう
ソンギョンの心はもう限界であった。
自身が生きているのさえ、嫌になってしまう…
祖父に強く抱きしめられながら、自らが何をしているのかさえ、分からなくなっていた。
ムアン
ムアン大君が
大君邸は、門をくぐるまでに二十段ほどの階段を登らねばならない。
ソル公主は…
まだ階段下に寝かされていた…
が…
娘の姿を見には行けなかった…
そのまま
『ソル…ソル…』
と涙を流しながら、名前を繰り返しているだけであった。
階段を上がってきたムアン大君に抱き起こされ、抱き抱えられながら、門をくぐり、自室へ運ばれる…
ムアン
ジフとの春道港での暮らしぶりは、幸せそのものであったと聞き及び、ムアン大君は
ただ
ムアン大君は任氏を下がらせ、尹妃が落ち着き眠るまで、尹妃の枕元から離れなかった。
尹妃が眠りにつくと自室へ戻ったが、ムアン大君の部屋はその日、
指揮官の
使用人たちが逃げ惑う…
捕禁府の役人たちが、主人であるカン・テウンと、妻の
全ての使用人を捕え、中庭に縛り上げて中央に集めていた。
そこへ主人夫婦を後ろ
指揮官のミン・イドに向かって、カン・テウンが
『何事ぞ!』
と怒鳴る…
するとミン・イドは
『王様への
と答え、カン・テウンを立つように引っ張りあげて、無理矢理に屋敷の門へと体を引きずるようにして向かう。
『テウン!カン・テウン!大変だ!』
と、
『どうしたのだ?』
とたずねる。
『落ち着いて聞くのだぞ…よいな?…ジフが…ジフがソル公主と共に逃亡中に
と、チャン・ノギョルが早口で話すと…
『いいや。私はここへ残る…ジフは何も
そう腹の底からの声音で話すカン・テウン。
『ノギョルよ。そなたがそこもとに留まっておるのはよくない。知らせてくれて礼を申す。さ、早う立ち去れよ。達者でな。』
そう続けた…
夜も更けた時刻、
人目を避けるかのごとく、独り身であった。
静かに牢舎へ入ったジュギルは、カン・テウンの牢の前で止まった。
『テウンよ。かねてよりの策を実行に移す時がきた…
そう伝えて包みと水が入った筒を渡し、牢を後にした…
ソル公主と共に
あまり遠く離れた場所への流刑は、カン・テウンの竹馬の友たち、ムアン大君などが秘密裏に肩入れをしたり、介入する恐れがあるので、その場合遠方にしてしまうとつぶさな情報が入りにくい…
これらの理由から
一方、現王には
リウ・ハオシュエンとの秘密裏の約束が果たされぬことになる恐れがある…
それは非常に困るのであった。
それらの理由で、王は珍しく領議政に反対し、
そもそもムアン
そこですかさず、王弟ムアン大君が兄王に大賛成をし、カン・テウンの
戦は
ムアン大君をはじめ、ホン・ジュギルたちは、あらかじめ王が指定するであろう流刑地を掴み、
おまけにカン・テウンには、やすやすと流刑生活を送る生活などする気もなく、ムアン大君陣営にとって重要な仕事を担うよう、計画されていた。
それはあたかも、島流しになる流刑ではなく、出張所へ赴き、その地でしか担えない重要な仕事をこなす有能な
そうなのだ…
ムアン大君をはじめ、ホン・ジュギル、カン・テウン、チャン・ノギョルは、このカン・テウンの刑を利用し、現王への
もちろんそれは、王の外戚であり、今まで甘い密を思う存分楽しんできた、
しかしムアン大君をはじめ、ホン・ジュギルもカン・テウンもチャン・ノギョルも、財や名誉や権力を欲しいままにしたかったのではない…
大切な者たちを無惨に失わねばならず、大切な存在を大切にできなかった、今の鮮国への
己らの力で
ムアン大君陣営の勤政殿での首尾は上々であった。
次の一手は、カン・テウンの流刑地より送られる、任務遂行の完了の連絡が突撃の合図になることである。
父たちの戦いを知らぬ子どもたちは、この時はまだ平穏に過ごしていた。
それぞれがそれぞれに千差万別で、初恋を心に淡く柔く秘める者、自らの信ずる道を模索する者、迷いや憂いを一切抱かずに決めた道を邁進しようとする者、まことそれぞれであった。
そして、この父たちの戦いを自身の意思とは関係なく受け継いで背負い、逃げることも避けることもできぬ苦しく重いものを知らず知らずに課され生きてゆかねばならぬ、とはまだ知らぬままの子どもたちであった…
ソンギョンは、
無心になり、考え事をしていたのである…
次兄のダオン兄さまが腕輪をくれた。
辛いことが続く妹の心に楽しみを、と贈り物をくれたと思い、お礼を伝えたところ、その腕輪はダオン兄さまの親友である、オ・イノ様からであった。
イノ様からの贈り物だなんで、ダオン兄さまからの贈り物だと信じていたソンギョンは肩透かしをくらったような心持ちであった。
わたくしが気落ちしているので、励ましてくれたのかしら…
と、イノ様の顔を思い浮かべ、もらった腕輪をはめている腕とは反対の手の指でくるくると回していた…
こんな時、こう言う他愛もない話を聞いてくれる友はもういない…
ソルに会いたいな…
ソルとお喋りしたい…
そう思い出すとまた視界が涙で歪む…
そして、どれだけ流しても、涙が枯れないことを知った…
池の回りに草が引いてある庭なので、ちょうど思考が途切れたところで、鯉に投げていた麩も切れ、ごろりと寝転ぶ…
そう言えば…
今のソンギョンは軟禁も幽閉もされてはいないが、
ソルの部屋は、大君邸では今も変わらぬ部屋のままであると聞いた。
ならばソルの為に、ノリゲ(飾り
ソンギョンはいつもノリゲや匂袋を作る時には、
思い立ったが吉日、そのまま勢いよく起き上がり、出かける支度と、外出の許しを母にもらうため、母の部屋へ早足で向かった。
まだ公にはなってはいないが、まことしやかに陽国が絡んでいるであろうとソル公主とジフの件が早くも世間の噂になって出回り始めていた。
おまけに、まだまだ情勢は落ち着かずにあるので、
世間の不安をそのまま反映しているのであろう、最近は夜盗も毎夜出没し、世間を騒がせ
そんな中での外出なので、ソンギョンはもちろん母専用の輿を与えられ、その輿での外出になった。
お付きの使用人、いつもソンギョンの世話をしてくれている、ユナと共に屋敷を出発する。
久しぶりの外出は、自分が知らない自分になったような気がして、落ち着かなかった。
ヘジョが亡くなってから外出を控えていたので、もう半年も外出をしていなかったことになる…
輿に揺られていると、様々なことを思い出し、ただ揺られるだけの静かな空間が輿の中に広がっていく…
皆さま、お久しぶりにございます。
私ユナは、ソンギョンお嬢様が久しぶりに外出なさるとのことで、お供させて頂いております。
ヘジョお嬢様、ジョンウ様、ソル
お嬢様が大切になさっていた方々が次々とお亡くなりになり、幼少のみぎりより共にあった私まで悲しく、あの時のソンギョンお嬢様はそれは見ていられない程でございました。
やっと半年の年月が経ち、以前からよくお出でになっていた、手芸用品の商店へと気持ちが向くようになり、私はとても嬉しい気持ちになりました。
商店へと到着すると、さっそく生地や
ひとつ気になったのは、男性用の、しかも兄君でおられる、ミギョン様やダオン様にはお選びにならない、紫やねずみ色をお選びになっていたことです。
ジョンウ様には、明るいお色目をお選びになっておいででしたので、また違う方への贈り物でしょうか。
何にせよ以前のように、とは申しませんが、ソンギョンお嬢様に笑顔が戻られ、外出をなさるようになったことは、喜ばしいことにございます。
そして、ソンギョンお嬢様の手仕事は、職人の手仕事かと
私もひとつ
今回のお出かけでは、気に入りの店で存分に品を
それはソンギョンお嬢様が何かをお作りになるお約束のようなもので、すなわち未来への約束でもございます。
前向きに未来をお考えになられるようになったこともまた、喜ばしいことの一つにございました。
店を出て、少し歩きたいとおっしゃるお嬢様の後ろをついて参りますと、偶然にもダオン若様にお会い致しました。
お隣には、ダオン様のご友人であるオ・イノ様がご一緒です。
『ソンギョン…買い物に出たのか?…まだ買い物に回るのか?…そろそろ帰ろうと考えていたところだ。イノも今日は我が家へ遊びに来るのだ。よかったら、今日は一緒に飯を食わぬか?』
そうダオン様がお誘いになり、ソンギョンお嬢様は「あと二つほど店を回ってから帰ります。」とお伝えになりました。
そのまま引き下がり、お屋敷での合流かと思いきや…
『そうか。ちょうどいいので、一緒に見て回る。』
と、ダオン様はソンギョンお嬢様が久しぶりに、外出なさっておいでなのを私同様、喜ばしくお考えになられた様子で、それは上機嫌で弾むような口振りで答えられました。
ダオン様がご同行なさるとのこで、自然の成り行きと申しましょうか…
イノ様もお買い物にご同行される運びとなりました。
お二人がご一緒に回られるとのことで、ソンギョンお嬢様はお母様の輿は使われず、ダオン若様とイノ様と共に
久しぶりの外出もあり、ソンギョンお嬢様はそれはそれはとても楽しそうにお過ごしでございました。
私ユナはとても嬉しゅうございました。
このような日々が末永く続くこと…
ソンギョンお嬢様に悲しみがこれ以上降り注がないこと…
が、この時の私の望みにございました。
『イノ様、先日は美しい腕輪をありがとうございました。ご覧下さいませ。このように肌を綺麗に見せてくれるお色で、とても気に入りました。今日はこのお礼にと、匂袋をお作りしようかと生地を選びに参ったのです。また、完成しましたらご
とソンギョンが嬉しそうにイノに向かい合い、話しかける…
と…
イノの耳がさっと赤くなった、のをダオンは気づいたのか、気づいていないのか
…
友の様子を片目で確認し、話を自分へ向けた。
『他に何か行くあてはあるのか?』
と素早く話を切り替えた。
ソンギョンが次兄の質問に答える。
『紙を見に行きとうございます。それと、花売りにも。』
と答えたソンギョンに、
『何に使うのだ?』
と重ねるダオンに呆れた態度を隠さず、そのままため息を出しながら
『お兄さまには、お手紙をやり取りして下さるお方はみえないのですか?隣国の大和の国では、色を重ねたり、花言葉を重ねたり、贈る文面だけではなく、したためられた紙などにも、匂いや意味を含む恋文をお相手に贈るそうです。そう言った情緒的なやり取りを女性は好むものなのです。是非、そう言うお相手と早く巡り合えるとよろしいかと…』
などと、妹に言われ放題のダオンをくすくすと笑いながらイノが肩を叩く…
ソンギョンとダオンに久しぶりに訪れた、日暮れ時の楽しいひとときであった。
ムアン
そろそろ決行に移せる段へ事が運びつつあった。
次のカン・テウンからの報せで、この後の動きを決めようと3人が
皆それぞれに、険しい顔つきであった。
同じ頃、
『ムアン大君の周囲で、何やら
『して、その動きとは…』
『確かではございませぬが…
『王様。世子様の
『陽国については、リウ・ハオシュエン殿に橋渡しを頼んでおる。その為の
『では、リウ殿からの報せが届くまで、しばらく様子を見ておりましょう。』
『
『まだ公にはしておらぬが、キム・ジミンの娘になりそうじゃ。』
『おお。キム殿の甥の娘であるな。』
『キム・ジバンよ。これからも余に尽くせ。』
『はっ。』
思政殿でこの様な密談が交わされていた頃…
カン・テウンの家、つまり
これから必要になるであろう、兵、
しかも
それに加え、
しかも
それほどまでに、陽国でのリウ家の存在は薄く、また陽国での鮮国への
これらのことを
それもこれも、徴鈍へ
カン・テウンは様々な方法で、自身にできる限りの働きをし、用意が整ったことをムアン大君へと報せる早馬を走らせた。
ソンギョンは、自室でジョンウとソルに贈る匂袋と手紙を用意していた。
ジョンウに贈る匂袋には、
ソルに贈る匂袋には、
そして、それぞれへ専用に染め上げた陽紙に先日求めた花を押し花にしたものを添えた。
ジョンウのものは、あの日のチマ・チョゴリと同じ若草色に染め上げ、すみれの押し花を添えた和紙に、
ソルのものは、つつじ色に染め上げ、ろう梅の押し花を添えた陽紙に桃のように瑞々しいソルを連想させ、
ジョンウの匂袋と手紙は、いつになるかは分からぬが、もう少し世が落ち着いたら
ソルのものは、明日ムアン
ソルはまだ墓を作ってもらえていない。
精一杯生きた大切な友を思いながら、明日の為に早めに床へついた。
次の日、朝早くから目が覚めた。
鳥の鳴き声がやたら、耳について離れなかった為である。
自ら
イノはジョンウと違い、第一印象は名家の子息そのものであって、容姿の全てが整っていた。
科挙には文官ではなく、イノの父であるオ・ドンゴンと同じ武官で通っていた。
ちなみにダオンも武官として科挙を通過している。
長兄のミギョンはもちろん、文官である。
兄弟で父方と母方、それぞれに綺麗に分かれた兄たちであった。
そんなイノに、
しばらく刺繍に
『朝餉を運んで参りました。』
ユナは
『また何か考え事でもなさっていたのですか?』
『違うのよ。何だか鳥の鳴き声が耳から離れなかったの。それに今日は朝からムアン大君様のお屋敷へ参るので、これくらいでちょうどいいのよ。』
ソンギョンはそうユナに伝え、朝餉をいただいた。
朝餉を終えたソンギョンは、身支度を再度整えて、ムアン
ムアン大君邸に到着すると、ムアン大君は
2人に
屋敷の中を歩いていると、ソルの部屋の扉の向こうにはソルが待っていてくれているような
部屋に到着すると扉を使用人が開けたが、やはり扉の向こう側にはソルはおらず、部屋の中は
ソルがいつも座っていた
すると
『見せてもらってもいいかしら。』
と、手にとって丁寧に眺めている…
つつじ色の陽紙を静かに
が、しばらくすると
『この匂いは何です?』
との、尹妃の問いに。
『ソル
と話しているうちに、ソンギョンの
『まだ実感がわかぬのです。このお屋敷にお邪魔させてもらえば、ソル公主と笑いあってお喋りができるのではないかと思えてしまうのです…ソル公主に会いたくなったらこちらに参れば、と…』
『ソンギョン…ありがとう。ソルを思って泣いてくれて…ありがとう。ありがとう。』
尹妃に抱きしめられ、更に涙が溢れてくる…
どれくらいそうしていたであろう。
ソンギョンが落ち着くまで尹妃は抱きしめていてくれ、黙って待っていてくれた。
落ち着いたのを見計らって
『茶の用意が整っているはずよ。私の部屋においでなさいな。遊び相手がいなくなってしまって、シムソも暇を持て余しているわ。同席させても構わないかしら。さ、参りましょう。』
そう尹妃に
ソンギョンが案内された席へ座るとすぐに、部屋の扉が開き、シムソ君と共に茶が運ばれてきた。
久しぶりに見るシムソ君は、また背が伸び、少年から青年へとの
『お久しぶりです。シムソ君様。』
と、にこりと微笑みながら、ソンギョンが話し掛けると、シムソ君の顔がさっと赤く染まった。
尹妃は、にこにこと言うか、にたにたと言うか、嬉しそうにシムソ君見つめている。
『お久しぶりです。ソンギョンさん。』
ぼそぼそと下を向いて話し、ソンギョンの隣に腰かける。
『こちらですが、良かったらお使い下さいませ。』
と、ソンギョンが尹妃とシムソ君に匂袋を差し出した。
尹妃は赤を基調にした、シムソ君は緑を基調にした、ソルとお揃いの
『まぁ…ソルとお揃いの宝珠ね…ソンギョンは刺繍を刺すのが本当に見事ね。シムソにまで。ありがとう…シムソにとっても似合う色目ね。私たちにまで気遣いをしてもらって、申し訳ないわ。ほら、シムソもお礼を…』
と言われ、ぼそりとお礼を述べるシムソ君に尹妃はくすくす笑っていた。
シムソ君はソンギョンに手渡された匂袋をずっと大切そうに持ち、嬉しそうに眺めていた。
『そう言えば…後でまた、ソルの部屋へ案内するわ。そろそろね、ソルの部屋を片付けようかと考えているの。だからソルが生前に使用していたものを、少し持っていってもらえないかしら。きっとソルは誰よりもソンギョンに使ってもらえたら喜ぶと思っているの。』
尹妃は、ソンギョンの手を取って自身の両手で包みながら、ソンギョンの目を優しく見つめながら話した。
『そう…ですか…』
ソンギョンはまだソルの死を受け入れられず、立ち止まったままであるので、形見分けのような、ソルがこの世にいないことを再確認せざる得ない提案を受け入れることができずにいた…
茶と茶菓子を挟み、ソンギョンと尹妃が楽しくお喋りをするのを、静かに隣で聞いていたシムソ君…
3人にとって、この時間は久しぶりに訪れた優しく楽しい時間であった。
そろそろ日が傾き始めた頃、尹妃にソルの部屋を案内すると告げられ、ソンギョンは尹妃とシムソ君と共にソルの部屋へ戻ってきていた。
幼少の頃より、何かのきっかけがあった訳でもなく、本当に自然に心を許した友であり、時間が許せばいつも一緒いた友でもあった。
どれもこれもが、ソルそのものの品ばかりであり、なかなか自らの手が伸びることなく勧められるがまま形見の品を選んでいた。
と、そこへ慌ただしい足音と共に大君邸で働いている使用人が尹妃を探して、屋敷を走り回っていた。
『尹妃様!どちらにおられますでしょうか?急ぎお伝えしたいお話がございます。尹妃様!尹妃様!』
『何事です。その様に騒ぎ立てて…来客中なのです。後にはできぬのですか?』
少々ご
『
使用人は報告を終え、部屋を退出する間際にソンギョンをちらりと見やった…
知っているのであろう…
さすが大君邸の使用人である、ソンギョンが今回の旗揚げに一番の功労をあげている、ホン・ジュギルの娘であると…
『
そう告げて、ムアン大君邸に
門の外へ出ると乗ってきた輿とは違い、男物の輿が用意されていた。
母の気遣いであろう…
と言うことは、母も件の話をもう知っているのか…
急いで戻らねば、帰路で何かあれば大変な事態になりかねぬ。
万一に
屋敷に到着するとすぐに門が開かれ、そしてすぐに閉ざされる。
この様な有事に、使用人の動きに無駄がなく、何よりも門の扉が二重の造りになっている屋敷なのだ。
『お帰りなさい。ソンギョン。』
『ただいま戻りました。お母様。』
門の近くまで、母が出迎えてくれた。
ソンギョンを
『お父様のお話は、ムアン大君邸で耳に入っていますね?ならば話は早いです。我らにできることは、お父上が大志を成す為の
『はい。お母様。』
ソンギョンは自室へ向かう途中、スンアの部屋へ顔を出した。
スンアの部屋の前は静まりかえっていたので、おそらく午睡中なのであろう。
扉をそっと開けて、中へ入ると静かに寝息を立てて、あどけない顔で眠っていた。
家庭内の空気を敏感に集めてしまう年頃のスンアが不安がらぬよう、目覚めた時にソンギョンが一番に目に入るよう、刺繍をここでしようと考え、ユナに道具をお願いした。
ソンギョンはいつも刺繍を刺している時に、様々なことを考えながら刺している。
たまに深く考え過ぎてしまい、予想以上に豪華な刺繍が出来上がることもある。
今日もまた豪華な刺繍が出来上がるであろうと予想される…
座布団をスンアの眠る布団の枕元に移動させ、静かに腰を降ろし、ふぅと軽く息を吐いて
本日は出仕日ではないので、あいにく大臣たちは
時は
父王・
聞き分けがよく他人を思いやる心が強く、和を重んじる兄のウォルサン大君と、
どちらも父は
父は
すなわち、
しかし
文宗はウォルサン君を世子に
ウォルサン君こと、現王でありムアン大君の兄王である
おまけに臣下たちは大した成果も見せぬまま発言だけは大きくなり、特権階級の
世の皆は、ムアン大君が兄王より自らが優れているにも関わらず、世子になれず、父の愛情が兄王に注がれたことへの
しかし、事はそう簡単には語れず、
これは
歴史と言うものは、相対的に見なければそれらのなにがしを語ることはできぬ。
すなわち、これらの事象の結果は後の世の評価に任せるしかないのであろう…
それは、ともかく。
文宗の息子たちが、
最初に沈黙を破ったのは、兄王であった。
『いつかこの日がやってくるであろう、と自らの
兄王はそう締めくくった…
『承知した。では、今ここで譲位の意を示した書をしたためられよ。』
そうムアン大君が短く告げると扉が開き、紙と筆、金印が用意された。
書を書き終える頃に、金色の器に入った毒液が運ばれてきた。
兄王は静かに筆を置くと、毒杯に手を伸ばす。
この日、
そして最後までヤンミョン君の助命を実弟へ懇願していた…
それらの一連の時を、ムアン大君はどのような思いで眺めていたのであろう…
顔つきからは、何も読み取れぬ面相をしているように見えた。
自身の大切な娘は、もうこの世におらぬのだ…
娘の最後を思っていたのであろうか…
それとも、兄王の最後をただただ見つめていただけなのであろうか…
~
【稲妻のような、瞬間的に光り消える、眩い光。】
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