第2幕

第1章~閃光~

どこまでも…



どこまでも…



白みがかった世界が続いている。



しかし足元は、沼の様な土壌どじょうにどんどんと埋まっていく…



助けを呼んでも、誰も助けてはくれない。



とうとうひざまで埋まってしまった…



抜け出せるのであろうか…



足掻あがけば足掻くだけ埋まって行く…



しばらく足掻いてみていたが、足掻くのを止め、全てを諦め、ただ一点を見つめることしかできなくなっていた。



残された方法は、見ているだけ。



見ることは許された、と考えればよいのであろうか…






大人しく屋敷で過ごしていたソンギョンに、祖父が急いで訪ねてきた。



『ソンギョン!ソンギョンや!』



いつになく、慌てている祖父に嫌な予感がした。



『お祖父様どうなさったのですか?』



部屋から急いで出てきたソンギョンを見つけ、ソンギョンの両腕を持って伝える。



『よく聞くのじゃ。ソル公主とジフが亡くなった。そなたの貸したあの屋敷のすぐ近くでな。あの屋敷はまだ建てられてから日が浅く、運良くジョンウのものだと世間には知れてはおらぬ。ジョンウが依頼し建てた者の屋敷だと調べがついたと聞いておる。ソル公主とジフの件、沈没船事故ちんぼつせんじこの件、全て今まで通り知らぬ存ぜぬ、を通すのじゃぞ。よいな。正直心しょうじきごころを出して、余計なことは申すな。芋づる式に洪家ほんけ張家ちゃんけ大君家てぐんけ姜家かんけ辛家しんけ、全てに繋がる。全ての家が一族郎党皆殺いちぞくろうとうみなごろしの恐ろしい事態になるでな。可能ならば事が落ち着くまで、屋敷にまたこもっておればよい。わしも今は万事通まんじつうの商いには手はつけておらぬ。都城とじょうの屋敷でこもっておって、都河港とがこうには寄り付きもせんようにしておる。それとな、そなたの父が何やらきな臭いことをしておるやもしれぬ。ある筋からの情報じゃ。そなたの父には父の信ずるものがあって、動いているものだと考えておる。それはよい。しかしな、そなたたち孫に害が及ぶのは見ていられぬ。危険が及んだり、我慢ができぬようになったら、母上を連れてわしを訪ねるのじゃぞ。張家ちゃんけとは関係なく、そなたたち孫と末娘に不自由はさせぬだけの財と住まいくらい存分に用意してやれる。よいな?』



頭がぐるぐると回っている…



祖父は、何を話しているのだろう…



ソル…が…?



ジフ様…が…?



こうも立て続けに大切な人たちがいなくなるのは、そう容易よういこらえられるものではなく、残された者たちの心をこれでもかとえぐられていくさまのようである…



ソンギョンの心はもう限界であった。



自身が生きているのさえ、嫌になってしまう…



祖父に強く抱きしめられながら、自らが何をしているのかさえ、分からなくなっていた。







ムアン大君邸てぐんていに、ソル公主こうしゅ亡骸なきがらが到着する…



ムアン大君が春道港しゅんどうこうから共に連れてきたのである。



大君邸は、門をくぐるまでに二十段ほどの階段を登らねばならない。



ソル公主は…



まだ階段下に寝かされていた…



尹妃ゆんひは報せに急いで門を出た…



が…



娘の姿を見には行けなかった…



そのままひざから崩れ落ち、座り込み



『ソル…ソル…』



と涙を流しながら、名前を繰り返しているだけであった。



階段を上がってきたムアン大君に抱き起こされ、抱き抱えられながら、門をくぐり、自室へ運ばれる…



ムアン大君てぐんはそのまま、尹妃ゆんひの部屋へ侍女の任氏いむしを呼び寄せて、春道港しゅんどうこうでの暮らしぶりや、ソル公主こうしゅの最後を伝えるよう、促した。



ジフとの春道港での暮らしぶりは、幸せそのものであったと聞き及び、ムアン大君は安堵あんどし、尹妃はいくばくか落ち着きを取り戻した。



ただ任氏いむしは、ソル公主の身体に関わることは、後日ムアン大君にだけ伝えることにし、この時の尹妃には伏せておいた。



ムアン大君は任氏を下がらせ、尹妃が落ち着き眠るまで、尹妃の枕元から離れなかった。



尹妃が眠りにつくと自室へ戻ったが、ムアン大君の部屋はその日、行灯あんどんが消えることはなかった…






姜家屋敷かんけやしき捕禁府ほきんぶのものたちが取り囲む。



指揮官の参判チャムパンミン・イドが号令を発し、全員で門の戸を打ち破り侵入する。



使用人たちが逃げ惑う…



参判チャムパンが向かうは、主人夫婦の部屋である。



捕禁府の役人たちが、主人であるカン・テウンと、妻の琴氏くむしを捕えてきた。



全ての使用人を捕え、中庭に縛り上げて中央に集めていた。



そこへ主人夫婦を後ろ手縄てなわにして座らせる。



指揮官のミン・イドに向かって、カン・テウンが



『何事ぞ!』



と怒鳴る…



するとミン・イドは



『王様への謀反むほんである!捕禁府へ連行する!』



と答え、カン・テウンを立つように引っ張りあげて、無理矢理に屋敷の門へと体を引きずるようにして向かう。







さかのぼること数刻前すうこくまえ



『テウン!カン・テウン!大変だ!』



と、姜家邸かんけていの門を使用人に開けてもらい、勢いよくカン・テウンを探しにきたチャン・ノギョルの声に、部屋から出てきたカン・テウン。



『どうしたのだ?』



とたずねる。



『落ち着いて聞くのだぞ…よいな?…ジフが…ジフがソル公主と共に逃亡中に捕禁府ホキンブに斬られたのだ…すぐに屋敷を発て。琴氏くむしと共に逃げるのだ。すぐに捕禁府がそなたたち夫婦を捕えに参る!』



と、チャン・ノギョルが早口で話すと…



『いいや。私はここへ残る…ジフは何もとがめ立てられるようなことはしておらぬ。ここで逃げおおせて何になろう。息子が立派な最後を迎えたのだ。私が醜態しゅうたいさらすわけにもゆかぬ…』



そう腹の底からの声音で話すカン・テウン。



『ノギョルよ。そなたがそこもとに留まっておるのはよくない。知らせてくれて礼を申す。さ、早う立ち去れよ。達者でな。』



そう続けた…







夜も更けた時刻、捕禁府ホキンブ牢舎ろうしゃにホン・ジュギルの姿がある。



人目を避けるかのごとく、独り身であった。



伝手つてを使い、秘密裏ひみつりに捕禁府へ侵入し、役人たちに酒と金を握らせてしばしの間、牢舎中ろうしゃじゅう人払いをしてある。



静かに牢舎へ入ったジュギルは、カン・テウンの牢の前で止まった。



『テウンよ。かねてよりの策を実行に移す時がきた…手筈てはずは整っておる。頼んだぞ。奥方は心配されるな。安全な場所におられる。連絡手段は、毎度違まいどたがえる方法で寄越よこす。あと、これが決行までのたくわえだ。牢のものは口にするな、よいな?では、達者でな…』



そう伝えて包みと水が入った筒を渡し、牢を後にした…







勤政殿キンジョンジョンでは、カン・テウンの仕置きが領議政ヨンイジョン主導のもと、王と共に話し合われていた。



ソル公主と共に潜伏せんぷくしていた息子カン・ジフの責任を父親であるカン・テウンに持たせ、陽国への報告にする判断である。



流罪るざいを検討しているが、その流罪先で意見が分かれているのである。



都城とじょうに比較的に近い紅薬島ホンヤクソムへの流刑を領議政ヨンイジョンたちはしていた。



あまり遠く離れた場所への流刑は、カン・テウンの竹馬の友たち、ムアン大君などが秘密裏に肩入れをしたり、介入する恐れがあるので、その場合遠方にしてしまうとつぶさな情報が入りにくい…



これらの理由から領議政ヨンイジョンたちは紅薬島ホンヤクソムへの流刑を推していた、と言う経緯である。



一方、現王には領議政ヨンイジョンたちとは、異なった理由と見解があるのであった。



紅薬島ホンヤクソムであると陽国ようこくが指定した陽国の国境に接する北寄りの徴鈍チャンドンとは、真逆なのであった。



リウ・ハオシュエンとの秘密裏の約束が果たされぬことになる恐れがある…



それは非常に困るのであった。



それらの理由で、王は珍しく領議政に反対し、徴鈍チャンドンを推していた、のである。



そもそもムアン大君てぐんをはじめとする、ホン・ジュギルなどは、優柔不断な王と面目躍如めんもくやくじょに奮闘するリウ・ハオシュエンが秘密裏ひみつりにカン・テウンの流刑地を決めているとの情報は既に掴んでいた。



そこですかさず、王弟ムアン大君が兄王に大賛成をし、カン・テウンの流罪先るざいさき徴鈍チャンドンに決定されたのであった。



戦は火蓋ひぶたを切る前、前哨戦ぜんしょうせんで軍配が上がっているのが、世の決まりである。



ムアン大君をはじめ、ホン・ジュギルたちは、あらかじめ王が指定するであろう流刑地を掴み、勤政殿キンジョンジョンでの御前会議ごせんかいぎでの話の方向性を自らの陣営に有利なように運ぶ手筈てはずを整えていたのである。



おまけにカン・テウンには、やすやすと流刑生活を送る生活などする気もなく、ムアン大君陣営にとって重要な仕事を担うよう、計画されていた。



それはあたかも、島流しになる流刑ではなく、出張所へ赴き、その地でしか担えない重要な仕事をこなす有能な官吏かんりそのものであった。



そうなのだ…



ムアン大君をはじめ、ホン・ジュギル、カン・テウン、チャン・ノギョルは、このカン・テウンの刑を利用し、現王への糾弾きゅうだんを突きつける計画を立てていたのである。



もちろんそれは、王の外戚であり、今まで甘い密を思う存分楽しんできた、閔一族みんいちぞくへの果し状でもあった。



しかしムアン大君をはじめ、ホン・ジュギルもカン・テウンもチャン・ノギョルも、財や名誉や権力を欲しいままにしたかったのではない…



大切な者たちを無惨に失わねばならず、大切な存在を大切にできなかった、今の鮮国への憤怒ふんどと果し状でもあった。



己らの力でまつりごとを行えば、大切なものたちを大切なまま、いつくしむことが出来ると信じて立ち上がるのである。



ムアン大君陣営の勤政殿での首尾は上々であった。



次の一手は、カン・テウンの流刑地より送られる、任務遂行の完了の連絡が突撃の合図になることである。



父たちの戦いを知らぬ子どもたちは、この時はまだ平穏に過ごしていた。



それぞれがそれぞれに千差万別で、初恋を心に淡く柔く秘める者、自らの信ずる道を模索する者、迷いや憂いを一切抱かずに決めた道を邁進しようとする者、まことそれぞれであった。



そして、この父たちの戦いを自身の意思とは関係なく受け継いで背負い、逃げることも避けることもできぬ苦しく重いものを知らず知らずに課され生きてゆかねばならぬ、とはまだ知らぬままの子どもたちであった…







ソンギョンは、洪家邸ほんけていの庭の池に泳ぐ鯉にを小さくちぎって投げていた。



無心になり、考え事をしていたのである…



次兄のダオン兄さまが腕輪をくれた。



辛いことが続く妹の心に楽しみを、と贈り物をくれたと思い、お礼を伝えたところ、その腕輪はダオン兄さまの親友である、オ・イノ様からであった。



イノ様からの贈り物だなんで、ダオン兄さまからの贈り物だと信じていたソンギョンは肩透かしをくらったような心持ちであった。



わたくしが気落ちしているので、励ましてくれたのかしら…



と、イノ様の顔を思い浮かべ、もらった腕輪をはめている腕とは反対の手の指でくるくると回していた…



こんな時、こう言う他愛もない話を聞いてくれる友はもういない…



ソルに会いたいな…



ソルとお喋りしたい…



そう思い出すとまた視界が涙で歪む…



幾日いくにち幾日いくにちも泣いて過ごした…



そして、どれだけ流しても、涙が枯れないことを知った…



池の回りに草が引いてある庭なので、ちょうど思考が途切れたところで、鯉に投げていた麩も切れ、ごろりと寝転ぶ…



そう言えば…



今のソンギョンは軟禁も幽閉もされてはいないが、都河港とがこうから屋敷に戻り、一度も外出していないことに気づいた。



ソルの部屋は、大君邸では今も変わらぬ部屋のままであると聞いた。



ならばソルの為に、ノリゲ(飾りふさ)を作る材料を求めに行こう、と思い立った。



ソンギョンはいつもノリゲや匂袋を作る時には、都城とじょうの繁華な市場の外れにある、その筋では有名な商店へ出かけている。



思い立ったが吉日、そのまま勢いよく起き上がり、出かける支度と、外出の許しを母にもらうため、母の部屋へ早足で向かった。



まだ公にはなってはいないが、まことしやかに陽国が絡んでいるであろうとソル公主とジフの件が早くも世間の噂になって出回り始めていた。



おまけに、まだまだ情勢は落ち着かずにあるので、都城府トジョンブ都城トジョン入念にゅうねんに見回っている…



世間の不安をそのまま反映しているのであろう、最近は夜盗も毎夜出没し、世間を騒がせ震撼しんかんさせている。



そんな中での外出なので、ソンギョンはもちろん母専用の輿を与えられ、その輿での外出になった。



お付きの使用人、いつもソンギョンの世話をしてくれている、ユナと共に屋敷を出発する。



久しぶりの外出は、自分が知らない自分になったような気がして、落ち着かなかった。



ヘジョが亡くなってから外出を控えていたので、もう半年も外出をしていなかったことになる…



輿に揺られていると、様々なことを思い出し、ただ揺られるだけの静かな空間が輿の中に広がっていく…








皆さま、お久しぶりにございます。



私ユナは、ソンギョンお嬢様が久しぶりに外出なさるとのことで、お供させて頂いております。



ヘジョお嬢様、ジョンウ様、ソル公主こうしゅ様、ジフ様…



お嬢様が大切になさっていた方々が次々とお亡くなりになり、幼少のみぎりより共にあった私まで悲しく、あの時のソンギョンお嬢様はそれは見ていられない程でございました。



やっと半年の年月が経ち、以前からよくお出でになっていた、手芸用品の商店へと気持ちが向くようになり、私はとても嬉しい気持ちになりました。



商店へと到着すると、さっそく生地やふさの紐を編む糸を選んだり、と楽しそうになさっておいででした。



ひとつ気になったのは、男性用の、しかも兄君でおられる、ミギョン様やダオン様にはお選びにならない、紫やねずみ色をお選びになっていたことです。



ジョンウ様には、明るいお色目をお選びになっておいででしたので、また違う方への贈り物でしょうか。



何にせよ以前のように、とは申しませんが、ソンギョンお嬢様に笑顔が戻られ、外出をなさるようになったことは、喜ばしいことにございます。



そして、ソンギョンお嬢様の手仕事は、職人の手仕事かと見紛みまがうほどの素晴らしいお品が出来上がります。



私もひとつ頂戴ちょうだいしたことがありますが、我が家の大切な家宝になりました。



今回のお出かけでは、気に入りの店で存分に品を吟味ぎんみし、沢山の品をお求めになりました。



それはソンギョンお嬢様が何かをお作りになるお約束のようなもので、すなわち未来への約束でもございます。



前向きに未来をお考えになられるようになったこともまた、喜ばしいことの一つにございました。



店を出て、少し歩きたいとおっしゃるお嬢様の後ろをついて参りますと、偶然にもダオン若様にお会い致しました。



お隣には、ダオン様のご友人であるオ・イノ様がご一緒です。



『ソンギョン…買い物に出たのか?…まだ買い物に回るのか?…そろそろ帰ろうと考えていたところだ。イノも今日は我が家へ遊びに来るのだ。よかったら、今日は一緒に飯を食わぬか?』



そうダオン様がお誘いになり、ソンギョンお嬢様は「あと二つほど店を回ってから帰ります。」とお伝えになりました。



そのまま引き下がり、お屋敷での合流かと思いきや…



『そうか。ちょうどいいので、一緒に見て回る。』



と、ダオン様はソンギョンお嬢様が久しぶりに、外出なさっておいでなのを私同様、喜ばしくお考えになられた様子で、それは上機嫌で弾むような口振りで答えられました。



ダオン様がご同行なさるとのこで、自然の成り行きと申しましょうか…



イノ様もお買い物にご同行される運びとなりました。



お二人がご一緒に回られるとのことで、ソンギョンお嬢様はお母様の輿は使われず、ダオン若様とイノ様と共に都城一とじょういち繁華はんかな通りを共に歩かれました。



久しぶりの外出もあり、ソンギョンお嬢様はそれはそれはとても楽しそうにお過ごしでございました。



私ユナはとても嬉しゅうございました。



このような日々が末永く続くこと…



ソンギョンお嬢様に悲しみがこれ以上降り注がないこと…



が、この時の私の望みにございました。









『イノ様、先日は美しい腕輪をありがとうございました。ご覧下さいませ。このように肌を綺麗に見せてくれるお色で、とても気に入りました。今日はこのお礼にと、匂袋をお作りしようかと生地を選びに参ったのです。また、完成しましたらご笑納下しょうのうくださいませね。』



とソンギョンが嬉しそうにイノに向かい合い、話しかける…



と…



イノの耳がさっと赤くなった、のをダオンは気づいたのか、気づいていないのか



友の様子を片目で確認し、話を自分へ向けた。



『他に何か行くあてはあるのか?』



と素早く話を切り替えた。



ソンギョンが次兄の質問に答える。



『紙を見に行きとうございます。それと、花売りにも。』



と答えたソンギョンに、



『何に使うのだ?』



と重ねるダオンに呆れた態度を隠さず、そのままため息を出しながら



『お兄さまには、お手紙をやり取りして下さるお方はみえないのですか?隣国の大和の国では、色を重ねたり、花言葉を重ねたり、贈る文面だけではなく、したためられた紙などにも、匂いや意味を含む恋文をお相手に贈るそうです。そう言った情緒的なやり取りを女性は好むものなのです。是非、そう言うお相手と早く巡り合えるとよろしいかと…』



などと、妹に言われ放題のダオンをくすくすと笑いながらイノが肩を叩く…



ソンギョンとダオンに久しぶりに訪れた、日暮れ時の楽しいひとときであった。








ムアン大君邸てぐんていでは、今日もムアン大君てぐんをはじめ、ホン・ジュギル、チャン・ノギョル、がカン・テウンからの報告を聞き、さくっていた…



そろそろ決行に移せる段へ事が運びつつあった。



次のカン・テウンからの報せで、この後の動きを決めようと3人が各々おのおのに自身の屋敷へ帰ってゆく…



皆それぞれに、険しい顔つきであった。








同じ頃、思政殿スンジョンジョンでは領議政ヨイジョンであり現王妃の父ミン・ハユル、息子ミン・イド、ミン・ハユルの娘婿むすめむこチェ・ドギュン、ミン・ハユルの一の配下キム・ユチャン、そして現王が密談を交わしていた。



『ムアン大君の周囲で、何やらあやしい動きがございます。』



『して、その動きとは…』



『確かではございませぬが…謀反むほん…の動きがございます。』



『王様。世子様の奏請そうせいはいかがなりましたでしょうか。このに王様と世子様の足元を整えておかなければ、いくらムアン大君の手の内にあるカン・テウンを排除したとて、事は簡単には運びますまい…』



『陽国については、リウ・ハオシュエン殿に橋渡しを頼んでおる。その為の徴鈍行チャンドンいきだ。リウ殿が、かの地でそろそろカン・テウンを始末しておる頃よ…すぐに知らせが届くであろう。』



『では、リウ殿からの報せが届くまで、しばらく様子を見ておりましょう。』



揀択カンテクの首尾はいかがでしょうか。お若いとは言え、鮮国せんこく次代じだいになって頂くお方に嬪宮様ピングンさまは見つかりましたでしょうか…』



『まだ公にはしておらぬが、キム・ジミンの娘になりそうじゃ。』



『おお。キム殿の甥の娘であるな。』



『キム・ジバンよ。これからも余に尽くせ。』



『はっ。』



思政殿でこの様な密談が交わされていた頃…







徴鈍チャンドンでは、カン・テウンが自らの伝手つてを頼って、様々な方向へ触手しょくしゅを伸ばしていた…



カン・テウンの家、つまり姜家かんけはるかいにしえ燕慈エンジの時代から続く名門の家柄で、方々ほうぼうにかなり強力な伝手つてが存在しているのである。



これから必要になるであろう、兵、軍備ぐんび兵糧ひょうろう諜報ちょうほう世評せひょう撹乱かくらんする要員、様々なものが容易よういに手に入るのだ。



しかも都城トジョウから200も離れた徴鈍チャンドンならば、役人などの目も少なく、大国陽国たいこくようこくへの国境も近い為、物資も集めやすい。



それに加え、鮮国せんこくの最北の最大都市である徴鈍は、鮮国の北方民族への備えとして存在している洪家ほんけの力が最も集中している場所でもあり、ホン・ジュギルの名を出せば、存分に動き回ることができ、また洪家の名前で存分に様々な人や物が集まってきた。



しかも陽国ようこくでのリウ・ハオシュエンの力は、鮮国が考えているよりもかなり小さく、面目躍如めんもくやくじょの為にカン・テウンを仕留める刺客が送り込まれたが、あっさりと金で解決することができた。



それほどまでに、陽国でのリウ家の存在は薄く、また陽国での鮮国へのあつかいはぞんざいなものであると認めざるを得なかった…



これらのことをつかむだけでも、かなりの収穫であることは間違いなかった。



それもこれも、徴鈍へ流刑るけいされていなければ得ることの出来ぬことであり、息子へのせめてもの花向けにできれば、とも考えたりもする。



カン・テウンは様々な方法で、自身にできる限りの働きをし、用意が整ったことをムアン大君へと報せる早馬を走らせた。






ソンギョンは、自室でジョンウとソルに贈る匂袋と手紙を用意していた。



ジョンウに贈る匂袋には、春香道シュンドウコウで2人で選んだ香を入れる。



ソルに贈る匂袋には、透明唇膏トウミンチュンガオが最近新発売した香を入れた。



そして、それぞれへ専用に染め上げた陽紙に先日求めた花を押し花にしたものを添えた。



ジョンウのものは、あの日のチマ・チョゴリと同じ若草色に染め上げ、すみれの押し花を添えた和紙に、永久とわの約束を込めて長恨歌チョウコンカを書き留めた。



ソルのものは、つつじ色に染め上げ、ろう梅の押し花を添えた陽紙に桃のように瑞々しいソルを連想させ、詩経シキョウ桃夭トウヨウを書き留めた。



ジョンウの匂袋と手紙は、いつになるかは分からぬが、もう少し世が落ち着いたら都河港トガコウを訪ねてみようと考えている。



ソルのものは、明日ムアン大君邸てぐんていへ持っていこうとしらせを送っておいた。



ソルはまだ墓を作ってもらえていない。



逆賊ぎゃくぞく汚名おめいげずにいる…



精一杯生きた大切な友を思いながら、明日の為に早めに床へついた。



次の日、朝早くから目が覚めた。



鳥の鳴き声がやたら、耳について離れなかった為である。



自ら手水ちょうずを用意し身支度を整えて、ユナが朝餉あさげを運んでくるまで、イノの匂袋を作って待っていた。



イノはジョンウと違い、第一印象は名家の子息そのものであって、容姿の全てが整っていた。



科挙には文官ではなく、イノの父であるオ・ドンゴンと同じ武官で通っていた。



ちなみにダオンも武官として科挙を通過している。



長兄のミギョンはもちろん、文官である。



兄弟で父方と母方、それぞれに綺麗に分かれた兄たちであった。



そんなイノに、銀糸ぎんし鼠色ねずみいろ、紫色で品のいい青海波せいがいは紋様もんようを刺してゆく。



しばらく刺繍に没頭ぼっとうしていると、ユナが扉の向こうで声をかける…



『朝餉を運んで参りました。』



ユナは朝餉あさげと共に手水ちょうずも運んで来ており、ソンギョンがすっかり身支度を整えているのを見て驚いていた。



『また何か考え事でもなさっていたのですか?』



『違うのよ。何だか鳥の鳴き声が耳から離れなかったの。それに今日は朝からムアン大君様のお屋敷へ参るので、これくらいでちょうどいいのよ。』



ソンギョンはそうユナに伝え、朝餉をいただいた。



朝餉を終えたソンギョンは、身支度を再度整えて、ムアン大君邸てぐんていへ向かった。



ムアン大君邸に到着すると、ムアン大君は出仕しゅっししており、尹妃ゆんひとシムソ君が出迎えてくれた。



2人にともなわれ、ソルの部屋へ向かう…



屋敷の中を歩いていると、ソルの部屋の扉の向こうにはソルが待っていてくれているような錯覚さっかくおちいる…



部屋に到着すると扉を使用人が開けたが、やはり扉の向こう側にはソルはおらず、部屋の中は主不在あるじふざいのがらんどうであった。



ソルがいつも座っていた文机ふみづくえの上に、匂袋と手紙を広げて置く。



すると尹妃ゆんひ



『見せてもらってもいいかしら。』



と、手にとって丁寧に眺めている…



つつじ色の陽紙を静かに凝視ぎょうししていた…



が、しばらくすると桃夭トウヨウを読み終えたのだろうか…



尹妃ゆんひからすすり泣きが聞こえてきた。



『この匂いは何です?』



との、尹妃の問いに。



『ソル公主こうしゅと共に訪れた透明唇膏トウミンチュンガオという店が都河港トガコウにございます。その店がこのほど新しく香を出しまして、きっとソル公主ならば求めるであろうと思いました。袋は私が刺しました、刺繍にございます。ソル公主を思うと私はいつも桃を思い出すのです。ですので、宝珠ほうじゅを匂袋にと思いまして…』



と話しているうちに、ソンギョンの双眸そうぼうからは涙が溢れてきた…



『まだ実感がわかぬのです。このお屋敷にお邪魔させてもらえば、ソル公主と笑いあってお喋りができるのではないかと思えてしまうのです…ソル公主に会いたくなったらこちらに参れば、と…』



『ソンギョン…ありがとう。ソルを思って泣いてくれて…ありがとう。ありがとう。』



尹妃に抱きしめられ、更に涙が溢れてくる…



どれくらいそうしていたであろう。



ソンギョンが落ち着くまで尹妃は抱きしめていてくれ、黙って待っていてくれた。



落ち着いたのを見計らって



『茶の用意が整っているはずよ。私の部屋においでなさいな。遊び相手がいなくなってしまって、シムソも暇を持て余しているわ。同席させても構わないかしら。さ、参りましょう。』



そう尹妃にうながされ、尹妃の部屋へ案内される。



流石さすがは、大君の妃である尹妃の部屋は豪華絢爛ごうかけんらんで、ソンギョンの母である、張氏ちゃんしボヨンとは調度品ちょうどひんの重厚さと華やかさがひと味もふた味も違った。



気後きおくれしているソンギョンを知ってか、知らずか、尹妃は優しく手を引いてソンギョンが座る場所まで案内してくれた。



ソンギョンが案内された席へ座るとすぐに、部屋の扉が開き、シムソ君と共に茶が運ばれてきた。



久しぶりに見るシムソ君は、また背が伸び、少年から青年へとのはざまにいる感じであった。



『お久しぶりです。シムソ君様。』



と、にこりと微笑みながら、ソンギョンが話し掛けると、シムソ君の顔がさっと赤く染まった。



尹妃は、にこにこと言うか、にたにたと言うか、嬉しそうにシムソ君見つめている。



『お久しぶりです。ソンギョンさん。』



ぼそぼそと下を向いて話し、ソンギョンの隣に腰かける。



『こちらですが、良かったらお使い下さいませ。』



と、ソンギョンが尹妃とシムソ君に匂袋を差し出した。



尹妃は赤を基調にした、シムソ君は緑を基調にした、ソルとお揃いの宝珠ほうじゅを刺繍した匂袋である。



『まぁ…ソルとお揃いの宝珠ね…ソンギョンは刺繍を刺すのが本当に見事ね。シムソにまで。ありがとう…シムソにとっても似合う色目ね。私たちにまで気遣いをしてもらって、申し訳ないわ。ほら、シムソもお礼を…』



と言われ、ぼそりとお礼を述べるシムソ君に尹妃はくすくす笑っていた。



シムソ君はソンギョンに手渡された匂袋をずっと大切そうに持ち、嬉しそうに眺めていた。



『そう言えば…後でまた、ソルの部屋へ案内するわ。そろそろね、ソルの部屋を片付けようかと考えているの。だからソルが生前に使用していたものを、少し持っていってもらえないかしら。きっとソルは誰よりもソンギョンに使ってもらえたら喜ぶと思っているの。』



尹妃は、ソンギョンの手を取って自身の両手で包みながら、ソンギョンの目を優しく見つめながら話した。



『そう…ですか…』



ソンギョンはまだソルの死を受け入れられず、立ち止まったままであるので、形見分けのような、ソルがこの世にいないことを再確認せざる得ない提案を受け入れることができずにいた…



茶と茶菓子を挟み、ソンギョンと尹妃が楽しくお喋りをするのを、静かに隣で聞いていたシムソ君…



3人にとって、この時間は久しぶりに訪れた優しく楽しい時間であった。



そろそろ日が傾き始めた頃、尹妃にソルの部屋を案内すると告げられ、ソンギョンは尹妃とシムソ君と共にソルの部屋へ戻ってきていた。



幼少の頃より、何かのきっかけがあった訳でもなく、本当に自然に心を許した友であり、時間が許せばいつも一緒いた友でもあった。



どれもこれもが、ソルそのものの品ばかりであり、なかなか自らの手が伸びることなく勧められるがまま形見の品を選んでいた。



と、そこへ慌ただしい足音と共に大君邸で働いている使用人が尹妃を探して、屋敷を走り回っていた。



『尹妃様!どちらにおられますでしょうか?急ぎお伝えしたいお話がございます。尹妃様!尹妃様!』



『何事です。その様に騒ぎ立てて…来客中なのです。後にはできぬのですか?』



少々ご立腹りっぷくぎみに答える尹妃に、使用人は簡単には引き下がらなかった。



旗揚はたあげにございまする!ムアン大君様、手勢合てぜいあわせて四千にて雅都宮ガトキュウ包囲ほういされました。協力者は、ホン・ジュギル様、チャン・ノギョル様、カン・テウン様、でございます。現在のところ事前の策により、宮内に協力者多数、交泰殿キョンテジョン万春殿マンチュンジョン千秋殿チョンチュジョン勤政殿クンチョンジョン康寧殿カンニンジョン東宮殿トングンジョン、をすでに押さえてございます。詳しいお話はまた報せがあり次第、随時ご報告できるかと存じます。』



使用人は報告を終え、部屋を退出する間際にソンギョンをちらりと見やった…



知っているのであろう…



さすが大君邸の使用人である、ソンギョンが今回の旗揚げに一番の功労をあげている、ホン・ジュギルの娘であると…



尹妃様ゆんひさま。おいとまを頂きとうござきます。我が屋敷にしらせが届いていますかどうか不明でございますが、とにもかくにも母と兄たちに早急そうきゅうに報せたいと存じます。無礼を承知でありますが、急ぎ失礼致します。』



そう告げて、ムアン大君邸にいとまを告げる。



門の外へ出ると乗ってきた輿とは違い、男物の輿が用意されていた。



母の気遣いであろう…



と言うことは、母も件の話をもう知っているのか…



急いで戻らねば、帰路で何かあれば大変な事態になりかねぬ。



万一にそなえ輿の中で用意してあった、チマ・チョゴリを質素な作りのものへと着替えた。



屋敷に到着するとすぐに門が開かれ、そしてすぐに閉ざされる。



流石さすがは武で名をせた歴史を持つ洪家ほんけである。



この様な有事に、使用人の動きに無駄がなく、何よりも門の扉が二重の造りになっている屋敷なのだ。



『お帰りなさい。ソンギョン。』



『ただいま戻りました。お母様。』



門の近くまで、母が出迎えてくれた。



続報ぞくほうが入るのを待っていたのであろう…



ソンギョンを見据みすえて母は、静かに話し始めた。



『お父様のお話は、ムアン大君邸で耳に入っていますね?ならば話は早いです。我らにできることは、お父上が大志を成す為の足枷あしかせにならぬこと。すなわち、人質にならぬことです。そして、大成を成したあかつきには、お父上の無事を喜び、共にこころざしを胸に上り詰めることです。部屋で休んでいなさい。何かあれば、報せに参ります。』



『はい。お母様。』



ソンギョンは自室へ向かう途中、スンアの部屋へ顔を出した。



スンアの部屋の前は静まりかえっていたので、おそらく午睡中なのであろう。



扉をそっと開けて、中へ入ると静かに寝息を立てて、あどけない顔で眠っていた。



家庭内の空気を敏感に集めてしまう年頃のスンアが不安がらぬよう、目覚めた時にソンギョンが一番に目に入るよう、刺繍をここでしようと考え、ユナに道具をお願いした。



ソンギョンはいつも刺繍を刺している時に、様々なことを考えながら刺している。



たまに深く考え過ぎてしまい、予想以上に豪華な刺繍が出来上がることもある。



今日もまた豪華な刺繍が出来上がるであろうと予想される…



座布団をスンアの眠る布団の枕元に移動させ、静かに腰を降ろし、ふぅと軽く息を吐いて針山はりやまに手を伸ばした。







思政殿スンチョンジョンでムアン大君が、兄王と二人きりで対峙している。



本日は出仕日ではないので、あいにく大臣たちは雅都宮ガトキュウにはおらず、雅都宮をおさえるには好都合であった。



時はさかのぼり、兄王がまだウォルサン大君てぐんと呼ばれており、父王が健在の頃…



父王・文宗ムンジョンのただ息子であればよかった頃…



聞き分けがよく他人を思いやる心が強く、和を重んじる兄のウォルサン大君と、文武双方ぶんぶそうほうひいで、人心の心を掴む力が長けている弟のムアン大君…



どちらも父は文宗ムンジョン、母は王妃閔氏おうひミンし、同じくどちらも世子セジャには申し分のない皇子おうじたち…



父は泰平たいへいの世を強く望んだ。



すなわち、文武両道ぶんぶりょうどう血気盛けっきさかんな青年であったムアン大君ではなく、様々な点においてムアン大君よりもおとるが、内外に敵を作りにくいウォルサン君をし、それを体現する為に近くに置き、可愛がる、と言う、皆が皆分かりやすい方法で示して見せた。



臣下しんかたちは閔氏ミンしの実家が所属する東論派トロンハはウォルサン大君てぐん、一方ムアン大君を推していたのは先代の外戚である張家ちゃんけが所属している中論派チュロンハで、どちらもの派もそれぞれの皇子を推していた…



しかし文宗ムンジョンの持病が悪化し始めると、均等きんとうが保たれなくなる事態が起き始めていた…



文宗はウォルサン君を世子にえ、臣下たちが政争せいそうを起こす目を摘んだかに見えたが…



ウォルサン君こと、現王でありムアン大君の兄王である順宗ジュンチョンは、対外的にも対内的にも、穏便政策おんびんせいさくし進め、結果冊封体制けっかさくほうたいせい陽国ようこくにはいいように利用された。



おまけに臣下たちは大した成果も見せぬまま発言だけは大きくなり、特権階級の横暴おうぼうは目に余り、民の困窮こんきゅうぶりには目をおおいたくなる惨状さんじょうに至っている。



世の皆は、ムアン大君が兄王より自らが優れているにも関わらず、世子になれず、父の愛情が兄王に注がれたことへの執念しゅうねんだと胆略的たんりゃくてきに考えることもあろう。



しかし、事はそう簡単には語れず、容易よういに測れぬものであるのだ。



これは文宗ムンジョンの思わくが外れてしまった、と結果的にはなるのであろうか…



歴史と言うものは、相対的に見なければそれらのなにがしを語ることはできぬ。



すなわち、これらの事象の結果は後の世の評価に任せるしかないのであろう…



それは、ともかく。



文宗の息子たちが、文机ふみづくえを間に静かに思政殿スンチョンジョンで向かい合っていた。



最初に沈黙を破ったのは、兄王であった。



『いつかこの日がやってくるであろう、と自らの世子セジャみことのりを前陽帝から宣下せんげされた時、ひざまづきながら、そう考えていた。理由は数多あまたあるはずであるが、余が聞かねばならぬ道理は持ち合わせておらぬ。で、だ。私の持病は悪化の一途だ。何もこの様な大事だいじにせずとも、余の命と治世はじきに仕舞しまいになる。それとヤンミョン君が気に入らぬのであろう。言い訳になるが…。父上と違い、余は一人しか皇子がおらぬで、選べなかった…。そなたが取って代わるならば、それもよいと考える。そなたの娘を無惨に死なせた余が、息子と共に命乞いするのは見苦しかろう。譲位じょういと言うかたちにするのが、美しいかと考えるがどうじゃ…余はそなたのように、自らが原動力となれる何かを持っている訳でない。周囲に動いてもらわねば何も進まぬ。そなたには余のこのやるせない思いは伝わらぬであろうな…余にはな、常にそなたが側で控えていた恐怖が、影のようにまとわりついていた。それも今日でしまいじゃ。存分にそなたの世を作ればよい。』



兄王はそう締めくくった…



『承知した。では、今ここで譲位の意を示した書をしたためられよ。』



そうムアン大君が短く告げると扉が開き、紙と筆、金印が用意された。



書を書き終える頃に、金色の器に入った毒液が運ばれてきた。



兄王は静かに筆を置くと、毒杯に手を伸ばす。



この日、第八代鮮国王順宗だいはちだいせんこくおうジュンチョンは実弟へと譲位し、静かにその人生に幕を閉じた。



そして最後までヤンミョン君の助命を実弟へ懇願していた…



それらの一連の時を、ムアン大君はどのような思いで眺めていたのであろう…



顔つきからは、何も読み取れぬ面相をしているように見えた。



自身の大切な娘は、もうこの世におらぬのだ…



娘の最後を思っていたのであろうか…



それとも、兄王の最後をただただ見つめていただけなのであろうか…






閃光せんこう

【稲妻のような、瞬間的に光り消える、眩い光。】

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