ビー玉を透かす
しらす丼
ビー玉を透かす
リビングのテーブル上にポツンと一つ、透き通ったビー玉があった。
赤や緑、青色なんかのビー玉を、むかし友達の家で見たことがある。
でも、この机にあるのは色なんてついていない、透明なビー玉だ。
私はそっと、そのビー玉を手のひらに乗せてみた。
窓から差し込んだ陽光が丸い輪郭を浮かび上がらせる。
手を少し動かしてみると、きらりんとアニメみたいな効果音が聞こえてくるような気がした。
「そんなところでぼうっとして、どうしたの?」
後ろからお姉ちゃんの声がして、私は手のひらにビー玉を乗せたまま振り返る。
するとお姉ちゃんは目を見開いて、「懐かしいもの持ってるねぇ」そう言って笑った。
「これ、どうしたの?」
私が訊くと、お姉ちゃんは「掃除した時に出てきたんじゃない?」と言いながらキッチンの方へ行き、冷蔵庫の中を覗いていた。すでにビー玉への興味を失っているらしい。
「欲しいならあげるけど?」
「えっ、いいの?」
「うん。昔ともだちからもらったものだけど、高校生にもなってビー玉はちょっとね」
高校生になったら、ビー玉は卒業しなければならないものなのだろうか。
ビー玉に視線を移しながら、私はそんなことを思う。
「あんたももう中二なのに、ビー玉に興味を持つなんて変わってるねぇ」
「そう?」
「そうじゃない? だって中学生にもなったらそんなビー玉とかじゃなく、推しのアイドルや歌手を追っかけたりとか、オシャレに興味を持つとか……あとは、恋愛?」
「へえ、そういうものなんだ」
お姉ちゃんはよくそうやって教えてくれるけど、私にはよくわからない感覚だった。
「まあ。あんたみたいな子も、まだ中学生にはいるのかもね。多様性の時代だし、私がとやかく言うことでもなかったわ。ごめんごめん」
「ううん。大丈夫。気にしてないよ」
「そっか。ま、あんたはそうだよね」
お姉ちゃんはそう言って、大口を開けて笑う。
「そう、かな」
それからお姉ちゃんは、これからデートだからと言って家を出ていった。
また一人になった私は、お姉ちゃんからもらったビー玉をじいっと眺める。
しばらくしてそれに飽きた私は、ビー玉を透かして部屋の中を見渡した。
ビー玉越しの世界は少し歪んでいて、毎日いるこの部屋がまったく違う世界のように見える。
この小さな玉を通すだけで、世界はこんなにも姿を変えてしまうのかと驚いた。
きっとこのビー玉は何か特別なものなんだ。
そう思うと萎れていた心が風船のように膨らみ、どこへだって飛んでいけるような気がした。
それから私は、お守り代わりにとビー玉を小さい巾着袋(パワーストーンを買った時にもらったものだ)に入れて、ポケットに突っ込んだ。
「今日からずっと一緒だよ」
そう呟きながら、ポケットを軽く叩く。
それから私はどこへ行くにも何をするにも、そのビー玉の入った巾着袋を持参しようと思ったのだった。
翌日。さっそく私はビー玉の入った巾着袋をスカートのポケットに忍ばせて、家を出た。
季節は冬からすっかり春へと変貌し、柔らかく暖かい風がセーラー服の黒いリボンを揺らす。
このセーラー服を着るようになって一年ちょっと。私服登校していた小学生の時のように、日々着る服に気を使わなくていいのは楽だった。
『え、また同じ服着てるの? きったなー』
小学生の時に言われた、その一言がふと頭をよぎる。
似たような服を何着か持っていただけのことなのに、なぜかクラスメイトたちはそのことを執拗に指摘してきた。
何かを言い返したい気持ちに駆られたが、どうしても言い返す勇気がなかった。たぶん、怖かったんだと思う。私は弱虫だから。
じんわりと汗が額に浮かんできた頃、私は中学校の門の前に到着した。
校庭では、野球部やサッカー部が朝から盛んに活動を行なっている。私はそれを横目に昇降口へと向かい、下駄箱の前で立ち止まった。
「またか……」
下駄箱には、校舎内で履くスリッパが入っている。学年ごとに色分けされており、私たちの学年は緑色だ。
しかし、私のスリッパはただの緑色ではなくなっていた。おそらく泥か何かが塗りたくられているのだろう。少し白っぽくなっている。
私はそれを取り出し、履いていた白い靴をおさめると、靴下のまま廊下を歩いた。
そして一番近くにあった流しで、スリッパについていた泥を洗い流す。
いつものことだ――そう言い聞かせながら、私は無言でスリッパを洗った。
乾燥した流しが泥を含んだ水で湿っていく。誰にも気づかれないままその水は管を通り、何食わぬ顔でどこかへ流れ出るのだろう。
誰かに何かを指摘されることもなく。それがなんだか羨ましかった。
洗い終えたスリッパを軽く振り、ついていた水滴をある程度切ってから廊下に落とした。
まだ残っていた水滴が、夏夜に咲く花火のように飛び散る。
靴下が多少湿るだろうが、そんなことはお構いなしにと私はそれをそのまま履いて教室へと向かった。
廊下を歩いていると、まだスリッパの底に少し水滴が残っているせいもあって私の足跡が残る。
先生にまた何か言われるのだろうか。そう思うと、少し気が重くなった。
『どうしてお前は――』うんぬんかんぬん。
ほんの数日前にも職員室で長々とお説教をされたばかりだ。
先生曰く、私は協調性に欠けるらしい。どうしてみんなと同じようにできないのか、といつも言ってくる。
その度に私は、ただ淡々と謝ることしか出来なかった。違うつもりなんてないのに。そう思いながら。
教室に着くと、部活の朝練がないクラスメイトの何人かが一つの席に集まって楽しそうに会話をしているのが目に入った。
その子たちは私の姿を見るなりクスクスと笑って、急に声のトーンを落とす。
また私の話ですか、はいはい。
内心でそんなことを思いながら、私はなるべくその子たちの方を見ずに自分の席につく。
そして、席についてすぐにその違和感に気づいた。
机に、落書きがされている。
マジックペンでないことは救いだったが、シャープペンシルで『キモい』とか『うざい』とか諸々のことが書かれていた。
私は鞄の中から筆箱を取り出し、その中の消しゴムを掴んで机にこすりつける。
どこかからクスクスと笑う声がして、また私のことを笑っているのだと察した。
私は無言のまま、ゴシゴシと消しゴムを擦り続ける。
すると、ビー玉を透かした時のように視界が歪み、机の落書きが見えなくなった。
私の目はビー玉になってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。
瞬きをすれば、この目から雫がぽたぽたと落ちることくらいわかっていた。
そんな姿を見てクラスメイトの誰にも見せたくはない。
一心不乱に消しゴムをこすりつけている時、机の脚の方でカチカチと鳴る音がした。
なんだろうと思ったが、私はすぐにそれなら正体に気づいた。
昨日もらったビー玉だ。私の動きに合わせて机の脚に当たって音を立てている。
『大丈夫だよ。ぼくは君の味方だよ』
そう言ってくれているような気がして、とても心強く感じた。
――そうか、私はもう独りぼっちじゃない。ビー玉が見守っていてくれるんだ。
私はポケットに入ったビー玉の巾着袋を、スカート越しにギュッと強く握った。
感謝の想いを込めるように。その存在に縋るように。
それからの私は、そのビー玉を持っているだけでなんだか特別な存在になった気がして、学校にいる時も強気でいられた。
クラスメイトから無視をされている時も、文房具やシューズが傷つけられていても。
――このビー玉があれば、私は無敵。そう思えた。
けれど、私は気づくことになる。
それが私にとってはただのビー玉でしかないことと、私が持っていても何の力も発揮しないことを。
お母さんと一緒に買い物へ行った時だった。
お母さんは「タイムセールが始まるまでしばらく食品売り場を適当に回っているから」と言って、買い物カートを押しながら鮮魚コーナーへと進んでいった。
私やお姉ちゃんがついていくと、お菓子やアイスなどを勝手に入れられることを分かっているため、お母さんはそう言って一人で買い物をするのだ。
そしてこういう時、私はたいがいスーパーの中にある雑貨屋さんを見て回ることにしている。
「そういえば、下敷きがカッターで切りつけられちゃって書きづらいんだよね。新しいの買おうかな」
雑貨屋さんの前に立った時、それは突然目についた。
「あ、ビー玉だ」
透明なビー玉が一つの袋にギュッと詰められた状態で売り場に並んでいる。
あの日、机の上で見た透明なビー玉は特別な感じがしていたのに、この袋に詰められているビー玉には何の感情も湧いてこない。
同じものがいくつもあって、特別どころかその存在が当たり前であるようだった。
私はポケットにある巾着袋を取り出し、その中にあるビー玉を手のひらに乗せた。
見比べてみると売り場に並べられているビー玉とそれは、何も変わらない――同じ形、同じ色。
初めて見たときに感じた特別な気持ちは、微塵も湧いてこなかった。
どうしてこんなものを特別だなんて思ってしまったのだろう。
こんなの、学校にいるクラスメイトと同じじゃないか。
『キモい、どっか行け』『こっち見んな』
みんなは同じ顔をして、同じような言葉を私に投げる。
そしてその言葉たちは、私の身体をギタギタに引き裂いていくのだ。
私は、持っていたビー玉をいつの間にか手放していた。
ビー玉はスローモーションで落下する。
そのまま床にぶつかると、無音で跳ねて転がった。
無音の世界が、お前は独りぼっちなのだといっているようだった。
誰も、お前の味方になんてなりはしないのだと。
あんなビー玉一つで、いじめがどうにかなるはずなんてなかったんだ――私は、馬鹿だ。
「わあ、かわいい」
幼い声にハッとして下を向くと、三つ編みをした小さな女の子が私の落としたビー玉を拾い上げていた。
私の視線に気づいたその女の子はニコッと笑い、「はい。お姉さんのでしょ?」とつまんだビー玉を私の前に差しだす。
「えっと……」
少しだけ狼狽えた末に、「違うよ」と私は答えた。
「そうなの?」
「そう。これはきっと、誰かがあなたのためにここに落としたんだと思うんだ。だからこれはあなたのものだよ」
「ほんとに!?」
「本当に」
わあ、と目を輝かせながら女の子は大事そうに両手でビー玉を掲げる。
私がしていたように、ビー玉越しに歪んだ世界を見ているのだろうか。口をポカンと開けたまま、女の子は静止している。
ただのビー玉に、そこまで感動できるその子がなんだか羨ましかった。
「魔法使いになれるかな」
女の子はそう言って目を輝かせたまま、私の方を見る。
「魔法使い?」
「そう! これは魔法のビー玉なの!」
アニメの設定か何かなのだろうか。そんな考えがふと頭をよぎり、話を合わせることにした。
「魔法のビー玉なんだったら、きっと魔法使いになれるかもしれないね」
「やった!」女の子は嬉しそうにビー玉を見つめる。
純粋なその瞳は、透明なビー玉と同じように見えた。どこまでも濁りがなく、美しい。
突然、意識の奥深くで何かが弾ける音がした。ビー玉とビー玉がぶつかり合った時のような、そんな音が。
「ねえ。もしも魔法が使えたら、あなたはどうする?」
特に深い意味もなく、私はそう問いかける。
すると女の子は満面の笑みをつくり、「悪い奴らをやっつけるの! 弱いものいじめばっかりする悪い奴らをね!」そう答えた。
「悪い、奴らを……」
「そうだよ! だからお姉さんも、困ったらわたしに言ってね! この魔法のビー玉を使って、助けてあげるから!!」
「う、うん」
それから女の子のお母さんらしき女性が現れ、困った顔で私にお辞儀をすると、その女の子の手を引いて帰っていった。
「私のことも、助けてくれるって」
女の子が残していった言葉は私の中で留まり、少しずつ膨らんでいく。
そして冷たくなっていた胸が、奥からじんわりと温かくなっていくような感覚があった。
本当にあの子は魔法使いなのかもしれない。そんなあの子にこそ、あのビー玉はふさわしかったんだ。
ふと雑貨屋さんにかかるビー玉の袋が視界に入る。
しかしそれはもう、あの子の持っていったビー玉とはまったく違うものに見えていた。
そして翌日。ビー玉を持たない私は、いつものように登校した。
泥にまみれたスリッパ。机の落書き。壊された文房具。
どれもこれも以前と変わりない日常。
しかし、変わったものもあった。
「誰がこんなことしたの? こんなことして恥ずかしくないわけ?」
席を立ち、私は叫ぶ。
遠巻きにクスクス笑っていたクラスメイトたちは、ギョッとした顔をして私を見た。
そう。あの女の子がかけてくれた魔法のおかげで、私は以前よりもずっと強くなれたのだ。
あのビー玉は、やはり特別なものだった。
しかしそれは、私にとってではない。
けれど誰かの特別が、私に何かしらの影響を与えたことは間違いないだろう。
その叫びをキッカケに私に対するいじめは徐々に減っていき、私は平穏な日々を取り戻していった。
それから数ヶ月後。私はまた雑貨屋さんの前で袋詰めにされたビー玉を見つめている。
何度かこの雑貨屋さんに訪れてはいるものの、あれから一度もあの女の子には会えていない。
いつかお礼を言いたいけれど、そのいつかは果たされることはないのかもしれなかった。
或いはまた私が困った時、ひょっこりと姿を現すのかも。
その時には私にも特別な何かがあって、女の子の手助けをできたらいいなとは思う。
だがしかし、私にとっての特別とは何なのだろう。
そして、それを私はいつか手にすることができるのか。
「まあでも。どこでどんな未来になるかなんて、転がった可能性を拾ってみないことには分からないものだよね」
そう。あのビー玉のように。
不確かなその未来は、ビー玉を透かした景色と似ているのかもしれない。そんなことを私は思った。
(了)
ビー玉を透かす しらす丼 @sirasuDON20201220
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