第9話
翌日の昼過ぎ。
春野由奈の死体は、出社して来なかったことを心配した彼女の上司と、マンションの管理人によって発見された。同じ日の夕方四時頃に、事件現場の地域を管轄する警察署から刑事が二人、会社を訪ねてきたが、さらにその二日後には、完全に事故として処理したことが夕刊の小さな記事で明らかにされた。
完全犯罪は、成立した。
日本の警察は世界でも「優秀だ」と評判ではあるが、小宮山の手掛けた春野由奈殺害は見破れなかったようだ。
邪魔者が消えた世界は、小宮山にとっては素晴らしい世界だった。
あの女に脅迫されることもない、完全犯罪が成立したので、警察から疑われることも、ない。
彼の性欲を満たす盗撮もまた行うようになった。
気が付けば、あの夜から二ヵ月が経っていた。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
軽い整頓作業をして、椅子から立ち上がり、デスクでまだ残業をしている同僚に声をかけた。「お疲れ様です」、返事があると、小宮山は鞄を右手に持って、オフィスを出た。
定時を過ぎているが、明かりがついている他の部署も多い。廊下を進み、エレベーター乗り場まで来た。ボタンを押した。一階からこの八階にまでエレベーターが上がって来るまでの間、スマホを見ながら待っていると、
「小宮山さん、お疲れ様です」
後ろから小宮山の名前を呼ばれた。振り返ると、総務部の二つ後輩の飯塚直樹が会釈しながらこちらへ歩み寄って来ていた。
おつかれ、部署は違うため、あまり社内では話さない間だが、顔は知っている。呼ばれたため小宮山は右手を軽く挙げる。飯塚は小宮山の隣に並ぶと、
「小宮山さん、ヤリましたね」
意味不明な言葉を発した。
小宮山が困惑した表情をしていると、エレベーターが到着した。エレベーターの中には誰も乗っていなかった。
無言のまま──小宮山は少し顔の筋肉を緊張させ、飯塚はにやりと笑った──エレベーターの中へ入った。
ドアが閉まる。
一階へと下り始めたエレベーター内で、飯塚はさっきの続きの言葉を言った。
「小宮山さん――由奈を殺しましたよね」
全身の毛穴が一気に開くのと、血の気が引くのを感じた。まるで錆びついた古い機械の動作のように首を総務の後輩の方に向けると、飯塚は、ニヤリ、恐ろしい表情だ。
「僕ね、由奈から聞いてたんですよ。小宮山さんが盗撮を繰り返していたことを。そのことで脅されていたんですよね、小宮山さん。金を要求したって、あいつ、めっちゃ笑いながら喋ってました。大金が毎月、入ってくる。幸せそうでしたよ。でも――あいつ、死にましたよね、二ヶ月前に。警察はこのことを知らなかったから、事故として処理しましたけど。僕には真実が分かるんですよ。あなたが、あなたが……殺したってことをね!」
こいつ、まさか、あの女と付き合っていたのか。
予想していなかった事態である。もう自分の弱みを握る人物は完全にいなくなったと思っていた。しかし、それは、誤りだった。
「小宮山さん」
冷や汗をかく小宮山に飯塚は、念を押すように言った。「お金、渡してくれますよね」
※
「飯塚」
夜九時。小宮山は飯塚を会社の屋上に呼び出した。
「持って来てくれました? 約束のもの」
ベンチから立ち上がった飯塚は、右手の掌を見せる。小宮山は苦笑いした。
「もちろんさ。かばんの中に入ってるよ」
封筒を取り出して、それを彼の手にのせた。
飯塚は封を切ると、中身を確認する。中身は壱万円札――と同じ大きさの紙を百枚入れている。
そんな嘘すぐにバレる――そんなこと小宮山は周知の上だ。
飯塚は案の定、封を切り、中身を確認する。紙切れだけしか入っていないことを知ると、
「どういうことだよ、ふざけてるのか!」
予想通りだ。怒鳴ってきた。
「いや。ふざけてなんかいないさ」
「はあ? どういうことだよ、それ」
「君は僕を甘く見すぎたんだよ。だって、僕は殺人犯なんだよ。既に、一人、手にかけているんだ。そんな奴から、金を脅し取ろうとしたら、どうなることかぐらい考えるべきだったね」
小宮山は飯塚の身体に突進した。封筒が手から落ちる。中身が零れ落ち、散らばった。
※
翌朝七時。
飯塚直樹の転落死体が巡回中の警備員によって発見された。
重ねる 醍醐潤 @Daigozyun
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