池田のお蔦狸 虹の橋(下)
ベンチから立ち上がった拍子に、お蔦の身体がぐらりと揺れた。
鈴木はその手を取るようにして、人目につかぬ木陰に誘った。
鈴木の目がぎらりと光った。
――きみ、人間じゃないだろう。
鈴木はお蔦の耳元でぼそりと呟いた。お蔦はびっくり仰天、なんしに! と心臓がばくばく跳ねた。
――けだものの臭いがぷんぷんしてるぞ。
お蔦は思わず自分の尻に両手を当てた。
――オヤオヤ図星のようだね。
鈴木がにっと笑うと、だしぬけに人の姿がポンと消えた。
え?
次の瞬間、お蔦の目の前に、一匹の雄狸がいた。
――鈴木さん!
狸はにやにや笑っている。
――東京に狸がいないとでも思ってたのかい?
――今まで朋輩に会ったこともないのか?
何もかも目まぐるしい東京で、野球のこと以外にかまけるような余裕など、どこにもなかった。
――けっこう来てるぜ、田舎の狸が東京見物に。自分たちは今時風の人間に化けてるつもりなんだろうけど、イヤハヤ滑稽千万だね。
――おっと風が冷たくなってきたね。さあ、きみも元の姿になってみたまえ。そこのツツジの植え込みの下あたりにでも入って、これからのことをゆっくり話さないか? イヤ、狸仲間に見られる分には修行に障りはないはずだよ。
お蔦は「これからのこと」の言葉に心が動いた。新球団に加入し、夢にまで見た公式戦に出るチャンスは、すべてこの鈴木スカウトが握っている。
狸が東京のプロ野球界で活躍すること、それはきっと同じ狸としての悲願なのだろう。お蔦は、その言葉に背中を押されるように、ポンと狸の姿に戻った 。
――ほう。
鈴木は息がかかるほど近づいてきた。目をぱちくりさせるお蔦。
――まあ、可愛い娘狸じゃないか。……どれ、このかんざしは、誰かいい人からもらったのかい?
――?
何の話をされているのか、よくわからない。
――これからのことを、話そうか。
――はい。今シーズンこそは、レギュラー入りできるよう頑張ります。
――おやおや、可愛い娘さんが。
鈴木はお蔦の手の肉球を撫で回す。
――こんな可愛い手をしているのに。
――うちは手が小そうて、どうしても変化球を投げるのに限界を感じております。最近は、投手の他に外野手の練習もしております。
――そうだ、君の本当の名前を教えてくれないか?
――お蔦、と申します。
――おつた、か。お蔦主税のお蔦だな。そうかそうか。
――?
――今流行りの映画だよ。柳橋の芸者と駆け出しの文士のはかない恋の物語。……まさか知らないのかい?
――すみません……
――同じ化けるなら芸者とは言わん、せめて桃割髪の娘さんにでも化けてくれれば、これだってかんざし冥利に尽きるってもんじゃないかい?
鈴木はタバコの花のかんざしに触れた。
――うちは、泥んこになってボール追いかけとる方が性に合うてます……
――ははは。若い娘さんが、まあ。
何が言いたい? うちはプロ野球選手じゃ。
――ところで、湯島の白梅が見頃だろう。お蔦くん、近いうちにお参りに行こうじゃないか。
――はい。一日も早う公式戦に出られるよう、天神様に願をかけとうございます。
――あはは、これはまた、ずいぶん色気溢れる話じゃないか。切れろ別れろってのは、芸者の時に言うセリフでありんす、なんてね。
……何のこと?
――鈴木さん、新しい球団というのは、どこが本拠地になるんですか?
――まあまあ、そんなにあわてなさんな、お嬢さん。
ツツジの木陰で、鈴木はお蔦の肩をぽんと押した。すっかり酒に足を取られていたお蔦は、あっけなくひっくり返った。
――イヤハヤ田舎のお嬢さんは……
***
あのあと、どうやって人の姿に戻って球団の寮に帰ったのか、お蔦はほとんど覚えていなかった。
寮長には朝帰りをひどく叱られ、始末書を書かされた。
鈴木のことは口が裂けても言えない。寿司屋で、居合わせた人たちと意気投合し、羽目を外してしもうたと嘘をついた。
やがてペナントレースが開幕した。投手としても外野手としても、お蔦に公式戦出場のチャンスはなかなか巡って来ない。
それもそのはず、桜の綻び始める頃からどうも身体の調子がおかしくなり始め、特に最近は腹のあたりがもぞもぞしてきて、それと共におかしげな夢を頻繁に見るようになった。
大きな虹の掛かった野原、スミレやレンゲ、ナズナにハコベ、タンポポと春の花がそよ風に揺れている。
七匹の赤ちゃん狸が草の上に座って、花の冠をかぶせ合うては、きゃらきゃら笑うている。
何やろか? とお蔦が近づこうとすると、そこで決まって目が覚める。そんな時は決まって身体中が気だるく、練習もただルーチンをこなすのが精一杯だった。レギュラーどころの話ではない。お蔦は焦った。こんなざまを鈴木に見られでもしたら、どんなにがっかりさせてしまうだろうか――そういえばあれから、鈴木から音沙汰がない。新球団とやらはどうなっているのだろうか。
これではいけない、とある日お蔦はコーチに外野の特守を申し出た。
おう、やっと本気になったか、それを待っていたんだ、みっちりやるから覚悟しろよ、とコーチはノックバットをぶんぶん振った。
次々と飛んでくる球を、お蔦は右に左に追う。
うちは芸者だの桃割髪の町娘だのなんかより、こうして泥んこになってボールを追いかけている方がよほど性に合うているんじゃ。
狸の鳴き声が口から漏れそうになるまで走り回って、ようやく特守が終わった。そのまま外野で仰向けになっていると、お蔦の目に、ふいにおかしげなものがゆらゆら見えてきた。
野原、春風、大きな虹。
七匹の赤ちゃん狸が花の冠を頭に乗せ、互いに手を取り合って虹の橋を渡ろうとしている。
――?
こちらに向かって、もみじのような手を振りながら、子狸たちは虹のきざはしを登り始める。
――どこ行くん?
子狸たちはきゃらきゃら笑っている。
――バイバイ……さよなら。
子狸たちは手を振りながら、虹の橋を一列になってとことこ渡っている。
――あ……
声が出ない。
――さよなら……って何? 何なん?
お蔦は胸騒ぎがして跳ね起きた。
――あなたは愛されるために生まれたの……
遠くから子狸たちの歌声が聞こえてくる。
空の彼方に目をやると、虹の橋が消えていくのがかすかに見えた。
その日の夜、お蔦は寮の部屋に掛けた安物のジャケットの内ポケットを探った。あれから一度も来ない鈴木。あの日もらった名刺を確かめようと手を入れた。頼りない手触りに何やろ?と思いながら引っ張り出した。
お蔦の手のひらには、一枚の椎の枯葉が乗っていた。
ポケットというポケットをもう一度ひっくり返したが、何も出て来なかった。
落とすはずはない。内ポケットの奥深く、丁寧にしまったことはちゃんと覚えている。
ジャケットを掛け直すと、今度は腰の辺りが割れるように痛み始めた。あまりの痛さと苦しさに、お蔦はなりふり構わず術を解いた。手ぬぐいを口に咥えて狸の声が漏れないようにするので精一杯だった。
***
お蔦は小さな菓子箱をボストンバッグの底に忍ばせると、田舎の親が倒れたと知らせが来た、と寮長たちに嘘をついてひとり徳島に向かった。
大阪行きの汽車の中で、お蔦は新聞を拾った。
スポーツ面を広げると、鈴木の新球団は、親会社のバックアップが得られず、構想段階で立ち消えになったと報じられていた。
――親方、戻って参りました。
――お蔦。
――親方、お蔦はよう辛抱しきりませんでした。
――ほうか。
――東京には、もう戻りません。申し訳ございません。
――これから、どないする?
――池田に、箸蔵山に戻ります。
――修行は続けるか?
……続けられるのですか?
――当たり前じゃ。まさか、東京で、狸の正体を誰ぞ人間に見られたか?
――いいえ……いや、東京の狸にだけ、見られました……
お蔦は椎の葉の「名刺」を取り出した。金長はそれを一瞥した。
――ほうか。
金長はきせるを取り出すと、雁首にぐいとタバコを詰め、深々と吸った。
池田に戻ると、お蔦はまっすぐ富貴屋の大旦那が眠る墓に詣でた。
墓前で線香を焚くと、お蔦は両手を合わせて目をつぶった。
金長の前でさえもこぼさなかった涙が、ぽろぽろととめどなくこぼれ落ちた。
……あなたは愛されるために生まれたの……
どこからか、なつかしいカツノお嬢様の歌声がお蔦の耳元をくすぐった。
――あなたは愛されるために生まれたの……
風に乗って、七匹の子狸の愛らしい声が重なり合う。
――あなたがいるから嬉しくて、あなたがいるから温かい……
お蔦は涙で濡れた瞳をもたげ、その歌声にそっと声を合わせた。
箸蔵山の方向に、大きな虹がかかっているのが、くっきりと見えた。
池田のお蔦狸 野栗 @yysh8226
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