池田のお蔦狸 虹の橋(上)

 ふる寂びた立派な墓石、くっきりと刻まれた戒名は、院居士の立派なもの。

 お蔦はタバコの花のかんざしを耳に挿し、墓を丁寧に清めると、長い間手を合わせておった。


 大旦那様。


 急激な社会の変化にもみくちゃにされ、抗う術もなく、ただ徒に借財を重ねては、先祖代々の広大なうだつ屋敷を縦売り横売り裏売りして、その場その場をしのぐしかなかった。そんな若旦那様を案じて案じて、大旦那様は、最後にたった一つ残った狭い家屋の奥座敷で、わしは富貴屋と阿波刻みタバコの行く末をいつまでも見ていくのじゃと、目を見開いたまま息を引き取られた。


 大旦那様、少し頼りないけど野球が上手で、何よりお優しかった若旦那様、そして芳紀十六歳の、いつも桃割髪にこのかんざしを挿しておられた妹のカツノお嬢様。お蔦はみなに本当に良くして頂きました。節句のたびに、お蔦は真っ先に――大旦那様よりも先に――、ご馳走の一番良いところを頂いておりました。


 カツノ様はいつも澄んだ声で、


 ――あなたは愛されるために生まれたの、あなたがいるから嬉しくて、あなたがいるから温かい…


 そんな歌をよう口ずさんでおられました。

 お蔦は、カツノ様ほどうまくはありませんが、時々その歌を口ずさみながら、幸せだった池田富貴屋の日々と、刻みタバコの匂いを思い出しております。


 うちは、狸の変化(へんげ)修行を甘く見ておりました。

 そう、蜂商野球部の練習はもう、言葉にならんほどしんどかった。もう、息が上がるたびに狸の鳴き声が口から漏れそうになり、尻尾が、耳が出そうになることも一再ならずありました。その度に監督に憑いた金長狸の大親方から、犬みたいな声出されん! とノックバットで頭をコツンコツンされたものです。

 この修行は、たった一度でも人間の目の前で狸の正体をさらしてしまうと、文字通り元の木阿弥になってしまいます。そう、まだまだ尻の青い娘狸のうちを、親方はこんなふうに見守り支えて下さったのです。


 監督――親方の仕込みが実を結び、お蔦は東京のプロ野球チームに声をかけられました。徳島を離れて暮らすのは、生まれて初めてです。


 ――わしはもうお前のそばにはおれん。これから、頼るもんもおらんところで、今までにも増して厳しい修行になるが、辛抱できるか?


 ――はい。


 ――辛抱しきれるか?


 ――はい。


 ――お蔦、その言葉、忘れたらあかんぞ。……ただ、どうしても、どないしても辛抱しきらんかったら、そんなことがあったらな、お蔦、すぐに、すぐに徳島にもんてこい。


   ***


 東京に移って一年が経とうとする頃、早春の、けだものにとって何ともくるおしい季節が巡ってきました。


 今までも二月半ばを過ぎる頃から桜の花が咲き乱れる時分まで、うちは毎年名状しがたい、身体の中で何かがふつふつ沸き立つような心もちにおそわれたものです。いつまでも眠れず、夜中にむっくり起き上がって素振りをしたりその辺を走ってみたり、ずっとそんなことをして紛らしてきました。


 その年もそうでした。


 東京は、電気で走る汽車が、大きな駅に次々と入ってきます。街に出ると、ものすごい自動車の数に驚かされます。ほなけんど、うちはルーキーとはいえプロ選手の端くれです。徳島におった時と変わらず、練習に励んでおりました。


 梅のつぼみが膨らみ始める頃、うちは鈴木と名乗るスカウトに出会いました。東京でもう一つ、新しい球団を作るとかなんとか、そんなことで、うちの球団にめぼしい選手がおらんやろかと、と探りを入れてきたのです。


 ぽっと出のルーキーのうちが、どうして鈴木の目に止まったでしょう。


 鈴木はうちを頭のてっぺんから足の先まで何度もじろじろ見つめて、ええ身体やな――そう、東京の言葉やった。どんな言い方しよったやろか? うちは東京の言葉やかしよう話さんきにな。――徳島でええ監督によう仕込んでもろたようやな、試合にはどのぐらい出してもろたんか? と言うてきたんです。うちは、まだ新人ですから、紅白戦だけです、と答えました。


 いやいやそれはもったいない話や。おまはんぐらいの実力があれば、公式戦に出るのはわけないことじゃ、わしが新しい球団のオーナーに掛け合うたるわ、と身体がこそばゆうなることをようけ言われました。


 まあ、近いうちに飯でもいっしょに食いに行かんか、銀座でも新宿でも、ええところに連れていったるから――そない言われて、うちはもう有頂天になっとったんです。


 二月の末、その日はほんまに、冬毛でおったら暑うてかなんぐらい、ぬくいぬくい日でした。鈴木は銀座の柳寿司いう、こぢんまりした店にうちを連れてってくれました。どのネタも狸の大好きなものばかり! おまけにうちは食べ盛りの若者で、大口開けてむしゃむしゃと、無作法も相当あったかと思います。しかし生粋の江戸っ子の大将は、田舎者のうちを見下すどころか、うちのしょうもない話に終始笑顔で耳を傾けてくだすったのです。


 お酒、というのも初めて口にしました。うちは加減も知らず、水やお茶でも飲むように、くいくい杯を重ねました。後年、うちはこのお酒で、うちと一緒になってくれた女房に数え切れん程心配をかけ、恥ずかしい思いをさせました。そして女房には、うちの修行がわやにならんよう、ほんまによう助けてもらいました。


 店を出て、うちは銀座の柳通りを鈴木と歩きました。一足歩くたびにふわり、ふわりと雲の上を歩いているような、何とも言えない心持ちです。ぬくい風が吹いてくるたびに、身体の中がもぞもぞします。


 うちは鈴木と公園のベンチに座りました。そう、きょうびの東京のベンチみたいに、真ん中に仕切りがついとるような風情もへったくれもない代物じゃありません。

 鈴木は、新球団の組織が整ったら、きっとお前を呼び寄せるから、と言ってうちに名刺をくれました。それまでは、今まで通り練習に励め。また会いに来るから、と言いながら。


 夜が更けて、鈴木はそろそろ行くか、と立ち上がりました――



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