10年後

 空が明るくなりかけるころ、扉が開いて、人影がひとつ、乱暴に外に蹴り出される。

 悪態をついて立ち上がり、扉に殴りかかる……ふりをする。こっちを向くと顔が確認できる。たしかにあの男だ。十年ぶりに目にする、しかし十年ぶりとは思えないほどひどくやつれている。みじめなほどに。

 さいごに目にしたとき、あいつは荒れ狂う炎のなかを、かんだかい声をあげながら逃げまわっていた。

 すでに始発の時間は過ぎているのに、駅には向かわず、狭い路地の、さらに窮屈な奥へ、這うように進んでいく。暗いなかで見えなかったのだろう、壁ぎわに積み上げられたビールのケースを突き崩してしまい、盛大な音をたてる。ねこが非難がましい声をあげて走り去る。頭上で窓が叩きつけられるように開き、怒声が降ってくる。舌打ちして、しかしにらみ返す度胸はない。

 路地を抜けると分厚く垂れこめた雲の下に、コンクリートで護岸された灰色の運河が音もなく流れている。おぼつかない足取りできれいに舗装された新しい遊歩道に上がると、川べりの手すりにしがみつく。川面に身を乗り出して、吐く。

 ぜんぶ水のなかに落とすつもりだったのに、どういうわけか狙いがそれて(どういうつもりだったにしろ、もともと狙っていないも同然だった)、ズボンの膝にぶちまけてしまう。汚れて肌にへばりついたズボンを呆然と見下ろす。もしここに、けっきょく籍を入れたかどうかもわからない、あのなにをするにも煮え切らない女がいたとしたら、ぜんぶ彼女のせいにして、まともに立っていられなくなるまでひっぱたいたことだろう。それは、もう顔もおぼえていない、生意気でいつも父親に歯向かってばかりいた娘にしても同じことだ。

 しかしいまはひとりきりだ。身体の向きを変え、手すりにもたれかかるとそのまま滑り落ちるように地面にへたりこむ。昇ったばかりの太陽が、雲のすきまからその顔を照らす。削げた頬に薄笑いを浮かべた、このうえなくみじめな顔。

 まったく、あの男にふさわしい。

 まだ気づかない。目のまえ、数メートルのところに立っても、光の加減でそこらへんだけ影が濃くなっているくらいしか思わない。音もなく近づく。これにはぎょっとしたらしく、だらしなく弛緩していたまぶたが大きく開かれる。

 迷彩を解除した。

 男の目が大きく見開かれた。

 だれだかわかっただろうか。頭の悪い家庭内独裁者に、この現実がはたして理解できるだろうか。十歳の子どもにとって、十年の歳月は長い。ずっとこの惑星で暮らしていたとしても、二十歳になったかつて十歳の娘は、ちょっと見たくらいじゃだれだかわからないだろう。こことはぜんぜんちがう環境で生きてきたのならなおさらだ。

 男は見つめた。まじまじと見つめた。その顔に浮かんでいた大きな疑問符が、やがて感嘆符に変わった。男は理解した。その顔はいまにもこう叫びだしそうだった。

 まさか! 信じられない!

 いや、そうじゃない。男はこう叫ぼうとしていた。

 うわっ、助けてくれ!

 反射的に逃げ出そうとする肩をつかまえて、身体を反転させると、正面から手すりに叩きつけた。ちょっと力のかげんをまちがえて(こんなに重力の弱い惑星はひさしぶりだ)、鋳鉄製の手すりがたわみ、肋骨が潰れるささやくような音が響いた。男の口から、うめき声といっしょに血しぶきが飛び散った。逃げ出そうとむだにもがく顔に後ろから顔を近づけた。

「この惑星の表層をぜんぶ削り取って、兵器プラントを建設する。このあたりじゃちょっと見ない大規模な事業だ」

 男は首をひねって女を見つめた。まじまじと見つめた。女が笑った。唇がそのかたちに変わったのだから、笑ったのはわかる。どうして笑ったかはわからない。

 女がつづける。「おまえたち在来種は、すべて資源だ。一頭残らず回収して再利用する。抵抗してもむだだね、あんたらのレベルじゃね」

 男にはまだなんの話なのかわからない。のどが潰れたようなだみ声、長いあいだ外国ででも暮らしていたのか、奇妙なイントネーションがある。聞きおぼえがあるような声だった。顔もなんだか……見たことがある? ような気がする。いや、ちがう。そんなはずがない。もしほんとうにそうだとしたら、男はいま、死人と話していることになる。だってあいつは死んだじゃないか。爆弾が落ちたような大爆発のなか、あんなちびすけが生き残れるわけがない。あいつは死んだ……のに、死んだあとも年をとりつづけて、いまごろになって化けて出たというのか。お盆でも命日でもないのに。墓すら建てていないのに(位牌はあいつの母親の女が出ていくとき持っていった。それがいまどこにあるのか、そもそもあの女が生きているのか死んでいるのかも、男は知らないし関心もない)。だいたいこのイントネーションはいったいなんだ。こいつはどこの国からやってきたんだ。どこの……星にある国から。

 背中を押さえつける強靭な腕(これが女の腕力か? これが? この女はプロレスラーなのか? 彼は驚きを隠せない)から逃れようともがいたひょうしに、女の脚が目に入った。見たこともないブーツに覆われた脚、ブーツというよりはまるで不気味な甲殻類だった。踵に生えたかぎ爪が退屈そうに地面のアスファルトを引っかいていた。一列に並ぶ小さな穴が、ぐっすりと眠る子どもの口のように、開いたり閉じたりしていた。

 女がもういちど、容赦ない力で手すりに叩きつけた。今回はたわむだけじゃなく、手すりを固定している足元のコンクリートが音をたてて砕けた。男の身体が傾き……無視できないくらい大きく傾いて、うなりながら流れる灰色の水面にいまにも落ちそうになった。

 悲鳴をあげた。声は出なかった。口のなかに残っていたげろと血のかたまりが、目のまえの水面に吸いこまれるように落ちるのを見つめた。

 女はやすやすと彼の身体を引き戻した。

「それもクライアントが決めることだ。現物を見てから決めるんだってさ」

 女の顔を見上げた……女も見おろしていた。十年ぶりに目があった。食卓で、ファミレスの駐車場で、男を見たのとまったく変わらない目つきだった。感動の再会だった。

 女はせせら笑った。こんなのはちょっとした冗談にすぎない。この十年、父親とか母親とか、父親ぶりたがるゲス野郎とかを忘れたことはあっても、隼人のことは忘れたことがない。しかし、それとこれとはぜんぜん関係がない。

 背後をふりかえり、叫んだ。

「シゲヲ、こいつを連れてきな!」

 女の背後でなにかが動くのを見たように思った。おおむね人のかたちをした、巨大な影のかたまりに見えた。あれも知っている。あれにも見覚えがある。あれとこの女の目つきは、男のなかではわけがたく結びついている。悲鳴にもならないうめきをあげて逃げようとしたら、風が強く吹きつけて、自分が何者で、いまどこにいるのか――どこに連れてこられたのか――ぜんぜんわからなくなった。


おしまい

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宇宙人シゲヲ 片瀬二郎 @kts2r

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