ノックする女

緋雪

9日

 春。転勤辞令が出て、このアパートに越してきた。会社から電車で30分、最寄り駅からは徒歩でも10分程度で着く。その割に家賃がそう高くはなく、少し早めに探し始めたからか、ラッキーだったなと思っていた。


 僕が荷物を運び込んでいると、隣の部屋の人が荷物を出しているところだった。

 あちらも引っ越しだろうか。後で挨拶に行こうと思っていたのだが。


「ここに、入られるんですか?」

年配の女性が聞いてくる。

「ええ。そちらも、お引っ越しですか?」

「ええ……まあ」

どこか言葉を濁したような気がしたが、

「息子の転勤で。私は手伝いにきただけなので」

女性はそう言って笑ったので、気のせいだろう。

「皆さん、春は忙しいですね」

「そうですね。じゃ、失礼します」

会釈をして、忙しそうに、彼女は部屋に入っていった。



 引っ越しを済ませ、新しい職場の同僚の名前をやっと全員覚えた頃の、ある夜のことだった。


 トントン


 隣の部屋をノックする音。

 そんなに古いアパートではない。どこの部屋にもドアのチャイムはついているはずだが。


 トントン


 ノックの音は、更に3回ほど聞こえてきた。

 隣の部屋は、前の人が引っ越した後、まだ誰も入っていないはずだ。前の人の知り合いか誰かが、それを知らずにノックしているのだろうか?


 僕は、ドアを開けて外を見た。


 隣の部屋の前には、綺麗な女の人が立っていた。

 少し茶色がかったストレートの長い髪、色白で、白いワンピースを着ている。


「あの……、お隣さんなら、引っ越しましたけど」

僕が、玄関から体半分だけ出して言うと、彼女は僕に気付いて、

「あ、そうなんですか……。すみません。知らなくて」

と、申し訳無さそうに言って、お辞儀をして去って行った。


 そうか、やっぱり隣の人の知り合いだったのか。引っ越したことを報せなかったということは、別れた彼女とかだったりしてな。チャイムじゃなくてノックというのが解せないが、何かの合図だったのかもしれない。


「綺麗な人だったな」

生まれてこの方、モテたことなどない僕にとっては、あんな美人と別れようと思う元隣人の気がしれなかったが、

「ま、容姿の問題じゃないだろうからな」

所詮他人事だと笑った。



 トントン


 1ヶ月ほどして、ノックの音がまた聞こえた。また隣の部屋だ。

 隣の部屋は、チャイムが壊れていたんだろうか? だから、こう何度も人が訪ねてきては、ノックをするのかもしれない。


 トントン


 まただ。仕方ない。出るか。

 僕は、自室のドアを開けて、ギョッとした。

 前にノックをしていた女の人がそこに立っていたからだ。


「あの……。お隣の人なら引っ越したと……」

僕が言うと、彼女は僕に気がついて、お辞儀をした。

「そうですか。すみませんでした」

そして、階段を降り、去って行った。




「顔色が良くないですよ。最近疲れてるんですか?」

会社の後輩が声をかけてきたのは、8月初めのことだった。

「疲れてる……疲れてるっていうかな……」

僕は答える。そしてカレンダーに目をやる。

「お前、9日の夜、空いてるか?」

後輩は、自分のスマホでスケジュールを確認し、

「ああ、飲み、ですか? いいですよ。どうせ次の日休みだし」

「家飲みでもいいか?」

「家飲み? いいですけど……何か相談事でも?」

「相談事っていうか……、まあ、来てくれよ」

「訳アリ、ですかね。いいですよ。行きます」



 9日の夜、後輩がやって来た。

「いい所見つけましたよねー。こんな近くで、こんな広くて綺麗な部屋なんて、先輩ついてるじゃないですか。」

「ついてる……か。」

僕はボソッと呟く。

「何ですか、元気ないなあ。まあ、飲みましょうよ。駅前で焼き鳥も仕入れてきましたし」


 後輩が来てくれたことで、少し気持ちがラクになり、笑いながら、上司への愚痴や失敗談などをしていた。


 トントン


 まただ。


「先輩?」

「聞こえた?」

「ええ。ノックしてますね。隣かな?」


 トントン


「隣の部屋、住人いないんだよな」

「えっ?」

「引っ越してって、空き部屋のままなんだよ」


 トントン


「教えてあげた方がいいんじゃないです?」

「……」

「俺、行ってきましょうか?」

「いいか?」


 僕が頼むと、後輩は外を見に行った。

「あの、その部屋、誰もいないらしいですよ。……ええ。いや、ええ、ええ、こちらには住んでますけど、その部屋は空き部屋だそうです」

なんだか長く話しているのが聞こえてくる。

「もしかして彼氏さんとかです? あ。そうなんだ、すみません。いやいや酷いですね。急に引っ越すとか。ええ、ええ。全然です。大丈夫です。お気をつけて〜」


 バタン


 後輩が帰ってきた。

「めっちゃめちゃきれいな人でしたよ。なんか、ここに住んでた人と仲良かったみたいで、新しい住所告げずに引っ越したとかで……」

「毎月なんだ」

「え?」

「毎月9日になると、隣の部屋がノックされるんだ」

「なんですか、それ? 怖っ!」

「何回、ここにはいない、って言って帰らせても、また次の月の9日に来るんだ」

「ストーカーとかですかね? 引っ越したことも告げてないって言ってたし」

「なんで毎月1回だけ来るんだろう……」

「う〜ん、謎ですねえ」

「俺、何か怖くてさ。毎月9日が近付くと、胃がキリキリ痛むようになって」

僕は正直なところを話した。


「ちなみに、あの人、どんな格好してた?」

「え? ああ。白いワンピース姿でしたよ。真夏にはちょっと暑そうな長袖でしたけど」

「そうか……毎回なんだよな」

「ちょ、ちょっとやめてくださいよ。怖いなあ。お化けって説ですか? だって、あんなにハッキリしてるもんです? 俺、普通に話しましたもん」

「そうなんだよな。普通に話すんだよ」

「やっぱりストーカーなんじゃないですかねえ? 部屋に隠れてると思ってるんじゃ?」

「そうなのかなあ」

「気になるなら、いっそ、警察に相談してみては?」

「警察かあ……」



 警察が、こんな話、相手にしてくれると思わなかったが、意外にもすんなり応じてくれた。その女の人の容姿と、隣の住人の郵便受けに書かれていた名前を言うと、警官二人が顔を見合わせたのだ。もしかして、既に本人がストーカー被害を届けていたのかもしれない。



 警察に通報したことで、ホッとしながら自分の部屋に戻ると、妻が来ていて、料理を作ってくれていた。

「も〜、暫く来ないとこれだもの。ホント、男の人に一人暮らしさせるとダメねえ」

洗濯物は全部室内に干され、ゴミはまとめられている。

「単身赴任してる男の部屋なんて、こんなもんだよ。まあ、俺は、ちょっと人よりそういうの苦手なだけで」

「もう。ちょっとじゃないでしょ。はい、そこの新聞どけて」

妻が料理を運んでくる。

「はい。大好きな八宝菜ね。あと、こっちはエビチリ」

「あ……うん」

いちいち何が大好きって言ったことあったっけな?まあ、好きなんだけど。長いこと一緒にいると、何でもわかるんだなあ。と、妻の観察眼に驚きながら、旨い料理を食べた。


「……毎月9日に?」

「そうなんだ。ストーカーらしくて、警察が今調べてる」

「ふうん。何だか気持ち悪い話ね」

「だろ?」

「でも、それって、女の人側がストーカーなのかな?」

「どういう意味?」

「逆に男側がストーカーで……」

「そこから、どうやって話を持っていくのさ」

二人して笑った。



 翌月の9日。ノックの音は聞こえなかった。はあ……捕まったのかな、あの人。安堵と共に、少し可哀想な気もしていた。

「あの人、捕まったのかな」

妻に言う。

「さあ……。でも、やっとゆっくり眠れるようになるんじゃない?」

僕のワイシャツにアイロンをかけながら言う。

「よし、できた。……ねえ、いいかな?」

「勿論」


 僕は1ヶ月ぶりに妻を抱く。会えない時間がそうさせるのかもしれない。いつもより激しく求めあった。


「じゃ、帰るね。明日の朝、燃えるゴミね。ちゃんと出してよ〜」

「今からじゃなくてもさあ。帰るの、明日でもいいんじゃない?」

僕の体は、まだほてりを覚えている。

「明日、仕事早いから。ごめんね〜」

そう言うと、妻は帰ってしまった。



 翌日の昼休憩中、後輩と一緒に、社食に隣接する休憩室で、コーヒーを飲みながらテレビを観ていた。

 テレビからニュースが流れる。

「去年10月から行方不明になっていた〇〇さん(21)が、△△山の山中で発見されました。暴行され、埋められた形跡があり……」


 息を呑んだ。

 そこに映っていた被害者の顔……

「あの人……ですよね?」

後輩が震える声で言う。

「ひ、人違いじゃないのか?」

「でも、髪の色とか、行方不明になった時に着ていた服装とか……。」

「だって、あんなにハッキリ見たんだぞ? 俺たち。話もしてるのに?」


「……調べによりますと、〇〇さんは、去年10月9日の夜、一人で出かけたところを容疑者に連れ去られ、暴行を受け死亡した模様です。●●容疑者(28)は、〇〇さんにストーカー行為を繰り返しており……」


 後輩と僕は顔を見合わせた。ニュースによれば、今現在、容疑者は、意味不明の言葉を繰り返しており、病院に入院中とのことだった。

「隣の男が……」

「犯人……だったんですかね?」

「そこに……彼女の霊が?ストーカーのところにわざわざ?」

「毎月、ノックをして訪れることで、奴を恐怖に陥れたかったのかもしれませんよ?」

「それだけ恨んでいたってことか」



「でも、そう考えると、不思議な話ですよね。」

「何が?」

「何で、いないとわかった後にもノックし続けたのか?」

「ああ……そうか。そうだな」

「もしかして……彼女の方も好きだったとか。」

「相手はストーカーだぞ?」

「追いかけられなくなった途端、自分が本当は相手のことが好きだったと気付いた、なんて、ない話でもなさそうですが。」

「そんなことあるかなあ」

「それとも……いや、これは、ちょっと怖すぎる想像だからやめましょう」

「何だよ、言えよ。」


「毎回、顔を出して教えてくれる、親切な隣人に恋をした?」


 ゾッとした。


「やめてくれよ。鳥肌立ったぞ、おい。」

「まあ、ノック音も収まったんだし。もう大丈夫じゃないですかね。」

「そうだな。まあ、嫁にも伝えとくよ。気にしてくれてたみたいだし。」


 一瞬の間があった。


「嫁? 誰の?」

「俺のに決まってるだろ。他に誰がいるんだよ。」

「えっ?」

「何だよ?」

「先輩、独身ですよね? つきあってる人、とかです?」

「えっ?」


 そう言えば、妻の顔が思い出せない。当たり前だ。僕は独身で、妻などいないのだ。


 じゃあ、あれは……


「待ってくれ、じゃあ、あれは何なんだ?」

「あれ? とは?」

「掃除も、洗濯も、料理もしていったし……その上……」

そう、その上、その女を僕は抱いたのだ。


 気味が悪いので、月に一度、9日にだけ来るよう頼んだ「妻」を。


「先輩、それって……」

「どうしよう……どうすればいいんだ」

「いや、でも、彼女、見つかったわけじゃないですか。ちゃんと葬式して、皆でお参りして貰えば、成仏するんじゃないですかね。大丈夫ですよ。」

「そうだな。うん。そうだよな。」

僕はそう願った。


 

 後輩と一緒に願った通り、そこから2ヶ月経っても、も来なかった。


「終わったみたいだな」

「良かったですね」



 そう思っていた翌月の9日。


 トントン


 トントン


 トントン



 ……引っ越そうと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ノックする女 緋雪 @hiyuki0714

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説