あの子は死んだ。

西奈 りゆ

空白

その名前を聞いたとき、とっさに顔が浮かばなかった。

親としての憐みの情をこらえきれない母の言葉が重なるにつれ、記憶はぼんやりと像を成していく。


「こんなことって、あっていいのかしら。いくら事故だからって、親御さんはたまらないわよね」


そうだねと返事しながら、音がしないように玄関に座り込む。

ようやく鞄を置けたのは、日付が変わるころのことだった。


彼女との接点は、大学生のときに2年間、同じゼミだっただけ。

特に親しい仲というわけでもなかった。

なのに何でわたしにまで、知らせが回ってきたんだろう。


「里美、喪服持ってたわよね。たしかうち出るとき、持って行ったわよね?」


ああ。そういえばそんなものがあったっけ。3年前祖父が亡くなったときに、慌てて仕立てたやつが。どこにしまったのか。まあ、探せばあるだろう。

曜日感覚を忘れていたわたしに教えられた日付は土曜日で、行けないこともない。


「あなたも仕事ばっかりしてないで、たまには顔見せに来なさいよ。元気でやってるの?」


寝入りばなを起こされて寝ぼけているふうを装って、気のない返事を続けていると、母も時間に思い至ったらしく、その話題はなんとなしに打ち切りになった。


「まあとにかく、あんたも気をつけてね。あんたまでそんなになったら、お母さん死んでも死にきれないわ」


「わかってるって。お焼香には行ってくるから」


そう言うと、安心したのか、母は電話口でため息をついた。



変わってしまうものは、数えきれないほどある。


年齢だったり、容姿だったり、夢だったり、お金だったり、思い出だったり、現実だったり。


新卒で入社したときから、わたしの体重は10㎏以上落ちていた。

最近は、次々わいてくるニキビに悩んでいる。肌はかさかさを通り越して紙やすりのようになってきて、いくら化粧水を塗り込んでも、飢えた屍のように、あっという間に飲み込んでしまう。胃はその反対で、いつからか飲み込むよりも吐き出すことを覚えてしまい、今冷蔵庫で一番スペースをとっているのは、箱買いした安い栄養ドリンクと、申し訳程度の野菜ジュースだ。


冷蔵庫を開けて手にした紙パックに表示された日付が、7日間も前に過ぎていた。

中味をシンクに流すと、血のように真っ赤なトマトの色が、無機質なステンレスの流しに飲み込まれていった。


友人の葬儀。

それで休みは取れるんだろうかと、それだけが気になった。


Fランというわけでもないけれど名前のある大学でもなく、心理学部なんていうつぶしのきかない学部を興味本位で選んでしまったので、わたしの就職活動はひどいありさまだった。友達の中には大学院に進んで臨床心理士を目指す強者つわものもいたけれど、そんな子はごくごく一握りで、大学院を出てやっと受験資格がもらえる、筆記と論述と面接試験をクリアしないとなれない。そして資格を取ってもほとんどが非正規雇用という条件を知ってからもそれを目指す根性なんてなくて、わたしもその一人だった。

彼女は、里中香苗さとなかかなえはどうだったか。

同じゼミだったはずなのに、どうだったのか思い出せない。ということは、わたしのように、進学組ではなかったのだろう。


就労規約にない連日の休日出勤を休んで怒鳴られるのと、

記憶の中でのっぺらぼうの同級生の通夜に出るのと、どちらがいいか。

野菜ジュースの紙パックをゴミ箱に放りながら、そのままコンロの壁に背中を預けた。そのまま流しただけの野菜の匂いが、恨みがましく鼻にまとわりついた。



告別式はこじんまりとしたものだった。

参列者はお世辞にも多いとはいえず、わたしのような年頃の人はほとんどいなくて、中高年の親戚筋だろう人たちが、煙草を吸ったり、部屋の隅で顔を寄せあったりしていた。かすかな違和感を覚えつつも、焼香を済ませた。棺の中の化粧を施された彼女は、生きているわたしよりもよっぽど綺麗な顔をしていた。

ああ、こんな子がいたな。もっと何かを思うべきなんだろうけど、わたしが思ったのは、ただそれだけだった。


母親らしい人がいたので挨拶に行くと、憔悴しきった彼女はそれでも丁寧なお礼を言い、それでもこらえきれなくなったのか、「あの子もあなたみたいな人様に恥ずかしくない子に育てばよかったのに」と、涙を流した。傍らに立つ父親と思しき白髪頭の男性は、そんな妻を支えるわけでも止めるわけでもなく、所在なげに佇んでいた。


言ってしまうと悪いけれど、後味の悪い時間だった。

これではいつも通り職場に缶詰めになっていたほうが、まだよかったかもしれない。

血の底から響くような泣き声の代わりに、白い目と、いつもの怒鳴り声を聞いていればいいだけなのだから。


歩道橋を渡っていると、不意に足元に浮かぶ車のライトが近くなった。

赤、白、黄色。どの花みても、きれいだな。なんだか、夜に足元をすくわれそうだ。


「事故傾性」。直接の自死に至るまでに、予期せぬ事故や怪我など、非意図的な健康を損なう事象に遭遇しやすくなるケースがあると学部の講義で聴いたことを、不意に思い出して、ぞっとした。それは完全に、呪いじゃないかと。


足をしめつけるパンプスを早く脱ぎたくて、足早に歩道橋を下る。

家への道を辿ろうとして、少し離れたところにあるコンビニが目に留まった。

シンクに流した野菜ジュースが、そういえば最後の一本だったことを思い出した。

べつにどこでもよかったのだけど、家からコンビニまでは近くも遠くもない。

なら、ここで済ませてさっさと帰ろう。

改造エンジンの音を響かせて傍らを通り過ぎるバイクを見送って、ぼんやりと足を進める。

眩しすぎる自動ドアがあと数歩のところになった、そのときだった。


「痛っ!」


不意にかくんと膝がわらって、ひじとひざこぞうを思いっきりすりむいてしまった。

破れた服の裂け目からは、血が滲みはじめていた。

思わず、舌打ちがもれる。誰に、何に対して?

わからないけれど、痛みと同時に、黒い感情がぶくぶくとあぶくだってくる。

なんでわたしは、なんで・・・・・・。


「あの、大丈夫ですか?」


振り向くと、逆光で顔が見えにくいけれど、黒い服装の女性が立っていた。

黒い服装・・・・・・いや、ちがう。あれは、喪服だ。


「香苗の式に、来てくださった方ですよね」


こちらの顔色を読み取ったのか、女性は手短に「姉です」と名乗った。

慌てて立ち上がり、お悔やみ申し上げますと、定型の言葉を口にする。

今の今まで、顔どころか名前すらも忘れていたのに。

お姉さんは、式の間に買い出しに出てきたという。

流れで一緒にコンビニに行くことになり、「ちょっと待っていてください」という彼女は、数分で出てきた。飲み物がたくさん入った袋の中化から絆創膏を取り出し、わたしに手渡す。

すぐに財布を出そうとすると、「せっかく起こしいただいたんですから」と、やんわり断られた。明かりに照らされたのは、ロングのストレートに縁どられた、柔和な笑みだった。


「貼りましょうか?」


彼女―――、香苗さんのお姉さんが言った。

え、と訊き返すと、お姉さんはわたしの肘を指さして「血が出てます」と言った。

ひざはともかく、肘はたしかに貼りにくい。でも、ひと様に頼むのもどうかと思っていると、「失礼しますね。染みるでしょうけど」と、曲げた肘に取り出した水のペットボトルを当てていた。砂粒が流れたそこを、ハンカチで丁寧に拭う。


「ごめんなさい、お服、濡らしちゃいました」


「いえ、こちらこそご親切に・・・・・・」


細い指先の中で半分に割られる絆創膏のシートを見ながら言うと、お姉さんはつぶやくように言った。


「知っていたんです。あの子が、苦しんでいること」


それは車の音にかき消されそうな、静かで小さな声だった。


「知っていたんです」


何も言うことができなかったし、彼女もそれ以上何も言わなかった。

コンビニのドアが開閉する音と、そこから洩れる流行はやりの音楽が、時折耳をかすめた。


「どうか、お気をつけて」


わたしの顔を見て一瞬微笑んだ彼女は、きびすを返して歩いていき、光と闇の間に浮かんでは消えた。


貼られた絆創膏を、じっと見る。

わたしは、気づいていたんだろうか。いや、ずっと気づいていた。


自分が傷ついていることを。もうとうに、限界を超えてしまったことを。

平気なんかじゃない。ただ、麻痺していただけだということを。


ゼミでの彼女の光景が、遅れて脳裏に浮かんだ。

被害者支援の研究がしたいという彼女に対し、学部生の研究テーマにしては重すぎる、倫理的にも責任が取れないと、教授は許可しなかった。

彼女は何度もゼミでたくさんのアイデアを出し、そして姿を見せなくなった。

わたしは、もしかするとわたしたちは、彼女のことをそれきり忘れてしまった。


「なんとかなるよ」

1度だけ声をかけたとき、彼女は力なく笑った。


頬をつたうこの涙は、いったい誰のためのものなんだろう。


問いかけても返事なんてどこにもなくて、それはもうどこからも返ってくるものではなくて。

わたしは残った絆創膏をひざがしらに張りつけて、破れた黒の裂け目をずっと見つめていた。

どこからか飛んできた桜の花びらが、哀しい春の訪れを告げていた。



























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あの子は死んだ。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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