5月4日、あるいはみどりの日
武江成緒
5月4日、あるいはみどりの日
「みどりがおらんようなったのは、天長節のことじゃったなぁ」
茶粥と豆腐、とろみをつけた味噌汁という朝食をおえて半時間ほどたったころ。
ベッドの上部を背上げして、体をすこし起こしたままの曾祖母が、誰にむかって言うともなしにつぶやいた。
その目のさきは東にひらいた窓のむこう。
すっかり新緑色にそまった裏山が、そのこんもりした小さな体に五月初旬の朝日をあびて、のんびりとうずくまっている。
「天長節のことじゃった」
曾祖母はまたつぶやいた。
「天長節」が「天皇誕生日」になって、さらに「みどりの日」に変わり、その名を5月4日にゆずって「昭和の日」と呼ばれるようになったのだと。そういうことは、白寿をむかえる曾祖母の頭に残っていないように見えた。
だからこそ、八十五年ものむかしに妹に会えなくなったそのことを、数年前のことのようにつぶやくのかも知れなかった。
「お
誕生日にお祝いするのが近代式じゃて、そげに言うて、毎年毎年、うちとみどりの誕生日にご馳走ださせて祝いよったわ」
曾祖母の幼いころの時代には、正月祝いにひとつ歳をふやしてゆく“数え年”が一般的だとなにかで読んだことがあった。
曾祖母の父は当時の例外だったらしいということだ。
五月四日が誕生日。
今よりはるかに重みのあった天長節のお祝いの、その五日後に、自分の誕生祝いがくる。
みどりちゃんはそれが自慢であったらしく、四月の終わりが近づくと、毎年、はしゃいでいたらしい。
それが断ち切られたのが、六歳の誕生祝いを迎える直前だった。
「さすがになぁ。大恐慌じゃて言うてから、あれで何年目じゃったか。
おまけにあれの前の年なぁ、大陸で事変じゃ言うて。もう一年近くじゃったわ。
なんぼう変わりもんのお
しかしまだ六歳の子に、そんな事情がわかるはずもなく。
子供らしい純粋な
「誰もなぁ、そないに心配してんかった。
こまいお山じゃし、先祖代々うちの神さんが居てられる、言うて」
神様の存在はともかくとして、その、こまいお山のふもとには、人の知らない古くて深い井戸があった。
はるかに昔に忘れ去られて、新緑に生いしげった
「近所の人らも警察も、総出で底をさろうて、さろうてしたもんじゃがなぁ。
そもそも底へ届かんのじゃから、
ああいうんを、底なし穴、言うんかなぁ」
井戸のなかへと明かりをむけれど、縄をたらせど、底へと届く気配すらなく。
みどりちゃんは六歳の誕生祝いを迎えることなく、暗い、くらい、穴の底へと姿を消したということだ。
「いつの間にかなぁ、五月の四日を、国民の休日て呼ぶようなったけんどなぁ。
うちにしたら、みどりの誕生日のことしか思いだせんわぁ」
―――
――― 「みどりの日」って言うんだよ。
そう告げようかと思ったけれど、話が伸びると困るから口をつぐんでおくことにした。
これ以上、曾祖母に時間をあまりとられたくなかった。
三十分後か、それまでには家を出たい。
口をつぐんだおかげあってか、曾祖母はやがてまどろみ始めた。
背下げしたベッドのうえで五月の風になでられて眠る曾祖母の安眠を確認すると、私は台所へとむかった。
窓から見えた新緑の山、曾祖母が語ったお山まではうちからそんなに遠くない。
六歳になるちいさな子供が走っていける、せいぜいそのぐらいの距離だ。
ケーキを入れたバスケットをかかえながら進んでも、揺らしてしまう心配もなく、ほどなく井戸のそばまで着ける。
底なし穴と、曾祖母が呼んだその穴から、みどりちゃんは顔を出して待っていた。
正確には“顔”と呼ぶのかどうか、わからないが。
八十五年ものあいだに、井戸の底からふくれあがり、伸びきって、この五月の光と新緑のかおりにさそわれるように膨張したそのみどりいろの姿の、どこまでが頭なのか、そもそも頭と呼んでいい部位なのか、もはやそれすらわからない。
わからないが、井戸の外へとはみ出したみどりいろの部分じっと見ていると、顔の
少なくとも、私のかかえるバスケットに興味と嬉しげな気配をみせているのは感じられる。
バスケットのふたを開いてバースデーケーキの姿を示してやる。
ローソクの火は怖がるようだし、そもそも息を吹きかけることができないようなので、バースデーケーキとしては物足りない気もしないでもないが、その代わりに誕生日の歌をうたってあげる。
こころなしか、みどりいろの体色を微妙にゆらめかせてくれる気がする。
ケーキをざっくり八つに切って、一片ずつをトングでつかんで投げてやる。
体表にしわを作り、ケーキをつつんで体のなかへと吸収してゆくみどりちゃんは、ますます肉体をふくれあがらせ、触手というか枝葉というか、そんなものを
5月4日、あるいはみどりの日 武江成緒 @kamorun2018
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