Blue Giantになれなくて ファーストセット

中岡マサユキ

第1話 希 ボーカリスト

ライブハウスの重いドアを開ける時、希は今でも一瞬緊張する。一人でも客がいて欲しい。

ジャズボーカルの客の入りはいつも不安定だ。ファーストに誰も来なくてステージが飛んだ事もはいくらもある。ピアニストに集客のなさをやんわりとだが皮肉をこめて言われる。集客がボーカルの仕事だなんて決まっている訳ではないけれど。そんな日は店からは雀の涙ほどのギャラしか出ない。実力だ と言ってしまえばそれまでだ。ボーカルの世界での実力と言うのは歌だけではない。容姿も愛嬌もそしてジェンダー訴求すらも ありだ。希もそれがおかしいと思うわけでもない。プロの技量は紙一重なのだから。希も歌ばかりではなくビジュアルも特に意識しなくても目立つ。ただ、ここが一番の課題と自分でもわかっているのだが女としての訴求は苦手だ。高校生の頃からずっとショートカットで通して来たし服もナチュラル系の地味なものばかり着ている。イメージがずっと変わらないまま生きて来た。今更 と言う思いもある。

小さな頃から歌には自信があった。ただ他の子と少しばかり違っていた。ちょっと可愛い同世代の友達はアイドルグループに憧れて、この世代にありがちだが、オーディションに応募したりしていたが、希は違っていた。幼稚園から二年生まで親について海外にいた事もあって、聴くのはカーペンターズと言った英語の曲が多かった。中学に上がってもそれは変わらなかったが、その頃初めてジャズと言うジャンルの存在を知るようになった。エラのようなスタンダードをまずは聴き始めその魂に響く歌声を聴いて感動した。ジャズの話をしても周りの子はほとんど関心を示さない。女子高には全国レベルの合唱部があったので歌の練習は欠かさなかったが直接ジャズに触れる機会はほとんど無く過ごした。上京して大学に入ってもジャズを聴くのは好きだったがインストが中心のジャズ研にはあまり馴染まず、ポップスをやる軽めのサークルに入って歌ったりして、それはそれで楽しかった。卒業して就職はホテルを選んだ。特に何か目標があった訳ではなくて英語を使う機会もあるしそのうち結婚でもすればよいか くらいに思っていた。研修も終わり、レセプションの見習いを始めた。ホテルの1日は慌ただしくて、それなりに充実していた。たまに、ラウンジに女性ジャズピアニストが弾きに来て、それが聞こえて来る。どれも聞き慣れたスタンダードばかりで希も思わず口づさんでしまう。

社会人になって大きな違いはやはり金銭面での圧倒的な自由度である。学生時代別に何か不自由した訳ではないが、今は自分で稼いだお金なので何に使っても誰からも文句を言われない。ホテルの近くに幾つかジャズのライブを演っているお店があった。そのうち一つはママが元ボーカルで今も時々ステージに上がる。希は、会社の帰りに寄ってみる事にした。音大出身だと言う歌い手がピアノの伴奏で歌っていた。とても澄んだ声で心を奪われた。それまでCDを通してしかジャズを聴いた事がなくて生の演奏はCDとはまるで別世界だ。観客へのアイコンタクト、そして歌に合わせ揺れるれ手先まで、そこはもう立派なステージだ。観客はとりわけシンガーに釘付けなのだ。

ある時そのお店で、たまにセッションをやっている事を知った。希は思いきって参加してみた。プロを目指している人も何人かいるらしく凄く気合いが入っている。自分の音域、どの様なテンポ、リズムで歌えば良いのかすら知らない。まずは、自分なりに少しばかり歌えるTea for twoをおそるおそる歌ってみた、ピアノが入ってジャズを歌うのも初めてだ。合唱ともバンドとも違う、ただ自分がステージの中心にいる様でとて気持ちが良かった。

「貴方の声は素敵よ。なによりその笑顔は皆んなを幸せにしそう」半分お世辞だろうが嬉しかった。「あなたの様な声はGifted だわ。後は間合いと最後をどう終わるかと言った技術だけ。是非個別に教えたいわ」店のママでもある先生が、ボーカルでいろいろ賞も取っている事は習い始めた後で知った。レッスンを受けてみようと思った。もう仕事にも慣れた頃で、ホテルの1日が少し単調に感じられた時だった。レッスンは、とても楽しみだった。簡単なボイトレをした後、自分の好きな曲の楽譜を持ち寄ってピアノの伴奏で歌ってから、講評してもらう。少し自信がついた頃に別のお店で先生のライブに誘われた。セカンドセットも終盤にさしかかった頃、突然先生がMCで笑みを浮かべながら「わたしの歌もそろそろ聴き飽きて来た頃でしょう。ここでもっと若い子に歌ってもらいますね。ボーカル 希さん! 歌はTea for twoです。」突然の指名で心臓がバクバクした。知っている人達の中でセッションするのはやっと慣れて来たが誰も知らないこんな沢山の客を前に歌うのは初めてだ。ピアニストに小声でテンポを伝えて歌い始めた。一旦歌い始めると、全てを忘れて歌だけに集中できた。そして歌い終わると想像したことのないほどの拍手を貰った。それから先生の紹介でいくつかのライブハウスで歌う様になった。あの最初にTea for Twoを歌う事になったお店のママにも気に入られてレギュラーに入れてもらえるようになった。

ホテルに勤めている事は黙っていたのでNozomi という名で歌い続けた。ホテルの最寄りはちょっと気がひけるので出来るだけ避けた。そうやって2年もやっていると自然とお客様がついて、必ずNozomi のライブに顔を出してくれる人が何人かいてたまにドリンクを奢ってくれる。そう言った時に回りのジャズシンガーの事、歌の事など聞いて勉強になる事も多かった。ホテル勤めに何の不満もなかったし今の生活、勤めながら月に2、3回歌う事で十分だとも思った。今ではレパートリーも増えてNozomiのone ボーカルでライブが出来る様になった。でも、何かどちらも中途半端の様な気がする。その頃アメリカの有名な音大が短期の講座をやっている事を友達のボーカリストから聞いた。音大出身でない事に少し引け目も感じていた希は、思い切って行こうと思った。短期講座と言っても目玉が飛び出るような値段だったが貯金を取り崩して工面した。東海岸だけではもったいなくて途中 西海岸、ニューオーリンズにも滞在しながら「留学」を終えた。アメリカ式で実践的なレッスンは希の様にある程度の実力を持っていると本当に役立った。何よりNative達と日常を過ごす事で自然とジャズの本場がどの様なものか理解出来た気もする。また彼ら、彼女より若いが、の夢も聞けて良かった。平気で将来グラミーを狙うと言うのもアメリカらしい「Big mouse (大きすぎる)」で笑えるが。歌の技術は希より下手だったが、歌に魂が宿っているようで圧倒される。

あっという間のアメリカでの生活を終えて帰国した。そして、留学する前に決めていた様にホテル勤めを辞め完全にボーカルの世界に飛び込んだ。

プロになって店のスケジュールに Nozomi Vo を見ると嬉しいと同時にちょっぴりナーバスになる事もある。集客もステージでのエンターテインメントも全ての責任はボーカルなのだ。理不尽とも思えるが、充分報いられる。一旦、ステージに立った瞬間に観客の目はボーカルに集まるのだから。 

客が少ないステージはやはり空しいが一人でも聴いてくれる人がいれば希は一所懸命歌った。そう その人に刺さればいいのだ。反対に沢山お客さんが入った時でも客が心地よく眠り込んだり、喋ってばかりのグループがいたりして希がいくら一所懸命歌っても ちっとも突き刺さらない。そんな時でも一人でも聴いてくれたらと思いながら歌う。

良く続いたものだ とつくづく思う。結婚したり子供が出来たり地方に帰ったりして一人、また一人とステージを離れ今では同じ世代と言えるのは都内でも数少なくなってしまい、希もいつのまにかこの世界でベテランになっていた。最初にTea for twoを歌った時から、ずっとジャズと言うものを自分自身楽しんで来たからやって来れたんだと思う。毎日歌う事はわくわくする。時々リハでもやらなかった え?と言うアレンジやアドリブをぶつけてくるピアニストもいる。もちろん希の実力を知った上だ。そう言った時にも何事も無かった様に平然と歌い切るのがプロなのだ。

別の道を選ぶ事も出来た。同世代でポップスに進んだり声優に進んだ子がその後人気が出たりもしてる。でも希が選んだのはジャズシンガーだ。後悔は無い。強がりかも知れないが。一つ希が言えるのは自分自身とても幸せで自分の歌で人も幸せにしたいと言う事だ。今がその人にとって不幸でも希望が持てる様に ジャズはそう言う音楽だ と思う。差別を受けていた時、不景気の時、失恋の時 いやそういう時こそジャズが生き生きしていた。

今年の秋にCDを出す。やっとである。長くやって来て一枚だ。でも嬉しい 素直に。そのうち、ボーカルコンテストにも出てみようかな。結果がどうであれ これまでもそしてこれからも前を向いて歌おう。この歌を伝える誰かのために。




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