第5話 健二 ベーシスト
ベーシストは忙しい。リーダーでなくともバンドであれセッションであれしょっちゅうお呼びがかかるので、仕事にあぶれる事は無い。演奏中フロントに立つ事はないが、ずっと演奏しているので軽く弾いている様に見えても体力を使う。ソロの時にはベーシストは精一杯の力を発揮する。時に声をあげたり 体をゆすったり。ほどほどに だ。目立ちすぎたり自己主張が強いと声がかからなくなる因果な職業だ。健二は元々そう言ったタイプではない。背も高くて少しばかり猫背でぼっとつったって演奏している様に見え飄々と弾くと言った方がいい、もっとパーフォマンスをとも言われる。健二の断れない性格もあって、本当に良くお呼びがかかる。他のミュージシャンに人気なのもこの世界で長く演って行くために必要な条件だ。気軽に頼みやすいのだろうトラを頼まれる事も多い。気楽に受けたは良いが結構ライブハウスが遠くてベースを運ぶのが大変だったりもする。ほんのたまに作曲もする。作曲が得意なベーシストは多い。ベーシストがリーダーをするためには作曲するのが手っ取り早い。健二も何曲か作曲して少しづつだがオリジナルでリーダーライブが出来る様にもなった。
いつも聴きに来ている子がいるのは気づいていた。もちろんこれまでも健二には何人かファンと言える人がいた。基本的には孤独なプレーヤーであるジャズミュージシャンにとって生活設計はもちろんの事、常に応援してくれるファンの存在は心の支えになる、それが女であれ男であれ。彼女は静かにそして熱心に彼の演奏を聴いてくれた。いつも左端のコーナーに座って誰よりも と健二は思った。ライブが終演になるといつのまにか消えていて声をかける事もなかったが。
そんなある日だった。終演してベースを片付けようとしていたら「あの このCD にサインいいですか?」ぺこりと頭を下げた彼女がいた。ピアノトリオでサイドで入ったものだったが
「僕で良ければもちろん。名前入れる?」
一瞬躊躇して「じゃあ 菊池で」
「了解っす」と言ってもサインなど滅多にした事はなかったが、慣れたように見せてサインした。彼女の前で背伸びする必要もないのに。
「あの いつも聴きに来てくれてるよね」
少し沈黙の時間が続きそうだったので慌てて「いつも有難う。次回のここでのライブ来月16日だから」とライブ中にも言った事を早口で言って取り繕った。明らかに動揺している。
その次のライブも来てくれて、少しだけ話しが出来た。都内から少し外れた音大でクラシックのフルートをやっている事。ジャズは大学に入ってから聴き出した事、3年生くらいから都内のジャズセッションにも参加する様になって、そこで健二の演奏を知った事など。そうかあそこに居たのか? そういえば だが余り記憶していないのは彼女がグイグイとアピールするタイプではないからなのだろう。
「今度 やっとリーダーのCDを作るんだ。
オリジナルも入ってて、良かったらこれ。感想を聞かせて」と言って楽譜を渡した。
自分でも思わぬ事を口走った。「それと もし再来月4日に時間があったらスタジオに来てほしい」
「どうして?」
余りに唐突な誘いに明らかに戸惑っている。健二もどうして自分がこんな事を言っているのかよくわからない。
「レコーディングに付き合って欲しいんだ。一曲、フルートを入れてみたい曲もあってそれがこれなんだ」
「私の実力も知らないのに?」
「だって馬場のIでやるんなら自信はあるって事ですよね? もちろんレコーディングの前に何回か仲間と一緒にリハはするけど」
「それもつきあえって事ね」と言って笑った。
「まあ そんなところかな 題名はまだなんで 好きにつけてもいいよ」
「じゃあ My dear K でも?」と言って悪戯っぽく笑った。健二は全て見透かされている気がしたがまんざらではなかった。
CDの自分の手売り分がようやくなくなりかけた頃に彩、それが彼女の名前だった、と結婚した。お互い音楽の世界の不安定さがわかっている。が なんとかなるだろう。親の説得には少してこずったがなんとか説得した。
相変わらず「リーダー」以外のライブがほとんどの毎日だ。彩がフルートのレッスンもやっているので二人の生活はなんとかなっている。時たまた大きめの箱でトッププレーヤーに演奏を頼まれる。名前が知られたサックスプレーヤーがニューヨークから来た時も声をかけて貰った。ピアノではなかなかそうはいかない。ちょっと緊張しながら控えめにソロを演ったが、大観衆の拍手もいいものだ。リーダーではないが。
小さな幸せだ とは思う。小さくてもいい、長く続けば とも。もう少ししたら子供もできる。それまでにもう一枚のリーダーアルバムを出そう。子供がいつか自分のために作った曲だと言うことを知る時が来るだろう。
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