第7話 リスナー 

リスナーに名前は無い。ここではKとでもしておこう。Kは自分で演奏したりするわけではないがジャズが好きだ。ジャズが作る空間はどんな種類のジャズであれリスナーとミュージシャンが一体となって創るものだと言うのは一度でもライブハウスに行った事がある人はわかるだろう。

ジャズのリスナーにはあまり若いのはいない、Kも還暦を過ぎもうじき定年だ。プレーヤーは大学を卒業してまもない若手のだったりするので下手をすると孫の歳になってくる。

2ステージで出る出費は結構なものだし時間も4時間近く「拘束」されるので若い人達のライフサイクルには合わない。たまに、ジャズリスナーだと言う上司と一緒に部下とおぼしき若い人達が連れだって来る事もあるが、一回こっきりだろう。ジャズのリスナーはシングルも多い。ずっと独身だったり、バツイチだったり、死別したりといと理由はいろいろだが、ジャズに憩いを求めてライブハウスに足が向く。悪い趣味では無いし、誰もいない部屋に直接戻るのはやはりちょっぴり寂しいものだ。それと、推しが多いとライブだけで月の小遣いの大半が飛んで行く。結果的にジャズライブに来るのは、金遣いが自由な独身が多くなるのだ。Kはと言うと都内に単身赴任なので今は気兼ねなくライブに来れると言うだけだ。

リスナーとミュージシャンの関係は微妙だ。お互い自分を見て欲しいと言う 気持ちはある。もちろん音楽を介しての事なのだが。ミュージシャンは当然リスナーに聴いて貰って評価して欲しいし推しても欲しい。リスナーもファンとして自分が演奏を一生懸命聴いて良き理解者である事を知って欲しい、ファンとして他の誰よりも自分を特別に扱って欲しい気持ちが無いと言えば嘘になる。Kはあまりそう言うタイプではないし前の方に座る事もないがミュージシャンに顔を覚えておいて欲しいと言ったくらいの望みはある。Kが尊敬しているリスナーの一人は、応援しているピアニストのCD作りを支援、もちろん金銭面が大きいのだが、しているのだが、それを誇示するわけでなく、いつもそのピアニストの後ろあたりでニコニコしながら静かに聴いている。まだ大学卒業したてでジャズを始めた頃から応援しているとの事だ。彼女以外のライブではあまり見かけないので一途だ。そうありたい とも思う。

ジャズの典型的なリスナーは3つのカテゴリーがある。一つ目は音楽が好きでジャズをとことん聴くタイプ 二つ目は自分も何か楽器ととかをやって時折セッションなどにも参加するタイプ 最後は特定のミュージシャン、男の場合はたいがい女性をであるが、を熱心に応援するタイプ。もちろん幾つかのタイプを併せ持つ事も多い。

Kはどちらかと言えば一つ目ではあるが、何人かは推しもいる。座るのはたいていお気に入りのライブハウスのはじの席に決めていた。入ったら案内もそこそこに黙ってその席に座る。週によっては3日間同じ席の事もある。演奏によって退屈で眠たくなる事もあるがそれがあらかじめ予想出来ないのがジャズの面白さでもある。ジャズは名曲より名演奏と言うが、そのライブ、その演奏の瞬間なのだ。同じスタンダード曲でもセッションの組み方、編曲によって全く違う曲だ。いわゆる化学反応ってやつだ。またミュージシャン自身のオリジナル曲もこの人がこんな曲も作曲していたのかと新鮮な思いで聴き入る事もある。どのライブを選ぶかはいつも悩む。これは何十年たってもだ。たいがいは ミュージシャンがくれるチラシとライブハウスに置いてあるスケジュール表で翌月の目ぼしいライブを選ぶ。推しのミュージシャンそれと何より心地よいライブハウスの組み合わせで好きなものを選ぶが、特別の日例えばバースデイなども選択の条件になる。たまに当日に「お呼び」がかかる。予約が不調で来て欲しいと言うコールである。今はSNSと言う便利なものがあるので、取り敢えず他のライブと調整してセカンドから と言う事もある。

Kの好きなライブハウスは幾つもあるしどれも好きだが 中でも一番好きなのは新宿にある小さなライブハウスだ。ジャズが元気だった頃からジャズと共に生きて来たママがやっている小さな店だ。駅から近い雑居ビルの4階なのだが不思議と日本でも屈指のミュージシャンが集まる。客も気心の知れた面子が集う。この小さなライブハウスではミュージシャンと客が一体になる。ほんの50cm先で演奏しているのだから当座だ。そんな中でも馴れ馴れしさがなくてほど良い距離感を保っているのがいい。

長くジャズを聴いているとミュージシャンの成長する姿を見ることもある。まだ学生だった頃から密かに応援していた子が今では立派に大きな箱のステージに立つし、ジャズ雑誌の見開きに載りいつかは世界に羽ばたくだろう。心底嬉しいしはずだがなぜだか寂しい。もう自分が応援しなくても沢山のファンがつくだろう。娘をだす父親の気持ちってこんなものかな?娘もいないのに苦笑する。

Kはいつも頭を空っぽににしてジャズを聴く。懸命に聴いて、ついて行くと言うより、ジャズの演奏の海に身を任せると言った方がいいかも知れない。だから良い演奏の時はその曲の波のど真ん中に居るし、そうでもない時は波は周りをただ通り過ぎて行く。そして、聴きながら過去に住んでいた街並み、これまで訪問した街。NYであったりデトロイト、ニューオリンズ、パリ、モントルーが浮かぶ事もある。いろいろ行ったが、もう直ぐで現役を退くKのこれからの人生は明らかに今までより短いしこれまでのようなアップダウンもないだろう。静かにだが、楽しい余生を過ごしてもいいかな とも思う。楽しみだ。

その日もライブを聴きながら走馬灯の様にNYのグリニッチビレッジの景色を思い出した。自分の歩んで来た人生が映っては消えて行きいつしか霞んで行った。聴いた曲、出会った人たち そして 別れた人たち。どれくらいたったろう、まどろんでいた。さっきイントロが始まった曲が知らないうちに終わりに近いづいていた。

その日、Kは先月受けた精密検査の結果を医者から聞いた。「癌ですけど、もう歳だから進行は速くないです。浸潤はまだ分かりませんが焦らず治療して行きましょう」と言われた。

だから今日のこのライブの景色は忘れないだろう。いつかヘミングウェイのキリマンジャロの雪の様に昔を思い出しながらゆっくりと眠りに着く時が来るのだろう。心地よく次の曲

What are you doing the rest of your life?

を聴きながらまたまどろんでいた。




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