第2話 涼太 ピアニスト
今日も歌伴か のそのそとベッドから涼太は起き上がった。まだ昨日の酒が残っていて
頭がぼっとする。歌伴の時はどうしても深酒になりがちで翌日は自己嫌悪になる。
プロミュージシャンになるくらいの人間は人生の何処かで一度くらいは頂点に立った事がある。それがピアノ教室の発表会だろうが全国レベルでの大きなコンクールだろうが。 しかし涼太はまるでそう言ったタイプではない。競争はもともと嫌いだったし得意ではなかった。スポーツとか芸術で必要とされる性格、闘争心と言うものがまるでなかった。向上心がない訳でもないしピアノを弾くのは楽しかったので続いた。だから、そこそこ上手く弾けた。母はヴァイオリニストだ。いや正確には だった。歯科医と結婚して安定を選んだ。涼太には期待して来たから、いつも不甲斐ないと感じている。自分よりずっと出来るのに、才能もあるのになぜコンクールとかに出ないの? ただ、自分自身が音楽家だったから彼に欠けているのが何かもよくわかっている。大学の進路を決める時も特に何も言わなかったのでピアノ科でなく芸大の楽理を選んだ。4年はあっという間だった。卒業しても音大生の進路は限られている。海外の空気を吸うのもいいかな とも思ったが結局、涼太が選んだのは、学生時代にやっていたアルバイトの延長で、ライブハウスとか飲食店でピアノを弾く仕事だった。セッションで知り合った仲間たちからも時折り声をかけられツアーにも誘われたりした。結構楽しかった。とは言えライブだけでは生活は難しいからライブのない昼間は音楽教室のレッスンとか引き受けた。今は小学生よりちょっと余裕のできた女性、定年後の楽しみに始める人もいて結構なお金にはなった。なんの不満もない毎日、週末は毎週何かのセッションもあったし、リハーサルをしたらあっという間に一週間が過ぎて行き、そんな調子で毎月が過ぎ、いつのまにかクリスマスソングを演奏する季節になっていることの繰り返しだ。歌伴をやり出したのは、そんな生活が3年も続いたころだった。そして咲と出会ったのも。その日セッションのあるライブハウスの前にいた女性が入るかどうか躊躇していた。地味な服装だから社会人だろう。若さに任せて向こう水に入る事はないが、諦めたくない。そんな様子が見てとれる。「入る? 俺 今日のセッションのピアノなんだ」
その日の参加者は少なくて 2番目にその子の番が回って来た。初心者 ではない。アルフィーを選んだ段階でそれは分かってた。高音にぶれがない。声のトーンも好みだ。セッションの時は、たいがい自分の曲に精一杯で他の人の演奏には余り興味はないが他のシンガー達も彼女のアルフィーにみんな聴き入っていた。拍手を後にステージから降りて、ママから 「上手だわね何処かに出てるの」と聞かれていた。
「もう一曲どう?」
「今日はもう十分です ジャズのセッションは初めてなんです。ずっとポップスばかりで」
「結構いい感じ 僕がセッションホストなのは来月5日だから」
その日は柄になくセッションの前に彼女が来るかどうか期待した。こんな事初めてだ。それからは、毎月のセッションホストの日が楽しく思える様になった。少しづつ話も聞いた。学生時代ポップスのバンドでボーカルをやっていた事。音楽は諦めたと言うより普通の就職をして音楽は暫くやっていなかった事。「いい年になって」歌を再開した事。ジャズを選んだのもさしたる理由はない事。あの時ドアを開けてくれなかったら諦めていたかも知れない事などだった。涼太はと言うとひと通り紹介はしたが、余り自分の事は喋らなかった。芸大卒である事を伝えると瞬間 尊敬してくれたようだった。
セッションでやった曲数も随分多くなった頃、彼女の顔を見かけなくなった。暫くたって、彼女の名前を何軒かのライブハウスのスケジュール表で見かけるようになった。最初は、新宿近辺の小さな所でやっていたのがメジャーなところにも顔を出す様になった。月日が経ったある日 彼女からメッセージが届いた。
「11/8に銀座Sに出ることになりまして、もしお時間があれば是非、聴きに来ていただければ」
その日は幸いオフだった。Sはステージを囲む様にカウンター席がある。涼太はその後ろの目立たない席に案内してもらってほっとした。
その日Sのステージで咲は輝いていた。衣装はパールホワイトで以前セッションで着ていたようなナチュラルカラーの普段着とは違って眩しかった。歌はセッションに来ていた頃より一段と上手くなっていた。スイングから流れるようなバラードかと思うと軽快なボサノバと曲も多彩だ。そして 最後のMCで
「本日は銀座Sにご来場ありがとうございました。会社員をしていた私がこのステージに立てるなんて夢のようです。少し思い出をお話しします。昔、セッションのあったライブハウスの前で入るのを私は何度も躊躇していました。最後の曲はその時に歌った曲 アルフィーです」
一緒にセッションをしていた頃より歌はもちろんのこと表情、そして仕草が凄く素敵になっていた。すっかりプロのトップシンガーだ。歌い終わると拍手が鳴り止まない。もう手の届かない存在 だと思った。帰り際 彼女は沢山の人達に囲まれて写真を撮っていた彼女をすり抜ける様にしてちょっとだけ会釈をして帰った。目があった。少しだけ微笑んでくれた気がする。でも、もう彼女と住む世界が違う と思った。
時計の針が翌日になった頃 咲からメールが来た「本日は本当にありがとうございました。お顔を見た瞬間嬉しくて。お話しがあまり出来なかったのですが 今度一緒にライブ出来ないでしょうか? 明細はお知らせします。」
誘いは、素直に嬉しかった。「卑屈にはなるまい」と思った。
今日も涼太は歌伴をやる。また、咲のようなボーカルと会えるかも知れないから。
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