煙と望郷

志村麦穂

煙と望郷

「思いがけず、懐かしさに胸がつまされるときがあるんだ」

 サーブされた珈琲から立ち上る、湯気の斜幕を吐息で押し開いたあちら側。独りごつようにして話を差し向けた。店内のジュークボックスから吐き出されるジャズは煙草の煙でくぐもり、喘息気味のシンバルは卑屈な咳を繰り返していた。

 北山通りから一本入った住宅街の一角、錆びに草臥れをレトロに置き換えた店構え。喫茶『琥珀』の閑古鳥はヤニと日焼けで黄ばんだ嘴を、冷めきったモーニングで慰めていた。十年前の週刊誌を脇に、甘ったるさのベタ塗になったナポリタンが延々とフォークに絡んでいるところを何分も眺めている。君は一向に食べ出さないことを知っている。

「同回の、笹生がいうには……、あぁ友達かな笹生、そう。ナショナリズムの押し売りなんだそう。伝統的な日本観を養うための、愛着の教化で。『ふるさと』の世界観を……知ってる? 童謡の。田園畦道、藁ぶき屋根の、住んだこともない田舎風景を懐かしむ、みたいな話。日本の伝統的な故郷観は、文化的に創り出された、擦り込まれた、偽物の郷愁だって」

 脳が錯覚するデジャヴュ。なにも見間違えるのは景色だけに限らない。ときに見覚えのない、親しみ深い感情が肩を寄せることもある。見ず知らずの女に惹かれる、三文ドラマのはじまりみたいな記憶が隣に座っていることだって珍しくない。ぼくの郷愁は背中と肌合わせに立っていて、切実に帰郷を訴えかけている。

「だれにもあると思う。ふとした隙間に、ここじゃないって感覚。思春期特有のセンチじゃなくって、もっと決定的で、根本を取り違えてしまった違和感。正体不明の浮遊みたいな、不連続な、どことはいけないけど断絶を感じる瞬間が……あるんだ」

 感覚を言葉で説明するのは難儀で億劫だ。だから、口数を尽くして差異を埋めようと努力するのに。言葉というのは厄介で、揚げ足取りが得意なひねくれ者だ。言葉を重ねるごとに、少しずつ掛け違っていく。それも言葉の意味に余白があるせい。この正体不明の違和感について、的確な言葉が見当たらない。珈琲の湯気のように、正体の核心を掴ませず、煙に巻く。

「世界が偽物のような気がする、そうでしょう。現実から剥離して漂うときがある。私も同じ症状だわ、原因はわかっているの」


 彼女と出会ったのは八月の頭だった。唐突に道端で引き留められて、声を掛けられた。初対面の彼女は強引で、魅かれなかったといえば嘘になる。

「悪いけど……部活で、そう。他校との試合で知り合ったとかなら、あり得るかもね」

 曰く、ぼくと彼女は故郷を同じくする幼馴染だとか。現在も京都で学舎を共にしているという。ワンマンから眺めた鍋島の風景を呼び起こしても、彼女の顔は浮かんでこない。嘉瀬川、バイパス、田園が流れる。小中高、保育園時代に遡って、友人から他校の連中まで、顔をバルーンのように飛ばしていけども見当たらない。

 名前を思い出せずに愛想笑いしたぼくに、彼女はヨーコと名乗った。知らない名だ。

 彼女はぼくの違和感に共感した。その原因についても物知り顔で語ってみせた。

「納得いってない?」

 変則的なフォーク・ワルツの四本足は絡まって倒れる。

 テーブルを挟んだあちらの彼女は、六本目の指を口に咥えた。墨書きの踊る、飴色の包み紙。薄煙に目を凝らすと、緋色の外箱に、花押にも似た見ず知らずの言葉足らずの落書きらしき。いつかの、以前に、意味を聞いたことがある気がする。そのときには「never knows」と誤魔化された。これも既視感の断片だ。そんな会話はしていないはずだから。

「理屈で説明がつかない感情だから、どうにも。ヨーコの話を聞いていると、あるような気がするから不思議だ。騙りに説得力がある、良いペテンだ」

 こうして彼女と朝から寂れた喫茶で管を巻くのは何度目だろうかと考える。下宿からほど近い『琥珀』にはよく足を運ぶ。人がおらず、ぼんやりと時間を引き延ばすのに向いている。ここでは煙の行方を追っている内に一日が終わる。ぼつぼつと誰かと話していると延々と午後三時のままだ。笹生などは二度寝のモラトリアムだと言い現した。大学の夏季休暇を吐き捨てるなとも、言っていた気がする。

「私たちには帰るべき場所がある」

 ヨーコははっきりと言い切る。

「私たちは偽りの現実に囚われた、ふたりきりの虜囚よ」

 奇妙な女だった。初対面の境目がいつだったか思い出せない。親しくもないくせ、毎日のように『琥珀』で時間を共にしている。女らしさは固く封蝋をされているのに、書き記された情緒が見え透いている。すれ違う肌からは、生皮を剥がした若木の薄荷臭がする。未だに同郷だという彼女のことを知らないままだ。同じ講義をいくつか取っているらしいが、彼女ほど印象に残る人間がいたらすぐに気が付く。ヨーコとの関係性は、見ず知らずの古い馴染みから変化がない。

 いつもこうして、ぼくの思い出せない故郷の話を聞いている。

「私たちはほんの小さな悪戯を犯して、出来心の罪で、ほとぼりが冷めるまではと、出ることにしたんだ」

「まだ、覚えていないかな」

「黄金の穂波が永遠の秋を落して、西陽を染めていた。あそこでは白い仮面を被った衛星が双子の真珠みたく連れ添っていて。朝な夕なに宙で螺旋に円周して遊んでいた。それを地上から、稲籾からこぼれて上に昇る光の粒子が映って空を明るく染め上げていた。双子のどちらかは必ず空にいて、地上へ、空に上った光を返していた。収穫されるまで続く、沈まない斜陽の季節」

 数年ぶりに再会した同級生と思い出話を繰り返すようなもの。通学路の風景や行事で共に汗した思い出。教師の妙な癖を物マネして、共有した昔を呼び水に今の感情を重ねて嵩増ししていく。それが人間らしい和音の奏で方というもの。ぼくとヨーコは肝心の実感を欠いたまま、行為だけを模倣して、昔なじみの真似事をして、フリを重ねる。彼女が語る記憶は自身の空想か、幻想か。どうにも現実世界とはかけ離れた、奇想の様相を呈している。

 要するに偽物だ。ぼくたちはまがい物だとわかりきって、それらしく演じている。

 苔むした山稜が、その曲がった背骨を寝返りの度にこすりつけて変わる地形。星の光を宿した稲が空を照らす。稲作の時期以外はどうかというと、ほの暗い藍の天蓋に覆われている。双子星が銀色の尾を引いて流れ落ち、時折思い出したように涙を流す。双子が泣くのは生き別れてしまった母と姉妹を偲んでのこと。かつて双子は、姉妹らとひとつで、母であったから。彼らは忘れてしまったけれど、失われた体温の名残が今も地上に星の灯りとして残っているのだ。だから、その暖かさを宿している稲の季節は、明るくいられるのだと、子供が寝物語に聞いたお話を、煙に乗せて語られる。

 燻された喉はハスキィな語り口で、決して饒舌さをみせないままに、雨垂れのように訥々と、けれど途切れることなく。彼女の情景描写の言葉は、老いた絵描きが油彩を重ね塗りしていくさまを連想させた。色の掠れた絵筆を何度もカンバスに押し付けることで、少しずつ色づき、ぼやけていた輪郭も時間をかけて浮かび上がってくる。話はまとまりがなくて、描写に連続性はなく、綴られる感情にもとりとめがない。徒然なるままに。お気に召すまま、だそうだ。

 彼女は自分の舌の機嫌を損ねてしまうことを、一等嫌がっていた。だから、舌先の気分屋の並びでしか物事は紡がれない。ぼくはその気まぐれの在処を、夏季休暇中をかけて、知ろうとしている最中らしかった。

「私たちは、ある悪戯を思いついた。退屈を紛らわす名案だった」

 農閑期、田畑を休めている冬の間は天蓋からは深い藍が垂れている。星の灯りがない街はほの暗く、人々は微睡み、やさしい手つきで暖を紡いでいく。旅人たちはその例外で、孤独の病にかかって荒涼とした季節も歩き続ける。子供たちが退屈に起き出して、暗がりに目を慣らして遊んでいたとき。

「ひとりの旅人が私たちの、瞼の重たい、冬の街にやってきた」

 年月の染みこんだ羊皮紙の服をまとった旅人がやってくる。遠くからでもはっきりと知ることができた。苔むした山高帽と腰にぶら提げたカンテラの灯りが揺れる。小さいが紛れもなく星の灯りに違いなかった。

「旅人は不夜の城からやってきた。眠らない街だ。私たちのように稲を作らないから、街の周辺はいつだって夜に閉じられている。夜でも平気なんだ。不夜城には母星の遺骸、一番大きな星の大片があったから。欠片は燃えて、街を真昼の灯りで照らし続けていた。旅人は不眠症に悩まされて、静かな寝床を求めて旅をしていた」

 旅人はカンテラに雪蚕の糸で編まれたレースの覆いを被せて、指先で回した。カンテラの灯りがレースに紡がれた物語の綾を透かして、子供たちをスクリーンに置き換えて情景を魅せる。旅人は即席の幻燈機だと、つまらなそうに零した。旅人の語りモノローグで導かれる不夜城内部の探索。それは星の大片までの道のりを辿っていた。

「街の中心にある、城の天守閣。その尖塔を登り切ったてっぺんに星の燠火はあった。なんてこと、燠火は城主である巨大な蛾――嬢蛾じょうがの尻を温めるのに使われていたのさ。それをみて、私たちは思いついた」

 悪戯を、思いついた。

 星の燠火を盗み出す計画を立てた。まだ冬の間に盗み出して、みんなを驚かせてやろうって算段。これからは冬に退屈せずに、一年中明るいうちに遊び回るための。

 ヨーコの語りがぼくに映って、ありもしない不夜の城下街の光景が、珈琲の水面に浮かんだ。喫茶店の窓の外、アスファルトの熱気にゆだった逃げ水に反射していた。効きの悪い空調の埃くささは、手を繋いで歩き出した荒野の匂いがした。不夜城を探して、ふたり、街を出た。幼い時分の、大きな冒険だった気がする。たしかに、ふたりは大切な思い出を共有しているような錯覚だ。騙りが偽物の思い出を囁いているだけさ。ぼくはそれに耳を貸している。

「嬢蛾は冷え性でさ、近づけ過ぎて尻の和毛を焦がしてしまうときがあった。馬鹿な癖さ。奴が尻を焦がして引っ込んだ隙に、黄金の燃えさしから火種を盗んだ。あのときは爽快だった。世界で一番愉快なふたりだったさ」

 風船が萎むようにヨーコは弱い息を吐いた。

 物語は唐突に終わりを迎える。時計の秒針が歩き始めた。老店主の痰がらみの咳、砂嵐の前兆があるラジオ。飲み乾したティーカップの底に残った澱。現実感が夏の暑さと共に戻りつつある。

「最後にみた故郷の風景を覚えている。燃えていた……秋口の稲穂を思い出させる、黄金色の波。燃え広がる。野火だ。盗んだ星の燠火から広がった。誰かが火をつけた。誰? 私たちだ。野火は故郷を焦がしていった。灯りのためじゃない。遊ぶためでもない。何故? まだ思い出せない」

「忘れてしまったの?」

 いつも不意にお開きになる気配を察して、くすぶり続けていた煙草の火をもみ消した。時間は未だに午後三時を過ぎたあたり。気怠さがまとわりついてくる。

「偽物を本物と思いこまされて、いつの間にか忘れてしまった。私たちの帰るべき故郷のことを。帰る道も見失ってしまった。思い出さなきゃ、帰れない」

 ここじゃないどこか。そういう気持ちを仕舞う場所は見つからない。違和感だけが積み重なって、ぼくという人格の地層を形成している。わかっている。どこか、なんてどこにもないことは。どうにもならない幻想への逃避行はぼくにとって魅力的だった。休暇を利用して羽目を外したり、勤勉に励むよりも、怠惰な午後を選んだ。少しだけおかしな女を言い訳に添えて。そうすれば休み明けに、誰かに話すときも都合がいいと思っただけ。ヨーコは謳歌したモラトリアムの陰翳そのものだった。

「隠しごとがあった」

「なにを隠したの?」

「わからない。けど、思い出さなきゃ、帰れないの。私も、キミも」

 ゆっくりと被りを振る。止まっていた午後が進み始めている、そろそろ帰ろう。

「私たちは囚われているの。偽物の世界観を擦り込まれて……帰らなきゃいけないのに」

 ヨーコは打って変わって悲痛に嘆きだした。ヒステリックは幻想から目を覚ますきっかけになる。どんなに没入していても、ほんのひと欠けで白ける瞬間は訪れる。

「どこにもないよ。そんなもの」

 開きっ放しだったミルクの水差しに蓋を落した。



「ヨーコ? どのヨーコだ」

 休暇明けに講義で顔を合わせた笹生に聞かれて分かったことは、学部内にヨーコはいないということだった。ヨーコという名の生徒はいたが彼女ではなかった。

「つまり、この二か月間、どこの誰とも知れない女に入れ込んでいたわけか。研究室をふけるには三流の口実だな。留年の瀬戸際だろう、来年卒業できんぞ」

「同郷だって言うからさ」

 訝られたけれど、それ以上の事は知らない。自分でも妙な話だと思うわけで。

「鍋島だったか? お前が忘れっぽいだけでなければ、嘘をついてまで貧乏学生を騙す意味も分からないな」

「いや、そっちじゃない……」

 口にして、上手く思い出せないことに気が付いた。ぼくらはどこからやってきたのか。田舎の実家を思い浮かべても居座りが悪い。違和感がざらりとした砂を噛むように、いつまでも残り続ける。懐かしさと、胸を締め付ける寂しさだ。帰らなければ、帰れない、に挟まれる焦燥が喉の奥に張り付いていて。

「どうした?」

 怪訝な顔をした笹生に促され、なんでもないと呑み込む。すぐに忘れ、消化しきれない感情を胃の底に置いたまま日常に戻った。

 ふと、見通しの良い東西の通りに視線をやる。残暑の陽炎がアスファルトに取り残されていた。眩しさに目を細める。黄金色の野火が脳裏に揺れている。じきに秋がやってくる。偽りの現実感の隙間から、斜陽が顔をのぞかせる。

 拭えない。ここが居場所じゃないような。

 どうしようもない食い違いを覚えるのだ。

 薄荷の刺激が、鼻を掠めて、すり抜けて行った。

 いつか帰れるだろうかと思いながら。

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煙と望郷 志村麦穂 @baku-shimura

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