身体の奥に溜め込んでいた薄暗い炎が、見る影もなく姿を消した。

 不思議なものだ。あれだけ長年共に過ごし、もはや唯一の同志とも言えた、やり場のない執着と、果てのない孤独。消えてしまえばもう、自分には何も残らない気がしていたのに。

 ぽっかりと空いたその穴に、甘やかな風が吹き、深い傷跡を潤していく。

 男の腕の中では、極上の女が寝息を立てている。

 夜だ。

 朽ちかけた板壁の隙間から、ひんやりと、月の光が差し込んでいる。

 これからどうなるだろうか。このまま帰さないでいれば、こんな荒ら屋に天の軍勢が攻め込んでくるかもしれない。

 だが、それがどうした。

 三十年だ。この女を手に入れる為に、全てを捨てた。

「銀波」

 暗闇の中、男は天女の名を呟く。

 泉のほとりで出会ったあの日、お前は俺のものだと思った。非力な子どもが身の程も知らず、それを手に入れる為には、この世のあらゆる快楽を放棄せねばならないこともまだ知らず。

 あわい月明かりの中、天女の瞼がぼんやりと開く。

「復讐はもう、よろしいのですね、王子様」

 ――復讐? ああ、そうか。銀波は、俺が母の復讐のために苦行をはじめたと思ったのだろうか。

 はじめて出会ったとき、たしかにそんな話をした。だが、俺は言わなかっただろうか。――お前を手に入れるためには、力をつけるしかないと。

 男は口の端に、自嘲を浮かべた。

 どうせ俺は莫迦な男だ。得られるかわからない女のために、三十年を擲つような。

 その自嘲を愉快な笑いが押し流した。こんなにさっぱりとした気持ちはいつぶりだろう。

「……これからは代わりに、お前がそばにいてくれるのだろう? それなら俺も幸せになれる」

 思いがけぬ男の返答。戸惑いが天女の瞳に波紋をうった。

 だが言葉の意味を察したとたん、はっと口元を覆う。

「――まさかあなたは、わたくしを天から呼び寄せるために――ああ、何と愚かなことを!」

 畏れと驚愕で、天女の声がさざ波のように震えた。

「ああ。俺はただの大莫迦だよ」

 清々しく男は笑った。その顔を見た藍玉石の瞳が揺らぎ、湧水のようにあふれ出す。

 深い夜の底、白い両腕が伸び、男の首に絡みつく。

「来て、わたくしの王子様」

 そうしてふたつの唇は、三十年の時を経て、その夜はじめて重なった。



 ***



 身を焼き尽くすような激しい恋の昔語りに、新米夫婦の頬が染まる。

 吟遊詩人は音色をゆるめ、盲いた両目をふたりに向けた。

「こうして苦行者と天女のあいだにお生まれになったのが、陛下の三代前の国王――つまり陛下の曾祖父君でございます」

 年若い王は、そうか、と驚きの声を上げ、年若い王妃は、まあ、それでは、と大きな瞳を輝かせた。

「あなた様は天女の血を引く尊き家系。そしてこれからあなた様に生まれる御子も」

 王妃は目を円くし、自分の腹に手を当てた。その細やかな手に王の掌が重なる。

 こうして老いた吟遊詩人は、大きな匙のような琵琶を抱え、ふたたび月夜へ去っていった。



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天に背き夕闇、月を抱く 鹿森千世 @CHIYO_NEKOMORI

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