中華料理で構成された朝

秋冬遥夏

中華料理で構成された朝

 ICカード「Gyo-za」をタッチして、中央改札口から駅に入った。Gyo-zaとはつまり、餃子だ。そう、その餃子である。対する改札は、豚の角煮である。豚肉でできた改札に餃子を置くと「ギョーザ!」とかわいい声で鳴る。そうして入ることができるのは、JR千葉駅。いまも県民が多く利用する、いわば主要駅である。

 かくいう僕も、ここで待ち合わせをしている。相手は大学のサークルで知り合った、中華ちゃん。もちろん、あだ名だ。いつもかわいい中華料理に身を包んでいるから、誰もが彼女のことをそう呼ぶ。


 駅の中も、もちろん中華料理で溢れている。温かみを感じるデザインの壁には、春巻きが敷き詰められているし、おしゃれな照明はよく見れば小籠包だ。

 寒天ゼリーでできたエレベーター横を通り過ぎ、駅弁屋「万葉軒」の向かい側、中国コスメをやたら推す薬局で、僕は彼女を見つけた。おまたせ、と駆け寄ると彼女は、レタスのスカートをなびかせて振り返った。

「やっと来たか!」

「ごめん」

「にじゅっぷん、ちこく!」

 そう僕に向ける指先には、麻雀牌のネイル。親指から順に、一萬、二萬、三萬。薬指が、發。小指が、中。少しだけ視線をずらすと、手首にはパンダのブレスレットがしがみついていた。

「今日も、中華だね」

「かわいいでしょ?」

「うん、」

 かわいい、という言葉は気恥ずかしくて、声にならなかった。言えばよかった、という空気だけがふたりを包んだ。

「ほら、行くよ」

「うん」

「はやく、いそいで」

 先を歩いて行ってしまう彼女。耳には、シューマイのイヤリングが揺れている。今日は水族館にサメを見に行く。せかせかと動く彼女の影が、楽しそうに伸びていた。


「まもなく、3番線に当駅止まりの列車が参ります。危ないですから、黄色い点字ブロックより前に、お立ちになってお待ちください」

 足元の点字ブロックはマンゴープリン。これから来る電車は生春巻き。この世が食べものに溢れるようになったのは、6年前にアメリカのUnited Onion社が特殊技術を開発してからのことだった。

 食材をレジンのような透明な液に浸すと、腐らなくなる。それを利用してはじめは「食品アクセサリー」を作り商品化した。海老のイヤリング、うどんのネックレス、クッキーの髪飾り。たくさんの食べものを身につける人が世の中に溢れた。

 その腐らせない技術はフードロスを解消し、当時掲げられていたSDG’sの観点からも大きく評価されるものだった。そのため一気に世界中に浸透し、今ではアクセサリーだけじゃなく、コスメから建築物まであらゆるものが、食品で作られるようになったのだ。


 途中、ドーナツのつり革に手を伸ばす彼女が笑った。

「ななせくん、今日は和食でそろえたんだね」

「うん」

 彼女はにやにやしながら、僕の油揚げブルゾンを引っ張る。ちなみに彼女は「中華ちゃん」の名の通り、洋服もコスメも中華料理しか持っていない。どれも本当にかわいいが、僕のお気に入りは花椒アイシャドウだった。スパイシーな香りのする、その赤いアイシャドウが、自慢の地雷メイクによく似合っていた。

「ねえ、なに見てるの?」

「え、なにが」

「私の顔、じっと見てたじゃん」

「いや、見てないよ」

 彼女は、見てたじゃん、と大きい声で笑った。ほんとは、見てた。そのアイシャドウを一緒に買いに行ったのを思い出していたのだ。あの頃から、僕は週末に彼女と過ごすことだけが、生きがいになっていた。


 そのアイシャドウは、横浜で買った。中華街のあるそこは、中華料理ファッションの発祥地だった。そのときもこうして、ふくらむ気持ちを電車に揺らしていたのを覚えている。

「すごーい、こんなにいっぱいある!」

 香辛料コスメコーナーに着くと、彼女のテンションは最高潮になった。まるで恐竜を見た子どもみたいに目を輝かせる彼女が、愛おしかった。

「ねえ、どれがいいと思う? これが豆板醤レッド、これが五香粉イエロー、でこれが——」

 そういって彼女は、片っ端からアイシャドウを説明した。正直、自分には絵の具の乗ったパレットにしか見えなかったので、直感でラメが入っていて綺麗なものを選んだ。

「これとかは? このピンクのやつ」

「これは花椒ピンクだって、ななせくんはこれがいい?」

「うん」

「じゃあこれにする!」

 さっきまで悩んでいたとは思えないほど、即決だった。僕の意見だけで決めていいのか不安になったが、コスメを手に取る手が楽しそうだったから、いいことにした。

 それから彼女は、迷いなく決めていった。味覇ファンデーション、辣油ティント、シナモン香水。気づけば買い物かごはコスメで溢れている。爆買いするその背中は、リスが冬眠のために木の実を集めてるようにも見えたし、切れた単三電池をゴミ袋に捨ててるようにも見えた。

「買いすぎちゃった」

「いいじゃん、せっかく来たんだし」

「うん、そうだね」

 その後、僕らはレジで金額を見て、笑えない値段だって笑いあって、家に帰った。今でも鮮明に思い出せるほど、刺激的な一日だった。


 その刺激が、今でもそのアイシャドウからは香ってくる。ライトアップされた水槽に浮かぶクラゲを、彼女はじっと見つめている。そんな水槽を映す彼女の瞳もまた、小さな水槽のようだった。

「クラゲも好きなの?」

「うん、好きだよ」

 いつになく真剣な眼差しを向ける彼女。見ているというより、見惚れているって感じだった。

「ずっと見てるね」

「うん」

「どこがそんなに好きなの」

「だって、中華料理で出てくるじゃん」

 うん、確かに。副菜に中華クラゲの和物とかあるね。でも、まさか生きてるクラゲを見て、中華料理のことを考えてるとは思わなかった。

「これ、食べれんの?」

「わかんない、でも食べれるんじゃないの」

「そっか」

「うん」

 このフロアには何種類ものクラゲが泳いでいる。彼女はそれらを片っ端から「美味しそう!」「こいつは小さいから食べ応えない」とか言って、見回っていた。


 そんな調子だからもちろん、次のフロアで大きなサメが暗い水の中から姿を現したときには「フカヒレー!」と言って近寄っていった。

「フカヒレはヒレだから。ちゃんと全身愛してあげなよ」

「私はヒレ目的なの」

「なんだ、ヒレ目的って」

「ヒレ目的は、ヒレ目的だよ」

 そう笑う彼女は楽しそうだった。同じ魚を見ていても、僕と彼女では見えてるものが違う。そう考えると、わくわくした。

「サメにもヒレがいっぱいあるでしょ。中華料理によって使われる部位も違うの」

「なるほど?」

「胸びれがいちばん高級なんだって。調理も難しくて形を保てないからスープとかラーメンに入ってる。背びれとか尾びれは逆に姿煮になるって、雑誌で読んだことある」

 そんな豆知識を聞きながら、いつの間にか僕もヒレ目的でサメを見ていた。しかしジンベエザメ、シュモクザメあたりは、どう考えても食べれる気がしなかった。

「サメ見てたら、お腹空いた」

 急に彼女はそうこぼした。時計を見ると、お昼を過ぎている。たしかにお腹の空く時間だった。

「じゃあ、食べよっか。一階にフードコートがあるみたいだよ。たしか中華もあった気がする」

 もちろん彼女は、中華料理しか食べない。食べもので悩むことがないのは楽だったが、たまにどうしても中華料理店が見つからないこともある。そういった時は仕方なく、洋服を食べることになるのだ。


 過去にも一度だけ、彼女が洋服を食べるのを見たことがある。それは、春のロックフェスに行ったとき。フェス飯と呼ばれる出店に、多くの人が並んでいた。その中にはもちろんラーメンや肉まんといったものはあったが、人気で売り切れてしまったのだ。

「中華料理、ない」

 テントに貼られた『SOLD OUT』という紙を見て、彼女は涙ぐんだ。だったら、となりのローストビーフ丼とか、焼きそばを食べたらいいと感じるが、そういうことじゃないのだ。彼女は中華料理でなければならないのだ。

「会場の外に出て、なんか買ってこようか?」

「ううん、いい」

 遠くの方で、おしゃれなイントロが聴こえる。目の前では、泣いている彼女。太陽が傾いて、影の角度が変わる。

「ななせくんは買ってきていいよ。私は席で待ってるから」

「え、でも」

「いいから、無くなっちゃうから。行ってきて」

 CMかなんかで聞いたことのあるメロディを背に、僕はピザを買いに行った。後にも先にも、彼女の前で中華料理以外のものを買うのは、これが最後だった。


 僕がピザを頬張るとなりで、彼女はビーフンで編まれたニットを食べていた。着色料で春らしいライム色になっているが「しっかりと味がする!」と嬉しそうに笑っていた。

「ななせくん、よくピザなんて食べれるね」

「うん、意外に美味しいよ」

「絶対、うそ」

 虫を見るようにピザを覗く彼女は「食べてみる?」と勧めても、断固拒否といった具合で、自分のビーフンニットを啜っていた。そのとき改めて彼女の中華料理に対する執着を感じた。


 水族館一階のフードコートには、事前に調べた通り、中華料理があった。彼女はにこにこ並び「オニテッポウエビのチリソース定食」を、僕は「海鮮あんかけ焼きそば」を頼んで、席についた。

「すごい、いただきます!」

「いただきます」

 そう両手を合わせてから、ふたりで食べた。美味しくて、飽きなかった。中華料理も、彼女と過ごす日々も、いつも新鮮な刺激があった。

 でもたまに無性にパスタや親子丼が食べたくなることもある。そういうときは、学校帰りとかにひとりで、未成年飲酒のように、こっそり食べるのだ。

「中華ちゃんってさ、中華料理以外を食べたことあるの?」

「あるよ」

「え、あるの?」

「いや、あるでしょ」

 彼女は、私をなんだと思ってるの、と大きな声で笑った。話を聞く限り、彼女の実家ではよく和食が出たらしい。給食のカレーもみんなと一緒に食べていたという。

「じゃあ、なんでいまは中華しか食べないの?」

「それは……」

「それは?」

「そういう占い結果が出たから」

 さっきは水槽のように見えた彼女の目が、いまは水晶玉のように薄く濁っている。

「志賀先生って言うの。結構、当たるって有名な先生なんだよ。ななせくんにも紹介してあげよっか?」

 僕はあんかけ焼きそばを箸でつついて、だいじょうぶ、と返した。正直、突拍子もなくて声も出なかった。

「じゃあ、中華料理が好きってことじゃないの?」

「うん、どちらかと言えば辛いから嫌い」

 彼女にとって中華料理がすごく大きいものだということは知ってた。ただそれは好きだからとかではなくて、信仰心だった。魚の骨が喉に刺さって、その現実が飲み込めなくて、僕は咳き込んでしまった。

「だ、大丈夫?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

「びっくりさせちゃったかな、ごめんね」

「ううん」

 それからは、水族館を回ってもずっと上の空だった。なにか薄い膜のようなもので世界が覆われて、その中をぼんやりと歩いていた。


 あの日以来、彼女との食事が怖くなった。みんな好きなものを食べてると思っていたが、彼女は違う。いま目の前で食べてる青椒肉絲も、運勢のためなのだ。

「実際さ、中華料理を食べて、なにか変わった?」

「変わったよ」

 彼女は真面目な顔で答える。

「なにが変わったの」

「なにって、こうしてななせくんと出会えて、いまデートできてるのも、中華料理のおかげでしょ」

 たしかに、僕が話しかけたときも中華ファッションが取っ掛かりだったし、はじめて一緒食べたものも中華料理だった。思い返せば、彼女との思い出は全て中華料理で構成されている。

「でも僕は、中華ちゃんがイタリアンを食べてても、和食を食べてても、好きになったし、デートしたと思うよ」

 彼女は間髪入れずに言う。

「いや、違うよ」

「そうなの?」

「そう、中華料理があるから、私は幸せになれるの。ビーフンのニット、シューマイのイヤリング。それらが全部、私を不幸から遠ざけてくれてる。そう信じてるの」

 彼女の言う、信じてる、という響きがどうも耳に馴染まなかった。反芻すればするだけ、なにかの呪文のように聞こえた。

「そう、なんだね」

「え、ななせくんは、私が信じてるものを信じてくれないの?」

 彼女は口をとがらせた。目の前では僕の頼んだ麻婆豆腐が冷め始めている。そして僕は、信じてるよ、と言った。占いとか中華料理はわからないけど、僕は彼女を信じている。それは間違いなかった。


 それから少し経ったある日、なぜか失恋をした。深夜にいきなりLINEが来て、中華ちゃんに別れを告げられた。唐突な出来事だった。


中華「ごめん、別れてほしい」

七星「え、どうして」(既読)

中華「それがお互いのためだって」

七星「そうなの?」(既読)

中華「うん」

  「そう思う」

七星「なにか、嫌なことしてたらごめん」(既読)

中華「ううん、そんなことない」

七星「週末のデートはどうする?」(既読)

  「誕プレ買っちゃったけど、渡していい?」

  「よかったら、返信ください」

  「いままでありがとう」


 途中から、既読さえつかなくなった。そして彼女のアカウントは消えた。調べるとSNSも全て消えていて、メールアドレスも返信はなかった。突然、彼女との連絡手段が全部なくなった。

 それだけじゃない。彼女を大学で見なくなった。今までは一緒の授業を受けていたりしたのだが、その授業も全て欠席だった。彼女と仲がよかった未沙さんにも話を聞いたが「私もわかんないの。七星くんなら知ってると思ったけど、違うの?」といった具合で、なにも掴めなかった。


 それっきり、彼女とは何もない。いま僕は、大学を卒業して、地元の市役所の社会福祉課で働いている。休みの日も特にすることもない。その日は早く起きて、炒飯を作って食べた。

 結局、いまも中華料理を食べ続けている。そしてどの料理にも花椒を入れる。彼女のアイシャドウの香りを忘れたくなかったからだ。

「続いては、ハレタンのジャンケンコーナーです!」

 テレビでは若いニュースキャスターが、明るい声を張り上げている。となりの可愛くないゆるキャラがハレタンだ。そいつは、じゃんけんぽん、と言ってパーを出した。僕はチョキを出して負けた。


 その後、少し経って着替えた。ビーフンのニットを着て、レタスのスカートを履いた。誕生日にあげるつもりだった八角のイヤリングと、パンダのブレスレットを着けた。

「続いてのニュースです。今もなお、食材で出来た違法建築の除去作業に追われています」

 ニュースキャスターの声色が変わった。そのニュースも、もう聞き飽きた。かれこれ2年ずっと報道している。僕はいつも通り、聞き流してメイクを始めた。

「United Onion社の技術で作った食材建築の除却、建て替えが進んでいます。その費用は環境省によると約126億に上回ったとのことです」

 顔に下地をして、味覇ファンデーションを塗る。次にイカスミのアイラインを引いて、辣油ティントで紅を落とす。どんどん地雷系メイクが完成する。

 最後にシナモンの香水を首につけて、僕は「彼女」になった。そう、中華ちゃんだ。記憶のなかだけで生きる彼女が、鏡を見ればそこにいる。僕は麻雀ネイルをした人差し指を突き出して、鏡の自分に向かって言った。

「にじゅっぷん、ちこく!」


 2年前、東京スカイツリーが崩壊した。問題はフランスパンで作った鉄筋が腐ったことだった。United Onion社が開発した食材加工技術は、完全でなかった。日本の梅雨に耐えられなかったのだ。

 カーテンを開けると、廃坑と化した千葉県が見渡せる。あそこに見える大きな中華料理の山が、かつての千葉駅だ。家屋も商業施設も、学校もほとんど壊れてしまった。そんな瓦礫に向かってひとつ口笛を吹くと、巨大な上海蟹が出てくる。これが僕の自慢のペット——マーガレットだ。

「マーガレット、乗せてくれる?」

「キュ!」

「ありがとう」

 腰をおろしたマーガレットは、僕が乗ると嬉しそうに爪をカチカチと鳴らした。足もバタバタさせている。

「よし、行こう」

「キュウ!」

 マーガレットは大きな声で鳴いて、走り出した。青空には積乱雲がひとつ浮かび、足元には中華料理が落ちている。春巻きの木材、小籠包の電球、黒ごまプリンのコンクリート。そんな中華料理で構成された朝を、僕らは乗り越えてゆく。

「今日は最高の日だよ。マーガレット」

「キュ?」

 時速80kmで夏を駆けていく。目指すところはひとつ。中華ちゃんのところだ。


 彼女はいま、栃木刑務所にいる。結論を言えば洗脳をされたのだ。占い師を信じ切っていた彼女は、中華料理しか食べなかったし、段々と孤立させられた。憶測ではあるが、その時に僕はフラれたと考えている。

 ある日、SNSのトレンドに『千葉市監禁殺人事件』があがった。その内容は、家庭内虐待を受けて洗脳された家族が、お互いに殺し合ってしまったというもので「令和最悪の事件」と報道されていた。その家族が、中華ちゃん一家だった。

 洗脳をした志賀淳一(24)は死刑判決を、中華ちゃんこと深澤麻理奈(21)は死体遺棄で懲役7年の判決を下された。そして今日、あれから7年。彼女の釈放日なのだ。


 この日を逃したら、もう僕は彼女に会えないかもしれない。大学のときから続く青春が終わらないまま大人になってしまう。そんなバッドエンドじゃ終われない。

「絶対、会いに行くぞ!」

「キュー!」

 この恋は甘酸っぱい。それは苺味とか、そんな安いことじゃなくて、腐っているからだ。一度は終わった恋だけど、諦められなかった。洗脳や占いでも、僕の気持ちまでは腐らなかった。

「僕は、僕は、彼女が好きなんだ!」

「キュー!」

 マーガレットもテンションが上がってるようだ。息も上がって、いつもよりたくさんの泡を吹いていた。


 途中、利根川で水浴びをして、お弁当を食べた。冷やし中華を食べる僕の横で、マーガレットはブラックバスや鯉を捕まえていた。キュウキュウと鳴いて、楽しそうに食べる。それがほんの少し彼女に見えた。

「マーガレット美味しいね」

「キュー」

 魚をむさぼるマーガレットは、食べるのに夢中で生返事をしていた。長旅で疲れも溜まっているのだろう。僕は近寄って足を撫でた。

「キュ、キュイ?」

「ありがとう、マーガレット」

 その後、30分くらい利根川を見て過ごした。僕は昔からなんとなく大きな川に憧れがあった。アニメかドラマかわからないけど、こういう土手をジョギングするシーンを見たことがある。

「そろそろ行かなきゃ、動ける?」

「キュウ!」

「そっか、ありがとう」

 マーガレットはやる気満々だった。腰を下ろしたマーガレットに乗り、僕らはまた走り始めた。水っぽい風が川の匂いを運んでくる。それは僕の心臓を突き抜けて、青空に昇っていくのだった。


 栃木刑務所に着いたのは、10時頃だった。だいだい色のコンクリートが囲む壁にひとつだけ門がついている。僕らは木の影に隠れて、そのときを待っていた。

「どきどきするね」

「キュウ」

「もし出てきたら、見失う前に捕まえよう」

「キュウ」

 夏の匂いがする。この瞬間をずっと待っていたんだ。彼女が刑務所にいる間、その影を追って僕が「中華ちゃん」を演じていた。今日、ホンモノとニセモノが対峙する。

 マーガレットは興奮している。口もとの泡が大きく膨らんだ。青い空を写して、しゃぼん玉のように、大きく大きく膨らんで弾けた、その刹那。


 出てきた。警察官ふたりと、中華ちゃん。僕らは走った。アスファルトを蹴る、上海蟹とニセモノ中華ちゃん。全力だった。汗と彼女への気持ちが、止まらなかった。

「君らは誰だ!」

 そう言って警察官は銃を構える。

「その子の、友だちです」

「60番、そうなのか」

「……いえ」

「待って、中華ちゃん。この洋服に見覚えあるでしょ?」


 僕らはその後、事情を説明して、思い出してもらい、彼女を引き取った。出所したての彼女には中華料理がついてない。化粧もしていない。ただ、間違いなく中華ちゃんだった。

「ありがとう。ごめんなさい」

 マーガレットの上で、彼女は嬉しさと罪悪感で下を向いている。僕は遠くに小さく立つ東京タワーを眺めながら、おかえり、と言った。

「……ただいま」

 彼女の目の水槽には水がいっぱいに溜まって、クラゲが泳ぎやすそうだった。涙をこぼしながら、おまたせ、とこぼす彼女。この時を待ってた。僕は不器用にレタスのスカートをなびかせて、用意されたセリフを口にするのだ。

「やっと来たか、ななねん、ちこく!」


 しばらくして、彼女は笑った。

「なにそれ、ギャグ?」

「うん、そんな感じ」

「……おもしろい」

「ありがとう」

 大学生だった僕たちは、いつの間にか大人になってしまった。それでもいい。僕たちはこれからまた歩き出せる、マーガレットに乗って。

「いま自分が着てる洋服とか、コスメ、よかったらもらってくれない?」

「どうして?」

「これ、昔に君が着てたやつ。ほら、覚えてないかな。このビーフンのニット。いつかの春フェスで食べてたの」

 数秒間、上を向いて彼女は、あー確かこんなの着てたか、と笑った。

「フリマアプリで一式揃えたの。あとこれ」

 そう言って僕は、八角のイヤリングを見せた。いつかの誕生日に渡し忘れたものだ。

「なにこれ?」

「誕生日プレゼント。7年前のだけど」

 ぽかん、とする彼女はそれを受け取って、数秒間眺めていた。八角の実は、水分を取られた一番星のようで、今にも光りだしそうだった。


「そうだ、お腹空いたでしょ。なにが食べたい?」

 すごく興味があった。出所してはじめて、なにが食べたいか。彼女は、うーんと悩んでから、思いついたように手を叩いた。

「ピザ、かな。チーズのいっぱい乗ったやつ」

「ピザ?」

「うん」

「そっか、食べに行こう。近くにイタリアンがあるか探すね」

 僕は笑ってしまった。ピザ、好きだったんだって。それとも嫌いだったけど、大人になって食べられるようになったのかな。彼女の横顔をのぞいても、もう花椒の香りはしなかった。

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