第8話

 冬の寒さが増す二月。ここを凌げば、来月には春の陽気が訪れる。吹雪のなか、村の男たちが馬を率いて八尋神社へと物資を受け取りに来ていた。

 社の倉に保存していた食糧は、分配を始めて僅かふた月で半分以下になってしまっていた。この様子から、来年は同じ手を使えないことは明らかだ。

 八尋に残された期間は、今年からの稲作が最後だろう。

 「では、これらをお家かたにおねがいします。此度は特に吹雪いておりますゆえ、霊狐たちは、みな無理なく帰路についてくださいね」

 配分書を片手に、確認を終えた雪村が霊狐たちに向かって話す。

 そして、それぞれが得意とする獲物を携えた霊狐たちが、「お任せください」と雪村に一礼した。村長は八尋と雪村、護衛の霊狐たちに感謝の意を告げる。

 纏め役の霊狐が号令とともに先導を始めた。これで四度目となる分配作業も、もう慣れてきたものだ。

 見送りを終えた境内には、八尋と雪村、村長の三人だけが残っていた。分配の日は、八尋神社の霊狐たちも半分以上出払って行う大掛かりな一日となる。そして、残った霊狐も殆どが幼霊狐だ。

 今頃、稽古場では永助が幼霊狐たちに笛の面倒を見ている頃で、調理場では夜通し分配作業の仕込みに急かされていた霊狐たちが死んだように眠っている頃で、永明たち大人の霊狐は今もなお霊符作りに精を出している頃だろう。この日の前後は特に忙しく、社の霊狐にのしかかる仕事が二倍、三倍にも膨れ上がっていた。

 そんな矢先に、仕事場から件の永明がふらついた足取りで自室へ向かう姿を目にする。ようやく仕事が終わって、三日ぶりの寝床にありつけるのだろう。一人で出てきたということは、恐らく同僚は仕事場から戻る余裕もなく眠ったのか。大人の霊狐はこれで全滅だ。

 「長、一行の無事が心配でしょうが、我々の社務所へと案内しましょう。吹き晒しのままでは、お身体にも障りますよ」

 「昼には、風も一度落ち着く気配がある。遠出の霊狐たちには、一度宿場で様子を見るように言いつけておる。雪村の言う通りだぞ」

 雪村と八尋の言葉に、村長は申し訳なさそうに一礼をして、三人は社務所へと向かってゆく。先に二人を入れた八尋は、扉を閉める前に永明が自室にたどり着く姿を確認すると、ほっと安堵の息を漏らした。

 薄暗い社務所の中へと目を移すと、いつも真面目な二人の霊狐が、仲良さそうに文机で居眠りをしていた。曇天の吹雪の中、社務所は文机に置かれた灯りと、部屋を暖めるための囲炉裏によって橙色に染まっていた。

 雪村は何も言わず、かけてあった羽織りを手に取り、二人の霊狐にそっとかける。

 「長、あまり見ないであげてください。真面目な子たちなのです。今日は、私の自室へ行きましょう」

 奥の戸を開け、雪村は先に八尋を案内し、続くように長を促した。

 雪村は一人はなれ、茶の準備をしようとすでに焚かれていた囲炉裏の土瓶に水を注ぐ。柄杓から溢れた水が火元を濡らすと、しゅっと黄昏れる音を立てた。

 先ほどの霊狐に目を移すと、二人はいつのまにか尻尾を絡ませ、お互い暖を取り合って寝息を立てていた。

 その様子に雪村は、ふふ、と笑い、文机の灯りを消し、そっと囲炉裏に火を足した。


 戸が開かれると、遅れて雪村が菓子を盆に乗せて入ってきた。「茶は今しばらくお待ちください」と告げ、一礼して畳へあがる。

 「よい」と、八尋が一言いれて雪村から片手で盆を受け取る。盆を八尋は自身の側に置き、村長へと直々に菓子皿を手渡そうとする。恐れ入りますと言わんばかりの平伏とともに菓子を頂く村長の姿は本当に弱々しい。

 「雪村の配分書を待っておる間に見ておった。此度の配分で倉も残り三分ほどとなったか」

 八尋が雪村に話した言葉に、村長は再び平伏する。

 「まこと、申し上げございませぬ」

 「長、私の言葉におぬしを叱るものがあったであろうか。この報告書は喜ばしいことだ、そうであろう雪村」

 「はい。料理長の提案より、保存肉も算段に入れることができましたゆえ。春先までの心配は無くなったことでしょう」

 すぐに顔を上げることはないだろうと、八尋は雪村を一度座らせる。三人が揃ったところで、八尋は「おもてをあげよ」と話す。

 「謝罪の姿勢より、我らが必要としているのは村の言葉だ。おぬしの口から、村について変わったことが無いか報告せよ。雪村、立て続けで悪いが、おぬしは調書を取ってくれ」

 雪村は「かしこまりました」と一礼し、慣れた手つきで筆の支度をする。

 その間に、八尋は焼き菓子を手に取り、パクリと二口で食べる。先に食ってしまわないと、話す途中に口にすれば村長が話を止めてしまうと考えた。

 というのは表向きの感情であり、実のところ朝食を終えて一刻ほどで八尋の腹は既に空いていた。連日の狩りに神術の稽古、これからの村の対策を練るのに、八尋は十日近く不眠不休で動いている。無尽蔵といえる五十五の妖力のおかげで、この小さな身体からは考えられないほどの持久力を見せていた。その代償として、八尋には多くの食糧を必要としていた。要は、動く分だけ腹が減るのだ。事実、雪村や霊狐には内緒に夜な夜な狩りをして、この数日間で猪一頭を平らげている。猪一頭で寝ずの働きを見せるのなら、燃費は良いのだろうか、いや良いわけがない。

 村長の語った近況報告を、雪村は的確に纏める。

 例年より貧しい生活とはいえ、腹を空かせて草を食う者はいない。仕事が少ない分、食糧の足しにしようと川辺や水路で魚を採る者も増えている。加えて、普段、閑散としている冬の村に人の気があちこちから感じられ、盗賊などの被害も今年は聞かないそうだ。村の男どもは霊狐たちの護衛のもとで狩りを再開し、弓の腕をあげた者もいる。八尋が大怪我をした一件から、山入りの言いつけを皆守っていると村長は話す。

 以前から気になる点として、例年よりも病に罹る者が増えたことだ。前回の分配から、またも体調不良や、高熱を訴える者が見つかっている。これで十数組にも及んでいる。

 村に医者はおらずとも、霊狐たちによる看病と、霊水のおかげで幸い死に至った者はいない。流行り病には注意しなければならない。社の霊狐たちが息災の霊符を大量に作っていたのはそのためだ。

 途中、雪村が淹れてくれた温かい茶を飲みつつも、近況報告は滞りなく終わった。

 話の区切りがついたところで、八尋は目元を掻きつつ、「こんなものだろうか」と口を開く。その様子を見て、雪村も筆を置いた。

 「長、此度もようやった。この月を越えれば、安泰も近かろう」

 「霊狐さまのお力添え、まこと感謝しております」

 八尋は外へと耳を立てる。いつの間にか、稽古場から聞こえていた笛の音も止んでいる。

 「そろそろ昼頃だろう。昼げの支度をさせねばならん。あいにく調理場の者どもはまだ死んでおろう。長、雪村を立たせねばならぬ。昼げを誘う暇もなくすまぬが…」

 「とんでもございません、此度もまた心より感謝申し上げます」

 村長が平伏する姿を八尋は見守り、雪村が軽く会釈をする。

 「八尋さま、最後にひとつよろしいでしょうか」

 面をあげた村長が思い出したように口を開く。

 「なんだ?」

 「麓の村の、一人老婆のミネのことですが…年があけてから調子がよくありませぬ。歳のこともありますし、おそらくこの冬には…」

 ミネという老婆の様子を聞き、雪村の表情が途端に曇った。

 「一人のヒトの生き死にを、八尋さまへお伝えすることではないと存じておりますが…」

 「いや、報告に感謝する。ミネについては、雪村から言いつけさせておこう」

 八尋は大きく息をついて、視線を逸らした。

 「永助は、もう気づいておるかもしれぬがな」


 それから間も無く、ことは起こった。

 月の光に雪がまたたき、この冬で一番の明るい夜。八尋神社の参道を、灯りひとつ持たずに駆け降りて行く背丈の違う二人の霊狐がいた。

 先を行くのは永助、その一つ後ろを追う八尋の姿があった。

 夕げの後、湯殿へと向かおうとしていた永助がふと立ち止まってぼやけていたと思いきや、何かに駆られるように様子が急変したらしい。同じ組の霊狐にまともに説明もしないまま、着替えもその場に放り投げて社の外へ出ていったと雪村に報告があがる。

 幸い、遅くまで雪村と話をしていた八尋がその場に居合わせていたため、そのまま八尋が追う形となった。

 永助の突然の行動は、社の霊狐たちには不可解だろう。しかし、八尋と雪村にはその理由がすぐに分かった。

 長年、永助と仲良くしていた老婆のミネが、旅立つ最期に永助の名を呼んでいるのだろうと。

 老婆にミネは昔から身体が弱く、定期的に雪村が永助を連れて様子を見に行っていた。自身よりも先に夫と子供を亡くしたミネは、長年独りだった。

 そんな中で、ミネにとって永助は懐かしい気持ちを思い出させてくれる優しい子だったのだ。社で習った習字や笛をいつも見せびらかし、修行を頑張っている永助を我が子のように褒めていた。永助が舞台に上がる時も、村人たちに支えられながらも社へいつも見に行っていた。

 ミネの家に着くや否や、永助は家の戸を勢いよく開けて叫ぶ。

 「おばあちゃん!」

 ひとつ間を空けて、八尋も息を荒げながら追いつく。続くように中へ入ると、看取る者が一人もいない中、何度もミネを呼ぶ永助の姿があった。

 間に合わなかったか。

 八尋が肩を落としかける直前、ミネは永助の言葉に応えるように瞼を開けた。

 ミネと目が合った永助の表情が、ぱあっと明るくなった。それから、「よかった、よかった」と泣きそうな声で繰り返す。

 八尋はミネの状態を伺う。会話もままならない、永助の言葉に意識を保つことが限界であることから、今が最期の時だろうと直感する。

 それは永助も分かっていた。

 だが、今まで、何度も自分を支えてくれたミネの最期に何をしてあげられるだろうか。永助には分からなかった。

 どうしようもなく、ただ泣きじゃくる永助に八尋が言葉をかける。

 「永助。笛の音とともに、送ってあげなさい」

 永助はハッとした様子で、懐から愛用の龍笛を取り出す。

 しかし、永助は笛を吹こうにも、嗚咽を落ち着かせることができない。

 早く、早く聴かせてあげないと。残された時間が少ないことが、永助の心をさらに乱す。

 「がんばって」

 話すこともままならないはずのミネの声が、たしかに聞こえた。永助が、初めて舞台にあがった時に聞いた時と同じ言葉だった。その言葉の意味を、永助だけが分かった。

 永助はこくりと頷き、大きく深呼吸をする。

 そしてひとつあけて、この小さな家に美しい音色が響き始める。

 演奏とともに、不思議な現象が起こった。

 永助から波紋が広がるように、懐かしい景色が映し出されてゆく。

 ミネはいつからか、畦道を歩んでいた。隣には狩衣姿の永助がいた。

 長年手付かずだったミネの田は、永助の力によって黄金色に輝いていた。

 その畦道をミネと共に歩む永助が笛を奏でる。

 いつか叶うであろう永助の立派な姿を見たミネは、思わず立ち止まって息を漏らした。

 永助は歩みをとめず、笛を奏でながらくるりと回る。得意なフレーズを、母親に一番聴こえるようにと。

 演奏の終わりとともに、心地の良い風が永助の狩衣をなびかせる。

 永助はミネのもとへと駆け寄った。

 「できたよ!」

 いつも見せてくれていた純粋な笑顔に、ミネも微笑んで永助を撫でる。

 「今まで、ありがとうね」

 ミネが最期の別れを告げる。

 別れの言葉に永助はミネを見上げた。

 「待って!」

 永助の表情が崩れる。まだ受け入れられない永助の様子を見て、ミネは口元を手で隠して笑った。

 「永助、私は幸せ者でした。あなたから、生きる楽しさを沢山いただきました。永助はきっと、立派な神様になるに違いありません」

 少しでも安心させようと、ミネは永助の頭を撫でながら話した。

 ミネの言葉に永助は何度も頷く、その度、目から涙が溢れてしまう。

 そんな永助の顔を隠すように、ミネはそっと抱き寄せた。

 「みんなを笑顔にさせてくれる、そんな神様にきっとなれます。がんばって」

 永助はミネの中で何度も頷いた。

 「おばあちゃん」

 そっと永助が顔をあげる。

 「今まで、ありがとう」

 「永助は、本当に良い子だね」

 二人が同時に笑う。その光景は、親子そのものの姿だった。

 次第に永助は、うつらうつらと眠りに落ちる。

 ミネは永助が握っていた龍笛を落とさぬようにと、そっと永助の袖にしまってあげた。

 「名も知れぬ優しいお方、老婆の最期を彩ってくれたことに感謝いたします」

 二人のやり取りを一歩離れて見ていた八尋と、ミネは目を合わせて話した。

 「……ッ!」

 なぜバレたのだろう。不意をつかれた八尋は、驚いた様子で視線を逸らす。

 このまま嘘をつくわけにはいかないと、八尋はお面を外すように正体を明かした。

 「ふふ。よもや、おたぬきさんでしたか」

 「あ、あの…僕は…」

 「是非、御名前をお伺いしても」

 「五十五…。妖狸の、五十五と申します」

 ミネはゆっくりと頷いて、微笑みを見せた。

 「五十五さま。どうか、この村と、永助をよろしくお願いします」

 その言葉と、ミネの笑顔を最期に、景色が白に消えていった。


 永助は現実に戻ったと同時に、ミネを見下ろした。

 「おばあちゃん…」

 ミネは最期の微笑みの面影を残したまま、息を引き取っていた。

 「うっ…うっぐ…」

 しばらく、永助は親を失った子供のように、それでいてミネの言葉を忘れないように、静かに、しゃっくりをあげながら、涙を流し続けた。

 五十五が出来るのは、やさしく化かすことだけだ。ただ誤魔化すことしかできない、情けない自分に五十五も悔しい思いでいっぱいだった。

 ミネの看取りを終え、八尋は雪村を呼んだ。半刻もしないうちに、雪村は村の関係者を連れてミネの家へとあがった。

 「後は、みなに任せよう」

 八尋はそれ以上を語らず、永助を促した。


 「八尋さま…」

 社へ戻る参道の途中、黙り込んでいた永助が言葉をかける。

 「僕、誰にも負けない音を奏でます。笛と舞で、みんなが笑顔になる、そんな神さまになります」

 永助の姿が、五十五の心にも響いた。

 「おぬしなら、必ずなろう」

―――そうだ、自分も絶対に神さまになるんだ

 そのためにも、どんな修行にも耐えてみせる。

 八尋は永助の決心を目にして、これまで避けていた一つの修行への覚悟を決めた。


 それから数日が経った。ミネの通夜は少人数で行われ、翌日には八尋神社にて火葬される。見送りの日、永助の精神面に雪村は不安を覚えていたが、永助はうつむくことはなかった。

 「この一年で、永助の心は大きな成長を遂げたのだな」と、八尋が呟くと、雪村はそっと頷いた。

 火葬に伴い、ミネの身辺にあった物も一緒に送ろうと家屋を漁ると、遺言書が発見された。

 そこには、身の回りの物は全て処分してよいこと、家屋と土地のいっさいを、八尋神社へと献上することが記されてあった。早くに家族を亡くしたミネに、遺産を贈る相手はいない。ならば、自身の全てを八尋神社に差し出したいと思ったのだろう。

 この日、八尋は特別に雪村と永助を本殿に招いて、ミネの遺産についての相談を行っていた。初めて入る本殿と八尋の自室に、永助は緊張した様子を見せる。

 相談が始まってから、話は八尋と雪村の二人の間で進んでいった。どちらかといえば、二人が話す間に永助が介入できなかったというほうが近い。相続の決まりや村でのしきたり、遺産を引き継いだ場合の責任問題など、それらの知識が永助に無かったのだろう。

 「それで、永助はどうしたい?」

 ほとんど理解できなかったなか話を振られ、永助は背筋をピンと伸ばして八尋を見た。

 「えと…その…。おばあちゃ…ミネの残した家や田んぼは、八尋神社の一つとして受け入れても良いと思います。ミネの八尋さまへの信心は確かなものでしたし、村の者たちも反対するものはいない、と思います」

 ふむ、と八尋は顎に指を添えて聞いていた。

 「ならば、どの者がミネの家と田んぼを手にすべきと思うだろうか」

 「それは…八尋神社へと託したいとの想いですし…。雪村さまもお話しされた通り、主神であられる八尋さまがお手になさるべきかと」

 「意外だな。おぬしも、そのように受け取るか」

 永助は八尋の言葉に首を傾げる。

 よいか、と前置きして、八尋はミネの遺書を広げる。

 「この文には、私、八尋に贈るとは書かれておらん。八尋神社に、としか書かれてない。ミネがどのような想いで遺書をつづったか、雪村には分かっておるだろう。社の者に遺産を贈るとならば、ここには『八尋』以外の名が書けるわけもなかろう。だから、あえてミネは贈りたい人物の名を記さなかったのだ」

 八尋はひとつ身をひいて、あぐらを組み直した。

 「長年ミネが、誰に、何を願っておったか。分からぬとは言わせぬぞ」

 「それは、もしかして…」

 永助は八尋の言いたいことが分かったのだろう。それと同時に、「でも」と、二人に聞こえないように呟いた。

 「ミネが逝く最期の瞬間、おぬしもあの光景を見たであろう。手付かずの寂れた田が、おぬしの力によって黄金色に波打つあの景色を」

 自分だけの家と田んぼを持つ。それが霊狐へのヒトの信仰によって持つということは、立派な社と呼べるものだ。

 永助は、自身が祭神となり社へ降りる覚悟があるかを問われていた。

 「おばあちゃん…」

 ミネの言葉を思い出したのか。永助はぽつりと呟いた。

 永助は両手をギュッと握って、八尋と目を合わせる。

 「八尋さま、僕にミネの遺産を受け入れさせていただけませんでしょうか。ミネの家を社、田を神田として、そこへ僕は新たな祭神となりたいと思います!」

 ヒトの想いを受け取り、祭神となる覚悟を決めた永助は、八尋に平伏することなく願いあげた。

 永助の決意の言葉に、八尋と雪村はお互い顔を合わせて笑みを浮かべた。

 「よかろう。永助、おぬしを祭神として神の社へと迎えようではないか。これより、おぬしを迎え入れる準備を始める。今しばらく待たれよ」

 八尋の言葉を聞き、永助の表情もぱあっと明るくなる。

 「は、はい!」

 その隣に座る雪村は、今にも涙が溢れそうな表情をしていた。こんなに立派になって、そう言いたそうな顔で目元を拭う。

 雪村はひとつ姿勢を正し、二人に話す。

 「すぐに八尋神社と村をあげて準備いたします。新たに造る社の名ですが…」

 やや困った様子で、雪村は永助を見る。永助はまたもはてなを浮かべて、首を傾げた。

 「ああ、『永助神社』じゃ、みなに笑われてしまうな。永助、おぬしも名を改めるべきだろう。もう幼名で呼ばれる歳は終わりだ」

 「ぼ、僕の新しい名…」

 すぐには考えられないといった様子に、永助は困ったようにあちこちに目が泳がせる。

 雪村はくすくすと笑い、「では」と一つ置いた。

 「社の名をすぐにつける必要もありませんし、ひとまず『八尋神社』の分社として造りましょうか。永助も、まだまだ修行の身。分社の祭神とならば、八尋神社にも今まで通りの感覚で足を運べましょう。永助が新たな名を馳せる時が来た時、分社にその名をお付けしましょう」

 「決まりだな!」

 雪村の言葉に、八尋は強く推した。そして、再び永助と目を合わせる。

 「永助どの」

 「永助…どの!?」

 いつぞやの響きに、永助は目を大きくする。

 「がんばろうな」

 「……うん!」

 八尋と、本当に対等の立場になったのだと自覚したのか、永助は満面の笑みを二人に見せて答えた。


 湿気が漂い、悪臭が纏わりつく牢屋の便所に、五十五は捕まった時と変わらぬ姿で投げ捨てられていた。綺麗に整えられていた五十五の毛並みは、もはやたわしと大差ない、これまでの面影がないほどに汚れ落ちていた。

 横たわった五十五に、一人のヒトの男が近寄った。伏していた五十五の頭を掴み上げると、死にかけた表情の五十五の口を開かせた。

 男はあろうことかそのまま用を足しはじめた。

 便所と変わらぬ扱いを受けている五十五は抵抗せず、ぼうっと男の下腹部を見つめていた。自分から飲むわけでもない、ただ行為が終わるのを待っていた。

 「おら、終わったら綺麗にしろって。あ?生きてんのか」

 男が五十五の顔を叩くも反応が無い。

 牢に入れられて二十日近くが経ち、五十五は二日に数刻しか動けないほど衰弱していた。

 目を覚ましたとき、五十五は身体に溜まった汚物がこみあげ、全て吐き出そうとする。その嘔吐反射が大幅に体力を消耗させ、ろくに身体を起こすことも叶わないまま眠りに落ちかける。五十五は最悪な悪循環に陥っていた。

 用を足されている途中で、五十五の五感がじわりと戻ってくる。

 その最初に得た情報はとても考えたくもないものだった。味覚、嗅覚、触覚、そして目の前の男の行為の全てに拒否反応が起こる。

 「うぷッ…!」

 五十五は男から逃げるように離れ、数日溜め込まれた汚物を便所に吐き出した。何を飲まされていたかなど考えたくもない。五十五は極限まで情報を絶って、ただひたすら吐き続けた。

 「なんだよ、いいとこで起きんじゃねえよ」

 男の言葉など耳に入れる余裕もなく、吐き出し終わった五十五は腕で口を拭った。

 祭神である自身に対する、どれをとってもあるまじき行為の数々に、負の感情が八尋の中で大きく渦巻き始めている。

 なにより、化けているとはいえ、八尋が一番大切にしている五十五の身体を好き勝手にされることが許せなかった。

 「起きたならちょうどええわ、そろそろお前の使えるところを増やしとかなきゃな」

 男の「おい」の一言で、控えていた囚人が数人立ち上がる。

 「こいつをそこで抑えとけ」

 囚人たちは五十五を、他の囚人たちにも見える場所まで引っ張り出した。

 「や、やめろ!」

 五十五は両手両足、頭までも一人一人に押さえつけられ、一切の自由を奪われる。

 男が五十五の下半身側へと腰を下ろすと、五十五の脚を捕らえていた囚人がそのまま開脚させる。

 ここまでくれば、これから何をされるのかが五十五にもわかる。

 「きさま!何をしているのか分かっておるのか!俺を誰だと思っておる!!」

 メスの体勢をとらされたまま威勢を張る五十五の言葉に、男は大笑いを見せる。

 「これから稚児にさせてやるまでよ。それにお前も武士なら、こっちも知っておくべきだろう?」

 「正気か…!」

 これ以上、五十五の身体を汚されることが耐えられなかった。ましてや、五十五にこんな男が侵入してこようなど、八尋が受け入れられるわけがない。

 「やめろォッ!!」

 五十五は生まれて初めて本物の唸りをあげた。

 それと同時に、今の五十五からは考えられない力で抵抗を見せ始めた。

 「お、おい!テメェら真面目に抑えろ!」

 男は五十五と目があった。普段、温厚な茶色の瞳をしていた五十五の目が、獣を狩る真っ赤な狐の目と化していた。

 五十五の唸りはさらに圧を増し、両腕が黒を帯びるように不穏な気質を纏い始める。八尋の中に溜め込まれた穢れが、怒りの感情とともに妖気へと性質が変わり始めていた。

 八尋が妖狐へと落ちる一片を見せ始めたのだ。

 「何をしておるのですか、あなたたちは!」

 突然、檻の外から聞きなれない声が響いた。

 囚人たちが一斉に声の主へと視線を移す。行為が中断された五十五も、囚人たちの間に見えた者へと目を向けた。

 その声の主は、五十五を捕らえた陰陽師だった。

 「その子から離れなさい!それ以上は九頭様に報告いたしますよ!」

 陰陽師からの警告を受けた男は、唾を吐くような仕草を見せて無言で五十五から離れた。それに続くように、囚人たちもそれぞれの席へ戻る。

 だた一人残された五十五はいまだ動けず、地に伏した傍らに陰陽師と目を合わせることしかできなかった。

 五十五の身体を纏っていた妖気も落ち着きをみせ、おかげで妖狐へ落ちることもまぬがれる。

 陰陽師は五十五の近くまで歩み寄り、檻越しに五十五の瞳をじっと覗いていた。

 五十五もまた、何も言わず陰陽師の瞳を覗いていた。自身を捕らえ、このような境遇に落とした原因の一人とはいえ、五十五はひとまずの感謝の意を示そうとしたのだろう。

 二人の間に無言のやり取りがしばらく続く。陰陽師は、自身の九字切りを破りかけた、妖狸でありながら霊符を自在に操っていた五十五を不思議に思ったのだろう。貰った霊符では、あれほどの威力を見せることはない。

 五十五の見せた技が霊術だったこと、にわかには信じがたい。

 彼は本当に妖狸なのだろうか、それを確かめるべく、この牢屋に足を運んだのだろう。

 しかし、今の五十五からは霊気を全く感じられない。加えて、先ほど五十五の身体から溢れた妖気を見るに、五十五は妖狸であると思うのが自然だった。

 「この子に用意させた水を与えてください。それと、囚人たちにはこの子への扱いを改めさせるようお願いします」

 陰陽師は、これまでの始終を見ていた奉行人に伝える。奉行人は異を唱えず「承知しました」と返答する。

 「囚人たち、これからそやつを丁重に扱うよう心がけよ。稚児愛は許さぬとのことだ」

 「へいお偉いさんよ、小便飲ませるのも駄目なのかい?お気に入りの雪隠なんだが」

 陰陽師が奉行人と顔を合わせ、「やめさせてください」と答えた。

 これまで五十五への楽しみを取られた囚人の男は、つまらなそうに唾を吐いた。

 「奉行人、彼らの改めが見られないようなら、そなたのことも九頭様へとお伝えします」

 「心得ております」

 陰陽師が立ち去ると、それからしばらくして五十五へ清水の入った甕(かめ)を渡される。陰陽師からの直々の品ということで、誰も奪う者はいない。

 自然から遠いこの町屋では、辺りから得られる霊気は少ない。欲と負の感情にまみれた大牢の中ではなおさらだ。そんな中、山の清流で採取したであろう水には、多量の霊気が含まれていた。

 もし本当に霊狸であるならば、霊力が戻ればまたあの時と同じ力を見せてくれるだろうと陰陽師は考えていた。

 その内を知らない五十五は、天の助けと言わんばかりに全てを飲み干す。その取り込んだ霊気から、五十五の中に懐かしい記憶がいくつも流れた。

 社での思い出、五十五への約束、四辻との出会い。これまで出会った者たちを思い出し、この程度で妖狐に落ちかけた自身が情けないと感じた。

 しばらくして、五十五は一人で嗚咽をあげる。

 初めて涙を流すその姿に、多くの囚人たちは、五十五に対して罪悪感を覚えた。


 ミネから譲り受けた土地を使って新たな神社を設立することは村の者や霊狐たちを一堂に集めて伝えられた。そこへ降りる祭神は誰か、八尋の口から「永助である」と、誰もが思いもしなかった名を聞いた。

 その場を大きく騒がせたことは容易に語れよう。

 それもそのはず。主神である八尋の次に、最も力を握っているのは兄の方の永明だからだ。

 永助が祭神となる話を、永助とともに事前に聞かされた永明も、「本当に追い抜かれてしまうとは」と本音を漏らす場面もあった。今回の件については、長年秀でた成績と実績を見せていた永明にとっては辛いことだろう。

 八尋は、これからの永明への対応も改めるべきかとも考えていた。

 しかし、落ち込む素振りをみせていた永明はすぐに顔をあげて、「永助が祭神として迎え入れていただけたこと、感謝いたします」と話し、「がんばるんだぞ」と、その場を同じくした永助を優しく抱き寄せていた場面は記憶に新しい。

 発表から数日後の朝。永助は、祭神となることが決まってから、新しい社が完成するまで八尋神社の本殿に部屋を移すこととなった。いまだ入り慣れない本殿の雰囲気に緊張を見せる永助も、いつも通りに接してくれる八尋の姿に少しずつ落ち着きを見せ始めていた。

 新たな社が完成するまで、永助は八尋の部屋で猛勉強の日々に励んでいる。苦手な祓詞や筆記が半日続いただけで、永助は目を回してぐったりしていた。

 「少し雪村のところへ行ってくる」と、言い残した八尋が本殿に帰ってきた時、永助は息抜きに八尋の神田で舞っている姿を見る。

 怠けていたことがばれてしまった永助はその場でたじろいでしまい、必死に言い訳を考えようとする素振りをみせた。

 「よい、もうしばらく休もう。おぬしを捕らえておくにはもったいなかろう」

 八尋は文机へ置きっぱなしにされていた永助の書き物を手に取って、そのまま縁側へと腰を下ろした。

 「も、申し訳ございません」

 見直しをしてくれる八尋に対して、永助がへこへこと何度も頭をさげる。

 お世辞にも字がきれいとは言えない書き物に、八尋は目元を掻きながらもひとつ頷いた。

 「悪くはないと思うぞ、あとは鍛錬あるのみだろう。この調子で進んでゆこう」

 「はい!」

 永助は笑顔でもう一度頭をさげた。

 いまだ神田から出ようとしない永助の様子に、八尋は問うた。

 「うん?まだ出ぬのか」

 「はい、もう少し田で舞っておこうかな、と。ちょっと、土や水気に元気が無さそうでして…」

 その言葉とともに、八尋はサーッと血の気が引いていく感覚を覚えた。永助はいまや本物の豊穣神になろうとするほどの力を持っている。もしかしたら、収穫を終えた田といえど、今年の稲の出来までも見破られてしまうのだろうか。

 化け術でさっと眠らせてしまおうか。八尋がそんな悪心を覚えたところに、永助が続けた。

 「あ、いえ、八尋さまを悪くいうわけではございません!こちらに身を移して初めて知ったことですが、八尋さまがこんなに日々忙しくされていたとは思いもせず…。その様子から、こちらの神田にも同じように影響されていたのではと思いまして」

 ふむ?と、疑問を問いかけようとしたが、これ以上無知を晒すのはまずいと咄嗟に言葉を変えた。

 「ああ、この子にはすまないと思っておる。ほったらかしにするつもりは無かったが、俺自身が疲れを見せているのも悪い影響だっただろうな」

 「そんな、八尋さまの日々の行いは僕も驚いております。よもや、何日も寝ずに働いておられていたとは…」

 永助と相部屋になってからも、八尋の生活は変わっていない。初日こそ、せっかくだからと同じ時間に眠りについたが、それからは今まで通り灯り一つで夜通し仕事や修行続きだった。

 「あまり倣うことではない。朝起きて、夜に寝る、それが正しい行いだ。このような追い詰められた生活は良いわけもなかろう。だから、永助はいつも通りの一日を送ってもらえるほうが俺もありがたい」

 八尋はボロを出さないよう注意しつつ、永助の力も借りようと考えた。

 「俺は学術は得意であるがおぬしほど奏術は得意ではない、永助は俺とは違って笛や舞が得意であろう。俺も永助から得られるものがあるやもしれん。よければ、もうしばらく舞を見せてくれぬか」

 「はい!」と、永助が元気に答え、一礼して神田に舞い始めた。八尋はあぐらをかいて永助の舞を見守った。

 以前まで、霊気に触れることしかできなかった五十五も、数年間かかさず修行をしてきたおかげで、霊気の流れが見えるようになっていた。

 舞によって霊気がどのような動きを見せるのか、手がかりを探すようにじっと見つめる。

 田の気質が、薄布のように永助の周りにゆらめく。永助の舞の動きにあわせて、薄膜がたわむように重なり、まるで羽衣のような衣装に変化した。

 ゆるやかな動きに衣を纏い、豪快な動きに衣の端が霞む。そして衣の欠片は永助の霊気となり、田へと降り注いでゆく。

 八尋はたまらず「おお…」と息を漏らした。それと同時に、これまで見てきた田踏みの本当の意味を理解する。ただ舞うだけではなく、その舞自体にきちんと意味が込められていたのだ。自身が見よう見真似で舞った田踏みが、今になって恥ずかしく思えた。

 永助が舞を終えると、纏っていた衣はゆるやかに滴り落ち、霧散してゆく。

 「終わりました!八尋さま、いかがでしたか?」

 「うむ、すばらしい舞であった。きれいな流れに見惚れてしまうな」

 永助は頭を掻きながら「えへへ」と嬉しそうな表情を見せた。

 「田踏みというのも奥が深いな。永助の舞も、ここまでのものとなるとは」

 「本音をいうと、最初は田んぼでぴょこぴょこするのが楽しかっただけなんです。広い田んぼに、装束をはためかせて踊るのが。それがいつからか、手に何かを触れる感じを覚えて」

 先ほどの霊気の衣を纏っていたのは、どうやら無意識のうちに覚えたらしい。永助自身から発する霊力はそれほど強くない、その代わりに周囲の霊気に触れるのが得意なのだろうか。永助が幼いうちから八尋が田踏みをさせ始めたのも納得だ。

 身にする霊力が少なくとも、永助は周囲の霊気を借りて神力として業をなしている。ならば霊力を全く持たない五十五でも、永助のように霊気に触れることができるようになればあるいは。

 ふむふむ、と八尋は顎に指を添えて考え込んでいた。

 「八尋さま、どうかされましたか?」

 まだ神田に浸かったままの永助が、ぽけっとしている八尋を不思議そうな表情で見る。

 永助をほったらかしにしていることに気づき、八尋はハッと我に帰る。

 「ああいや、すまん考えごとをしておった。あがってよいぞ。永助のおかげで田も喜んでおるようだ。俺からも感謝する」

 永助はえへへと笑って、元気よく返事をした。神田からあがり、足についた土を払って八尋の隣へぴょんと座る。

 「八尋さまと一緒に過ごしてから知りましたけど、八尋さまって本当は『俺』っていうんですね。知らなかったや」

 永助もまた、八尋との日常会話では気軽な口調になっていた。ふたりはもう同じ立場なのだ。何も気にすることはない。

 「そうだな、『私』というのは仕事の時くらいだ。雪村と話すときも、今みたいな感じだな。俺とて、こっちの方が気が楽だ。気軽に話せる者が増えると、俺も助かるな」

 「僕も、八尋さまと仲良くお喋りできて楽しいです!でも、これから本当に大丈夫か僕も不安で…」

 「大丈夫だって、永助ならやれる。さっきの舞を見て確信した、大丈夫さ。もう永助もちっちゃい子供じゃないしな」

 「いつの間にか背もこんなに伸びて」と、八尋は永助の頭に手を乗せた。永助の身体は成長期を迎えた子供のように急速に背が伸び、身体つきや顔つきは少年と呼べる見た目になっていた。永助の心も、それだけ成長したということなのだろう。

 二年前まで八尋と頭一つ分の身長差があったのに、今では八尋の目元あたりまで永助の背が伸びている。

 八尋は可愛らしい弟を持った感覚を覚えた。その向けられた眼差しに、永助もまた笑顔で返した。

 ふと、二人が同時に耳を立て、境内のほうへと視線を向けた。

 「八尋さま…」

 「ああ、誰か来たようだな。しかしなにやら様子がおかしい」

 二人の会話に一つ遅れて、雪村の声が八尋の耳に入る。「お客さまが来られました」と。

 参拝者ではなく来訪者と伝える雪村の言葉に、八尋は嫌な予感を覚えた。

 「俺は客人の相手をしよう。永助、おぬしは…」

 「僕もいきます。八尋神社の祭神として、同席させてください」

 永助は真っ直ぐな瞳で八尋に話す。八尋が想像していた以上に自身を強く持った永助の姿を目にして、「おっ…」と、声を漏らした。

 「ああ、ゆこうか」

 八尋は永助に白い歯を見せ、肩をひとつ叩いた。


 拝殿を介さず、二人は境内へ出る。見通しの良い境内の参道に、三度笠に旅装束のヒトの男が立っているのを目にした。

 そこからやや距離をとって拝殿の前に雪村がおり、警戒した様子でその男を見つめていた。いや、境内の社殿の至るところから、霊狐たちも見張っている様子があった。稽古場からの笛の音も消え、山の木々のざわめきが緊張を伝える。

 男をひと目見た八尋は、この状況をいち早く理解した。

 「ヒトならざる者、大小携え、我ら霊狐の社に何用か」

 八尋は永助を連れて、雪村のもとへ足を進める。

 不穏な時期が続くこの村に、ヒトに化けた者が社に来るなど警戒せざるをえない。ましてや、男の腰には長さの異なる二本の刀が差してある。

―――ついに町屋の侍が来た…どうしよう…

 八尋は内心の焦りを隠しつつ、懐にしまっていた懐刀を袖口までするりと落とし、左手で握りしめた。

 この時代、武士の力が大きくなりつつあるとはいえ、一般的な帯刀はいまだ太刀ひとつだ。大小立派な刀を携えている者は、権力や地位が認められた者しかいない。

 言葉を交わさずとも、ろくな用事ではないことは姿を見れば明らかだ。町屋の侍ならば、他の仲間も引き連れているのではないか。実は、すでに侍たちに囲まれているのではないか。いや、もう村にも手が回っているのではないか。

 もしそうであるなら、のんびり様子を見てるわけにはいかない。

 こちらの意思を先に伝えようと、八尋は袖口に隠していた懐刀の鯉口を切って見せた。

 八尋の大胆な行動に、雪村は息をのんだ。

 まさに一触即発。男の出かた次第では境内が戦場となる。

 「ックフフ…」

 鯉口を切った八尋に、男はひとつ笑った。

 「まさか、儂に鯉口を切ろう者がおるとは思いませんでした。それも初めて対峙する相手に…。恐ろしい肝をお持ちであるな、八尋さまは」

 何の話だ、と八尋は眉をひそめて男をうかがう。

 「八尋さま、お久しゅうございます。化けたまま参道に足を踏み入れたこと、どうかお許しください」

 男は三度笠を外し、手で頭をひとつ叩いた。白い煙がぽふんと吹き、煙があけると大柄な妖狸の侍が正体を明かした。

 「よ、四辻どの!?どうしてこちらに…!」

 雪村が驚く様子で男の名を呼んだ。それと同時に、雪村は胸に手を当て安堵の息をついた。

 四辻は町屋で見た時と変わらぬ笑みを見せて、八尋と雪村に深く一礼した。

 「…みな、下がれ。八尋さまの客人、四辻どのである。八尋さまより言伝があるまで、それぞれ部屋で待つように」

 四辻の様子を見て、同じく顔見知りであった永明は霊狐たちに警戒をとくように指示をする。

 「妖狸のまま、こちらの地に赴くと騒がせてしまうと思いまして。いやはや、どうしてバレてしまうのでしょうか。幼霊狐のひとっこも騙せぬとは、この四辻、自信を無くしてしまいますな」

 「いえ、心中お察ししております。霊狐、妖狸と時を悪くしておりますし…。文をくだされば、霊狐に迎えさせましたのに」

 「申し訳ない、思い立ったらすぐに走ってしまうタチでな…。八尋さま、ここにおるのは儂だけじゃ、敵はおらんと伝えてくれぬか」

 「もうこちらの者が察したようです。申し訳ございませんが、念のため周囲を当たらせてもらっています」

 雪村と四辻が話を進める姿を見て、ようやく緊張のほぐれた永助もほっと肩をなでる。

 そんな永助と同じく、二人の関係についていけない者が隣にいる。

―――誰だ、この人!

 四辻について何も知らない八尋は、口をぽかんと開けたまま立ち往生してしまっていた。


 四辻は雪村に「相談がある」と伝え、拝殿でも社務所でもなく、滅多に使うことのない茶室へと案内した。窓から村を一望できる造りの茶室は、特別な客人、または八尋神社にゆかりのある友人を招待するための間として使われている。

 一室には四辻を正面に八尋が、その隣に永助が座る。

 「八尋神社より主神、八尋と申す」

 「八尋神社より祭神…ええと、永助と申し…ます」

 永助が続けて挨拶をしようとするも、いまだ幼名のままで格好がつかないのか、誤魔化すように名乗る。

 「神主、雪村です。あらためまして、よろしくおねがいします」

 雪村は間に入るように、付人の位置に座って話す。

 「では四辻どの、申し訳ないが、そちらのさわりをお願いしても」

 雪村は二人に自身のことを話すよう、四辻を促した。

 四辻の話は当たり障りのない内容で、門番の時に初めて八尋に会ったこと、談話での事件のち、八尋たちの撤退に手を貸したこと。など、その時の謝罪も含めて話を続ける。

 「そうでしたか、久松様が亡くなられてから、四辻どのもご隠居されて…」

 「我ら久松派は、九頭の座す町屋にはおれぬ。儂の仲間も、それぞれ散って生活しておる。儂とて、町屋の見える山小屋にひとりで…」

 これまでの話を四辻が雪村に話す。町屋の領地がどこまで広がっているのか、町屋の現状がどうなっているのかを、四辻は事細かく話してくれた。

 その間に、五十五も四辻についてのだいたいを把握することができていた。何もしらないまま話を振られたらどうしようと身構えていたが、雪村が話を引き出してもらえたおかげで『八尋』としての情報を集めることができた。

 もちろん、五十五に話を振られまいと雪村が機転をきかせたことを、本人は知る由もない。

 「それで、お話というのは?」

 雪村が口を指で拭うような仕草を見せて四辻に問うた。

 その言葉に四辻は口元を手で覆ってみせ、「ふむ」と答える。

 念のためと思ったのだろう。四辻は雪村の提案に了承し、会話が聞かれないように結界を張ってもらうことにする。

 雪村が永助と顔を合わせ、二人は意識を集中すると、スゥッと部屋の境界を仕切るように結界が形成された。

 結界内は霊気が強く漂うため、妖狸である四辻には居心地が悪そうな表情を浮かべる。妖狸にとって霊術の結界に入るなど、調伏されていることと同義だ。もしかすれば、四辻の携えた大小は、簡単には調伏されるつもりはないという心の表れなのだろうか。

 「しばらく、その身を預かりました。そなたを縛るものはございません、これまでどおりお話ください」

 雪村は四辻の主導権を握ったことを伝える。それと同時に、四辻の身の安全が確保されていることも示した。

 四辻は大小を帯から外し、「ありがとうございます」と、平伏する。

 「八尋さま、おひとつお伺いしたいことがございます」

 八尋へ向きなおした四辻が、姿勢を正して問うた。

 「狸は、お嫌いですか」

 答えなかった。

 いや、予想もしてなかった言葉に、八尋は口をつむってしまった。

 なにせ、自分も狸なのだから。

 同時に、長年狐になりたかった自分がいたことも確かだ。昔の五十五なら「狸は嫌いだ」と即答していたであろう。

 「狸は…好きだぞ」

 八尋は答えた。

 狸だから出来ない、狸だから嫌われる、狸だから一緒にいられない。

 今までの記憶、劣等感ゆえにその感情を持つことは不思議ではない。

 そして、これら三つはいまだに解消しているわけでもない。社にいて、霊狐に囲まれて、村の一員としていられるのは八尋の姿を借りているからだ。

 姿が戻れば、五十五はまた元の自分に戻るしかない。

 だが今は違った。

 八尋に化けて、八尋の帰りを待つだけじゃない。

 妖狸の自分でも村の役に立てるんだ。

 それが数年間化け続けて、ようやくわかりはじめていた。

 何より、神田に身をつけた一つの稲が、五十五の思いを大きく変えたのだ。

 八尋の言葉に、雪村は微笑みを見せる。

 永助もまた、八尋を肯定するように頷いた。

 三人の様子を見て、四辻はひとつ置いて答える。

 「儂も、狐は好きですぞ」

 八尋は目を大きくして、四辻を見た。

 「どうして、このような問いを」

 「三年ほど前、妖狸の少年剣士に言われたのです。狐は嫌いか、と」

 もしや、と八尋はひとつ頭に過ぎる。

 「その時は、嫌いではないが好きともいえん思いだった。ただ、久松様や八尋さまのおっしゃるとおり、手を取り合えれば平穏な日々が送れるのではないかと。ただ、漠然に思っとった」

 「だが、それからその妖狸の少年とともに暮らし、その想いのうちを触れてわかったのだ。妖狸と霊狐、そしてヒトと手を取り合うに至る道というのを」

 「四辻どの、もしやその剣士…」

 八尋の問いに、四辻はひとつあけて続けた。

 「五十五は、この社から旅立たれたのでしょうか」

 八尋と雪村は驚きを隠せなかった。

 八尋は『五十五』として、四辻をここに至るまでに心を動かしたのだ。

 「どうして、それを」

 「きっかけは、観蛇山のほうから来たという五十五の言葉ですが…。儂の話した通り、五十五はひとつの信念のもと剣を奮っていました。そしてあの刀、あの霊刀は、八尋さまが五十五へ贈ったものであられましょう」

 八尋はひとつ頷いた。いや、本来は違うが、今はそうなのだ。

 四辻は五十五と初めて出会った日を思い出す。刀は大切な者から貰ったこと、そしてその者と一緒になること。後者については、今の四辻にはどういう意味かわかっている。だが、四辻はそのことには触れようとしなかった。

 「よければ、五十五について教えてくれぬか。あの子がおぬしと出会ってから、今どうしておるのかを」

 「長い話となりますが、それでもよろしければ」

 八尋はあぐらを組み直した。

 「頼む。おぬしも楽にするとよい。雪村、せっかくの一室だ、茶を頼む」

 

 「では、四辻も五十五とともにしていたのは一年だけで、それからは会っていないわけか」

 八尋は茶を啜りつつ、四辻の話を聞く。一方、永助はこういった談話に慣れていないのか茶を飲む頻度も多くなり、ちょくちょく厠に離れていた。

 「儂にとって、五十五は家族とも思える大事な弟子。旅立ちには一言告げて見送りましたが、やはり一人で町屋を征くには憂慮するものがあります」

 やはり、四辻の目から見ても八尋の企てには厳しいところがあると聞き、五十五は心配になる。

 「それから五十五どのは大丈夫なのでしょうか…?」

 「儂の古くからの仲間が五十五の動向を追っておりました。存外、五十五の上達は素晴らしく、町屋の侍どもに負け無しとのことで。今や、儂でも敵わぬでしょうな」

 「おお…」と、八尋は息をついた。剣の達人となったカッコいい八尋の姿を思い浮かべたのだろう。どこかうっとりとした表情をみせた。

 「しかし、先週、仲間から報告があがりました。剣士の五十五が守屋の手に落ちた、と」

 その言葉に、八尋と雪村は息を詰まらせた。

 「よもや、それは…まことですか……?」

 雪村が聞きなおし、それに四辻は黙って頷いた。

―――八尋が…捕まった…!

 八尋は右手で額を支えるように頭を抱え、思いを巡らせる。

 一刻も早く助けに行きたい。しかし、自分がここを離れるわけにはいかない。ならば四辻とその仲間に頼んで、ということも言えない。四辻との繋がりを作ってしまえば、この村にも九頭の手がすぐに回ることも考えられる。

 だとしても、危機的な状況に追い込まれている八尋を放っておくことなどできるはずもない。

 「八尋さま!我々で助けに行くなど…!」

 「ならん!」

 永助の言葉を遮るように八尋は声をあげた。怒鳴り声に永助は口をつむり、何も言えなくなってしまう。

 「いや…永助、すまぬ。私こそ助けに行きたい気持ちでいっぱいだ。だが、村と社を巻き込むわけにはいかぬ…。ここに九頭の手が回れば、容易く落とされるのは見るまでもなかろう。そうであろう、四辻どの」

 「……儂から見ても、そのように思いました。この地の守護神であられる霊狐さまのお力は大変すばらしいものですが、武力の勝負となれば」

 「大小携えた四辻一人で、恐らく社の霊狐を全員倒せるだろうな。境内で見たおぬしの気配からすぐに察した。やはり、刀を持つ守護神と豊穣神とでは力の差が大きすぎる。そもそも、我らで五十五を助けに行くというのが無理な話だ」

 「だが…」

 八尋の話し終わりに、四辻がひとつ言葉を足す。

 「八尋さまのお力ならば、五十五を救出するのは容易い…。それは間違いござらんでしょう」

 四辻の言葉に、永助が「えっ」と声を漏らした。

 「どこで鍛錬を積まれたのかは分かりませんが…境内で儂が見た八尋さまのお姿、あれはただものならぬ気配だと覚えました。大小携えたこの儂が、まさかその懐刀ひとつに負けてしまうのではないか、とも」

 四辻が八尋に抱いた感覚は本当のことだ。現に、あの場で四辻を殺そうと思えば五十五は容易く首を切り落とせていただろう。五十五の化け術にかかる相手にはそもそも刀勝負にすらならない。

 「八尋さまの苦悩は、この四辻も痛感しております。だからこそ、ご相談にあがらせていただきました」

 八尋は口をつむったまま、四辻の言葉を待った。

 「儂は久松様のもとへ拾われるまで、仲間たちと木こりをしておりました。木を切っては町屋へ売りに行き、売れたその日は仲間と呑み明かし…。つまらぬ日々とは言いませんが、実に閉鎖的な営みを送っておりました」

 「仲間たちと木こり…?」

 話の合間に、永助が首を傾げた。

 「永助さま。山で斧を振るう者たちの仕事、と言えばおわかりでしょうか」

 四辻が木こりの意味をほのめかすも、世間知らずの永助はまだわからない様子だった。

 話が進まないな、と雪村が含み笑いを見せて永助に耳打ちをする。

 「山賊のことですよ」

 雪村の答え合わせに、永助は「あっ」と声を漏らして恥ずかしそうに俯いた。

 二人の様子に八尋はクスリと笑い、「続けてくれ」と四辻を促す。

 「そんな儂らに手を差し出してくださったのが久松様です。当時の儂らは、金と酒さえ貰えれば誰の元で働こうが気にする者はおりませんでした。今の、守屋の連中と同じように」

 「しかし、久松様は儂らに世界の広さ、そしてヒトの世の奥深さを教えてくださりました。そして、儂らはその時理解しました。我々には、仕えるべき主が必要だったのだと」

 「久松様の亡き今、我々は元の生活へと戻ってしまいました。仲間はちり散りになりましたが、あやつらは、しょうがないさ、と笑っておりました。受け入れられなかった儂も旅に出て、しばらくせんうちに『しょうがない』と諦めをつけることができました」

 「ところが、そこで五十五と出会い…あの子の目に惹かれました。諦めをつけたはずの儂をも突き動かす何かを、五十五の中から感じました。それは五十五との暮らしを、あの子が旅立った後の報告を聞き。今では確信に変わっております」

 「儂は、あの子のもとへ仕えたい、と」

 「しかし、儂のわがまま一つでまた仲間たちに手を貸せと、命を出してよいものかと。あの子の命に危険が迫っているのに関わらず、まだ迷ってしまっているのです。ましてや五十五はまだ子供、そんな子に仕えるなど、あってよいことなのでしょうか」

 八尋は袖に手を入れて四辻の目を見る。

 「おぬしはすでに答えを得ておる。押しの欲しさに悩む素振りをしとるだけではなかろうか」

 「それは…」

 「五十五のこれまでの功績、おぬしはしかと目にし、その身に沁みたのであろう。あの子は、仕えるにあたいする者だと。それを口を開けばなんだ、『仲間のため』だの、『まだ子供』だの。それこそ、あの子に対する最大の裏切りとは思わぬか」

 「…八尋さまの、仰るとおりでございます」

 それに。と、八尋はひとつ置いた。

 「五十五が今、一番必要としておるのは、おぬしではなかろうか。あの子は極限まで追い詰められなってようやく素直になる。おぬしと同じように」

 その言葉とともに、八尋は懐からお守りを四辻に差し出した。

 「おぬしの決心がついたなら、これを五十五に渡してくれぬか」

 そのお守りを四辻は両手で手に取って、八尋を見上げた。

 「ひとつ、四辻に問うてよいか」

 四辻は八尋の言葉を待った。

 「もし五十五が領主九頭を討ったとして、領内の統治はどうなるのだろうか。よもや、五十五が領主として…」

 全てが終わった後、最も憂慮していたことを四辻に問うた。

 「打ち取った者が次なる領主となることは民や兵が一番求めておることと思われます。五十五が領主となりうる可能性は非常に高いかと…」

 八尋と雪村の表情が悪くなる。

 いっそのこと、全てが終わったらまた入れ替わって自分が統治をしようか。そんな考えが過ぎる中、四辻は続けた。

 「ただ、儂は五十五の願いが町屋を統治することではないと考えておるのです」

 「それは…なにゆえ?」

 「いえ、儂がそう思うとるだけでして…申し訳ございません。ですが、ひとつ気になることもございまして」

 「…続けろ」

 「久松様のご子息が、どこかで御隠居されている可能性があるとの情報を仲間が得ております。もしそうであるなら、その者が次の領主になりうるのではないかと」

 「久松殿の息子?だが、久松殿は娘しかおらず跡継ぎたる身内がいないという話は…」

 「その話は儂も聞いておりました。ですが、久松家の宝物殿に男子へ贈るための短刀があったと。今は我々が手にしておりますゆえ、九頭には知られておらぬと思います」

 「それはいつぞやの話か」

 「まだ久松様が存命であられた時でございます」

 「その者、信用にたる者か」

 「儂が死ねと言えば死ぬ男です」

 それが本当なら、再び久松家が領主となる未来がある。

 その情報を五十五が掴んでいるかはわからないが、今、五十五に必要な者は四辻たち妖狸であると確信する。

 八尋は雪村と永助を順に、目で指示をする。永助が心配そうな表情を見せるも、雪村はそっと頷いて永助を促した。

 二人が息を合わせて集中すると、部屋を囲っていた結界が解け、四辻は自由の身となる。

 「八尋さま…」

 よろしいのでしょうか、と四辻は言いたげな顔をしていたが、八尋はそっと首を縦に振る。

 「我ら霊狐は、そなたら妖狸に加担するわけにはいかぬ。妖狸の争いならば、妖狸の手によって治めるべきであろう。だが、ことが平穏無事に終わるよう、我らも願っておる」

 八尋は足を組みなおす。

 「時が移る。早く征け」


 あれから何日経っただろうか。五十五は牢内で陰陽師に助けられてからしばらくして、囚人たちとの関係も少しずつ持ち始めていた。

 九頭から「好きにして良い」と渡された五十五を、囚人たちはこれまで渡されてきた稚児と同様の扱いをしようと企てていた。しかし、陰陽師が牢屋に来た翌日から、米屋の主人、薬屋の女など、五十五をよく知った人物が何度も入れ替わりで物資を届けるようになった。

 ずっと素っ裸で放置させられていた五十五に小袖も与えられ、人なみの待遇に戻りつつある。

 その光景を見た囚人たちは、そこでようやく剣士としての五十五がどんな人物なのかを知る。

 今では五十五を犯そうとまでしていた件の牢主も、仲良く…とは言わないが、牢仲間の一人として目を置いていた。

 「あやつを、そちらの陽のあたるところで横にさせてもらえぬか」

 「また人助けか、暇なやつだ」

 牢主がつまらなそうに五十五を見下ろし、しぶしぶその場を譲る。五十五は体調を悪くした囚人を横に寝かせ、額に手を当てる。

 牢主に願い申し上げるなど、ほんのひと月前ではありえなかった常識も、今では変わりつつあった。

 「そういうおぬしこそ、随分変わったではないか。少し前には俺を便所の代わりにしとったくせに」

 「その便所に色んなやつが酒や金を運んできてるの見りゃな。噂には聞いとったが、本物とは」

 「天下無双の剣士にあれだけのことをしたんだ、おぬしは牢から出る日が命日になるやもしれんな」

 「ふん、元より牢外など俺の住む世界じゃねえよ」

 「…冗談だ」

 目も合わせず、言葉を返した。寝かせつけた囚人の目元を布で隠し、しばらく様子を見るようにと他の囚人に言いつける。

 「もう何日ここにおるか、わからなくなってしもうた。九頭め、何を待たせておる…」

 五十五は身体のところどころを掻きながら、窓からの日差しに当たる。

 廊下の方から、木戸のかんぬきが外される音が聞こえた。来訪者か、それとも今度こそ…。

 牢屋の前に、奉行人の三人と、守屋の侍の一人が現れる。

 「剣士の五十五。九頭様より御呼び出しだ」

―――ようやく来たか

 牢を開けられ、五十五は黙って外に出る。

 乱暴に後ろを向かされ、両腕を後ろ腰に縛られた。

 準備が終わったのか守屋の侍が、「連れて行け」と奉行人に指示をする。

 「おい、五十五」

 牢主の男の呼びかけに、五十五は振り向いた。

 「牢から出たら、次は金を払うぜ」

 五十五は呆れた顔でひとつ笑い、言葉を返す。

 「俺の嗜好ではない」

 奉行所の中で、またも隠すように五十五は籠に入れられる。城内へ連れて行かれるまで、五十五は町屋の人々の声に聞き耳を立てていた。

 「五十五…だよな」

 「ひと月の丁稚奉公が終わったと立て札にあったからな。おそらく…」

 聞きなれないことを耳にした五十五は、町屋の人々に自分の判決がどう伝えられてるのか理解できなかった。

 牢内で時折聞いた『稚児入り』というのは、罪を犯した子供に対する処罰の一つであった。子供を入牢させるわけにはいかない。代わりに、罪を犯した子供にひと月ほど囚人たちの世話をさせることで、奉公の心を教える言い渡しがあった。

 実際には、牢内で五十五が受けた仕打ちが稚児入りの現実だ。タダで子供を好きに扱えることから、囚人たちからすれば日頃の欲を発散するための相手としか見られない。

 「五十五の丁稚奉公か、なんだか考えたくないのう」

 「天下無双の剣士が囚人たちの世話って聞くとな…」

 五十五がひと月ほどの牢入りをしている間に、五十五に対する町屋の人々の期待は大きく落ちていた。憧れとも思えた剣士が、囚人たちに犯されるなど幻滅されても無理もない。

 町屋の人々がどれほどの光景を想像をしたかは分からないが、確かに口にモノを突っ込まれて両方の処理に使われたのは事実だ。あれ以上のことは無かったとはいえ、丁稚奉公の結末を知っている人々からすれば、あらぬことまで噂されているに違いない。

 「九頭に良いようにやられてるな。クソ…」

 今まで積み上げてきた名声が、わずかひと月で大きく変わってしまったことに、五十五は奥歯を噛み締めた。


 五十五は前回の謁見と場所が変わり、寝殿の前へと座らされた。

 久しく気持ちの良い外の空気を吸い、五十五は三月の陽気と春の香りに気づく。それと同時に、自身から漂う強烈な異臭が鼻についた。これも惨めにさせようと計算したのかと、五十五は呆れる。

 付人から「おもてをあげよ」と言われ、五十五は寝殿へ見あげる。無駄に首を吊られたくもない。

 それから間も無く、廊下から九頭が姿を見せる。ひと月で変わり果てた五十五の姿を見て、九頭の口角があがる。

 「剣士の五十五。ひと月の丁稚奉公はいかがであったか。新しい趣味は見つかったであろうか」

 五十五は何も答えなかった。まだ発言が許可されていない今、喋るとろくなことにならない。五十五は九頭の様子をうかがっていた。

 「丁稚奉公をやり遂げたのだ、ご褒美を用意しようとも思うとったが、おぬしを稚児扱いしておると話が進まぬな」

 九頭は顎で付人に合図を送る。付人は五十五を縛っていた紐を切り、五十五の身体を自由にさせた。

 「では、取り入れへと話を進めようではないか。これより、そなたを談話へと招き入れよう。縛りを解いた今、自由な発言、行動を許可する」

 五十五はその場で立ち上がり、両膝の土を払う。

 「と、その前に。そなたの身体は臭うてたまらん。一度、湯屋で身体を清めて来るとよい」

 整えられた毛並みも、今では湿気を吸ってボサボサになり、囚人たちの体臭や土汚れにまみれとてつもない異臭を放っていた。

 「そうさせたのは、おぬしだがな」

 発言が許された五十五は、その場で九頭に言い返す。

 「クッフフ…そうであったな。では、これよりそなたを客人としてもてなそう。そなたの世話人も用意させておる」

 九頭が打ち木でカンッと甲高い音を鳴らす。

 その音とともに、廊下から五十五のよく知った人物が姿を現した。

 鮮やかな緑を基調に藍色の裃(かみしも)に彩られたその人物は、五十五見て身体を震わせる。

 「世話人の彦三郎だ、歳の近い世話人の方が仲良くできよう。さあ彦三郎、お客さまの案内を。私は先に控えで待っておこう」

 含み笑いを見せつつ世話人を紹介した九頭は、彦三郎を残して寝殿奥へと姿を消した。


 五十五は無言のまま、彦三郎の案内をうける。

 彦三郎に対する気持ちはまだ整理できていない。いや、どこか諦めの気持ちも湧いている。

 彦三郎は、敵だと。

 しばらく長い廊下を歩くうちに、立派な障子戸の前で彦三郎が立ち止まる。

 「…こちらが湯屋になります」

 障子をスッと開くと、心地よい湯の香りが鼻に入る。広い脱衣所と、その奥に五人はゆうに入れる檜の湯船があった。

 久々の風呂というのに、五十五の表情は変わらなかった。

 五十五は案内されるまま浴室に入り気配を探る。誰かが隠れている気配も無く、線香のような妖気が混じっているわけでもない。本当に歓迎しているつもりか、それとも舐められてるだけなのか。

 「失礼します…」

 障子と木戸からなる二重扉をトンっと閉められる。二重扉とはいえ湯殿に障子を使うなど随分金を使った造りだ、と五十五は呆れる。ひと月に何度張り替えさせているのだろうか。

 彦三郎は着ていた服を素早く脱ぎ、一糸纏わぬ姿で前に立った。血色や肉付きの良い身体付きを見るに、町屋で見る子供たちとは比べものにならないほどいい物を食わせてもらっているのだろう。

 何も言わぬまま、彦三郎の手によって服を脱がされる。武家屋敷では、世話人が全てのことをしてくれるため、武士は何一つ指を動かす必要はない。

 裸になった五十五は浴槽に足を進めると、彦三郎は足早に木椅子に湯をかけて温める。五十五はひとつ待って木椅子に腰をかけた。

 彦三郎は桶を持って五十五の足元から湯をかけてゆく。久々の湯の気持ちよさが足先から頭頂にかけて伝わり、五十五はたまらず大きく深呼吸をいれる。

 足先から膝、大腿、背中、頭、と、湯をかけ流す。一通り終わると、彦三郎は櫛を持って背中側へと回る。

 先ほどの逆順に、櫛と湯を使って五十五は身体を洗われる。こんな手厚い世話など、社でもされたことはない。しかし、五十五は初めての体験の感動よりも、彦三郎の慣れた手つきに何とも言えない感情を抱いてしまった。

 五十五は立ち上がって湯船に腰を下ろし、ふーっと、息をついた。彦三郎は裸のまま、湯船の側に立って待っていた。

 彦三郎の身体が震えていることに気づいた五十五が口を開く。

 「おぬしも入れ」

 「で、でも…」

 「いいから。一人には広すぎる」

 五十五の誘いを断るわけにはいかないと、彦三郎は「失礼します」と一言告げて同じ浴槽に入る。彦三郎が湯に身体を沈めると、浴槽から湯があふれる。

 二人は向かい合わせに、五十五は足を伸ばし、彦三郎は膝を抱えて座った。

 しばらく沈黙が続く。浴槽にかけ流されている湯の音だけが浴室に流れた。

 水の流れが少ないこの平地の町屋で、いったいどうやって水を汲んでいるのだろう。五十五がそんな考えを浮かべていたところに、彦三郎がひとつ呟く。

 「あの…五十五、おいら謝らなきゃいけないことが…」

 「小屋でのことか」

 「それもある、けど、もっと昔のことから…」

 五十五は彦三郎の言葉を待った。

 「二年前、五十五と一緒に暮らし始めた時に、おいら宿屋から追い出されたって言ったけど、実は違うんだ。ううん、宿屋から出たのはあってる。だけど、本当は、その…九頭が身元を引き受けてくれたんだ」

 「じゃあ、仕事をしにいってたってのは嘘だったってわけだ。あの金も、全部九頭から貰ってたってことか」

 「うん。それで、五十五が町屋に来た時、家を用意したからそこで二人で暮らせって…。そこで、五十五について調べるように…」

 「つまり最初から廻者だったと…?」

 「………うん」

 五十五は言葉を失ってしまう。

 「おいら五十五のことを、ここに来た時にいつも報告してた。五十五がいつ動いてるとか、どこに行ったとか…。人間関係、好きなものや嫌いなものまで…」

 「俺の行動は最初から筒抜けだったということか」

 「否定は……しない」

 「俺との生活や遊びも全部、『仕事』だったってわけだ」

 「五十五との日々は―――」

 「卑劣極まりない!」

 言葉を遮られた彦三郎は口をつむる。

 「どうりでおかしかったわけだ。宿屋を追い出されたというのに、いつも客に困らず金銭を得ておった。そんな稚児が付き者もなしに町屋を歩くなど…。考えてみれば、いつ襲われてもおかしくないはず。俺が後ろ盾になっておると思っておったつもりが、本当に九頭と繋がってたわけか。そりゃあ、誰にも襲われぬはずだ」

 「え……?」

 「おぬしと別れてから、おぬしについて調べさせてもろうた。宿屋の帳簿から…おぬしが守屋に化かされて城へと入る場面までな。それでも、おぬしを少しでも信じたい気持ちはあった。いや、俺自身が、おぬしとの日々を否定したくないものがあった」

 「う……」

 「実に見事な密偵振りであったな。俺も落ちたものだ。おぬしを注視しとったつもりが、その兆候をひとつもうかがえんかった。それに対しておぬしは、二年間俺にバレずに報告を続け、離ればなれになったはずの俺の居場所を突き止め、刀を奪って俺をここまで陥れた。刀を奪い届けたあの日は、さぞ楽しい褒美を貰ったのだろうな」

 「ち、違う!」

 否定する彦三郎に、五十五は目を合わせて言葉を待った。

 「五十五に隠してたのは本当のことだけど、おいらも九頭に隠してたこともある…!」

 彦三郎は続けて話す。

 「おいらの気持ち…五十五との日々の気持ちは…九頭にも話してない…!おいら、五十五と暮らしてたあの日々がずっと楽しかった。一人だったおいらの日々に、家族のような人が現れたことに…」

 五十五は口をつむったまま聞いていた。

 「いつも人の機嫌をうかがってるおいらに、そんなおいらにも気にかけてくれる優しい五十五と暮らしてるうちに、本当に家族のような感覚を覚えたんだ。五十五が身体を重ねてくれた時は、信じてくれたんだって本当にうれしかった。だから、ここで報告する時はいつも辛かったんだ…。刀を奪った時は、おいら本当に…」

 五十五はため息をついて話す。

 「彦三郎、俺は言ったはずだ。あの刀は、俺の命そのものだと。刀を誰から貰ったかも知っておれば、その意味は十二分にわかっておったはず」

 「ごめんなさい…」

 「それをおぬしは奪ったのだ。わかるか、おぬしは俺を殺したのだ」

 「ごめん…なさい……」

 五十五は湯で目元を擦る。

 「俺の刀はどこだ」

 彦三郎は、「それは」と二度呟いた。

 「おいらにも…わからなくて…。普段なら地下の宝物殿だと思うんけど、五十五の刀は九頭も気にしてたから、たぶん違う場所に置いてあるかも…」

 五十五は表情を悪くして横目を向く。

 「おぬしの言葉、それは偽りとは思わん。今のおぬしを見てもそう感じぬ。だから、俺との日々の想いは本心なのであろう」

 「えっ…?」

 「だが、もうこれまでだ。おぬしは尻尾の振り方を決めた、俺はそれを否定しない。俺のやるべきことは何もかわらぬ。だからもう…」

 「ま、待って!」

 彦三郎は自身に目も向けず言い捨てた五十五を呼び止める。

 その声に視線を戻した五十五に、彦三郎はやはり目を合わせることもできない様子でうつむいた。

 「あの雪の夜に訪ねてきたとき、おぬしはこう申しておった。俺に会いたい気持ちで探していたと。俺はその想いがもたらす力をよく知っておる。だから、おぬしの俺に対する気持ちはよくわかった。嬉しかった。それと同時に、おぬしを疑っておる最中の来訪にどうすべきかを悩んだ。だが、あの日はおぬしの想いを信じてみようと迎え入れた。…結果はこのざまだがな。おぬしの内をうかがって、不穏な気質が無いかをいつも確かめておった。その日はおぬしの心も綺麗なものであったというのに、なぜ気づけなかったのだろうかと考えておった」

 「そして一つの考えに至った。おぬしは、俺を想うのと同じくらい九頭にも心を寄せておるのであろう」

 五十五の言葉に彦三郎の身体が硬直する。

 「此度の件、おぬしが裏切ったとは思わぬ。ただ、おぬしは選んだだけだ。だから、もう。わかるであろう」

 「おいら、おいらは……」

 震えた声で話す彦三郎のなかから、五十五は違和感を覚えた。

 「……あがろう。のぼせてしまう」


 彦三郎は事前に用意されていた羽織を五十五へ手際よく着つける。朱の袴に白の大袖。久しい配色に、五十五は心を落ち着かせる。

 以前、九頭と談話をした広い部屋を過ぎ、そのまま長い廊下をつたって、奥まったところの階段へと案内される。

 「九頭さまは、天守閣にてお待ちになられております」

 なぜわざわざ天守閣に、と五十五は疑問を浮かべつつ階段に足をかける。

 頑丈な造りに、軋む音はひとつも立たない。階段を見上げたやや新しめの小組格天井の木の香りが心地よい。

 階段をあがり、吹き抜けになった柵の向こう側を覗くと、繁栄の灯りに照らされた町屋が一望できた。

 気づけばもう夜中。暗い背景に町人たちの灯りが揺らめく町屋の景色の美しさに、五十五は思わず立ち止まった。

 春は訪れたといえ、夜風はいまだ冷たい。吹き抜ける風に五十五は片目をつむり、九頭が待つであろう部屋を探す。

 見渡せるほどの広い舞台のような木床に、柱が間隔をあけて立っているだけの造り。その一角に木壁で囲われた部屋を見つける。

 きっとあそこだろう、と五十五は木戸の前に立つ。その後ろを彦三郎はさっと横切り、部屋の前で五十五にぺこりと一礼をする。

 「九頭さま、剣士の五十五どのが到着いたしました」

 「はいれ」

 恐れ入ります、と、ひとつ置いて彦三郎が武骨な木戸を開ける。

 およそ八畳ほどの部屋の四隅には灯りがつけられ、その部屋の奥に正装をした九頭がただ一人、ひと足先に酒を呑んで待っていた。

 九頭の対面に座布団と、五十五のために用意させたであろう膳に小鉢が置かれてあった。

 「まあ座れ」

 五十五は警戒する様子を見せつつ部屋を見渡した後、九頭の前にあぐらをかいた。

 「御殿が従者も連れず一人とは、ずいぶんと恐れ知らずではなかろうか」

 「ここへあがってこよう者など、私を闇討ちせんとする者しかおらんだろう。それに、天守閣の造りを見ればわかったのではないか。こちらは、『やりあう』のにちょうど良いと。変に身構えるより、堂々と迎え撃つ方が気が楽よ」

 「ふん」

 「今宵は彦三郎をお前に貸そう。今日は己で酌をする。気を使わんでもよいぞ」

 五十五の隣に彦三郎を座らせた。五十五が猪口を持つと、彦三郎はさっと清酒を注いだ。

 「では、取入れの話にあたってささやかな宴とゆこうではないか」

 九頭が猪口を掲げる、五十五もそれに続いて掲げる。二人は一口で飲み干し、再び猪口を酒で満たす。

 五十五は小鉢を手に取って中を眺める。魚の皮に醤(ひしお)のような調味料で味付けされているようだが、妙に酢のような匂いがする。

 ひとつ口に入れると、五十五の表情が変わる。皮の感触と醤酢が絶妙で、これまで食べたことのないおいしさがあった。

 「いかがであろうか、五十五どの」

 「ふむ、うまいな。逸品であろう」

 「そうであったか。五十五どのの口にあったのであれば私も鼻が高い」

 九頭は上機嫌で酒を飲む。

 想像していた談話とは全く違う雰囲気に、五十五は余計に気を張らせてしまっていた。

 「遠慮せず飲ろう、今夜は色々作らせてある。もうすぐフグもくる」

 「フグだと、正気か?」

 「おや、天下無双の剣士と謳われる五十五どのが、フグを怖がろうなど。我ら妖狸は毒で死ぬこともなかろうに」

 「そのような問題ではない。なぜわざわざ毒をくらわねばならん。フグは毒抜きも効かぬことを知らぬのか」

 五十五は小鉢と箸を置いて眉をひそめた。

 「クッフフ…いや失礼、と」

 九頭が笑いを見せたところで、下の階からコンコンと柱を鳴らす音が聞こえた。

 「どうやら次の膳がくるようだ。しばし待たれよ」

 木戸の向こうから「膳をお持ちしました」と声がした後、数人の世話人が膳を持ってあがってくる。

 五十五と九頭の前に配膳されたものは、向付、焼物、そして火の付けられた土瓶に徳利が置かれた。配膳が済むと、世話人たちは一礼のち足早に下へと離れてゆく。

 五十五は向付に彩られたフグの刺身を見る。フグ毒は古来から危険なものと教えられている一方、美味であることから口にして命を落とす者が後を絶たない。国や家族のために使う命を、己の食欲によって落とすなど笑い話もいいことだと意を表明する領主がほとんどである。それから、フグを食べる者は愚か者であるといわれてきた。

 どう考えても食べようとは思えず、五十五は向付に手を付けず焼き魚へと箸を伸ばす。

 九頭は五十五の価値観を無視して、フグの刺身を醤酢につけて口にする。

 その姿を見た五十五は言葉を失った。

 「貴重なものゆえ、食わぬと勿体ないぞ」

 「フグ毒はいまだ解毒法が見つかっておらぬ、我らも無事とはいえ数日は寝込むぞ。その寝込みを襲われることも考えられぬのか」

 「この向付には毒は入っておらん」

 「なぜそう言い切れようか」

 「クク…おぬしはもっと賢いと思うとったが、そうではないようだ」

 「どういうことだ」

 「このフグが持っとる毒は卵巣と肝臓と腸のみ。精巣、皮、肉は無毒である」

 知らない単語を口に出す九頭の説明に、五十五は眉をひそめる。

 どうも信じがたいと手を止めて睨む五十五に、九頭は続ける。

 「なら、彦三郎に毒見をさせてもよいぞ」

 「試せと?ヒトの命をなんだと…!」

 「だから言うておろう、無毒と」

 ヒトを使って確かめようなど、五十五にできるわけもない。

 どうせ毒に当たっても二日ほど唸るだけだ、彦三郎で試すよりはマシだと判断したのか、五十五は黙って向付に手を付ける。

 「味はいかがかな?」

 さすがの五十五も緊張して味がよく分からないのか、答えなかった。

 「すぐに慣れよう、安心せよ」

 余裕のある表情で、九頭は膳を進めてゆく。運ばれてきた熱燗を手に取り、二本目になる。

 「この調理技術は誰のものか…?」

 「隠すこともない、私が調理師に教えたものだ。教えたのはそれだけじゃない、これも、これから運ばれてくる膳も全てそうだ。様々な料理における調理法も書にとって町屋の連中にもばらまいておる」

 「な…!おぬしが考案したと!?」

 「私がここへ来た時の町屋の飯はつまらんものばかりだったからな。それに、飯がうまけりゃ人も集まる。特段、内密にするより明かしたほうがよかろう。撒き餌と同じよ」

 五十五は目の前の膳を見渡して、これら全てが九頭の考案であることに驚きが隠せなかった。

 「それと、フグ毒を気にしておったようだが、おぬしは向付よりも前から食っておるぞ。あの小鉢はフグ皮よ」

 「くッ……!」

 本当に毒のある部位なら、既に発症してもおかしくない。なにも変化がないということは、無毒だったことになる。

 「とはいえ、さすがにフグの調理法をばらまくわけにはいかぬ。あれは扱いが難しいからな」

 「……町屋の景色がいつからか大きく変わっておるが、もしや全ておぬしの知によるものか」

 九頭は口角をあげ、あぐらを組みなおした。

 「いかにも。衣、食、住、基本的な構造は全て私が考案させてもらった。医学や衛生環境にいち早く着手したのは我ながら良い案だったと思うぞ。おかげで流行病も減りつつある」

 五十五は話を聞いているうちに、さらに謎が深まる九頭という人物に恐れを覚え始める。

 そして次の膳が運ばれてきた。五十五の手は焼物で止まったままだ。

 「いくら副菜があるとはいえ、一つの物を食べるのは飽きる。茶の席に習い多くの膳を並べる方がいいだろう。飯と吸い物は最後に出る。『九膳』と名をつけたが、これは宿屋で流行るだろうな」

 とにかく手を進めようと、五十五は向付と焼物を食べ終わる。合間に彦三郎が熱燗を勧めるが、今はできるだけ酒をいれたくないことから断りを入れた。

 「さて、そろそろ本題へ入ろう。おぬしの取入れについてだが…」

 九頭の提案に、五十五は箸を置いて九頭と目を合わせて口を挟む。

 「取入れについてはお断り申す」

 「えっ!」

 隣に座る彦三郎の驚く声が聞こえた。

 「クフフ…。いや、わかっておったことだ。おぬしが私の元へ仕える気などさらさら無いことなど。だがどうする、取入れを断るということは、明日にも首が刎ねられることとなるが。なぜ断るのだろうか、聞かせてくれぬか」

 わかりきったことを、と五十五は奥歯を噛む。

 「貴様は、いったい何のつもりで…!」

 「それだ」

 九頭は五十五を指さしてニヤつく。

 「今日、お前をここに呼んだのは取入れの話でも、宴のためでもない。平和的な話し合いと取り引きをする算段で召喚したまでよ」

 「…これまでの貴様の行いを見て、その取り引きとやらを信じろとでも言うのか?」

 「今のお前は―」

 九頭は熱燗を徳利ごと口にし、一口で飲み干して話を続けた。

 「私が何者なのか、何を目的としているのかも知らず、状況に流されるまま私に敵愾心(てきがいしん)を燃やし刀を振るう…ただの子供にすぎない。いや、実にくだらない」

 五十五は口をつむったまま、九頭と目を合わせていた。

 二人の膳はいつのまに空となり、九頭は柱を木づちで叩いて次の膳を持ってくるよう世話人に伝える。

 足早に世話人たちは飯と吸い物を持って現れ、二人の前に置いて去ってゆく。人の気配が消えてから、五十五は口を開いた。

 「貴様は……旧領主である久松にすり寄り、機会をうかがって領主の座を取り、必要以上に領内の職人や百姓に手をかけ町屋を栄えさせようとする。繁栄の影で苦しむ人々の意を見ず、ただひたすらに力を強めようと。そうなれば隣国どころか、遠い他国との大きな争いの火種ともなろう」

 五十五は続ける。

 「力を得ようとせん九頭の目的はいまだ掴めぬ。しかし、世に混乱をもたらそうとする貴様の姿、敵だと認識する理由には充分だろう」

 飯をかけこみつつ、九頭は五十五の話を聞いていた。

 「クッフフ……。浅い、実に浅い理解だ」

 九頭は椀と箸を置き、ため息を一つついた。

 「それに、その『理由』についてはいかがなものがあるな」

 「何ッ!?」

 「お前の本当の『理由』は、ただ―。『社に居る狐』のためではなかろうか?」

 その言葉に五十五は目を大きくして彦三郎を見た。

 「おぬし…ッ!」

 「ち、ちがっ…おいら言ってない…!おいら、その…断じて…!」

 狼狽える彦三郎の胸のうちに、五十五は不穏な気質を覚えた。

 「おいら、おいらは…五十五を…!」

 この光景はどこかで見たことがある、そしてその内に溢れようとする気質に五十五は妖術に捕らわれた霊狐の姿を思い出す。

 五十五はすかさず彦三郎を抱き寄せ、霊術によって眠らせた。彦三郎の身体はガクンと脱力し、五十五のもとへと寄りかかる。

 「いやはや、相変わらず素晴らしい手際だな。都合よく夢を見せて落ち着かせるなど」

 「貴様…彦三郎を妖に落とすつもりか…!?」

 眠り落ちた彦三郎を静かに横へ寝かせ、違和感を覚えた腹部に手を当てる。先ほどの気質も落ち着きを見せ、ゆっくりと呼吸をしている。

 彦三郎の身体のうちから、これまで見たことの無い妖気を感じとった。今までため込んでいた気質が、彦三郎の心境によって妖気へと目覚めるように。

 九頭は彦三郎の状態を無視して五十五と目を合わせた。

 そして不気味な笑みを浮かべて本性を露わにする。

 「これでようやく、あの時の談話の続きができよう。『八尋』さま」

 五十五は、『八尋』と真っすぐに呼ばれ、背筋がサーっと凍り付いた。

 そして静寂が訪れる。八尋は無意識のうちに簡易結界を張った。外の者へ絶対に聞かれてはならないようにと。

 「一体、何を……」

 「さて、八尋さまはいったいどこからその化け術を身に着けたのでしょう。これまで誰一人として気づかれず、どんな状況に置かれても化け術が解かれぬとは…。あの『狸』の化け術はいまだ健在ということでしょうかねえ」

 いまだ口のきけない五十五を前に九頭は続ける。

 「あの狸も社でうまいことしておるようだ。神力を持たない妖狸のせいで、あわや不作となりかけたようだが…今年の米は質も量も保てたご様子で。そんな村の存続にも関わる危険な妖狸を身代わりとして社に置いてくるとは、八尋さまもとんだ策に出ましたね」

 あまりに具体性のある言葉。ハッタリなどではない。八尋は全てバレていると確信した。彦三郎に話した情報以上に、八尋の持つほぼ全ての内情を九頭は掴んでいた。

 一体いつから。いや、この二年間対峙することも無かった九頭がどうやって知りえたのか。社には手紙ひとつすら送っていない、五十五と社の繋がりすら見せていないのだ。思い返せど、九頭が真実に辿りついた理由が見当たらない。

 八尋は頭の中で、ぐるぐると思考を巡らせる。

 「化けの皮が剥がされてグウの音も出んか。狐よ」

 九頭が笑いあげるなか、八尋は混乱を隠せなかった。

 「それを含め、改めて我々の立場を整理しようではないか」

 「立場だと?」

 「お前が真に成すべきことは、私と敵対し、再び久松のいた時代のような町屋に戻すことか?違う。お前は村の安寧と五穀豊穣を司る社の祭神だ。天下無双を謳う剣士ではなかろう」

 「それの何がおかしい。元より、久松との談話を決裂させ、こちらの霊狐二人にも危害を加えたのは貴様であろう」

 「そこが大きな誤解となっておるようだ。私はある目的をなすため、あの時は外部との繋がりを持ちたくなかった。思い出してほしい、私はあの時『霊狐は必要ない』と言ったまでだ。追い返すにあたって霊狐二人に危害を与えたのは事故のようなもの」

 「何をいまさら…!」

 「私はお前の邪魔をする気はない、むしろ今では協力してほしいと思っておる」

 「協力だと?」

 「そこで取り引きだ。これまでのお前の罪、全てに恩赦をかけよう。さらに町屋と社を結ぶ…あの縁の話を受け入れようではないか。その見返りに―」

 九頭は組んだ足に手をかけ、前かがみになって話す。

 「社にいる妖狸の五十五を引き渡してほしい」

 「何だと!?」

 「あの妖狸を我が配下として置いておきたいのだ。あれは国を傾かせるほどの力を秘めておる。なに、城へ来れば好きなだけ会えるようにこちらも努める」

 「断る。到底受け入れられる話ではないぞ!」

 五十五は膳を叩いて身を乗り出して答えた。

 「悪くない話だとは思うが…」

 九頭は大きなため息をついて肩をすくめた。

 「やつは八尋と出会ってから、叶うはずのない夢を追い、身を削り、お前ならできると騙る言葉に捕らわれ、本来の力を振るえぬまま囲われた哀れな…」

 「その口を閉じろ、九頭ァ!」

 五十五が片足を立てた瞬間、それを静止させるように九頭は刀を手に取って鯉口を切った。

 犬歯を見せて唸りをあげ威嚇する五十五と違い、九頭は冷静だった。

 「クッフフフ…血の気が多いな、『五十五』。すぐに突っかかるなと四辻に教わらなかったのか?」

 一瞬にして刀を構える九頭を見て、これまで会った剣士の中で比べ物にならない鋭さを五十五は覚える。

 丸腰でやりあうわけにはいかない。五十五も次第に冷静さを取り戻す。

 「まあ座れ。別に話はこれだけではない」

 九頭が刀をしまい、側に置いたのを確認してから、五十五はあぐらをかいた。

 「この条件にお前が首を縦に振ることはなかろう。それは私もわかっておった。なぜならお前の夢は、五十五と結ばれて、ゆくゆくは幸せな家庭を築きたいわけだからな」

 「俺と五十五の願いを、貴様が容易く口にするな…!」

 九頭は「ふん」と笑って立ち上がり、手付かずの五十五の徳利を手に取って席に戻る。

 「いや、笑うこともない。結ばれ、子を成し、家を築く…ヒトも獣も、神霊も妖も変わらぬ幸せの形だ。私自身も、近いうちにそうなりたいと願っておる。家族とは良きものだ」

 九頭はややぬるくなった徳利を手に取り、猪口に注いで一口で飲む。

 「だから、そんなお前たちの思いも汲み取った、もう一つの素晴らしい条件を出そう」

 五十五は九頭の言葉を待った。

 「妖狸の五十五は諦めよう。それと先ほどと同じ話になるが、町屋と社の関係も築こうではないか。さらに、お前の村の徴収も特別に減らし、そちらの分社をこちらの町屋へ置くことも許可する。町屋でも好きなだけ祭事をするもよい。その際、こちらからも手を貸すことを約束する」

 「は…?」

 「その見返りとして、お前はただ、私の行いを『黙って無視してくれる』だけでよい。こちらもまた、お前たち…いやお前の行いには口出しせん。豊穣の祭神として祭りをしようが、時には天下無双の剣士として守屋を懲らしめようが、私は何も言わん」

 「なッ―!」

―――こいつは何を…ッ!

 「なんだ…なんだその条件は…!それじゃあ、まるで俺のことなど最初からどうでもよかったとでも言うのか!?」

 「おや、そのつもりで振る舞っておったはずだが、わからなかったのか?」

―――何を言ってるんだ!

 「お前のことなど、侍が最初にやられてから今まで、守屋からしつこく報告をうけておる。捕まえる命をくれだの、どうにかすべきだの。別に、剣士の五十五も守屋の侍も、俺の目的を成すうえでどちらも必要ない。なら、互いに遊ばせておいたほうが町人も喜ぶだろう。現に、五十五のおかげで町屋は大盛り上がりをみせた」

―――俺は…俺の成そうとしたことは…

 「それに私の目的も軌道に乗り始めた。もうそろそろ、八尋との話を進めてよい頃だと思って、守屋にお前を捕まえるように命じたのだ。まさか、あの程度の兵力で八尋…いや五十五を捕まえに行こうとしたもんだから笑いが出る。私が陰陽師を貸してなければ負けとっただろうに」

 「………貴様の目的は…」

 五十五の質問に、九頭は口角をあげて答える。

 「お前が危惧していたものでほぼ正解だ。この国の力を蓄え、『世界を統一する』。いや、実に悪人らしい響きだろうか」

 「統一…!?幾多の戦を起こすつもりか!そのような道に、ヒトと我らが共に征く未来など無い!」

 「未来が見えておらんのはお前の方だ、八尋」

 九頭は猪口に酒を注ぐ。

 「なぜ世界を統一せんとするか…その訳は話すことはできん。だが、先ほど申したようにお前はただ『黙って見てる』だけでよい。それでお前は、あの狸…それに社の霊狐や村人たちとともに、笑顔を迎えて物語を終えられる。お前の目的、願い、全てに合致する話ではなかろうか」

 「それは―!」

 破格の条件だった。

 あまりにも、あまりにも甘い条件を提示され、八尋の頭は整理できなくなっていた。

 「思い返してみよ。霊狐であるお前の本来の役割は、人々の繁栄をもたらすこと。それは作物という実体となって現れ、それらは村を越えてあらゆる人々の元へと届けられる。お前の村で作った米は毎年人気になっておるのも事実。条件を飲んでくれれば、それをあの狸とともに送ることができるのだ。お前の求める幸せは、少し手を伸ばせば、すぐに掴めるところへあったのだと思わぬか」

 九頭の言葉が、八尋に重くのしかかる。

 今ここで、たったひとつ頷くだけで願いが叶うのだ。

 五十五と別れて、この春でもう三年になる。

 会いたい。五十五や雪村、永明や永助たちのいる社に帰りたい気持ちは、いつも心の片隅にあった。

 「これからの私にとっても、お前の力は大変重要なものだ。協力してほしいというのは、その意味も含まれるな」

 豊穣神である自分の本来の役割。主神でありながら、三年間も社を空けていること自体おかしいのではないか。

 九頭との争いを避け、話し合いによって互いに血を流さず平和に終われるのなら、これが一番正しい選択なのではないか。

 そもそも、こちらの化け術が全てバレている以上、九頭を敵に回せば今すぐにでも社に危害が加わる可能性もある。

―――ここは頷くべきではなかろうか

 八尋は無意識のうち、自身に都合の良い考えが浮かんでしまっている。

 「……どうやら決まったようだな」

 黙りこくる八尋を見て、九頭は懐から誓約書を広げて差し出す。

 「では、ここに名を連ねてもらおうか。筆は隣の棚に置いてある」

 誓約書には、今後一切、お互いの施行に干渉しないこと。それに伴い、町屋側からは九頭の提示した都合の良い条件が全て書かれてある。おかしな点は一つもない。

 署名欄には既に九頭の名が書かれてあった。八尋はその隣に自身の名を書けば、本当に全てを終えられるのだ。

 五十五は棚に目を向けて立ち上がる。棚に手を伸ばすと、中には筆と既に擦ってある墨が用意してあった。

―――これでいいのだろうか

 その二つを手に取ったものの、五十五はうつむき、立ち尽くしてしまう。

 ふと、大袖の合間から、眠り落ちた彦三郎の横顔が見えた。

 「あ……」

 見覚えのある場面。彦三郎の姿を見て、五十五としてのこれまでの旅路が巡る。

 『だから、五十五の言う…縁のある者、の一人になるだけよ』

 初めて盃を交わした雪の夜、町屋の歩み方を教えてくれた四辻の声。

 『今の五十五の目のほうが好きだよ。いつも通り、真っすぐで、頼りになる五十五が』

 途方に暮れるなか、そっと後押ししてくれた彦三郎の声。

 それだけじゃない。町屋で出会った全ての人々、五十五を支えてくれた町人たちの声を思い出した。

 『全部が終わって、ここに戻ってきたら…』

 最愛の者の声。そうだ、ここで終わるわけにはいかない。

 町屋の人々、四辻や彦三郎を捨てて、自分だけ帰るわけにはいかないのだ。

 五十五は心の中で頷き、ゆっくりと席に戻った。

 「では……」

 答えを確信していた九頭の口角があがる。

 五十五は目をつむり、ひとつ置いて答えた。

 「この取り引き、断り申す」

 「なに…?」

 九頭が眉をひそめた。

 「今の俺の目的は、もう五十五や社のためだけのものではない。この町屋の人々、俺を支えてくれた人々全ての想いを背負っておるのだ。だから、俺だけやすやすと帰るわけにはいかんのだ」

 「くっ…フフフ…」

 九頭は肩を震わせて笑う。

 「そうか、そうであったか。だが取入れにも取り引きにも応じず、これからお前はどうするというのだ?」

 五十五は黙って誓約書を裏返す。そして筆を手に取り、そこへ新たな文書をつづる。

 「剣士五十五は、領主九頭に対して真剣をもって御前試合を願い申し上げる!」

 掲げられた新たな文書に、九頭は目を細めた。

 「ほう、御前試合と申すか。だが御前試合は本来…」

 「存じておる。御前試合は、本来一能の剣士二人が御殿の前で行う剣技。ましてや剣士が、御殿自らに試合へせしむることなど自刃をしてもありえぬ願い。だが九頭、おぬしも一能の剣士であろう。政術や狡猾な策によって成りあがった領主ではない。ならばこの試合、堂々と受け入れるに値するのも道理ではないか」

 「なるほど……私も自身の力を民衆や大名に見せれば、その名をさらに馳せることもできるとも言いたいわけか。御前試合にあたり、その条件を拝見しよう」

 五十五は立ち上がり、文書を九頭に手渡して席に戻る。

 「此度の試合、妖狸と妖狸によるもの。よって真剣によって剣技を成すこと。敗者は決着をもって勝者の命を受けること。御前試合を催すにあたっての他の条件は、前例によるもので構わぬ」

 「決着の条件はいかがだろうか」

 「生死は問わぬ。……だが先に申しておく。俺はおぬしの命まで取ろうとは思わん」

 「ほう、私の首を討るために社を出たと思っておったが。なにゆえそのような慈悲を?」

 五十五はうつむいて話す。

 「当初はそのつもりだった。だが、町屋を栄えさせるにあたり、おぬしの底すら見えぬ知による功績は見事なものだ。それを失う訳にはいかぬ」

 「なるほど、あくまで町屋の利として見ておるわけか。奇遇だな、私も試合にてお前を討つ気はない。勿体ないからな」

 九頭は首を掻きつつ、「とあれば」と呟いた。

 「これでは、御前試合というより決闘であるな。では、私から面白い条件を加えよう」

 「頷けるものであれば」

 九頭はあぐらを組みなおして話す。

 「此度の御前試合。決着の判断に、無効試合を設けよう」

 「無効試合だと?」

 「そうだ。何者かによって、試合が続行不可能となった場合、御前試合の催しそのものを無効とする取り決めだ」

 九頭にしては常識的な提案に、五十五は首を傾げた。

 「良かろう。無効試合となっても民衆にとっての勝敗は明らかなものとなるだろう。して、この条件を加えた理由は?」

 「成り行きによっては、助太刀に出る者もいよう。こちらであれ、そちらであれ、助太刀が現れれば収拾がつかぬ。お前こそ、試合の場を血の海にしたいわけでもなかろう」

 町人の誰かが五十五の助太刀に出れば、九頭の方からも助太刀が出る。それならばと五十五の方からまた助太刀が…。互いに参戦が増えれば、もはや合戦になってしまう。

 「良かろう。その条件、加えてくれ」

 「まあ、成り行きによりけり…といったところだろうが。せっかくの御前試合だ、たくさん人を呼んでもよいのだろう?他のやつらにも試合をさせよう」

 「…構わぬ」

 九頭は笑って筆を手に取った。

 「いいだろう。その御前試合、承ろう。試合の日はおって話す、それまでは城内に部屋を用意する」

 文書に書かれた『五十五』の名の隣に、九頭は自身の名を連ねた。

 これにより、五十五と九頭による御前試合が決定した。


 その翌日、五十五に一室が与えられる。ヒトの世話人によって案内された先は、牢へ入れられることを告げられた寝殿の端の部屋だった。内装は衣掛け一つと布団しか置かれていない質素なものだったが、廊下への障子を開けると白砂の庭園が見渡せる美しさがあった。

 庭園を眺めると、九頭に命じられた職人大工たちが御前試合に向けて囲いと見物席を作っている。怪しい仕込みをしないようにと数人の侍が常に見張っており、いつも活気ついているはずの職人たちはみな黙々と作業を進めていた。それどころか、休む暇も当たられない様子もあった。刀を持った者の下で働く姿は、もはや奴隷にしか見えない。

 御前試合の日にちは、それから三日後に五十五へ通達された。試合はひと月後の四月、桜の舞う頃を見計らって随時調整されるようだ。場所はいわずもがな、寝殿前の白砂の敷かれた広間である。

 「五十五さま、九頭様より授かりものをお持ちしました」

 部屋で瞑想をしていた五十五のもとへ、女の世話人の声がかかる。

 「入ってよいぞ」

 障子の向こうで平伏する二つの影が見え、「畏れ入ります」と前置きして二人のヒトの女が入ってくる。そのうちの一人は布に包まれた長物を抱えていた。

 二人は部屋に一歩入ったところで正座をする。

 「九頭からの物とはどういうことだ」

 「刀を失くされた五十五さまへ御前試合当日に振るう物をと、こちらの刀を渡すように言いつけられました」

 世話人は布を解き、一刀の打刀を差し出す。

 自分の霊刀を返してくれるわけもないか、と、五十五は黙って刀を受け取った。

 刀の鍔を見て、五十五はピタリと止まる。見間違いではなければ、これは久松家の家紋の形に施された鍔だった。

 五十五の背丈にもちょうどよく、霊刀と変わらない立ち回りができそうだ。見た目より軽く取り回しには問題ない。柄を握って鞘から刀身を晒す。鏡のような白銀に磨かれた身に、力強く仕上げられた刃は見事といえる。

 鞘に収めて、耳元で鯉口を切る。つかえる感覚も歪な音も無く問題ない。

 特別に作らせた刀であろうことから、久松の刀に間違いないと五十五は確信する。

 「刀工は?」

 「……町屋いちの刀工と研ぎ師によって鍛えられた打刀でございます。これならば、五十五さまの手に馴染むのではないか、と九頭様からの言伝がありました」

 世話人の言葉に五十五は眉をひそめた。刀とともに久松の時代を終わらせようと考えているのだろうか。その魂胆に反吐がでる、と五十五は心の中で吐き捨てる。

 「おぬしらもご苦労だ。それと一つ聞きたいのだが…」

 彦三郎とは会えるのだろうか。五十五は言いかけようとしたところで口をつむる。

 妖に落ちかけるほどに妖気を生んでしまった彦三郎の身が心配だった。

 九頭の側へ付いた彦三郎を今さら心配することはない、と言い切れるほど五十五にとって彦三郎は軽く扱える人物ではなかった。

 あの時は自分が側にいたから落ち着かせることができたが、もし同じようなことが起こればどうなるか。

 一度落ちてしまえば戻ることは難しい、二人の霊狐は戻れなかったのだから。

 目を細め、少し間を空けて言い直した。

 「……畳表と竹を庭先に置いといてくれ」

 その言いつけに世話人は平伏し部屋から出ていく。

 恐らく世話人に聞いても彦三郎のことは話してくれないだろう。

 あの日以来、五十五は彦三郎の居場所を探っているが、ここ数日、とある一室から全く離れていないことがうかがえた。詳しい状況はわからないが、妖に落ちてしまえば気配でわかる。今はそうならないことを祈るしかできない。

 五十五はゆっくりと手元の刀に目を落とし、鍔をじっと眺めていた。


 四月の陽気が町屋へ訪れる。桜にうっすら色がつき、町屋で花見の時期が始まった。町屋の隣旅籠から東町の関所までの街道には桜の木が並んでおり、この時期になると町屋への道のりを鮮やかに演出してくれる。これは桜街道と呼ばれ町屋の町人や旅人、名のある貴族や大名からも人気の名所となっていた。

 例年ならその桜並木を楽しみながら大名たちは町屋に来るはずが、今年はその景色を帰り道で見ることになっていた。町屋の宿屋は一週間前から全て貸し切りとなり、大名たちは来たる御前試合の催しを今か今かと待っている。

 「明日の朝、広間にて設けられた西方陣内へご案内いたします」

 そしてまだ日の出前の今朝、世話人から明日にて御前試合を行う言伝があった。

 「それと、筆とすずりをお持ちしました」

 「……燃やしておく。代わりに砥ぎ石一式、鏑矢の焼物と酒を」

 遺言など書くつもりはない。それに真剣勝負にあたり遺書をつづることを任された筆具をのちに残すわけにもいかない。五十五は責任を持って供養することにする。

 朝食後には筆と硯、そして五十五の言いつけ通りに砥石一式を渡される。一緒に持って来させた焼き魚と焼きおにぎり、清酒は竹籠に入れられていた。

 出歩くのだろうと察した世話人が着付けの準備を始めるのを見て五十五は断りを入れる。

 「明日の朝まで一人にさせてくれぬか」

 「かしこまりました。ですが不本意ながら、五十五さまは城外へ出ることは許されておりません」

 「承知しておる、城内を歩くだけだ。付けて回るのは構わんが邪魔はするな」

 世話人が平伏する姿を横目に、五十五は小袖を脱いだ。用意されていた立派な羽織りや裃をそのままにして、部屋の端に置いてあった衣掛けから、灰色の着物と深緑の平民袴を手にとる。灰色の着物は何度も補修し今では袖が大きくなっており、緑の袴も深緑に色が変わっている。それでも五十五の一番思い入れのある衣装だった。

 五十五はひと月振りの普段着を纏って、酒とツマミの入った包みを持って城内を散歩することにした。

 部屋の外を出てすぐ、明日試合を行う広間が見える。広い正方形に造られた竹矢来には対角に陣内が設けられてあった。竹矢来の内側には見届け席が設けられ、公正な勝負の場であることが象徴されていた。その試合の場を囲うように数人の侍が見張っている。明日の朝まで何人たりとも立ち入ることは許されない。

 竹矢来の囲いを横目に見届け、五十五は五十段前後の石段をあがって二の丸から本丸へと上がった。関門の守屋の侍に軽く会釈をすると、ひとつ遅れて侍も会釈をする。関門をくぐると奥に本丸御殿とその両脇に松の木が植えられてある、二の丸とは違って飾り気のない造りとなっていた。

 五十五は外壁をあがってその縁を器用に歩く。そして町屋の景色を正面に捉えたところで腰をおろし、包みを隣に置いた。

 「ふう……」

 大きく息をついて、町屋の景色を眺めて物思いにふける。しばらくして風呂敷に包んだ竹籠を開ける。籠には蓋をされた陶器の皿が二つと酒の入った竹筒があった。皿をひっくり返すと塩にまぶされた焼き魚が二匹出てくる。少しでも持つようにと貴重な塩をまぶしてくれたのだろうが、これではしょっぱくてかなわないと五十五は笑みを浮かべた。焼きおにぎりのほうは普通だった。

 その中から竹筒を手に取り、ふたを開けて一口呑む。

 「うッ!」

 いつも飲んでいた甘めの酒とは違い、辛口の口当たりに手元を戻す。魚を塩辛くした分、酒の味もわかるようにと鏑矢のほうで気を利かせてくれたのだろうか。食べ終わったら部屋へ戻ろうと考えていたが、しばらく長い時間ここで過ごすことになりそうだった。

 「おや、五十五どのではないか。このような場所でいかが申した」

 焼き魚を一匹食べ終わったあたりで、後ろから声をかけられる。五十五は半身だけ返し、声の主へと振り向いた。

 「別に大した用事ではない。ただ、せっかく桜が満開になったというのに部屋で過ごしておくのも勿体ないと思うただけだ」

 声の主は九頭だった。その後ろには五人ほどの従者を連れている。

 裃姿の九頭の後ろ隣には隠れるように彦三郎の袴が見えた。五十五に合わせる顔が無いのだろう。

 「花見ならば、二の丸にも桜を植えてあったであろう。あそこの桜も立派なものだぞ」

 「いや、俺はここから見える桜街道の並木を眺めて酒を呑みたかったのだ。あそこへは一度も行ったこともないからな」

 「さようか」

 五十五は身体を向き直して竹筒の酒をちびちび呑む。

 「この刀のことは礼を言う。良き勝負ができよう」

 「礼には及ばんよ。その刀がちょうどお前に合うものでよかった」

 竹筒の栓を捻るように締めて竹籠に置いた。

 霊刀のありかを五十五は九頭に問いたい気持ちがあったが、後ろにいる彦三郎にこれ以上の不安を抱えさせるわけにもいかないと、あえて口にしなかった。

 「なに、心配せずとも五十五どのも来年こそ桜街道で花見ができよう。お互い死ぬわけでもないだろう?」

 「死ぬことは……な」

 五十五はそれ以上を語らず、じっと町屋の景色を眺めていた。

 「では明日に」と告げて九頭は従者を連れて二の丸へと降りてゆく。

 二の丸へ降りる際、彦三郎は五十五が見えなくなるまで何度も視線を向けていた。

 九頭たちの気配が消えたあたりで、五十五は大きく息をついた。

 「やるせないな」


 決戦前夜。五十五は灯篭の灯りひとつの暗い部屋の中、正座して久松の刀に向かって瞑想していた。

 目の前には水の汲まれた桶と木板に添えられた砥石に柄杓が置かれてある。五十五はそれに手を付けず、ひたすらに思いを巡らせていた。

 九頭との話の中で、五十五は新たに生じた疑問を拭いきれずにいた。

 明日の御前試合を前に余計な考えを浮かべてはならないと自答するも、謎を多くしたままの相手となれば戦いの際に支障が出る。それならば、少しでも相手のことを知るべきだろう。

―――九頭はなぜ彦三郎に固執する?

 好みの稚児、だけでは説明にならない。何か確信をもって彦三郎を囲っているとしか思えない。一方で、五十五のもとで生活させるように手放したり、彦三郎をそそのかして妖に落としかけたり、一貫性が見えない。妖に落とすことに関しては、五十五のもとから離れていたこのひと月の間にやろうと思えばできたことだ。それでも、昼間に会った彦三郎からは以前と同じヒトの気質を保っていた。いや、均衡が危ういことは確かだったが。ひと月近く彦三郎を幽閉していたことも五十五は気づいている。だが、その内までは掴むことができなかった。

―――俺のことはどうでもいいと言っていたが、ならばなぜ情報を集めたのか

 九頭の目的を果たす上で、五十五の存在が特段邪魔ではなかったのはその通りだろう。九頭に支障が出ているなら、早いうちから捕まえるように命じるはずだ。ではなぜ、彦三郎を自身から放してまで密偵をさせたのか。こちらも、やはり一貫性が見えない。

―――そして、あの情報網はどこから

 八尋自身、化け術が苦手であることは自覚している。だとしても、五十五が八尋に施した化け術すらも見透かして正体を暴いたことは考えられないことだった。しかし、八尋が彦三郎に話したことは、『八尋の結婚相手が五十五』といった情報だけだ。仮に八尋と五十五の関係性がわかったとしても、今の五十五が『八尋』であると断定できるとは限らない。

 それどころか八尋とて知る由の無い、村での作や対応術などの情報を得ていた。九頭は明らかに知りすぎている、不気味なほどに知り尽くしていた。

 八尋や五十五、村での出来事の全てを知っている人物は思い浮かんでいた。神主の雪村だ。もし彼が九頭へ情報を流していたのであればあるいは。

 いや違う、それはあり得ないと五十五は首を振った。しかし、彦三郎との一件を思い浮かべると、どうしても不安が湧いてしまう。まさか雪村が、などとは八尋も考えたくない。

―――そもそもあの知識量はなんだ

 あの日の談話に出た御膳、全てが九頭の考案だとすれば店が出せる。それに、フグ毒の知識など今まで聞いたこともなければ、社のどの書物にも書かれていない。ましてや、町屋の水路にあの風呂の湯、薬屋に置かれてあった薬までも九頭の知識によって広まったものだという。

 古来からの神霊、妖であるならまだしも、九頭は後天的に妖狸となった者。歳も雪村と同じ、まだ三十代のはず。生きてきた歳月からはあの知識量は考えられない。一体、どこから学んできたのだろうか。

 当初は九頭の首を取るつもりだったが、その力を知った今、殺すわけにはいかないと八尋は考えを変えた。

 「未来が見えてないのは八尋だ」と話した九頭の言葉も引っ掛かるものがあった。

 もし、本当に戦乱の世が訪れるのであれば、九頭の知識が必要になる。使い方さえ誤らなければ、九頭という男の素晴らしさは八尋も認めていた。

 全ては明日の御前試合にかかっている。この勝負に勝てば、九頭の政策に八尋が介入する術を持てる。八尋も自身が領主となってこの国を治めることは望んでいない。

 明日への思いを込めて、五十五は刀に手を伸ばす。決戦の前に、今までの思いを刀に込めて臨もうと研ぐ準備を始める。

 刀の目釘を器具を使って外し、そのまま刀身を鞘から抜く。柄を片手で斜めにするように持ち、持ち手の手首をトンッと叩くと綺麗に柄から刀身が浮いた。はばきを握って柄をずらすと、スッと柄から茎(なかご)が抜ける。錆もなく、よく手入れがされていた。

 「あとは切羽と鍔…っと」

 器具を外して畳の上に置いた。刀身だけになった刀を眺めて、それほど手を加えなくても大丈夫だろうと判断する。

 ふと、茎に刻まれていた銘を見つける。

 「ん……?」

―――久松、道長…これ、領主殿の銘ではないか…!

 町屋いちの刀工のものと聞いていたが、嘘だったことが明らかになる。

 隠すほどのことでもなかろうに。

 そう首を傾げたところで、銘の切られた反対側にもう一つ何かが書かれてあることに気づく。

 『継名、縁好』

 久松の跡継ぎと思われる幼名がそこに記されていた。

 どういうことだ、と五十五は顎に指を添えて考える。

 久松の子供は娘が一人しかいなかったため、跡継ぎがいなかったと聞いている。実際のところ、男兄弟が二人と、女の子が一人生まれていたのだが、男兄弟はどちらも奇病によって亡くなっていた。それからも跡継ぎを産ませようとするも叶わず、子を作れないまま老齢を迎えてしまっていたようだ。

 しかし、ここにはしっかりと跡継ぎの名前が書かれてある。これが久松の願望によって書かれたものの可能性もあるが、願望のためにわざわざ自分で刀を作るだろうか。

 いや、これは三人目の男の子が生まれたのを祝うために作られた刀に違いない。そして、その生まれた子を公表せず、その事実を茎に隠してまで跡継ぎを記したのは訳があるのだと五十五は考えた。

 ふと、刀身から何かの気質を覚える。銘を明かしたことで、作り手である久松の想いが八尋と共鳴したのだろうか。どこか、八尋を支えてくれる力を感じた。

 その気質に触れ、八尋は世話人が刀工について嘘をついた理由が分かった。久松の残したこの刀を九頭が放っておくわけがない、必ず調べようとしたはずだ。しかし、柄を抜くことが出来なかったのではないか。奇病によって二人の息子を亡くした久松が、三人目の息子を守ろうとして茎に切った銘だ。久松の想いが真実を守り通したのだろう。

 いくら領主の座についたとはいえ、先代領主の遺品を簡単に捨て去ることは許されない。そこで九頭は、その隠された真実を八尋ごと葬ってしまおうと企んだのだろう。

―――必ず、御子息にお渡しします…!

 五十五は目をつむり、両手で茎を握って久松の想いを引き継いだ。


 昨日の静けさからうってかわって、庭園内の至るところから野次馬の町人たちが騒めく人垣が出来上がっていた。

 庭園内に町人が入れるのは祭りの日のみだが、御前試合の催しにおいて、特別に町人たちも庭園内に足を踏み入れることが許された。

 これから行われる厳正な御前試合を前に、笑みを浮かべる町人は誰もいない。ここに居るほとんどの町人は、五十五と九頭の決着を見届けに来たのだ。

 その最中、白木綿で囲われた西方陣内、剣士たち一人ひとりに与えられた個別の空間に、五十五は付き人も居ないまま一人座って時間まで待っていた。

 もう思いを巡らせるものはない。ただ勝負に勝つのみと、その瞳は真っ直ぐを見据えていた。

 九頭の入陣を知らせる三つの太鼓が鳴った。その合図とともに、数百人近くいるはずの庭園に静寂が訪れる。

 「五十五どの」

 白木綿をまくり、裃姿の守屋の侍が盃と桶を持って声をかける。

 「出番でございます」

 ひとつ頷いて盃を受け取り、侍は一礼のち両膝を地につけて盃に清水を注いだ。

 盃の水面に妖狸の姿が映る。その者に、今一度思いを馳せて口にした。

 陣太鼓が一つ、大きく打ち鳴らされる。

 五十五は立ち上がり、久松の刀を胸に抱いて一礼をする。

 中央を分けて切られた白木綿の前に立ち、刀を右帯に差した。

 「西方……!五十五!」

 五十五は左手で白木綿を大きく巻き上げ、舞台に自身の姿を晒す。

 二つ、一つ、それから拍子が徐々に早まる太鼓とともに五十五は中央へと歩みを進める。

 波のように整えられた白砂に、五十五の足跡がついてゆく。

 寝殿を中央として、やや西側で足を止める。

 二つ、一つ、一つ。入場を終えたことを知らせる太鼓に、大きく開かれた寝殿の陪観席を見上げた。

 九頭から呼ばれたであろう大名たちが、中心席を開けて敷き詰められるように座っている。そして大名たちは皆一様に五十五を見つめる。そこにいた誰しもが、頭に過ぎったであろう。まだ、子供ではないか、と。

 再び、陣太鼓が大きく打ち鳴らされた。

 「東方……!九頭!」

 同じように陣太鼓が鳴らされ、九頭が入場する。

 白の剣士衣に、紋の彩られた藍の袴。五十五の見たことのない、剣士姿の九頭だった。

 中央からやや東側で九頭も足を止める。

 五十五はいまだ敵の姿を見ない。白砂の音から、九頭も素足であることだけは気づいている。本気なのだろう。

 両名が整列したのを確認し、見届け人代表の年老いた役人が間に立って文書を広げる。

 「五十五、九頭。いざ両名とも、心置きなく、存分にその剣技に尽くされよ」

 言葉の終わりに、二人は一礼をする。

 そして五十五はついに九頭の姿を見た。

 九頭も目を細め、掴み所のない笑みを五十五に返す。

 お互い二歩後退し、刀に手をかけた。

 大人と子供。頭二つもある身長差に身体つきもまるで違う。

 勝負になるのだろうか、と、大名たちは無言で眉をひそめる

 いや、五十五はこのような体格の相手を幾度となく倒してきたのだ。それを知っている町人たちは疑うことなく勝負の行先を見守る。

 五十五の獲物は久松の打刀ひとつ。

 対する九頭の獲物も、ほぼ直刀の大太刀ひとつだった。

 五十五は鯉口を切り、白に輝く刀身をゆっくりと晒す。

 九頭は携えた鞘を抜き取り、左胸あたりで鯉口を切り、黒く光を吸う刀身をゆっくりと見せつける。

 刀独特の金属の音はそれほど大きなものではない。しかし、二人の気迫はまるで耳元で抜刀されたかのような感覚を見る者全てに与えていた。

 互いに抜刀し、それぞれの刃があらわになる。

 相対的な白と黒。

 九頭は鞘を投げ捨て、切っ先をだらんと下げた構えをとる。

 対して五十五は刀を正面に構え、切っ先を九頭に向けて構える。

 これが九頭の構えなのか?と、見たこともない型に、もう少し様子を見ようと五十五は出方をうかがう。

 警戒する五十五に対して、九頭は一歩踏み出す。白砂を踏みしめる音が立ち、五十五の眉間に皺が寄った。

 九頭はひとつ、またひとつと踏み出す。

 五十五の刀を握る手が強くなった。

 どう仕掛けてくる。向かって左下段からの振り上げか、それとも横一閃か、もしくは返しの型だろうか。

 九頭の意図は全く読めなかった。

―――いや、そうじゃないだろう。相手が何を仕掛けてくるかより、自身の一太刀をいかに通すかではなかろうか

 五十五はやや腰を落とし、持ち手を左目に合わせて切っ先を九頭へ向けた。その構えと共に、五十五を取り巻く周囲の気質がすうっと変わる。

 「ふむ」

 九頭がひとつ息を漏らし、次の一歩を踏み出した直後。

 自身の間合いに入った九頭に対し、五十五は地を蹴って急接近する。

 構えをとった五十五の手が内転する。胴へ目がけた左からの横一閃。

 その動きに合わせて九頭は右腹を守るように刀を右へ構える。

 しかし五十五の仕掛けた流れは陽動だった。

 向かってくる左一閃に五十五の袖の影から突如として右手が現れ、柄の頭を支点に、刀身が弧を描く。

 五十五の繰り出した左一閃は、たちまち右上段からの袈裟斬りとなった。

―――はいる!

 五十五は確信を覚えた。

 ところが振りかざした刃は、九頭の肩下に差しかかったあたりで大きな金属音が鳴らした。

 自身の右腹を守っていたはずの九頭の刀は、五十五の右上段で受け止めていた。

 「くッ……ッ!」

 両手が胸の高さまで上がってしまい、後ろに返される危険を察知した五十五は、途端に根本を返して二歩退いた。

 一瞬の出来事に、陪観者たちの声が騒めく。町人から見れば、五十五の袈裟斬りがやすやすと受け止められたように見えただろうが、一部の剣の熟練者には一瞬の攻防を垣間見て口を閉じることが出来なかった。

 そして九頭も五十五に対して、この一撃で感銘を受けた。

 「どういう反射神経をしたら、あの体勢から修正できようか。想像以上の腕であるな、五十五どの」

 「九頭こそ。意識を右方へ集中しすぎたと思っておったが、それに反応するとは思いもせんかった」

 「いやはや、己の勘に助けられた」

 後天的に妖狸となったとはいえ、九頭にも『流れ』を察知できる器を持っていた。

 意識を集中すれば、それに伴って周囲の霊気や妖気がなびいたり集まったりする。いわゆる気配や殺気といわれる『流れ』に、全てのヒトや動物は無意識のうちに感じ取れる。それが神霊、妖となれば生きる者以上に敏感に察知ができる。

 だが、五十五は今の一撃で勝機を見出した。

 不意を突いた五十五の流れに、九頭は無意識に手を出してしまっていた。恐らく、ヒトであった頃の反射神経がまだ残っているのだろう。

―――そこを突けば…

 五十五は刀を握りなおし、九頭に向ける。

 それと同時に、五十五はピクリと反応を見せた。

 再び刀がぶつかり合う音が響く。五十五の左頬を掠めるように橙の火花が散った。

 目元が刀身で一瞬隠れた五十五に対して、九頭が地を蹴り、首元めがけて突きを繰り出したのだ。

 五十五は負けじと切っ先を返し、脇腹を狙った一振りをかざす。容易く受け止められると、間髪入れず反対側を狙い打つ。

 四打目を返したあたりで、九頭からの反撃が繰り出される。

 五十五は素早い身のこなしで避けたり、跳びあがって翻弄する。九頭も片手で刀を扱う中、不意に両手に持ち替えて踏み込みに緩急をつけたりしている。

 二人の打ち合いは、見ている者に子供同士のチャンバラごっこを彷彿とさせる。互いが大振りを仕掛け、それを互いが受け流すさまに、真剣勝負をしたことのない大名たちの中には怪訝な顔を浮かべるもいる。

 木剣を用い、かつ『止め』を行う試合ではないことは、真剣を向けられなければわかるはずもない。相手の振りかざした剣よりも先に有効打を突くだけで勝ちの判定を得られる手合いなどとは違う。

 真剣勝負に『止め』などない。相手よりも早く振り抜いたところで、相手の仕掛けた一閃が止まることはない。試合のような甘い立ち回りをすれば同士討ちとなる。

 実際に、真剣を用いたヒト同士の決闘では同士討ちが多い。互いに有効打をいれられず拮抗勝負となればなおさらだ。

 勝負の場では、二人による激しい攻防がいまだ続いていた。結末の見えない打ち合いに、町人たちの中には呼吸も忘れて見守る者もいる。

 そしてその時は訪れた。

 九頭には自身の繰り出す左横薙ぎを止められた後、隙を作らないように突きを仕掛ける癖があった。

 その弱点を五十五は見切った。

 左からの横薙ぎに、五十五はあえて自身の左側を晒すように受け流す。

 そこで九頭の突きを誘った。

 五十五の両手は利き手と逆側に下がっている。九頭からすれば絶妙な好機だ。

 それに誘われるまま、九頭は含み笑いを見せて五十五の胸元めがけて突きを仕掛ける。

―――きた!

 五十五は前傾になって九頭の突きを躱す。そして右手で九頭の右腕を掴み、上側へと持ちあげた。

 そのまま左肩を突き出し、全体重をかけて体当たりをかました。

 だが、五十五と九頭の体格差では崩すことはできない。

 九頭は右足を一歩退き、上がったままの刀を利用し、五十五の左肩めがけて袈裟斬りを仕掛ける。

―――これで…ッ!

 振り下ろされる袈裟斬りに対して、五十五は迎え打つように九頭の鍔元を弾き返した。

 これまでの打ち合いの中で、最も大きな衝撃音が鳴り響く。

 返された九頭は獲物を手放さなかったものの、左腹を大きく晒すように体勢を崩されていた。

 五十五は九頭の股下に左脚を潜らせるように腰を落とし、懐へ入り込む。

 そして自身の刀を三回転させて納刀し、居合い抜きの構えをとった。

 五十五必勝の型だ。

―――これで終わりだ!

 右手親指で鍔を弾くように鯉口を切り、左手で振り抜こうとする。

 九頭は左足を蹴って、後ろへ跳びのこうとする。

 だが、深く踏み込んだ五十五の居合から逃れられる立ち位置ではない。

 五十五の鞘から刀身が十センチほど抜かれ、鍔元が光り輝く。

 決着だ。

 決着のはずだった。

 九頭の左手には妖しく輝く金属の筒。

 その筒先は五十五の額に向けられていた。

 見たことのない物体に、五十五は目を大きくする。

 その体勢から何ができようか。

 刀身はすでに三十センチほど抜かれている。

 その刹那。

 五十五は筒先の黒い穴から冷ややかな殺気を覚えた。

 金属の筒を握る九頭の左人差し指がゆっくりと畳まれる。

 そして笑みを浮かべた。

 「―――――ッ!」

 居合い抜きの最中、五十五は咄嗟に何かから逃げるように上体をそらした。

 バァン!

 轟く破裂音とともに、五十五は後ろに転がり飛び退いた。

 突然の出来事に辺り一帯が静まり返る。

 九頭を隠す白い煙が風とともに消えてゆく。

 「ふむ、悪くないが煙が多いな」

 左手に持っている金属の筒を眺めて、九頭はぽつりと呟く。

 ここにいる誰もが、何が起こったのかいまだ理解できない。

―――今、何が起こった…?

 五十五は右手で鞘を確かめる。

 居合い抜きの途中で飛び退いたが、刀は落としていないようだった。

 勝負はまだここからだ。

 五十五は柄に左手をかけて、刀を抜こうとする。

 刀は抜けなかった。

 柄を掴んだ左手は震え、なぜか力が入らない。

 ヒタリ。

 左の袖口から、何か滴る感覚を覚える。

 五十五は恐る恐る袖口をまくった。

 そこには、何かが通り抜けたように左前腕が抉れていた。

 「なんだ、これッ……」

 五十五の心拍数が早まる。

 「……っ!ぐっ…う…!」

 薄れていた感覚が戻り、左腕に激痛が走った。

 五十五は唸り声をあげつつ、右手で傷口を押さえる。

 押さえた腕から出血が止まらない。白砂に丸い血溜まりを作っていく。

 「お前の剣技は見事だった。だが、もう終わりにしようや」

 九頭が五十五に降参をうながした。

 「終わり…だと…?」

 「利き手が潰れたゆえ、これ以上続けるわけにはいかんだろう?お前はよくやった、負けたとはいえその実力は皆の衆にも見せつけたであろう」

 「誰が…負けたと…!」

 五十五は腰紐を解き左肘を紐で縛って止血する。そして患部を安定させるため、左手を懐に入れ、手首を帯に差し込んで固定した。

 「冷静になれ。早いうちに手当てをせんと利き手が腐るぞ。その銃槍では、その程度の止血では止まらぬ」

 九頭の言う通りだった。利き手が潰された以上、五十五が得意とする居合い抜きはできない。

 だが、それでも。それでも五十五は諦めるわけにはいかなかった。

 「まだだ、まだ右がある!」

 五十五は右手で刀を抜いて、右半身を前にして構える。

 そう、この御前試合に八尋は全てを懸けたのだ。

 五十五との約束のため、村と町屋の未来のため、これまで支えてくれた八尋に縁のある者たちのためにこの勝負に挑んだのだ。

 御前試合を取り決めたあの日から退路は断たれている。

 今さら負けちゃいました、で済む話などではない。

 「では、言わさねばならんか」

 不気味な笑みを浮かべた九頭が、構えもとらずに五十五へ近づく。

 対する五十五の切っ先は震えていた。

 左腕の出血はいまだ止まらない。痛くて動かすこともままならない。

 ここから勝てる見込みも無い。

 立ち上がる五十五の姿を見た町人たちも、この勝負のゆく先はわかっていた。

 五十五は敗れるのだと。

 この場に、五十五を後押しする者など一人もいない。

 諦めにも似た町人たちの思いが五十五にも影響を与えてしまう。

 五十五の間合いに九頭が入った。

 「はああぁぁっ!」

 掛け声とともに、五十五は左からの斬り払いを仕掛けた。

 手応えは無かった。

 虚しく空を切る五十五の切っ先を、あろうことか九頭は片手で握り止めていた。

 「なッ―――!」

 何度引き抜こうとしても微動だにしない。

 まるで物を取り上げられた子供が取り返そうとする光景は見るに堪えない。

 「貴様ッ―――!」

 目合わせた九頭は長刀を振り上げていた。

 とどめを刺すつもりだろうか、いや、違う。

―――まさか!

 その目を見た五十五は、その意図を察する。

 五十五の眼前で金属音とともに火花が散る。

 振り下ろされた長刀の狙う先は五十五ではなかった。 

 久松家の家紋が施された鍔だ。

 それから九頭は、鍔に向かって何度も刀身を振り下ろす。

 「や、やめろ!」

 九頭が聞く耳を持つはずもなく、五十五はなす術なく捕われていた。

 何度も打ち付けられているうちに鍔が大きく歪み、亀裂が入る。

 「やめろォ!」

 九頭を蹴り上げようと、五十五が足を踏み切った。

 その動きに合わせて、九頭は掴んでいた切っ先を支点にテコの原理で五十五を跳ね上げ、切っ先から手を放す。

 ふわりと浮かぶ五十五に向かって、九頭は再び金属の筒で狙いをつけた。

 「ひっ!」

 その光景にトラウマを植え付けられた五十五は恐怖のあまりに声を漏らす。

 身体を浮かべられた状態では避けることもできない。

 五十五は咄嗟に、身体を守るように狙われる先に刀の平をかざす。

 爆音とともに物体が撃ち放たれる。甲高い跳弾の音に陪観者たちは耳を塞ぐ。

 地面に叩きつけられた五十五に傷はない。幸運にも、放たれた物体は刀の平に当たったのだ。

 「獣の勘は侮れんな」

 九頭が笑うなか、五十五は刀を支えにして立ち上がろうとする。

 しかし思うように足に力が入らない。

 先程の一撃は身体に当たっていない、特段足に怪我を負ったわけでもない。

 足元の白砂の血溜まりが、先ほどとは比べものにならないほど広がっていることに五十五は気づく。

 「ふっ…ぐ…!」

 膝にいくら力を入れても立てなかった。

 もはやこれまでだろう。

 これ以上続けて死んでしまっては九頭も困る、と、見届けの役人に向かって「おい」と一言告げる。

 そこに白砂を踏みしむ音が鳴った。

 周囲の者たちが驚きをあげる声に九頭が視線を戻す。

 立ち上がることすらままならない五十五の隣に、剣士が一人。

 「何用だろうか、四辻殿」

 九頭の言葉に、五十五はゆっくりと見上げる。そこには五十五を鍛え上げた張本人、大小を携えた四辻の姿があった。

 「四辻……おぬし、なぜここへ……」

 「おぬしとは不思議と変わらぬ出会い方をするな」

 四辻は止血する紐を結び直し、縛り上げるように五十五に噛ませた。

 「四辻殿。勇ましく助太刀に入ったことは称賛に値しよう。だが、此度の御前試合では助太刀を認めておらぬ。さすれば無効試合となる。それでは皆も興醒めであろう」

 「それについては委細承知しておる。助太刀をするつもりは毛頭ない」

 「では早く試合を終わらせてはくれぬか?でなければ五十五どのの命も危うい。その剣士は私が貰い受けるのでな」

 九頭は首を傾げ、金属の筒で肩を叩いて話す。

 町屋を追い出してからこれまで一度も姿を見せなかった四辻の登場は九頭も予想していなかったのだろう。

 不機嫌な声色を察し、守屋の侍たちが竹矢来の側につき、町人たちをその場から追い出してゆく。

 四辻は自身を取り巻く侍たちを見回し、九頭と目を合わせる。

 「ああ、それはすまなかったな。だが……」

 「三つやる、失せろ四辻」

 九頭はカチリと何かを起こし、金属の筒を四辻に向けて警告する。

 「ふん、話す余地も無いと申すか。随分慌てているようだな」

 「お前もこの状況に慌てるべきではないか。ひとつ」

 「そんな玩具、どこで手にしたのだ。剣士なら刀で勝負すべきではなかろうか」

 「お前に知る余地はない、玩具と侮っておると大怪我するぞ。ふたつ」

 「わかった、ではひとつ言い残して立ち去ろう。九頭、おぬしには悪いが…」

 四辻が珍しく似合わない笑みを浮かべる。

 「こちらの五十五は、このツバキが貰い受ける!」

 その直後、死角から九頭目掛けて一本の矢が甲高い風切り音をあげた。

 気配を察知し、九頭は右手の刀で飛来する矢を防ぐ。

 四辻はその隙に五十五を肩に背負いあげた。

 「チッ、賊が!」

 カチンッと叩く音に一つ遅れて爆音が響く。

 「あばよ!」

 弾丸が到達するよりも早く、四辻は天狗の如き垂直跳びで空高く飛び上がった。

 そして上空に隠していた大凧に手を掴むと足の爪で器用に糸を切り、風に吹かれて空を飛ぶ。

 五十五を抱えて逃げる様子を見て、芦田が九頭の指示を待たず部下に命令を出した。

 「逃すな!馬なら追いつく、はよういけ!」

 「う、馬屋の戸が全て壊されております!」

 「なんだと!?ならば……!」

 芦田の慌てぶりに、部下たちも右往左往する様子を見せる。

 「チッ…、相変わらず守屋は使えぬな。クソが…!」

 九頭は空に消えてゆく大凧を見送りつつ、金属の筒を袖にしまった。


 懐かしい家屋の匂いに鼻をヒクつかせ、五十五はゆっくりと目を覚ます。

 ここはどこだっただろうか。五十五が覚醒の浅い思考を巡らせていると、知らない人物の気配を覚えた。

 「あ、目を覚まされましたか?」

 若い男の声が聞こえた。

 「何者だ……うッ!つ…ぅ…!」

 反射的に上体を起こそうとすると、五十五の全身に痛みが走る。

 「無理しないでください、五十五さん。傷は腕だけとはいえ、疲労で全身ボロボロですよ」

 「おぬしは、ここは一体…」

 五十五はゆっくりと声の主へと視線を移す。

 そこには、この領地では珍しい鼬(イタチ)の妖の姿があった。

 「四辻さんの家ですよ、懐かしいでしょう。御挨拶が遅れました、私は妖鼬の小町(こまち)と申します」

 五十五は右腕を支えにして、少しでも上体を起こしておじぎをする。

 辺りを見回し、四辻とよく過ごしていた土間であることを理解した。数年ぶりの四辻の部屋は、五十五がこの家を出たときと何一つ変わっていない。

 「小町殿か…。――っ!そうだ、試合は!?」

 妖鼬の小町は、小さく首を横に振って結末を伝える。

 「試合の日から、もう三日経っております」

 「あ……う…」

 「五十五さんが目を覚ましたことを仲間に知らせてきますね」

 「……仲間?」

 「はい、とはいえ呼ぶのは二人ですが。一人は五十五さんの知ってる人ですから安心してください」

 「もしかして、四辻か?」

 小町は笑みを浮かべて頷き、部屋を後にする。

 寝たまま四辻に会うわけにはいかないと、五十五は壁に背をもたれて座りなおした。

 自身の左腕には包帯が巻かれ、骨折をしたときのように首から吊るしてある。

 傷口あたりがむずかゆい。恐らく薬も使ってくれたのだろう。

 「だから、そういうのは言うなよ。起きてすぐなんだから」

 「わーったって、ぴーぴーうるさいぞ」

 「それはお前だろ!」

 そんなことを考えている間に、土間の向こうから騒がしいやりとりが聞こえてくる。

 「どうも!湯加減いかがでしょうか五十五さん」

 土間の入り口から、ひょこっと鳥の妖らしき男が手を振って現れる。

 「あ、いや、えっと…」

 「もう」と、小町がため息をついて鳥の男の背を押して部屋に入る。

 その後ろから最後に一人、四辻が姿を見せて五十五に声をかける。

 「五十五、久しいな。随分な再会となってしもうたが」

 「……そう、だな」

 なんと返せばよいのか五十五はわからなかった。

 四辻の期待に応えることもできず、正直合わせる顔がなかった。

 「助けてくれたこと、本当に感謝する。本来なら自刃に伏すべき敗北であろうに…」

 「えー!せっかく助けたんじゃけえ、そんなんせんでもええよ!五十五は侍じゃないじゃろ?そんな見栄なんていらんいらん」

 鳥の男が足裏を掃って五十五の隣にあがりこんだ。

 随分ぐいぐい来るなと、その男との距離感が掴めないながらも、五十五は相づちを打つ。

 「こらこら」と静止させるように小町が鳥の男の隣に座る。そのやり取りを笑いつつ、四辻は五十五の正面に座った。

 「五十五、気にすることはない。お前は助けてくれと儂に頼んだわけではなかろう。此度のことは儂らの独断で行ったこと。むしろ、お前は儂らに攫われたのと同義」

 「俺を攫う…なにゆえ……」

 四辻ら三人が顔を合わせて不敵な笑みを浮かべる。

 そして五十五を前に三人は姿勢を正して、四辻が答えた。

 「儂ら山賊、上組(かみぐみ)は妖狸の五十五を総大将とし、この身を共にすることを誓う」

 「お、俺が、山賊の大将!?」

 突然の出来事に、五十五は目を大きくして混乱する。

 「まてまて、順に話してくれぬか。ええと、まずおぬしらは…」

 「いいじゃねえか総大将!ようは俺らが仲間になるってことよ、五十五も仲間が欲しかっただろ!?」

 鳥の男が五十五に近寄り、五十五のほっぺを摘まんだ。

 「よ、よさぬか!」

 「おいツバキ!無礼にもほどがあるぞ!」

 小町がツバキと呼んだ鳥の男を五十五から引きはがす。

 「おっと、そういや名乗ってなかったな。俺は椿祈(つばき)ってんだ、空を飛んだのは初めてだったろ、どうだった?」

 「空?もしや、あの時四辻だと思っとったのは椿祈が化けておったのか?朦朧としておったとはいえ、気づかんかったな」

 「違いますよ五十五さん。あれは四辻さんが椿祈に化け術を加えてたんです。椿祈ひとりじゃ、すぐ化けの皮が剥がれてしまいますし」

 「とはいえ、あの跳躍力は見事なものだったな。もしや椿祈殿は天狗か?」

 椿祈はその言葉にわかりやすいほどにっこりと笑顔を浮かべる。

 「いかにも。上組に誇る大天狗さまといえばこの椿祈…」

 「五十五さん、それも違いますよ。椿祈はただのトンビです。タカですらありません」

 小町が割って入り、椿祈は頭をがっくりと下げた。

 「おい水差すなよ!どう見ても天狗だろ!あの大空を自在に駆ける姿はどう考えても…」

 「大凧使う天狗がおってたまるか!五十五さんを抱えたまま飛べないってわかってたのにあんな役を買いよって!」

 「でも大成功だったろ!イタチのお前だったら煙幕に穴掘ってこっそり逃げるような花のないことしかできなかっただろ!」

 「なにが大成功だ。筒を向けられて冷や汗かいてたの誰だよ。木陰に隠れてた私に何度も目線おくりやがって。どんだけ助けてほしかったんだよ!」

 「おう、あの弓矢は助かったぜ!おかげで難なく飛ぶことが出来た」

 「あの後大変だったんだからな!」

 二人のやり取りに、五十五は口をぽかんとあけて眺めることしかできなかった。

 そんな抜けた雰囲気に四辻はくすりと笑って五十五に話す。

 「五十五。剣士として生きるなら自刃に伏すのだろう。だが、儂ら山賊には関係の無い話。好きに生き、世を荒らし、そして我が道をゆく。それに…」

 四辻は両手を袖に入れた。

 「その刀、恰好つけるものではないのだろう?」

 五十五はその言葉に目を大きくした。

 「……わかった」

 その言葉に、言い争っていた二人も「おっ?」と、五十五のほうを向いた。

 「この五十五、これより上組の総大将の座につく。これから俺の言葉は総大将のものと思え」

 「おおおぉぉ!」

 二人はせこせこと正座をして五十五の言葉を待った。

 「目指すは町屋の領主の座。我らの手により、九頭をあの城から引きずり下ろす。そして町屋を我らのものとする!」

 「おおおおおお!」

 二人がパチパチと手を叩き、歓声をあげた。

 「さあ、俺に付く者は名乗りをあげろ!」

 五十五は三人に号令を出す。

 「諜報の椿祈。この翼、すべてを組に尽くします!」

 「参謀の小町。守屋も手ごまにいたしましょう!」

 「側近の四辻。我が刀、どんな活路も切り開いてみせよう」

 三人は名乗りとともに鯉口を切った。

 「供にゆこうぞ!」

 五十五の言葉とともに三人は声を上げつつ鍔を鞘に戻し金属の音を鳴らす。

 今まで一人で戦っていた五十五に、初めて仲間が出来た瞬間だ。

 「すげえ、今までで一番の大仕事じゃん!燃えてきた!」

 「五十五さん、これからよろしくおねがいします!」

 「……ああ!」

 五十五に笑顔が戻ってきた。

 そうだ、まだ終わりじゃない。終わってたまるか。

 五十五の中に再び強い意志が湧き上がった。

 「となれば、さっそく状況に移りましょうか」

 参謀の小町があぐらをかいて五十五に話す。

 「まずは大将の刀を取り戻しましょう」

 五十五は、ふむ、と顎に指を置いた。

 「だが刀は城の宝物殿にあると聞いた。此度のことでさすがに城内も警戒が強いのではなかろうか。探すのには骨が折れるぞ」

 「ふふん。その居場所ももう掴んでおりますゆえ」

 「なにッ…!?それはまことか!」

 驚く五十五の横で、椿祈が「でもよう」と口をはさむ。

 「コマっちゃん、御前試合の時になんで盗んでこなかったんだよ。せっかく俺がみんなの目をくぎ付けにしといたのに」

 「それを今から言うところだ。どうにも、五十五さんの刀は奪い取ったその日からとてつもない妖気を生み出してるようで。抜くこともままならないどころか、すでに守屋の侍が四人ほど『お試し』で死んでしまったようだ」

 「いや…それって大丈夫なのか…?」

 八尋の霊気を失った五十五の刀が、その身に秘められた気質が妖気へと変わってしまっているのだろう。

 「おそらく暴走しとるな。だが手元に戻れば落ち着いてくれるだろう」

 「そうなのか?」

 「五十五の刀は贈り手の想いが強い。儂も手元に戻れば元に戻ると思うぞ」

 四辻の言葉に椿祈が「おお」と声を漏らす。

 「四辻さんも同意見とは珍しい」

 「実際にあの刀は何度も近くで見とるからな。して小町、それをどう奪う」

 「奪うだけなら私でもできるのですが、妖気が妖気ですから…手に取れるのは五十五さんだけでしょう。ですが、もう一人例外を見つけました」

 五十五はハッとして小町を見る。

 「彦三郎か!」

 「そうです。あのヒトの子のみ、手に取ることができるようです。ただ、刀を抜くことはどんな仕打ちを受けてもしなかったようで…。そして、御前試合の二週間前から秘密裏にあの子と密会をしておりました。やはり、五十五さんに対する思いは今も変わらぬ様子」

 彦三郎はまだ戻ってきてくれる可能性がある。それを聞いて五十五は心の中で希望を覚える。

 「それから、私は脱出用の抜け穴を作ってきました。その目印をあの子にだけわかるように教えておきました。もちろん偽の横穴や仕掛けもばっちり」

 「でも目印ってわかりやすくしてるとバレないか?」

 椿祈が首を傾げて口を出す。

 「大丈夫、あの子にだけわかるようになぞなぞを出しておいた。あの子は稚児の割には賢い。『闇夜に彷徨いし頃、陽を願いしこそ夜明けの道となろう』と」

 「場所と方角を伝えたわけか」

 小町がこくりと頷いた。

 五十五の解釈に椿祈が手のひらにポンと拳を置いて話す。

 「なるほど、右見て下見ておおまぬけってやつだな!」

 「ちげーしうるせーからもう黙ってろ!」


 上組を再結成して一週間後の夜。小町が彦三郎に指示を出した日となる。

 彦三郎に動きがあるまで、四人は町屋近くの古い物置小屋に身を潜めていた。

 小屋の外では四辻が目を光らせ、周囲を見張っている。

 「五十五さん、まだ動きませんか?」

 「いや、まだだ…」

 彦三郎の気配や変化に気づけるのは五十五だけだ。今回の回収作戦に動けなくとも、開始の合図を仲間に伝えることはできる。

 「あの子、本当に来ると思う?」

 椿祈が暇そうにくちばしで羽に手悪さをしながら小町に話す。

 「さあな。私も姿を見せず密会でしか話したことがないからな」

 「もし来なかったらどうする?」

 「私たちが直々に盗りにいくしかないだろう。一人が盗んで一人が届ける。ちょうど二人で足りるだろう」

 「おお、計算通り。さすがコマっちゃん頭いいな」

 「ただし、盗るのはお前で、届けるのは私だけどな。椿祈には正解の抜け道がわからんだろう」

 「なにおう。俺に任せてみろ、その場でスイスイと解いて見せようじゃないか」

 「ならん。そのようなことに、おぬしらに命は捨てさせん」

 二人のやり取りに五十五が割って入る。

 「そのような心配などせんでもよい。彦三郎は必ず来る、来てくれる」

 五十五は心の中で彦三郎の名を何度も呼んだ。 

 状況は変わらず、深夜となる。

 途中ふざけている様子だった椿祈もあくび一つも見せず待っている。こういった役割はそうとう慣れているのだろうか、隙は一切感じられない。

 五十五の耳がピンと立った。

 「彦三郎の心音が変わった」

 「おっ?」

 椿祈はばっと上体を起こして、忍衣を締める。

 「動きはわかりますか?」

 「細かくまではわからん。だが刀も一緒だ、間違いない」

 「ありがとうございます。ここから我々にお任せください。椿祈、いこう」

 「おうよ」

 小町はスッと立ち上がり、羽織を脱いで椿祈と同じ忍衣を晒す。

 「二人だけで大丈夫か」

 「大丈夫ですよ。迎えに行きたい気持ちはわかりますが、今は四辻さんと一緒に家に戻ってお待ちください」

 「しかし…」

 五十五が言いかけたあたりで小屋の扉が開き、四辻が顔を見せる。

 「五十五、心配せんでもよい。こやつらの実力を見るよい機会だろう」

 言葉の終わりに、四辻は顎で五十五の腕の怪我を指した。

 確かに、今の自分が行っても足を引っ張るだけなのは目に見えている。

 考え事をしているうちに、町屋の方から花火があがった。

 「おー、綺麗なもんだな。コマっちゃん、今どういう状況?」

 「一度開けた抜け穴の扉を、再び誰かが開けた合図だな。あれが鳴ったってことは、あの子が追われ始めたってこと」

 小町の言葉に五十五は目を大きくする。

 「小町、椿祈、行ってくれ。彦三郎を頼む」

 「任せてください。匂い消しに放浪するので、三日後の夜に戻ります」

 「よっしゃ、いこうぜコマっちゃん!」

 「必ず生きて戻ってくるのだぞ」

 「やだなー、俺らはそんな簡単に死ぬタマじゃないぜ?それに早死にはしたくないしな。なあ小町」

 「そうだな、死ぬのはまっぴらごめんだ」

 先ほどとは全く逆の受け答えに、五十五はついていけず呆れた表情を見せる。

 「じゃあ行ってくるぜ。あばよ!」

 椿祈が一飛びで闇夜へ消え去った。

 小町も口元を衣で隠し、一礼をしてその場を後にする。

 彦三郎の無事を、二人の成功を五十五は願った。

 「四辻、戻ろう」

 「帰ったら久しく、酒でもどうだ?」

 「そんな余裕は…!」

 五十五は四辻を見上げた。

 心配するな、と笑みを浮かべる四辻を見て、五十五も落ち着きを取り戻す。

 「…晩酌くらい、なら」

 四辻は笑って、誰も見ていないことをいいことに五十五の頭を撫でた。

 普段の四辻には考えられないことに、五十五は驚いた表情を見せる。

 「子供の成長は早い。おぬしのそのような子供の顔も、今日で最後だろうと思うてな」

 「なにを…。俺はまだ子供だ、あいも変わらずな」

 「そんなことは無い」

 四辻は五十五を見下ろして続ける。

 「以前より、男の顔つきをしておる」


 二人が四辻の家に戻ってくる間、五十五は数年振りに四辻との二人暮らしとなった。

 左手が動かせるようになるまで、片側だけでも動かしておこうと五十五は木こりに励んでいた。それと力だけではなく、指先の感覚も少しでも鍛えようと筆をはしらせることもあった。みみずのようになぞられた文字を見て、「椿祈よりうまいな」と四辻は笑っていた。

 それから三日目の昼。二人は切り株を挟んで薪割りをしていた。

 五十五は利き手でないにも関わらず、鉈でうまいこと両断する。

 「そういえば、上組の規模はどれくらいのものなのだ?俺と四辻、椿祈と小町だけではなかろう」

 パカンッと心地のよい音を鳴らしつつ、五十五は問うた。

 四辻は次の薪を立て、「そうだな」と返す。

 「儂が集めりゃ三十人くらいか。椿祈の手下が十数人、小町の手下が数人くらいの構成だな。まあ、五十と少しの規模ではなかろうか」

 「五十か、山賊にしてはかなり多いな。集まって十数人かと思うとった」

 「久松殿に取り入れられるまでは三百はおったんだぞ。それを思えば随分と減ってしもうたな」

 「さ、三百だと!もはや一隊と呼べる規模ではないか」

 それらを取り入れれば全て自国の戦力となる。久松もきちんと考えていたのだなと、五十五は感心する。

 「そうだな。現に儂らの仲間は町屋での戦力になっとる。守屋という名前で、な」

 「あっ…そういうことか」

 「以前、お前にも話しただろう?久松派と九頭派に分かれたと。まあ、三百もおりゃあ分かれるも無理もない。山賊生活が気に入っていた連中は特にな」

 ふむ、と五十五は木々の合間に見える町屋を見下ろす。

 「腕が止まっとるぞ」

 四辻に注意され、「ああ」とだけ返して五十五は薪割りに戻る。

 「やはり、そやつらを戻すのは難しいだろうか」

 「難しい、というよりは無理に戻さないほうが懸命だろう。五十五が新たな総大将となったことを知って、自身の意思で戻ってこようものならまだしも」

 「そうでないものは斬ってもよいと」

 「……儂も、おそらくあやつらも、それは気味のよい話ではなかろうな。同じ釜の飯を食って、同じ苦難を乗り越えてきた仲間であったことは間違いない。ただ、選ぶ道が違っただけのこと。裏切られたとは思わん。とはいえ、このままいけば斬り合うことは違いないがな」

 五十五と同じように、四辻も町屋に目を移して物思いにふける。

 「腕が止まっておるぞ?」

 「こいつめ」

 やり返されたことに四辻は笑って薪を置いた。

 『自分の意思で戻ってきてくれるなら』、彦三郎が戻る可能性があることを五十五が知った時、なぜ身を挺してまで協力してくれるのだろうと不思議に思っていたが、先ほどの四辻の言葉で五十五は察する。

 薪割りも終え、二人は薪の整理に部屋の片付けをしていた。

 次第に外の景色は夕暮れ色に染まり、間も無く椿祈たちが戻る時間となる。

 「四辻。頼んでいた物を、このあと貰ってもよいか?」

 囲炉裏の火の面倒を見ていた五十五が四辻に聞いた。

 「ああ、件の白鞘ならお前の部屋に置いてある。刀が戻るというのに、まだ使うつもりなのか?」

 「そのことについて内密に話がある。部屋まで来てくれぬか」

 四辻は肩をすくめて苦笑いをうかべる。

 「椿祈が聞いたらうるさいだろうな。では、すぐ向かうか」

 五十五は四辻を連れて二階へとあがる。

 あがってすぐに前部屋がひとつ、その奥の襖を開けると総大将である五十五のために用意された個室があった。

 元々物置として使ってあった部屋を四辻自らが綺麗に掃除し、五十五の部屋として最低限の調度品を置いてくれていた。

 「鞘を貰ってよいか」

 五十五は棚にしまっていた久松の刀を手に取って座る。四辻も相づちを打って、壁にかけてあった包みを広げて白鞘を見せる。

 「その鍔、久松殿の物であろう。九頭の所業、まこと許し難い」

 試合の日、九頭によって鍔が痛めつけられ半分近く裂けてしまい、見るも無惨に壊されてしまっていた。

 「その九頭に負けたのは俺だ。家紋を守れなかったこと、久松殿にあわす顔がない」

 五十五は柄から目釘を外し、刀身から柄と鍔を外した。

 「だが俺には、いや俺たちにはまだ守べきものが残っておる」

 「守べきもの…とは」

 茎を四辻へと向けて答える。

 「これだ」

 四辻は茎を手に取り、じっと銘を見つめる。

 「これは…!?」

 そしてそこに記された三男の名前に、四辻は驚きを隠せなかった。

 「このことを知る者は俺と四辻しかおらぬ。椿祈と小町には、おぬしのほうから内密に知らせておいてくれぬか。これから来るであろう彦三郎の耳には入らぬよう」

 五十五は新しく用意させた白鞘に茎をはめ直した。鍔はつけず、鞘に紐で括り付ける。

 「わかった。だが、この者は今どこにおられるのだろうか…」

 「この者について、俺は心当たりがある」

 「まさか」

 察しのいい四辻が眉をひそめた。

 「確証はない。だがそう考えたほうが『説明がつくような気がする』節もある」

 「五十五。こちらも似たような懐刀を宝物殿から奪取しておる。それにこの銘を見て、儂もお前と同じ気がしておるぞ」

 「なんだと…!その懐刀、知っておる者はおぬしらだけか?」

 「いや…すまん、儂ら三人の他に、八尋神社の八尋さまと神主の雪村さん、それと永助どのが知っておる」

 あがった名前を聞いて五十五は驚きの声をあげた。

 「おぬし、八尋神社へ行ったのか…!」

 「す、すまん。色々悩んだ結果、以前お世話になった八尋さまのもとへ助言を貰うべきだと椿祈にしゃあしゃあと急かされて…」

 神社で何を話したのか、八尋はどうしているのかを聞きたい気持ちでいっぱいだった。

 しかし、それよりも五十五の中でどうしても拭いきれない不安を先に晴らそうとする。

 「その話、いつ頃のことだ。そこで相談とはどのようなことだ?」

 「お前が守屋に捕まって二週間後くらいのことだったか。お前を総大将として、我らが立ち上がるべきかを主として話した。懐刀についてはその後のことだ」

 五十五は顎に指を置いて考える。捕まってからひと月は牢屋に居た。そして御前試合の話になったのもその後。仮に、雪村が九頭と内通していたとすれば、御前試合に四辻らが現れることは予測できたはず。それを取り逃したとなれば、九頭は四辻の登場を知らなかったこととなる。

 雪村が情報を流していた線は消えたことに、ひとまず五十五は安堵の息をつく。

 となれば、九頭はどこから情報を得たのか再びわからなくなった。八尋と五十五が入れ替わっていることすら知っているのなら、四辻が来ることなど容易に予測できたはずだ。

 さらに、御前試合の勝敗の取り決めの約束から、あえて五十五を連れ去らせることの利点は無いはずだ。わざわざ無効試合の条件も入れていることから、何か起こればすぐに身柄を取り押さえる気だったのは明白だろう。無効試合となれば五十五の扱いは罪人に逆戻りなのだから。

 だが、現実には九頭は五十五を取り逃してしまった。今までの九頭なら、このような失態はありえないはず。

 「どうした?」

 「ああ、いやなんでもない」

 九頭の不気味すぎるほどの情報量については四辻であろうと話すことが難しい。八尋と五十五に秘められた内情を語るわけにはいかない。

 九頭もまた、こちらの秘密をなぜ誰にも言わないのだろうか。公開してしまえば大打撃を与えられるのは間違いないはずだが。

―――違うな、わかってても話せないんだ。入れ替わっていると証明する方法が見つからないのだろう

 「それにしても、五十五はやはり八尋神社のことを知っておったか。出入りもしとったのか?」

 「そうだな、あの地に住んどった頃は社へ出入りしとった時もあった。おぬしの出した名の者が懐かしい。八尋、雪村、永…んん?なんといったか」

 五十五が首を傾げて四辻に聞き直す。

 「んああ、永助と名乗っておったな。八尋神社の祭神だと言っておった」

 「はあ!?永助が祭神って、あの、ちっちゃい子だぞ?」

 「間違いない、たしかにまだ幼子のように見えたが、あの歳で祭神とは恐れ入った」

 まさか永助が祭神になっていたことに五十五は目を大きくして口をあんぐりとさせていた。

 「これは…これは俺たちも負けておられんな」

 「違いない。やろうぞ、五十五」

 二人は顔を合わせて、へへっと笑う。

 それと同時に気配を覚えた。

 「あやつらが帰ってきたようだな」

 五十五は白鞘に収めた久松の刀を四辻へ差し出す。

 「この刀はおぬしに任せる」

 「よいのか?」

 「おぬしは信頼に足る男だ」

 四辻は口角をあげて五十五に返す。

 「心得た」

 「それと」と、四辻が懐から小袋を取り出す。

 「八尋神社の八尋さまより、お前に渡してくれと頼まれたものだ。中は明かしておらん」

 「八尋から…?」

 五十五はその名前に目を大きくした。四辻から袋を受け取り、そっと中の感触を確かめた。

 袋口を開けて、手のひらに取り出す。袋からは神米が数粒転がった。その米から、妖力と霊力が交じり合った五十五の気質を感じ取る。

 ついにお前も見つけたんだな。五十五の表情に安堵の混じった笑顔が浮かぶ。

 五十五はそっと米を袋へ戻し、お守りのように紐を縛って懐に入れた。

 「四辻、行こうか」


 二人が玄関を出たあたりで、整えられた山道のほうから気配を覚える。一段と明るい月の光が木々の合間から差し込み、向こうからこちらに手を振る影が見えた。

 「椿祈、小町、ともに戻りました。予定の品もこちらに」

 先に小町が前に出て、五十五に報告する。

 椿祈は背負っていた彦三郎に一言声をかけてその場に降ろした。

 「守屋らに見つかることも無く、あの子には傷ひとつついておりませんゆえ。あとは五十五さんの好きになさってください」

 彦三郎は霊刀を抱えたまま立ち往生してしまっていた。椿祈はそんな彦三郎の背中をトンッと押して前に出させる。

 彦三郎の服装は城で見た時と変わらず、鮮やかな羽織り姿だった。その衣装も、城を出てからわずか数日で泥に汚れきっていた。

 背中を押された彦三郎は一度椿祈と顔を合わせつつも五十五の前に立つ。

 「い、五十五…その……えっと…」

 五十五はひとつ頷いて言葉を待った。

 「ごめん…なさい……」

 ここに来るまで、五十五に何と話そうか何度も考えたのだろう。それでも、五十五への行いに対して何も言えなかったのだろう。

 それもそのはず。「おぬしに殺されたのだ」と話した手前、五十五への彦三郎の言葉など何の意味も持たない。

 五十五は彦三郎の声色で心中を察する。

 「こちらに付いて、本当によいのか?その刀を手渡せば、九頭への立派な謀反となるのだ。仕置きでは済まされぬ、幾多の侍がおぬしの首を狙おうことを承知しておるのか」

 「……うん」

 「俺はもう、剣士の五十五ではないんだ。くだんの試合で町屋での名声は全て失っておる。こやつらを見ての通り、今じゃお山の大将だぞ」

 「……それでも五十五を信じたい。五十五はおいらに違う未来を見せてくれた、可能性を示してくれた。それは今まで一緒に暮らしてきて、一番感じていたことなんだ。だからおいら、もう一度五十五と…!」

 彦三郎は霊刀を五十五に差し出した。触れただけで人を殺めるほどの妖気を漂わせていたなど嘘のように、霊刀は落ち着いた気質を見せていた。

 霊刀を見下ろして、五十五の表情がどこか柔らかくなる。

 彦三郎の意志は決まっている。ならばその想いに力添えをすることが自分の役割だ。

 それは祭神であった頃も、剣士になってからも変わらない。

 「その言葉、しかと受け取ったぞ」

 五十五は彦三郎と目を合わせ、その言葉とともに霊刀を受け取った。

 数ヶ月に渡り抱えてきた不安と罪悪感、他にも言い表せない感情が積もりに積もっていたのだろう。

 しんとした夜の山に、彦三郎の泣きじゃくる声が響く。

 五十五は彦三郎をそっと抱き寄せ、背中をやさしく三度叩いた。

 「五十五さん。そやつのお調べはいかがなさいましょうか?私か、椿祈が得意としておりますが」

 小町が割って入るように提案する。

 「わかった。だが、調書は明日に頼もう。二人とも今日は休んでよいぞ」

 「承知しました」

 「今夜は代わりに、俺が穿鑿(せんさく)しておこう。彦三郎も、先に俺と話した方が気持ちが落ち着くであろう」

 五十五は彦三郎の肩を寄せる。

 その様子を見た椿祈が、「おっ!」と声をあげた。

 「いひひ。コマっちゃん、俺らも明日に備えて事を合わせたほうがいいんじゃないかな?なあなあ」

 三日以上働きっぱなしだというのに、いつもの調子で椿祈は小町に耳打ちをする。

 「ことを合わせるって、何がいるんだよ」

 「そりゃ、灯籠を灯すための油だろ?それに調書をとるための紙だろ?ああそれと、墨もいるだろうから今のうちにスリスリと…ってあれ?」

 いやしい声色で話す椿祈の首元を四辻が掴み上げた。

 「随分精が出るな椿祈、まだきばるのか」

 「あ、いや、精は出てますけど、いや、精は最近出しては無いですけど」

 「では、椿祈にはもう一仕事頑張ってもらおうか。先に儂の部屋に来い」

 四辻の言葉に椿祈は「ええー!」と物凄く嫌そうな表情で答える。

 「折角の上玉なのに、久方ぶりなのに、そんな殺生な…」

 その様子を見て、小町はくすくす笑いながら姿勢を正す。

 「では、私は先に休ませていただきます」

 ぺこりと一礼した小町に四辻は「ああ、待て」と引き止める。

 「お前も着替えだけして椿祈と部屋で待ってろ」

 「えっ!あの、冗談ですよね?椿祈がいるのであれば私は…」

 「椿祈のお守りはお前の仕事だろう。もし椿祈が逃げとったらただじゃ済まないぞ」

 椿祈と小町は互いに目を合わせて「ああ」と落胆する。

 「四辻、今日はもう好きにしてよいぞ。飯を食うならそちらの小屋でとってくれ」

 「承知した。ほら、お前ら行くぞ」

 「か、かしこまり…ました…」

 二人がわかりやすく肩を落として小屋へ向かう姿を見て、五十五と彦三郎はくすりと笑った。


 障子から漏れる朝の陽気に五十五の意識が戻ってくる。そっと目線を落とすと、羽織りを布団かわりにして眠る彦三郎の姿があった。

 少し寝過ぎてしまっただろうか。彦三郎の頭を軽く撫で、五十五は膝立ちで窓辺に這い寄り木戸を開ける。

 日差しが目に眩み、細目になった。鳥のさえずりからそれほど寝過ごしたわけでもなさそうだと察する。外を覗いても四辻たちの気配がしない。さすがにもう起きているはずだが、どこにいるのだろうか。

 軽く部屋を見回すと、昨日の行為が嘘のように部屋の汚れが拭き取られている。とはいえ、臭いまでは消すことができず、五十五の身体からも、彦三郎からも青臭さが染みついていた。よく見れば自分も素っ裸のままだと五十五は遅れて気づく。

 裸なら裸で身体を洗うのにちょうど良い、四辻たちを探す前に身体を洗い流してこようと五十五は下着だけ手に取って洗い場へ降りてゆく。土間に降りたところで、ちょうど四辻と出会わせた。

 「なんだ裸じゃないか。再会した日から夜伽とは、若いな」

 五十五の姿に四辻が呆れ笑いを見せる。それにつられて五十五も笑った。

 「いや、もうなんというかな。何も言い訳はできん」

 「はよう洗いにいこうや。椿祈が見たらうるさく茶化すぞ」

 「ああ、わざわざすまぬな」

 裏のせせらぎまで二人で歩いてゆく。せせらぎは小屋から少し離れ、やや降った位置にあるため小屋へ直接水を引くことはできない。洗い物や風呂に関してはここへ直接来る必要がある。とはいえ風呂は温かい湯につかりたいとぬかす五十五が来てからは、時折五十五が自分から風呂を沸かすこともある。

 四辻をひとつ上がったところで待たせ、五十五は枝にかけてあった桶を手に取ってせせらぎに入る。日差しは暖かいが山の水は非常に冷たい。早いところ済ませてしまおうと、五十五は全身を洗い流してゆく。

 「刀が戻って、彦三郎も手に入った翌日というのに、随分寝てしもうて悪かったな」

 「ん、ああ。別に次の状況が決まってないからな。あやつらと集まって、それからだろうな。まあ、お前の腕が治るまでは大したこともできまい」

 「そうか…。そう言われると余計に申し訳ないな」

 「気にすることもなかろう。これほど暢気な一日も久しいだろう?今はゆっくり休め。昨日それだけ盛ったのなら腕もすぐ治ろうて」

 それもそうだな、と五十五が笑って返す。

 「そういえば小町らは?あやつらの姿も見えんが」

 「ああ、あいつらならお休みの日なのをいいことに酒盛りして仲良く寝とったぞ。あれは昼まで起きてこんだろう」

 「なんだ、気負っておったのは四辻だけか」

 「あの子も、覚悟を決めとる様子だったぞ?」

 「へ?」

 五十五が間抜けな声色で返す。

 「お前が寝て、部屋を掃除するのに拭きものを持ってきてくれって儂を呼びおった。肝が据わっとるなと思うたが、訳を聞くと、お前さんから許可なく離れられないと言よった。それから誠実な態度で何度も頭を下げとったよ」

 「そんなことが…」

 五十五は顎下を掻いて、小屋のある方を見た。

 「当の本人は、すっきりして寝息をかいとったがな」

 「あ、言ったな」

 五十五は体毛の水気を切って、サッと四辻の元へとあがっていった。


 「それで、話って…?」

 彦三郎を起こし、簡単な支度をさせてから一階の土間へ五十五、四辻、彦三郎の三人が集まる。

 「言うたであろう。おぬしの未来、おぬしにしかできぬ道があると」

 五十五の言葉に、彦三郎が頷いた。

 「あれを」と四辻に指示をし、白鞘に収められた久松の刀、それと四辻たちが以前から持ち出していた久松の懐刀の二本を彦三郎の前に置かせた。

 「前領主、久松道長が末の子のために用意した二本だ。それと、おぬしにもこれを見てもらいたい」

 五十五は白鞘の柄を外し、茎に切られた銘を見せる。

 「えっ…あ……。これ…!」

 五十五はひとつ頷き、刀身をそっと手渡す。

 彦三郎は継名に切られた名を見て言葉を失い、肩を震えさせていた。

 「久松殿が残した最後の願い。それは縁好、おぬしに町屋の征く道を委ねさせたかったのだ。九頭や俺たち、妖狸による統治ではない。ヒトの子である、おぬしの手によって」

 彦三郎の目から涙が溢れる。

 「おいら、おいらずっと一人で…誰にも愛されず、ずっと一人で生きていくんだと思ってた。だからおいらは宿屋の客や、九頭に気に入られようと…誰かに構ってほしくておいら…」

 「おぬしは生まれた頃より愛され願われていたのだ。だがそれは九頭らからおぬしを守るため、ずっと秘匿されなければならんかった」

 彦三郎は茎をぎゅっと握りしめ、思いを巡らせている様子だった。

 そしてゆっくり顔をあげ、涙でぐずぐずになった表情で五十五と目を合わせた。

 「おいら、おいらは町屋を九頭の手から取り戻したい。おいらは五十五と、四辻さんと一緒に手を取りあう道を進みたい。だから……」

 目元を袖で拭って、彦三郎はあらためて口にする。

 「五十五、四辻さん。どうか上組の、おいらにお力添えをください!」

 その決心の言葉に、四辻が大きく頷き、五十五がニッと笑みを返した。

 「心得た!我ら上組は、おぬしの道のため、全力を尽くそうではないか!」

 五十五の宣言によって、彦三郎のこれから進むべき未来が照らされた。

 今まで夢見ることが一才できなかった彦三郎は、希望に満ち溢れた表情を返して見せた。

 「九頭を引きずり下ろした暁には、相応の褒美を頂けることを約束してもらおうか。もちろん、俺らにもおいしいところを噛ませてくれるんだよな?」

 「はい!喜んで!」

 五十五は四辻と顔を合わせて、へへっと笑った。

 「おぬしの名前、どう呼ぶべきだろうか」

 「いつも通り、彦三郎でいいよ。全部が終わったら、幼名から新しく考えるよ。それまでは、ね」

 「わかった。よろしく頼むぞ、彦三郎」

 「こちらこそ。よろしくね、五十五!」

 さて、と四辻が袖の中で腕を組む。

 「これからどうする?守屋の侍はすでに千は近い。それに加えて多種多様な名手も揃い始めとるとも聞いたぞ。あの陰陽師のようなやつらが増えたら厄介極まりない」

 「ああ、こちらも兵力を集めるしかなかろう。おぬしらにも手下を集めて貰うつもりだが、数じゃとてもかなわんな」

 「ではどうする」

 「それについても考えがある。守屋の連中は相手取るのも容易い。危険なのはその名手とやらだろう。ならば、こちらはそやつらと対抗する力を得ねばならん」

 二人は五十五の言葉を待った。

 「名手とやり合うなら、こちらも名手の力を借りよう。そしてその者についての宛てがある」

 「お前、いったいいつの間にそのような情報を」

 「昨日の夜さ。彦三郎の中で、見覚えのある者がおった」

 「えっ!?」

 彦三郎は自身と目を合わせて話す五十五に困惑した表情を見せた。

 幼い彦三郎を連れ去り、そしてあえて宿屋へ隠した張本人の姿を五十五は覚えていた。

 「山犬だ」

 五十五の説明がよくわかっていない様子を見せる彦三郎とは違い、四辻は顎に指を添えて「そうか!」と話す。

 「確かに、あやつらと手を組めばあるいは…!」

 「だがあやつらの内情もよく知っておる。俺の知る歴史を繰り返してはならん。しかしうまくいけば、俺らの策も大きく広がる」

 「うむ、決まりでいいだろう」

 四辻の返答に五十五が頷いた。

 五十五は彦三郎と目を合わせ、「彦三郎」と前置きする。

 「ここからが本番だな」

 どこか聞いたことのある台詞に彦三郎は笑った。

 「うん!」

 その返事を聞いて、五十五は隣にかけてあった霊刀に目を向けた。

 これから起こるであろう大激動の未来と、それを乗り越えた先にある二人の約束に思いを馳せて、八尋は強く願った。

 八尋が思いを巡らせるなか、どたばたとやかましい音と「バカ」だの「アホ」だの罵り合う声が聞こえてきた。

 「おくれ…遅れて申し訳ございませんでしたァ!」

 今になって起きてきた椿祈と小町が、色々と汚れた小袖姿のまま土間へ現れた。

 「随分と楽しそうな夜だったみたいだな。みっともない臭いがする」

 五十五が二人に呆れた声で話す。

 「へ、へえ。でもよう、大将だって昨夜はあんなに…」

 「椿祈、俺を子供だとぬかしおったな」

 「あっ、なんか総大将の顔つきが違う。昨日の今日で大人になっとる!」

 「斬られたくなきゃ、裸のまま山を一周してこい。目が覚めるぞ」

 「総大将、そういう趣味もあるんですな、いやはや奇遇な…」

 「斬られたくなければ」の言葉を無視して余計なお喋りをする椿祈に、四辻は無言で鯉口を切った。

 「はい、行ってきます!」

 四辻の危険を察知した椿祈が、その場からピャッと飛んでいった。

 その場に残された小町に対して、四辻が言葉をかける。

 「小町、お前も行ってこい。小袖は洗っといてやるぞ」

 「えっ!あの、私は五十五さんから何も…」

 「椿祈のお守りは誰だったか、忘れたと申すか」

 「はい、行ってきます!」

 小町はその場で服を脱ぎ捨て、大の大人二人が素っ裸で山を駆け回りはじめた。

 静寂の訪れた土間に三人は顔を合わせて大笑いをあげる。

 五十五、ようやく道が見えたぞ。神霊も、妖も、ヒトとともに征ける道が、やっと見つかったんだぞ。

 全てが終われば狐も狸も関係ない、みんな一緒に歩める世界がそこにある。

 だから、もう少しだけ、お前も頑張ってくれよな。五十五。

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狐狸裏参道 @raccoontanuki

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