第7話

 八尋と入れ替わって二度目の秋。今年は夏にあった蝗害のこともあり、五十五はあちこち駆け回ってばかりだったなと物思いにふける。天候に恵まれないこと、虫の兆しが悪いことから社や村の雲行きが怪しくなっていた。

 そんな中でも、五十五は村と力を合わせて乗り越えようとした。村への干渉が多くなった八尋の姿に、最初こそ珍しいと話をする者もいたが、協力する取り組みを悪く思う者はいなかった。

 八尋の場合、村や田作りにおいて、直接的な力添えをすることは殆どない。例えば、まだ八尋が社に居た頃、カメムシによって稲に害が及ぶことがあった。困り果てた村人が八尋に相談したところ、八尋は田へ降りることもなく「山草を焼き、煙で燻すとよい。ここへ持ち込み次第、霊力を与えよう」とだけ助言をしたこともある。その後、祈祷によって霊力を帯びた山草を燻すと、僅か数日で害虫が消えるといった、しっかりと結果も残している。それから、この山草焼きは社の祭事として毎年行われるようになった。

 このように、村と社の伝統を作り、あくまでヒトが主体となる取り組みを行っていた。

 そんな社の歴史に打って変わって、この一年の間で違った変化がいくつかある。新たな祭事が生まれていないにも関わらず、社には神田が生まれ、村にも新しい水路ができ、社と村に新たな景色が増えつつある。

 この夏に起きた蝗害への取り組みを見るように、五十五は村に対して直接的な力添えをすることが主体となっている。

 水路作りを直接霊狐が手伝うといったことは無かったが、水路の設計などは五十五も交えて行っていた。五十五は、村そのものの仕組みを変える試みを通して村の安泰を保とうとしている。もちろん、過度な干渉はしないよう、村が主体になれるように注意しつつ五十五は提案していた。それでも今までとのやり方が違うことで村人からは驚かれることも多い。

 八尋の自室にあった書物を何度も頭に叩き込んだだけあり、この社と村の本来のあるべき姿を五十五も弁えているつもりだ。それを通して、五十五なりの力添えを行えているのは、村としても良い傾向だった。

 いつも通り着付けを終えた八尋が本殿の戸を開けると、八尋もよく知った人物が迎えてくれた。

 「八尋さま、おはようございます」

 本殿から拝殿へ出てきた八尋を、雪村は正座をしたまま迎えてくれる。

 「おはよう、雪村。朝の礼の前から拝殿におるとは珍しいな。呼んでくれれば、早めに出てこれたのに」

 朝の礼の、霊狐たちが集まる前に、八尋は拝殿で息を整えることを習慣にしていた。数分ほど深呼吸をしたらもう一度本殿に戻り、霊狐たちが集まってから再度拝殿に行くようにしていた。

 思いもよらない待ち人に、八尋は驚いた様子を見せて足早に駆け寄った。

 その姿を見て、雪村はくすりと笑う。

 「な、なんだ。着付けはおかしくないはずだぞ」

 ひとつ笑われ、八尋はやや心配気味に自身を見回した。雪村は、「すいません」とだけ返して、深く一礼をした。

 入れ替わった初日こそ、八尋のいない八尋神社に不安を覚えていた雪村も、今では五十五を頼りにすることもある。五十五の成長を見守ることに、どこか八尋と過ごしてきた懐かしさを覚えていた。そんな中、自身に早足で駆け寄ってくれるなど、時折八尋がしなかったはずの仕草の違いに気づく。姿形、声色や言動は八尋そのままだというのに。この違いに気づくことができるのは自分だけだろうと、そんな想いも含まれた笑いを見せてしまった。

 「なんでもございません。無礼をお許しください」

 「なにもないなら良いが…変なやつだな。その様子だと、早い時間から瞑想しておったのか」

 少しくらいは話す時間がある。八尋は拝殿の上段にあがり直して、雪村を見下ろすようにあぐらを組んだ。

 「はい。近頃、八尋さまのお姿を見ると、私もまだまだ八尋さまへのお力添えができていないと痛感しておりました。神主より主のほうが駆け回られているなど知られてしまえば、八尋さまへ合わせる顔がございません。そう、反省しておりました」

 「お、おい。気負うな、気負うな。あまり無茶をしては身体を壊してしまうぞ。俺とて、雪村にはいつも感謝しておる。ほら、おもてをあげい」

 いつもの様子で、淡々と雪村は話す。この二年間に対する八尋、いや、五十五への褒め言葉のつもりだったが、八尋は慌てた様子で身を出して答える。

 「ですが、私も姿勢を正すべきかと…」

 「雪村こそ、常日頃から駆け回っているだろうに。これ以上、お前の正した姿勢を見てしまうと、俺も変な力が入ってしまうぞ。それに、今日は村の収穫を見に行く日でもあろう。今日も頼りにしておるぞ」

 なんとか話題を変えようと八尋は言葉をかける。雪村は面をあげて、「はい」と答えた。

 しばらく話をしているうちに、朝の礼のために拝殿へ一人の霊狐が現れる。

 「あれ?もう誰か…あっ!」

 普段なら八尋と雪村が来る前から拝殿に霊狐たちが集まるはずの朝の礼に、今日は一番最初から二人がいた。それどころか、既に二人が話していたような姿を見て、遅れてしまったのだと慌てて雪村の後ろへと正座して並ぶ。

 「うん、どうした…って!」

 入ってきた子の班長らしき霊狐の青年も、既に拝殿に集まっていた八尋と雪村を見て驚く。

 「八尋さま、雪村さま、おはようございます!急いで皆を集めさせます!」

 「あ、おい!そんなに急がせなくとも…!」

 今日は特別、早くから朝の礼に集まれなど霊狐には伝えていない。二人の気まぐれが、霊狐たちに妙な勘違いをさせてしまった。

 慌てさせるのも無理もない。今日は、村の田んぼの収穫日。八尋と雪村が直々に村の収穫を見回る大事な日なのだから。

 先ほどの霊狐から後続を急かす声が聞こえる。その号令にあわせて、大勢の霊狐が慌ただしく廊下を駆け出し始めた。

 みな一様に早足で、かつ足音を極力立てずに拝殿へと並んでいく景色を見た二人は、顔を合わせて苦笑いをした。

 やはり、気負わせる姿勢を相手に見せるのは良くないのだと。



 朝食を終え、八尋と雪村は稲刈りが始まった麓の村の様子を見に行く支度をしていた。二人が一緒に行動する時は年に数回あるくらいだ。それゆえに、八尋が雪村を連れていく時は、とても重要なことをするのだろうと周知されている。先ほども、霊狐が雪村の荷物に不備が無いかを確認していた。

 夏の終わりに二人が見た稲は順調に育っており、折れることなく綺麗に生えそろっていた。出穂の時期から、稲の栄養は穂へ注がれる。その際、田んぼには十分な水が必要になる。今年の水不足から、ほとんどの村から「水が足りない、稲が枯れてしまう」といった話を嫌になるほど聞かされている。麓の村に、観蛇山からの水を送ることが出来たが、どれほどの効果があるのか八尋は心配だった。

 「お待たせ致しました。私はいつでも参れます」

 烏帽子を付けて、正装した雪村が社殿の座椅子に座って待っていた八尋に一礼する。

 「参ろうか」八尋が立ち上がると、側に付いていた霊狐も一礼して一歩下がった。

 二人が正門の辺りまで歩いていくと、頃合いを見て「行ってらっしゃいませ」と霊狐たちの声が響いた。

 参道を下る途中、八尋が雪村に話す。

 「今年は、本当に沢山のことがあったな。春から気が抜ける時期がなかった」

 「さようでございますね。この春に入ったばかりの子には、厳しい一年となってしまいましたね」

 八尋は苦笑いを返して、参道を流れるせせらぎに目を移した。

 「とはいえ、大きな変わりごともあった。麓の村に水路を設けられたのは、今年だけではなく、これからの稲作にも良いことになると思いたいな」

 「村の方々の大工技術も、あれほどのものとは思いもしませんでした。社の増築や倉も建てて貰っていましたし、技量の高さは知っておりましたが…。あれほどの長い水路を僅かひと月で作り上げるとは」

 「そうだな。冬は、みな家仕事をするとは言っておったが…。この村の田畑や家々が、かの者らの手によって作られていったことがうかがえたな」

 「それと、水路造りにおきましては、私はなに一つお力添えすることができず。お恥ずかしい限りです」

 雪村が誤魔化し笑いを見せた。何かを振り返ると、今日はどちらかが気まずそうにしていた。

 「水路の設計については、八尋さまのお力に、皆さまとても感謝されておりました。あれほど具体的な設計を一晩でなさるなど…。そのような心得もお持ちになられていたとは、私も驚きましたよ」

 「そうだったか。以前、町屋に行った際に、町屋の水路もよく見てたからな。本殿の神田に通した水路と、境内の神田の水路の二つを作ったことで、俺も多少は感覚が分かってな」

 「町屋へ行ったときは、初めて祭りに行った子どものようにきょろきょろとされていたように見えまして。すいません、行く先々で学びを得るというのは、私も倣わなければなりませんね」

 町屋についてから、八尋が物珍しさにあちこち目を向けていた、という話を思い出す。凛々しく、賢い八尋を演じたつもりだったのに、と心の中で五十五は笑った。

 「麓の田、どれほどの実りとなっておるか。やれることはやったとはいえ、不安が拭えないな」

 「イナゴに稲を喰われて、一部が細くなってしまっていたことを思い出すと不安ですね。早いうちにイナゴも消え、水路を通したこともあり、折れてしまった稲は無かったと話は聞きましたが…」

 「茎の数が減ってしまったからな。単純に考えれば、まあ、実りは減ってしまうだろうな…」

 八尋が大きくため息をついた。見る前から結果が想像できてしまうと、期待を持てないのも無理はない。

 「気を落とさないでください。八尋さまや、霊狐たちのお力添えのおかげで稲が枯れることが無かったのですから。今年の参拝者も、件のことから増えました。皆さん、とても感謝されております」

 「うむ、それは忘れておらん…」

 それでも安心できないと、八尋は目の下を掻く。「そうですね…」と、もう一度、雪村が八尋へ続ける。

 「境内の神田を思い出してみてください。霊狐たちの力、観蛇山からの水によって、今年も大きな実りとなっておりました。その二つの力が、今度は麓の田にも注がれております。きっと、大丈夫ですよ」

 うつむき気味の八尋を励まそうと、雪村は前向きになれそうな言葉をかける。雪村の話を聞き、八尋も「そうか」と、ふたつ呟いた。

 「すまん。八尋神社の祭神であろう俺が、このような面では皆も不安にさせてしまうな。雪村と二人になると、どうも不安事ばかり話してしまう」

 八尋はおもてを上げて、雪村と顔を合わせる。まだ不安にも見える表情が残っていたが、先ほどよりも柔らかな声色だった。

 話をしているうちに、参道の中腹まで降りてきた。もう少し歩けば、八尋神社の鳥居が見えてくる辺りだ。

 「ああ、それと八尋さま」

 何だろうと、八尋は横目で雪村と視線を合わせる。

 「八尋神社にも立派な神田をお迎えいたしました。これもひとつの御縁、今年から抜穂祭(ぬいぼさい)を行われてみてはいかがでしょう」

 「抜穂祭?収穫祭ではなくてか」

 聞いたことが無い祭事に八尋は首をかしげた。 

 「はい。田踏みから祈年祭、収穫から新嘗祭(にいなめさい)…もっとも、八尋神社は新嘗祭と同時に収穫祭を開いておりますが。それらに加えて、神田の稲を刈り取る祭事、抜穂祭を行うことで一年間頑張った霊狐たちの力となるのではないか、と思いまして」

 「神田の祭事…」

 八尋は袖の中で腕を組んで聞いていた。祭事を通して、霊狐たちの力にもなるという話から、自分の力にもなるのではないかと考える。やや、よこしまな思いもあるが、自分から始めたことが祭事になるというのは純粋に嬉しい様子だった。

 「抜穂祭、思えば考えたことがなかった。雪村、やろう!」

 ぱあっと明るい笑顔で雪村に答えた。八尋の表情に雪村は微笑みながら、「はい」と頷いた。

 麓の田んぼが見えそうなあたりで、八尋はそわそわとした様子で早足になった。黄金色に輝く田んぼの景色が見え、立ち止まって安堵の息を漏らした。

 「ひとまず、安心ですね」

 「ああ、肝を冷やしたぞ。田が坊主だと、合わせる顔がないからな」

 再び足を運び、田んぼまで降っていく。参道の入り口にある鳥居に、誰かが待っていることに二人は気づく。

 八尋たちの姿が見え、待ち人が深く一礼した。

 「長、わざわざお迎えありがとうございます」

 待っていた麓の村長に雪村は軽く一礼する。八尋も袖の中で腕を組んで、「ご苦労であった」と労う。

 「八尋さま、此度のお力添え、誠にありがとうございました。不作流行りの中、麓の田は大成功にございます」

 「おぬしらも、イナゴ退治や水路作りの働き、大義であったぞ。私も参道より見える黄金色に、安堵の息を漏らしてしもうた」

 ありがとうございました。と、村長は再び深く一礼する。

 「では、田のほうへご案内いたします。そちらで今年の稲をご確認いただければ…。きっと、八尋さまも驚きになられますよ」

 珍しく村長が口角をあげて笑う。どういう意味だろうと、八尋と雪村は互いに顔を合わせて首を傾げた。


 「これは一体…!」

 田んぼの側まで来た八尋は、不作の兆しをものともせず、大きく実った稲穂を見て驚きの声をあげる。

 「八尋さま。ぜひ、八尋さまのお手にも取っていただきたく存じ上げます」

 村人の手から、刈った稲を一つ八尋に献上した。実際に手にした稲穂を、八尋はじっくりと眺めた。太く逞しく育った茎の感触、気を落ち着かせてくれる穏やかな穂の香り、丸々と太って食のそそられる実。さあさあと稲が波打つ音に、八尋は田んぼに視線を奪われた。五感全てを感動させるこの稲は、どこか境内の神田を彷彿とさせる。

 「私どもも、みな驚きました。イナゴに稲を喰われて、稲の数が減ってしまったというのに。社に流るる観蛇山ゆらいの霊水を田に分けて貰うてからは、稲もみるみる立派に育って…」

 山の霊気、それに霊狐たちの力がこれほどまで稲に影響を与えるとは誰もが予想していなかった。祈祷に加えて、村と社の願いの込められた水を送ることによって麓の田の土は大きな力を授かったようだ。

 「収穫は麓の田のみとなってしまいました。水路も、直接送ることのできる田はここだけでしょう。しかし、これより育て上げた種もみを氏子の田へ送ることはできます。みな、八尋さま、霊狐さまのお力添えに頭があがりませぬ」

 不作の兆しがあろうと、希望は八尋さまにあります。と、村人たちは八尋へ礼をする。

 五十五の提案した水路作りが、この村に新たな歴史を作り上げたのだ。

 いや…。喜びかけていた五十五は、ふっと思いどどまる。まだ大元の問題が解決したわけではない。

 八尋は手元の稲穂をじっと見つめて、思いを巡らせていく。

 不作の兆しが、まだ今年だけではないことを、五十五は気づいていた。五十五だけではなく社の霊狐たちも、みな同様に気づいている。しかし、それを分かっていて、誰も口にはしなかった。社と村の全員が必死に乗り越えようとする最中、不作がまだ続こうなど、誰が言えるものか。

 雪村とて、田んぼや村人たちの様子に、安心の笑みを見せていた。しかし、考えこむ八尋の姿に気づくや否や、雪村の表情も変わる。

 この状況を抜け出すには、八尋と同じく、五十五にも神力が必要だ。八尋がいない今、全ては自分にかかっていると。

 八尋は顔をあげて、自身のやるべきことを今一度、この田んぼの景色とともに五十五は心に刻んだ。

 「おもてをあげ。…おぬしら、此度は大義であった。私を含み、社の霊狐はこれからもおぬしら氏子とともにありたいと願っておる。我らからは、そのように」

 終わりを告げた八尋に、再び村人たちが礼をする。合間を置いて、雪村から「長、あとの指示はそちらで」と話すと、村長は村人たちに収穫作業の指示を仰いだ。

 村人たちがそれぞれ事前に与えられた作業に移るなか、畦道には八尋と雪村、村長の三人だけが残っていた。

 頃合いを見て、村長も二人に向き直る。

 「雪村どの。収穫、年貢の量がまとまり次第、そちらへご報告させていただきます」

 「はい。算術後、八尋さまへのご報告を通してから、また長には社へ出向いていただきます」

 村長は一礼して、別れの挨拶を済ませる。

 「では、ワシも作業のほうへ…」

 「ああ、長。最後に少しよいか」

 その場を離れようとする村長を八尋が呼び止め、「雪村、件の話を、おぬしから」と、話を求めた。

 「突然のことではありますが、此度より、八尋神社神田におかれまして、抜穂祭を行うことといたしました」

 「抜穂祭、とな」

 先ほどの八尋と同じく、想像がつかない様子で村長は聞き返す。それに対し、雪村は八尋と同じように説明をした。

 村長の感触も良く、「ぜひ、させていただきたい」と返事をする。

 「それで、いつ行われましょうか。刈り入れの時期ですし、翌月までには行ったほうがよろしいとお見受けしますが…」

 あまり時間をかけてしまうとすぐ冬が来てしまう。とはいえ、村人たちも今日からの刈り入れ、稲の乾燥、脱穀、まだまだ他にもやるべきことがたくさんある。他にも町屋へ年貢を届けに行ったりと、村が一番忙しい時期でもある。そのため、収穫祭は時期を大きくずらした年末に行うこととなっている。

 そんな時期に、わざわざ大人たちの手を借りるのも忍びないと、いつすべきかを雪村も悩んでいた。

 「村の子らはどうだろうか。神田もさほど大きいものではない、数人くらいのヒトの子と、こちらの幼霊狐とが混じって刈り入れを行うのもよいのではないか」

 二人に割って入るように、八尋が提案する。雪村は、「なるほど」と答えて、村長をうかがう。

 「子供らですか、たしかに子供らの手は空いておりますが…。十(とう)になる子はもう田に出ております。空いておるのはさらに幼子となりますが…よろしいのでしょうか」

 「五つから七つ、八つの子でも構わぬぞ」

 「ですが、神楽の舞とは違って、礼節を重んじる祭儀でございましょう。礼のわからぬ子では、無礼を働くおそれも…」

 「それについては問題なかろう。数日ほど社へ置かせて貰えるのなら、こちらで教えを講じることもできよう。飯や寝床もこちらで出そう。それに、ものを教えるに心得た者もおる」

 言葉の終わりに八尋は雪村を見上げた。目のあった雪村は、綺麗な二度見をしてから自身に指をさした。

 「あ、私のことですか」

 「永明らや、日中の指導者が増えてからは、おぬしも久しく教える立場から離れておっただろう。それに、これを機に神職に心を惹かれる子が見つかるのではないか。ヒトの子の神職を探すには、おぬしも前からボヤいておったであろう」

 はは、と雪村は誤魔化し笑いを返す。

 「いかがでしょうか、長」

 村長へ顔を戻し、雪村が訪ねた。八尋の提案に雪村は賛成の様子だ。

 「こちらの幼子たちが、雪村どのから教えをいただけるというお話は、大変ありがたいことであります。ワシからも、ぜひお願いいたします」

 「良い返事が聞けてよかった。長の言う通り、神田の刈り入れもあまり遅くしとうない。村の子には悪いが、これより十日後の朝には、子らを鳥居の前に集めてくれぬか。数日の修行のち、遅くとも月終わりには抜穂祭を行おう」

 「わかりました。こちらからは、子のおる家にその旨を伝えておきます」

 八尋と雪村は顔を合わせて、ひとつ頷いた。

 「では、此度はありがとうございました。我々は、社へ戻ります」

 最後に雪村が礼をして、二人は社へと戻っていった。

 抜穂祭の話から数日後、八尋の元へ手紙が届けられた。抜穂祭に参加する子供の用意が出来たとのこと、また準備もそれほどかからないということだった。

 随分話が早いな、と八尋は首を傾げていた。八尋たちには分からなかったことだが、普段の稲刈りと違い、麓の田んぼには隣村の者も混じって行っている。その分、話が伝わるのが早かったのだ。

 まだ子供たちを迎えるには期間があると考えていた雪村は、その日から慌ただしい様子を境内で見せていた。村の子に祭事を教えるにも、部屋の準備ができていない。文机へ向かわせようにも教科書も用意ができていない。加えて見習い用の神職装束も縫えていない…。など、やるべきことが一気に押し寄せたようだ。

 霊狐と混じってヒトの子が修行に励む姿が見えるようになる。

 八尋神社に、新風が吹き込むような期待が高まっていった。


 朝の境内に、珍しく龍笛が響いている。音の方へ目を移すと、境内の広間にヒトの子供たちが集まって稽古をしていた。修行中の子供たちは、雪村の想像していた以上に聞き分けよく修行へ取り込んでいる。普段着ている農民服とは違い、神職装束を纏っていることから気持ちが引き締まっているのだろうか。

 子供たちが修行する姿を見て、普段どこか気の抜けがちな幼い霊狐たちも、いつも以上に真面目に仕事や稽古に励んでいた。子供たちが穿いている袴は見習いの松葉色。ほとんどの霊狐たちはひとつ上の位である、浅黄色の袴を穿いている。ちょっとした色の違いに、どこかいいところを見せようとしているのだろうか。どちらにせよ、お互いが良い刺激になっているようだ。

 子供たちが抜穂祭の稽古をする中、動きや心構えを教える雪村の隣で笛を吹く永助がいた。元々、村の子供たちと仲がいいこともあり、永助も気軽に教えられるだろう。そのような意図で抜擢されたのかと思いきや、雪村は、永助の龍笛の腕を買って稽古役を頼んだようだ。

 廊下を歩いていた八尋は、思わず足を止めて見入っていた。落ち着きのない子供と変わらない振る舞いをしていた永助とは思えない風貌をしていた。子供の成長は早いとは聞くが、それを目の当たりにすると驚きを隠せない。

 「永助も、気づかぬうちに立派になりましたね」

 声につられて、八尋が視線を移す。通りがかった永明が八尋の隣へ歩み寄った。

 「おととしまで、私の布団に潜り込んだり、稽古をすっぽかして雪村さまのもとへ逃げていたというのに」

 思いにふける永明の言葉を聞き、八尋も視線を境内へと戻した。

 「永助も、もっと子供だと思っておったのに。我らの知らぬ間に、あれほどの腕をもったとは驚きだな。笛や舞に関しては、永助の右に出る者もおらんのではなかろうか」

 「あれほど苦手だった笛が、まさか追い抜かれるとは思ってもおりませんでした。八尋さまの仰る通り、神楽の他に、あの歳で祈年祭の舞狐としても選ばれております」

 「祈年祭での永助の舞か、私もあの舞には目を奪われたな。大人びた永助の姿に、どこかおぬしを彷彿とさせられたぞ」

 「私を、ですか?」

 八尋は柵に手をかけて前へもたれる。

 「やはり兄弟か、とも、その時は思ったが。今朝の姿を見ると、どうも違うらしい。いよいよ、永助の袴にも紋が入るやもしれんな」

 「な…っ!まだ永助は紫も穿いておらんのですよ!」

 やけに慌てた様子で永明が身を出した。その姿に八尋は笑いながら続ける。

 「そうだな。おぬしもようやく紫紋を貰ったというのに、永助が白紋では立場があやういか」

 「よもや、よもやですよ、八尋さま…」

 白紋。つまり自分より弟のほうが立場が上になるかもしれないという話に、永明はめまいを覚える。

 「冗談だ。だが紋無しとはいえ、紫を穿く日も遠くないだろう。神主の隣に立って教えを講ずる者が、浅黄色とは思えん」

 「確かに、数年ほど前であれば、あそこへはいつも私が立っておりました」

 言えば言うほど、二人は永助の成長に驚かされる。入って数年で、松葉色から紫色まで上りあがる神職は聞いたことが無い。

 「そうですか、永助ももう紫へ…」

 「…いや、まだそうはならんだろうな」

 しみじみとしている永明の言葉を、八尋が割り込む。

 「これほどの評価に対して意外ですね。なぜ、そのようなお考えで…」

 「そうではない、私は永助に紫を穿かせてもよいとは考えておるが。おそらく、雪村が許さぬだろうな」

 永明は、境内で稽古をつける雪村に目を向けて、八尋に問うた。

 「雪村さまが、ですか?」

 「ああ。確かに永助の笛と舞の腕は私も推しておる。祭事には必ず呼ばれておるし、田踏みも永助がこなした数が一番多い。それに、村人からの声も良い。…だが悲しいかな、永助はおぬしら紫ほど賢くない」

 「それは…」

 永明の表情が曇る。学術の点に関しては、永助は同年代の子と比べても良いとは言えない。むしろ成績は悪い方だった。

 「紫を与えるとなると、永助も本格的に社の柱の一つとなろう。おぬしのように、祈祷や落としものも手放しで任せることとなる。そのような時に、祓詞を間違えてしまう紫がいてはどうだろうか」

 すべての祭事を完璧にこなせるか、と問われると、永助はそこまでの力を持っていない。読み書きの力は持っているが、周りの子と比べて特段字が綺麗なわけでもない。

 八尋の例え話に、永明も言葉を詰まらせる。

 「学術に関しては、永助本人もよく分かっておる。…昔から苦手なのだろう。だから雪村も、永助を特別に連れ歩くことが多かった。今回の稽古役も、これまでの雪村と永助の付き合いを見れば普通のことだと誰も文句を言わぬ。あまり気味の良い話ではないが、永助に紫を与えることは、私だけではなく社のみなが納得してくれぬと難しい」

 「さようでございますね…」

 実の弟が報われないことに、永明の表情が曇る。それと同時に、未来に対して心配した様子で永助に目を移した。

 「おぬしだからこそ話したことだ。雪村にも、永助にも、絶対言ってはならぬぞ。まだ続ける、解くなよ」

 話の途中から、他の者へ会話が聞かれないように簡易結界を敷いた永明に対して八尋は手の甲を見せる。永明はひとつ頷き、言葉を待った。

 「このままの社では、永助が紫となるのは難しい。永助が学術を克服し、おぬし並みの知を持てばあるいは。私の見立てでは、そこへ行きつくまでに十数年の歳月は必要だろう」

 「一方で、社は変わりつつある。境内の神田を迎えたのも永助だ。舞や笛など、稲作に関して最もヒトの子に近いのも永助だ。村人も、永助が立派な豊穣神になると願っておるものも事実」

 「だから、永助は違った形で紫、いや、あるいは私とは違った神になるやもしれん。知識だけが稲作ではない。舞や笛も、また神業が宿る。それがいつになるとは分からぬが、永助はきっと、おぬしや私とは違う道より至るだろう」

 八尋の話をじっと聞いていた永明の顔が和らぐ。

 「八尋さま、ありがとうございます。そのお言葉に、とても安心しました。舞や笛の道ですか…永助らしいですね」

 「そういうおぬしの道もわからぬがな。雪村からも聞いておるぞ、おぬしの神業については」

 「それは…?」

 あまり分かっていない様子で、永明は八尋と目を合わせる。

 「算盤も使わず、口頭で算術ができるそうだな。村中の稲算を一晩でこなすとは、いや、ここまで賢いとかえって恐ろしい」

 「ああ、算術でしたか」

 「何をやらせても人よりうまいことをすると思っていたが、私も頷ける」

 はは、と永明が笑った。

 「確かに得意ですが…。しかし、これをいかして…何かできますでしょうか」

 「何が、と言われるとな。出来ることが多すぎて、私の口からは絞れぬな」

 そうだな、と八尋が顎に指を置いて考える。

 「水路の設計の際、おぬしに手を借りたことがあっただろう。その時、おぬしはいとも容易く木板の長さと枚数を答えた。神田の際には、神田の大きさから必要な水の量。時期によって変動する、我ら霊狐らに必要な一日の食糧の数。粗相をする幼子の頻度から着替えの数も推測したであろう。物事には、常に算術がある」

 八尋に言われて、初めて永明は自身の持つ力を意識しはじめる。

 「…余計に悩ませてしまうかもしれぬな」

 「いえ!そのようなことは…」

 八尋から直々に褒められると、永明も嬉しい様子だった。

 「永明にも必ず縁は訪れる。永助と同じように、慌てることはない。だから、今は永助を支えてやってくれ」

 「心得ております」

 「永明の思っている以上に、永助は成長しておる。自身について考え込んでしまう時期だ。周りと比べて、自身が劣っていると思い込んでしまう日も来るかもしれない。もう、可愛いと撫でる時期も終わりが近いな」

 「わかりました、私も永助が報われることを願っております」

 二人が視線を戻すと、舞をうまく出来ないヒトの子に、永助は手取り足取り教えている。

 祭事の稽古で厳しい物言いをする雪村と違い、永助はいつもの口調と笑顔で、子供たちを励ましていた。



 村の子供たちが社で稽古を始め、予想以上に真剣に取り組む姿に感心していた八尋と雪村だったが、そんな雰囲気も初日の夕飯までだった。村の子供を交えた夕食では、仲の良い村の子と霊狐が入り交じり、途端にお互いの緊張が和らいでしまったようだ。風呂の時間には、湯殿から子供たちの楽しげな声も聞こえ、永明が風呂場へ叱りに行く姿もあった。雪村も苦笑いを見せつつ、「帰りたい、と言う子がいないだけ良かったのでしょうか」と話していた。

 村の子供たちは、一度も音を上げることなく抜穂祭の稽古に励んでいた。初日の夜に緩んでしまったかと不安を浮かべていた雪村だったが、永助がうまく村の子供たちを纏めてくれたこともあり、特段乱れることなく稽古を進めることができたと話していた。

 「それでは、早乙女、早男は神田へ。鼓の音とともに、始めてください」

 ここ数日着ていた松葉色袴の神職装束とは違い、村の子供たちは男女とも同じ早乙女装束を纏っていた。雪村の言葉とともに、子供たちは神田に足を踏み込む。その一歩後ろで、一年間神田で稲作をしていた幼霊狐たちが並んでいた。

 村の子供たちの役割はそれほど難しいものではないが、初めて参加する祭事ということから、緊張に身をこわばらせている子もいる。

 「だいじょうぶ、がんばって」

 緊張を少しでもほぐそうと、幼霊狐が後ろから囁く。村の子がこくりと頷くと同時に、永明によって太鼓が一つ打たれる。その隣の永助も、太鼓の合図とともに、龍笛を神田に向けて吹き始めた。

 一瞬動作が遅れてしまった子供たちも、ゆっくり、ひとつずつ稲を刈る。

 「神前にて、ご献上を」

 子供たちは鎌を腰に差し、後ろで控えていた幼霊狐へ両手を添えて献上する。霊狐が受け取ると、また新たに稲を受け取る霊狐たちが並んでいった。

 太鼓が再び打たれ、同じように刈り取り、献上する。この繰り返しを、稽古通りに動くことができていた。

 神田の離れに目を向けると、村の参列者が数人ほど見守っている。麓の田んぼの刈り入れが落ち着き始めたとはいえ、まだまだ田んぼから人手が離せない様子なのだろう。抜穂祭に参加する村の子供たちの親に、氏子の村長ら三人、計十人にも満たない抜穂祭の参列だった。

 抜穂祭を始めて、神田の稲が三割ほど刈り取られた。境内の神田に携わった全ての霊狐たちへ献上が終わり、神田には村の子供たちだけが残る。

 「これにて抜穂を終わります。早乙女、早男は下がりなさい」

 およそ三十分ほどの抜穂が終わる。子供たちは同時に二礼し、神田からあがり、もう一度田んぼへ向かって一礼をする。

 一連の祭儀が終わり、ほっとしたのか、先頭の早男が立ち止まってしまう。祭事の失敗に対しては、雪村は何も手助けをしてくれない。「あっ…」と、八尋が声を漏らしかけた時、笛吹きの永助が子供たちに視線を送って指示を出した。

 永助の視線に気づいた子供が、先頭の早男をつついて退場を促す。気付いた早男も、思い出したように控えへと足を運び始めた。

 「おお…永助、やるなあ」

 八尋が息をついて、背を丸めた。

 子供たちの退場が終わると、雪村は八尋と目を合わせて頷く。なんとか乗り切った様子に、雪村も安心した表情を見せる。

 「霊狐、永助より、早乙女、早男へお下がり参られます。早乙女、早男は前へ」

 雪村の言葉に、永助は龍笛を袖に戻して舞台から立ち上がる。神職装束のまま神田へと降りると、慣れた手つきで稲を一束刈り取った。神田からあがる際、不思議と永助の袴や足先には土汚れひとつ付いていない。

 稲を抱えて、永助は子供たちの元へと歩く。そして、一人ずつ刈り取った稲を手渡した。

 「あ、ありがとうございます」

 時折、一緒に追いかけっこをして遊んでいた永助とは思えない風貌に、子供たちは目を奪われていた。その様子を見た八尋は、「抜穂祭を行うことで、霊狐たちの力にもなる」と話した雪村の言葉の意味が、分かった気がした。

 「これにて、抜穂祭を終わり迎えます。霊狐たちがお戻りになられます。早乙女、早男は礼をもって見送りなさい」


 抜穂祭の翌日、昼頃には境内の神田も刈り終わっていた。のちに一束の稲は精米後、神米として、八尋のもとへと奉納される予定になっている。それと同じくして、麓の田んぼも刈り入れが終わったとの報告を受けた。

 「あとは本殿の収穫か、僕もやらなきゃ…」

 昨日の抜穂祭のうちから、本殿の神田の水抜きを済ませている。八尋は農具を持って、神田へと足を入れた。

 八尋の表情はとても重い。おもいもよらぬ豊作に喜びを見せた麓の村人や、抜穂祭に早乙女たちから刈り入れ献上され、達成感に溢れた霊狐たちとはまるで正反対だった。

 収穫前から気を落としているようでは駄目だ、と八尋自身もわかっていることだが、田んぼの水抜きの時から、穂を落としてしまっている稲がいくつか見てしまっていた。昨年同様、惨状が既に明らかなものを期待するほうが難しい。

 「うっ…」

 稲刈りの途中。鎌をかけた稲が、鎌に負けてズボッと根が千切れてしまう。八尋は眉をひそめながらも、手元で切れかけている根本を落とした。穂を見るも、やはり実は小さく、今にも割れそうだった。

 八尋は鎌を腰に差して、刈った稲を一つ一つ束にするようにまとめて置いていく。本来なら、刈った稲はちょっとやそっとでは実を落とすことは無い。一方、五十五の作った稲は、一つずつ丁寧に扱わなければならないほど弱っていた。

 「うん、去年より立ってる子が多い。ちゃんと出来てる…」

 少しでも前向きに考えようとしていた。去年は半数以上の稲が枯れ、稲刈りとは呼べない状態だった。それが、今年は実りは悪くとも、ほとんどが稲として田んぼに残っている。大丈夫、大丈夫と八尋は心の中で復唱する。

 「んん…」

 ふと、八尋の刈り取る手が止まった。弱った稲ばかりだと思っていた中に、実を付けた稲が二つ、並んで首を垂らしていた。

 「うそ…これって…!」

 まるで宝物を見つけた子供のように目を大きくして、手のひらに実った穂を乗せる。村や境内の稲穂と同じとは言えないが、連なるように実った綺麗な穂がなっていた。

 「できた…」

 妖狸の自分でも、実りをあげることができたんだ。

 「僕にもできた…!」

 八尋の表情が、ぱあっと明るくなった。誰に言うわけでも、見せるわけでも、褒められるわけでもない。ただ、嬉しい気持ちを八尋は口に出さずにはいられなかった。

 そう思うと、突然、八尋の目から涙が溢れる。次第に言葉が言葉でなくなる。観蛇山の霊気が五十五の稲を認めてくれた達成感か、先の見えない不安を抱えた中で希望を見つけられた安心感か。いや、他にも、五十五の心に巡る思いがいくつもあった。

 この感情になんと名をつけようか。八尋はわからぬまま、ただ嗚咽をあげていた。


 稲刈りから脱穀、米として領主へ年貢として町屋へ届けたりと、村一番の忙しい時期も落ち着きを見せる。

 明日からそれぞれの家で冬を越す準備をするはずの晩秋の頃。来月には、雪の降る兆しを見せる八尋神社に、また新たな暗雲が立ち込めていた。

 八尋神社の社殿に、八尋、雪村を含む数人の社の代表と、麓の村とその周辺、八尋神社の氏子の数名の代表が集められていた。この場にいる誰もが口を開かず、ただ息を呑んでいる。

 十数人が集まっているとは思えないほど、しんとした大部屋。それ故に、この場へ遅れて来る者の廊下の音が、より一層響いた。

 「遅れてしまい、申し訳ございません。領内からの要書と、それにつきます算術があがりました」

 部屋の戸を開けた永明が、入り口で正座をして八尋へ平伏した。

 「よい働きに感謝する。永明もこちらへ、まずはおぬしの算術を私と雪村に。みなの者は、今しばらく待ってくれ」

 永明は立ち上がり、足早に二人のもとへと向かった。八尋は受け取った要書と算術書を机へ並べる。永明を席へと離れさせ、「失礼します」と雪村も隣から書類に目を向けた。

 八尋神社の氏子である、合わせて三つの村の収穫、そこから領主へと送る年貢。最終的な計算を終えた永明からの報告に、八尋は絶句した。

 日照り続きに加え、蝗害による被害は深刻で、八尋が予想していた以上に氏子の田んぼは不作に終わってしまった。できる限りのことをして見守っていた隣村の稲は、夏の時点で枯れたようにしなびてしまい、実をつけることができなかった。品種改良などがされていないこの時代、やはり収穫には天候や虫に対して脆弱だった。

 麓の田んぼの豊作に、ここにいる全員が喜んでいた。しかし、数字として目にすると厳しい現実を突きつけられてしまう。

 隣村では稲以外にも収穫できるものがほとんど無く、年貢として納められる量にも満たせていない。唯一、観蛇山の水を流すことのできた麓の村では、対策を打ったおかげか、他の村とは打って変わって大量収穫をすることができている。とはいえ、八尋神社の氏子である三つの村の年貢を一つの田んぼで賄ったため、あれほどの収穫をした麓の村人でさえ米が手元に残らない。

 この状況から、今年の収穫祭は行われることは無かった。村人の手に何も残らず、収められる稲が無いと、一度もおもてをあげず報告をする麓の村長の姿を見て、八尋から中止するように呼びかけた。

 収穫祭が中止となる話は、またたくまに村中へ伝わる。そして今日に至り、本来なら行うはずの収穫祭の代わりに、八尋神社と関係を持っている村の情報交換を行う場を設ける話となった。

 八尋を中央に、部屋の端で成り行きを見守る霊狐。そして村人たちの空気は重々しかった。

 とにかく話を進めなければと、八尋は口を開く。

 「みなの者、まずはこの場へ集まってくれたことを感謝する。収穫祭が行えなかったことは、社からもまこと惜しいことではあった。社と村をあげた大きなの祭事なだけあり、村の子の楽しみも奪ってしもうた。今日は楽しむ場とはいかぬが、我々の置かれているこれからへの状況を整理しようではないか」

 八尋が周囲の者たちへ見渡すように話す。そして、端にいた霊狐に対して、「村の者へお下がりを」と指示をする。

 数人の霊狐たちは、用意していた神酒を杯へ注ぎ、一つずつ村人たちの手元へ配っていく。

 「八尋さまより、御神酒を授けます。みな、それぞれの合間でお飲みください」

 雪村の言葉に、氏子の席に座る者たちはお互いに目を合わせて頷いた。

 ひとつ間を置いて、八尋は始める。

 「では麓の者から順に、頼む」

 「かしこまりました。失礼ながら、ワシから順を追ってお話させていただきます。まず…八尋さまもご存じの通り、八尋神社の氏子である三つの村のうち二つは、稲に殆ど実がついておりませんでした」

 「日照りが長く続き過ぎたため、水を確保できず、田もひび割れてしまいました。しかしながら…」

 その一方、麓の村では観蛇山から一番近かったこともあり、観蛇山の霊力の恩恵を強く受けることができていた。おかげで、氏子の村全ての年貢を収められる分の収穫があった。年貢が納められないことによる、村の子が連れていかれるなどといった最悪には至らなかった。

 「八尋さま、霊狐さまのおかげで麓の村はかつての実りを見せました。二つの村も助かりました。ですが…」

 現状、この冬を越すための備蓄が、三つの村とも用意することが出来ていない。このままでは冬を越せずに飢え死にする者が現れてしまう危険性もある。

 この頃の農民たちは組織、村掟などが強固になり、場合によっては大規模な一揆が起こっていた時代である。八尋の自室にも、このような記録がいくつか残されてある。だからこそ、八尋は村人による争いが起こらないように警戒していた。

 よもやこの村で争いなど、と考えたくもないが、その危険性は未然に抑えなければならない。

 八尋は目元を掻いて、おもてをあげた。

 「ひと時のしのぎにしかならぬとは思うが、こちらの蔵にある米を氏子に幾分か渡そうと思う。毎晩飯にありつける…とまではいかぬだろうが、草の根を食うほどの冬にならぬだろう」

 「まさか、我々にそのような…!」

 村人たちがどよめく。奉納し、感謝しなければならないはずの社から逆に食糧を貰おうなど、ありえない話だった。

 「八尋さま、どうかお止めください。私どもにそのような施しをしては、八尋さま、霊狐さまに向けられる顔がございませぬ…」

 麓の村長が、八尋を伺うように口を出した。いくら天候に恵まれなかったとはいえ、長年世話になっている社から、不作という理由だけで物的支援を受けることは躊躇いを覚えたのだろう。

 「おぬしらの気持ち、しかと心得ておる。だが、ひとつの綻びで、村や国すらも乱れるも世の理。それに、おぬしたちだけではなく、これからを担う村の子のこともある。万全を期して、ここは頷いてもらえぬか」

 事実、来年こそ豊作になると八尋は確信が持てなかった。八尋がようやく見つけた神力への足掛かりも、本当に希望が見始めたばかりだ。さらなる不作が続いた場合、来年も同じように支援ができるかもわからないが、少しでも村に対する心配事を減らしたかった。

 「でしたら、我々に観蛇山、二ツ山への狩りの許しをいただけぬでしょうか。百姓の村とはいえ、獣狩りを心得ておる者もおります」

 「ならん。冬の熊や猪はおぬしらの思うとる以上に獰猛だ。冬のあやつらは鼻も効く。狩りは許すが、その際には霊狐をつけて中腹までとする。そこなら鳥や兎も獲れる。おぬしらが命を落としては、独り身となる女や子も出てしまうだろう」

 八尋の提案に、村人たちの反応は好ましくなかった。狩りをするにも、やはり霊狐に護って貰わなければならないという、不甲斐なさもあるのだろうか。

 それ以上に、氏神である八尋に対して、無礼を働いてまで食糧を得るのも、やはり抵抗が強い様子を見せる。

 簡単に頷いてもらえると考えていた八尋は、予想以上に受け入れようとしない村人たちの様子に参っていた。どう言えば納得してもらえるだろうか。

―――ここは八尋っぽく芝居を打とう…

 八尋は、周りに聞こえるような大きなため息を吐いた。

 「おぬしら、私に頭も下げねばならんと申すか」

 麓の村長と目線をあわせた。叱る姿をほとんど見せない八尋が、珍しく声色を厳しくして言い放つ。あまりの様子に、霊狐たちが背筋を伸ばす。それと同時に、村人たちも首を振った。

 「と、とんでもございません!ですが、霊狐さま、ましては八尋さまがお召し上がりになられる飯を我らが頂くというのは…」

 「それについては心配いらぬ。霊狐にも良い修行の一環となる。私とて、久しく気を引き締められる良い機会だ。雪村、おぬしはどうだろうか」

 雪村はひとつ礼をして、八尋に向かう。

 「私も、八尋さまのお考えに倣いさせていただきたく思います。ご存じのかたもおられますが、八尋さまも、社へ降りられる以前はそのような修行もしておりました。霊狐たちにも、同じ修行をさせるにも良いことと思われます。八尋さまさえよろしければ、私はそのように」

 雪村が言い終わると、八尋も一つ頷いて視線を戻した。

 「我々は問題無い。あとは、おぬしたちが納得いくかどうかだが。…いかがだろうか、麓の者」

 麓の村長と目線を戻して八尋が話す。去年の収穫祭では、あれほど気軽に話していた八尋とは思えない厳しい視線に、村長は逸らすことができなかった。

 「異論ございません。此度の御施し、まこと感謝しきれません」

 その言葉とともに、氏子の村の代表たちは揃って八尋へ深々と平伏した。

 「では、そのように。雪村、分配のほうはおぬしと、社務所の霊狐に任せよう。算段はそちらの得意分野であろう」

 かしこまりました。と、雪村と社務所の霊狐が伏せる。

 「村の者には決まり次第、言伝をしよう。こちらが直接届けるには無理がある。その際には、力のある者を集めてくれ」

 右に同じく、村人たちも言葉とともに伏せた。

 「雪村。おぬしから終わりに何かあれば」

 「…この地では数十年ぶりの飢饉に見舞われる恐れがあります。悲しいことではありますが、氏子だけではなく、さらに遠くの村、国からの襲撃の可能性もあります。この冬、どの家も用心を忘れないようお願いします。この社からは、八尋さまと同じく、我々も、この地が再び豊作になることを切に願っております」

 頑張りましょう。最後にひとつ付け加えて、雪村は言い終えた。

 「今日の話は終いにしよう。みな、気が進まぬとは思うが、帰り際に霊狐から餅を貰ってくれ。後は永明に任せよう」

 永明は、「わかりました」と一礼して、霊狐たちに指示を出し、村人たちを促した。

 「雪村、私は社務所へ」

 「お供いたします」

 二人は息を合わせて立ち上がる。

 村人たちは一斉に頭を深く下げていたが、その光景に八尋は目を向けることもなかった。


 社務所にある雪村の自室に座り込むと、八尋は大きく息をついた。

 「思った以上に厳しい状況となったな。村の者のあのような姿、あれ以上は見ておられん」

 「無理もございません。みなさん、収穫祭では倉いっぱいの豊作を毎年されておりましたし。それを、今年は社から施しを受けるとなると…」

 「俺も長らの気持ちも分かっておる。だが、これからも村は続いて貰わねばならん。抜穂祭の子たちを見て、俺はそう感じた」

 不作の兆しはまだ続いている。飢饉によって、この村にも伏せ者…個人単位の賊が現れる可能性もある。

 「狩りに出た男どもを伺って、賊が家に入ってしまえば女や子の対処など容易い。どちらも街道に連れ出せば売れるからな…」

 社の外について妙に詳しい八尋に、雪村はあえて触れず聞いていた。

 「それと、話でも言ったが、冬の獣は手強い。長は狩りに心得た者がおるとは言っとったが、俺にはそう思えん。さすれば、狩りで命を落とす者もおるやもしれんしな」

 「もう、随分と長い年を稲作に励んでおりましたから。八尋さまの仰る通り、狩りには霊狐をつけるのが良いでしょうね。家に異変があれば、ついた霊狐が気づくでしょうし」

 そうだな、と八尋は足を伸ばして天井を見上げた。

 「我々の食事も、しばらくは厳しい精進食でしょうか。小鉢一つの献立と、私や八尋さまは久しいですが、幼霊狐たちが耐え切れるでしょうか…」

 「それについてだが…。村の子も大切だが、俺は社の霊狐たちも家族同然と思っておる。日々の修行の褒美に、飯はつけてやりたい」

 八尋の話に頷ける雪村だが、あまり現実的ではないことに首を振った。

 「ですが、倉の備蓄は…」

 「忘れたか雪村、我らは狐ぞ。雪村が可愛がる永助も、もとより肉を食らう獣。霊山に身を置き、理を持って獣を鎮める。これも良い修行とも、思わんか」

 八尋の提案に、雪村は言葉を詰まらせる。

 「た、確かに、一度野犬に襲われた時、まだ幼い永助に助けられた時は驚きましたが…。危険ではありませんか。それこそ、八尋さまの仰る通り、冬の熊や猪は獰猛であると…!」

 「雪村の言う通りだ。だから、狩りに抜擢する者は選ばんといけん」

 「しかし、その霊狐によもやのことがあれば…」

 霊狐たちに戦う力があるとはいえ、基本は神道修行の日々を送っている。もしも、の不安は捨てきれない。

 「霊狐たちの身なら心配ない。狩りには俺もついていく、それで良かろう」

 「なッ…!」

 雪村らしかぬ声をあげる。

 「大丈夫だって」

 真っ直ぐ見つめる八尋の目を見て、雪村も開いたままの口をゆっくりと閉じた。

 目の前の八尋は、町屋を一夜で落とした妖狸の五十五だ。二年前の冬にも、五十五は二ツ山を妖山へと落としかけるほどの力を秘めている。いや、夏のイナゴたちを微塵切りにしたのも五十五だと雪村は分かっている。熊や猪など、五十五にとって大した相手ではないという口ぶりだろうか。

 五十五がついてくれるなら、と、雪村も納得した様子で八尋と目を合わせた。

 「わかりました。ですが、くれぐれも無茶はなさらないでくださいね。万一、御身に傷ができてしまっては…」

 「ああ、心得た。すまないな、無理ばかり言って。だが覚悟しておれ、猪はともかく、熊肉は雪村にはつらいぞ」

 八尋ははにかんで雪村に話した。

 「はい。今年は類を見ない精進料理となりそうです」

 その笑顔に釣られて、雪村も笑ってしまった。



 関所の倉に、一つの影が動く。こんなところに忍び込むのはコソ泥しかいないだろう。いや、本来ならそうなのだ。

 倉に潜んでいたのは、妖狸の五十五だった。

 五十五は積まれた米俵や酒に手をかざして、霊気を集中させていた。八尋は一つ一つの物の気質に触れることで、その物の背景を見ることができる。化け術が苦手な八尋の、数少ない情報収集の手段だ。

 運ばれてくるどの物に触れても、よい光景が見えないのだろう。五十五の表情は暗いままだった。

 「どこも雨が降らぬ様子か…」

 ほとんどの物から、苦悩を浮かばせている光景を何度も見せられると、自身の氏子たちは大丈夫だろうかと心配になる。

 さらに、これほど苦労して作った、僅かな収穫でさえ全て徴収されている様子だった。

 「町屋が常に栄えている、その裏はこういうことか…」

 多くの商人が行き来し、飯屋はいつも大勢の客が入っている。名のある侍や将軍が遊びにくるほど、今の町屋は栄えている。今年は不作と聞いていたのにも関わらず、なぜ町屋だけは贅沢が出来るのか。

 村からの年貢によって栄えていると町人たちは知っているが、それを本当の意味で理解している者は少ないだろう。八尋も今日まで、その一人だった。

 「ご苦労さん、これが納書だ。次!」

 倉の外から、関所の侍の声が聞こえる。次、といった者とのやり取りの声色が、次第に悪くなっていく。

 「半分も足りんぞ。代替品はどうした」

 「ですから、村中から刀をお持ちして…」

 このような不穏なやり取りが、一日に何度も起こる。

 「…大した刀では無いな、勘定に入れてもまだ足りぬ」

 「で、ではいかがすれば…」

 「わかることを。ガキだ、それと女も連れて来い。食い口が減りゃ、お前さんも冬が楽だろう」

 「しかし…」

 外から、抜刀する音が三つ聞こえた。

 「お待ちください!分かりました、よくよく聞かせておきますゆえ…」

 「長、次からはあらかじめ子を連れたほうが良いぞ。また行き来するのも酷であろうに」

 嘲笑う声に、五十五は奥歯を噛み締める。だが出るわけにはいかない、ここは耐えるべきだ。

 「次!」

 ふと、倉へ向かう気配を感じた。五十五は素早い身のこなしで、柱を上がっていく。

 倉の扉がガラッと開けられ、外の喧騒が倉に響く。ひとつ間を開けて、「よいしょ」と口に出しながらヒトの男と妖狸の男が荷物を倉へと運んでくる。運ばれてくるものは、ほとんどが穀物、米だった。時折、酒や衣服、金物が代替品として徴収されている。それら代替品も用意できない場合、刀が送られていた。

 「にしても、倉の匂いはたまんないなあ。米だらけで腹が減るわ」

 「今日もよう働いとるし、この後、どうよ」

 「お、いいねえ」

 一週間前から町屋の関所には、領内の村からの年貢が一斉に集められていた。集められた品は城に収められ、一部は町屋の店へと流される。そして、売れた金銭がさらに城へと徴収される構造となっていた。

 「さっきのもんもそうだったが、今年は代替品ばっかだな。刀なんてもういらねえよ」

 「みんな口を揃えて言い訳しとったな。雨が降らん、降らんと。雨と年貢は関係なかろうに」

 「ほうよ。雨が降ろうが降らまいが、決まりを守るのが礼儀よ」

 稲作を全く知らない、他人事のような二人の男の言葉に五十五は殴ってでも改めさせたい気持ちでいっぱいだった。

 米俵を一つずつ大事に並べていく一方で、刀に対しては無雑作に山積みに放る。その一刀にも、作り手の思いが込められているのを、侍たちは忘れてしまっているのか。

 「次!」

 倉では呑気な会話をする一方で、外では変わらず息もつかない雰囲気だ。

 「…名を」

 「観蛇からの…」

 来た。地名を聞いたとたん、五十五の耳がピクリと立った。

 「お、次のはすげえぜ。たんまりじゃないか」

 「行くか」

 二人の男が倉の戸を閉め、五十五はまた一人となる。

 戸が閉められたことで、外の声が聞こえにくくなった。五十五は天井柱をそっと移動し、戸側へと這い寄る。

 「ふむ、規定通りだ。納書を渡す、籠屋でうまいもん食って帰れるぞ」

 「…ありがとうございました」

 麓の村の長の声だった。僅か数分のやり取りだったが、五十五にははっきりと分かった。

 八尋神社の氏子の徴収は滞りなく終わり、「次!」の声がまた聞こえる。五十五は、氏子の品が運ばれてくるのを待った。

 三組ほどのやり取りを聞いた後、倉の戸が再び開かれる。「すごいなこりゃ」と、入った二人が早々に話をする。

 「見ろよ、この俵だけパンパンだぞ。こりゃあ、城に持ってかれちまうだろうな」

 「観蛇の連中か、大したもんだ。不作だの言ってた他の村ども、嘘ついてんじゃないか」

 「実は隠してそうだよな、卑しいやつらよ」

 五十五は新しく並べられる米俵に目を向ける。あれだ、間違いない。

 搬入を終えた二人が外に出て、戸が閉められる。それを見計らって五十五は屋根柱から飛び降りる。

 氏子が運んできた今年の米が入った俵に、そっと手をかざす。

 「ん……」

 米から、今まで感じたことの無いほどの、懐かしい観蛇山の霊気に触れた。それと同時に、村で起こった背景が、八尋の脳裏に浮かんでいく。

 年初めに永助の田踏み、相変わらず上手く進めている。田植え後、新稲が社へと届けられる。昨年、この光景を見た時も八尋は驚いたが、相変わらず五十五は良い発想をしたと思い浮かべる。夏の初めから、景色が不穏になる。雨が降らず、雨乞いの祈祷をする村人の姿。イナゴの大量発生に、稲が食われていく様。途中の光景を見ていくうちに、心配になって五十五の表情が曇る。

 ふと、深夜の田んぼに、八尋の姿が映る。どうするのだろうと見ていたが、八尋が手をかざすと虫たちが大量に死んでいく姿を見た。その光景が、流れるように毎夜毎夜と続く。力技だな、と五十五は笑ってしまう。

 夏の終わり、五十五が気になる場面に出くわす。村の水路作りの光景だった。これほどの大掛かりな工事を提案するとは思っていなかった。たしかに、これなら麓の村は助かるだろう。それに、米に大量の霊気を帯びたのはこういうことか、と納得する。

 今年もなんとか乗り越えたのだなと五十五は息をつく。


 「ただいま…って、五十五、大晦日に何してるの?」

 「おかえり。何って、見りゃわかるだろ。刀を研いでるだけだよ」

 「珍しいなあ五十五が研ぐなんて。研屋に出すんじゃないんだ」

 五十五は、はは、と苦笑いを見せた。

 「お前との一件から、俺も本格的に九頭を炙り出そうと思ってな。白昼堂々、中町でやり合うことにした。おかげで俺にも懸賞金が付いたぞ、やつに近づくのも時間の問題だ」

 「そ、それって五十五を殺したらお金が出るってことでしょ!?それじゃあ、今度は守屋以外からも狙われるじゃないか!」

 「そうだ。元より、命をかけた戦いのはず。いずれはこうなるはずだったんだ。ことがさらに大きくなれば、九頭とて無視は出来なくなる。さらに元侍の領主だ、俺を出汁に町人や侍からの支持をあげようとするはず」

 「あ…う…」

 身売りの彦三郎には考えられない話に、空いた口が塞がらなかった。

 「それで、俺に金がついちまった以上、中々、入れる店も少なくなってしもうた。どこの研屋も見てくれんから、俺がやらんと」

 五十五は目を細めて、刀をじっとみつめた。

 「そういえば五十五の刀、抜いたところを見たのは初めてかも…」

 そうだったか、と五十五は持ち手をあげて刀を見せた。研ぎ終わった刃が鏡のように磨き上げられていた。仕上げに油を乗せて、折り紙で拭う。部屋の灯籠が、黄金色の霊刀をさらに輝かせた。

 「打ち手が、俺の為だけに作ってくれた、俺の命とも言える刀だ。受け取った時こそわからなかったが、研ぎ師はみな一様に驚いていたな。こんな業物を見たことがないと」

 「へえぇぇ……すごい才を持ってたんだね」

 「それに、刀に銘をつけておらんときた。無銘の業物と、さらに噂されとる。あいつも、聞いたら喜ぶだろうな」

 「確かに、素人のおいらでも綺麗だってわかる」

 美術品を鑑賞する客のように、彦三郎は五十五の刀を見渡していた。

 「この刀を握ると、不思議と戦う力が湧いてくるんだ。こやつもわかってくれているかの如く、力を貸してくれる。まだろくに手合いをしたことが無かった時、その剣圧で相手を圧倒してくれたこともある」

 「まるで、生きてるみたいな刀だなあ」

 「打ち手の心が篭っておるのだろう。…彦三郎、よかったら持ってみるか?」

 「えっ!」

 彦三郎が驚いた表情で五十五を見る。いやいや、と両手のひらを振ってみせた。

 「刀は剣士の魂でしょ?おいらなんかが触れた日には明日には雁首並ぶよ」

 「まあ、普通はそうだが、俺とお前の仲ではないか。おぬしにも、俺の仕事を知って欲しいと思うて」

 ほら、と五十五が彦三郎へ刀を持たせた。手に取った彦三郎は、想像以上の刀の重量に、両手がズシリと下がる。

 「うわ、おっもい…。それに、間違えて斬っちゃいそうで怖いな」

 前に構えた彦三郎は、重さに加えて、間合いの分からなさから手元がふらついていた。

 「それが、そのうち自身の一部のように扱えるようになる。こいつと共に町屋を征くのが、俺の仕事だ」

 五十五をひとつ横目にし、彦三郎は再び刃先を眺めた。獲物を持って初めて、五十五の成そうとする重みを知った表情を浮かべていた。

 五十五は、「さて」と一言置いて刀を預かる。

 「彦三郎も帰ってきたことだし、飯にしよう。今日は大晦日だ、蕎麦があるぞ」

 彦三郎は言葉を出せないまま、こくりと頷き席に座った。


 夕飯を終えた後も、彦三郎はチラリと五十五を見たり、目を逸らしたりを繰り返していた。何か言いたそうな、中々言い出せなさそうな雰囲気に、五十五もひとつ息を漏らした。

 「彦三郎、おいで」

 彦三郎は一つ遅れて、五十五のもとへと近寄った。五十五は寒くさせないようにと、掛け布をふたりで包むように巻いた。

 「ごめんな。もっと早く言えば良かった」

 「なにを?」

 「おぬしの知らぬまにことが進んで、危ない橋を渡ってしまっとることを、と」

 「あ、いや…それは、ちょっと驚いちゃったけどさ。剣士で、町屋を変えようとしてるんだもの、命をかけるのはわかってたはずなんだけど…。おいら、五十五と仲良しで住んでて忘れてたけど、五十五はおいらの思ってる以上にすごいことをしてるもんね。刀を持って、そのことを思い出しちゃった」

 彦三郎の言葉が止まる。そして再び静寂が訪れた。

 しばらく、二人は口を開かぬまま過ごす。町屋の外れから、鐘の音が鳴り始めた。

 「除夜の鐘だ」

 「うん」

 米屋の息子が通う寺屋だったか。今日の夕食にと、蕎麦を渡してくれたあの姿を思い出す。

 「今年も、早い一年だったね。おいら、この一年で楽しい思い出がいっぱいできたや」

 「ああ、俺も早く感じてしもうた。明日には、旅に出て三つめの年となる」

 「そっか……」

 彦三郎の声色が悪くなる。「どうした」と、心配した五十五が、彦三郎の肩を寄せる。

 「変なことだけどさ。おいら、歳をとりたくないんだ。大人になりたくない」

 「そうか」

 五十五は否定することなく、彦三郎の続きを待った。

 「まだ子供のままでいたいって考えちゃうのは、何でだろうね。町屋の子はさ、みんな早く大人になりたいって言ってるのに。おいらには、全くわかんなくて。でもさ、おいらも、なんで大人になりたくないのかも、よくわかってないんだ」

 彦三郎の話は、五十五にもどこか似た感覚を覚えていた。まだ、この姿から成長できていない、といった思いから五十五は少年の姿からあまり成長できていない。

 一方で、ヒトである彦三郎は、同じ思いを持っていても身体の成長は待ってくれない。精神面の成長が、身体面の成長に追いついていないのだろう。生まれたときから生涯が決まっているこの時代の子供には珍しく、現代の思春期に入った子供のような不安を抱えている様子だった。身売りをするしかないと思い込んでいたなか、その未来を変えてくれるかもしれない五十五の存在が現れたことは、彦三郎の人生においても衝撃的だった。

 なんと話してあげればよいのだろうかと、五十五は顎下を掻いた。

 「彦三郎には、何かやってみたいことが見つかったのやもしれんな」

 「え…?」

 彦三郎が、五十五の横顔を見て言葉を返す。

 「でも、おいらには身売りしかできないよ。そんな、やりたいことなんて」

 「具体的に、これだ、というものを見つけたわけではなかろう。ただ、心のどこかで、何かがあるのやもしれん。一方で、そのもどかしさが何かと見つけるに、ヒトの子には時が少ない。彦三郎の不安な気持ちも、俺にも分かる」

 五十五が話し終えた後も、彦三郎はしばらく黙り込んでいた。静まり返ったふたりの部屋の窓から、雪が入り込む。いつの間にか、除夜の鐘の音も最後を迎えたようだ。

 「そっか…」

 ふと、彦三郎が顔をあげて、話し始める。

 「ありがとう、五十五。こんな最後まで、話を聞いてくれて」

 別れを告げるような彦三郎の物言いにぎくりとして、五十五は苦笑いを浮かべた。

 「何を、どうしてバレてしまうのだろうか」

 「今日、家に帰って五十五が研いでる姿を見て確信したよ。明日には、この家からいなくなっちゃうんだなって」

 「こんな話をした後に、俺もどう繰り出そうか悩んでしもうとったのに」

 「また一人になると思うと、少し、つらいな…」

 「俺がこんな身になってしまった以上、夜襲も来んとは限らないからな。彦三郎を身の危険に晒したくはない」

 彦三郎は大きく息をつく。体育座りのように膝を立てて、背を丸めた。

 「うーん…。やっぱりおいら、早く大人になりたいよ。なりたく無いけど、なりたい。なんていうのかな、一人でも、前を向いて頑張れるような…」

 「力が欲しいと?」

 「あはは、よくわかんないな。なんだか、前の五十五みたいになっちゃった。答えの無い悩みってやつ」

 五十五の肩にもたれるように、彦三郎は首を傾ける。

 「いいじゃないか。それが明けた時、大きく成長するぞ」

 「今年でおいらも十二になるなあ…。周りの子はみんな仕事しとるし、おいらだけまだ子供みたいに遊んでるみたいで恥ずかしいな」

 「町人長屋の子は、家柄仕事が決まっておるようなものだ。家の手伝いが、歳を取ればそのまま仕事になる」

 「気楽でいいなあ」

 五十五は彦三郎が既にやっている『仕事』について触れないようにした。

 「まあ、気楽というわけでもなかろうて。そういう点では、彦三郎は何も捕らわれておらんのだ。自由なことができよう」

 「自由、かあ……」

 あまりピンときていない様子で、彦三郎は外に目を移した。月明かりに照らされた雪を、ぼうっと見つめていた。


 昼下がりの八尋神社に、珍しく狩衣を纏った数人の霊狐たちが行ききしている。山で狩った獣の血抜きを済ませて、調理場に運んでいる様子だ。本格的な狩りをするのも、八尋神社が建ってから初めてのことであった。久しく狩りに出た霊狐たちは、身を汚して山に出る感覚に違和感を覚える者も少なく無かった。

 「ほら脱いだ脱いだ!湯も湧いてるから、狩りに出た者は早く入れ!あ、こら!中に入るな、外で脱げ!」

 狩りに出た霊狐たちは、土や泥、多少の返り血のついた狩衣を境内で脱ぎ捨てる。獣の血がついた狩衣を持ち込んで、更衣室を汚したり、臭いをつけてしまうわけにはいかない。一度引き止められた霊狐たちは、境内でみんなが見ているのをお構い無しに素っ裸にされてしまい、そそくさと湯殿へと逃げ込んだ。

 帰り際には疲労でくたくたの様子だったのに、最後の最後まで慌ただしい光景を見た八尋は笑っていた。汚れの多い霊狐たちとは違い、八尋の狩衣には、獲物を仕留めた際の返り血が少々付着しているくらいで、後は目立った汚れも獣臭さも無かった。

 「まだ裏に猪が一頭残っとる。すまんが、慣れとる者で取りに行ってくれぬか。私は調理場へ、今日の者たちに飯を多く出すよう言い聞かせに行ってくる」

 かしこまりました、と青年の霊狐が同じく大人の霊狐を呼びに行く。その間に幼霊狐たちが、脱ぎ捨てられた狩衣を籠に拾って、せっせと洗い場へと運んで行った。狩りの日の八尋神社は、夕方前から大忙しだった。

 烏帽子と狩衣を幼霊狐に預けて、八尋は小袖姿のまま調理場へと足を運んだ。ここもすぐ、肉の処理や社の人数分の調理などで声をかける暇もなくなる。

 調理場の入り口まで来るも、調理師の霊狐たちは八尋に気づかず、厨房に集まって何やら話をしていた。

 「これは…もう、無理だろう…。気持ちはわかるが、供養してあげよう」

 「しかし…これは長年大事にしてた…」

 「でも、こうなったままじゃかわいそうですよ。この子も、わかってくれますよ」

 どうしたのだろう、と、入り口で様子を見ていた八尋も、厨房の霊狐たちの集まる輪へ近寄った。

 「どうした?何かあったのか」

 話をしていた霊狐たちが一斉に八尋へと目を向けた。「あっ!」とした声が聞こえた後、みな一様に深く頭を下げた。

 「此度もまた、見事な猟でございました。大切に、仕上げさせていただきます」

 おっと、と、変に気を使わせてしまった八尋は、よいよいと手を振る。

 「や、八尋さま、お召し物が…!すぐ外の者へ言い聞かせてきますゆえ!」

 「ああよい、これくらい一人でしよう。みな手を空けられる者などおらんだろう。して、おぬしら、一体どうしたのだ」

 「あ、え…っと…」

 中心に居た、雪村に近い歳の見た目をした大人の霊狐に視線が集まる。その霊狐は、太い刃を持った出刃包丁を両手で添えていた。

 「実は、先日…猪の肉を裂いてた時に、埋まっていた矢石に包丁がかち当たってしまいまして…。それで…」

 霊狐が包丁を見せると、刃の中心に一円玉の半円ほどの刃こぼれがあった。弓で仕留めた後、矢を抜いた拍子に先端の矢石が体内に残ってしまったのを気づかず、そこを包丁で思い切り叩いてしまったようだ。

 「私たちは、もう諦めた方がよいと説得しようとしたのですが…」

 「そう簡単に手放すわけにはいきません。これは私が社へつく前から、伴より頂いたものでして…。私がこの道を目指したのも、この子のおかげでもあります…」

 社の中でも、この霊狐は歳が高い方だ。いつから霊狐として、この世にいる話はしたことはないが、おおよそ二つほどの時代を生きてきたに違いない。八尋より、遥かに歳上の、社一番の手練れの料理人だ。そんな者が、料理をするきっかけとなった包丁となれば、欠けてしまえど簡単に手放すわけにもいかない。ましてや、伴…婚約者から貰った包丁となれば尚更だ。

 「どれ……」

 八尋は霊狐から包丁を受け取る。すると、何とも表現しがたい心地よい気質に、八尋の眉があがる。包丁を渡した伴がどれほどの願いを込めて贈ったのかが、五十五にはわかった。

 「これは…すごいな」

 この時代の包丁は、蛸引きのような、刀に近い形状が主流だった。一方で、この包丁は現代でも使われている出刃包丁の形状をしている。作り手が、いかに使い手のことを考えて作ったかが伺える。もっとも、現代の包丁よりも肉厚で、いうならば力強さがあった。

 確かに、これを手放すわけにはいかない。あまりにもかわいそうだ。

 「でしょう、これほどの大きな欠けでは、もう…」

 隣の霊狐が、もう何度も言ったかのようにため息をつく。

 「いや、そういう意味ではない。これはまさしく逸品物だ、こやつの命とも呼べる」

 余計な口出しをした霊狐が、慌てて口を塞ぎ、「ばか」と、隣の霊狐に叱られる。

 「ありがとうございます。ですが、これからこの子をどうしてあげたら良いのかと昨日から悩んでおりまして…」

 八尋は欠けた部分の腹を指で撫でる。欠けた部分まで、全部研ぎ落とすしか無いだろう。幸い、厚い刀身のお陰で、大きく削っても包丁の力強さは残せるかもしれない。

 「しばらく、私に預からせてくれぬか。多少細くなってしまうだろうが、もう一度おぬしの元へおれるようにできるやもしれん」

 「そ、それは誠ですか!ぜひ、ぜひにお願いいたします!」

 年長の霊狐が大きく礼する。もう手放すしかなかったと、本人も覚悟していたのだろう。希望があると知った霊狐は、頭をあげることなく、八尋へお願いしていた。

 「おおーい!残りがあがったぞ!」

 裏で下処理をしていた霊狐が、残りの猪肉を運んできた。話をしているうちに、もう調理を始めなければならない時間になっている。

 「いかん、変に時間をとらせてもうた。おぬしら、今日も調理を頼んだぞ。ああそれと、狩りに出た者は腹を空かせておる。八名ほど、大皿をやってくれ」

 八尋は受け取った包丁の刀身を布で巻きつけ、懐へ隠す。

 「はい、おまかせください!八尋さま、ありがとうございました!」

 いつもの調子に戻った年長の霊狐が、急いで指示を与えていく。

 これ以上居ては迷惑になるだろうと思い、八尋はひとつ笑って、早足でその場を去っていった。


 観蛇山の山裏。八尋神社を回り込んだところに、やや開けた川のせせらぎがある。そこへ狩り出された三名の霊狐と八尋は腰をおろして休んでいた。

 「今日は穏やかだな。鳥も獣も寝とるようだ」

 「申し上げございませぬ…」

 収穫がない状況に八尋がぼやいたと思った霊狐が、面目なさげに俯いて謝る。集められた三名の霊狐は、小屋で五十五を調伏しようと襲った、あの霊狐たちだった。あの日の苦しい記憶が蘇り、今日の山入りに不安を抱えていた。だが、半日一緒に行動しているうちに苦手意識は消えたのか、少し前から、軽い雑談を交えるようになっていた。

 「昨日の狩りはうまくやっておったではないか。それに今日は狩りを主としておるわけではない」

 「たしか、砥石を採りにこられたと…」

 「そうだ。料理長の包丁を預かってな、それを研いでやろうとしとるところだ。ところが、あまりの剛刃に、社にある砥石じゃびくともせん。それで、大きく研げる砥石を探しにきたわけよ」

 昨日の夜、預かった包丁をさっそく研いでみようとしたものの、表面が磨かれるだけで、肝心な欠け刃を落とすことができなかった。八尋の刀を作る際に使った砥石を使えば研げるだろうが、刀と包丁で、同じ砥石を使うことは、包丁の打ち手の想いに反すると感じとった。

 新しい砥石を取りに河原へ行くにも、一人で行くわけにはいかない。そこで、雪村から護衛を借りて、今に至る。

 八尋は立ち上がり、河原の石をいくつか拾っては首を傾げる。ここには、砥石になりそうな石が見当たらなかった。

 「少し上流のあたりまであがってくる。おぬしらは、ここでウグイでも取っといてくれぬか。半刻ほどで戻ってくる」

 「おひとりで大丈夫でしょうか、我々も共に…」

 八尋は手のひらを見せて霊狐たちを止めた。

 「山まで入るつもりは無い、川沿いに歩いて行くから大丈夫だ。心配であったら呼んでくれ」

 ではな、と八尋は霊狐たちを置いて上流へと歩いていった。


 

 霊狐たちと別れてから、三十分ほど上流へあがった。変わらず、丸石ばかりで目の下を掻いていたが、しばらく探していると縦に模様のできた、やや大ぶりな白石と黒石を見つける。

 「こんなところかな」

 八尋は持ってきた石割りで持ち帰れる大きさに割って、一つずつ小分けに包み、袋へとしまった。

 予想より早く見つけることができた、後は霊狐と合流して社へ戻ろう。

 そう思った矢先、八尋の耳がピンと立つ。

 「―――なんだろう、今の感じ」

 不穏な気配を察知する。八尋は眉をひそめて、山側を向いた。さあさあ、と木々の揺れる音の中で、何か捉えどころのない声が過ぎった。

 八尋に冷や汗が走る。目をつむって、声の主を探ろうとする。霊狐たちではない、なにか別の者の声。草むらに隠れ、神にすがるような祈りを捧げるような。

 どこだ、どこからだろう。五十五が化けている以上、八尋を呼ぶ声だけではなかなか正体が掴めなかった。

 八尋は屈んで、妖気を集中させる。地を指先でトンと打つと、そこから波紋が広がっていく。イナゴ退治に使った方法と同じ要領で、声の主を探そうとしていた。

 冬の観蛇山では、殆どの獣たちは眠っている。そんな中、山中でヒトの気配と、それを追う熊の気配を感じとった。

 「まさか…!」

 観蛇山の山奥で狩りをすることは村人に禁止させているはず。いや…あの光景は村人に違いない。誰かが獣に襲われていると確信した八尋は、荷物をその場に置いて、懐刀を左手に持った。

 無事であってくれ。八尋は強く願いつつ、身軽な足取りで木々の間へと姿を消した。


 「はあ、はあ……くそッ!」

 若い農民の男が、身体中を泥だらけにして慣れない獣道を下っている。逃げる途中で邪魔になったのだろうか、帽子も獲物も身につけていなかった。

 男の姿を再びとらえた黒毛の熊が、その巨体からは考えられない速さで猛進する。熊は一度逃げ出した獲物を逃す性格をしていない。冬眠できず腹をすかせたなか、餌が目の前を走っているのならなおさらだ。

 「うわッ!」

 足元を見落としていた男が、木の根に足を引っ掛けて転んでしまった。そのまま斜面へ滑り落ちていき、枯葉の音を大きく立てながら木の幹で止まる。獲物が転んだところを見て、熊は猪の如く男に突進をしかける。

 死を悟るに容易い、ドスの効いた熊の怒号が響く。男の目前で大岩のごとき巨体が大きく立ち上がり、爪の飛び出た右手があがる。

 もう終わりだ。男は声一つあげず、その爪が振り下ろされるのを見ることしかできなかった。

 ガッ!

 鈍い音とともに、何かがぶつかった。

 何が起きたのか、男には瞬時に判断することができなかった。

 あろうことか、目の前には八尋が立ち塞がり、小さな懐刀とその身一つで熊の一撃を受け止めていた。

 あまりの体格差から、受け止めた八尋の手は大きく震え、踏みしめる地も徐々に押されてゆく。

 長い迫合いはできないと判断し、懐刀の鯉口を切り、そのまま斬り払うように抜刀して体勢を返した。

 「だいじょうぶ、怪我はない!?」

 八尋の言葉に、ようやく男は意識を戻した。それと同時に、男はどうすれば良いのか分からなくなり、さらに慌てふためく。

 八尋もまた、初めて口調が元に戻ってしまっていた。声色こそ八尋のものだが、人前で五十五の言葉を出すのは、何年ぶりだろうか。

 「この下に川が、そこを降ったら霊狐たちがいる。こいつは僕に任せて、はやく!」

 懐刀を熊に向けて威嚇する。「はやく」の言葉に男は立ち上がり、「ありがとうございます!」と、背を向けて走り出した。

 獲物が逃げようとする様子に熊が吠え、八尋に見向きもせず追おうとする。

 「ほら、君はこっちだよ!」

 八尋が左人差し指をくるりと回すと、真っ直ぐ走っていたはずの熊は突如直角に走り出し、倒木につまずいて大きく転んだ。獰猛な熊といえ、妖術に何一つ耐性を持たなければ、五十五にとっては手玉にすぎない。

 逃げた男の姿が見えなくなる。

 熊は新たな標的として八尋に視線を合わせた。獲物が逃げたことに怒っているのか、唸り声を激しくして一歩ずつ近寄る。

 「さて、どうしようかな…」

 本来なら、妖術を使えばすぐにでも殺せる相手だ。しかし、化け術ではなく、妖術を用いた殺生は山に穢れをもたらす。妖術に恐怖を抱いた相手が死に絶えると、その気質と妖力が混じり、穢れを産む『死骸』となってしまう。

 とはいえ、化け術で辺りをぐるぐる走らせて、疲れさせるにも時間がかかりすぎる。川辺で待っている霊狐たちまで、ここからしばらく走らなければならない。逃げた男の体力が持つかもわからなければ、また他の獣に襲われてしまう可能性もある。

 「山奥に返そうか…いや、ヒトを襲った熊は再びヒトを襲う。人里に降りてしまえば、さらに被害が大きくなるし…」

 やはり、ここでやるしかない。八尋は懐刀を持ち直し、胸の前で構えた。

 対敵した目前、お互いの間合いになると、四つ足の熊が突如立ち上がり、組みつくように前傾で襲い掛かる。八尋は両腕に捕まらないよう、懐に潜り込んで熊の腹を斬り、素早く抜け出す。確かな手応えはあったが、刃先にわずか親指ほどの血しか付着していない。刃渡り二十センチほどの懐刀では、深すぎる体毛にほとんど阻まれてしまっていた。

 「心の臓には届かないか」

 八尋がぼそりと呟くと、熊は再び襲い掛かる。慣れた手つきで、先ほどのように指先を回す。化かされた熊は、八尋の隣に立つ木の幹に大きく爪を振りかざす。破裂音に近い衝撃に、熊の爪は木の幹に深々と突き刺さった。未だ化かされていることに気づいていない熊は、八尋にとどめを刺そうと幹に噛み付いた。鳥の皮を剥ぐかのように、いとも簡単に幹の皮が剥がされていく。

 「やっぱり、熊は怖いな…。悪いけど、ここで終わりだよ」

 木の幹に夢中の熊の背中をトントンと登り、首の根を掴む。右手に持った懐刀を逆手に持ち替え、首刈りの姿勢をとった。今晩の雪村は熊肉か、といつかの会話を思い出す。

 「ふッ…!」

 右腕を伸ばし、熊の首元めがけて刃先を突き刺した。刃が生々しく沈んでいく感触を覚える。痛覚さえ化かされた熊は、喉に刃が刺さったことすら気づいていない。未だ唸り声をあげる喉の震えが、懐刀を通じて八尋の手に伝わった。

 後は首を裂くだけだと、内側へと力を加える。喉が裂かれていくにつれ、溢れた血で、熊の唸り声がゴボゴボと音を立てる。この場面だけを見れば、なんとも猟奇的な狩りなのだろうかと目を疑われるだろう。

 もっとも、八尋はそんなつもりはない。あまりに強靭な体躯に、普段鍛えていない八尋の筋力では中々裂くことができなかったのだ。普段の狩りでも同じ戦法をとっているが、五十五の鍛えた懐刀が通らない相手はいなかった。その慢心が、今の八尋に予想外な出来事として返ってくる。

 もう少し、あと半分。一気にやろうと、懐刀の柄を握り直して力を入れた。

 「ガぁッ…ガァアァァァッ!」

 あまりの傷に、熊は痛覚を取り戻した。首を半分以上刈られているのだ。いくら簡単に化け術にかかるといえ安易に時間をかけすぎた。命を刈ろうとする八尋を振り落とそうと、熊は木の幹から離れて暴れ始める。

 「うわっ…!も、もう!あと少しなんだから、おとなしく狩られッ―!」

 ぴたり。

 八尋の背中に、冷たく、おぞましい感覚を覚える。

 「へっ…?」

 それが何なのか、瞬時に察することができてしまう。

―――やっちゃった

 頭に過った時には、もう遅かった。首元にしがみついていた八尋は、自身の背中に熊の爪をかけられてしまっていた。

 バツンッ!

 「ギャッ―!」

 咄嗟に逃げようとした八尋だったが、爪を当てられた状態から逃れることはできない。八尋の身体は爪によって切り裂かれ、地へと引き剥がされてしまう。

 「ガフッ!ギャフッ…!」

 背中の真ん中から腰にかけて、大きく爪で抉られてしまう。とても耳にしたくない、甲高い子どもの悲鳴が観蛇山に響く。

 「ふぅッ…うぅっ!ぐ、ぐぅ…!」

 八尋は傷口を左手で抑えようとする。広範囲の傷から、生暖かい血がドクドクと下半身へ滴っていく。

―――まずい、まずい、まずい!

 状況は一転し、拮抗状態となる。いや、熊の首からは滝のように流血しており、八尋の勝利は時間の問題だ。引き剥がされた衝撃で、熊の首にはまだ懐刀が刺さったままだった。熊が掻きむしるたびに傷を抉っている。まだ化け術が効いているおかげで、熊も正常ではなかった。そして多量の出血で意識が朦朧としはじめているのか、熊の足取りも限界が見えた。

 一方、八尋も深手を負い、その場から一歩も動けなくなってしまう。逃げや攻めすらできない点では、八尋の方が危険だった。

 地に膝立ちでしゃがみ、過呼吸となっている八尋に対し、熊は一歩一歩と近寄る。八尋の鼓動に合わせて、傷口に激しい鈍痛が走る。ただ、相手を見ることしかできなかった。

 「はやく…はやく倒れて…!勝負は僕の勝ちだろう!おねがいだから…!」

 巨体な熊であれば、出血死に十数分とかかる。まだ熊には戦う力が残されている。

 「うっ…ぐっ…!」

 意識がはっきりしない相手に化け術は効きづらい。木を八尋だと化かして、そちらに誘導することは現実的ではない。

 「ゴォボボォォオ!」

 祈りも虚しく、熊の血に塗れた咆哮が響く。

 八尋は諦めた表情で熊の目を見た。

 「………ごめんね…」

 それは、敗北や死を覚悟したものではない。

 ここへ来て、朦朧としていた熊がビクリと反応を示す。動くことすらままならない狐の背後に、黒い何かが揺らめくのを目の当たりにした。その光景は化け術によって見せられているものではない、形状しがたい『妖』の姿だったのだろうか。

 そして、これからの光景には、なんと言い表すべきかわからない事態が起きる。

 妖と出会った熊は、数秒の硬直を見せていた。そして、あろうことか、首に刺さっている懐刀を自らの手で押さえ、その場で首を掻き切り始めた。熊自らによる、死への行動に反して、生を手放したくない叫び声が血煙とともにあがる。声すらあげられなくなった最後の皮がブツリと切れた瞬間、熊の頭部が地に落ちる。その場には、ただ、死骸だけが、断面から血を沸かせたまま立ち尽くしていた。

 辺りの空気が元に戻る、死骸の前には、先ほどの光景を見ていただけの八尋がいた。

 「後の始末は…僕には…ッ!いったァぁ…!」

 腰を上げようと、脚に力を加えた途端に激痛が走る。しかし、一刻もはやく霊狐たちを呼んで、この場を祓ってもらい、仏を送ってやらなければ観蛇山に穢れが流れ込んでしまう。死骸となったとはいえ、熊だったものは、もはや立派な妖と呼べる存在に変貌している。このまま放っておけば、数年後には首無しの熊鬼として再び山へ降り立つだろう。

 「誰か…はやく呼ばないと…あぐッ!」

 四つ足で這ってでも動こうとした八尋は、どうしても動くことができず前傾に倒れ込む。

―――だめ、だめだよ、八尋やみんなの山なのに、はやく、行かなきゃ

 気づけば、八尋を中心に大きな血溜まりが出来ていた。白の狩衣が、ゆっくりと赤を吸っていき、時間と共に黒へと染まっていく。

 次第に意識が遠のく。あんなに痛かった傷口が、心地よい温かみに変わっていた。

 眠りに誘われながら、八尋は最後に、「みんな」と口にしていた。


 囲炉裏が灯された暖かい部屋で、八尋はぱちりと目を覚ます。目だけを動かして辺りを見回し、よく知った一室の匂いに八尋は安心する。布団に横向きで寝かされていることに気づく。視線の先には、雪村が机に向かっている姿が見えた。 どうやら、気を失っている間に八尋神社へ運ばれたようだ。無事に帰れたこと、倒れた自分を見つけてくれた、おそらく霊狐であろう者に感謝していた。

 今、いつ頃だろうかと、八尋は首を動かして窓辺を見た。朝方より少し過ぎた辺りの色が見えた。

 頭を動かし、枕の擦れる音に雪村が気づいてこちらを見た。八尋の意識が戻ったことがわかると、雪村の表情が明るくなる。

 「八尋さま、お目覚めになられましたか。私も霊狐たちも、みな心配してましたよ。ご無事で、本当に何よりでございます」

 「あ、ああ…」

 八尋も感謝の言葉を出そうとしたところで、言葉が詰まった。身を守るためとはいえ、観蛇山の熊を妖へ落としてしまったのだ。穢れに満ちた血や、凄惨なあの場の後始末を完全に人任せにしてしまった。罪悪感や不甲斐なさが、今になって八尋に押し寄せる。

 失敗をした子どものように俯く八尋を見て、雪村はひとつ笑った。

 「順にお話ししましょうか。起き上がれますか?」

 八尋はこくりと頷き、手をついて上体をあげようとする。

 「いッ―――!」

 背中から、特に左腰にかけて鋭い痛みが走った。八尋は片目を閉じて、苦痛の表情を浮かべる。雪村は、怪我のない右肩側に手を添えて、起き上がれるように手助けをする。

 「男は、無事に川で待っていた霊狐たちと合流できたようです。それと、霊狐たちの連絡が来る前から、社にいた我々も観蛇山から不穏な妖気を感じました。そこで、もしやと思いまして、私は永明を連れて山へと向かいました」

 起き上がった八尋が辛くないよう、雪村は用意していた肘掛けを八尋の側に置いた。八尋は肘掛けに寄りかかり、大きく息をついた。

 「その途中、川に居た霊狐の一人が、男を連れて社へ案内しているところへ会いました。男から、八尋さまが熊と戦っているかもしれないと話を聞き、私たちも急いで向かいました。現地に着いた時には、すでに川辺の霊狐二人が八尋さまの手当を始めておりました。辺りは流血と血煙で赤黒く染まり、身の毛もよだつ妖気に腐ったような悪臭が漂っておりました。その場から逃げ出したくなるような凄惨なあの場で、霊狐の精神がよく持ってくれました」

 話ながら雪村は胸を撫でた。

 「妖熊の死骸の侵食も既に始まっていたため、私と永明とで急ぎ、その場を祓いました。四日がかりとなりましたが、永明と交代しつつ、侵されたその場も元通りにすることができました」

 「四日も……」

 「申し訳ございません。あれほどの妖となれば、私たちの力ではすぐには…。我々の修行不足に、八尋さまに申し上げる言葉がございません」

 五十五の妖術で生み出された妖が、雪村と永明の二人にかかっても数日かけてしまうほどの強力な力を帯びるとは思ってもいなかった。

 「あ、いや、そういう意味ではないからな。俺も怪我でそんなに寝込んでしまうとは思ってなかったということだ」

―――あれ?九頭も僕の妖術で妖狸に落ちたんだよね。ということはもしかして…!

 あの力がヒトに帯びてしまえばどうなるか。現に、後天的に妖となった九頭が、妖狸の長になるほどの力があることを思うと、とんでもない敵を作ってしまったのではないかと頭をよぎる。

 「無理をなさらないでください。正確には、一週間も八尋さまは眠っておられました。治療を行っていた霊狐たちも、八尋さまの熱が下がらないと、霊術や薬草の調薬など、三日三晩起きっぱなしでしたよ。容体が落ち着いてから、私の部屋に運んでいただきました」

 「そうか、一週間も眠っていたか…。すまん、しょせん熊だろうと侮っていた。おぬしらに多大な迷惑をかけてしもうたな」

 「とんでもございません。こうして再びお目覚めになられたこと、私たちには何よりのことと申し上げます。本当に、安心しました」

 八尋は、「そうか」と、照れくさそうに目元を掻いた。

 これまで八尋以外から、帰ってきてくれて良かったと言われたのは初めてだった。雪村の言葉は、自分が八尋の姿をしているからと分かっていても、内心、五十五は嬉しかった。

 「包帯をお変えしましょう。お身体を拝見させていただいてもよろしいでしょうか」

 「ああ、痛くしないでな」

 雪村は、ふふ、と笑って、八尋の包帯をゆっくりと外す。背中の中心から腰まで、右上から左下にかけた爪痕の傷が痛々しく残っていた。薬草を混ぜた水を傷口に振りかけて、消毒を施す。傷口が染みるのか、八尋は食いしばった声を漏らす。

 「…どうなってる?」

 傷は塞がっているが、身体を動かすとすぐに開いてしまう可能性がある。それと、恐らく一生跡が残る傷だろう、と、雪村は表情を悪くした。

 「傷口は塞がっております。ひと月は安静にすれば、痛みも引いてくると思います。ですが、あまりに深い傷でしたので、その、申し上げにくいのですが、傷痕が残るかと…」

 「そうか。いや、気にすることはない。ヒトと違って、傷口など毛で隠せるだろう。それにひと月といわず、半月で治しておく」

 「そんな、無理はなさらずとも…」

 これを機に休んでほしいと考えていたのか、雪村は八尋に言葉をかける。

 「獣傷は一度や二度だけではないし、起きれるようになるまで回復すれば、あとは自分でも治せるようになるさ。それまでの世話は本当に助かったよ」

 「ですが、ひと月は狩りに赴くのはおやめください。それだけは…約束してくださいね」

 「あいわかった。というより、狩りに行こうにも連れて行く霊狐たちにも同じことを言われそうだ。しばらくの狩りは、手練れの霊狐に任せるよ」

 案を八尋が飲んだことに安堵した様子で、雪村は息をついた。

 「ところで、あの男の身元は分かったか?」

 まだ話題に出していないことを思い出し、ふと、八尋は助けたあの男のことを聞いた。

 「はい。八尋さまもお気づきになられた通り、あの男は村の者ではありませんでした。ここより隣の領地から、関所の目を盗んで入ったと…。どうやら、男の村では飢饉が起きているようで、争いがあったとか。それで、鳥や獣が多い観蛇山へと狩りに来たと話しておりました」

 そうだったのか、と雪村の言葉とは裏腹に、八尋は件の男の素性をすっかり知らなかった表情で聞いていた。確かに見たことがない顔だとは思っていたが、まさか隣国の者とは。

 「よもや、隣国ではそれほどまでのことが…」

 「天候やイナゴの害には、どこも苦しめられているようですね。そんな中、麓の村の大収穫は隣国にまで話が伝わっていたとは。我々の米については、町屋への納品の際に他の村の者も見ていたことでしょうし、もしやそれ由来かと…」

 「して、その男は?」

 雪村は表情を悪くして首を振った。

 「他の国の者が他国の財を取ることは、れっきとした犯罪です。この村に奉行があれば、数日後には打首でしょうが…ここではヒトを裁くわけにはいきません。関所の奉行に引き渡すにも、社の理に反してしまいます。男には、数日ほどの獣肉と干飯を渡し、お引き取り願いました」

 「そうか、いや、そうするほか無かっただろう。……不穏な時期になってしまったが、いつまで続くのだろうな」

 「隣国の話を聞く限り、どうやら、我々が考えている以上に、周りの国は暗い世となってしまっているようです。この時期に、町屋に財を集めている現領主の九頭の動向…。国同士の戦とならなければ良いのですが…」

 八尋は窓に目を向けて、空を見上げた。そんな町屋をつつきまわしている五十五は大丈夫だろうかと。

 「五十五が町屋をとった後は、どうするのだろうか。まさか、五十五が統治をするなど…」

 「分かりません…五十五どのは、何か考えがあるのでしょうか」

 町屋での全てが終わった時、それは統治者が再びいなくなってしまうことを意味する。そうなれば、新たな領主がこの地に必要となる。

 俺が全部よくなるようにする、その八尋の言葉を本当の意味でわかっていなかったのかもしれないと五十五は考える。

―――八尋、お願いだから全部を抱え込もうとしないで…。僕はただ、八尋と一緒に…

 混沌とした時代の一抹が見え、これからどうなってしまうのだろうと五十五は不安を覚える。

 全部終わったら一緒になろう。神様になって、生涯を共にしよう。その二つの約束が、五十五の心を支えた。


 暖かな冬の日差しの当たる本殿の中庭。ようやく身動きができる程度まで回復した八尋は、午前のうちからたらいに砥石と水を汲んで、欠けた包丁に向かっていた。

 河原で拾ってきた砥石を側に置き、目の粗い順から研いでいく。普段なら、粗い目の砥石は荒砥くらいにしか行わないのだが、小銭の半円ほどの大きな欠けまで刃を研ぎ落すとなると骨が折れる。この日、八尋は朝早くから包丁に向かっていた。

 「ふう…。ようやく終わったあ」

 八尋は大きく息をつき、ひたいの汗を拭う。刀身に水をかけ、午前の日差しを刃に当てて確認する。半日近くかけて欠けた部分まで刃を落とし、刀身の歪みも直すことができた。他人の作った金物、ましては霊狐の使っている包丁を妖狸が研ぐことは初めての試みだったため、作業を始めた時は何事か起きるのではないかと少々不安の表情を浮かべていた。しかし、研ぎ始めてから素直に落ちてくれる刃を見て、杞憂だったらしいと安心する様子を見せる。

 「あとは平を磨いて、研ぎ目を消して…と、……んん?」

 包丁の平を、じいっと覗き込む。そこには、『卯月』と銘が切られてあった。受け取った時、作業を始める前には無かったのに、と八尋は不思議そうに首を傾げた。

 「へええ…葉桜さんの大事な人って、卯月さんって言うんだ」

 八尋は少しはにかんで、銘を指でなぞった。内情を語らない料理長、葉桜に代わって、伴侶が教えてくれたことに二人の関係がなんとなくわかった気がした。

 二人の絆ともいえる銘。これは消すわけにはいかないと、銘に残った汚れを手水で流す。

 八尋は境内の方を向いて鼻を動かす。昼食までまだ時間はありそうだ、と、砥石を変えて、平を磨く作業に移した。磨いていくうちに、くすんだ色をした包丁が群青色の輝きを取り戻していく。平を磨くと銘も浅くなり、消えてしまう可能性がある。そうならないように、何度も透かしながら研ぎを進めていく。

 しばらく平を研ぎ、このくらいだろうと八尋は頷いた。磨かれた面が八尋の輪郭を映し出すほどに研磨されていた。

 平が終わると包丁の腹を磨いていく。研ぐ面積が広い分、間違えれば刀身が曲がってしまう。一見研ぎやすい部分に見え、ここも気が抜けない。そのはずだったが、この辺りから、八尋は気分良さげに作業に向かっていた。本家の研ぎ師から見れば、五十五は考えられない早さで進めている。本来なら手放す他ない、大きく欠けた包丁を、僅か半日で研ぎ落している。回転砥石でもなく、手研ぎでこの出来はどの職人が見ても神業と讃えるだろう。

 「夕げの支度までには渡せるかなあ。いや、うーん、せっかくだから…」

 腹の研ぎが終わり、八尋は再び砥石を交換する。切れ刃を縦の目にしようと、持ち手を変えた。


 厨房の奥、調理を担当する霊狐たちの小部屋がある。料理をする霊狐たちは、調理だけでなく、ここで食についての書物をつづっていくことも仕事としている。その部屋に一人、料理長の葉桜は一人、筆をとって文机に向かっていた。

 「葉桜、おるか?」

 八尋の声に、葉桜は驚いた様子で振り向いた。

 「はい、はい、こちらに。いかがなさいましたか」

 言伝と思ったのだろうか、葉桜は文机の下に積んである古紙と小筆を手に、姿勢を正して八尋へ向かった。

 「ああ、そのような話ではない。ほら、以前、おぬしから包丁を預かっておったであろう。それが研ぎ終わったもんでな、おぬしに返しておこうと」

 八尋は筆を置くように話し、部屋へあがる。姿勢を改めた葉桜の前に胡座をかき、手に持っていた木箱を目の前に置いた。

 「やはり、預かった時よりも細くなってしもうた。大柄で、力強い風貌だっただけに惜しい。が、これなら、またおぬしとともに歩めるのではないか」

 木箱を開け、葉桜へと中を明らかにする。

 「これは……」

 蓋を開けた途端、窓からの光に輝く刀身を見た葉桜は息をのんだ。

 収められた包丁は、底に毛氈(もうせん)が敷かれており、より特別な物にと飾られていた。

 「八尋さま、お手にしても」

 「構わぬ」と、八尋が頷く。葉桜は恐る恐る包丁を手に取り、刃先を親指で撫で、刀身を透かせて眺める。

 「よもや、これほどの御出来になられるとは…。葉桜、感服いたしました。まるで、この子が生まれ変わったような…」

 ふと、葉桜が銘に気づく。切られた銘の溝には白が敷かれ、以前よりはっきりと見えるようになっていた。

 他人の銘に手を入れたことに対して、八尋は、やや気まずそうに目の下を掻く。

 「すまない、銘に白を入れてみたが、不要であれば流しておく。私も悩んだのだが、いざ入れてみると『卯月』殿は気に入られたようで…。あとは、おぬしに聞こうと思う」 

 「卯月が…」

 葉桜はひとつ笑って、八尋に話す。

 「卯月からこの包丁を受け取った当時、妻はヒトの子からよく思われていませんでした。妻の名が他所へ知られてしまえば、どうなろうと不安を覚え、私にだけ見えるようにまじないをかけました。その時、卯月は笑っておりましたが、思えば、どこか寂しい思いをさせてしまったのではないかと」

 葉桜の話を聞く最中、八尋は大きく頷いた。

 「おぬしの気持ち、最初から卯月殿はわかっておられたようだ。研いでおるうちに、この銘が不思議と浮かんできてな。おぬしら二人のことを、卯月殿が教えてくれたのだ」

 「妻が、そのようなことを。……私のわがままを、ずっと聞いてくれていたと思うと恥ずかしいばかりです。もう、何年も伴にしていたというのに」

 葉桜は姿勢をあらため、八尋に向かって平伏する。

 「八尋さま、この度は本当にありがとうございました。緋色に飾られたこの子を見て、妻との結縁の日を思い出してしまいました。この子とまた歩めると思うと、言葉にしきれません」

 「私は、おぬしらの力添えをしたまでだ。研いでおるうちに、卯月殿の込められた想いが包丁から伝わってきた。あまり覗き見をするべきではないと身を引いたが、おぬしに合わせた包丁の作りから、卯月殿はさぞかし素敵な狐であったのだろうと察しておったぞ」

 袖の中で腕を組んで語る八尋に、葉桜はくすりと笑った。

 「八尋さま、ひとつ間違いがございます」

 葉桜の言葉に、八尋は首を傾げた。

 「卯月はヒトの女です」

 「へっ、いや、しかしおぬしは…!」

 八尋の慌てる様子を見て葉桜はもうひとつ笑い、銘を指で撫でた。

 「卯月、八尋さまにお話ししないとは、お前も悪いやつだ。本当、変わらぬな」

 ごまかし笑いを浮かべた八尋は、足を組みなおす。

 「それにしても、八尋さまは、このような研磨術をも心得ておられたとは知りませんでした。料理人の手前、私も数名の研ぎ師から手ほどきを受けておりましたが…。これほどの業、これまで出会った研ぎ師ですら見たことありません」

 「褒めの言葉は苦しくない、素直に嬉しいぞ」

 「私がこの域に達するには、どれほどの月日が必要か…。いったい、この子をいつから研がれていたのでしょうか」

 「三日前だろうか、研ぎは一日で終えた。銘の白を入れるのには苦労してな、人の銘を触るのは、どうも手が震える」

 「い、一日で!」

 刀作りや研ぎに関しては自慢できることなだけあり、驚いてくれる葉桜を見て、八尋は得意げに鼻の下を指でさすった。

 「その毛氈も私が織ったものだ。卯月殿に似合うだろうと思って」

 「なんと、そのような…」

 ふと、これまでの事と、今回の事を思い返して、五十五はひとつの疑問を浮かべた。

―――そういえば、僕は稲作が苦手だけど、物作りは得意だなあ。卯月さんの想いも触れることができたし…。

 大事な気づきのはずが、五十五は深く考えることもなく、これと同じくらい稲作ができたらいいのに、とため息をついた。

 そろそろ頃合いだと、八尋は話を区切る。

 「私は本殿へ戻ろう。これからも、その子とともに頼むぞ」

 「ああ、八尋さま、お待ちください」

 立ち上がろうと、前傾になった八尋を、葉桜が止める。

 葉桜は、「失礼します」と前置きして、棚から布に包んだ棒状のものを取り出し、八尋の前に差し出した。

 「雪村さまからお話は聞いておりました。ことがことでしたので、祓いきることが難しいと私も耳にして…」

 葉桜が包みを開ける。そこには、白木の鞘が、茶黒く染まってしまった五十五の懐刀があった。

 八尋は目を大きくして、まさか、と言葉を漏らす。

 「私の懐刀ではないか!たしか、妖気を孕んでしまったがゆえに、地へと祓い送ったと聞いておったが」

 妖へと落とされた熊自らが、その首を落とすに至るまでに生まれた妖気は、短時間でありながらも多量であった。妖熊の出現については、八尋神社での正式な記録としても残されることとなってしまっている。

 そして、自害に用いた懐刀は妖気を直接吸ってしまい、妖刀と化してしまったと、八尋は雪村から聞いていた。

 「はい、当初はそのように、と、されておりました。しかし此度の、八尋さまの身を危険に晒してしまったのは、私と卯月のせいであります。八尋さま御自らが、砥石を取りに行くことが無ければ…」

 八尋は両手の平を軽く振って、「まて、まて」と葉桜を落ち着かせようとする。

 「それは違うぞ。あれは時が悪かっただけだ。普段の狩りでも、十分起こりうることだろう。それに、護衛の霊狐を呼ばなかったことも間違いだった。恥ずかしいことだが、私の失態だ」

 葉桜は首を振って、話を続けた。

 「されども、私は責任を感じておりました。雪村さまには無理をいって、私に懐刀の祓いを許してくださいました」

 「妖が、自ら首を落とさせるに至った懐刀であるぞ。なにうえ、そこまで…」

 「社では、私は刃物を扱う数少ない者です。それゆえ、八尋さまがお手にしておられた懐刀から、ただ者ではない気質をお見受けしました。さすれば、この懐刀は八尋さまにとって、何か特別なものがあると思い」

 恐らく卯月と同じく、八尋も大事な人から懐刀を貰ったのではないかと考えたのだろう。実際は、懐刀も自分で作ったものであり、五十五は失うも仕方がないことだと諦めていた。

 「雪村さまや永明さまのお手にかかっても、しばらく落ち着かせることしかできないとお話されておりました。やはり、一度妖刀に落ちたものは難しいと。ですが、今ではこのように」

 「失礼します」と、葉桜が懐刀を手に取り、鯉口から刃を見せる。すると、どこか八尋の霊刀と似た青白い気質を漂わせていることに気づき、八尋の目が大きくなる。

 「とても妖刀とは思えぬ、いや、霊刀と化してるではないか。おぬし、いかにしてこのようなことを」

 八尋は驚きのあまり、声を上げて葉桜に話す。

 「返り血で汚れてしまった刀身をみて、このままでは錆びてしまい可哀想だと思いまして。とにかく、身を綺麗にしてあげようと、普段使っている私の砥石で磨いたのですが…。そうすると、すうっと、懐刀の気質が変わりまして」

 「な…ッ!」

 手にすれば、何が起こるかもわからない妖刀を研ごうなど、なんと命知らずだろうか。さすがの五十五でも、それがどれだけ危険なことくらいは知っている。

 「ばっ…馬鹿者!おぬし、何を考えておるのだ!下手をすれば、おぬしの首も飛んでいたかもしれぬのだぞ!」

 「申し訳ございません」

 葉桜は顔を伏せたまま、八尋の言葉を待つ。

 一度怒鳴った八尋も、どこか辺りが静まり返ったような感覚を覚える。外を掃除していた数人の霊狐たちに聞こえてしまったかもしれない。

 木々の葉がさらさらと流れ、八尋も落ち着きを取り戻す。平伏したままの葉桜、それから懐刀に目を移し、大きく息をついた。

 「おもてをあげ。…雪村の知らぬところで、己を試すような真似はするな。いかにして妖刀と化したと聞いておったのなら、なおさらだ」

 八尋は懐刀を手に取って、鞘から全身を晒した。霊気の揺らめく刀身を眺め、直刃を親指で撫でる。以前には無かった、霞がかった刃文を見て、目をつむって思いをよぎらせた。

 「いや……改めよう。この子を祓ってくれたこと、心より感謝する。おぬしの手によって、この子は救われたのだ」

 「いかなる仕打ちも、覚悟しております」

 八尋はしばらく遠くを見つめていた。このまま黙っておこうにも、ことがことなだけあり、どうするべきか迷っていた。

 「ふむ……今日はせっかく、おぬしの喜ぶ顔が見れたのだ。細かい話は聞かなかったことにしよう。ここではおぬしに包丁を渡し、私もおぬしから懐刀を貰い、それで、お互いが喜んだ。それで良いだろう」

 「私も、八尋さまがお喜びになられる姿を見られて、甲斐がありました」

 「まったく…」

 方法がどうあれ、再び懐刀が手元に戻ったことは五十五も嬉しい気持ちだった。五十五の懐刀は、八尋の霊刀と同時に作った、いわば双子の刀なのだ。仕方ないと諦めていたつもりでも、内心は、八尋のように共に歩みたい気持ちがあったのだろう。

 八尋は懐刀をゆっくりと鞘に戻し、いつもしまっていた懐へと戻した。

 「懐刀が戻ったことは雪村には話しておく。細かい話は、おぬしから任せよう」

 「かしこまりました」

 「……雪村は本気で怒ると長いぞ。今のうちに夜食を作っておけ」

 葉桜は苦笑いを八尋に返した。

 「よもや、この歳になって、叱られにいくとは思いもしませんでした」

 「卯月も笑っておるだろうに。もっとしっかりした姿を見せてやれ」




 「久しく寝床にありつける。今日は疲れた…」

 雪の降る深夜。五十五は町屋から少し離れた空き家に身を潜める。ここのところ、情報収集のため、慣れない潜入が多くなっていた。長時間の緊張が溜まり、この日は特に疲れている様子を見せる。五十五は空き家の扉を閉め、背を大きく伸ばす。身体を伸ばしていくと、五十五の口からどこか恍惚な、いや、変な声が漏れる。

 干草にボロ布を敷いた寝床に転がった。まるで野狐の頃に戻ったような寝床であるが、寒い冬の夜には馬鹿にできない魅力があった。野狐の時と違うのは、尻尾を枕に丸くならず、ヒトの子と同じように足を伸ばして眠ることだ。

 羽織りを布団に、尻尾の代わりに刀を胸元に寄せて一度深呼吸をする。今日の出来事を頭に巡らせようと、ぼうっと天井を見上げる。

 自身に懸賞金がついてから賞金狙いの剣士から襲われる事が多くなっていた。もちろん、「売られた勝負を買わない五十五ではない」と、五十五自身も全ての相手に応えた。妖狸だけでなく、外から来た山犬、鼬、狐の妖剣士、そしてヒトの剣士とも刀を交えた。

 もっとも、ヒトに対しては、命を奪うことはできまいと鞘を用いたが、これはヒトのみを特別視しているわけではない。ヒト同士、またはヒトと妖の勝負の場では、木刀を用いて戦うことが常識とされていた。ヒトとの勝負に真剣をもって戦うなど、あまりにも公平ではない。

 一方で、面倒な連中の相手の中には、町屋街道や鏑矢の店先、湯屋の湯船の中など場所を問わず刃を向けてくる者も少なくない。五十五を狙う者の中には、夜間に突如辻斬りのごとく襲い掛かったり、飯屋で食事をしている中、店を荒らすように仕掛けてきたりする者まで現れる。ことあるごとに勝負を持ちかけられる状況も、数週間で心身ともに疲れが溜まっていた。多い時には、一日に二組と戦うこともあり、息をつく暇もない。

 そのため、ふた月ほど前から五十五は彦三郎と暮らしていた家から離れ、身を隠して生活していた。社から出て以来、独り身の生活は久しい。非常識な相手を思い出すたび、「彦三郎のもとを離れて正解だった」と、五十五は呟く。

 多くの剣士と戦い、勝利を収めるたびに、五十五の話は町屋の外にも広がっていく。名乗りをあげる剣士たちを薙ぎ倒していく様を見て、町屋の人々から『天下無双の剣士』だと噂され始める。

 勝負事が増えることで町屋の治安に心配を寄せているものの、豊穣神でありながら簒奪(さんだつ)のための旗印にならざるを得ない状況になりつつある。 

 そんな中、五十五についた懸賞金が突如撤回されたのがひと月前。町人たちは、五十五の勝利だと声をあげる者も多くいた。

 予想以上に事が運んでいる状況は悪くない。しかし、いまだ沈黙を続ける九頭の動向に、五十五はどこか不気味な気配を感じていた。

 「これほどにまで話が広がれば、九頭が動く話にもなっておればよいのだが」

 五十五は溜息を漏らし、独り言を呟く。

 二月中旬。町屋の各所に配置されている守屋の警戒が一層強まる。懸賞金が外れたとはいえ、五十五は以前よりも身の危険を感じ始めている。この頃から、五十五は町屋に身を晒すことを一度避け、夜間を主として活動していた。


 九頭について、彼は何者なのかをもう一度確認する必要もあった。社を出てから、しばらく剣の修行、自身が鳴り渡るため町屋での活動に気をとられていたが、最も重要なのは敵を知ることだろう。

 五十五が浮かべている疑問は三つあった。

 一つ、領主となった九頭について。

 九頭が妖狸となってから、わずか数年後には元領主、久松の側近にまで成り上がるには早すぎる。名のあるヒトの侍ならともかく、守護神の妖狸として現れたとすれば、なおさら期間が短すぎる。しかし、本家久松すらも認めざるを得ない実績を残していたならば、ありえない話ではない。

 二つ、九頭の目的について。

 九頭はヒトであった頃から、領主に取り入れられようと動いていた。その野望は、ヒトから妖狸として落とされた後も変わっていない。そこまでして成さんとするものが彼の中に秘められている。それが一体何なのか、五十五にはまったく掴めていない。各地から武士や職人を町屋に集めようとする動きから、この領地の力を強めたいことは考えられる。この力の矛先はどこへ向かうのだろうか。少なくとも、武力による領地拡大の動きは今は見られない。領地拡大の動きが始まってしまえば、この領地だけに留まらず、日本じゅうの国たちが争いを始める可能性は高い。混沌とした時代の始まりは、ヒトの歴史に介入したくない八尋としても避けたい。

 三つ、彦三郎について。

 これまで、彦三郎についてあまり深く考えていなかった。宿屋で働き、そして追い出されてから、一人で客をとって仕事をする。特段珍しい話でもなく、あまり言いたくはないが、「かわいそうな稚児」程度の認識だった。

 五十五が彦三郎に疑問を持ったのは、友を失った妖狸の男からの言葉からだ。

―――それに、あの売り子に傷付けるやつなんぞ、九頭が許さねえだろ

 ただの身売りの稚児に、なぜ九頭の名前が出るのか。それほど難しい疑問ではない。彦三郎は、九頭と秘密裏に繋がっているのだろう。

 彦三郎と別れてから、五十五は彦三郎が仕事へ向かう場所を突き止めた。裏道で彦三郎が一人の妖狸と出会ったと思えば、男から化け術をかけられ一時的に違う姿へと変えられていた。その後、籠に乗せられた彦三郎は、正門から堂々と城内へと運ばれていたのを目の当たりにしたのだ。

 貴族のいる上町で仕事をしている話は嘘だった。彦三郎が相手をしていたのは、恐らく九頭本人だったのだろう。これらは五十五の仮説にすぎないが、城内に入り込み、守屋から身の安全が確保されているとなれば、十中八九間違いない。

 さすがの五十五も、城内へと入っていく彦三郎の姿を見て、彦三郎と送った日々に後悔を覚えた。彦三郎が内通者として働いていたのであれば、五十五の動向は元より筒抜けだったことになる。しかし、これまで侠客として働いた中で、何かしらの妨害を受けたこともない。それに、「傷を付ければ九頭が許さない」の言葉が本当ならば、彦三郎を襲ったのは何者なのか。

 何にせよ、これからは彦三郎についても注意を向けなければならない。

 友として、いや、五十五にとって弟を持ったような思入れもあっただけに、心理的な衝撃は大きかった。

 「彦三郎が、裏切っていた…と、決まったわけではない…が」

 唯一、彦三郎に話してしまった秘密がある。八尋と五十五の関係についてだ。今の社に、妖狸である五十五が八尋と伴にするなど知られてしまえば、八尋神社の存続そのものに関わる。

 五十五としては信頼したい気持ちは強い。それ以上に、これまで触れてきた彦三郎を信じたかった。

 しかし、生じてしまった疑問は解消しなければならない。彦三郎を信頼するためには、彼のことを知る責任がある。

 三つの疑問から、九頭、彦三郎の両方に関係がある、件の高級宿屋へ数日間身を潜めていたのだ。

 高級宿屋は、各所からのお偉いさんが町屋へ来たとき、『おもてなし』として利用されることが決まっている。彦三郎からは、「一度宿屋へ通された後に、領主からの要求を受け入れなかった者はいない、不思議なほどに居心地が良い宿屋だって言ってたよ」と、以前から話を聞いていた。ヒトの世話人しか居ないのに関わらず、社の霊狐までにも影響を及ぼしていたことから、何か裏があるのは明確だった。 

 もし、九頭があの宿屋の存在を利用し、来訪者を惑わすことで会談を有利に進むよう手をかけていたのであれば、一国の策略として、九頭を取り入れようとするはずだ。


 ここで一度、五十五が件の宿に忍び込んでいた場面へ移そう。

 この宿は、女や男、彦三郎よりも幼い稚児でさえ、夜の相手をする宿であった。このような宿は、この時代には珍しくないとはいえ、他人の行為を隠れ見ることに、最初はともかく、五十五は次第に気が滅入っている様子だった。

 行為を眺める最中、どの部屋で炊かれた線香の煙に何かの気配が混じっていることを覚える。その線香の煙から、妖気が揺らめいているのに五十五は察知した。本質的な欲望を増幅させる気質を持った、どこか心をくすぐる妖気だ。誰にでも持っている感情ゆえに、この気質を妖気と見破るのは難しい。ふたりの霊狐が誘惑されたのも、この線香のせいだろう。

 そんな夜が数日間続けば、来訪者を妖気に酔わせるのは簡単だ。その状態で城に来れば、妖狸にとって手玉も同然だろう。あの時、八尋が連れた霊狐たちが、容易く妖術にかかった謎も解けた。どんな霊狐だろうが、線香とともに快楽を味わってしまえば抵抗力が極端に落ちる。

 まだ、あの頃は精通すらしていなかった八尋も、彦三郎に相手をされていたらどうなっていたかわからない。今になって、僅か数年前の自分がどれだけ子供だったことに気づく。遊びの意味がわからなかった八尋を、彦三郎が笑った場面を思い出した。

 世話人たちが部屋でのおもてなしに精を出し、帳台から人の気が消える頃合いを伺い、五十五は股間を押さえながら素早く帳簿をすり替えた。線香で妖気を帯びなくとも、思春期真っ盛りな五十五には、この宿は刺激が強すぎる。そうでなくても数日抜いていない。これが終わったらいっぱいしよう、五十五はそう心に決めた。今晩はとろろだろうか。

 人のこない物置き場に身を寄せ、煩悩を払うように首を降る。仕事だ仕事だと、五十五は頭を切り替えた。悲しいことに、身体の方は切り替わるのに時間がかかりそうだ。

 言うことを聞かない天幕は無視して、五十五は帳簿を開いた。これまでの町屋へ、どんな者が来ているのかを調べようと、指でなぞりながら帳簿をめくる。その中には、八尋も知っている人物や、実際に八尋神社にも関係を持った人物の名も記されてあった。この帳簿に書かれている人物たちが、すでに町屋との関係を持っていると思うと、九頭の手は予想以上に回っているのだと知る。

 ふと、五十五の目に、「八尋一行」の項が入る。「八尋神社、豊穣乃神、八尋」と、記された隣に、「世話人、彦三郎」と名前が記されてあった。この時、彦三郎は九歳だった。まだ、八尋より頭二つも背が低かった頃の彦三郎の姿を思い出す。

 一通り帳簿を見た後、彦三郎の出生が気になったのか、五十五は他の書物も可能な限り読みあさっていた。彦三郎が話していたとおり、宿屋の子供たちは皆、親から捨てられた子や売られた子、またはこの宿で生まれた子ばかりだった。そんな中、彦三郎のみ、どれだけ探しても出生が書かれていない。親どころか、出身地すら記載が無い。記録によれば、三歳の時には宿屋にいたことだけは確かだった。

 彦三郎とは、お互い出身をどこかといった話をしたことがない。いったいどこから来たのか、何者なのだろうか。五十五は今になって、彦三郎のことが気になり始めた。


 場面を空き家へと戻そう。

 そうして、ようやく宿屋から離れて身を休めることができる。他にも情報が得られそうな場所は思いつくが、八尋では入り込めそうにない場所ばかりだった。どうも、遠回りになってしまっている。

 どうしたものか、と足をバタバタさせて唸りをあげる。蹴り上げた干草が舞い、五十五の腹のあたりを隠していく。

 「五十五がいてくれたら、城内へ簡単に忍びこめるのだけどな」と自分の力不足にため息を漏らす。一度、城内に潜入しようとしたこともあった。ところが、城内には妖狸の中でも精鋭が集まるだけあり、一向に入る隙が見つからなかった。

 「俺一人では難しいな。ならば…」

 一度、町屋を離れて、四辻のもとへ相談してみよう。城内潜入について話せば、何か力を貸してくれるかもしれない。

 「そうなると、四辻を釣るために何か土産が必要か」

 明日やるべきことが決まって、もう眠ってしまおうと息を整え始める。寝る前にひとつ抜きたい気持ちがあったが、干草がいい具合に暖かくなってきて、眠気の方が優位になりつつある。

 「明日の朝でいいや」

 外の風がひゅるりを音を立て、小屋のガタついた所が軋む。身体を冷やさぬようにと、干草を胸元まで寄せた。干し草に頭以外が埋まっている姿は、もはやミノムシだろう。

 目の奥から意識が薄らぐ、眠りにつく直前。ふいに、五十五の耳がピクリと動く。小屋の外に、誰かの気配を察知したのか、五十五の身体は無意識に覚醒する。

 雪の降る夜、ましてや深夜の町屋街道を歩いてこの小屋に来よう者など、ろくな人物が浮かばない。

 五十五はゆっくりと上体を起こし、手元の刀を確かめる。音を立てないよう、慎重な足取りで扉の近くへ歩み寄る。服についた干草が、パラパラと地面に落ちていった。

 扉一枚を挟んだすぐ向こう側に、何者かが立っている。察知した気配は間違いなかったようだ。

 不意に、扉越しから刀で突かれないよう、細心の注意を払って五十五は警戒していた。ところが、件の人物は扉の前から何かをしようとする仕草も感じられない。このままでは埒があかないと、五十五は他にも隠れている者がいないかと周囲の気配を探る。

 どうやら、来訪人は一人のようだ。物の怪の類でもない、ならば、なぜ何もしてこないのだ。

 「何用だ」

 五十五が扉越しに問うた。こちらから正体を明かしたことも踏まえ、五十五は霊刀の鯉口を切り、抜刀する。外の風が雪を大きく吹きあげ、小屋はすきま風でひゅるると鳴った。巻き上げた雪が小屋に当たってパラパラと音を立てる中、件の人物の言葉が聞こえた。

 「五十五、五十五かい…?」

 「その声、彦三郎か!」

 ハッとした様子で、霊刀を鞘に納める。まさか、いったいどうやってここを知ったのだろうか。

 思いもよらぬ人物の声に驚くも、ともかく中へ入れてあげようと木戸を開いた。そこには、羽織も纏わず、薄手の平民着物姿の彦三郎がいた。髪や肩は、雪で白く染まり、触れずとも震えていることがわかる。

 「よもや、どうしてここが…!ともかく、早く中へ」

 「ご、ごめん…」

 彦三郎を小屋へ入れ、五十五は再度周囲を見回した後、扉を閉めた。まだ五十五の近くで立ち尽くしている彦三郎を見て、肩の雪を払って干し草へと座らせる。このままではかわいそうだと、五十五は震える彦三郎に羽織りを着させた。 

 「いったい、どうしてここへ。ここは、誰にも知らせておらんかったというのに」

 先ほどと同じ台詞を繰り返し、彦三郎に問うた。

 「あ、うん。おいらもなんで来れたかわかんないけんど…。その、やっぱり一人だと寂しくて」

 「それで、あてもなく探しておったというのか!?なんという無茶を…!おぬし、死んでおったのかもしれぬのだぞ!」

 彦三郎は俯いて、「ごめん」としか言わなかった。雪の降るこの夜、今日は風も強いというのに、小袖ひとつで探していたこと。夜の町屋街道の治安は良いとはいえないこと。他にもあった。五十五の言う通り、彦三郎は命を落としていたかもしれない。

 だが、今は説教をするべきではないと、五十五はそれ以上口にしなかった。

 「ヒトの身体は脆い。会いに来てくれたのは嬉しいが、時期を選べよ。それに、そんな薄着で出歩くな。俺の羽織りは、まだ小屋にひとつ置いておったであろうに」

 「そうだけど…五十五のを勝手に借りたら、怒るかなって」

 「なにを。その格好のまま外に出る方が怒るぞ、まったく…」

 五十五は苦笑いを見せて、彦三郎と一緒に包むように大羽織りをさらにかける。

 しばらく沈黙が続く。何も口にしない二人にかわって、隙間風が音を立てた。

 彦三郎に対して問いたい疑問はいくつもある。誰にも知らせていない小屋に訪問したことに、九頭と彦三郎の繋がりを覚えてしまうことは無理もない。状況を考えれば、何か言い訳をしてこの場から去ることが最善だろう。

 しかし、五十五は彦三郎を置いていく判断が出来なかった。ほんの少し前まで、心を通わせる友として触れていた者を、敵として見る覚悟が持てなかったのだろう。彦三郎を信じたい気持ちが、八尋にとって『そうであってほしい』願いに変わりつつあることなど知る由も無かった。

 ふたり羽織で暖をとっているうちに、彦三郎の震えも落ち着きを見せ始める。八尋は目を合わせることなく、じっと思いを巡らせていた。

 これまで様々な意味で触れ合って来たが、今も彦三郎から触れられる気質に騙るものは見えない。しかし、彦三郎が城内へ出入りしていたこと、帳簿でも記されていない彦三郎の出生、それらの事情が入り交じり、五十五は彦三郎に対する関わり方が分からなくなっていた。

 さらに二人の沈黙は続いた。

 このまま黙り続けているほうが不自然だと思ったのか、五十五は何か話をしようと声をかけた。

 「彦三郎、ちゃんと飯は食ってるか」

 「えっ、うん。白飯をたくさん食べてるよ」

 とにかく、彦三郎と話をしよう。そうすれば、何かが掴めるかもしれない。だから、今は変わらない関係続けようとした。

 「ほう、いいな。じゃあ、昨日は?」

 「えと…お客から貰ったお酒と…白飯」

 「おとといは?」

 彦三郎は明後日の方角を見上げながら、えっと、と繰り返す。

 「おとといも、白飯…だった」

 変わらぬ回答に五十五が笑って、彦三郎に寄りかかる。

 「なんだよもう、白飯ばっかじゃないか。味噌や芋も食わんと。お前、好きだっただろう」

 前と変わらない彦三郎との会話に、五十五の表情が柔らかくなる。

 「だって、お客から貰うものにケチつけられないよ。貰えるだけでも、ありがたいのに…」

 「やれ、武士や貴族のヒトは米ばかり食うからな。だから早死にするのだろうに」

 彦三郎は首を傾げて五十五を見た。

 「どうして?おいらも食わせて貰ってる身だけど…町の子より食べさせて貰ってるから、むしろ長生きできそうだけど…」

 「そうだな」と、五十五は顎に親指を添えて話す。

 「いや、白飯が悪いわけではない。米は何よりの宝だ。だが、それに加えて菜や汁も必要だぞ。ヒトには分からぬが、俺のような妖狸だと、自身に必要なものがわかる」

 「へえぇ…あ、でも。今日は五十五の言う通り、白飯に根菜に汁に、小鉢も出してもらったよ。ちゃんとそういう人もいるから、大丈夫」

 五十五の耳がピクリと動く。白米至上主義が根強いこの時代、わざわざ米を減らしてまで副菜を出そうとする者はいない。いるとすれば、ヒトではない者。それも、彦三郎の身体を大事にしようとする者だ。

 「そうか、それならよかった。それにしても、彦三郎の行くところは本当に金持ちだな。毎食出してくれるとは」

 あはは、と彦三郎が笑った。

 「甘やかしてくれるというよりは、お客の好みに合わせておいらを太らせようとしてるだけだと思うよ。そういう人、結構いるんだ。それに、痩せ細った身体なら、町の子を買って路地に連れていけばいいし」

 「ああ、なるほど。そういうことか」

 そんな、本当にどうでもよいような話を、いつもと変わらない雰囲気でしばらく話していた。

 「五十五こそ、ちゃんと食べれてる?ずっと追われて、こうやって隠れて暮らしてるみたいだけど…」

 彦三郎がそっと、五十五の顔を覗き込んだ。

 「ああ、干飯だの、この時期なら獣肉も食ってるよ」

 「け、獣肉…」

 肉食を良く思うヒトは少なく、少し前まで食べてはならぬものとも言われていた。一方、この町屋では妖狸の影響から、鏑矢にも肉料理が提供され始めている。それでも、いまだにヒトへの定着はされていない。もっとも、まだ牛や馬などの家畜は農作や移動に用いる道具の扱いを受けているため、肉食といえばもっぱら鹿や兎や猪などが定番だった。

 「明日は山へと用事があってな。町屋の外だし、よかったら一緒に行くか?ついでに鹿でもとってやるよ」

 何が起こるかわからない以上、できることなら四辻に彦三郎を預けたいと考えたのだろう。五十五はさりげなく山へと誘った。

 「えっ!えと…ごめん、明日も仕事があるから…」

 彦三郎は少し悩んだ様子を見せ、口惜しそうに断る。

 「そうか、いや、気にするな」

 仕事、という言葉が、どこか五十五を不安にさせた。仕事について聞きたいことが山ほどある。

 「…おいら、身売りをして死ぬんだと思ってたけど。五十五が話してくれたような、やりたいことを見つけるとか、長生きできるご飯の食べ方とか真面目に聞くとさ、おいらにも違う道があるのかなって思うことが増えたんだ」

 彦三郎は膝を抱えたまま、ぽつりと呟き始める。

 「でも、町の子が、おいらを好き者の身売りの子っていう話を聞くたびに、おいらにはこれしかないのかなって思うこともあるんだ」

 「…ねえ、おいらって変わってるのかな」

 彦三郎は五十五を横目にして、一つ問うた。

 「そうだな。普通の子は、好んで大人に身体を売らないだろう」

 「やっぱり…そうだよね…」

 五十五は、ふと彦三郎について問う。

 「どうして、幼い頃から宿屋にいたんだ」

 「うん、おいらのおっかさんとおっとさん、おいらがまだ覚えてない頃に死んじゃったんだって。それで、宿屋のヒトに拾って貰って」

 彦三郎がすんなりと事情を話したことに、五十五は内心驚いていた。聞いてみれば、それほど珍しい理由でもない。

 あとは親が誰だったのか。それが分かれば、彦三郎を宿屋に連れてきた者もわかるだろうと五十五は考える。

 「すまん、辛いことを聞いたか?」

 「ううん。ずっと昔のことだもん、気にしたことないよ。…五十五は、五十五はどうして剣士に?」

 どう話そうか、五十五はひとつ間を置いた。

 「俺も幼い時に父母を失ってな。ずいぶん幼い時のことで、よく覚えてないもんだから、気にせず群れで生きてたんだ。いつからか、群れとも離ればなれになって…。俺が一人になった時、あいつと出会ったんだ。剣士になったのは、あいつと一緒に生きていける世にするため、かな」

 「うそ、おいらと一緒なんだ。…すごいや、おいらと違って五十五はこんなにも強いだなんて」

 「バカ。おぬしとは、生きてきた歳月が違うだろう。彦三郎くらいの頃は、何もできずに泣いてばかりだった」

 「おいら、おいらは…」

 五十五は息をついて、俯く彦三郎の頭を撫でた。

 話しているうちに、五十五の目がうとうとしかける。眠るつもりだった時間から、それなりに経ってしまっていた。

 その様子を彦三郎に気づかれ、五十五は笑う。

 「すまん、珍しく眠る隙のない日が続いておったもんで」

 「ううん、おいらこそごめんね、突然押しかけちゃって…」

 「なに、良いではないか。久しく彦三郎と寝られるのだ、今夜は付き合ってもらおう」

 五十五は彦三郎と包まったまま、そのまま横になる。添い寝の形になった彦三郎は、やや申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 「おいらも寝ていいの?しばらくおいらが見張ったりとか…」

 家へ帰して、今夜の寝床を変えるべきか悩んだ。彦三郎の家まで半刻とかからないが、雪風が強くなり始めた外をもう一度歩かせる体力が残っているとは思えない。

 「ここを知る者はおらん。そりゃあ、彦三郎が来た時は驚いたが…」

 五十五は上向きのまま、彦三郎に問うた。

 「本当にどうやって来たんだ?」

 彦三郎は、「えっと」と口にして、しばらく黙り込む。

 「信じてもらえるかな…。五十五に会いたいって気持ちで探してたら、不思議とここにいる気がして、そしたら本当にいて、おいらも信じられないくらい驚いて」

 八尋は、五十五を探していた時のことを思い出した。あの時も、もっと前の時も、会いたい時に、『ここにいるかもしれない』と、探して、一人になった五十五を見つけたことが何度もある。おそらく、そういった力が彦三郎にもあるのかもしれない。

 会いたいと思う気持ちをもとに辿る、それは生半可な想いでは触れることもできない。

 彦三郎が抱いた、五十五に会いたい気持ちは本物だった。

 「信じるさ、そうして見つけたのだろう。お前の言葉に、偽りは感じぬ」

 「…ありがとう」

 五十五は彦三郎を冷やしてしまわないよう、大羽織りを整えた。

 「寒くはないか」

 「うん、平気」

 家で一人で寝る方が…。彦三郎は言葉の終わりをぼそりと呟く。五十五は、「どうした」と聞き返すも、「なんでもない」と、彦三郎は返す。

 「おやすみ」

 五十五の言葉に彦三郎は復唱して、二人は瞼を閉じた。


 しんとした冬の明け方、五十五はゆっくりと目を覚ます。少し寝過ぎてしまっただろうか。普段なら夜明け前に目を覚ますはずが、小屋に漏れる朝の日差しを目にしていつもより寝過ごしたことを知る。

 ピンと、五十五の耳が立つ。あくびをする暇もなく、五十五の意識が急速に目覚めていく。

 誰か、いる。

 昨夜、彦三郎が来た時とは明らかに違った、不穏な気配を感じ取る。外の雪の踏む音で、ろくな客ではないということは明らかだった。

 五十五は意識を集中させ、周囲を探った。小屋の正面に四人、側面に二人、背後に回ろうとしている者が三人。離れた茂みから数人組が点々と、こちらを伺っている気配もあった。多すぎないか、と、五十五の表情が悪くなる。

 ここまでの集団で攻めようとする組織は一つしかない。守屋は、ついに五十五を捕らえにきたのだ。

 昨日の彦三郎といい、たった一夜でなぜ居場所が分かったのか。感覚で五十五を探していた彦三郎ならともかく、この人数で囲むということは、ここに五十五が居ることを確信していなければできない芸当だ。

 ともかく、今はこの状況を打開しなければならない。周囲が妖気で淀み始めているところから、茂みに隠れている十数人はおそらく術者であろう。いくら八尋でも、侍との殺陣に加えて、術者から一斉に化け術を防ぐのは骨が折れる。化け術にかからないよう、霊術に絞れば払うことは容易いが、意識が逸れて侍から一太刀浴びてしまばそこまでだ。

 「彦三郎、起きろ。まずいこと…に……ッ!」

 五十五は言葉を失った。

 いない、隣で寝ていたはずの彦三郎がいなくなっていた。

 それどころか、五十五の命とも呼べる霊刀も無くなっていた。

―――やられた! 

 昨夜の訪問、今朝の守屋たちの襲撃、そして持ち去られた霊刀。

 消えた彦三郎が、全ての答え合わせとなってしまった。

 五十五は言葉を失う。まさか、まさか本当に彦三郎に裏切られるとは思いもしなかったのだろう。それでも、今まで共に暮らし、色々なことをしてきたのだ。昨夜の彦三郎からも、五十五を裏切ろうなどと考えている気配は微塵に感じられなかった。

 頭の中で、ぐるぐると思考が巡る。五十五は大きく首を振って、余計な考えを払う。

―――まずは、この場から脱出しなければ!

 霊刀が無い今、八尋の身を守ってくれるものは一つもない。社の狩衣であれば話が変わっていたであろうが、平民袴ではこの妖気漂う中、十数人からの化け術を払いきれるとは限らない。さらに、術者だけではなく、既に小屋を取り囲んでいる侍からも無手で逃れなければならない。二つしかない狭い出入り口から、刀も無しに真正面から突破するには無理がある。

 冷静に考えるほど、五十五は追い詰められていることを知った。

 「何か、何かないか…!」

 懐から折り畳んでいた数枚の霊符を取り出し、一枚ずつ確認する。三年前、社を出る前に護身用にと念のために持ち出していた。まさか、使うことは無いだろうと考えていた霊符が、この状況を打開する唯一の手段になりえた。

 手元にあった霊符は、相手を追い払う霊撃符、捕縛する繋縛符、そして霊術や妖術から身を守る結界符、と、今の状況では力不足の霊符しかなかった。

 「せめて狐炎符くらいは、と思ったが…」

 五十五として社を出た以上、八尋が得意とする炎符があるはずもなかった。

 どうするべきか、と悩むのも束の間。小屋の木戸を、棒状のもので殴りつける音が三度鳴った。

 「九頭が主、我ら守屋の者なり!五十五がここにおるのはわかっておる、大人しく神妙にせい!」

 小屋の正面の扉から、侍の声が聞こえた。名乗りをあげたということは、今すぐにでも扉を破ってくるに違いない。

 「くそッ…!手段を選んでる場合じゃない!」

 五十五は右手親指の腹を噛んだ。しばらくすると、咬み傷から血が流れてくる。五十五はその血を使って、黒字で書かれた霊符の上から血文字で何かを書き始めた。

 一枚目を書き終えたあたりで、守屋の侍たちは木槌で扉を打ち破りはじめる。古い木戸なため、数分も持たずに突破されてしまうだろう。破られた隙間から漏れる侍たちの影を見て、五十五は急いで残りを書き走る。

 そして次の瞬間、扉が破られる音が鳴った。外の風が小屋へと吹き込み、散らばっていた枯草が舞う。

 突然の日差しに五十五は細目になった。逆光から抜刀した侍たちが一人、また一人と足早に小屋へと侵入する。

 「念仏でも唱えておったか。そのまま大人しく我らに捕まれば、九頭様も寛大な言い渡しをしてくれるであろう」

 話しかけたのは、時折五十五と会話をしたことのある、守屋の門番の妖狸だった。

 「悪いな五十五。これが俺の仕事なんでね」

 「やはり、その声はおぬしであったか。無敗の剣客に先陣を切るとは、おぬしの都合もうかがえるな」

 門番の妖狸はいつもの調子で、へへっと笑った。

 「わかってくれるならやりやすい。お前と変にお喋りしたせいで、俺の立場も危ないわけよ。大人しく、してくれるよな?」

 「さて、どうだろうな」

 門番の妖狸は刃先を五十五へと向ける。

 「五十五、お前が莫迦(ばか)ではないことはわかっておる。外にも我らの仲間が控えてあることくらい知っておるだろう。それに、刀も無しに何ができる」

 妖狸の言葉に、五十五の目つきが変わる。

 「…俺の刀はどこだ」

 「それも含めて、こっちで話をしてやろう」

 霊刀は意図的に持ち去られた、それが確信できる言葉だった。何としてでも取り戻さなければならない。

 五十五は覚悟を決める。

 「前から気づいておったが、おぬしもなかなか出来る太刀だ。先陣がおぬしで安心したぞ」

 何の話だと、門番の妖狸は眉をひそめた。

 「これまで世話になった礼だ。避けろ、芦田」

 芦田と呼ばれた妖狸の門番は、五十五の右手から一枚の切れ端に気づく。

 「―――ッ!お前ら、こいつから離れろ!」

 芦田が咄嗟に後退り、側にいた妖狸たちに叫ぶ頃には、五十五から一枚の霊符が放たれる。

 「ひッ!」

 放たれた霊符は、五十五と守屋たちの間でくるりと回り、未だ変化を見せない。反応に遅れた妖狸たちも、札を投げられれば何が起こるか大抵の予測はつく。少しでも逃げようと、各々がどこかに飛び込んだ。

 空中を舞った霊符が赤文字を晒し、すうっと朱を帯びた。

 その瞬間、光が集束し、符を中心に炎を纏う大爆発が起こった。

 古い空き家は正面、両壁が吹き飛ばされ、破片や藁が雪とともに大きく巻き上がる。一晩積もった粉雪が小屋全てを隠す煙幕となった。

 「うわっ!」

 「な、なんだ!いったい何が!」

 外で待機する術者や侍たちの驚く声があちこちから聞こえる。剣士の五十五が、このような術や火術を扱うなど考えていなかったのだろう。

 「煙に乗じて逃げるつもりだ!術者ども、ガキを逃すな!」

 術者たちは漂わせていた妖気を利用し、逃げる五十五を容易に見つける。そしてひとり、またひとりと五十五へ化け術を仕掛ける。

 煙幕の中では、五十五の表情にも焦りが見える。妖狸から化け術を仕掛けられることは珍しくもなかったが、これほど的確に仕掛けてくる化け術を受けたのは初めてだった。妖気が纏わり付き、息を吸う口や鼻からも入り込もうとする執念さ。腕に自信のある術者を多く集めてきたのだろうか、五十五は町屋に来てから、初めて化け術に捕われそうになっていた。

―――このままじゃ捕まる!

 五十五は、とにかく身を潜められる場所へ逃げようと山側へと走る。事前に気配を察知していたため、迷うことなく一直線に駆け抜けることができた。

 煙幕から抜けると、前方に妖狸の集団が二つ見える。五十五を目視した妖狸たちが一斉に術を仕掛ける。その中に、一人だけ違った風貌をしたヒトが混じっていることに気づく。

 嫌な予感がした。しかし、今は考える暇はない。

 五十五は左手に握っていた結界符を貼り、霊術を展開することなく弾き返す。再度化け術をかけるには、もう一度妖気を纏わせなければならない。

 その隙に前へと踏み込んだ右足が、沼にはまったようにどぷりと沈む。

 「うわっ!」

 五十五はたまらず前のめりに転んでしまう。こんなところに沼などあるわけがない。五十五の意識に、誰かの化け術が入り込んだのだ。

 意識を集中させ、入り込んだ妖気を祓う。その隙に、二人の妖狸の侍が抜刀して突進する。

 「くッ!おぬしらの相手をする暇などない!」

 五十五は最後の一枚を侍に投げつける。脱出の時にも用いた、赤文字で書かれた爆炎符だ。符を見た侍たちは怯み、とっさに足を止める。

 結界符で身を守っている間に整えた霊力を符へ込める。爆炎符が揺らめき、先ほどのような大爆発が起ころうとする。

―――よし、これでもう一度煙幕を…!

 しかし、放った符は突如、青い炎に包まれ消えてしまった。

 「なッ…!」

 符を覆い尽くす炎から、この場に似つかぬ霊力を感じ取った。

 まさか、と、五十五は奥にいたヒトの術者に目を向ける。烏帽子に狩衣を纏ったヒトの男と視線が合う。

―――陰陽師だと!なぜ妖狸たちと…!

 陰陽師。神霊、妖のどちらも相手とする霊術の達人だ。占いから祈祷、それに憑依落としや退治までもこなす。八尋にとっても、一筋縄ではいかない相手だ。

 「剣士の五十五、神妙にしろ!」

 符が破られたことで侍たちが立ち直り、五十五へ襲いかかってくる。

 五十五は上段から切り掛かろうとする侍の懐へ潜り込み、勢いを殺さぬまま背負い投げで地へと叩きつけた。

 続いてきた侍の斬り払いに対して、刀を握る手を鷲掴む。掴んだ手に捻りを加えると、たちまち侍から苦痛の声が漏れる。

 怯みを見せる侍の顎を五十五は飛ぶように蹴り上げ、円を描くような無刀取りを決めた。

 わずか数秒の出来事だった。

 五十五は奪った刀を握り直して、陰陽師のいる最後の集団へと走る。その場に残された二人の侍は圧倒的な力の差におののき、追うことも、声を上げることもままならなかった。

 止まることなく猛進する五十五に、妖狸の術者とヒトの陰陽師が構える。

 「どけぇぇえッ!」

―――ここさえ抜けてしまえば、山へと逃げられる!

 十数人からの妖気がるつぼのように纏った五十五の姿に、妖狸たちは恐怖を覚えたのだろうか。術者たちの連携が崩れ始める。

 術者から放たれる化け術に対し、五十五は刀で斬り払った。ただの日本刀でも、刀を握ったことによって、五十五の霊力は力を増していた。

―――いける!これで終わりだ!

 陰陽師たちまであと数十歩、ヒトを斬るわけにはいかないと、五十五は柄を半分回し、峰打ちへと握り変える。

 いまだ仕掛けてこない陰陽師がついに動く。

 印を結んだ手が、横、縦、横と描かれる。その光景を目にして、五十五の体中の毛が逆立った。

 「九字ッ……!嘘だろ!?」

 陰陽師まで寸前のところで、五十五は格子状の光の檻に捕らわれてしまった。

 まずいと頭に過ったのも束の間、片膝がガクンと崩れるほどの重みがのしかかる。陰陽師は捕らえた五十五を従わせようと、すでに別の真言を唱え始めていた。

 「くそッ!邪魔すんな…ッ!ガッ!あッハ…!」

 逆らおうとする意識を持った瞬間、五十五は全身を焼かれるような激痛が走る。

 「冗談じゃない!この俺が調伏されてたまるか!」

 五十五はなりふり構わず、霊力を刀に込めて格子に突き刺す。甲高い金属の音が響き、刃先が結界の外へと飛び出た。

 刀の手応えに、五十五は全力で吠えた。

 思いもよらぬ抵抗に、陰陽師の表情に余裕が消える。

 五十五を捕らえる結界も、真の名が八尋である以上、八尋の霊力まで縛りつけることができない。

 だが、五十五の体力も限界だった。妖気を纏ったまま、他人の刀に霊力を込めて結界を破るのは力技すぎる。

 五十五の視界も霞み始め、身体に走る痛みが次第に鈍くなる。意識が保てなくなっていた。

 「くっ…ぐぅ…ッ!!」

 結界の格子が、ひとつ、ふたつと斬り裂かれ、切り口から亀裂が広がり始めた。

 刀を握る力が弱くなり、刃先は痙攣するように悲鳴をあげる。

 「あとすこし…あと…!うわッ!?」

 ふいに、五十五の下半身がどぷんと黒沼に沈む。立ち上がろうにも、腰から下の感覚が無い。

 ちり散りになっていた術者たちは、五十五を捕らえた結界を囲み、それぞれが五十五に向かって化け術をかけはじめていた。

 瞬く間に一面の暗闇が覆い尽くされた。一度化け術にかけられてしまえば、抵抗力は極端に下がる。

 もはや五十五は、妖狸たちの意のままに落とされてしまっていた。

 「やめろ!貴様ら、俺に、俺に触れるなァッ!!」

 刀を握る手がくすぐられるように開かれ、五十五は最後の支えを失った。

 「―――ッ!」

 五十五は仰向けに倒れる。身体じゅうに黒い粘液が纏わりつき、ついに口をふさがれる。

―――ちくしょう、ちくしょう…!

 五十五は格子に刺さったままの刀に左手を伸ばす。

 抵抗虚しく、五十五は妖狸たちから眠らされるように意識が薄らいでいった。


 五十五の意識が揺られながら戻る。薄く目を開くと、そこは狭い籠の中だった。

 三角座りの体勢で入れられ、両手も背中側へと紐で縛られているせいで、まともに身体を動かすこともできない。意識が戻っていくにつれ、ひどい寒さで身体が震え始める。五十五は衣服を全て脱がされ、何一つ身を包むものを許されないまま放りこまれたようだ。

 「あれって、五十五か?」

 「籠の大きさから、そうだろう。しかし、ついに…」

 辺りからざわめく声に、五十五の耳がピンと立つ。守屋に捕まった自身が、町屋奉行へと連行されている最中なのだと気づいた。

 八尋はハッとして、自身の姿を見える範囲であらためた。完全に霊力が尽きて気を失ったため、自身の化け術が解けてしまったのではないかと頭に過ぎった。正体がバレてしまえば、八尋の計画が全て破綻してしまう。

 胸元、肩、腹と見回した。八尋は五十五の姿を保ったままであった。安堵のため息を漏らすと同時に、五十五がかけてくれたおまじないに感謝をした。

 竹籠のほつれた縫い目から片目を覗かせる。ちょうど米屋の親子三人が、口をつむったまま籠を見送る姿が見えた。間違いない、ここは町屋の中央通りだ。

 助けてくれる者など誰もいない。四辻へ話をする直前で捕まってしまったため、助けを借りるあてもない。霊刀も手元に無いうえ、霊刀無しでは化け術にかけられてしまうことも守屋に証明されてしまった。両手を縛るものは、細いしめ縄一つ。脚に至っては縛られていないことから、今の五十五が脅威と見なされていない証拠だ。

 「落ち着け、冷静に考えろ…」

 これから置かれるであろう状況を予測しつつ、五十五はゆっくりと深呼吸をする。

 この時代、罪を犯したものは通常、町屋奉行という調査と牢屋を兼ねた場所へと送られる。盗みや暴行程度のものであれば、有無を言わず即刻牢へと入れられる。ささいな犯罪程度では、いちいち調べていられないというのが理由だった。逆に、殺人や強姦、放火などの重罪を犯していた場合、公衆の居る町屋の真ん中で領主からの言い伝え後、晒し首にされる。しかし、中央通りを通り過ぎているため、こちらの心配はない。

 最後に、罪を犯した者が、これからの領内において戦力となる場合は、町屋奉行を介さず領主の眼前へと送られる。これは、名のある人斬りや暗殺者は侍として、大泥棒は密偵として、言い渡された金銭で領主は自身へ取り込もうとする。大抵の場合、それらは破格の条件で言い渡され、断る人物はこれまで聞いたことは無い。もっとも、断れば重罪人として扱われるため、その日のうちに首を切られる羽目になってしまうだろう。

 五十五を運ぶ籠が、町屋奉行を通り過ぎる。運び屋の方向は城へと向かっていた。

 「おう、手間取ったがなんとか捕まえたわ。このまま控えに持ってっから、九頭様へ言伝を頼む」

 「おお、ついに。芦田殿もさすがです。急いで参りますゆえ、先に運んでください」

 城門の前で、芦田の話す声が聞こえ、会話の終わりに門番の一人が走り去っていく姿があった。

 五十五の籠が再度担がれ、揺れる景色を覗き見る。

 「黙り続けていた九頭も、ようやく俺と会う気になったか。おぬしもこの狸が、いよいよ邪魔になったのだろうな」

 五十五は九頭へ会うため、再び城内へと招かれていく。

 あの時と姿形、お互いの立場さえ真逆となる再会。こんな状況に置かれてもなお、五十五は真っ直ぐな眼をしていた。


 城の寝殿、北対屋の前庭へと通された五十五は、砂利の上にひとつ茣蓙(ござ)がしかれた上に正座して放り出されていた。

―――随分、変な所へ連れてきたな…

 領主が直々に話をするなら正殿の前で十分なはずだ。それに対し、わざわざ寝殿奥、対屋で囲ったこの場所へと通されるなど聞いたこともない。

 冷たい風に、五十五は無意識に身を震わせる。籠の中では気づかなかったが、五十五の首元には、何かしらの術がかけられた首輪がはめられ、逃げられないように奉行人と紐で繋がれていた。

 直接首輪に触ることは出来ないが、感覚からして霊術の類の気質を感じていた。町屋で霊術をかけられる人物は寺屋の誰かであろうが、五十五はこれまで、霊術に長けている者と町屋で出会ったことがない。恐らく、件の陰陽師が施したものだろう。

 これまで妖狸しかいなかった町屋に、まさか陰陽師まで呼ばれていたことは、五十五にも予想していないことだった。

 他にもどれほどの人数がいるのか、いや、件の実行隊以外にも、職人や商人など集められている者もいるだろう。

 「これより領主、九頭様がお見えになられる。罪人はおもてをあげよ」

 聴取人が声を上げた。五十五は上目で見える程度に顔をあげた。

 「おもてをあげよ!」

 態度が気に食わなかったのか、付人は首輪を真上に引っ張りあげた。

 「うッぐ…!」

 突如首を絞められ、五十五は反射的に膝立ちとなった。濁った苦しみの声が、囲いの間に響く。

 付人は紐を緩めることなく、首吊りの状態を続ける。

 まだか、はやくこい。薄目で御簾(みす)の奥を見続ける。一分近く経つが、まだ来る気配がない。次第に五十五の呼吸が鋭くなり、口元から唾液が漏れる。

 ふと、この場に似つかわしくない水飛沫の音が立ち始める。酸欠で力が抜けたせいか、五十五はその場で失禁してしまった。

 トンっ、と御簾の奥から襖が開かれる。その奥から長身の妖狸、そして五十五の因縁の相手である九頭の姿が現れた。

 中庭の真ん中、侍たちが囲む中、全裸で尿を漏らす五十五の姿をひと目見て、九頭は肩を震わせる。

 「なんと情けない醜態であろうか。これが天下無双の剣士と申すか、ただのしょんべん臭いガキではあるまいか」

 五十五がこのような姿を晒すまで、わざと待っていたのだろう。五十五は奥歯を噛みしめて、自身を笑う九頭を睨みつけた。

 「いや、このような場面は見たことがあるぞ。躾のなってない飼い犬が、好きなヒトに会えたのを喜んで主人に静止させられる光景だったか。嬉ションしているところまでそっくりだ」

 五十五のモノから出せるものが無くなったのか、九頭が笑う辺りで止まる。空気に触れたことで発生した尿の臭いが、五十五に更なる羞恥を与えていた。

 「このような様を見られてしまえば、私なら自害しよう。だが安心せよ。おぬしの醜態は、ここの者たちしか知るよしも無かろう」

 九頭は付人に紐を緩めるよう顎で指示する。ようやく空気を取り込むことができた五十五は何度も呼吸を繰り返す。

 「このような仕打ち、許されるものか」五十五はそう叫びたくなったが、歯を食いしばって口をつむった。発言が許されていない今、余計なことを話せばろくな目にあわないだろうと容易に想像がつく。

 「つまらぬな。何か口にすれば、その水溜りを啜らせようと思っておったのに」

 どうやったらそんな趣味を持てるのか、五十五には理解できなかった。息を整わせつつ、九頭の言葉を待つ。

 「町屋にて幾多の人斬りを犯した剣士、五十五を捕物に致しました。この者のゆく末、九頭様の御言葉より向かわせましょう」

 寝殿の廊下で待機していた芦田は一礼して、捕物書を九頭へと差し出した。

 芦田の言葉から、やはり五十五を刑にかける意図は無いのだろう。

 さすれば九頭が何を語るか、このあたりから五十五にもある程度予測がつく。

 九頭からの取り入れは断る他無い。取り入れ書へ『五十五』と名を書いてしまえば八尋の未来が潰える。書へ名を残す際、名を記す者が八尋である以上、『五十五』と書いても、その効力は書き手の『八尋』に責任がかかる。

―――さすれば、いかにして御前試合として話を進めるか…

 交渉を考えようとしている五十五だが、実のところ、御前試合を組むことはそれほど難しい話ではない。今では、五十五が知っている以上に、この領地は武士国へと変化してきている。

 最も力のある者が領主であるべき。となれば、町屋の外にまで名が渡っている五十五を、試合もせず斬首しようものなら九頭の評価は大きく下がる。よって、試合に至る話は問題ではない。

 御前試合に向かうにあたって最も重大なことといえば、自身の獲物、八尋の霊刀を取り戻さなければならないことだった。「その話もこちらでしよう」と話した芦田の言葉から、九頭からの指示で、彦三郎が持ち去ったことも予測している。

 ただ、霊刀に関しては、どうやって取り戻そうか検討もついていない。五十五は黙々と思考を巡らせていた。

 一方で、捕物書を眺めている九頭はまだ口を開かない。形式的な言い渡しをするなら、それほど考える必要はないはずだ。

 「まだ、早いな」

 九頭は手にしていた捕物書を投げ捨て、五十五と向き合った。嫌な予感を覚えたのか、五十五の右眉がピクリと動く。

 「奉行に言い渡す。この者を大牢へと牢入りさせ、そちらでしばらく面倒を見よ」

 「なッ…!」

 五十五はたまらず声をあげた。周りの侍、奉行人も一様に驚く。言い間違いではないのかと、奉行人たちはそれぞれ顔を合わせていた。

 「九頭様。この者、大牢にて入牢とのことで、よろしいでしょうか」

 「入牢ではない、面倒を見よと申したのみ。取り入れは考えておるつもりだ。しかし、大牢に入れられた者を取り入れては九頭の名に傷がつく。よって、奉行所へこやつの名を残す必要はない。そのこと、十分に注意せよ」

 一体何を考えているんだ。五十五は目を大きくしたまま、九頭の言葉を聞いていた。

 「こやつに、まだ見ぬところも学ばせようとするまでよ。こんな稚児を側近につかせようなど思えるほど、私は愚かではない。夜の稚児は一人で十分だ」

 「承知致しました」

 「では、剣士の五十五からは何かあろうか」

 ニヤついた表情で、九頭は五十五に問うた。談話で見た九頭を八尋は思い出す。こいつはあの頃から何も変わっていないのだ、と。

 「今回の一件、敵ながら見事であった。よもや、一夜にしてあれほどの軍勢に囲われるとはな。…アレは九頭殿の指示だっただろうか」

 彦三郎の裏切り、そのことをほのめかすように五十五は問うた。

 「いかにも、あれは我が手中にあったものだ。面倒見の良い健気な子だ、あのような稚児は実に可愛らしい。稚児のあるべき姿と言えよう。おぬしも、あの謙虚さには見習うべきであろう」

 「それで大牢と申すか…!」

 九頭はくっくと笑った。

 「大牢に送られた悪ガキは囚人から人気があると聞いておる、可愛がってもらえるだろう。なに、おぬしなら死にはしない。牢から出る頃には、粗相も頷ける姿にしてもらえよう。そうだな、臭いには早く慣れたほうが楽になるぞ」

 「この仕打ち、取り入れの…ぐッ…ゥッ!」

 九頭が顎で指示すると、五十五の首が再び吊し上げられる。

 「では、後の処理は奉行所へ任せよう。この者については、また後日呼び寄せる。それまで、丁重に扱うよう囚人に伝えておけ」

 五十五は言葉を返すことも許されないまま、その場から九頭が去っていく姿を見ていることしか出来なかった。

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