第6話

 獣たちが眠る静かな日々はゆっくりと溶け、山々を目覚めさせるウグイスの声が響き渡る。例年なら秋に行う例大祭を過ぎれば、行事も落ち着き春までゆっくりと過ごすはずの八尋神社だったが、今年の冬は長く感じられた。昨年の秋の一件から、霊狐たちにも慌ただしい冬を送らせてしまったが、今は落ち着きつつある。町屋から一度退き、時期を待つことを八尋は決めたことを告げ、八尋神社は早くも元の日常へと戻っていった。

 不穏なことが続いていたが、この時期から次第に悪い話は聞かなくなってくる。先日も、村人から田植えを待つ新苗の育ちが良いと話があったことを聞き、八尋は安堵していた。土や水気も問題ない。今年の稲作も、出だしは悪くなさそうだ。

 朝方、小袖姿のままの八尋は中庭で伸びをして、ウグイスの声に耳を動かしながらそんなことを考えていた。朝景色に赤色が混じっているのを久しく思うと、また新しい季節が来たことに気づかされる。

 一方で、八尋の心には焦りがあった。普段なら新鮮味のある季節の変わり目も、八尋には残酷な時の流れにも似た何かを感じ取る。先日の村人の報告、苗の出来や田んぼが順調なのは自身の力ではない。町屋へ行った八尋…剣士の五十五のおかげだ。自分は、既に力を与えられた田畑を引き継いだだけに過ぎない。順調にいっているのは当たり前だ。これからは自分自身が社と村を守らねばならないというのに、未だに神力を得る手掛かりすら掴むことが出来ていない。八尋と別れてからひと月半。五十五は自身が何もできず、ただ過ごしているだけのような情けなさを覚えていた。

 今年の稲作は問題なく進むだろう。それが、八尋が作ってくれた残りの猶予期間。五十五はそれまでに、何かきっかけを掴みたいと強く願っていた。

 「とはいえ、他に何があるかな…」

 八尋は目元を掻きながら、独り言を呟く。八尋の部屋にある書物は全て読み終わった。全部が全部を理解したわけではなく、これからも読み返すだろうが、今の時点では書物に記されてあるものから五十五が神力を得る道程が見えなかった。

 「雪村さんや、村のみんなの祈りで八尋が祭神になった…。じゃあ僕は一体どうしたら…」

 あっ。と、大切なことに気づいた。五十五が祭神になれることを一番祈ってくれているのは、八尋自身だと。八尋が言ってくれていた「五十五と一緒に、神様になれる日を信じている」というのは、ただ励ましの意味ではない。

 書物を読んでいくうちに、今まで気にもしなかったことに気づくことができている。八尋もついてくれている、これほど頼もしい後ろ盾は他には無いはずだ。

 立ち止まってはいられないと、八尋は手で頭をコツコツと叩く。

 「うーん…。他に、何か…。僕にとって新しい…」

 落ち着きのない子どものように、思いついたことを口にしていた。

 次第に日が昇る。暖かな日差しとともに、春の山の匂いが八尋の鼻をかすめていく。立てていた耳が垂れるように丸くなった。春の始まり、ひと月後には本格的な田植えが始まる時期だ。

 「田植え、稲作、……そうだ!」

 足裏の土を払うことも忘れて、八尋は自室へとあがる。畳には、ぽつぽつと狐の足跡が綺麗に残っていた。


 「八尋さまの本殿に、神田(しんでん)を、ですか…?」

 朝食を終え、八尋は相談があると、雪村の部屋へと訪ねた。不意打ちのように押しかけられた雪村は、やや驚いた様子で対応をする。雪村の部屋も、冬物が片付けられており、これまでよりもいっそう部屋がすっきりしているように感じた。

 「そうだ。思えば、豊穣の社であるというのに、社に田が無いというのも味気なかろう。それに、観蛇山からの水も、社の側を流れておる。ここでも稲作が出来るのではないかと思ってな」

 もっともだ、と雪村は顎に指を添えて考えていた。

 「確かに。八尋神社にも神田があると、村の者も喜ぶと思いますし、参拝者にも八尋神社がどういった社なのかも分かりやすいかもしれませんね」

 雪村からの感触も良さそうだ。八尋は子供のように口角をにっと上げた。

 「決まりだな。農具は倉にあるだろうからそれを使うとして…。雪村は、村の者から苗を分けて貰えぬか言伝を頼まれてくれぬか?今から急いで田起こしをせねばならん」

 何か自分に出来ることはないか。そう考えた八尋は、本殿の中庭に田んぼ…いわゆる神田を作ろうと考えた。稲作をする村人の気持ちや、この地の土や水などの気質を、稲を通じて感じ取ろうと思いついた。八尋の書物の中には、稲作について記されているものも沢山あった。後は、実践あるのみだ。

 新たな試みに挑戦的な表情を見せる八尋に、雪村はふと訊ねる。

 「それにしても、突然の試みですね。いつからお考えになられておったのですか?」

 うっ、と八尋が詰まる。つい今朝方、はっと思いついたとは言えるはずもない。

 「祈年祭の前、永助と田踏みに行った時に、村の田畑を見て思いついたのだ。とはいえ、ほら、神田を作るとて、時期というのもあるだろう」

 「左様でございますね。雪解け、新たな年の始まりに行う方が、霊狐たちの気持ちも引き締まることでしょう」

 八尋のそれらしい言葉に納得する様子で、雪村は頷いた。

 「では、お昼から馬屋へ文を出しに行くのと同じく、いくつか村の者へ聞いてまいります」

 「すまないが、よろしく頼む」

 「田起こしはいかがなさいましょうか。本殿ということもありますし、霊狐たちはさほど入れぬとは思いますが…」

 「いや、よい。俺一人で田起こしをするつもりだ。水も引かねばならぬだろうし、十数日はかかるだろう。その間、霊狐たちの身を借りるのも、彼らに迷惑をかけてしまうだろう」

 「お一人で、ですか…。分かりました。ですが、あまり無理はなさらないでくださいね」

 何かの決意の表れだろうと雪村は察して、八尋を止めなかった。

 「雪村も忙しい中、言いつけを頼んですまんな。俺は早速、本殿に戻って見取り図を描くことにする」

 八尋は立ち上がり、簡単に服装を正してから、「ではな」と言い残して雪村の部屋から去る。それを、雪村は深く礼をして見送った。

 「一人で神田を作るだなんて。ふふ、応援させていただきますよ、八尋さま」

 八尋が頑張ろうとしている姿を見て、雪村は微笑み、呟いた。


 「これがこうで…こんな感じ、かな?」

 八尋は本殿の中庭のやや奥の辺りに田を作ることにした。本殿裏には小さなせせらぎがあり、土間の洗濯場の方へと続いている。その水路は境内の方まで繋がっており、さらに参道の側を伝うように流れている。その上流の水を利用して、田に水を引こうと考えた。

 神田とはいえ、大収穫を目的とした田ではなく、自らの手で米を作ることに意味を込めた田であるため、家庭菜園程度の広さの田となる。八尋や呼ばれた霊狐が稽古ができる余裕のある、広く立派な中庭とはいえ、あまり大きく作りすぎると、八尋が戻った時に迷惑になってしまう。当初は中庭の風景を崩すのはどうだろうと考え、土間の洗濯場の方に作ろうとも考えたが、元が洗濯場の神田など八尋が見たらどれほど怒ることか、と簡単に想像できてしまい、やはり中庭で作れそうな場所を探そうと、今に至ったわけだ。

 「ひとまず、杭を打って目印にしておこうかな」

 八尋は田の形をわかりやすくするため、四隅に杭を打って紐で囲いを作る。八尋の手足は、既に土汚れが目立っていた。水路を引くために、整備されていないせせらぎの方へと足を運んだことがわかる。田を作ることは難しくなさそうに見えたが、水路を引くのに苦労しそうな様子が見えた。見取り図には、何度も書き直したようなバツ印が筆で描かれてあった。

 囲いを作り終わる頃、ちょうど良く霊狐から夕食の呼び掛けがあった。普段の仕事の合間に田んぼ作りをしているため、少しずつしか進められない。今日は霊狐たちが寝静まった頃を見計らって、水路作りに手をつけようと考える。

 八尋は夜に使おうと、農具を本殿の倉から取り出してから、夕食へと向かっていった。


 夕食を終え、永明と雪村の二人と話を終えた八尋は、自室に戻ろうと廊下を歩いていた。湯殿の方から、十歳程度の子と、それより幼い霊狐たちが風呂からあがった様子で各自の部屋へと戻る姿が見える。

 その中から、一人の霊狐が八尋を見つけて、早足で駆け寄ってくる。

 「八尋さま、お戻りになられたのですね!先に失礼させていただきました!」

 一番風呂を終えた永助が、はだけた小袖姿で八尋へ挨拶する。

 「ああ、今日は話が長くなってしもうてな。私らは後で済まそうと」

 「八尋さま、今日は山の方へと行かれたのですか?落ち葉や湿った土の匂いが」

 「鋭いな、その通りだ。本殿に神田を設けようと思っておる。その水を引こうと、山の方へ下見を、と」

 へえぇ、と永助が声を漏らした。

 その後ろで、永助と同じ組らしき子どもの霊狐が、永助の様子を伺っているのに八尋は気づいた。

 「永助、今日はもう休みなさい。おまえが行かぬと、後ろの者が待ちくたびれているぞ」

 あっ、と気づいたように永助がその子と目を合わせた。ごめん、と身振りを見せて、八尋と向き直す。

 「では八尋さま、おやすみなさい!」

 「ああ、おやすみなさい」

 ペコリと永助は礼をして、来た時と同じく早足で待っていた子の元へと駆け寄った。

 「そうだ。永明には、火を残しておくように言うておかねばな…」

 八尋は湯殿から見える湯けむりを見上げて、ひとつ息をついた。

 この後、山に入って汚れてしまうと汚れを落とすのが面倒だ。最後まで湯を残してもらおうと、八尋は永明の元へと足を進める。今日は長い夜になりそうだ。


 神田を設けようと思いたってから、さらにひと月が経った。ついに、八尋自らが築いた神田が完成した。

 本殿の塀を潜るように細い水路を引いて、さらに倉の下を潜って洗濯場のせせらぎへと水路を合流させたため、この頃の八尋はモグラのように土まみれになっていた。ここしばらく、寝る間を惜しんで作業していたため、八尋の表情にも疲れが見え隠れしていた。その分、神田が完成した時の八尋は、それこそ子どものように一人で喜んでいた。

 それと、本殿に神田を作っている間に、境内にも神田が作られることとなった。言い出したのは永助らしく、八尋が本殿に神田を作る話を聞いてから、永助が永明に対して話を持ちかけたらしい。神田を作るという話は、永助のいる幼子の組から次第に膨らみ、やってみたいという子どもの声が大きくなっていたらしい。それに負けた永明が雪村へ…そして最終的に八尋の元へと伝わり、境内にも神田を作ることとなった。境内の神田は、社の霊狐たち全員で稲作をすることとなり、主に言い出しっぺの幼子の組が稲作を働くことになった。普段の修行の他にも、体力仕事の稲作は大変だと雪村を含めて心配する者が多かったが、子どもたちは田んぼ作りにも何一つ苦をあげなかった。子どもの体力とは恐ろしいものだ。

 そして今日、村の者たちから直々に、新しい苗が供えられた。八尋神社に、新たな歴史が刻まれていく。

 「田植えの日までに、間に合って良かった」

 午前中の仕事を終えた八尋は、昼食後、雪村の部屋で羽を伸ばしていた。今日はお互いの手が空き、久しく談笑をしていた。

 「それにしても、よく間に合わせましたね。境内に設けた神田ですら、数人が入れ替わりながら、この前完成しましたのに。あまり無理はなさらずとも」

 最近まで、疲労で表情も変える余裕が無いほどの八尋を見た雪村は、八尋の身体を心配するように言葉をかけた。

 「思いのほか、田作りというのを見くびっておった。体力仕事は得意だったつもりだが、普段の仕事に加えて田作りは…。もっと早い時期から雪村に提案すべきだったな」

 「永明も心配した様子でしたよ。湯殿の火を最後まで残す言いつけが多くなったと、八尋さまが遅い時間まで働き通しなのではないかと」

 永明に申し訳ない気持ちを浮かべて、八尋は目元を掻いた。

 「永明にも、礼をいっておかねばならんな。俺に合わせて、いつもより遅い時間まで起きてもらって」

 「ついこの前まで、ようやく雪解けとはいえ冷たい風がまだ吹いていましたからね。湯殿に浸かるのは良い判断だったと思います。田作りには直接手伝えなくとも、違った形で力添えができて良かったと、永明も話しておりましたよ」

 「やはり、なんでも一人で出来ることなどそうそう無いってことか」

 雪村が、ふふ、と笑い、外の山々を眺めた。

 「今日は一段と暖かいですね。ですが、この水気のある風、すぐに梅雨も来そうな気配もありますね」

 同じことを悟った八尋は、雪村の言葉に耳を丸める。

 「珍しいことを言うな。雪村が節目の気質を感じるとは」

 「社の霊狐たちには負けますが、私も長年生きておりますので」

 野狐の八尋と出会った頃の雪村はまだ十八、十九、くらいの青年だった。八尋が霊狐となり、現在まで、はや二十年近く経っている。雪村も四十が近い。八尋は野狐の頃から霊力を纏っていたため、霊狐となる前から、小狐の姿のまま十年過ごしていた。

 そのため、実際には、雪村と数年ほどしか歳の違いは無い。だが、八尋が今に至っても少年の姿のまま成長が止まっているのは、八尋の精神的な成長が大きく関係している。

 詳しくは語らないが、神霊、妖の姿は、本人の心の成長によって大きく外見が左右される。何かきっかけがあって大きく成長するわけでもなく、本人も知らず知らず外見が変わっていると話す者も多い。尤も、外見は各々好きな年齢外見を現すことができるのだが、八尋の場合はまだ本人がこの年齢から成長できていないと自覚している要因が大きくある。

 湿り気がどこか感じられる、間も無く訪れる梅雨の気配に八尋も観蛇山から見下ろせる麓の村の景色に目を移した。

 二人で昼下がりにたそがれている中、雪村が話す。

 「この冬はとても長く感じておりましたが、気づけば緑が多くなりましたね。…町屋の五十五どのは、お元気でしょうか」

 五十五の名前に、八尋は耳をピクリとさせる。

 「町屋での話がここにきてぴたりと止んでいるところから、五十五も今は大きなことを起こしてはおらぬだろう。俺は今この瞬間も五十五の気配を感じておる。いきなり無茶なことをする子じゃない。とはいえ、やはり心配だな」

 「八尋さまも、五十五どのを見習って、もっと計画的になさらないといけませんね」

 雪村がいつもの調子で八尋を茶化した。八尋はその言葉を返すことができず、誤魔化し笑いをする。

 「いつぞや霊狐たちに八尋さまと私の出会いについてお話しさせていただいたことがありましたね。八尋さまと五十五どのとの出会いというのは、どのようなものだったのでしょうか?」

 八尋と五十五の出会いについては雪村も知らなかった。山で生きていた頃から狐と狸が一緒にいたというのは、それはそれで珍しい話だ。

 「そういえば、話したことは無かっただろうか。俺と五十五の最初の話か、そうだな…。今日は久しく暇にしていることだ、特別に長い話にしてやろう」

 雪村は八尋と向き直った。

 「でしたら、お茶をお持ちしましょう。このような機会、しばらくありませんでしたね」

 そうだな、と八尋が返す。雪村は湯を沸かしてこようと、一度自室から離れた。


 八尋の幼い頃は、二ツ山で狐の群れの中で暮らしていた。群れとはいえ、同じ山に住む狐が多いだけの話だ。それぞれの小集団が点々としている組織形態であった。

 仲の良い狐同士もいれば、喧嘩が絶えない狐同士もいた。そんな中でも八尋は狐の友達が多くいた。幼い頃から両親を亡くした八尋にとって、山の仲間を家族のように感じていた。

 八尋はいつも不思議に思う。どうして、みんな仲良く出来ないのだろうと。

 二ツ山では、狐と同じく、山犬も暮らしていた。狐と違い、山犬は組織的な集団で、大きな群れを作って生活している。山犬たちは包摂的な者が多く、種族の違う狐に対して争わず、時には協力しあうこともあった。そんな二ツ山で、狐と山犬は暮らしていた。

 ある時、山犬の群れの中で、派閥が生まれてしまう。山犬の組織は大きくなりすぎ、次第に獲物が少なくなる。そこで、新しく生活できる山を探さなければならなくなった。

 ひとつは開拓派。二ツ山を超えた先にある、今では観蛇山と呼ばれる山を開拓する派閥。この当時から、観蛇山のふもとには人里が出来ていた。もし観蛇山を根城にできれば、ヒトや畑も襲うこともでき、食料に困らないといった企てだった。

 もう一つは保守派。ヒトや里には干渉せず、二ツ山とは別に、さらに離れた山を見つけようとした考えだった。理想的な考えではあるが、確実な保証があるとはいえない。

 犬同士の争いが増え、二つの派閥はどちらにも属していない狐を取り込む動きを見せる。この地の自然に干渉できる霊力を持つ狐は、開拓派からは戦力として、保守派からは山を豊かにすることができる可能性として求められる。

 組織化されていない狐は、この時、初めてどちらに付くかを迫られた。ある者はあちら側、ある者はこちら側と、狐も派閥に分けられてしまう。八尋はその中で、数日前まで親しかった者と会えなくなり、それどころか、仲の良かった友達同士が争う姿に耐えられなかった。

 八尋は狐も山犬も嫌になり、二ツ山から抜け出そうとした。同じことを感じていた狐も少なくない。保守派の山犬たちは、そんな狐たちに手を貸して、二ツ山から逃がそうとする。当然、狐の戦力を欲しがる開拓派は黙っていなかった。その頃から、開拓派による狐狩りが横行しはじめる。

 そして八尋も時期を見計らって、ある夜、逃し屋の山犬と叔父の狐と共に逃げだした。しかし、不運にも狐狩りの山犬に見つかり、逃し屋の山犬と叔父の狐は足止めする間に八尋だけを走らせた。

 八尋は二ツ山のふもとまで逃げ、身を隠そうと小さな洞穴に駆け込む。そこで初めて、狸の五十五と出会った。


 同じく一人身となっていた五十五は、こことは遠く離れた地から来たと話す。

 五十五は狸の群れの中で生きていたが、生まれつき持っている妖力がとてつもなく強かった。五十五と同い年の幼い狸たちも不気味がり、親からも近づかないように言いつけられた子どもも多く、五十五はいつもひとりぼっちだった。

 群れの狸は将来、五十五が自分たちに危害を加える恐れがあると不安になっていた。そしてある日、五十五の母親は、五十五がまだ幼いうち知らぬ地へと追い出しなさいと群れの長から命令される。

 五十五の母は泣きながらも、五十五を海の向こうにある地へと送り出す。この地では生きていけなくとも、我が子が生きていける地がきっとあると信じていた。

 しかし、五十五を危険視した一部の狸は、五十五が一人になったところを討とうとする。刺客に気づいた五十五の母は、命をかけて五十五を守り、海の向こうの島へと渡らせる。一人となった五十五は、この地をさまよいながら、二ツ山へとたどり着いた。

 これからどうしようと、途方に暮れて洞穴に篭っていた時、初めて八尋と出会った。

 お互い、精神的に限界だった。そんな時、ふたりは初めて分かり合える者と出会う。ふたりはお互いを慰めるように、日が昇るまで泣きじゃくっていた。

 五十五の妖力は恐ろしく強大なはずだ。だが、八尋は五十五を一切怖がる様子を見せなかった。五十五を受け入れてくれた八尋だけが、五十五の妖力は八尋を傷つけることがなかった。

 霊力と妖力は、この時から不思議な性質を生み始めていた。

 八尋と五十五は、二人で観蛇山へ引っ越してこっそりと暮らし始める。山を超えるだけで、全く隔たりの無い、平和な日々に八尋と五十五の心は明るくなった。

 だが、そのひと月後、事件が起きる。二ツ山での派閥争いに決着がつき、勝者が観蛇山へと侵略しにくる。

 そう、勝者は開拓派だった。

 戦う意志を持った者を残し、それ以外の山犬や狐を別の山へと逃していた保守派は、開拓派との戦力差が大きくなりすぎてしまった。

 ようやく見つけたはずの安寧も、その日のうちから変わってしまった。かつての知り合いだった者たちに見つかり、八尋と五十五は追われる身となる。時には、八尋は傷つきながらも、かつての者たちと戦った。時には五十五の妖術で身を隠し、八尋の傷を癒した。

 その生活も長くは持たなかった。疲弊した八尋と五十五は、ふたりで強く願った。もう二度と、あの者たちがこの山に来られないようにしてほしいと、ふたりでまた暮らせる山にしてほしいと。

 ふたりの想いと、相反する霊力と妖力が混じり、この世のものとは考えられない大蛇が生み出された。大蛇は次々と山犬を丸のみにし、それを恐れた狐は山から逃げ出す。

 山犬を全て飲み込んだ大蛇は霧のように消え、その身に蓄えたものを霊力として観蛇山へ降ろす。その力を受け取った山の木々や獣は、多くの実や繁栄をもたらすこととなった。

 その力は、観蛇山の村の作物にも現れる。不作の兆しがあった作物も色どりが良くなり、不穏な様子を見せていた山が一変した。

 村人からは「蛇が降りて山を浄化したのを見た」と噂する者が現れ、その話は村中に伝わる。

 その話から、観蛇山と名付けられるようになった。

 平和の訪れた観蛇山で、八尋と五十五は暮らし始める。繁栄を得た村は、次第にヒトが増えていった。名も分からぬ蛇の神を祀るための社が観蛇山に作られ、八尋と五十五はヒトと混じる山で一緒に暮らすことになった。


 「俺と五十五の、山での出会いはこのようなものだったな。お互い、失ったものはあった。だが今では驚きを隠せぬほど、多くのものに囲まれておる」

 八尋は空いた湯呑みの口の周りを、指でなぞるように手悪さをする。

 今までの自身を振り返るように黄昏ている八尋。その一方で、雪村は目を丸くして八尋をじっと見つめていた。

 雪村の視線に気づいた八尋は、手悪さを止めて雪村と目を合わせる。

 「どうした。何か、気になることでもあったか」

 「ああ、いえ。私も初めてお聞きしましたが。その、観蛇山の由来をお作りになられたのも、八尋さまと五十五どのだったとは…」

 ふたりが霊狐、妖狸となる以前から、この地に名を残すことを成し遂げていることに雪村は驚きを隠せなかった。

 雪村も神職となるため、離れた地から観蛇山にある社へと着いたのだ。観蛇山の伝説をふたりが生みださなければ、雪村もこの地へ来ることはなかっただろう。

 「当時の俺たちは、必死だったからな。観蛇山と名をつけてくれたヒトたちに感謝をせねばならん。ヒトの言葉が無ければ、俺と雪村の出会いや、ここの霊狐たちとも出会うことがなかったに違いない」

 久しく長話をしている間に、間も無く夕方が近づいてきた。午後からの稽古を終えた霊狐たちが、各自、決められた仕事に取り掛かり始める。湯殿に火をつけようと腕まくりをした霊狐や、離れで精肉した鳥を、急いで厨房に運び込む霊狐は、忙しさゆえに境内で特に目立っていた。

 「もう、このような時間か。今日は風が早いな」

 「そうですね。私も、八尋さまと一日お話が出来て時を忘れてしまいました」

 雪村は、二人分の茶器を、失礼しますと一言おいて簡単にまとめた。

 「厨房の手伝いか?」

 「はい。今日は良い鳥を頂いたとお聞きしておりました。私も、力添えをしようと思いまして」

 「いつもすまんな」

 とんでもございません、と雪村が返す。八尋に一礼をして、厨房へと向かおうと戸に手をかけたところで、思い出したように雪村は振り返る。

 「八尋さま、小鉢のお豆腐は、いかがなさいましょうか」

 そうだな、と八尋は間を置いて答える。

 「やっこで、頼んだ」


 五十五が宿場で四辻と出会い、共にしてから数ヶ月が経つ。暑い日差しや、纏わりつく風の漂う夏の日。山では虫の音が今日もうるさく鳴き響く。

 四辻の提案から、五十五は一度町屋へ行くことを避け、剣を磨くために山籠りの修行生活を送ることとなった。

 町屋が小さく見下ろせるほどの離れた場所にある人気のない山に、四辻が町屋へ来る前に住んでいたやや大きめの古家がある。

 四辻と生活を始めた五十五は、毎日のように剣を教えられた。その厳しさゆえに、「弟子を失ったことが何度かある、師には向かない性格だ」と四辻はぼやいていたが、五十五がその者に該当することは無かった。社で培ってきた日々から、八尋の心は鍛えられていた。

 剣を教えられた最初の方こそ、基礎訓練の厳しさのあまりに気を失うように倒れることが何度もあった。一日中、刀を振り続ける日、木刀一つで山の妖を相手にさせられる日、飛脚も泣くような日にちで街道を駆けさせられる日もあった。

 五十五の体力がついた頃、今度は本格的な手合いが始まった。獣や妖とは違う、人と人の勝負による実戦を積んでいった。

 この頃、四辻は五十五をひどく気に入っていた。体力、技力ともに、五十五は日に日に成長している。弱音を吐いたことは一度も無い。五十五は四辻を信頼して修行している姿勢を見せてくれていた。

 五十五の成長は、四辻にも驚かされるものがあった。剣の腕も、元々素質があったのだろうか。四辻の剣を捌ききるのが限界だった五十五も、今では有効打を差し込めるほどの実力をつけている。

 もしかすると五十五は本当に。そう考えた四辻は、五十五をさらに上の段階に登らせようとする。

 真剣勝負だ。刀を使った、本当の戦いを五十五にさせようと、時折山へ現れる厄介者との真剣勝負をさせた。勝つ為ならば、どんな手段をも用いる賊との真剣勝負は危険も多い。そのような相手にしても、五十五は一度も負けることは無かった。

 「ま、参った!降参だ!」

 中年の妖狸の賊が、みっともなく腰を抜かし、五十五に手のひらを向けて静止させようとしていた。

 子供の五十五を見て油断したのだろう。力の差を見せつけようとした賊であったが、どれほど打ち合いをしようが、全力を込めた迫合いをしようが、五十五は微動だにせず打ち返していた。こんな小さな身体に、これほどの力を、いったいどこから生み出しているのか。

 およそ数刻前まで、賊はどんな相手も自身に媚びてくれる待遇を受けていた。そんな自分が、まさかこんな子供に負けるはずがない。

 真剣勝負の最中、賊の余計な思いが過った隙を、五十五は見逃さなかった。

 迫合いを押し返され、賊はひとつ後ずさった。賊は負けじと叫び、五十五に対して前のめりに構える。だが、無理に体勢を変えた、踏み込みの甘い突きに対して、五十五は相手の剣を根本から弾き返した。

 刀同士の擦れる音の直後、勝敗を決する火花と共に、敗者の真剣は回転しつつ地に刺さる。

 相手の降参する姿に、五十五は刀を拭い、鞘に収めた。

 臨戦態勢を解き、一つ息を吐いた五十五に対し、まだ目線を下ろしている五十五の背後から、降参したはずの賊が小太刀で襲いかかる。

 馬鹿が。

 目の前で降参している姿が、まさか化かされているとは気づかぬだろうと確信したのか、賊は口角をあげていた。

 小太刀を大きく振り上げた賊に対して、五十五は突如振り返って、その腕を受け止めた。奇襲に失敗し、賊が驚く反応を見せた頃には、五十五は流れるように胸ぐら掴んで地面に叩き落とした。

 「三つやる。太刀を捨てろ」

 鯉口を立てて、ひとつ、ふたつ。

 「分かった降参だ!やめろ!」

 やや早く数えて警告する五十五を見て、賊は小太刀を藪の方へと投げ捨てた。

 「おぬしの太刀筋には、勝てるだろうといった慢心に満ちたものがあった。だが、殺陣をするやいなや、相手の力量を察して、おぬしは冷静に次の手を考えたところまでは良かった」

 相手の戦う術がもう無いことが分かった五十五は、刀を鞘に戻して、一歩下がる。

 「相手を瞬時に化かすことは難しい。そこでおぬしは戦いの最中、妖気溜まりをいくつか作った。落とし穴に掛けるよう、俺を誘導したのは良い判断だ。……だが、俺に妖気を纏わせたところで、返されることはないと、おぬしはまたもや慢心した。二度の失態、それがおぬしの敗因よ」

 賊の男は奥歯を噛み締めつつ、上体を起こした。

 勝負が終わるまで見届けていた四辻が近づいて、二人に話す。

 「これで終いだな」

 その言葉に、賊の妖狸は諦めたように、俯く。くそ、くそ、と呟いていた。

 「あんさん、悪いが…」

 「ああ、やれよ!」

 「太刀筋は分かっただろう、安心せえ」

 四辻は五十五と目を合わせて、顎で何かを指示するような仕草を見せる。

 五十五は、俯き悔しい思いを語る賊に目を移した。右手の親指を、鍔にかける。だが、そこから五十五は動くことが出来なかった。

 五十五に見兼ねた四辻が、大きなため息をついた。

 「五十五……」

 「分かっておる、分かっておるが…。俺は、自ら人を殺めることに、この刀を掲げとうない」

 「地主殿は、こやつの首を御所望だぞ」

 「今までの奴らのような、眠りにつかせた者とは訳が違う。首を取れば、この者は二度とこの世へおれぬのだぞ」

 「そうだ、二度とこいつを世に這わせたくないと願う連中が、わんさかおるということだ」

 五十五は理解したくないと首を振った。

 「おぬしは…やはり子供だ」

 四辻は賊の妖狸の隣に立ち、抜刀する。

 「おぬしはそのような者たちの賛同をするのか?こやつはもう負けた、その上、なぜ首まで取らねばならん」

 二人が言い争う中、賊の妖狸は俯いたまま、成り行きを任せていた。

 「勝負に負ければどうなるか、それは、こいつが一番分かっていたことであろう」

 「四辻ッ!」

 五十五が静止させる頃には、四辻の刀は空を斬っていた。血の気の悪い、汚れた黒の飛沫が地を隠す枯葉に降り注いだ。

 「グッ…ゥ…!」

 賊の片耳が、根元から斬り落とされた。斬られた箇所から、痛々しく流血する。

 「これで、こいつも元のような面で歩けんだろう。耳無しじゃ、着く者などおりはせん」

 首を落とされることを免れた賊は、斬られた耳を押さえることもしないまま、四辻の言葉を聞いていた。

 「刀は置いていけ。失せな」

 許しを得た賊の妖狸は、静かに立ち上がった。脱ぎ捨てた羽織を耳に当て、黙ったまま、その場を後にした。

 姿が見えなくなるまで、黙ったまま二人は見送る。頃合いを見て、四辻は小屋のある方へと踵を返した。

 「拾っておけよ」

 五十五の言葉を待たず、四辻は先に帰路についた。

 一人となった五十五は、枯葉の上に落ちていた賊の片耳を拾い上げる。不思議と、手にした耳からは、嫌な妖気は感じられなかった。

 手にした片耳を布で包み、厳重に紐で結ぶ。それを懐に入れることなく、賊が残して行った長刀と小太刀を抱えて、五十五も四辻の向かう小屋へと足を進めた。


 「そこに掛けとけ。ゆうげにしよう」

 小屋に戻ると辺りも暗くなっていた。四辻はいつもと変わらない様子で、夕食の準備をしていた。

 五十五は小屋の入り口に、先程戦った賊の刀を置いてから中に入る。刀を掛けた所には、今まで五十五が真剣勝負をして、打ち負かした者たちの刀がいくつも置かれていた。これを町屋の橋の上でやれば、曰く付きの伝承になることだろう。

 火を焚いた四辻が振り返り、物を寄越すよう手のひらを見せる。

 五十五は手にしていた片耳の入った布袋を渡した。受け取った四辻は物を扱うように、木箱の中へと収める。

 バツが悪そうに五十五が囲炉裏の前に座った。程なくして、粥を手にした四辻が鍋を囲炉裏にかける。

 「…斬らねばならぬ男、というのは分かっておった」

 「だろうな」と四辻が返し、続ける。

 「聞いただけでも、村を二つ襲っておる。幾度となく人を斬っておる。酒に女、面白がって子供まで夜にしたともな。まあ、ろくな男ではなかろう」

 四辻は、自分の椀に粥をついで、啜るように食べ始める。五十五はまだ手をつけることができていない。

 「分かっておる。お前の刀は、あやつのような男を斬るものではないと。下衆を斬るのは、儂の仕事だ。試すような真似をして悪かったな」

 「おぬしの刀こそ、人を斬るものではない!俺はおぬしの剣を知っておる。だからこそ、俺は…」

 四辻は、囲炉裏に敷いてあった小石を一つ摘み、五十五の頭に投げ当てた。

 火にかけられて触れぬほど熱い石を放られて驚いた五十五は、慌てた様子で四辻と目を合わせた。

 「お前に心配されるほど、儂は落ちておらん。ほら、うだうだ言ってないで食え。明日には、町屋へ行くんだろう」

 額を押さえたまま聞いていた五十五は、同じく飯を食おうと椀を手にした。

 そう、明日から、五十五は本格的に町屋に身を置くこととなっていた。半年近くの修行のかいもあり、町屋で刀を抜かせても問題ないほどの成長を遂げていた。

 「短い間だったが、本当に世話になった」

 「礼を交わすほどの間でもなかろう。儂も、お前をいいように扱っておったからな。やれ、明日からは小味を渋らんといかんな。買いに行くにも、港は遠い」

 「塩を買うために、国を跨ぐほど走らされるのも慣れたものよ。町で売れば金になるだろうに、味をしめよって」

 「違えねえ」

 今日初めて二人が笑った。

 「ここ半年で、町屋はさらに一回り大きくなっておる。それと同じくらい、あの賊のような輩も増えておる。用心しろよ」

 「ああ、気を抜かぬよう心がける。四辻のおかげで剣も身についた」

 「お前さんの成長には驚くような毎日であった。今のお前さんなら町屋でも通用するだろう、儂が保証してやる」

 「町屋についたら寝床も探さねばならんな。これまで、四辻の世話になりっぱなしだった」

 四辻は粥をかけこみ、椀と箸を置いた。

 「さて、食ったら今日はもう寝ろ。明日は早いのだろう」

 「ん、今日は晩酌をせんのか?」

 「別れ酒など、縁起が悪いだろう」

 「なに。今夜が最後というわけでも無かろうに」

 次に交わす酒が、楽しみだな。五十五はわざと聞こえるように呟いた。


 翌朝、まだ日が昇る前から、五十五は荷物をまとめて町屋へと向かった。

 四辻が最後にかけた言葉は、「達者でな」の一言だった。その言葉に五十五は深々と一礼をして返した。

 五十五との生活を終えた四辻は、一日の流れを早く感じていた。何かをするわけではない。まるで、五十五と出会う前の自分に戻ってしまったような、そんな感覚を覚えた。

 気づけば、山の日はとうに落ちて夜の虫の音だけが鳴り響く。

 晩酌をしようと、四辻は燗を作る。猪口を取る手が、自然と二つ出た。

 首を振って、猪口を一つ取る。燗を拾って囲炉裏に座り、猪口に注ぐ。

 ふと、虫の音が止んだ。

 静まり返る山に、四辻は耳を立てることなく、猪口を一口で呑む。

 舌に広がる酒と、抜けていく香りを味わい、大きく息を吐いた。

 「ここも、お前の家だぞ。…無事に帰ってきておくれよ、五十五」

 四辻の言葉を待っていたように、山の虫たちがまた一斉に鳴き出した。



 八尋と五十五が入れ替わってから、初めてとなる秋。八尋神社では、収穫祭の意も込めた例大祭が行われた。村の大人も子供も、一緒になってはしゃぎ、酒の席は笛や太鼓が鳴り響き、境内に設置された舞台では霊狐とヒトの交わった神楽も大盛況だった。八尋の席には、村中から収穫された作物が数え切れないほど供えられていた。今年も、社の蔵が全て一杯になった大収穫の年だった。

 それに加えて今年は、村から納められた作物の他に霊狐たちが境内の神田で作った神米もあった。社の霊狐たち自らが手にかけた米は、長年稲作をしていた村人からも驚きの出来栄えだった。実は一つ一つが大きく、虫や病気にもかかることのない、美しい神米と絶賛されていた。

 八尋神社でも米を作るという試みは成功だった。百姓ばかりの村で、その地に祀る豊穣神自らも稲作をする話は良い話となって広がった。そして、完成した米も村人たちも生涯で見たことも無い逸品となれば、村人たちの信仰心はより一層高まる。

 八尋は堅苦しい主神の席を一度離れて、雪村のいる酒の席へと移った。神楽の演目も、後半に入る頃だ。五十五は酒が呑める方なのだが、ここでは呑めないていで振舞わなければならない。とはいえ、折角だからと八尋は一杯だけ酒を席に置いてもらっていた。

 振舞われた神楽を肴に、いつも以上に豪華な食事を取りながら、隣で村長と雑談をしている雪村の話を聞いていた。

 「今年も、例年通りの収穫祭が出来てよかったよかった。毎年、こけえの蔵に入りきらんほどの収穫にしょうって、村のもんも言うとるけえなあ」

 「皆さんには、いつも驚かされますよ。今年入ったばかりの子も、蔵にここまでの作物を収めるのは見たことないと、顔に書いてましたから」

 酒の場で気分が良さげに二人は話していた。今年の収穫の様子を見て、八尋もひとまず安心する。

 「ほんまならなあ、今年は蔵に入りきれんほどの供え物になるはずじゃったんじゃが…。町屋へ送る物が昨年よりさらに増えてな…全く、国は何もしてくれんくせに、物だけとってきょうるわ」

 「年貢が、増えたと…?」

 村長の愚痴に、町屋の不穏な話を聞く。村長は頷いて続ける。

 「ここいらで大収穫じゃったのは、この村と、隣村だけじゃったそうな。他の地はどうも雨が降らんかったって言うてな。なのに国に送る作も増えて…ワシらも、次の作を気張らねばなあ」

 八尋の耳がピクリと動いた。この領地で雨が降らない、不作となるのは珍しい話だ。とはいえ、数年に一度、飢饉となる程では無いが不作になることもある。現代と違って、安定した生産を行えるほどの技術力は無い。普段なら、特段気にする話では無いはずだが…。

 「そうだな。なら、なおさら私たちも精を出さねばならんな」

 二人の話に、八尋が割って入った。雪村は「そうですね」と、その後の言葉にも神主らしい言葉を並べていた。しかし雪村も、八尋と同じく、何か不安の混じった気配を覚えていた。

 この時期で不作になった話は、いささか不穏な予感がする。

 その心当たりは、八尋本人が一番分かっていた。


 神楽も終わった頃には、すっかり深夜になっていた。先程まで大盛り上がりを見せていた神楽の終幕とは変わって、例大祭を終えた社は、いつもと変わらない秋の夜風が吹いていた。

 村人や霊狐が笑顔で終えた例大祭。子供の霊狐たちは、遊び疲れたような雰囲気で各自部屋に戻っていった。明日は設営の片付けがあると班を纏める霊狐の声に、眠たげに伸びた返事をする子が叱られているのを見て、廊下から笑う声も聞こえる。

 そんな例大祭の後だというのに、八尋は思いつめた様子で本殿へと戻り、土間に置いてあった米の入った籠を見つめていた。

 あぐらをかき大きく息をついた。籠から米を掬い、自身の前にパラパラと広げる。収穫された米は、病気で変色したものや、大きさがまばらなものばかりだった。

 稲作をしていない者でも失敗作だと分かる。これが、本殿にある八尋の神田で作った米だった。五十五の作った米から、妖狸が手がけた稲作の現実が明らかになる。境内の神田の米は、殆どが子供の霊狐たちが作ったものだ。その子供たちが作った米が、村人、八尋自身も絶賛していた場面を思い出してしまう。比較対象を見てしまった分、五十五の衝撃は大きい。責任を持って、一度炊いて食べたこともある。とても、人に出せるものではなかった。

 いや、豊穣神の八尋の作った米が、こんなものであって良いわけがなかった。

 「覚悟はしてたけど…やっぱり、僕は僕なんだな…」

 五十五も、神田の稲作には力を入れていた。田起こしの前に、見よう見まねで田踏みをして、祈りも捧げた。八尋が残してくれた農書の通りに、一つ一つ丁寧に育てていた。その後も毎日、稲の手入れと祈りを忘れることは無かった。山の水も、上流の一番綺麗なものを引いている、社の霊気のお陰で虫一つ付いていない。そんな、誰よりも条件の整った田で、五十五は見るも無残な失敗に終わった。

 八尋は、広げた米粒を一つ二つ摘んで、口の中へ放りこんだ。クシャ、と潰れる感触に、苦虫を噛んだような表情を浮かべた。

 こんな米では、鳥すらも食べる気がしないだろうな。

 秋の虫の音が聞こえる中、また大きなため息をついた。

 八尋に考えられる原因は、一つしかない。

 「僕の、妖気のせい…だよね」

 水や土は、この地の縁のものを使っている。一時期は、霊気の強い観蛇山、さらには八尋神社の中では、五十五の妖気でこの地が穢れてしまう心配があったが、八尋と五十五が入れ替わった日を境に、五十五の妖気は山の霊気と溶け込むようになった。

 問題なのは稲の方だった。妖狸の五十五の手によって育てられた稲、すなわち、妖狸より生まれた稲というのはこの地の水や土が受け入れてくれなかったのだ。

 ヒトや霊狐を騙せる五十五の化け術も、自然を司る霊気は欺くことが出来なかった。

 「大丈夫、最初から上手くいくはずないよ。僕も、もっと霊術について勉強しなきゃ。諦めずに頑張るのは慣れてる、時間をかければ…かければ……」

 可能な限り霊気を受け入れようとしていた。五十五には、八尋の霊力と自身の妖力が合わさり、新たな力を生み出したこともある。霊力と妖力は共鳴しあうんだと、その記憶が希望を持たせてくれていた。

 とはいえ、これからの不安は大きい。八尋が一番問題視しているのは、まさに時間である。

―――今年は、珍しく雨が降らない地がいくつもあった。豊作だったのは、ここ周辺だけだった。

 そんな村長の言葉が、五十五の頭に過ぎる。

 八尋が居ながら、この村までも不作になってしまえば、どんな混乱が起きてしまうか予想がつかない。

 「くじけてる時間なんて無さそうだね。僕も、みんなと同じ神力を使えるようになれば…。みんなと同じようなお米を作ることができるはず。前まで、八尋と同じ霊力を使いたいって思ってたけど、妖力だって神力になるはずなんだ。だって、僕も一回だけ、八尋と一緒に神力を生み出したことがあるじゃないか」

 自分自身の無力さ、それはこの一年で幾度となく思い知らされた。これからどうすれば良いのだろうと、見えない道を彷徨う日々だった。

 「僕の稲は、これからの道しるべってことなのかな」

 己が神田の稲を実らせることが出来た時、八尋と同じ、豊穣神となれるのだろう。

 神田での稲作を通して、五十五は、自分の目指すべき道を見つけることができた。

 一緒に頑張ろうね。八尋はひとつ呟いて、そっと、床に撒いた米を両手で掬い、大事そうに籠へ戻す。



 町屋の朝市は、早い時間から人通りが多く、活気に満ち溢れていた。仕事場へ行く道すがらに、片手で食べ歩く者の姿が特に目立つ。流行りの変わり種は目まぐるしく、この前まで黒い稲荷を売っていた米屋は、春の桜が舞う頃に赤い稲荷になっていた。最近、町屋の外からくる交易品に胡麻や塩を売り始める者もちらほら見かけている。夏には赤い稲荷が、今度は茶色に変わるだろうなと、通りがかった五十五は思い浮かべた。

 「お、五十五の兄さん、赤稲荷はまだ食べてないのかい!早くしないと無くなっちまうよ!」

 僅か数秒、店に視線を移しただけで、五十五は姉御肌の売り子と視線が会う。妖狸の少年剣士という珍しさから、一度通っただけで名前を覚えられたようだ。

 朝はうどんにしようかなんて考えていたが、売り子の呼びかけで気分が変わってしまった。商売上手だな、と五十五は呟いた。

 五十五が店の方へと足を運ぶと、姉の売り子の方から五十五を迎えてくれる。よく来たな、と五十五の両肩を持って、後ろの列へと連れて行った。

 「はい、お兄さんご案内!順番が来るまでお待ちくださいな。いい子で待てたら、ひとつおまけしてやんからな!」

 「姉さん、茶化すなって。仕事に戻れ」

 姉の売り子が、五十五の頭をわしゃわしゃと撫でる。人前でいじられるのは恥ずかしく、五十五は言葉とともにたまらず手を払った。二人のやりとりに五十五の前に並ぶ客が笑っている。

 「そうケンケンするなって。あーあ、やっぱり男の子って五十五くらいになると、みんな格好つけたくなるんだねえ。可愛いのに勿体ない」

 「そんなんだから、おぬしの弟は寺屋へ逃げたのではないか。俺もその気持ちは分かってしまうな」

 「薄情なやつだよあいつは。うちがこおんなに忙しいっていうのに、あいつったらいい子に勉強しにいっちゃって。まあ、面倒な帳簿が任せられるから、ありがたいことなんだけどね!」

 五十五は姉が喋る合間に、通りに面した座席が空いているのを確認する。忙しい朝方なだけあり、席に座ってゆっくり過ごす者はいない。

 「家の為に手習いへ行くのは良いことではないか。おぬしこそ弟殿に、きちんと感謝の言葉を…」

 「あ!でもさでもさ、あいつこないだ風呂場でな…!」

 「ええい、もう戻れ!それ以上言うでない!」

 本人のいないところで、年頃の男の子の様子を暴露しようとする姉に、五十五まで恥ずかしくなってくる。五十五の一つ前に並んでいた客も、二人のやり取りを見て笑っていた。

 「こらこら、いい子にしないとおまけが無くなっちゃうぞ?そんな大声だして…。あっ、土堂の親方!おはようございます!先日はどうも…」

 五十五の後ろに並ぶ人の中に顔見知りを見つけて、姉はそちらの方へ飛んで行った。なにやら世話になったのだろうか、手揉みをしておだてている。姉と話す者は、みな笑顔になっていることに五十五は気づいた。これがヒトの良さというものだろうか。

 朝の露店は客の回転率が非常に良い。十数人並んでいたはずが、数分で五十五の番まで回ってきた。先ほどの姉の父親であろう店の主人が、五十五を前にして、「若様、すまんねえ」と苦笑いしていた。「いや、いいんだ」と五十五が返し、赤稲荷を二つ注文する。

 「茶化すわけじゃないけんど、一つ付けとくよ。席で食うなら、こいつも」

 稲荷を乗せた皿に、漬け物もいくつか添えてくれた。かたじけないと五十五が礼をして、店の外の長椅子に腰をかけた。

 道ゆく人を眺めながら、五十五は赤稲荷を頬張る。赤、というだけあって、揚げも米も薄朱色に染まっていた。どうやって作ったのだろうか、いまいち見当がつかない五十五だったが、味は気に入っていた。

 朝から稲荷を三つ、最後に付けてくれたたくあんを味わい、茶を飲む辺りから眠気が出てきた。町屋を行き交う人々も、次第に旅人や商人などと顔つきが変わり始める。

 「へえ、西町の方で、守屋の侍が斬られたって」

 「そうそう、昨日の夜中だったかな。西町の通りで、やり合ってたやつがいたとか」

 うとうとしかけた五十五の目が覚める。

 どうやら、米屋に並ぶ客が二人して噂話をしているようだ。

 「それで侍の方がやられたって?」

 「みたいだ。今朝、一人帰ってきてないのを守屋の前で聞いた」

 「それにしても、侍が西町の方まで何しに行ってたんだ?」

 「そりゃ、都合のいい女でも買おうとしたんじゃないか。こっちのは高いからな」

 違いねえ、と客は笑った。

 「侍とやりやう奴か…やはり噂のか」

 「ああ、少し前から現れ始めた侠客だろう。しかも子供だって聞いたが…」

 二人の客は、自分たちの注文の番になったところで会話を止めた。注文した各々の稲荷を片手に、店を出る。その際、少年剣士の五十五と目が合った。二人は顔を合わせて話す。

 「まさかな」

 二人の客は一つ笑って、町屋を歩いていった。

 五十五はその二人を見送りつつ、ポツリと呟く。

 「昨日のやつが、今朝には噂になるとは。守屋が絡むと、こうも違うものか」

 話に出た侍斬り、侠客とは、まさに五十五のことだった。

 五十五は以前から、西町の薬屋の女より相談を受けていた。そして昨日の夜、問題を起こしていた侍と真剣勝負を持ちかけ、五十五は見事に撃退したのだった。

 一太刀浴びた侍はその場に倒れ、ゆらゆらと消えるように眠りについた。

 神霊、妖ともに、ヒトで言う死に値する深い傷を負うと、霧散するように消えていく。もう一度この世に降りるには、早くとも数十年ほどかかる。再び降りたときには、以前の世とは変わっていることから、「眠りにつく」と五十五は表現していた。

 このような性質から、ヒトの陰陽師や剣士などが、妖を退治するといったことも可能となっている。

 話を戻そう。五十五は町屋に身を移してから、刀を振るって人助けをしていた。助けた者は殆どが貧民であったり、借金のカタとして子供を連れ去られようとする農民の家だった。

 そしてつい先日の夜のことだ。町屋の治安を守ることを目的として結成された、守屋と呼ばれる集団の侍の一人を八尋は斬り下ろした。

 治安を守る隊といえば聞こえは良いが、実際は立場を利用して好き放題歩き回るヤクザ者といった状態だった。九頭に仕える侍ということから、誰も向かっていける者などいない。そう思っていた矢先に、一人の侍がやられたとなれば騒ぎになる。

 守屋が一太刀浴びせられた。普段、守屋の言いなりになっていた町屋の住人からすれば、これほど気持ちの良い話は無いだろう。

 このまま侠客を続けていれば、侠客の少年が五十五であることは、守屋にもすぐに分かる。

 「用心せねばならぬか。…くァ…。…ひとまず、今日は帰るか」

 五十五は大きなあくびをして、伸びをした。

 米屋に小皿を返して、主人に挨拶を済ませて自宅へと足を運んでいった。

 途中、守屋の門の前を通った。昨日一人やられたというのに、門の前には今日も誰も立っていない。中を伺うと、仕事をしているのか、していないのか、数人の侍が談笑している姿があった。

 「あやつも報われぬな。おぬしの仲間は、もう忘れてしまったらしい」


 町屋の中央通りから東へ離れ、五十五は東町へと戻ってきた。町屋は日に日に規模を増し、八尋が初めて町屋に来た頃より二回りも大きくなっている。東町も、この春から町屋の敷地に指定され、元からあった家々を繋げていくように長家ができていった。中央通りの繁華街とは違い、店の数も少なく、どちらかと言えば住宅街に近い雰囲気があった。

 町屋へ来た五十五は、誰も住まなくなった古家を見つけ、身を置くことにした。横開きの木戸を開けると、かまどと洗い場のある土間が一つある、簡単な造りをしていた。五十五が住むには十分な広さと機能が備わっている。畳やかまども手入れがされており、使える状態だった。

 空き家のはずが、なぜ手入れされているのか不思議に思っていた五十五だったが、その答えはすぐに分かった。

 「ただいま。彦三郎、起きておるか?」

 羽織りを脱いで、携えた刀も外して端に纏めながら、五十五は薄暗い部屋の奥で横になっている者に声をかける。返答もなく、しんとした部屋に、彼の寝息だけが聞こえた。

 「寝ておるか」

 五十五は独り言を呟いて、籠にしまってある小袖に着替えた。洗濯を済ませてから一眠りしようと、脱ぎ散らかしたままの彦三郎の服も、外の洗い場へと纏めた。上流の様子を見ながら、五十五は流水に服をつけて洗っていく。

 一日中外を出歩くことが多い五十五の服は汚れやすい。一方で、彦三郎の服は殆ど汚れが無かった。彦三郎の下着を除いて。

 「あいつ、昨日何したんだよ…」

 下着だけではなく、小袖の裾の方からも異臭が漂った。服を着たまま用を足さなければ、こんな事にはならないだろう。

 この二つはだめだなと判断して、桶に水を汲んで、しばらく付け置きすることにした。洗い終わった服を外に干して、部屋に戻った辺りで、彦三郎が上体を起こした。

 「あ…おかえり五十五。もう昼刻を過ぎただろうか…」

 「先ほど帰ったところだ。ちょうど昼刻だな、何か食うか?」

 「んー…んん…。いや、いいや。今晩も何か食べさせてくれるだろうし」

 「今夜も仕事か、まっこと大儀だな」

 五十五は足の土を払って、彦三郎の隣に上がった。

 「おいらはこの仕事が好きだから。中央通りだと仕事は貰えないけど、上町の方だと買ってくれる人が多いんだ」

 「そいつは良いけど、洗い物をするこっちの身にもなってくれよ。昨日、何したんだ」

 「昨日の相手が変わり者でさ、下着を汚しながら乱れるところが見たいって、履いたまま小便を垂らして、精も出さされた」

 なんとも言えない実際の説明に、五十五は顎下を掻く。

 「…そいつは難儀だったな」

 「でもねえ、おいらも自分から下着を汚すのは初めてだったかんね。思ったより気持ちよくてさ、おいらも二回ほどやっちゃったよ」

 「なんと言うか…まあ、彦三郎から飯を貰ってる俺が文句を言える立場ではないか」

 彦三郎は自分の身体を、貴族や侍に売って、お金を稼いでいる。八尋が町屋へ来た時は、貴族向けの宿場で働いていたのだが、八尋が町屋から帰った後、働いていた宿場から追い出されたそうだ。

 八尋が来た時、彦三郎は八尋に『教える』ことを命じられていたのだろう。宿屋を追い出された理由を、彦三郎は「仕事で失敗しちゃって」と話していたが、その言葉の意味を五十五は分かっていた。

 行き場を失った彦三郎は、それから東町へと身を移して、一人この空き家で暮らしていた。高級宿場で働いていただけあって、整った顔付きに、男も女も魅了する身体使いは、町屋の繁華街でも十分すぎる稼ぎを得られているようだ。

 一方で、弱きを助け強きを挫く五十五は、侠客といえば聞こえは良いが、金銭を得る当ては一つも無かった。社を出る際に握っていた金銭も、とうに底をついている。困った矢先に彦三郎と再会し、彼の提案から共同生活を送ることとなった。

 「そんなに気にせんでええよ。おいらだって、五十五が居てくれた方が寂しくないし。金なら心配すんなって」

 「とはいえな、俺もせめて飯だけでも…」

 「おいらが五十五を食べていいなら、大満足なんだけど」

 「冗談はよせ」

 くっくと彦三郎が笑った。五十五は刀を自分の側に寄せて、寝転んだ。

 「もう寝ちゃうのか?寝る前にシなくていいの」

 五十五の隣に、彦三郎が寝転んだ。

 「今は、いい」

 「そもそも、五十五ってシてるの?」

 「おぬしがおらん夜に、ちゃんとしとるよ」

 「言ってくれたら一緒にするのになぁ」

 「…おぬしも、もう寝ろ。夜も仕事なのだろう」

 おいで、と五十五は彦三郎の方を向いて、手を広げた。

 彦三郎は甘えるように五十五に擦り寄った。

 「五十五って、こんなに優しいのに、身体の方は厳しいんだから」

 「別に、嫌いなわけじゃない。ただ、今は、な」

 「もしさ、五十五が寝てる間に、おいらが五十五の身体を好き勝手にしちゃったらどうする?」

 五十五は笑って、彦三郎の頭を撫でる。

 「寝込みを襲うほど、おぬしは悪者にはなれぬ」

 彦三郎はそのまま黙り込んで、五十五の胸元に顔を埋めた。

 「五十五って、ほんとずるいよなあ」

 しばらくして動かなくなったと思うと、彦三郎はまた寝息を立て始めた。

 もう少し様子を見よう。そう思っていた五十五だったが、五十五もいつの間にか眠ってしまっていた。




 八尋神社の拝殿。八尋と雪村、そして永明を含む霊狐たち五人は、お互い深刻な顔つきで口を噤む。

 状況を整理しようと、八尋が口を開いた。

 「雨が降らぬ兆しはあったが…よもや、ここまでのことになるとは」

 「このままですと、夏の分けつに影響が出ます」

 八尋は物苦しい表情を浮かべ、首を振った。

 「やや力ずくとはなるが、観蛇山の水を村に送れば、多少はごまかせるやもしれぬ。隣村までの世話まではできぬが…せめて、麓の村の収穫は見込めるであろう」

 「ここより、水路を築くとのことですか…。確かに、観蛇山の水はいまだ枯れる兆しはありません。村の者とも相談して、水路を確保しようと思います。ですが他にも…」

 「分かっておる。この地にイナゴが湧こうとは、思いもせなんだ」

 観蛇山の地下には豊富な水脈がある。多少の水不足には対応できるほどの水量があった。それは問題ないのだが…。大きな問題として、ここ周辺では見たこともないイナゴの集団が葉を食い荒らしているとの報告があったことだ。いわゆる蝗害と呼ばれるもので、現代でも解決の難しい自然災害の一つが、この地に巻き起こっていた。

 「イナゴの影響は山にも出る、こちらは早急に手を打たねばならん。だが、イナゴには我らの霊術も効かぬ…ううむ」

 「現在、永明らの方で、観蛇山周辺の霊気を囲うように霊術を張っております。山は食い尽くされる心配はありませんが、か弱い稲の方となると…収穫までの実を付けられるかどうか…」

 八尋は目の下を掻いて唸る。自然に対して力を発揮する霊術では、生き物であるイナゴに対して追い払う術を持っていない。対処療法として、自然の生命力を高め、イナゴに食われても再生しやすく手助けすることだが…それでは被害を遅らせる一方で、退治には至らない。

 「イナゴの方は、こちらでまた考えておこう。今は水が大事だ。雪村、すぐに村の者を呼んで、水路を築く算段を立ててくれ。この時期の稲は、水が一番大切だ。中干の時期まで乗り越えられれば良い」

 「承知致しました。ですが、イナゴはそう簡単には…」

 「大丈夫だ、みなが願えば必ず良い方へとゆこう」

 心配する雪村だったが、八尋は、希望的観測のような言葉ではなく、何か決定的な策があるといった表情をしていた。その術を雪村はあえて問わず、乗り出した身を一つ下げた。

 「申し訳ございません。では、これより村の方へ言伝に回ってきます」

 「早い時間から駆り出させてすまぬ」

 雪村は八尋と目を合わせて、とんでもないと首を振る。

 「麓の者から、馬をお借りします。夕刻には、みな集まれると思います。今日は永助には悪いですが…」

 いつものように、永助と出かけられないことに申し訳なさそうな表情を永明に見せた。永明はひとつ笑って、雪村の方へ姿勢を正す。

 「雪村さま、大丈夫ですよ。永助には、今日は他の言いつけをしておきます。違う仕事に責任を持たせることも、あいつにとって大事な体験でしょうし」

 「そうですね、あの子も少しずつ大人になっていく時期ですね。どうしても、過保護になってしまいまして」

 雪村は、ふふ、と笑って立ち上がる。

 「八尋さま、失礼ながら私はお先に離れさせていただきます」

 「ああ、頼んだぞ。永明、おぬしらも引き続き山の方を頼む。水まで枯れてしまえば、打つ手も無くなってしまおう」

 永明たち霊狐は、承知致しました、と深く頭を下げた。

 夕食を終えた頃、村人たちが集まった。日が落ちてからも村人たちとの話し合いは続き、深夜になってようやく水路設備の計画がまとめられる。村人が夜更けの街道を出歩くのは危ないということで、雪村や永明たち霊狐によってそれぞれの家まで付き添った。

 村人たちを送る役目は雪村たちに任せ、八尋は一人、自室でイナゴ対策を考えていた。

 「生きるものに対抗するには、妖術を使うしかない…よねえ…」

 霊狐たちの持つ霊力ではイナゴに対抗できない。農薬のないこの時代では、ヒトの手による対策もあまり現実的では無い。

 この山で唯一の妖狸である五十五なら、イナゴ程度なら一網打尽にできる。とはいえ、力任せにふりまけば、それ相応の妖気を田畑に晒すことになる。そうなってしまえば稲がどうなるかも分からない。現に、霊狐の加護を受けていない五十五が育てた稲はあの様だ。

 「妖術の練習もこっそりしないといけないな。妖気を振りまくわけにもいかないし、イナゴだけを殺すように注意しないと…。二ツ山に行って、夜明け前には戻って…うう、大変だ」

 普段の仕事、神力を得るための修行、それに加えて妖術の鍛錬が増える。

 お前ならできる。八尋と交わした言葉が五十五の精神を支えていた。


 「ゆ、雪村殿!八尋さまを御呼びいただけぬか!」

 朝の八尋神社。各々の仕事が始まり、境内に数人いた霊狐たちは、慌てた様子で雪村に迫る村長を見た。

 「長、そのような様子で、どうされましたか」

 霊狐たちはなんだろうと思いつつ遠巻きに見ていた。霊狐の一人が「仕事しごと!」と、足を止めていた者を急かす。

 「それが、まっこと奇怪なことに…今朝起きたら村中、イナゴの死骸まみれになっとるんじゃ!」

 村長の話に雪村は驚き慌てた。とにかく、八尋を呼んで話を整理しようと拝殿へと向かっていった。

 雪村の呼びかけに間もなく、八尋が本殿から現れた。

 「それで今朝方、イナゴが全て死に絶えていたと」

 「さようでございます。昨日の夕刻まで、あれほど稲や野菜にたかっていたイナゴが、朝起きたらそこら中に死骸になっとって…。それも、普通に死んだようではなく、どれも何かに裂かれたように真っ二つに…。そりゃあもう、気味が悪うて」

 「それは、どういう…?」

 「もし、お二人がよろしければ、降りて見ていただければ…」

 村長の言葉に雪村は八尋と目を合わせた。

 「雪村、一度降りてみよう」

 八尋は二人と共に麓の田畑のある方へ降りる。そこには、田んぼや街道、辺り一面にイナゴの死骸が転がっていた。

 雪村が屈んでイナゴの死骸を一つ拾い上げた。毒にやられたわけでも、何かに喰われたわけでもなく、イナゴは腹の辺りから真っ二つに斬られていた。

 明らかに霊狐がやれる芸等ではないと、雪村はすぐに判断した。

 「こちらの者がやったわけでは無さそうですね…。それに妖気の類いも感じられませんし、不思議ですね」

 稲が穢される心配はないと雪村が話すと、隣で聞いていた八尋はたまらず安堵の息を漏らしそうになった。

 「八尋さまからは、何か感じられますでしょうか」

 「えっ、ああ、そうだな…」

 肩の力を抜いた矢先に、村長から声をかけられ、八尋は一瞬言葉を詰まらせた。考えるように目の下を掻いて、村長に話す。

 「妖気は感じられぬが、妖の仕業と見て間違いなかろう。切り裂くように殺したということは…イタチか何かだろうか。ふいに立ち寄ったやつらが、息を潜める草や田畑がイナゴだらけというのに怒り狂ったのだろう」

 「イタチ…でございますか」

 確かに、自身の領域に不快なものがあれば斬り落とす習性のあるイタチの妖は存在する。もっとも、ここまでの規模で暴れることは無いのだが、それを知る者は殆どいない。こちらからすればイナゴを退治してくれたのだ、それほど気にする者もいないだろうと、八尋は都合のいい嘘をついた。

 「ふむ、ここらではもうイタチの気配は感じられぬ。恐らく、朝方には別の地へ行ったのだろう。まだイナゴの被害に遭っている村も多い。もしかすれば、そちらでも、イタチがイナゴを殺してくれるかもしれん。これは、我らには幸運なことだ」

 兎にも角にも、悩みの一つであった蝗害が解消されるという話に村長も安堵する様子を見せた。

 「まさに天運でございますね。ワシらの方も、この流れに乗って、急いで水路を開きとうございます」

 「ああ、頼んだぞ。我らも、田には直に手を出せぬが、山の霊気は我らが守っておこう」

 この日、八尋たちが戻ってから社の霊狐たちにもすぐ伝えられ、この話は社の中でも話題となる。特に永明ら霊狐は、「イナゴが消えるとなると、我らも負けてられません」と、観蛇山に施す霊術に一層意気込む。暗い話題が増える中、今回の出来事は霊狐たちも安心させてくれた。

 少しでも明るい雰囲気が戻った社に、八尋の表情も緩み、ひとつ息を漏らした。

 「山の霊気を強めれば、山におる獣も盛んになる。おぬしらなら問題無いとは思うが、猪や熊などには用心しておくのだぞ」

 「はい、心得ております。一人で動かず、数人で働くよう指示しております」

 「ならば良い、その調子で頼むぞ」

 永明ら霊狐はお互いに顔を合わせて、明るい表情を見せて「お任せください」と深々と礼をした。


 静かに虫の音だけが響く深い夜。闇夜に何者かが動き、時折虫たちの声が止む。麓の村から少し離れた隣村の街道に、月明かりに照らされた八尋の姿があった。

 姿を見られぬよう、八尋は田んぼに身を伏せる。ぱしゃり、と田に水飛沫が跳ねる。側の稲を一つ摘む。稲にはイナゴが二匹、眠るように付いていた。

 確認を終えた八尋は気配を探るため妖気を辺りに淀ませてゆく。すると、妖気に触れた生物が何者か、何処に潜んでいるかが八尋には目を閉じていても分かるようになる。

 五十五は数十秒もあれば、村一つ見渡せるほどの領域に妖気を巻くことができた。妖気を広げ、生物を察知していく中、八尋は眉を顰める

 「ここも多いなあ…」

 時間をかけると夜明け前に社戻れない。早く始めてしまおうと、八尋は狩衣の腕を捲る。

 「よし…!」

 八尋は目を瞑り、そっと右手を伸ばす。触れさせている妖気を、思い浮かべた相手、稲や草木で眠るイナゴにゆっくりと纏わせていく。一匹一匹確実に仕留められるよう、尚且つ、間違っても他の生物に纏わせぬように注意する。

 数分が経過し、準備が整った八尋は、ゆっくりと指を曲げた。

 ある所を境に、イナゴたちが苦しみはじめ、一斉に目を覚ます。周囲にいた、千、万にも至る程の大量のイナゴが、バチチチと悪夢のような羽音を立てて空を舞った。

 「これで…ッ!」

 暴れる者の中に、イナゴ以外の生物がいないことを最後に確認し、八尋は握りつぶすように手の指を閉じる。その瞬間、おびただしい数の羽音が次々と途切れるように、暗闇の中から消えてゆく。そして、水気のある田んぼは、雨音を叩くように真っ二つに千切れたイナゴの雨が降り注ぐ。これが昼間の出来事なら、見る人は神罰だと腰を抜かしてしまうかもしれない。

 タン、タンッ…。最後の一匹が居なくなり、八尋は目を開けてゆっくりと立ち上がる。先ほどまで気配がしていた、イナゴは一匹も残っていない。それどころか、突然起きた異変に気づいた他の虫や獣、生き物全てがこの場から逃げていた。

 「帰る前に、また洗っておかないと…」

 身体じゅう、顔にも虫汁が付いている八尋は、狩衣の内袖で顔を拭う。

 街道を出る前に、誰も通っていないかを目視で見渡し、急いで社の方へと走っていった。

 社へ戻る途中、八尋は川で狩衣と身体を洗って帰る。乾かす時間も無く、小袖姿で、濡れたままの狩衣を抱えて走った。隣村から社は十数キロ離れている、急いで戻らなければ夜が明けてしまう。

 都合のいいイタチの仕業と嘘をつき、夜な夜な村に降りて妖術でイナゴを一掃する。もちろん、一度退治したら終わりではない。また違うイナゴの集団はすぐにやってくる。イナゴの発生が落ち着くまで、毎日様子を見なければならなかった。

 幸い、空気が湿る気配を八尋は覚えた。イナゴはカビに弱い、もうしばらく耐えれば落ち着くだろう。それまで、寝る間を惜しんで村に降りるしかない。

 今、八尋が出来ることはこれが限界だった。

 長い参道をあがり、境内まで戻ってきた。夜明けまで半刻は眠れるだろうか。八尋は目を擦りながら、境内の影を歩く。

 ふと、気配を察し、八尋は闇に隠れるように隅へ身を移す。こんな時間に誰だろう。姿を見られると面倒だと、八尋は伺った。

 月明かりの中、社務所から雪村が出てきた。羽織りを着て、門の方をじっと見ていた。

―――こんな時間に、どうしたんだろう…?

 しばらく様子を伺っていたが、雪村は部屋へ戻る気配が無い。

 仕方ない、と身を潜めつつ、八尋はゆっくりと本殿へと戻ることにした。人の目を盗んで動くのは、五十五の得意分野だ。

 苦も無く本殿の木戸の前へと戻った八尋は、本殿に入る前にもう一度境内を伺った。そこには変わらず、誰かを待つように雪村が居た。

 もしかすると、夜な夜な出かけていたのがバレたのだろうか。いや、勘のいい雪村のことだ、口では言わずとも分かっているに違いない。

 やっぱり、雪村に隠しごとは出来ないなと、八尋はばつの悪そうな表情を浮かべる。

―――心配かけてごめんね、雪村

 木戸を開けて、八尋は本殿へと戻った。

 戸を閉める際、トンッ、とした音が聞こえる訳もないのに、雪村は何かに気づいたように本殿へと目をやる。

 ひとり、何かに安心した表情を浮かべて、雪村も自室へと戻っていった。

 蝗害も落ち着く様子を見せ、村人たちの士気も上がっていった。水路も順調に出来上がり、麓の田んぼに回せる水源は確保することが出来た。とはいえ、これも一時的な対策である。麓の田んぼ以外は変わらず水不足に陥っているため、安心はできない。

 隣村は相変わらず水不足となっていた。今年は麓の村と協力して、隣村との収穫を半分ずつに分けあうこととなった。毎年、八尋神社の例大祭にも奉納してくれているだけあり、社と麓、そして隣村との結束は強い。収穫の質や量は殆ど見込めない分、隣村では農具の修理や小屋など、大工仕事を任せることとなった。

 気づけば夏も終わりが近づき、いよいよ秋となる。ふた月もの間、毎晩麓の村へと降りていた八尋は、ここのところ疲労でいっぱいだった。とはいえ、麓の田んぼの稲は例年通りとはまるで言えないが、元気に育っている姿を見て、八尋は安心していた。

 いや、安心は出来ない。隣村の収穫はあまり見込めず、麓の村の収穫量も落ちている。昨年の半分以下の収穫となるだろう。これがもし、次の年も続いてしまえば…。

 八尋の心配は増すばかりだった。もっと自分に力があれば、八尋のような力があれば…。

 「八尋さま」

 自身の情けなさに俯いていたところに、雪村が小さく話しかけた。

 「私たちもおります。大丈夫ですよ」

 雪村が元気つけようと、笑顔で八尋に話す。その言葉が、八尋の気持ちも、少しだけ前向きになれた。



 「聞きましたよ五十五さん!また守屋をやったって!」

 米屋の内席で五十五が茶をすすっていたところに、米屋の弟が五十五に寄って話す。見た目は五十五より三つ上か、それくらいのヒトの子が、尊敬の眼差しで五十五に手もみをする。押しの強さは姉弟ともに似ていた。

 「別に俺がやったとは言っとらんだろう」

 「またまたぁ。妖狸の少年剣士といえば、五十五さんしかおらんじゃないですか。みんな、噂になってますよ」

 五十五が町屋に来てから一年。町屋に突如現れた侠客の妖狸の話は次第に広まっていき、五十五は『妖狸の少年剣士』と呼ばれるようになった。守屋が絡み、どうしようもなくなった最後の頼み綱として現れた五十五の存在は、町屋の住民からは心強いものだった。また、町屋の貴族町、上町では、暇を持て余した貴族たちにも面白い話の種というだけあり、人気があった。

 「五十五さん、良ければ私にも剣の手ほどきをお願いしても…」

 「おぬし、寺屋で学んどることがあるんじゃないのか」

 「そりゃあもう、頭が痛くなるほど色々覚えました。うちの帳簿だけじゃなく、お品書きも私が。地方の変わり種の仕入れも私が考えております。ですが、男子たるもの、剣には…」

 困ったな、と五十五は顎下を掻いた。

 弟君を責めるわけではないが、五十五の元には侠客とは関係のない頼み事が増えてきている。弟君のような稽古をしてくれという話ならまだしも、恨みごとなど、痛い目を見させてきて欲しいなど、ヤクザ者と変わらない頼みをする者も現れ始めている。五十五は、道理に合うもの以外、全て話も聞かないようにしていた。

 ここの米屋は身を隠しながらも、何度も通わせて貰っている。恩義があるだけに、五十五は断りにくい雰囲気を感じていた。

 「こら陽太、五十五が困ってるだろう。その辺にしとき」

 米屋の姉御が、後ろから盆のひらで弟君の頭を叩く。何すんだ、と頭をさすりながら姉御に振り返った。

 「ごめんねえ五十五。こいつ、頭も手先も賢いけどさ、剣の腕だけはからっきしでさ。手合いの日はいつもアザだらけで帰ってきてんの」

 「姉さん、余計なこと言わなくていいから」

 そういうことか、と五十五は笑った。

 「それなら良いではないか、陽太殿。おぬしのお陰で、この店は繁盛しとるのだ。店を支えておるお前さんは立派なものだ。剣は力を象徴するが、この世はそれだけでは回らん。俺とて、陽太の商才には到底敵わぬだろう。それは立派な力だぞ」

 「でも…」

 弟君が口籠ったところで、姉御がまた盆で叩いた。

 「そうそう、五十五の言う通りだよ。商いの神が刀を下げてる絵を見たことあるかい、無いだろう。あたしだって陽太には頼りにしてるんだから、もっと誇っていいんのに」

 面と向かって、自分が頼られていると言われた弟君は、やや恥ずかしそうに顔を逸らした。分かったよ、と一言だけ置いて、納得した様子を見せる。

 「姉さんこそ、それだけ腕っぷしがあるなら、五十五さんから剣を教わればいいのに」

 「おお、それも面白そうだな。家を守る女剣士、かっこいいねえ」

 姉御は壁に掛けてあった木刀を握って、それらしい構えをとった。

 三人で談笑する中、その様子を見た店主も大皿を持ってやってきた。賄いの焼きおにぎりに、山菜の佃煮が沢山盛られてあった。

 「みんな、そろそろお昼にしよう。咲、店を開ける合間に型だけでも教えてもらったらどうだい。若様にも、遊戯でもよろしいので、是非お頼み申し上げたく…」

 「それくらいなら構わん。姉御の方が、腕を動かすのは性に合うだろうて」

 おっしゃ、と分かりやすく姉御がやる気を見せた。弟君の方は、「ずるい!」とまた騒ぐ。

 その様子を尻目に、五十五は焼きおにぎりを片手に見ていた。塩のみの味付けをされ、外側がカリッとなるまで焼かれた握りの中には、醤油だまりが仕込んであった。口の中で旨味がグッと広まり、食べたことのない美味しさに、五十五は感心しつつ手元の握りを見た。

 「うまいでしょう。ここらでこんな作りが出来るのは、陽太のおかげですよ」

 二人が騒ぐ姿に微笑みながら、店主は五十五に語った。


 米屋の家族との昼食を終え、五十五は三度笠をかぶって店を後にした。町屋を行く人々から視線を集めることが多くなった五十五は、少しでも表情を隠そうと笠を着けて出歩くことが多くなった。

 守屋の侍を斬ることが増えたとはいえ、守屋の方から襲われることは無い。単純に、守屋が五十五を斬る理由が無かったからだ。ヤクザ者とはいえ、何もしていない住民、さらには刀を下げた剣士をやすやすと斬りかかるほど無法者集団ではない。とはいえ、守屋から目をつけられているのも事実だ。五十五は警戒を怠らず、刀に手をかけて歩く。

 帰る途中、守屋の門前を通りかかる。五十五に斬られた侍の数も、両手で数えきれぬほどになってしまったためか、一時期から門前に侍が一人立つことになっていた。

 「よう、五十五。お前、またうちの奴を斬ったってな。そのうち、痛い目みるぞ」

 門番の妖狸の侍が五十五を呼び止めた。まるで他人事のように、茶化しながら話している。

 五十五は笠を上げて、門番と目を合わせた。

 「おぬしの所が、酒屋から無法に徴収しておるところに居合わせただけだ。俺が語るも、話し合いの余地も無く抜刀してきたもんでな。抜いてきたということは、そういうことだろう」

 「違いねえ。抜いたら最後、立ってる奴は一人しかいないからな。まあ、俺は五十五に少し感謝してるけどな。俺、あいつ嫌いだったし。毎晩酒に騒いでうるさい奴だった」

 「そうか」

 五十五は門番の目をじっと見つめていた。

 「俺はよかったんだけど、一人の妖狸は恐ろしく嘆いておったな。五十五が斬った奴の親友だったやつだ。今日も相当、お冠だったぞ」

 「うん…?」

 「妖狸同士とはいえ、恨まれごとは面倒くさいぜ。俺たちも、そいつの肩を持つ道理も無いからな。ああいうのは、独りで歩き始めるから余計に厄介なもんさ」

 「左様か…用心する」

 五十五は門番に一礼して笠を直す。

 「背格好や顔立ちを聞かんでいいのか?」

 「おぬしに恩を作ると、合間見えた時にやりにくかろう」

 「ガキの癖して、つくづく慎重なお方なこと」

 じゃあな。と門番が手を掲げたのに対して、「またな」とだけ返し、五十五は自宅へと戻っていった。


 人から恨まれることで、回りの者に危害が及ぶ可能性を失念していた。恨みを買うと狙われる程度の認識の甘さだったのは間違いではない。普段通りの日常が、突如悪意を持った者に壊されるのは初めてだった。

 昼刻、東町にある戻った五十五は、自宅から異様な妖気を感じ取った。鯉口を切り、恐る恐る中を確認する。そこには裸にされ犯された彦三郎の姿があった。敵意を持つ者はすでに居ないことを察した五十五は、彦三郎に駆け寄った。妖狸の男が突如押し入り、刀で彦三郎を従わせたと話していた。

 ヒトの子に悪意を持った妖気を纏わせると命に関わることにもなる。霊狐が妖狐に落ちるように、ヒトも妖に落ちてしまう可能性がある。妖気に犯された彦三郎を祓う際に、彦三郎は「こういうんは慣れてるから」と笑っていた。馬鹿なことを言うなと、五十五は返したが、彦三郎には何のことか分かっていない様子を見せる。

 「そんで、言伝があんだけども…」

 なんだ。と、五十五は彦三郎の身体を拭い、続きを待った。ひどく身体を扱われた痕跡が痛々しい。肛から血が滲んでいた。

 「今日の夜、外れ町の田園に来いって」

 いたた、と傷口を拭われた彦三郎が身体を強ばらせる。「これじゃあ、しばらく仕事に行けんね」と笑っていた。

 五十五は彦三郎の頭を撫でて、横に寝かせた。

 「帰りに薬を貰うてこよう。それまで、辛抱してくれ」

 何かを言いかけた彦三郎だったが、五十五の言葉を聞いて口を閉じた。そして、ひとつ頷いて五十五の手を握った。

 彦三郎を寝かせた後、五十五は言われた場所まで辿り着いた。離れ町の田園は町屋の領地に指定されたばかりの辺境で、まだ整備が整っていない地域だった。元々町屋へ続く街道であり、街道を挟むように田園が広がっていた。とはいえ、今は町屋に人が行き、作物を育てる者はいなかった。何も植えられていない乾いた田畑を後目に、五十五は道なりに進んでいく。

 農具などを保管している倉や馬小屋が空き家となってあちこちに点在している。いわゆる旧街道と呼ばれている地区だ。当然、目的があってここに来るものなど誰もいない。

 あるところから、空気が淀んでいく。悪意に満ちた妖気が辺りに漂う。五十五を呼んだ者の仕業に違いない。

 霧に煙るように視界も悪くなる。遠くの山や、振り返るも町屋の景色すら見えなくなってきた。これから起こることは、誰にも見せるつもりはないのだろう。

 旧街道を進む先に、一人の細身の妖狸の男が田畑に座っているのを見つける。覚悟を決めたように、刀を平行に、自身の目の前に置いていた。

 「待たせたな。俺を呼んだのは、おぬしか」

 五十五も男と同じく、街道から田畑に降りる。普段踏み慣れている柔らかい土ではなく、乾燥した味気のない感触を覚える。八尋は、たとえ自身の田んぼでは無いとしても、そこに血の流れる戦いをしたくなかった。

 いや、この戦いに勝っても、これらの田園を守ることは叶わないだろう。ここはもう、町屋の領内とされてしまっているのだから。

 「お前が妖狸の少年剣士、五十五か。噂よりも随分子供じゃねえか」

 男は刀を持って立ち上がった。

 「おぬしが望んでおること、言わずとも分かっておる。目的は何だ」

 「道草という酒屋から徴収しておった妖狸を斬ったやつがいるってよ。あれはお前えの仕業で、間違いはねえんだな」

 「いかにも、件の男であれば俺のことだ。…つまるところ復讐か」

 「復讐…?いや、天誅だ」

 男は刀を抜いて、刀先を五十五に向ける。五十五も鯉口を切り、ゆっくりと正面に構えた。

 薄黄金色の五十五の霊刀から、青みがかった白の霊気が揺らめく。

 「俺はなあ、いつもあいつに助けられてたんだ。仲間ん中じゃ、あいつを嫌うやつもおった。だがな、昔からあいつは俺を支えてくれてたんだ。クソみてえな溜まり場から、守屋に入ってからもずっとな」

 男は続ける。

 「それを、お前が一瞬で奪いやがった。俺の親友を、心の友を…」

 男の怒りに共鳴して握りしめる刀に薄暗い妖気が漂う。

 五十五は男が語る中、男の目から涙が流れたことに気づく。これほど仲間を思いやれる者が、なぜ守屋で悪事を働いたのか。

 「周りのやつらは口を揃えて言いやがる。ヘマをしたやつが悪い、仇を打つほどの器じゃ無いと。守屋なんぞ知るか、俺はお前を許せねえ!」

 五十五は目を細めてピクリと耳を立てた。

 来る。

 男は刀を握り直し、五十五へ飛びついた。数メートルも離れた位置から、一飛びで間合いを詰めた瞬発力に五十五は目を大きくする。

 一瞬、動作が遅れたが、軌道を読んでいた五十五は応えるように刀で受け止めた。

 「くッ…!」

―――お、重い!

 五十五の表情が変わる。

 ひとつ、刀がぶつかり合う甲高い音と共に、この男が刀に込めた想いの重さを五十五は知った。細身の男の刀から、あの四辻と劣らない力強さがあった。

 カァンと、五十五は振り抜くようにせり返す。お互いひとつ下がり間合いの外へと出た。じりじりとお互い円を描きながら相手を伺う。

 これまで四辻の元での真剣勝負から、町屋での真剣勝負をしてきた相手の中でも、この男の剣の重みは比べ物にならなかった。あの細身の身体のどこから、あれほどの力を生み出しているのか。想いの込められた刀にはとてつもない力が宿る。八尋も分かっていたつもりだったが、その者と対峙すると、こうも身震いするものなのか。

―――この勝負、どちらか一太刀入れられたら終わる

 お互い語らずとも、先程の一振りでお互いの力量を知った。この男もまた、五十五の力強さを思い知った。妖狸の少年剣士、まだ青臭い子供に何人もの侍がやられている。だからこそ警戒していた。それでも、五十五の剣の重さは、男の想像を遥かに上回るものだった。

 五十五の霊刀に結われたこうべが二つ揺れる。数秒の膠着が続き、五十五は刀を構え直して男の懐へ踏み込んだ。

 男も合わせて構え、五十五の踏み込み斬りを受け流す。五十五は流れるように斬り込み、打ち合いが三つ続いた。打たれた時の五十五と同じく、男の表情に苦悶が走る。

 刀に力こそ宿っていたが、男の太刀筋は甘かった。打ち合いを続けるうちに、鍛錬の差が露骨に現れる。いつの間にか、五十五ばかりが仕掛ける一方的な展開になっていた。男は知る由も無かったことだが、田畑を踏み慣れている八尋には田園での戦いは有利に動いた。

 遅れをとってたまるか。男は負けじと五十五に仕掛ける。

 「はああッ!」

 大振りの剣を右に左に、そして右に。上からの剣を五十五は掬い上げるように下から受け流してゆく。大人と子供の体格差から、男はどうしても振りが大きくなりがちになってしまっていた。

 三つ目の太刀に、五十五は男の刀の根本を打ち払う。獲物こそ手放さなかったが、男は体幹を大きく崩してしまう。

 五十五はその隙を逃さなかった。男の股下に片足を踏み込み、刀をくるりと回し納刀する。居合の構えに男は声を漏らす。体勢を崩された男は、両腕を上げて腹が無防備になっていた。

 一呼吸置いた五十五は、居合い抜きで男の腹目がけて斬る。

 男は咄嗟に飛び退くが、完全に五十五の間合いに入った状態から避けきれなかった。五十五が振り抜いたと同時に、空に赤黒い血が舞った。真芯は避けたものの、横っ腹を深く斬られてしまう。

 「ぐっ…クソ!」

 男は斬られた右横腹を手で押さえる。とても出血を止められる深さの傷ではない。

 「おぬしの力強さは感じられた。その友に対する想いもな。だが、それは俺とて同じこと」

 力が入らないのか、男は刀を地に刺して膝をつく。呼吸も荒くなってきていた。

 「黙れ…砂利の癖して、説教すんじゃねえ…!」

 「一つ問う。俺への天誅が目的なら、なぜ彦三郎を襲った。おぬしの大切な者を奪った俺へ同じ目に合わせようとしたか。ならば許し難き行為だぞ」

 五十五は刃先を男に向ける。

 「知らねえな。町屋じゃ随分人気なやつらしいが俺は興味ねえ。それに、あの売り子に傷付けるやつなんぞ、九頭が許さねえだろ」

 「なに…?」

 予想もしていなかった返答に、五十五は目を大きくする。この男が襲ったと思っていたが、どうやら違ったらしい。そして、彦三郎の身に九頭の名前が出たことに驚きを隠せなかった。

 周りの者の安全のため、そして彦三郎の身を守るためにもこの男との勝負に乗ったつもりだった。だが、この男は本当に友への弔いのためだけに刀を抜いたのだ。

 家族や友達を失う経験をしてきた八尋には、この男の想いを否定できない部分もある。ここへ来て、五十五の中で何かの迷いが生じ始める。

 男は歯を食いしばって立ち上がる。足元は出血した血溜まりが出来ていた。

 「よせ、これ以上は死ぬぞ。利き手側の腹を斬られては、もうまともに動けぬだろう」

 「俺はお前を許せねえ。その目が気に食わねえ。この程度の傷…ッぐ…!」

 この男もまた、誰かと同じようなことを五十五に言い放つ。

 社を出てから、幾度となく八尋が聞いた言葉。最初は四辻に、それから山での真剣勝負をした相手。米屋の家族にも言われたこともあった。

 目が違う。見た人によって、込められた思いが全く違った言葉に、八尋は一抹の疑問を覚える。

 「なぜだ。なぜおぬしのような友を思える者が、町屋の者たちを苦しめようとするのだ」

 「知るか、そんなこと。俺も、あいつも、俺たちが楽しけりゃ、何でも良かったんだよ」

 男は腹を押さえることを止め、再び刀を握りしめた。威勢は良いが、その表情は激痛でもうまともに動けないことを五十五には分かっていた。

 「俺には、分からぬ」

 「てめえにゃ、分かんねえよ」

 男は膝を震わせながら、五十五へ最期の一太刀をかざした。しかし、それも叶わず、男の身体は上振りで両断された。

 「ごめん」、返り血に染まる中、五十五はその一言しか出すことができなかった。

 男の手から刀が落ち、膝から崩れるように地に伏した。「ああ、終わっちまった」、男はひとつ呟き眠りについた。

 辺りの景色が次第に戻ってくる。月明かりがより一層輝いて見えた。

 霊刀を拭い鞘に収める。金具がはまる音が、勝負を終えたことを教える。五十五は大きく息を吐いた。

 「今は眠っておれ。おぬしが願えば、また友と出会えるに違いない」

 男が眠りにつくまで見送った後、深い一礼して町屋へと戻ってゆく。

 勝負に勝ったというのに、五十五の足取りは浮かない気持ちが表れていた。


 町屋に戻ってから、普段とは何も変わらない日々が流れていた。五十五が倒したあの男の話は噂にすらされることが無かった。一応、門番の男に呼び止められ「帰ってこないということは、お前の仕業か」とだけ言われた。「ああ、そうだ」と返すと「そうかい」と返ってきた。それで、あの男の話は終わってしまった。

 周りの人たちから忘れられた者の話でも、五十五の中では、あの夜生じた疑問を未だ解くことができていなかった。

 「五十五さんいらっしゃい。薬かしら」

 「ああ、また傷薬をいただけるだろうか」

 彦三郎の薬を貰いに、五十五は西町の薬屋に来ていた。

 「近頃、傷薬ばかりね。五十五さん…が使うようではないみたいだけど」

 「家の者が怪我をしてしもうてな。元より俺のせいでもある。責任をとって面倒をみなければならん」

 「どこの怪我か教えてくださる?違う薬も出してみるのもいいかもしれません」

 「ううむ…。言いづらいのだがな…厠に行くにも辛そうにしておる」

 「あら、五十五さんだめですよ。そういうのは優しくしてあげないと」

 薬屋の女は口元に手を当ててくすりと笑った。

 「あ、いや、そういう意味ではないからな!」

 「そうだといいですけど」

 五十五の言い訳を流しながら、女は違う棚から別の薬を出した。

 「はい、こっちの薬も使ってみて。塗る前に、出来るだけ綺麗な水で汚れを取ってから塗ってあげてね。汚れやすい場所だから、綺麗にしてあげないと中々治りにくいの」

 「出来るだけ綺麗な水か」

 「ここじゃ清水も高いから…洗い場の水を煮詰めて、一晩冷ました水でも大丈夫よ」

 「ふむ、分かった。それでお代だが…」

 五十五はばつが悪そうに、顎下を掻く。

 「この前のお返しということで結構ですよ。私も、五十五さんのおかげでお店が続けられてますし」

 「そうか、すまないな…」

 五十五は薬の包みを袖にしまい、薬屋に一礼をした。

 「またいらしてください」と薬屋は笑顔で五十五に返した。


 いつもより遅い夕食前。小屋の畳の上で、彦三郎は夕食ができるまで暇そうに窓から見える夜空を見上げていた。気づけば秋の終わりを告げる風が吹く。

 そろそろ冬に向けて戸を直さなければならない。今日一日、二人は小屋の補修をしていた。どこか楽しげに作業に取り組む彦三郎とは対照的に、五十五はまだ考え込んでいるように小屋の修理を黙々と行っていた。

 もう一週間経つというのに、五十五の心は未だ曇っていた。

―――お前が奪いやがった。俺の唯一の友を奪いやがった。だからお前は許せねえ。

 あの男の言葉が鮮明に蘇る。

 俺が悪かったのだろうか。いや、奴らが悪事を働いていたことは間違いではない。放っておけば、さらに苦しむ者も居ただろう。

―――その目が気に食わねえ。お前のその目が。

 男が友と呼んでいた者の言葉が過ぎる。

―――お前さんのその目、その目は良くねえ。見た者によっては、お前さんを容赦なく斬るやもしれん。

 四辻の言う通りだ。八尋に戦いを挑む者はみな口を揃えて言葉にしていた。

 五十五は、かまどの前で俯いたまま考えこんでしまう。何度も繰り返すように、同じ言葉が脳裏に過ぎる。

 町屋に来たのは、五十五と一緒に暮らせる世界にしたいためだけではない。村人や、もはやこの町屋の人々の自由のためでもあった。

 自分たちの明日のために振るう刀は、今でもあやまった道とは思ったことはない。

―――だが、お前さんのその目を信じ、力添えをする者もおるだろう。

 そうだ。四辻の言う通り、町屋の中にも五十五の行いを支持する者は増えつつある。薬屋、酒屋、米屋の家族との関係も深くなっている。

 八尋が気づいた頃には、今の町屋は、二ツ山で起こった山犬との派閥争いに似た状況となっている。

 周囲の村や町人から搾取し、他国から技術や品物を集めて町屋を広げる開拓派。奪われる者たちを守り、皆で共に生きるべきだと立ち向かう保守派。

 いうなら、開拓派の九頭と保守派の五十五とも見れる関係となってしまっている。

 八尋が自身の行いに疑問を覚えたことの中には、こういった根深い記憶も関係していた。

 だが、それに気づけたとしても、どちらも正しい正義の争いだ。どちらが良いといった正解などひとつもない。

 考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。八尋たちの未来のためには、九頭を討つしかない。それは変えられない事実だ。分かっているはずなのに、今になって言い表せない不安から、八尋は動けなくなってしまっていた。

 山犬から逃げた八尋は幼すぎた。

 ふと、火にかけていた湯が蓋の隙間から吹き出す。溢れた湯が火元に落ち、じゅっと蒸発する音を立てる。はっとして、五十五は慌てて火をとった。

 「大丈夫?」

 五十五の様子を見て、心配そうに彦三郎が声をかけた。

 「すまん、ぼうっとしとった。後は移すだけだから、もう少し待っとってくれ」

 八尋が一人で思い詰めるのは、社にいた時の冬以来だろうか。あの頃の八尋には、察してくれるように五十五が側に来てくれていた。その五十五と離れて、この冬でもう二年になる。五十五のことはひと時も忘れたこともない。それでも、八尋に空いた穴は次第に大きくなっていた。

 ひと月前までは話題が絶えないはずの彦三郎との食卓も、今夜は静かだった。

 彦三郎の手元はもう食べ終わりそうだというのに、五十五の手はあまり進んでいない。

 「五十五、近頃元気ないね」

 いつもの雰囲気で、彦三郎が話しかける。

 「すまぬ。こんな様子じゃ先が思いやられてしまうな。刀が俺の取り柄だというのに」

 五十五は目線をそらして愛想笑いを浮かべた。

 「ひと月くらい、一日中ずっと一緒にいるね」

 「そうだな。いつもはお互い時が合わないことが多かったな。昼は俺が外にいて、夜はおぬしが仕事にいっとった」

 「うん。いつも一仕事終えた五十五の姿ばっかり見てたからさ、こうやって一緒に一日を過ごすのもなんだか楽しいな。五十五ったら家でも料理や家仕事も出来ちゃうし、頼りになるよ」

 褒めちぎる彦三郎に五十五は返す顔が無かった。

 「俺が出来るのはこれくらいだからな。俺とて、おぬしには頼りにしとる」

 ふふん。と、彦三郎が笑う。

 「五十五が近頃悩んでる姿見てさ、おいらは何に悩んでるのかは良くわかんないんだ。剣の腕は立つし、町の人たちも五十五を認めてくれてるし、家仕事も、おいらの面倒も見てくれるし。そんな五十五が悩むことって何だろうなって」

 彦三郎は続ける。

 「でも、おいらは一つだけ今の五十五の気持ちが分かることがあるよ」

 胸元まで持ち上げていた椀を膝下までおろして呟く。

 「寂しいって」

 五十五は目を大きくした。そして誤魔化し笑いを一つ漏らした。

 「いったい、何を」

 「おいらも、ずっと寂しかったんだ。昼間、みんな外で楽しそうに仕事や寺屋に行ってさ。おいらはその景色を一人で見てたんだ。でも夜だけは、おいらをたくさん愛してくれる人がいたから、夜は大好きだった」

 五十五の言葉をさえぎり、彦三郎は続ける。

 「宿屋にいた時にも、同い年くらいの住み込みで働いていた子はいたけどさ。思えば、その子たちと話なんてしたこと無かったなあ。話すにも、話題も無いし。そんなだから、みんないつも寂しがるんだよね。そういう時は、そこにいる子たちで慰め合うことばっかりしてた」

 「でも五十五が来てからは、いつの間にかおいらも寂しくなくなった。ただいまって言ってくれる人、五十五が初めてだよ」

 「おいらは五十五のことを凄く頼りにしてる。だから、ね。五十五もおいらのこと頼っていいんだよ」

 彦三郎は五十五と向き直り、五十五の目を見て話す。

 「その、根っこの解決になるわけじゃないけど、それでも、五十五には、笑ってほしくて」

 どこか懐かしい言葉に、八尋の中で何かの感情を思い出す。

 「それに、宿の子同士の慰め合いなんかじゃなくて、おいらも五十五と町の子同士がやってるみたいに遊んでみたいなって。なんてね」

 いつも悪戯に誘惑する彦三郎ではない。友を想う純粋な気持ちだった。

 それでも五十五は視線を落とす。彦三郎を頼る、それはどういう意味かは五十五にも分かる。

 初夜を終えていない五十五との約束を裏切ってしまうような気持ちがどうしても拭いきれない。そのため、彦三郎と身体を重ねることは出来るだけ避けたかった。

 一方で、この時代は既婚であっても婚約者以外とも身体を重ねることは悪いことではない。むしろ、八尋ほど行為を拒む者の方が珍しい。

 「ごめん。五十五の気持ちを考えてなかった」

 初めての夜は一緒になった人としたいと願う五十五の思いを彦三郎は否定しなかった。

 言葉に詰まってしまった五十五を見て、彦三郎も視線を落とす。

 「あ…いや、おぬしは何も悪くない。謝るのは俺のほうだ。近頃、まずい飯にしてしもうとる。本当に、すまん」

 八尋は、彦三郎の気持ちも大切にしたい思いもあった。

 彦三郎の言う『遊び』が、町の子や村の子がやる程度の遊びということも分かっている。友達同士でじゃれあいたい。純粋な彦三郎の気持ちだ。

 「その、おぬしと遊びたい気持ちもあるんだ。だが、その…」

 寂しいと言い当てられてしまった八尋は、どこか彦三郎を信頼しきれていないような罪悪感も覚えていた。

 彦三郎は大事な友達だ。しかし、二人は剣士と男娼、地位や身分に天地の差がある。男娼の彦三郎が武家の子供に遊びたいなど言ってしまおうものなら、その日のうちに彦三郎の雁首が並んでもおかしくない。

 それでも遊びたいと告白したことが、それほどまで五十五を信頼している証でもある。

 そして、八尋自身も遊びたいという気持ちは本音だった。

 あの一件から精神的にも、正直なことを言えば本能とも言える肉体的にも、彦三郎との遊びが必要だった。

 「あはは。ええよ、余計悩ませちゃった。でも嬉しいな、本当はおいらと遊びたいって聞けて」

 「すまん…不甲斐なくて…」

 「ほら五十五、ご飯足さなきゃ。すっかり冷めちゃっちまってら」

 彦三郎は笑いながら、囲炉裏の火かけてあった小鍋から粥をとって、冷めてしまった五十五の椀に足した。


 「ずっと、何に悩んでたの?」

 ふいに彦三郎が問うた。何にと、五十五はどう答えたらよいのか悩む。

 一つ思いついた様子で、五十五は彦三郎と目を合わせた。

 「ここに来る以前から、とある者から言われたことがある。俺の目は、他の者たちに良くも悪くも影響を与えると。その時、俺はその言葉の意味をあまり理解しておらんかった」

 五十五は目を逸らして続ける。

 「だが、ここへ来てから、目が違うと言われることも多くなった。そしてようやく分かったんだ。俺の信念についてくれる者と、気に入らず敵対する者を分ける目をしていると。俺は、こんな勢力争いを生み出したいとは思ってなかった。だから、俺のやるべきことは正しいことなのだろうかって」

 しばらく沈黙が続く。彦三郎はひとつ頷いて、五十五に話す。

 「それでも、五十五はやらなきゃいけないって分かってたんでしょ。おいらは、五十五の成さんとすることが間違ってるだなんて思わない。町屋を変えて、明日を作ろうとするだなんて。おいらには、とても真似できないよ」

 「もっと早く、彦三郎に話せばよかった。なぜだろうな、こんな簡単なことだったのに」

 「ううん、それはしょうがないよ。おいらと五十五は何もかも違うから。おいらも、今日まで五十五と、どこか近づけない感じがしてたから」

 「やはり、分かってたか」

 「分かるよ。五十五って、真面目だもん」

 五十五は「そうだったな」と呟き、彦三郎の頭を撫でた。

 「なあ、おぬしは、彦三郎はどう思う」

 「どう、って?」

 「その、俺の目がどうのって…」

 「もう、そういうのは本人に聞いちゃだめなんだよ」

 もっともだ、と五十五は下唇を噛んで目を逸らした。

 「そうだね。おいらは、五十五の目は好きじゃないかな」

 五十五は目を大きくして言葉に詰まる。ありえたかもしれない返答だとは覚悟していたが、直に言われるとは思っていなかったのだろう。

 「五十五やみんなが言った通りだよ。五十五はすごく真っすぐで、ずっと先を見てるような、何か希望に満ちた雰囲気があるんだ。今日が楽しければいいって思ってるおいらみたいな人にはね、五十五はまぶしすぎるんだ。だからね、五十五の目は嫌いだった」

 彦三郎は続ける。

 「でもね、夕飯までの五十五を見てて、すごく不安になったんだ。だから、今の五十五の目のほうが好きだよ。いつも通り、真っすぐで、頼りになる五十五が」

 「いつも通り…?」

 「うん。いつも通りの、かっこいい五十五だよ」

 彦三郎が五十五の頬を撫でる。五十五は「そうか」と、一言呟いた。

 「五十五も元気になったし。おいらもようやく、安心して仕事に戻れるよ」

 「おい、身体は大丈夫なのか?」

 「あはは、使えるところは使わないと。だけど、今日まで五十五が心配だったから、ね」

 「そういわれると、本当に申し訳なかった」

 面目つかない様子に、五十五の耳がへたれる。本当に分かりやすいな、と彦三郎は心の中で笑った。

 「じゃあ、ひとつ提案していい?」

 「ああ、いいぞ。おぬしの頼みなら」

 ふふん、と得意げに彦三郎は話す。

 「今度から、夜に時間が合う時、おいらがいろはを教えてあげる」

 「あ、遊びではなく、教えると…!?」

 「そう。これってすごく大事なことだよ。だって、五十五はまだ一緒の子と初夜を終えてないわけでしょ?じゃあ、その日は五十五にとっても、その子にとっても大事なことなんだよ。考えてごらんよ、初めての夜で、五十五が何も出来ずに、ただただ触ったりするだけだなんて…」

 五十五は視線を左斜め上にあげて考える。確かに当日を迎えて、きちんとしてあげることができるか、流れが皆目見当がつかなかった。

 「ほら、ちゃんと帰ってからできるように知っとかなきゃ」

 「わ、分かった。言われてみれば、確かに教わったほうが良いかもしれぬ」

 「決まり!だいじょうぶ、おいらが五十五を立派な男の子にしてあげるからさ」

 「なんだか、その言い方だと不穏だな…」

 そんなことないと、彦三郎は明るく笑う。ここまで彦三郎が積極的に押してくるのは初めてだった。

 「そういえば、五十五の一緒の子ってどんな名前?」

 「う、それはだな…」

 五十五と結婚することは、誰にも話したことはない。さらに、今の姿では、相手の名前を出すことはとてもできなかった。この話が少しでも漏れてしまえば、八尋神社にも大きな影響が出る。

 しばらく俯いて悩んでいたが、五十五は上体を起こして指で空をなぞる。

 「彦三郎、俺はおぬしを信じておる。必ず口外しないと、誓えるか?」

 八尋の霊力で、外から認識されないように結界を張る。風の音すらも遮られ、ふたりはしんとした空間に包まれた。

 突如辺りの音の消えたこと、五十五の真面目な声色で、彦三郎の表情も変わる。

 「…誓える」

 聞くべきではなかったと察しながらも、「信じている」の言葉を受けて、彦三郎も自身の発言に責任を持った。

 「俺の相手は、八尋神社の主神、八尋だ」

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