第5話

 群青色に近づきつつある明け方。八尋は目を覚ますように、ゆっくりとまばたきをする。障子から透き通る外の色から朝が来たことを知った。上体を起こし、耳の裏を掻く。いつもより大きな耳に違和感を覚え、明るい黄金色の体毛を目にする。八尋は、『これから』の自分を思い出すように、自身の身体を見回した。

 昨夜、ふたりは営みの中もうひとつの約束を交わした。

 霊狐が妖狸に化けて妖狸の長に、妖狸が霊狐に化けて霊狐の長に。それぞれの役割を欺き、狐と狸が共に生きられる国を作る。

 よほど成し遂げられるとは思えないこの道を、二人は歩み始めたのだった。

 晩冬とはいえ、観蛇山の朝はまだ真冬のように寒い。今朝は晴れ空になりそうな天気模様の予感がする。営みを終えたまま眠った五十五…いや、八尋は、一糸纏わぬ姿だというのに震え一つ見せなかった。寒いという感覚は長らく忘れていた。凍るような寒さには、とうに慣れてしまっていたのだから。

 朝の礼まで時間があると思った八尋は、まだ青色の朝日を頼りに書物を手に、灯篭を灯して読むことにする。さすがに裸のままでいるわけにはいかないと、八尋の小袖と狩衣を着付ける。今まで八尋や霊狐たちを見て真似をしていただけあって、着付けに問題は無かった。袖を通した時、八尋は大好きな人の匂いに包まれる。袖口を大きく嗅いで、強く八尋を意識した。

 「そうだ、僕も頑張らないと。…五十五も町屋へ行ったんだ、ここは僕が守らないと」

 自身に言い聞かせるように、声に出す。姿形、声色までも一寸の違いもない八尋だったが、どこか弱々しさがあった。それを振り払うように、八尋は目を瞑って頬を叩く。ひとつずつ息を整え、ゆっくりと目を開ける。そこには今までと変わらない気迫のある、八尋の目があった。

 八尋はまだ薄暗い部屋に細目になりながら、書物を読みあさる。まずは一日の流れと、祈年祭について再確認しなければならない。不安は大きくあったが、八尋はその程度で怯えるほど弱く無い。

 ひとつ身体を震わせ、もうひとつ羽織りをかぶった。書物を見る限り、普段の一日は何とかなりそうだ。祈年祭についても概要は分かったが、実際の光景が思い浮かばなかった。日々改善を続ける普段の一日とは違い、決まった儀式を行う祈年祭に具体的なやり方など書いているはずもない。明日までに、合間を見つけて情報を集めるしかないと、八尋は大きく息をついた。

 そうしている間に、境内からの気配が大きくなる。もう霊狐たちも起きて一日の仕事を始めているようだ。

 いよいよ、八尋の一日が始まる。

 八尋は服装を正して、境内へと向かった。


 拝殿のあたりまで出ると、八尋の姿を見た霊狐たちがたちまち挨拶をする。八尋は一人ひとりに挨拶を返しながら、境内を見て回る。誰一人として八尋を不審に思う者もおらず、いつもの八尋神社の風景が流れていた。

 稽古場の前まで来ると、他の霊狐たちと同じく掃除をしている永明を見つける。永明の方も八尋に気づき、箒の手を止めて挨拶をした。

 「八尋さま、おはようございます。今朝も寒いですね」

 「ああ、永明もおはよう。この冬の寒さも、来月には嘘のようになっておるだろうな」

 「そうですね。明日は年の始まりの祈年祭ですし、またこれからの始まりを実感させられます。祈年祭では今年も御教授させていただきます」

 期待の念を込められたような視線を八尋は感じ、微笑んで返す。

 「永明も、明日の祈年祭はよろしく頼むぞ」

 その言葉に、永明は大きく頭を下げた。

 「そういえば、今朝は永助が珍しく失敗しておりました。昨日、私の布団に潜り込んだのは良いのですが…田踏みで八尋さまと村の者に褒められたことに嬉しくなりすぎたようで。明日の祈年祭の前に嬉しさを堪えられず、布団をやられてしまいました」

 呆れ笑いを見せながら、永明は溜息をついた。どうやら、永明の布団に潜って寝た永助が嬉ションのような寝ションをかましてしまったようだ。永助が失敗するのは、ここ数年聞いていなかったはずだが、それほど嬉しいことだったのだろう。興奮しやすい永助は、まだ癖が残っているらしい。

 「どうりで。いつもなら一番に挨拶をする永助を見ないと思ったよ」

 八尋はクスクス笑いながら、永明に話す。

 「さっきまで、ここで一緒に掃き掃除をしてたのですがね。私が、八尋さまがお見えになったと言うと、ぴゃーっと逃げていきまして」

 「そうであったか。では、あさげまでに永助を見つけられるようにしておこう。飯を食う時まで居心地が悪いままでは、永助も可愛そうであろう」

 永明と話をしている間に、八尋を見つけて背後から近づく人物がいた。先に気づいた永明は、その人物に頭を下げる。振り返ると、神主の雪村が立っていた。

 「八尋さま、おはようございます。八尋さまが来られたと永助が知らせてくれました。永助には社務所の掃除を任せて、私は挨拶に参りました」

 「おはよう、雪村。ちょうど永助の話をしておったところだ。そうか、永助は社務所におるか。では、あさげの前に寄るとしよう」

 いつも通りの八尋に、雪村は様子を伺うように見つめていた。

 雪村だけは、事前に八尋から二人が入れ替わることを伝えられている。だからこそ、目の前の八尋が五十五ということを信じられない様子で見ていた。

 一方で、雪村を内通させている事情を伝えられていない五十五は、ごく自然な振る舞いをしたはずの自身を見つめられ、ややギクリとした感情を浮かべる。

 八尋はその場をごまかそうと、雪村に首をかしげて話す。

 「どうした雪村、まだ意識がはっきりしておらぬようだが。しっかりせえ」

 八尋の言葉に、雪村はハッとした様子で表情を戻した。

 「すみません。私としたことが、今朝は早くから目が覚めてしまったようで…。明日の祈年祭のこともありますし、不摂生のないよう気をつけます」

 「明日は一日、祈年祭で忙しいからな。あまり眠そうな面を村人に見せると心配されるぞ。とはいえ、おぬしに仕事を任せすぎている私も問題があるか。…昨年より、頼みごとが増えているような気がしてな。合間を見つけて休んでもらった方が良いのだが…」

 八尋は眉を寄せて、やや申し訳なさそうな表情で雪村を見る。普段の業務に、永明の指導。それに町屋の件まで仕事を増やしてしまっている。ヒト一人でさせるには休む暇もない。

 「いえ、私は社で従事させていただけることが幸せですので。今年も、お側にいさせていただだきます。八尋さまも、今年もお力添えの方、よろしくお願いします」

 永明たちの掃除の邪魔になってしまうと思った八尋は、「では私は」と、二人に告げ、稽古場前から社務所へと向かっていく。

 雪村はどこか遠い目を見せながら、八尋の尾を見送っていた。

 「雪村さま?どうかなさいましたか」

 ぼうっとしている雪村を心配するように永明が声をかける。

 「すいません、なんでもございません。本当に、いけませんね」

 「八尋さまの言う通り、少し休まれては…。明日の祈年祭の準備は、後は我々のみでも出来ると思いますし。あさげの後、少しくらいは…」

 「…そうですね。八尋さまともお話して、休息を頂くことにします」

 明日は大事な祈年祭。何事も無く終われば良いのだが。八尋も雪村も、不安を掲げたまま、祈年祭が近づいてくる。


 「いただきます」

 朝食の時間となり、稽古場とは反対の広間へ集まり、霊狐たちと朝食をとる。八尋は問題なく、朝の礼と朝食前の歌を進めることができた。何度も見てきた光景なだけあって、身体が覚えているような感覚があった。

 ひと安心して食べ始めようと、自然と箸へ右手を伸ばそうとする。そこで八尋はハッとするように手を引っ込めた。

―――八尋って、どっちの手で箸持ってたっけ…!?

 普段、あまり見ない部分で忘れていたが、八尋は左利きなのだ。そして人前で食事をとる際、左手で箸を持つことは無礼なことだとされている。親しい仲では左手で箸を持つことも許される風潮があるが、親の前や多人数での食事の場では、左利きでも右手で箸を持つことが常識とされている。

 一瞬手を止めてしまったことで、雪村がチラリと八尋を見る。視線を察知した八尋は、さっと右手で箸を持って、左手で碗を持って食べ始める。

―――こういう場では、八尋は慣れてなくても右手で食べるはず…。

 雪村とは視線を合わせず、いつものように朝食をとる。しばらく食べているうちに、雪村が声をかけた。

 「八尋さま、お箸の使い方がお上手になられておりますね」

 その言葉に八尋は吹き出しそうになった。まるで急に右利きになったと当てられたような気がして、八尋は変な汗をかく。

 「まあ、何年も練習してきたからな。コツも掴めてきたよ」

 八尋は誤魔化すように笑って、食事を進める。とはいえ、最後に食べ終わる者と合わせないといけないため、逃げるように食べるわけにはいかない。きちんと終わりまで待ってあげなければならない。

 食べるペースをゆっくりにしたところで、雪村が八尋に話しかける。

 「八尋さま。よろしければ、あさげの後、少し休む時間をいただきたいのですが…。今日の仕事も終わらせておりますし、祈年祭の準備も後は永明たちで済ませていただけるそうなので」

 「えっ!あ……そ、そうか。そうだな、明日のこともあるし、少し休むと良い」

 八尋はやや驚いた声色で返答してしまった。明日の祈年祭について、雪村から話を聞いて情報を集めようと思っていたため、八尋には困る提案だった。とはいえ、つい先程休んだ方がいいという話をしたばかりだ。断る道理が無い。

 八尋は目元を掻きながら、どうしようかと遠くを見渡す。

 「その前に、あさげが終わりましたら、八尋さまともう一度祈年祭についてお話しておきましょうと思いまして。八尋さまにも、何度もお手を煩わせて申し訳ございません」

 助け舟を出すように、雪村は提案する。確認という都合を作り、少しでも八尋に祈年祭の段取りを教えようとした。

 「構わないぞ。私も、もう一度見直しておこうと思っていたところだ」

 ちゃんと教えてもらえそうだと、八尋はホッとした様子で返答する。とにかく明日までの時間が少ない八尋には、雪村が頼りだった。

 その心中を察した雪村は、八尋に気づかれないように、ふふっと笑う。


 祈年祭当日。八尋は気づけば、霊狐たちの龍笛や太鼓の演奏が響くなか、村中の者たちが祈りを捧げる眼前にいた。自身の前には、まだあるのかと言わんばかりの御供えが、今も霊狐たちによって、一つ一つ丁寧に並べられている。普段からの頂き物とは比べ物にならないほどの御供えの数々に、自身が祀られているのだということを八尋は初めて実感する。

 祈祷用に作られた拝殿。そこから見渡す限りに人が押し寄せ、祭神である八尋へ祈りを捧げる村人や、それを飾るように演奏する霊狐たちの姿を一望すると、拝殿の隅からこっそり覗いていた祈年祭とは明らかに違った空気を否応無く覚えた。

 村人たちは全員、正座をして手を大腿に置き、黙想するように俯いている。ひとつ、またひとつと御供えされていく村の収穫品に八尋は目を向ける。この御供えは、誰から貰ったのか、どこで採れたのか。普段の八尋なら、御供え物に思いを浮かべながらこの時間を過ごしているはずだが、今の八尋には御供え物に寄せることのできる思いは一つもない。変に怪しまれないように、形だけでもと、表情ひとつ変えずに、並べられる御供え物に視線を移していた。

 御供えが並び終わると、太鼓で指揮をしていた永明が、無言で合図を送り演奏を止める。しん、と静まりかえる拝殿の中、村人、霊狐一同の礼による、衣服の擦れる音だけが二度流れた。一呼吸あけて、二拍手が響く。また、静寂が訪れる。そしてもう一度、礼の音が流れる。この礼に、各々の想いが込められているのだろう。

 時が止まったかのような静けさの中、八尋は緊張でいっぱいだった。それでも、八尋の姿形、雰囲気からは何一つ変わりはなかった。

 五十五の化け術は普通の化け術とは全く違う。霊狐や村人たちの想いに触れ、その形になるように化けている。この場の誰もが、本殿に鎮座しているのが八尋だと信じており、それを疑う者はいない。その者の想いを受け取って化ける、これが五十五にしかすることが出来ない、特異な化け術だった。他人を偽る通常の化け術では、このような人々の想いに直接触れてしまうと、化けの皮が剥がれてしまい術が解けてしまう。真実を願うことが、化け術の対応策の基本でもある。いつぞやの四辻の言葉である、「八尋に化けるものなど、恐ろしくて居やしない」とは、こういった理由があった。

 ほどなくして、拝殿の一段上がった中央へ雪村が正座する。八尋は雪村と視線を合わせた。主神と神主、普段の雰囲気からは一段と違う、主従関係がはっきりと分かるような重厚さがあった。

 二礼、二拍手、一礼

 儀式的な動作ではなく、その行為一つ一つに想いが込められている。特段強い想いを持つ雪村の行為、それらは今の八尋にも感じることができるほどだった。

 雪村は懐から祝詞を開き、言葉にして八尋へと伝えていく。

 祝詞を読み上げる雪村の姿は、威厳も含む美しさが感じられた。普段の優しい口調に、時折茶化した言葉遣いの雪村とは打って変わって、神主としての雪村を見る。お経のような声色で読み上げているが、どこか馴れ親しみのある大和言葉であった。祝詞の内容を後で調べなければならないと覚悟していた八尋だが、聞いているうちに自然と内容が入っていた。

 日頃からの感謝の意と今年の稲作への願い。村の想いを代表するかのように、雪村は祝詞を終える。祝詞を懐へしまい、一礼。八尋と目線を合わせて、もう一度、深く一礼して、その場を後にする。

 祝詞を終えて見計らった頃、龍笛の音が鳴り響く。太鼓がひとつ跳ね、四人の霊狐が演舞の舞台へとあがる。大人の霊狐が二人と、子どもの霊狐が二人。子どもの霊狐の片方は、永助だった。霊狐たちは笛の音と太鼓に合わせて、演舞を始める。先日、村の田踏みで永助が見せたあの舞だった。四人は息を合わせて、流れるような舞を見せる。神楽のような力強さとは違う、儀式的な息を飲む雰囲気があった。

 舞台にあがった永助は、狂いなく舞い続ける。去年の秋、例大祭の龍笛の披露で緊張していた幼い永助の姿が嘘のようだ。あの成功体験が、ここまで彼を押し上げるものだったというのか。どこか大人びた表情を見せる永助に、五十五は心の中で、永明の面影を見た。

 祭神を楽しませる例大祭の時とは違い、祀る神への祈りを重視する祈年祭の演舞は短い。演奏の終わりとともに四人は八尋に礼をして、下がっていく。もう終わってしまったと感じるほど、魅入っていたようだ。

 「では参列者の方々、おひとりずつ御祈祷をお願いします」

 雪村が参列者の村人に伝えるように話す。前から順に一人ずつ立ち上がらせ、八尋の正面へと誘導する。

 八尋を前にした村人は、言葉に出さず、心の中でお願いするように祈祷する。言葉に出さずとも、願いは八尋へと伝わる。生まれて初めて、人からの祈りを受けた八尋は、どこかふわっとする感覚を覚える。耳の奥とも言えない、胸の奥のような箇所から、願いの景色が浮かんだ。こうありたい、こうなってほしい。緑の稲が大きくなる夏、田が黄金色に輝く秋、家族と家の中で過ごす暖かい冬、目の前の者の人生そのものを触れたような気がした。その景色は霧に煙るように八尋の中から消える。祈祷を終えた村人は、八尋に大きく一礼をして下がっていった。

 一人目の祈祷を終えた時、八尋は自身の重大さに気付かされた。主神という、社の神様とはどういうものなのかを身をもって思い知った。八尋が村の者たちのことをよく知っている意味も初めて気づいた。八尋は、村のことを自分自身のことのように考えていたのだ。とにかく目先の人助けをして、地道に歩もうとしていた自分が、これほど小さい存在に思えてしまう日は無かった。

 あの人のために、自分は何が出来るだろうか。そう考える暇も無く、次の祈祷者が八尋の正面に立った。八尋は祈祷をする村人から目が離せなくなる。ひとり、またひとりと願いを受け止めなければならない。

 参列者が、あと何人いただろうか。一人辺り僅か数十秒で終える祈祷のはずが、これほどまで長い時間に感じるとは思いもしなかった。


 昼食の時間をやや過ぎた辺り。祈年祭を一通り終え、境内では炊き出しが開かれていた。参列者の殆どが大人の男や老人たちだった祭事中とは変わり、炊き出しには村の子供たちがはしゃいで駆け回る姿があった。畑仕事をする者は、早速稲作を始めようと各々の家へと帰ったのだろう。それらと入れ替わるように、家の女たちが子どもを連れて社に来たようだ。八尋神社の祭事では、村の者たちが集まれる日でもある。そのため、村人同士で世間話をしたり、家の仕事をサボれると、子供たちが集まって遊び場にもなる。昼食を食べ終えて、追いかけっこをしている子供たちの中に、同い年くらいの霊狐も混ざっている。その中には、永助の姿もあった。

 「八尋さま。祈年祭、お疲れ様でした」

 雪村の部屋で姿勢を崩し息をつく八尋に、雪村はお茶と頂き物の菓子を出した。

 八尋は肉体的よりも、精神的な疲労がどっと積もった様子を見せる。すまん、と一言だけ返して、八尋は茶をすすった。

 「無事に終えられて良かったです。今年も、良い稲作になるといいですね」

 なるといい、の言葉に、八尋は大きな責任感を覚えた。あれだけの祈りを聞いたのだ。八尋に化けてやり過ごそうと考えていた五十五だったが、とても放っておけるものではないと思った。しかし、神力も霊力も持たない五十五に、何が出来るだろうか。

 「八尋さま、いかがなさいましたか…?」

 あまりに無言だった八尋を心配するように、雪村が様子を伺う。そう、普段の八尋なら、祈年祭はどうとでも無いはずだ。

 「ああ、すまん。少しぼうっとしてもうた。…今日は、みなは稽古をやめて休むようになってると思うが、おぬしはどうするんだ」

 「はい。私も、今日はお休みを頂こうと思います。とはいえ、日が落ちる前には霊狐たちは片付けに忙しくなると思いますし、私もゆうげの手伝いをしようと思っておりますが」

 「そうか、それは霊狐たちも助かるだろうな。俺は……そうだな、今日の祈祷で聞いた願いを、書き物にまとめておこうと思う」

 「それは良いことだと思います。一人ひとりの願いを聞き入れることができるのは、八尋さましかおられません。私も、頭が上がりませんよ」

 「よさんか。俺だって雪村がいなきゃ、出来ないことも多い」

 雪村は、ふふ、と笑って返した。

 「まだ御食事をとられていらっしゃらないようですが、持って来させましょうか」

 「そうだな…。ああ、そうするよ。俺も飯にする」

 「承りました。では、本殿にてお待ちください。すぐにお造りいたします」

 「俺は別にここで…。あ、いや」

 ここで食べてもいいと、八尋が言いかけたところで言葉を止めた。祈年祭では、祭神に御供えとして作られる特別な食事がある。今日の場合の八尋の昼食とは、その特別なものを指す。それを神主の部屋で食べるわけにはいかない。疲れで忘れかけていたが、直前で思い出した。

 「わかった、本殿で待つことにしよう。その時に、また呼んでくれ」

 「あと、御食事のことですが…。御神酒はいかがなさいましょうか」

 八尋は酒が呑めない。前に一度、御供えされた御神酒を呑んだことがあったが、酒独特のクセの強さに、一口で返したことがある。前、といっても、八尋が永助のような幼子同然だった頃の話だ。成長した今では、前よりは呑めるはずだが、本人は嫌っている様子があった。

 「一応貰っとこうが、俺は呑めんからな。一口だけ貰って、酒だけ盆に残して置いておく、それは雪村が飲んでおいてくれ」

 御供えされた御神酒は、許しがあれば飲んでいいことになっている。霊力を込められた御神酒として、御利益にも繋がっている。

 「分かりました。御神酒の方は、感謝を込めていただきます」

 「じゃあ、あとは頼んだ。俺は本殿に戻るよ」

 雪村は大きく礼をして、八尋を促すように自室の扉を開ける。外からは、子供たちの声に混じって、永助の笑い声が聞こえてきた。


 本殿、自室へと戻った八尋は、筆をとって祈年祭で受けた願いを書き綴っていた。八尋のように左手で筆を持とうと思ったが、流石に利き手でない方で筆を走らせられるほど器用ではない。誰もいない今くらい右手でもいいだろうと、利き手に持ち替えて墨をつける。八尋が霊狐たちに書き物の手習いを担当していなくて良かったと安心した。

 書き進めるなか、祈祷した者の顔や願いは全員覚えているが、どうも名前が出てこない人物がちらほらいた。八尋は悩みながらも、忘れないようにと筆を進めていく。

 墨をつけた筆先が跳ね、文机を汚してしまう。しまった、と筆を置いて右手の甲で拭う。ふと、五十五よりも焦げた茶色の自身の手を見て、物思いにふける。

 今頃、五十五はどうしているだろうか。八尋は見つめる手を握りしめて、目を瞑る。

 そこに、八尋の耳がピクンと動く。呼ばれたような気がした。

 「あ…雪村…かな?この感じは」

 まだ入れ替わって二日目、八尋と呼ばれる感覚には慣れていない。八尋にも早く慣れないと、いや、当たり前にならないといけない事が沢山あった。

 八尋は一度筆を置き、立ち上がって服装を正す。八尋が社についた頃のように、ひとつひとつ丁寧に確認していた。

 やや早足で拝殿へと赴くと、予想通り雪村が正座して待っていた。

 「待たせたな、何用だろうか」

 雪村は座ったまま大きく礼をする。雪村と距離を詰めたところ、拝殿の舞台に八尋はあぐらをかいて座った。

 「旅の者が御祈願をしたいとのことで参られております。祈年祭でお疲れのところ申し訳ございませんが、御祈祷を行わせていただいても、よろしいでしょうか」

 八尋は内心、そっとしてほしいところがあった。朝から大勢の村人の祈祷を受け、まだ心の整理ができていない。とはいえ、参拝に来た者の祈祷を断るわけにはいかなかった。

 「わかった、すぐ支度をしてくれ。私は…」

 祈祷の際、自身のやるべきことを瞬時に思い出せなかった。不自然に言葉が詰まってしまい、八尋は緊張した鼓動を覚える。

 「はい。祈年祭と同じく、一度本殿にてお待ちください。支度、祓いと終えましたら、また御呼び致します」

 「あ、ああ。頼むぞ」

 雪村は説明するように八尋に話した。八尋の返事を聞いた雪村は、もう一度礼をして、祈祷の準備へと拝殿から出て行く。一人になった八尋は、己の情けなさが混じった溜息をついた。とにかく、社の仕事くらいは滞りなく出来るようにならなければ話にならない。呼ばれるまで、一度本殿に戻って待つことにする。

 祈祷は祈年祭の時と変わらないはずだ、今日の通りでやれば大丈夫。そう自答しつつ、八尋は祈祷の流れを頭の中で描いていた。


 「では、御祈祷をお願いします」

 雪村は祈願を依頼した二人のヒトの旅人に話す。成人して間もない出で立ちから、まだ慣れない旅なのだろうと察する。二人の旅人は、雪村に促されるように礼をして、その場に正座したまま祈祷を始める。

 八尋の中に、旅人の情景が浮かんでくる。八尋の知らない景色、家族であろう者が見送る姿、島々を船で渡り、ここまで来たようだ。隣国の者ではなく、島の向こうからやってきたのだと八尋は悟る。ここへ来る途中、妖狸とすれ違う景色も見えた。この旅人が来たところでは妖狸はいないのだろうか、強く印象に残っていたようだ。

 祈祷の中、八尋の耳がピクンと動く。景色の中に五十五が見えた。三度笠に大きな朱の羽袖、着流しに平民袴を着付けたあの五十五が、旅人と何かやり取りをしている。声までは聞こえないが、何か相談している様子だ。しばらく話した後、旅人は五十五に食料を渡す。お返しにと、五十五が多少の金を払い、深々と礼をして町屋への道へと歩いていく。二人の旅人は、貰ったお金が本物であるかを確かめるように、互いの頬をつねる。本物の金であることが分かった二人が振り向くと、五十五の姿はもう見えなくなっていた。

 思いもよらぬところで五十五の旅が垣間見れ、八尋はひとつ安心する。怪我もなく、ちゃんと元気そうだった。五十五の景色が過ぎた後、これからの旅の安全を願う想いが伝わってきた。八尋も、二人の旅人を感謝するように、少しでも力になれないかと旅人の無事を祈った。

 旅人は祈祷を終え、二人は合間を置いて雪村を見る。雪村はひとつ頷いて二人に返した。

 「御祈祷が終わりました。それでは八尋さまより頂きました霊酒を贈ります。飲み終わりましたら、拝殿よりおさがりください」

 呑めないようでしたら、ひと口だけでも構いません。と雪村は付け足した後、八尋へと身体を向ける。

 「八尋さま、此度の御祈祷ありがとうございました」

 雪村が大きく一礼すると、続くように二人も礼をする。

 「良き旅になると良いな。春は近いとて、未だ白景色の日が続く。身体にも十分気をつけるが良い」

 八尋は一言だけ告げ、立ち上がって本殿へと戻っていった。

 中庭の見える縁側まで歩き、思いふけるように大きく息を吐く。口から白い息がお化けのようにうずまき、ゆっくりと消えていく。昼下がりの日差しの強い空を見上げ、目を細めて微笑んだ。

 五十五はこの雪の中、一人で町屋へ向かって大事を成そうとしている。祈祷を受けたくらいで疲れてなんていられないと、八尋は自身の目元を掻いた。

 「八尋、僕も頑張るよ。だから五十五も負けないで」

 今も遠くに離れつつある五十五に想いを送るように八尋は呟く。目を瞑って祈りを捧げ、八尋は自室へと戻っていった。


 風が吹くと雪に敷かれた地は風流を形作るように舞い上がる。痛みすら覚える冬風の冷たさに身を凍えさせつつ、五十五は笠を傾けて目元を守る。先ほど掃ったばかりというのに、五十五の笠も羽織も白一色に染められていた。

 関所を一つ跨いで身に積もった雪を掃う。今日はもう一つ進もうと旅籠の客引きに断りをいれつつ茶屋で一息ついた。ここを出ると次の街道まで山道を進むことになる、と休むことを勧められたが日はまだ高い。「なんとかするさ」と店主に返し、五十五は再び笠を付けた。

 山間は風が吹くたび、積もった雪が吹雪のように舞い、またも五十五を白く染める。木々は雪がのしかかり、白と黒に色が分かれる。鮮やかな紅葉を見せた秋の山はあんなにも心を温めてくれたというのに、およそふた月で山は冷たい景色に姿を変えていた。

 ふと、歩いている五十五の傘に、雪がとさりと叩いた。枝を見上げた五十五の口角が少し上がった。

 山頂へ着き、そこから見える道のりを見渡す。店主が言っていたように、まだ山が三つも続いている。急いだほうがいいなと、五十五は足を速めた。山道には慣れている。整備された山道を難なく進んでいるうちに、また平地へと出た。ここを真っすぐ進めば次の関所に着く、今日はそこで休もう。

 平地に出たことで、広い田んぼ道とともに人の住む家がちらほらと目に映った。真っ白な景色が続く田畑は眠りの時を教えてくれる。

 ふと、庭を持つ家々を覗くと松や灯篭の頭に雪が積もっていた。寂しくさせる気持ちは一切ない。今は休んでいるのだと知らせるような落ち着きを感じさせられ、五十五の心が透き通った。

 関所へ着き、五十五は白い息を大きく渦巻かせた。陽が落ち、人でいっぱいになる前に湯に浸かろうと五十五は湯屋を探す。無理をして今日のうちに山道を歩いたのは、この街道にある有名な湯屋で一息つきたかったから、という理由もあった。湯の匂いを辿り、五十五は早足になって湯屋ののれんをくぐる。まだ人も少ないことがわかり、五十五は機嫌よく刀を湯屋に預けて素っ裸になった。

 湯につかると、長旅をしてきたことを身体が教えてくれるように足が自然と伸びていく。軒下には鍾乳洞のようにいくつも氷柱が並んで水滴を落としている。夜になれば、もっと長くなっているのだろうか。こんな寒いのに露天かい、と声もしたが、煙たい中の風呂よりも外の空気が感じられる露天風呂の方が好きだった。

 ちらちらと降り続ける雪の中で浸かる湯は、社にいた頃から気に入っていた。足を大きく伸ばして空を見上げる。蒼天を埋める雲の隙間に色が見える。

 雲の移ろいがとても早い。今の時代が変わっていくような境目を予感させ、五十五は目を細める。

 湯につかる最中、何度も雪が顔をくすぐった。鼻先で溶ける雪の感触はむず痒いものだ。


 旅籠の向かいにある、今でいうところの酒屋、人々から『鏑矢(かぶらや)』と呼ばれる居酒屋には、今日も多くの人で賑わっている。男女の比率は極端に男に寄っており、せわしなく酒が運ばれていく。酔っぱらった男どもがギラついた目で女給仕にたかっている姿も珍しくない。女給仕は慣れた対応で男たちをいなしながら、未だ手がおぼつかない十二、十三ほどの歳の、ヒトの丁稚に次の指示をあげていた。若年の剣士の男、中年の飛脚、どれも旅人や職人など、肉体労働に疲れた男たちの憩いの場となっている鏑矢。その中に、丁稚の歳とも変わらぬ身体つきである、妖狸の五十五の姿は目立っていた。

 慌てた様子で、丁稚は五十五の座る机に、小鉢のお通しを持って立ち尽くす。丁稚は、同い年くらいに見える五十五が、他と同じ客なのかを不思議に思った様子で、五十五の姿を見回していた。世間知らずの丁稚が見ていられないのか、五十五の前に座って酒を呑む男は徳利を叩くように机に置き、声を上げる。

 「おい坊主、はよう小鉢を出さんか。剣士さまを見世物みてえにじろじろすんのは無礼が過ぎるぞ」

 五十五が右腰に差した刀は、丁稚からは見えていなかったようだ。羽織の裾から鞘が見えたのか、慌てて小鉢を五十五の前に出した。

 「気にするな。帯刀する者は、みな左に差しておるからな」

 「申し訳ございませぬ、私の注意が怠っておりました。それで、いかがなさいましょう」

 「飯と魚を、それと根菜を揚げてくれ」

 「承りました、それと…酒はいかがなさいましょうか」

 「いや、酒はよい。茶を頂けたら」

 丁稚がペコリと頭を下げ、急いで厨房へと向かっていく。途中、女給仕に叱られるように頭を叩かれている姿を見て、五十五はくすりと笑った。

 注文した夕飯が運ばれるまでの間、口を繋ぐように五十五はお通しの御浸しをつまむ。ようやく食事にありつけ、安心した様子の五十五とは逆に、目の前の男はつまらなそうな顔で息をついた。

 「どうした、息などついて」

 「おいわっぱ、鏑矢で茶なんて頼むんじゃねえよ。気分良くねえじゃろうが」

 剣士である五十五を立てた割に、口の悪さが目立っていた。空いた徳利が三本見えるところから、気持ちよく酔っているのだろう。

 「付き合えなくてすまんな、あまり酒は得意じゃないんだ」

 「そう、寂しいこと言うんじゃねえって、ほら付きあわんか。わっぱの剣士さまなんぞ、珍しいもんを見た」

 五十五の言葉を流すように、五十五に徳利ごと一本差し出した。男の方にはまだ二本の徳利がある。

 「剣士さまとか、無礼が過ぎるとかぬかす割りには、おぬしも随分な口ではないか」

 「いんや、ワシはお前さんを応援しておるぞ。なんせ、世が動こうとする時代だからな」

 五十五は耳をピクリと動かし、男と顔を合わせた。

 「なぜ、そのようなことを」

 「どうってことはねえ。世を動かすのは、いつも刀を握る者じゃけえな。わっぱのお前さんまで刀を差してるなんぞ、絵描きのワシとしちゃあ、そりゃもう御立派なもんじゃ」

 「ほう、おぬしは絵描きか」

 「ああそうじゃな。一昨日、町屋で仕事を頂いて、今までと比べ物にならん心づけも貰ろうてなあ。役目に向けて、鋭気を養っとるところじゃ」

 「その心づけとやらも、あまり無駄遣いするでないぞ」

 カッカと笑う男に呆れる中、先ほどの丁稚が割って入り、注文した料理を五十五に出した。八尋神社で食べていた白米とは違う、茶わんには強飯が盛られていた。

 「お待たせいたしました。それで、あの。私と同い年とお見受けする剣士さまとは珍しいとのことで、給仕よりお話を承るようにと…」

 「ああ、相席か、よいぞ。ついでに同い年くらいなら、気にせず楽に話そうじゃないか」

 「楽に…じゃあ、隣、座るな」

 五十五は刀を支えながら、右隣に一つ座りなおす。いつもの口調に戻しながら、丁稚が隣に座った。村の農家の少年とは違った、町の子のような口調だった。

 絵描きの男は、いいぞいいぞと、五十五の代わりに酒の付き合いができたことに喜ぶ。酒場の丁稚なだけあり、酒の付き合いには慣れている様子だ。子どもにはきついはずの猪口に注がれたどぶろくを、ありがたそうにグイっと一杯目を呑む。丁稚の呑みっぷりにカッカと絵描きの機嫌が治る姿を見た五十五は、騒がしい絵描きだ、と呟いた。

 丁稚は猪口を静かに置いて、五十五に話しかける。

 「剣士さまは…ええっと、何て呼べばいいんだろうな」

 「名前か?俺は五十五だ、ごじゅうご、と書いてイソゴだな」

 五十五は箸を置いて、左指でなぞるように机に書いた。

 「五十五…か。五十五はどこまで旅をするんだ?」

 「町屋だ。妖狸が集まっておると聞いてな、何かが動くとみて行くつもりだ。刀にも自信はある」

 「そういや、わっぱ。刀は左に差すのが礼儀ってもんじゃねえのか?鞘同士が当たったら、やっこいぞ」

 五十五と丁稚が話す中、絵描きが割って入った。

 侍や浪人剣士など、帯刀する者は左に差すことが礼儀となっている。すれ違う際に鞘同士が当たってしまえば、相手には大変失礼なことになる。

 「ああ、他の奴にも言われた。だが、俺はこれでいい。その方が早く知られるだろうからな」

 「町屋で、名を馳せようとしてんのか」

 「まあ、そうだな」

 へえええ…と、声を漏らし、丁稚は憧れの眼差しで五十五を見る。

 「あまりジッと見るな、食いづらいだろ」

 五十五はやや照れくさそうに焼き魚をほぐす。

 「腕に自信があるっつっても、ワシから見りゃあまだまだ青二才じゃがなあ」

 その言葉に五十五は言い返すことはできなかった。

 確かに、五十五は人に対して刀を振るったことがない。

 「わっぱ、流派はどこだ。誰から刀を習った」

 「師はおらん」

 「おらんじゃ、ほいじゃあ野良犬剣法ってことか?」

 「そうなるな。各地の術書しか読んだことがない。野良犬よりはマシだろ」

 「そんで、刀に腕がたつとぬかすか」

 「物の怪には、刀で負けたことはない」

 話を聞いて、やや心配そうに丁稚は五十五を見る。

 「妖に負け無しとはいえ、あんま、無茶すんなよ。最近、うちの店でもガラの悪そうな剣士や侍が店に来てるんだ。話を聞くと、みんな町屋絡みだって…」

 言葉の終わりにかけて、声を小さくして伝える丁稚が話し終える辺りのことだった。

 「お…噂をすればじゃ。見てみい」

 丁稚と同じように、小声で絵描きが話した。

 目線の先を追うように、五十五と丁稚は振り返って鏑矢の入り口を見る。そこには袴に羽織を纏って帯刀する、大柄の妖狸がいた。その横顔を見ただけで、荒場を潜ってきたような風貌の顔付きと分かる。恐ろしいねえ、と絵描きが茶化す中、五十五はその妖狸に見覚えがあった。

 以前、八尋が始めて町屋に来た時の案内人。関所の門番を務める、四辻だった。

 なぜ四辻が、町屋から離れたこんな鏑矢に。それに、以前とは雰囲気が全く違っていた。絵描きや丁稚が言う、まさにガラの悪い剣士と思わされる、堅物のような顔をしていた。

 「おい、わっぱ。いらうように見るとまずいぞ…」

 絵描きが注意するも遅く、席を見渡した四辻は五十五の存在に気づく。

 二人は一呼吸ほど目を合わせた。

 五十五は何も語らず、視線を食事に戻す。鏑矢は未だに賑やかな声が響く中、五十五の席にいる二人は静まり返っていた。

 強飯を一口頬張った辺りで、五十五の右隣に誰かが座った。絵描きは、へへ、と徳利を挙げ、丁稚はぺこりと一つ頭を下げた。

 「お前さん、どっから来た」

 どこか懐かしい四辻の声が隣から聞こえた。やはり、あの四辻で間違いない。だが、あの頃の四辻とは思えぬほど、声色が暗く聞こえた。

 「東から。この間までは、観蛇山のある方へいた」

 「…狐の山の方から、か」

 「狐は嫌いか」

 答えなかった。

 四辻は席に来た女給仕に絵描きと同じ酒、五十五と同じ魚を頼んだ。

 絵描きと丁稚は居心地が悪そうに、お互い目線を何度か合わせていた。

 「すまんな。せっかくの酒盛りに、席を悪くしてしまったようだ」

 五十五はひとつ笑って、絵描きに話す。五十五も食事を終えて、茶碗と箸を置いた。

 「爺さん。そっちの坊主と、もう一杯呑んどいてくれや」

 四辻は懐から硬貨を握り、じゃらじゃらと机に置いて絵描きに差し出す。

 「へ、へへ…別にどっちゃことねえって…。おい、坊主。ひとつ、隣いくか」

 絵描きは四辻からの心づけを恐る恐る手に取り、ひとつ離れた机へと席を移す。

 元の席には、五十五と四辻の二人だけが残った。二人の剣士。大柄の妖狸と少年の妖狸。隙を見せれば化かされてしまう、お互いを探り合うような、妖狸同士のどこか掴めない雰囲気が流れていた。

 四辻の元へ酒と魚が運ばれる。女給仕は帰り際に、五十五の食べ終わった盆を持って帰る。四辻は一人、徳利から猪口へどぶろくをついだ。

 先に言葉を出したのは、五十五からだった。

 「構えるな、俺はどうもしない。じいっと目を向けたことは謝る」

 「そうかい。儂はこの後、お前さんとやり合うことにでもなると思っとったわ。恨まれ相手を斬るのは好まん。ましてはお前さんみたいな小僧は特にな」

 四辻はそれでも隙を見せなかった。表情一つ変えず、酒を進めていく。酔わぬようにと、ちびちび口にしている。寂しい酒にさせてしまったと、五十五は顎下を掻く。

 八尋は四辻を知っているが、四辻は五十五のことを全く知らない。知らない妖狸が、それも帯刀した子どもが自分を睨んでいて、警戒しないわけが無い。

 「おぬしは、侍か」

 五十五は茶を一口すすり、四辻に問うた。侍なのは分かっている、どこかやりにくそうな五十五は、当たり障りのない話を繰り出す。

 「主に仕えた侍が、夜中こんな鏑矢におると思うか。ただの剣士だ、行くあてのない浪人よ」

 五十五は眉をひそめた。少なくとも関所で妖狸を纏める実力と、久松から八尋の案内を任されるほどの信頼は持たれている人物のはずだ。雪村が穢れた霊狐を連れ帰る際に、馬と霊狐の形代(かたしろ)を四辻ひとりで手配をしてくれたこともあった。八尋も、四辻の器を認めている。

 だからこそ、五十五は四辻の答えに違和感を覚えた。しかし、その話ができるのは八尋であって、五十五ではない。

 五十五は一つ遅れて、「そうか」と答えた。

 「お前さん、ひとつ聞いていいかな」

 「なんだ」

 四辻は間を開けるように、ひとつ猪口を口にした。

 「その刀、どこで手にした?」

 四辻が初めて五十五と目を合わせた。尋問するような、逸らすことを許さない目線に、五十五は釘付けにされる。関所で番人と思わされた、あの四辻の目だ。

 その目を見た五十五は、本当に四辻で間違いないと確信する。

 五十五は席に目を戻して、湯呑みを両手で握った。

 「大切な者から頂いた、俺の刀だ。それが、どうした」

 「…いや、儂の考えすぎだ。以前、あるお方が似た刀を帯刀しておったもんでね」

 「まさか、俺が盗んだと」

 「いや、簡単に盗めるものでもなかろう。俺の思い過ごしだ。これでおあいこで許してくれ」

 四辻も徳利に目を戻して、自分の猪口に注ぐ。

 探り合うような雰囲気も先ほどよりは幾分か緩んでいる。頃合いを見た女給仕が、酒の注文とろうと五十五の元へ来る。四辻の隣でただ茶をすするだけというのも申し訳なくなったのか、揚げ出しを一つ頼んだ。

 「お前さん、町屋へ行くつもりだろう」

 「ああ、そうだ。よく分かったな」

 「妖狸の剣士が、もう何人も町屋へ行くのを見てる。風が移ってしまうな」

 「ここしばらくで、町屋が大きくなっていると噂に聞いたのだ」

 「だがお前さん、ひとつ気をつけな」

 四辻が猪口を置いて、八尋に顔を向けて話す。

 「今の町屋は、強くあらねば命が持たぬぞ」

 「俺が弱く見えると」

 「そうだ、お前さんにはその気迫がない。青二才の若造…いや、それ以下だ」

 「そこの絵描きの爺にも言われたよ。…精進せねばならぬな」

 「しかし、芯が通っておるのも見える」

 どういう意味だ、と八尋は黙って四辻の目を見る。

 「そう、その目だ。その目は良くねえ。見た者によっては、お前さんを容赦なく斬るやもしれん。一方で、その目を信じて、付いてくる者もおるだろう」

 「一体、何を」

 「儂は、そのような目を見たことがある。それだけよ」

 志半ばで命を落とすなと、四辻からの忠告なのだろう。時代が変わる、その一片を話に聞いた五十五は、その身に覚えさせるように右手で鞘を握りしめた。

 「なあ、おぬしの名は何と…」

 五十五の言葉をかき消すように、鏑矢の外から怒鳴り声が聞こえた。鏑矢で呑む人々の多くが声の主に視線を集め、ざわめきはじめる。何事かと、五十五も気になる様子で外を覗くように体を傾ける。鏑矢前の通り道に、妖狸の男らしき二人がヒトの男に難癖をつけている姿があった。

 賑やかだった鏑矢も静まり、店の中はざわつく声へと変わっていく。見世物のように、みな外の三人を見物する。四辻に至っては顔すら向けず、ただ酒を呑んでいた。

 「だ、だからそんなつもりは毛頭ないと…!」

 「うるせえ!俺の面目を、どうしてくれようかと言っとるんだ!」

 ヒトの男は篭屋だろうか。足元には大きな担ぎ荷が見える。

 一方、妖狸の二人は帯刀していた。面目、という言葉から、恐らく侍であることが分かる。剣士と違い、誰かに使える侍は面目に重きを置く。主人の面を汚さないよう、さらには自身の誇りは命より重い。ゆえに、気に入らない地位の低い者を容易く斬り捨てる事件が時折あった。悲しいことに、大きな城下町では珍しくない。

 とはいえ、今、五十五がいる鏑矢のような田舎で侍とのいざこざが起こることは珍しい風景だった。旅の宿としての宿泊地では、宿は侍からの心づけで、一番良い部屋へ泊めることが常識になっている。侍は部屋で待っているだけで、料理や召し物の面倒を見てもらえるため、一歩も外に出なくても良いはずなのだが。

 「おねげえします、どうか、どうかお許しを…」

 騒ぎを聞きつけて、周囲の注目が集まる中。篭屋の男は、頭を割ってしまうのではないかというほどに、何度も地に頭を押し付ける。侍の二人は、その優越感から口角をあげる。

 このように、侍の中には、己の地位の高さを見せつけるように、自ら難癖を付けて下人を伏せさせる者もあった。

 二人の妖狸の様子を見て、五十五は眉をひそめた。このまま威張るだけで終われば良いが、妖狸の侍からはその気が感じられない。周りの人々への見せしめをつけようと、五十五は侍から危険な気を察知する。

 「篭屋の癖に、その商売道具は飾りか。職人なら、もっと気張らねばならんと思わんか?みなにも一つ教えてやろう」

 斬られる。侍の声色から、五十五はいてもたってもいられなくなった。誰かが行かねば、篭屋の腕が一つ落ちる。そんな惨たらしい結末となることが分かっていても、道にいる見物人や、鏑矢の人々は誰一人として動こうとしない。

 五十五は四辻を見る。それでも四辻は微動だにせず、顔すら向けなかった。

 見損なったぞ。五十五は失望の念を込めるように四辻を睨んだ。

 五十五は鞘を支えつつ、席から立つ。その姿を見た四辻は、五十五に口を聞いた。

 「お前さん、本気か」

 ようやく言葉が出たと思えば、やめておけというような言い草だった。五十五はその言葉に、怒りに似た何かを覚えた。

 「なぜ誰も行こうとせん」

 「侍を相手に、誰が止められるものか。刀を持たぬものは立ち向かえぬだろう」

 「ならば、おぬしは何故行かん。なぜ見向きもせん。人が、斬られるやもしれんのだぞ」

 「あやつを助けてどうなる。あのような事、世にいくらでもあるぞ。助けたところで、儂らは何も変わらん」

 五十五が言い返そうと思った矢先に、鯉口を切る音に耳を立てた。四辻と言い争っている場合ではないと、五十五は四辻の元から離れる。残された四辻は、世間知らずの子供を見たような溜息をついた。

 「……若いな…」

 五十五は人の合間を縫うように、鏑矢の外へと出て行く。その姿を見た丁稚と絵描きの驚いたような声が聞こえた。

 鏑矢から出てきた五十五を見た侍の妖狸は、苛立った様子で五十五を睨んだ。

 「あ?なんだオメェは…」

 五十五は伏せている篭屋の男を遮るように前に立った。辺りのざわつく声が大きくなる。

 「この者が何をしたかは存ぜぬが、刀を下げた二人が集るのも如何だろうか」

 五十五の声に気づき、伏せていた篭屋の男はそっと顔をあげる。自身を守ってくれている者が、十二、十三の妖狸の少年ということを知った男は目を大きくしていた。

 「おいおい小僧、まるで俺たちが悪者みてえに言ってくれるじゃねえか。そりゃちげえぜ」

 「では、何と」

 強気の姿勢を見せる五十五に、篭屋の男はわなないた。

 「わ、若様。お侍さんにそのような口は…!」

 「そうよ。俺らは町屋の領主、九頭様に仕える侍だ。そんで、この田舎宿を見回りに行くよう命を受けて街道を歩いてる時によ、この篭屋が、俺らに荷をぶつけてきた訳ってことだ」

 九頭、という本命の言葉を聞いた五十五は、奥歯を噛みしめる。

 「こんな仕事もろくに出来ないやつは、どういう目に合うかってのを、宿屋のやつらに教えるのも俺たちの仕事ってことよ。悪いことは言わねえから、そこをどきな。今なら、そいつだけで勘弁してやるよ」

 妖狸の侍は妖気を漂わせながら口角をあげた。化け術を使うつもりか、と五十五は身構える。何を見せようが、五十五はどうということはない。

 だが、妖狸の侍の狙いは五十五ではなかった。篭屋の男に向かって、人差し指を斜め上に、ふっと、空を斬った。

 そして五十五の真後ろから、息を吸うような男の悲鳴が聞こえた。五十五が振り返ると、篭屋の男は左腕の感覚を失ったようにぶらつかせて、何かを追うように右腕を伸ばしていた。

 「ひ、ひいぃい!オラの、オラの腕が!どっかいっちまう!」

 妖狸の侍は、篭屋の腕を斬り落としたような化け術を見せたのだろう。恐怖に弱った者ほど、簡単に術にかかる。

 「あ、あれはまことか!妖狸とは、本当にこのような事が…!」

 その様子を見た周囲の見物人からも悲鳴があがる。そして化け術は連鎖するように、多くの人々にも見せられていった。

 見たことのない妖狸の化け術に混乱していく周囲の人々を見て、五十五は侍に声をあげる。

 「おい、やめろ!なぜこのような真似をせねばならん!」

 「九頭様から強く言い聞かされてんだ。九頭率いる妖狸の力を見せてこいってな」

 自身の力に、人々が恐れる光景を見た侍の妖狸は下品に笑った。その姿が、かつて九頭から、八尋も同じことをされた記憶を思い出させた。

 「貴様らァ!」

 五十五は霊力を辺りに振りまき、化け術を解いた。妖気に淀んだ気が何かに打ち消されたように、辺りの気質が元へ戻る。

 「なっ…!?テメエ、何を!」

 化け術を見せていた妖狸は、自身の化け術が、少年の妖狸に簡単に消されたことに驚いていた。先にかけた化け術に対して、さらに化け術で打ち消し、または返すことは至難の技とされている。所謂、化け返しと言われており、化け返しをされた時点で、その者と圧倒的な力の差があることが明らかにされる。

 「弱き者に刀で、ましては化け術で伏せようなど、何という外道!」

 しかし、五十五は実際に化け返しをしたわけではない。自身の持つ霊力、霊術によって、化け術に使われる妖力を中和させ、打ち消しただけだった。社の霊狐たちや、雪村などが使える護身術の一つだ。だが、妖狸の五十五が、よもや霊術を使ったとは、ここにいる全ての者は気づくことは出来ない。

 それは四辻ですら気付けなかった。それは何故か。霊力と妖力の性質は本来同じもの、それを真に理解しているのは、八尋と五十五のみだったからだ。

 「退け外道ども、ここは貴様らが居てよい場ではない!」

 景色が戻ったことに、人々は少しずつ落ち着きを取り戻す。何が起きたのか、まだ理解できずにいるものが多かった。

 「小僧…俺らをコケにしやがったな。どうなるか分かってるんだろうな!」

 化け術で敵わないと分かっても、妖狸の侍は、それでも引き退らない。面目の立たなさから、退くことができなくなってしまっている。

 「まだ退かぬと申すか!消えろ!刀に物を言わせるぞ!」

 周囲の人々を絶対に守らねばならない。過去のような、同じことはさせないと。五十五は鞘から霊刀を抜き、刃先を妖狸の侍に向けた。五十五と共鳴するように、五十五の霊刀からは、妖狸には恐ろしいほどの、とてつもない霊力が漂う。

 「ぬ、抜きやがったぞ、あの若いの!」

 歓声のような、周囲の驚きの声が上がった。刀を抜いた、ということは、命をかけて己を貫くという意味を持っていたからだ。

 五十五も熱くなりすぎていた。その声を聞いた五十五は、しまった、と心に過ぎった。四辻の言う通り、こんな軽率な行動をとってしまう五十五はまだまだ幼い。対人戦闘の経験の無い五十五に真剣勝負など、雪村が聞けば卒倒してしまうだろう。

 俺に勝てるだろうか。霊術による妖退治ではない、刀による本当の勝負なのだ。ここにきて、五十五の中にも不安が積もる。だが、引き退るわけにもいかない。

 「こ、こん餓鬼ぁ…。俺を抜かせようってか…!」

 「お、お前抜くのか?あの餓鬼もだが、なんだか刀も気味が悪いぞ…!」

 「知ったこっちゃねえ!このまま帰ったら、俺たちだってタダじゃ済まねえぞ!」

 二人で喧嘩するように、妖狸の侍も刀に手をかける。本当に恐怖を覚えているのは、侍のほうだった。口では威勢が良いが、未だ鯉口を切れていない。だが、このまま町屋に戻ればどうなるか。九頭からの圧を考えると、侍も退くことが出来ないのだった。

 やるしか無い。五十五が覚悟を決め、刀を強く握り直したその時だった。

 「おぬしら、そこまでにしようや」

 店から出てきた四辻が、ゆっくりと五十五の隣に立った。

 「たいそうな大人二人が、こんな若いの一人と真剣勝負たあ気持ちがいいもんじゃねえな。それに、術勝負もついてただろう。まだ足りぬか」

 少年の五十五と違い、修羅場を潜ってきた雰囲気を持ち、その大柄の体躯の四辻が語る言葉は、どこか威圧感があった。

 「なんだジジイ、その餓鬼の肩を持つというのか!?」

 「ほう。足りぬと申すか。なら…」

 四辻が鯉口を切る音を立てる。それは紛れもなく、警告の意を含む威嚇だった。

 「うっ…!」

 五十五だけではなく、四辻までも相手にしなければならない。二人の侍は刀を抜くことなく、互いに目を合わせて、察したようにジリジリと後退していく。

 「お前ら、覚えとけよ!」

 二人の侍はお決まりの捨て台詞を吐き、逃げるように走り去っていった。

 長い緊張が解け、五十五は息を吐きながら刀を鞘にしまった。戦いにならなかったことの安心感もあれば、久しく慣れない喧嘩に身を投じた疲労感が強かった。

 「助太刀、感謝する。俺一人では、あやつらも引くことは無かっただろう」

 「己の力量をわきまえず、やたらと刀を抜くでない。…真剣勝負など、したこともなかろう」

 四辻は、五十五が刀を構えた姿を見ただけで悟ったように語る。五十五が刀を交わす戦いをしたことがないと。五十五と同じような、大きなため息をつくと、鯉口を切った刀を元の鞘に収めた。

 「お前さん、今夜は宿を変えて俺の部屋に来い。雑魚寝部屋で一夜明かすには、あんたは目立ちすぎただろう」

 「…すまん、恩にきる」


 五十五は宿に預けていた荷物を受け取り、四辻の借りた宿に向かう。五十五の借りた宿から数件離れた場所だったが、五十五の借りた雑魚寝部屋、いわゆる大部屋で、隙間を見つけて寝るような部屋ではなく、きちんとした個室であった。個室の方が値段も格式も高い。八尋の自室と同じくらいの、二人が寝るには十分の広さがあり、机や茶棚、着物掛けまで一通り揃っていた。

 「まあ、適当にくつろいでくれ」

 「本当に良いのか?払える金など、雑魚寝部屋ほどしか無いぞ」

 「年の割りには、律儀であるな。気にするな。儂とて、子を連れたようで気は悪くない」

 子供扱いの嫌味に表情を悪くする五十五を横目に、四辻は羽織を脱いで、壁に吊るすように掛けた。帯刀していた刀も外し、備え付けの着物へと着替える。

 五十五も部屋の隅に荷物を置いて、同じように着替えようとする。しかし、棚に入っていたのは大人用の着物しかなく、子供の五十五には着られる大きさのものが無かった。下着姿で、自分の着物が無いのに気づくのは、あまり格好がつかない。

 五十五が唸る様子を見た四辻は、またひとつ笑った。

 「すまん、気がきかんかったな。ちょいと世話人に聞いてこよう」

 四辻は笑いながらも、懐刀を携えてから部屋から出て行く。

 「用心な男だ」

 裸のままで待つ訳にもいかないと、ひとまず五十五は羽織だけをかけて待つことにした。ふと五十五は、窓際に立って外の様子を眺めた。外はとうに日が落ちて、気づけば夜中になっていた。そんな中、鏑矢の店の明かりが大きく目立つ。日が落ちてからが本番と言わんばかりに、五十五が居た時よりも大きく賑わっている。先程の争いが嘘のように、元通りの街道の雰囲気があった。

 五十五は少し、不思議な感覚を覚えていた。八尋であった時は、昼間は多くの霊狐や村人に囲われ騒がしく、夜はいつも一人で静かなものだった。ところが、五十五になってからは全く逆の一日を送っている。昼間は一人で旅路を歩き、夜は賑やかな街道を過ごす。人の声が絶えない雑魚寝部屋では耳が慣れず、あまり眠れない日もある。少し気疲れしてきた中で、四辻の個室を借りれたのはありがたかった。

 窓際から外を眺めているうちに、ちらちらと雪が降り始めた。今夜も寒い夜になる。社の自室から眺める夜雪が、八尋は好きだった。月明かりや篝火に照らされた雪景色は、黄昏るような、どこか気持ちを落ち着かせてくれた。街道の雪景色もまた、五十五の口元を和らげる。

 「お前さん、雪が入ると、畳が傷むぞ」

 声の方へ振り向くと、綺麗に畳まれた着替えを持った四辻が、部屋へと戻ってきた。四辻に言われ、五十五が足元を見渡すと、窓から入ってきた雪がとけて煌めいていた。

 「すまん。つい、見とれてしまっていた」

 五十五は木戸をガタガタと鳴らしながら閉める。寒い風に吹かれたせいか、部屋の灯りが二つ消えていた。灯りを付け直すように、五十五は簡単な霊術で火を灯す。ぼうっとした橙色が、部屋に戻る。

 灯りをつけ直した五十五の足元に、四辻は放るように着物を寄越した。

 「ほれ、貰ってきてやったぞ。寒かろうに、わざわざ戸を開けて待っとらんでも」

 「昔から雪景色が好きなんだ。虫の音ひとつ無い夜に、雪が降る景色が」

 「虫の音は無くとも、人の音で騒がしいだろう」

 窓を閉めた後でも、酔った人の叫び声が外から響いた。

 「それもまたいいさ」

 「寒いのに強いねえ…儂はもう、これが無きゃ、冬は越せねえな」

 コトリ、と四辻は机に徳利を置く。また酒か、と五十五はため息をついた。

 「まだ一刻しか経っておらんぞ、まだ呑むのか」

 「なに、眠る前にひとつ酌をするだけよ。ほら、座んな」

 一つの徳利に、猪口は二つあった。晩酌に付き合わせようと、五十五を対面に座らせる。

 「俺は呑めんぞ」

 「鏑矢の酒とは違う。日本酒だ、子どもでも呑める。それに、なんだって呑めねえっつうんだ」

 「…前に呑んだ時、ひどく不味くて呑めなかった」

 そうかい。と、四辻はひとつ笑う。五十五の言葉を流すように、猪口に日本酒を注いだ。

 「そいつは、幾つの時だ」

 「まだ刀をさげる前…十の身体にもなる前だ」

 「なら大丈夫だろう。もうお前さん…いや、名前を聞いておこうか」

 「五十五だ。ごじゅうご、と書いてイソゴ。おぬしは?」

 「儂は四辻だ。よんのつじ、賢いお前さんには分かるだろう。ほれ、一気に呑んでみな。もう十のガキじゃない、立派な大人よ、五十五は」

 五十五は疑いながら猪口を手にとって眺める。四辻の勧めた通り、口につけて一口で呑む。あまり良い予感のしない五十五だったが、ひとつ口にしただけで、その不安も一瞬で消え去る。米の甘さを舌で感じ取り、これは、と思うと、透き通るように馴染んでゆく日本酒の後味が広がった。初めて酒を呑んだ時の嫌味のある癖とは全く違う、どこか良く思えた一品だった。

 成長によって味覚が変わったのか、知らない間に、まずいものとしか思えなかった酒が呑めることに気づき、五十五は不思議そうに舌を動かす。

 予想もしてなかった体験に、五十五がきょとんとしている様子を見て、四辻は話す。

 「ほら、呑めるだろう。子の成長は、当の本人にも分からぬほど早いもんだ。話をするついでに、今日は付き合ってくんな」

 「これくらいなら、まあ、いいだろう」

 五十五に続くように、四辻も一口で呑んだ。空になったお互いの猪口に注ぎなおして、息をつく。

 「そんで、お前さんの本当の目的は何だ。五十五がただの妖狸の子ではないのは、化け返しを見りゃ分かった。儂も、あの侍程度の化け術なら返すことは出来るが…お前さんのような、風を吹かせたように容易く返すのは見たことねえ」

 五十五は黙って聞いていた。

 「かと思えば、刀を抜けばヒヨッコ同然の風貌ときた。お前さん、人を切るどころか、手合いもしたこともなかろう。見てられんかったわ」

 「軽率なことをした。四辻が出てくれねば、やり合うこととなっていた」

 「鏑矢で言っただろう。お前さんの、その目が良くねえ。腕も立たぬのに刀を抜くな…。今の五十五が町屋で抜いてみろ、明けの日も見れんぞ」

 「なぜ、町屋で俺が刀を抜くと」

 「儂は長いこと、町屋の関所におった。いろんな輩を見てきたさ。お前さんが下げてる刀、格好をつけるためのもんじゃなかろう」

 四辻は五十五の言葉を待たず、続ける。

 「お前さんはさしずめ…町屋を変えようと企ててんだろう」

 五十五は言葉を返さなかった。四辻は、今まで何人もの、町屋へ来る人を見てきたのだ。真意は分からぬとも、その者の目的が分かるのだろう。

 まあ呑め、と四辻が促した。五十五は四辻から目を離さず酒をすする。

 「なに、お前さんの首を取ろうなど思わんよ。儂は少し前に、その関所から追い出されたわけだからな」

 「追い出された?なにゆえ」

 「時代だよ。ひと月前、久松殿から変わって、九頭が体制を取ることとなった。久松殿から任されておった儂の仕事も九頭派に取り上げられてしもうた」

 「おぬしは、九頭には付かぬのか?」

 四辻は先程とは違い、猪口をチビチビ呑む。

 「儂はな、久松殿に仕えておった。九頭では無く、久松殿にだ。儂のように、久松殿に仕える者は少ないながらもおった。反発する者は、次々と消されていったがな」

 「消された…つまり」

 「斬られた、ということよ。仲間を失った儂には、町屋から離れるしか道がなかった」

 五十五が知らない間にも、町屋は急激に変わっていたようだ。町屋に集まる妖狸は、九頭派の勢力を大きくするためのものに違いない。そして、鏑矢の前で騒いでいたあの妖狸の侍も、九頭の命令で町屋から来たと叫んでいた。

 「お前さんは、そんな町屋に行こうとしてんだ。儂が心配する気持ちも分かるだろう。それでも、お前さんは行くのか」

 五十五は目を閉じて俯いた。ひとつ、ふたつ、間を置いて、五十五は四辻の目を見て答える。

 「行くさ。俺は町屋を、人と妖狸の町屋を変えなければならん」

 「…五十五のような者は見たことが無い」

 「おぬしは、四辻は何もせんのか?」

 四辻は猪口を置き、ふたつほど目を逸らしていた。

 「儂は…儂がまた必要とされる時まで待つさ。久松殿のようなお方が、もう一度国に着く日まで」

 「左様か…いや、何でもない」

 「手が貸せんと知って、また睨まれるかと思うた」

 空いた五十五の猪口に四辻は日本酒を注ぐ。

 「仲間を斬られたうえに追い出されて、立ち上がれと言えるわけなかろう」

 「五十五こそ、なにゆえそこまで町屋を変えなければならんのだ。刀で世を動かすということは、そういうことだろう」

 五十五は注がれた猪口の水面を揺らして、答える。

 「大切な者との約束だ。俺が町屋へ行くのと同じくらい、その者も大きなものを背負って待っておる。だから、俺は行かねばならんのだ」

 「大切な者…か。お前さん、その年で一緒の子がおるのか?」

 五十五はゆっくりと頷いた。五十五がこの世で最も大事にしている者が、手元の猪口に映っていた。

 「…尚更、死ぬわけにはいかぬな」

 四辻はひとつ笑って、猪口を空ける。そして四辻は続けた。

 「宛てはあるのか?」

 「いや…無い。だが、必ず俺にも縁のある者がおるに違いない。一人で城攻めするほど無謀なことはせん。だがその為にはまず…」

 「強くなりたい、と」

 「本当、四辻には見通されるな」

 五十五はくすりと笑った。今日は喋りすぎている。五十五も自覚しているが、不思議と嫌な気はしない。

 「刀を下げた男子の思うことなど、大抵みな同じよ。五十五、剣の腕はどれほど立つ」

 「それなら、おぬしも見たであろう。あのざまよ」

 「いや違ぇ。人に刀を向けたことは無くとも、違うものに向けていたであろう」

 五十五は顎に指を置いて答える。

 「山の妖や物の怪を伏せるのに、剣を振るってはおった」

 「そうかい。なら、やはり格好だけじゃねえんだな」

 四辻は、空になった徳利を振って、終わってしまったことを告げる。話を続けるように、徳利を音を立てて机に置いた。

 「明日から、しばらく共にしよう。お前さん、町屋へ行く前に一度回り道をすべきだろう」

 思いもしなかった四辻の提案に、五十五は目を大きくした。

 「本当か」

 「丁度、儂も町屋の近くへと戻る所だった。町屋を追い出されてから、近くの山を根城にしておるからな」

 「しかし、おぬしは手を貸せぬと…」

 「五十五が本当に、町屋で己を成さんとするのかと試そうと思ったまでよ。今のお前さんじゃ、結果は見えておる。だから、五十五の言う…縁のある者、の一人になるだけよ」

 「とんでもない。その心遣いが、どれほど有難いことか」

 「手合いもしてやろう。明日から、覚悟しておれ」

 頼れる人物を見つけた五十五は、どこか希望を見つけたように、明るい表情をする。

 「今夜は、良い酒の席だった」

 「出来ることなら、明日からも付き合ってはもらえんか」

 これから子どもを酒に付き合わせることに、四辻は誤魔化し笑いをして話した。

 その言葉に、五十五は少しはにかんで、四辻に答える。

 「晩酌くらい、なら」

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