第4話
飛脚の捜索はまだ続いていた。とはいえ、村の者も、社の霊狐たちも、殆ど諦めているところもあった。
この時代、突然人が消えることは珍しいことではない。何者かに襲われたのは間違いないだろう。それも、金目の物を殆ど持たない飛脚が消えたのだ。襲ったのは山賊や野伏などでは無い。誰かが、意図的に指示したことなのでは無いかという話は、八尋と雪村の間でも行われていた。
もうすぐ冬が終わる。とはいえ、春の訪れまでひと月はある。今日も八尋神社は、朱の鳥居が白く染まるほどの雪に覆われている。仮に飛脚が生きていても、ひとりでこの冬を越すのは現実的では無い。
八尋も諦めかけていた時、雪村から知らせが入る。
「八尋さま、飛脚のトビさんが見つかったようです!先ほど、霊狐たちがここへ運んで、社務所で休ませております」
まさに吉報だった。難しい問題だと思っていたものの一つが、良い方向に進んだのだと八尋は喜んだ。
「本当か!俺もすぐ行く、雪村も来てくれ!」
そうだ、諦めてはいけない。町屋も、五十五も、必ず何とかなる。悪いことだけが続くわけない。八尋は自信を取り戻そうと、頭の中で繰り返した。
兎も角、まずは飛脚の様子を伺おうと、八尋は雪村と社務所へ急いだ。境内では、霊狐たちが誰しも気になっている様子で、ざわついた雰囲気だった。散漫している霊狐たちを叱るように、雪村は声をあげて霊狐たちを持ち場に戻らせる。今日は一日、霊狐たちの間でも話題となりそうだった。
社務所の霊狐が数人、休憩室の中を伺おうとしている姿があった。八尋と雪村に気づいた霊狐のひとりが、あちらです、と部屋を指す。八尋は一言だけ礼を置いて、社務所の霊狐を下がらせる。
部屋に入ると、ここまで運んできた三人の霊狐と、介抱を受けている飛脚のトビが居た。トビの意識は戻っており、布団の上で上体を起こしていた。切られたであろう箇所に包帯が巻いてあった。
八尋はトビの正面へ座り、安堵の表情でトビに話す。
「トビ殿、気が付かれましたか。霊狐たちがトビ殿を見つけたと聞いて、ここへ運んできてくれたようだ。無事で本当に何よりだぞ」
トビは「ありがとうございます」と答え、軽く礼をする。斬られた怪我の痛みで、深く礼を出来ないことを詫びていた。
「良ければ教えてくれ。一体、何があったのだ」
トビは一つ置いてから、話し始める。
「八尋さまが町屋に行かれて間もなく、領主の久松さまから、直々に文を運ぶようにと命を承りもうした。町屋の治安も、なにやら怪しい雰囲気になっているという話から、私の身を案じてくださり、町屋から離れた籠屋から文を頂いたのだが…」
「久松殿からの文…?」
八尋は雪村と目を合わせる。領主から手紙が一切届かなくなった理由が、これで判明した。トビが話を止めたのに気づき、八尋は続けてくれと頼む。
「ここの村に入る、ひとつ前の籠屋を出た辺りのことだ。街道を走っている最中に、妖狸の侍に声をかけられた。その声に気づいた時には、私は知らぬ山道へ迷わされてしまった」
「妖狸だと!?ここらで妖狸が現れるなど…!」
「おそらく化け術とやらに惑わされたようだった。私も術にかけられたのは生まれて初めてでしてな。…逃げ脚には自信があったのだが。しかし、それを分かっていたかのように、やっこは集団で来よった」
一人の飛脚程度に対して、化け術を用いる妖狸を数人で襲わせるという話は徹底されすぎている。何か暗躍があると、八尋は親指を顎に当てる。
「妖狸に囲まれては、足も成す術を持ちません。最後の手として、雪村さんから頂いた霊符を散らして、奴らを脅かしました」
「その隙に一気に走り逃げようとしたんだが…囲いを抜け出す時に、妖狸の一人から腹を切られてしもうてな、私はたまらず地に伏せた。這うように走っとったが、妖狸に追いつかれてしもうた」
「倒れた私は刀を向けられ、終わりじゃと思ったその時…、見知らぬ少年が草薮から現れ…術を操って、妖狸を退けよった」
見知らぬ少年。というのに八尋は首を傾げる。
「そのまま気を失った私は、気づけば山小屋に運ばれとった。そこでしばらく私を世話してくれたんが、妖狸の少年だったわけです。よもや、こんな心優しい妖狸が、町屋から遠いこの地におったとは…」
五十五のことだ、と八尋は直感した。八尋の表情が明るくなる。
「妖狸の少年と申したか、もしかしたら私の知っとる者かもしれん」
「おお…左様でございましたか…。私も、あの少年がおらんと、妖狸はみな町屋におるような輩しかおらんと思っとった。目は広く持たんといけんな」
五十五、やったぞ。良かったな。と、八尋は心の中で喜んでいた。これがきっかけで、村にも五十五の居場所を作れるかもしれない、なども考えていた。
「それは良かった!こちらでも、ゆっくり休まれると良い。霊狐たちにも、村を見回るように申し付けておる。村のことも、安心せい」
「それと、その妖狸の少年は、まだ小屋におるのか?是非、礼を言っておきたいのだが…」
「あ、あの…」
明るい声色で話す八尋に対して、非常に申し訳なさそうな様子で、霊狐が割って話す。
「八尋さま…その、大変…申し上げにくいのですが…」
「その、トビのいる小屋を見つけた際に、トビの側に、その妖狸と思わしき少年がおりまして、その…」
「その少年がトビを襲った本人と思い、我らで訊ねたのですが…何も答えず、その場から突如逃げ出したので…」
「我らで調伏して、しまいました…」
八尋はその言葉に凍り付いた。霊狐の三人の外装から、誰一人として争った様子が伺えない。調伏したというには、違和感があった。
「その、一切抵抗を見せなかったのを不思議に思っていたのですが、化かされているのではないかと思って…その…」
霊狐の言葉に、トビも俯いていた。
「私もその話を、八尋さまが来る前に霊狐さまから耳にしました。私を看てくれていたあの子は…と」
「も、申し訳ございませんでした!」
どうしようもなくなった様子で、霊狐たちは命乞いをするかのように床に頭を押し付ける。
「…トビ殿。その少年は、どんな身なりをしておったか」
八尋は恐る恐る、トビに訊ねる。
「薄灰の小袖に、草色の平民袴を纏った大人しそうな少年だったろうか。朱の羽袖を大事そうにしておりました」
五十五のことだ、と確信できる証言だった。
驚きか焦燥か、口を開いても声とは形容できない息だけが漏れていた。
「なぜ抵抗しない相手を伏せたのですか!敵か味方かも確かめる前に術を行うなど、社の霊狐としてあるまじき行動ですよ!」
普段の修行こそ厳しいが、声を荒げることのない温厚な雪村が、これほどまで感情的な声色で怒鳴る姿は初めてだった。その姿に圧倒され、一度顔をあげた霊狐たちは、たちまちひれ伏せる。
「申し訳ございません!ここいらで妖狸などでた事無かった上に、部屋にはトビ殿もいらっしゃったので、あの妖狸が犯人だと…」
「トビさんの恩人を仇で返すとは、どんな言い訳をしようが…!」
雪村は口を止めることなく霊狐を叱りつけていた。その間、八尋は凍りついたように雪村や霊狐の言葉が耳に入らなかった。
「八尋さま。私は二つ山の山中にある小屋で世話になっておりました。かの少年が逃げたとすれば、その向こう側でしょう。あそこは我ら飛脚も通れぬ獣道です」
トビの言葉に、八尋は呟くように居場所を復唱した。トビは自身の竹籠から、五十五に着せたはずの朱の羽袖を取り出し、八尋に手渡す。
「急いで」
その言葉を引き金に、八尋は羽袖を握りしめて社務所から飛び出した。一瞬だけ聞こえた雪村の声にも構わず、雪降る昼下がりの山へと駆け出した。
―――五十五が調伏された…?
そんな訳ない。あの五十五がやられる訳ない、いくら修行を積んだ霊狐といえど、五十五がやられる訳がない。でも、霊狐たちに汚れ一つついていない。そんな、社の霊狐だからって、五十五が無抵抗なわけが…。五十五は霊狐になりたがってた、霊狐たちに見つかって、問い詰められて、そこで必死に説明しようとしていたら…。でも、妖狸がそんなことするわけないと決めつけて…。そこで五十五が逃げて、霊狐たちが捕まえようと霊術を…。ああ、町屋の事件から何も変わってないじゃないか!
八尋は走りながら、なぜこんなことが起きてしまったのか、考えるだけで頭の中がごちゃごちゃになっていた。町屋の化け狸と呼ばれる出来事の積み重ねから、悲しいほどに小屋での場面が想像できてしまう。
―――どうして狐のまま化けていなかったんだ。なんで化け術で逃げなかったんだ。
「…バカか俺は!なんで五十五だけ、そんなことまでしなきゃ生きられないんだよ!ちくしょおォ!」
間違っているのは自分たちの方だ。五十五は何も悪いことはしていない。ただ、妖狸だったがために、疎まれているだけなのだ。
誰一人と通らぬ獣道を通り、二つ山へと急いだ。観蛇山、二つ山。どちらも幼い時から五十五と暮らしていた山を、まるで野狐の頃に戻ったかのような身のこなしで先を急いだ。
八尋の思考が落ち着いてから、五十五、五十五と心の中で何度も呼びかけた。絶対に会える、必ずいるという思いを込めて。
八尋のような霊狐、神霊は人の想い、願いから存在を成している。それは妖狸、妖の五十五も全く同じ性質から成り立つ。今ここで五十五を失えば、人々の心に残っているのは町屋の化け狸である五十五だけになってしまう。そうなれば、五十五は悪意に満ちた妖となって落ちてしまい、一緒に山の神になるどころか、調伏されるべき大妖となってしまう。八尋はそれだけは、絶対に避けたかった。八尋は、いつも一緒に笑ってくれる五十五を呼び続けた。
観蛇山を抜け、二つ山も中腹辺りまで入った。ここまでむやみやたらに駆け続け、八尋がかぶっていたはずの烏帽子も落ちて、狩衣も乱れていた。トビが話していたであろう小屋があったのを見つけた。
小屋の中を確認すると、ほんの少し前まで、五十五が生活していた雰囲気があちこちに見えた。乾燥させた保存食、古くなった替えの下着や服。五十五が好きな龍笛も置いてあった。そして、それらを全て壊した象徴ともいえる、霊撃の跡が焦げるように残っている。
八尋は悔しさに歯を食いしばる。早く五十五を見つけなければならないと、八尋は五十五の痕跡を探そうとした。五十五が座っていたであろう場所、寝ていたであろう場所、笛を吹いていたであろう場所。五十五が過ごしていた痕跡に手を触れ、目をつむって五十五の存在を知ろうとする。
八尋は目をつむったまま、淀んだような闇の中から、子どものように泣きじゃくる五十五の声が聞こえた。
見つけた。五十五が無事なことが分かった。声の方へ向かうように、八尋は小屋を後にして、再び山道へと消えていった。
五十五を探す途中、兎や鹿などの山の獣たちが五十五の気配がする方角と反対へと離れていく様子を感じた。冬の山で眠る獣たちが目を覚まして逃げるほどの気配。妖気を抑えて隠せるはずの五十五が、山の獣にまで影響を及ぼしている。この場を離れたくなるような気持ち悪さ、嫌な予感を八尋も感じ取った。山が騒ぐほど妖気が漏れてしまっている、社の霊狐たちにも全員気づかれてしまっているに違いない。八尋の想像以上に、五十五は追い詰められているようだ。
五十五の気配を辿り、少しずつ近づいて行った。過去に観蛇山を巣食っていた悪鬼や妖を退治した時とは比べものにならない妖気が漂っていた。八尋は、まるで掴み所のない夢の中を歩いているような感覚を覚える。踏みしめる土は粘り気のあるドロドロとし、濁った雪が足裏をまとわりつく。木々の間から流れる風には、雨に濡れた野犬のような湿気た臭いが鼻をつく。冬毛の八尋の体毛に、濡れるような風は気味が悪かった。
妖気に飲まれないように、集中して足を進める。五十五の化け術の気質に慣れている分、八尋はそれほど苦も無く歩くことができていた。今、山を取り巻く妖術は、五十五の心や思いが術となって現れている。五十五と過ごし、今までの五十五を知っている八尋にとっては、五十五の妖術は、五十五のそのものとも捉えて受け止めていた。もちろん、幼い頃から五十五の化け術を見続けていた分、気質や性格に慣れているというのも大きな点ではある。
この山を漂う妖気の中を歩ける者は、八尋しか居ないかもしれない。雪村や永明ですら、この中を歩くには相当の準備が必要になる。人間である雪村は、化け術にかからないように祓いを行わなければならない。霊狐である永明は、妖術によってその身が汚れ落ちないように霊気を強く集中させなければならない。妖によって穢れた地を歩くことは、容易なことではない。
辺りを歩く中、生きているのか死んでいるのかも分からない逃げ遅れた動物たちが、目を開いたまま泡を吹いて横たわっているのがいくつも見えた。
―――急がないと…!
八尋の進む足が早くなる。駆け走る途中、ヘドロのような雪混じりの土だまりに足を踏み込み体勢を崩した。慌てて前のめりに手をつき、その拍子に黒ずんだ雪混じりの土が八尋の目元に跳ねる。半目になりつつ拭う八尋の顔には、汚れ一つついていなかった。
雪の覆う山の傾斜に、不恰好に出来たかまくらのような洞穴を見つける。その洞穴の作り方に八尋は見覚えがある。声の主も、その穴から発しているようだ。八尋は雪と泥に足を取られながらも、洞穴の入り口へと駆け寄る。
まるで子供が横穴を掘って隠れたような小さな雪の洞穴。八尋ほどの、子供が通れそうな直径の入り口から、タールにも見える黒く穢れた気質がただれていた。特段、臭いを発しているわけでもないのに、異臭が漂っているような近寄りがたい気配を見せていた。
八尋は穴の中を探すように、手をついて屈むように中を伺った。穢れた気にまみれた地や雪を手で触れる姿を雪村が見たら、気絶するかもしれない。ところが、黒色の穢れは手を避けるように八尋が触れた箇所から消えていく。
「五十五、無事か!」
穴の奥へと叫んだ矢先、八尋はうっと顔を背きたくなった。洞穴の中には、悲しみや怒り、絶望や悲愴感といった負の感情がるつぼのように漂っていた。奥の方で赤黒い何かが蠢き、泣いているのが見えた。五十五はまるで野狸に戻ったころのような風貌をしていた。自分が妖狸であることを思い知らされ、その思いが姿形となって表れてしまっているのだろう。
五十五は大妖へと落ちる寸前。いや、退治されてもおかしくない状態になっていた。
「五十五、俺だ。こっちを見てくれ!」
八尋は再び五十五を呼んだ。呼ばれた名前とともに、五十五はしゃくり上げながら、ゆっくり八尋と目を合わせた。
生きていた。それだけでも、息の上がった八尋の表情が明るくなる。
「良かった、ここに居たんだな。大丈夫か?寒くて疲れただろ」
少しでも安心させようと、八尋はいつも見せる表情で五十五に話す。そんな八尋に対して、五十五はなかなか言葉を出せないまま震わせていた。
しゃくりあげていた身体を少しずつ落ち着かせながら、五十五は話す。
「八尋、来ちゃだめだよ。僕、もうだめなんだ。今までずっとやってみたけど、やっぱりだめなんだ」
「何を言ってんだよ!お前はすごく頑張ってる、俺と約束したあの頃からずっと。社の雪村や、永明、それに俺なんかよりもずっと頑張ってる」
「でも、でも無理なんだよ。八尋は霊狐で、僕は妖狸で、どんなに頑張っても、それは変えられないんだ」
五十五の諦めの声に、八尋は大きく首を振った。
「それはお前が悪いんじゃない。狐と狸を分けようとするみんなが悪いんだ!俺は、お前がやってきたことを全部知ってる、だから…」
「あはは、だめだよ八尋。みんなの神様が、みんなを悪いように言うのは」
五十五が作り笑いを見せて答えた。
「社に居るのは霊狐で、妖狸は町屋にいなきゃいけなかったんだ。僕は、八尋に会いたいってだけで、それを破っちゃってたんだよ」
「もっと早く諦めて、ここに来ることを止めていれば、遠くからでも八尋を見ることが出来てたのに」
「今からでもそうしようかなって思ってたんだけど、みんなは僕を許してくれないみたい」
五十五の息遣いが早くなる。山を穢す五十五に対する獣たちの思いが、五十五の妖気として積もっていく。
「だからね。僕、もう八尋といちゃいけないんだよ」
次第に五十五の体毛が溶けるように体毛から滴る。もう形を保つのも限界なのだろう。
「でも、僕は嬉しかったな。八尋だけは僕のわがままを、ずっと聞いてくれてたんだもん」
「八尋に会えた日が、いつも楽しかったんだ」
最期の別れのような笑顔を五十五は見せた。
ずっと見たかった五十五の笑顔を、こんな形で叶ってしまったことに、八尋が受け入れられるはずがなかった。
「違う!俺だ、俺が五十五と一緒に居たいんだ!」
その言葉は本心であり、それが五十五に対して初めて明かした八尋のわがままだった。
「周りがどんなに思おうが知ったことではない!俺は絶対にお前を諦めるもんか!」
八尋は五十五へと手を差し伸ばして叫ぶ。来い、一緒に帰ろう。ただそれだけを五十五に伝えたかった。
まだ自分を必要としてくれる存在に、差し伸ばしてくれる八尋の手に、五十五は目を大きくして涙を流す。
「無理だよ。だって僕もう、自分がどんなだったか覚えてないよ。もう、八尋の手が掴めないんだ」
八尋は洞穴に上半身を潜り込ませる。ドロドロの水たまりのような粘液の中に手を入れた。
どぷん。まるで底なし沼のような何もない泥溜まりに、八尋は大切な五十五の手を探した。
「俺が掴んでやる。ほらここだ!」
ずっと一緒に過ごしてきた、五十五への思いを込めて、八尋は五十五を取り戻そうとした。
八尋の言葉に、五十五は弱々しくも、八尋を信じるように頷いた。
自身を忘れかけてしまった五十五の中に、ずっと握っていてくれた八尋の温かみがあった。
もう一度、一緒にいたいと思った。迎えに来てくれた八尋の手を、五十五は確かに握り返した。その感触は八尋にも伝わる。五十五はここにいる。
ふたりは手を繋いだ瞬間、なぜ今まで離れたくなかったのか、分かった気がした。
「うぉおおおおおォ!!」
八尋は握った手を思い切り自身の胸元までたぐりよせた。勢いとともに、五十五は八尋によって洞穴から抜け出した。八尋は五十五の身体を受け止めきれず、二人は雪の積もった傾斜を滑り落ちていく。八尋は反射的に五十五を両腕で抱きしめた。幸運にも、柔らかい雪だまりが二人を包み込むように止めてくれる。
八尋は半目になりながら、五十五の無事を確かめる。腕の中で咳込む五十五は、八尋が知っている元の五十五の姿に戻っていた。
八尋は安心した表情を見せ、息をついた。自身に寄りかかる五十五の頬を撫でる。
「ほら、お前はちゃんとここにいるだろ」
五十五は言葉を出せないまま、八尋の腕の中で頷き続けていた。
八尋は先ほどまでの洞穴に目を移す。あれだけ黒く穢れていた辺りも、何もなかったかのような景色に戻っていた。山の気配も元へ戻り、乾いた冬の山風が今朝と同じように吹いている。五十五もいつものように、妖力をとどめる事が出来ているようだった。
「八尋…」
声の主に視線を戻した。眠そうにも見える五十五が、少しでも笑おうとした様子で八尋を見つめる。
「…ありがとう」
その言葉に、八尋も笑って返した。八尋も言葉をかけようとした時、五十五が身体を震わせていることに気づく。
「おい、大丈夫か」
五十五の体力も限界の様子だった。殆ど目も開けられていなかった。八尋は持ってきた朱の羽袖を五十五に巻いた。
「五十五、お前は少し寝てろ。後は俺に任せろ」
「でも、僕の小屋は…」
大丈夫だから。と告げて、八尋は五十五を霊術で眠らせる。意識を失った五十五は、八尋に覆いかぶさった。
「早く運んでやらないと…」
山への妖気が落ち着いてから、山の獣たちが様子を伺うように八尋たちを恐る恐る囲んでいた。
あまり良い気配がしない。そう考えながら、八尋は五十五を背負って、体勢を整えた。少しでも暖めようと着ていた狩衣で五十五を包むようにかぶせる。風ではためいてしまうが、吹きさらしよりいささか良いだろうと考えた。
二人を囲う獣たちに、八尋は声を上げる。
「観蛇山の社、主神の八尋と申す。此度は二ツ山のおぬしらに厄介をかけた。我らは社へと戻る、道をあけてくれぬだろうか」
これ以上騒がれると、山に負の気質をため込んでしまう。そう考えた八尋は、この場から離れるよう二ツ山の獣たちに命じる。とはいえ、祭神という立場を利用して、別の山で号令を出すことは、その山の神に対してもあまり良いことではない。今回の件が落ち着き次第、雪村と鎮祭を行わなければならないだろう。
獣たちは隣同士、顔を合わせて様子を見ていた。一匹がその場を後にすると、続くようにまた一匹と消えていった。
辺りが落ち着いたのを確認して、もう一度、五十五を背負いなおす。麓へと目を向けると、日が沈みかけていた。
八尋は眠った五十五を一度見た後、観田山へと駆けだした。
八尋神社の参道まで戻ってくる頃には、辺りは暗闇となっていた。今日も雪がちらちらと降り、月明かりさえない夜だった。
八尋は明かりの代わりとして、自身の周りに狐火を一つ浮かべて歩いていた。一日走り疲れたのだろう。いつも歩いているはずの参道が、ひどく辛いように感じていた。八尋が視線を上げると、社の門の篝火が揺らいでいるのが見える。ようやく帰る事ができた。八尋の帰りを待っていたであろう霊狐の影が、八尋の存在に気づいたような動きを見せる。急いで雪村や永明に知らせを入れているのだろう、それらしい声が八尋の耳まで届いた。
無事に戻ることはできたが、背負っている五十五のことをどう説明したものか。とにかく連れて帰ることを考えていたせいか、八尋はここにきて思い出した。
八尋の名を呼びながら、灯りを持った二人がこちらへ迎えに走っている。雪村と永明だった。話のつきやすい二人が来てくれたことに、八尋は安堵の息を漏らす。
雪村は八尋の前で礼をして、息を整えながら八尋に話す。
「八尋さま、ご無事でなによりです。二ツ山から妖気が治まった時には、霊狐たちも安心した様子でした」
湯も用意させておきました、と永明が続いた。そこで、八尋が背負っている人物に目を止めた。
「そちらのお方は…トビ殿や雪村さんからお聞きしました」
「そうだ。私の、古くからの友人だ。今日はもう休ませてやりたい」
立ち話を続けるわけにもいかないと、八尋は社へと再び歩き出す。二人も続いて、すぐ後を追った。
「日をあらためて、私にも謝らせていただけないでしょうか」
「永明、気持ちは分かる。だが、こいつにも休息をとらせてやってくれ」
それから永明は言葉を続けず、分かりました、とだけ答えた。
門を通り、境内は見渡せるほど篝火が灯っていた。いつもなら拝殿辺りまでしか灯していない篝火が、境内のあちこちで焚かれていた。八尋が無事に戻れるように、大きな灯りとして焚いたのであろう。この分だと、麓の村の住民たちにも何事かと噂されているだろう。
「八尋さま。五十五どのを休ませるお部屋は、いかがなさいましょうか」
「本殿の、私の部屋で休ませる。部屋はあるし、問題はない。霊狐たちにも見えないほうが騒がれずに済むだろう」
「分かりました」
雪村は分かっている答えを、あえて八尋に聞いた。本来、本殿は八尋しか入ることができない部屋であり、神主の雪村も年に数回のみ入ることが許されていない。それほどまで神聖な場所へ妖狸をいれるなど、永明には考えられなかった。普段なら反対する永明だったに違いないが、八尋と雪村のやり取りを見て、この場では流されるように納得した様子を見せる。
八尋は機転を利かせてくれた雪村に心の中で感謝する。それと同時に、本殿で五十五と密会をしていたことがばれていたのだと、呆れ笑いで返した。
「五十五を本殿で寝かせた後、風呂に行くことにする。永明、後で身拭いを湯殿まで持ってきておいてくれ」
まだ思考が落ち着いていない所で名前を呼ばれた永明はハッとした様子を見せた。
「わ、分かりました。すぐにご用意させていただきます」
ひとまず命じられたことをしようと考えたのだろうか、永明は一つ礼をしてから寝殿へと向かっていく。
「助かったよ雪村。五十五を本殿に入れるのを知るのが、永明だけで良かった」
八尋は大きくため息をついて、その場に残った雪村を見上げて話した。
「妖狸を本殿に招くなど、理にも思えぬこととしていた時期がありました。ですが、五十五どのは、八尋さまの大切な友人であると分かり始めました。その五十五どのが本殿に招かれる、なに不思議なことはございません」
「雪村…」
最後に、と雪村は続ける。
「五十五どのを、私も応援させてください。彼が、妖狸たちとの道になるに違いありません」
八尋は、雪村の言葉に心がいっぱいになった。この言葉を、五十五も聞いたらどれほど喜んでくれるだろうか。
「八尋さま、早くお部屋へ。これからのお話はまた日を改めましょう」
「そうだな。雪村、本当にありがとう。また明日」
「はい。おやすみなさい」
本殿へと入る戸を開けて、五十五を自室へと運んで行った。その間も、雪村は深く礼をして、八尋の足音が聞こえなくなるまで尊敬の意をこめて見送っていた。
自室へと戻った八尋は、部屋の灯りをつけて、いつも使っている布団を敷く。ゆっくりと五十五を横に寝かせて、寝間着に着替えさせようと服を緩めた。五十五の服を脱がせて身体を露出させたところ、思った以上に五十五が泥だらけに汚れていることに気がついた。
「少し拭いてやった方が良さそうだな…」
このまま寝かせるのも少しかわいそうだと、棚から身拭いを取って五十五の身体を乾拭きする。できれば身拭いと湯を使って綺麗にしてやりたいが、今の五十五には余裕がないと考えた。
出来るだけ部屋を暖めながら、ほぼ裸にさせた五十五の身体の汚れを簡単に落とす。とりあえずこれくらいか、と一通り終えた後、小袖を着せて布団をかけた。五十五の呼吸も落ち着いており、目立った外傷もない。
しばらく休ませてやれば、また元気になるだろうと、八尋は安心した。息をついて、使い終わった身拭いと脱がせた五十五の服を洗濯籠へと放り込む。
「俺も風呂に行ってくるか」
ようやく休むことができる、と八尋は大きく身体を伸ばした。日中、山道を走り回ったうえに、眠る時間はとうに過ぎている。今日一日の疲労が、どっと身体に現れ始めた。
八尋は部屋の灯りを息を吹きかけて消し、足音を立てないよう静かに部屋から出た。拝殿を過ぎて、再び境内へ戻った時には、境内に置いてある篝火も片付けられて、いつも通り拝殿の前にしか置かれていなかった。唯一、湯殿の前に一つ置かれており、八尋のために残してくれていたことが分かった。篝火によって、湯殿からの湯気が照らされているのが見えた。これから湯に浸かって温まれることを思うと、八尋の疲れた身体が身震いした。
八尋は誰にも見られていないことを見渡してから、足早に湯殿へと向かっていった。
早朝の八尋神社。遅い時間に眠った割には、八尋はいつもより早い時間に起きたような気がした。深夜、湯殿からあがって部屋に戻った後、布団をもう一組用意して五十五の隣に敷いて寝ていた。
まだ疲れの残った身体を時間をかけつつ伸ばして、五十五の洗濯物を洗って時間を潰すことにする。
本殿の中庭で洗濯物を干し終わり、橙色の空も青みがかった朝方の日差しになりはじめる。境内の方からも、霊狐たちの気配を感じる。みんな起き始めて、朝食の準備や掃除を始めているのだろう。味噌の匂いが鼻をかすめて、無意識に鼻を動かして献立を予想する。今朝は魚だろう。
社に日常が戻ってきた、そんな安心感を覚えながら、八尋は自室の戸をゆっくりと開ける。
「五十五、起きてるか?」
返事も無く、まだ眠っているようだった。五十五の落ち着いた寝息が、八尋の耳に入る。
八尋は起こさないように部屋に入り、開けた時と同じように戸を閉めた。五十五の寝ている側に近寄り、あぐらを組んで座る。我が子を大事にするような手つきで、眠っている五十五の頭をゆっくりと撫でた。
「こうやって、ずっとお前と一緒にいられたら…どれだけ幸せだろうか」
霊狐と妖狸、同じ地で共に生きていくには、町屋や領主の存在はやはり欠かせない。妖狸も霊狐と同じく、人や獣、神霊や妖などの思いによって気質が大きくかわっていく。妖狸に対する人々の思いを変えなければ、五十五だけをここへ置いただけでは必ず綻びが生まれる。二ツ山の獣たちや、山を侵す様子を見た霊狐たちの思いが、五十五を大妖として落としかねない。それは、先日の五十五の身に降りかかった気質を見れば明らかである。
これからどうしたものか。ずっと同じ悩みを繰り返していたが、八尋に策が無いわけではなかった。だが、それを行うには、八尋にとって全てを投げ出すにも等しいものだった。あまりにも現実味の無い策であったが、先日の一件、雪村の言葉から、その大博打を決意する。
「その時は、お前の力が必要なんだ。五十五、頼りにしてるからな」
八尋は撫でる手を止め、五十五に布団を掛け直した。
ゆっくりと立ち上がり、かけてあった霊刀を鞘に納めて、腰布に挿した。朝の礼まで、もうしばらくだけ時間がある。それまで、八尋は心を落ち着かせることにした。
「これが、トビを殺してでも奪おうとした封書というわけか」
雪村の仕事部屋に、八尋と雪村は二人だけで集まり、封書を中央に置いて座って話す。
「よもや、封書を手ぬぐいに変化させて隠すとは…」
「おそらく、五十五がやってくれたのだろう。万が一を考えて…と」
一度封が切られている跡がある。五十五が機転をきかせて封書を隠すほどの内容なのだろうと、この時点で二人は覚悟して目を通す。
―――八尋神社の祭神、八尋さまへ
この度は、大変な迷惑をかけた上、無礼な振る舞いを許してしまったことをお詫び申し上げます。
八尋さまはご察しと思われますが、今や久松本家での言葉は、妖狸を治める九頭の意が強くなっております。次第に数を増す妖狸たち、それにヒトである久松を慕う者も少なくなりつつあります。さらに私といえど、歳には勝てません。私が死に、城を去った後の後継が私にはいません。一人娘しか残せなかった久松家の最期というのは、実に悲しいものです。
九頭はそこに目をつけ、新たな領主として動いている気配を側近より聞きました。あの男に町屋を渡してはなりません、何を企んでいるかは分かりませんが、今の町屋が九頭の手に渡れば、この国だけでは無く、隣国にもどのようなことをするかも分かりません。現に、九頭は各国より妖狸や侍を集めている様子があります。町屋に、見慣れぬ人物が日に日に増えておりました。
多大な迷惑をかけてしまっているのは分かっております。ですが、どうか、この久松ともう一度話をしてくれぬだろうか。次はこちらから、八尋神社へと参らさせていただきたく申します。この久松に、町屋に縁をいただきたい。町屋にも、九頭派のような妖狸だけではないのです。久松に慕ってくれる妖狸も沢山ございます。その妖狸たちならば、霊狐さまと手を取ることが出来ると、私も信じております。
私も、妖狸と霊狐、それとヒトがともに生きていける道を願っております。
文を交わすことも厳しい我が身となってしまいました。無礼ながら、冬の終わり、村の田起こしが始まる前には、そちらへ参らさせていただきます。
領主 久松道長
「…久松殿は、間に合わなかったようだな」
八尋と雪村は、大きく息を吐く。内情が分かっていれば、こちらからも手を打てたかもしれない。九頭は久松派と八尋を組ませたく無かったのだろう。手紙の内容から、この一通が八尋の手に届くことを賭けていたことが分かる。
「八尋さま、よもや久松様は…もう…」
「亡くなったようだ。…五十五が話してくれた。町屋の民には知らされていない様子だろうと。ゆっくりと、町屋を自分の物にするつもりだろうな」
「そんな…!」
「今や、町屋は九頭のものということか。…こちらの地も危うくなってくるな」
「とはいえ、我々に何が出来ましょうか…。村の者や霊狐たちには戦う術を持っておりません。妖狸たちから守ることは出来ても、九頭派のヒトの侍と太刀打ちできる者は…」
祭神とはいえ、信仰を失ってしまえば八尋や霊狐たちは存続することができない。霊狐として残ることは出来ても、今のような強い霊力は失うに違いない。
「手は残っておらぬ、わけでもない…。文によると、まだ妖狸にも久松派が残っているわけだ。こちらとのやり取りが出来れば…」
「しかし八尋さま、それは、こちらも戦へ赴くことにも…」
「戦えぬとしても、物資を送ることくらいは出来るであろう。だが、どちらにせよ、手を組めばこの地にも危害が及ぶ…クソ…」
厳しい選択だった。戦う者もいないうえ、八尋には霊狐や村人が妖狸と戦うことも避けたかった。派閥を作れば争いが起こる、だからこそ妖狸と手を取りたかっただけに、八尋には苦しい道だった。
「…春から、永明に霊術の稽古を増やす。社と村を守れる者は多い方が良い。町屋のことは、やはり霊狐や村には知らせぬほうが良いだろう。騒げば向こうの動きが早くなる。あちらもまだ、町屋全てを掌握しているわけでも無かろう」
雪村はただ、わかりました、と答える。雪村にもどうすれば良いか分からない様子だった。
雪を散らす雲が、今日は薄黒くみえた。世が変わることは、こんなにも暗い気分にさせてしまうのだろうか。
八尋は自室の机に向かい、筆をとって農書を書きつづっていた。これまでの村で培ってきた農作業についての記録。八尋の経験や知識、豊穣の儀など。それぞれの季節ごとに巻を分けて、こと細かく記されている。一度書き終えたら完成、ということは無い。新しい出来事がその季節で起こるたびに、八尋は書を開いて書き足していた。
外に出る事が多い八尋だが、意外にも執筆作業は嫌いではなかった。書き物に関しては、雪村から徹底的に叩き込まれた側面から、慣れているところもある。それ以上に、村や社で起こしてきた出来事を記すということが、これまでやってきたことの証明になっているような達成感があった。
きりが良いところまで終わり、八尋は筆を置いて身体を伸ばす。出来た書物を雪村に確認してもらっていた時期もあったが、今ではその必要もないほど成長していた。書物の初めの方をめくると、何行にも渡って打消し線が引かれている箇所もある。少し気恥しい感覚にはにかみながら、ページを元に戻した。
「八尋…?」
後ろから声をかけられ、八尋は耳を立てて振り向いた。
「五十五、目が覚めたか。もう昼飯どきになるぞ、相当疲れていたのだな」
五十五は布団の上で半身を起こし、今居る場所を確認するように辺りを見渡した。八尋の部屋と分かり、申し訳なさそうに耳を垂らす。
落ち込み気味になっている五十五の目の前まで八尋は近寄った。
「無事でよかった」
五十五は何も話せず、ただ言葉を探すように俯いていた。ありがとう、ごめんね、何から言えばいいのか、その後何を言えばいいのか分からない。感情や思いを整理しようにも、五十五の心はすぐに器がいっぱいになる。
五十五の想いは、ただ小さな嗚咽となって、表に現れた。自分の伝えたいことはこれじゃない。なんとかして止めようと、五十五は息を止める。それで止まるわけもなく、嗚咽が時折大きくなるだけだった。
八尋は五十五の表情を見ないように、大きく抱きしめた。
「ありがとな」
抱きしめた手を回して、包み込むように左手で五十五の頭を撫でる。離したくない、大切な存在であることを伝えるように、ゆっくりと五十五に頬擦りをした。
五十五は、八尋の胸元で溢れた気持ちを全て吐き出した。泣いて、喚いて、身体がしゃくるたびに八尋が撫でてくれる。泣いてもいいんだ、素直になっていいんだ。五十五は両手を八尋の背に回し、離れたくないように抱きしめた。
五十五は次第に落ち着いていった。嗚咽も止み、時折鼻をすする音だけが部屋に聞こえた。それでも八尋は、五十五が自分から顔をあげられるようになるまで、赤子をあやすように五十五の頭を撫でて待っていた。
八尋の背中で力強く抱きしめていた手がゆっくりと力が抜け、五十五が真っ赤になった顔をあげた。八尋と顔を合わせて、ごまかすように笑う五十五がいた。
「くしゃくしゃじゃないか」
八尋はつられるように笑って、五十五の顔の毛並みを指で整えた。
「八尋、助けてくれてありがとう。もう戻って来れないと思ってた」
「俺は手を伸ばすことしかできなかったぞ。それをお前が、ちゃんと握ってくれたおかげだ」
「うそ。あそこに来れるの、八尋しかいないもん。八尋のおかげだよ」
五十五はもう一度八尋に抱き着いた。自分を迎えに来てくれた八尋の温かみを思い出すように。八尋のお腹辺りに顔を埋めて、頬擦りしたり匂いを嗅いだりしていた。
今までに見たことないほど甘えてくる五十五に、八尋は守ってあげたくなるような愛おしさを覚えていた。それと同時に、ここまで身を寄せられることに少しいい雰囲気が漂ってくるような気がした。
五十五に告白しようか、少し迷った。洞窟で助ける時、八尋は五十五に対する本当の気持ちに気づくことができた。とはいえ、八尋も落ち着いてきたのか、いざ、となると踏ん切りがつかなかった。
思いを打ち明ける言葉を考えようとすると、次第に心拍数が上がってくるような感覚がした。
「八尋…大丈夫?」
「んえっ!なんともないぞ、あはは…」
五十五が上目遣いで八尋を見上げた。その視線にたまらず鼓動を鳴らせてしまった八尋は、ごまかすように笑う。
「本当に?ほら、笛の音が鳴ってるよ」
八尋は一呼吸おいて、嫌な胸の高鳴りと共に血の気が引いた。昼食の時間はとうにすぎて、昼休みを告げる笛の音が聞こえていた。
「あー!のんびりしすぎた!もう飯の時間が過ぎとる!すまん五十五、すぐに片づけてくるから、お前は奥の土間で適当に飯を作って食っといてくれ!」
八尋は、ハッと我に返って、五十五を離して慌てるように立ち上がった。服を正しながら早口で説明して、言い終わった途端に障子をあけて境内へと忙しい足音を立てながら消えていった。
その場に残された五十五は、やや唖然としながら、くすりと笑う。
「やっぱり、八尋も変わってないじゃんか」
五十五は目を擦りながら開きっぱなしの障子を見て、もう一度笑っていた。
「話し込んで皆との昼食をすっぽかしたのは褒められたことではありませんが、五十五どのの具合が良さそうでなによりです」
「まあそう言うなって、五十五には心の拠り所が必要なんだよ。ずうっと一人で頑張ってたわけだしさ、トビだって五十五が助けたわけだし」
すでに昼食をとる部屋は掃除の時間となっていたため、八尋は雪村の仕事場で遅めの昼食をとっていた。雪村しかいないというだけあって、いつもより大雑把な様子で食べていた。
「おや、まるで熱い抱擁に育んでいたような言い方ですね。慈愛や恋の神としても、お祀りしたほうがよろしいでしょうか」
たとえ話のつもりのはずが、部屋での行為がぴたりと当てられ、八尋は食べ物が喉に詰まりそうになった。急いでお茶で流し込み、大きな息をついた。
「そんな祀りはせんでいい。それに恋の神様だなんて俺の柄じゃないだろ」
昼食を食べ終わって、ごちそうさまでした、と八尋は礼をする。
「そうですね…。八尋さまの恋は、これから、始まる事でしょうし。まだ早いでしょうか」
まるで八尋の気持ちが分かっている様子で、雪村はほくそ笑んでいた。
「お前なあ、そういうのは無礼とは思わんか。今は俺とお前しかいないから悪いとは言わんが…俺はここの主神だぞ」
八尋は腕を組んで、やや不満そうな様子を見せる。まだ子どもの見た目とはいえ、豊穣神としての誇りは持っている。
「なら、主神さまらしい振る舞いをしてくださいね」
雪村はそういって、八尋に伝えるように下顎を指した。八尋は何だろうと、指された自身の下顎に触れる。
「逆です」
そう言われて反対側に手を当てた。ご飯粒が一つ、八尋の手についた。なんと言い返そうかと、小さく唸る。
「これはだな、急いでおったからでだな、いつもはこうではないだろう」
「そうですね。あるべき時にはきちんとしているので、私は何も怒りませんよ」
雪村は笑いながら、八尋の配膳を片付け始める。
「五十五どのは昔と変わられていない、と八尋さまは仰っていましたが。八尋さまも、昔と変わられておりませんよ」
八尋は呆れ笑いをして、山の景色に目を向けた。
「でもさ。俺も五十五も変わらなきゃ、ここから何も変わらないと思うんだよな。もう、我々に残されている刻も、余裕が無かろう」
「八尋さま…?」
思わせぶりの台詞に、八尋が何かを企てていることを雪村は察した。
「昼からの仕事に行ってくる。永助を連れて、田起こしをまわってくるよ」
八尋は立ち上がり、緩めていた狩衣を正した。
「また話す。その時は、頼んだぞ」
「…分かりました」
雪村は何も問わず、頷いて答えた。
あとは任せた、と八尋は先に部屋から出ていく。
一人になった雪村は、綺麗に食べ終わった八尋の食器を見て、笑みを浮かべる。
「ふたりともお変わりになられてますよ。八尋さまも、五十五さまも」
八尋はやや遅れ気味の昼食をとってから、一度自室に戻ることにする。五十五には昼食を勝手に作ってくれ、とは言ったものの、自分が何か作ってやるべきかと心配していた。
本殿へと戻ると、中庭の縁側で五十五は湯で戻した干飯と、兎肉の酒漬焼きを作って食べている姿があった。
八尋の姿に気づくと、五十五は、おかえり、と迎えてくれる。
「悪いな、飯も作らずほったらかしにして。蔵食以外にも、ちゃんとした材料があったのだが…言うのを忘れてた」
「僕はこういうの好きだから平気だよ。ちゃんと好きなの選んで作らせてもらったから。ありがとね」
そっか、と返答しながら八尋は自室の障子をあけて、外出用の羽織りと羽袖を纏った。
「昼からは永助を連れて、村の田起こしを見てくる。一回りするだけだから夕げの時には戻るが、それまでほったらかしにしてしまうな」
「それが八尋の仕事だもん。僕の方こそ邪魔してごめんね」
「でも、帰るとお前が部屋にいる…それだけでも俺は嬉しいよ」
「もう」
五十五はまんざらでもなさそうな表情を見せた。家族のような生活、昔のふたりは、これが当たり前のはずだった。
「ねえ、八尋が書いてる書物とか、置いてある本とか読んでもいい?」
「農書や神書か、構わないぞ。勉強か?」
「うん!八尋と一緒に神様になるなら、八尋から学ぶのが一番なのかなって」
五十五の気持ちに、八尋はうれしくあった。一方で、五十五にも読めるような書物も作るべきだった、とちょっと困った表情を見せる。
「でも、結構難しく書いてるところもあるが…大丈夫か?」
「ふふん、あんまり僕をみくびったらだめだよ。ちゃんと今まで読み書きの練習はしてたから、ここの霊狐たちと同じくらいはできるよ」
「本当か?すごいな。独学だと難しかっただろう」
八尋は素直に驚いた。教本も数が少ないうえに教わる人もいない五十五が、霊狐たちと同じくらい読み書きの能力を持つのは困難を極めるはずだった。
五十五は苦笑いを見せながら相槌をうつ。きっと、相応の苦労をしたのだろう。
「俺が空いてる夜の時とか、よかったら俺が教えてやろうか?」
「ううん、そこまで八尋にわがまま言えないよ。でも、分からないところとかあったら、そこは教えて欲しいな」
「ああ、任せろ」
五十五は笑って、ありがとうと返した。落ち着いてから笑顔が多い。笑う顔を見ると、八尋も安心していた。
「ほら、八尋もはやく準備しないと。またお喋りしてたら、時間すぎちゃうよ」
五十五が笑って八尋を急かした。確かに、このままだとずっと話しこんでしまう。昼食の時間までを五十五と過ごした分、午後からの仕事は真面目にしなければならないはずだ。
「そうだったな。俺もちゃんと仕事しないと、五十五にも怒られちまうな。じゃあ、また夜にな。茶なんかも棚から取っていいから、ゆっくりしといてくれ」
「うん、ありがとう。いってらっしゃい、八尋」
「いってきます」
八尋は本殿の戸を開けて、外に出ようとしたところでチラリと振り返る。もう一度顔を合わせた五十五は、見送るように笑顔で手を振った。五十五が近くにいて、一緒に過ごしてくれる。ただそれだけの事なのに、八尋は幸せだった。
八尋も五十五に手を振り返して、境内へと出た。
拝殿の辺りを歩いていると、社務所の前で永助が待っていたのが見えた。永助も八尋の姿が見えると、首にかけた布包みを揺らしながら、八尋の方へと走り寄った。
「八尋さま!お待ちしておりました!準備は出来ております!」
「待たせてしまっただろうか、すまないな。では田起こしのお参りにいこうか。ちゃんと永明から羽織りを借りてきたのだな、偉いぞ」
八尋は少し屈んで、永助が羽織っているサイズの合っていない羽織りを着付けなおした。
「はい!お参りの時はきちんとした格好をすること、って雪村さまからも教わりました!」
「そうか、ちゃんと言いつけを守るのは良いことだ。永明もおぬしが誇りであろうな」
八尋も自身の着付けを見直し、永助と参道の降り道に続く鳥居の方へと歩いていく。
「八尋さま、今日は少し嬉しそうですね」
永助から思いもよらぬ言葉をかけられ、目を点にする。
「どうした、私はいつも通りのつもりだったのだが。何か変わったところが見えるか?」
「なんだかいつもより足取りが楽しそうで。兄上や雪村さまなども足の運びを見ると、僕には分かるんですよ!」
八尋は素直に関心していた。永助のような幼い子どもが、これほど他人を興味深く見ているとは思っていなかった。
「ほう、永助もやるな。その通りだ、今日は特に気分がいい。おぬしに隠し事は出来んかもしれぬな」
「本当ですか!それで、どんないい事があったんですか?」
「それは…。秘密だ」
八尋の返答に、永助は納得していない様子で、その後も何度か八尋に問いかけた。
相手の気持ちを自然に察することが出来る永助を見て、その力が永助と関わる人々のためになれるようにと、良い方にいくことを八尋は願った。
八尋は永助を連れて祈年祭に向けて、村を回って田踏みをしていた。田踏みは、田起こし前の田んぼに、霊狐が舞うように足をつけ、一年の始まりが上手くいくように願う行事だった。本来なら、八尋神社が依頼された田を回るのだが、八尋神社を慕う麓の村では毎年全ての者が依頼している。わざわざ山の中腹まで依頼をしに来て、その後降りてから祈祷し、翌週にはは祈年祭のためまた社へ…。稲作の始まりの時期に、わざわざ手間をかけさせるのも如何なものだろうということで、八尋の提案により、数年前から八尋自身が田踏みに回ることにしていた。
村人は田んぼの前に座り、黙祷するように俯いて祈ってる。田んぼの中では、柔らかい動きを見せながら、永助が駆け回るように舞っていた。普段の装束とは違い、八尋と同じように狩衣を着て、烏帽子に羽織りを纏った永助の姿は、豊穣神の使いの風貌があった。八尋は田んぼの縁に立って、永助の舞を指揮するように、大幣を左右に振っている。真剣な表情で祈祷を続け、舞を見守っていた。
永助は目立った失敗をすることなく、舞を最後までやり遂げる。八尋が大幣を田んぼに掲げた後、村人に声をかける。
「終わりました。永助、上がってきなさい。付いた土はそのままで良いぞ」
「はい!すぐ向かいます!」
先程まで凛々しく舞っていた永助は、いつもと変わらない元気な声で八尋に返事をする。永助が田んぼを上がってくる間に村人も立ち上がり、ありがとうございます、と言葉を繰り返しながら礼をする。
「今年も、良い実りとなるように願っております」
八尋から言葉を貰った村人は、もう一度深く礼をしていた。その辺りで、田んぼから上がった永助が、八尋の側まで戻ってくる。永助の焦げ茶色の足では分かりづらいが、足首まで土で汚れているのが伺える。土に汚れたまま田んぼから上がり、畦道には土汚れで永助の足跡が出来ていた。
「よく出来ていたぞ永助。私も見ていて安心できる舞であった」
「ありがとうございます!僕も稽古の成果が出せてよかったです」
褒められたことを素直に喜び、永助は明るい表情を見せる。
「いやあしかし、永助も年々立派になっていって…今年の収穫は、永助どのにも奉納できるように、ワシらも気張らねばなりませんな」
「永助…どの⁉︎」
永助は自分が評価されたことから、やや気が抜けた表情をしていた。収穫祭で、まるで自分が祀ってもらえるのではないかと想像を膨らませたようだ。
「永助、気が抜けるのが早いぞ。まだ祈年祭すら始めておらぬだろう」
八尋は浮かんでいる永助を現実に戻すように、永助の肩を揺すった。永助はハッとした様子で、姿勢をただした。やはり、まだ未熟な面があると、村人と八尋は笑う。
「では、我らは次の者の所へ参ろう」
「祈年祭の日も、御祈祷お願いします!」
八尋が軽く礼をすると、ひとつ遅れて永助もぺこりと礼をして、二人は次の田んぼへと向かった。
その後も永助は田踏みを上手いことやりきり、田踏みを終える度に村人たちから褒められていた。兄の永明は怪我や病への祈祷を依頼されることが多いが、永助は昔から収穫祭などの龍笛や演舞に抜擢されることが多かった。この調子で続けていけば、本当に豊穣神として祀られる日も遠くないかもしれない。
五穀豊穣、無病息災。主神が増えると社も大きくなる。もしかしたら、数年後には本殿が一つ増えるのでは無いかと思うと、八尋は嬉しく思っていた。
翌日の朝、八尋は雪村の部屋に雪村と永明を呼び、五十五について話し合っていた。
「つまり、五十五どののような妖狸と、我々霊狐…それほど違いはない者ということでしょうか。前に八尋さまから教えいただいておりながら、理解できておらず、申し訳ございません」
「いや、それは仕方のないことだ。我々霊狐が穢れを持つ妖狸とともにして平気だと言われて、そう簡単に受け入れられることでもないだろう。私とて、五十五の穢れに対して、問題なく過ごせるまでに一年以上かかっている。それまで同じく過ごしてきた私もそうだったのだ」
まず、妖狸である五十五が八尋神社にいても問題はないという前提から話を進めていた。雪村や永明が一番不安にしていた、社に穢れを持ち込むという問題も、これまで五十五と会っていた八尋の話から問題無いことを知ってもらっていた。
「とはいえ、ここにいる全ての霊狐たちが五十五に対して分かってもらうことも難しいだろう。五十五自身は他人に妖気を触れさせぬよう出来るが、不審に思った霊狐が自ら触れてしまえば穢れに纏われてしまうだろう」
「多少なら祓って仕舞えば問題ない。しかし、穢れに霊狐たちが混乱してしまえば一人、また一人と侵されるやもしれぬ…妖狸の五十五を境内に晒すのは、あまり現実的ではないだろう」
八尋の説明に、雪村は額に指を当てて、俯くように考え込む。
「…やはり、本殿から出て、霊狐たちと過ごすには問題が大きいですね」
「とはいえ、このまま本殿に幽閉してしまうのも酷であろう。私もそれは本意ではない。そうと知れば五十五自身も、ここからすぐに去るだろう」
雪村の言葉に、八尋が続いた。実際、五十五をこのまま社に置いておくことはできないことを、八尋は分かっていた。それを伝えるかのように、八尋は続けた。
「それに永明。おぬしとて、五十五を社に置くことは良いとは思わぬだろう」
永明は、ギクリとした様子で八尋と視線を合わせた。
「な、何をおっしゃいますか!五十五どのは、八尋さまの御親友であられましょう。そのようなお方に…」
永明の返答に、八尋は首を振った。
「無理をするな。お前には永助がいる。もし幼い永助が妖気に晒されてしまえば…など、そんなこと考えたくもなかろう。お前にも大切な者がいる、私にはそれが痛いほど分かる。…だから、それを含めて、私は社の多くの者に迷惑をかけている。主神として、あるまじき行いだ。町屋への談話のこともな…」
非を明かす八尋の姿に、永明は前のめりに言葉をかける。
「八尋さま、どうかお顔をお上げください。私は八尋さまの行いに間違いがあったとは思いません。生まれてから同じくした友のために世を動かそうとしたこと、何一つ道の外れたことに思えません」
永明の言葉に、雪村も頷いていた。永明の言葉に続けて、雪村も話す。
「八尋さま、永明の言う通りですよ。また、次の手を考えましょう」
八尋は顔をあげて、二人と目線を合わせた。
「…五十五に関しては、社から出て貰おうと思う。ただ、元気になるまでは、しばらくここに居させてやってほしい。もうすぐ、村も田起こしの時期で社も忙しくなる。その辺りまでは…」
やはり追い出すしかない。そうして貰った方が自身や弟の永助にも安心ができるとはいえ、五十五の平穏を犠牲にして得られる元の日常という選択に、永明は気持ち悪さの残る後味を感じる。
「問題もないと思います。今は、五十五どのには休んでいただきましょう。永明もよろしいですか」
これからの五十五に対する処遇に、永明も頷いた。
五十五との関係や、五十五の持つ気質に関する説明は長くあれど、五十五の処遇に関してはあまりにも早く終わってしまった。
八尋は話の終わりを二人に告げる。
「二人とも、時間を取らせたな。永明、仕事に戻ってくれ。私は雪村と祈年祭の相談がある」
永明は、分かりましたと深く礼をして、部屋を後にした。
気配が消えたのを確認して、八尋は外から見られないように部屋の戸を全て閉めた。五十五との密会の時のように、誰にも察知されないよう、人避けの術を部屋にかける。ただならぬ雰囲気から、雪村は姿勢を正し、八尋の言葉を待った。
八尋は雪村の前にあぐらをかいて座り、雪村と目を合わせて話し始める。
「このことは雪村に話すつもりはなかった。必ず止められると思っておったからな。だが、お前が俺を見てくれていた日々を思い出すとな、どうしてもお前を裏切ることはできなかったんだよ」
雪村は八尋の言葉に頷きひとつ入れず、目を合わせたまま聞いていた。
「祈年祭の前日、五十五が町屋に行く。そして五十五は…九頭派を討つ」
「五十五どのが!まさか五十五どのが…いえ、もしや八尋さま…!」
大妖狸と呼ばれながらも逃げてきた五十五が企てているとは到底思えない。雪村はその違和感から、真意を見破る。
八尋は、五十五の姿に化けて、九頭を討つつもりだと。
「そう簡単に進む話ではないだろうな。何年かかるかも見当もつかぬ。だが、町屋を変えなければ、五十五は一生ここに来れんだろう。あいつは本気だ」
八尋は、まるで人ごとのように話を続ける。
「だからな。俺をここまで支えてくれた雪村に、もう一度願いたいんだ。五十五が町屋を治めるその時まで、どうか八尋を支えてくれぬだろうか」
「八尋さま…それはあまりに殺生な…。そこまでせねばならぬのでしょうか…?」
雪村は両手を床について、震えの混じった声で八尋に聞いた。
「言うたであろう。誰かがやらねば、世は変えられない。九頭も自らの力で町屋を統べたのだ、五十五はそれと同じことをするだけだ。それには、雪村の力が不可欠なんだ。どうか八尋に、手を添えてやってくれぬだろうか」
八尋の返答に、雪村は顔を伏せたまま、動けないでいた。
「八尋さまが五十五どのを一番に想うお気持ち、私は良く分かっております。八尋さまがここへ来られる以前の、お二人も私は知っておりますゆえ。私は、八尋さまにお慕いさせていただけることが、私の幸せと思っておりました」
「しかしながら、そんな私をも想ってくださり、この度お話してくださったこと。私はどれだけ幸せ者でありましょうか。主神さまから、神主である私をまだお頼りになられること。このような役目を頂ける神主、どこを探してもおらぬでしょう」
「雪村…」
雪村は顔を上げて、八尋を見る。雪村の表情には、かつて野狐の八尋を社に迎えるため、全ての力を添えようとする覚悟を込めた時と同じ面影があった。
「この雪村、八尋さまに出来ること、全てをお力添えさせていただきます。ですが…」
雪村は膝立ちで八尋を正面から抱き寄せた。
「必ず帰ってくること、それだけは約束してください。八尋さまは、私の何よりの宝でございます」
八尋を抱く力が強くなった。八尋にとって、雪村は父親に近い存在であった。雪村とて、八尋は自慢の息子のような存在だったのだろう。我が子を旅立たせるような、先の見えない不安を隠せずにいた。
「…必ず戻ってくるよ。ありがとう、雪村」
八尋も雪村を軽く抱き返す。後数日で祈年祭が始まる。今の八尋が雪村といられる時間も、もう僅かしかなかった。
その夜。夕食を終えた八尋は、自室へと戻る。自室の戸を開けると、机に向かって書物を読んでいた五十五が八尋の方を向いた。
「おかえりなさい。今日もお疲れさま」
「ああ、ただいま。夕食はもう食べたのか?ずっと勉強しているように見えるが」
「うん。ちゃんと作って食べたから大丈夫。少しでも八尋に近づきたいと思って」
八尋が部屋に戻ってきたため、場所を開けようと五十五は書物を片付けはじめた。八尋が戻ったらすぐに寝られるようにと、五十五があらかじめ布団を敷いてくれていた。
二人の部屋はどこか静かだった。五十五が棚に書物を片付けている姿を、八尋は無言で見ていた。
「明後日には、祈年祭だね」
五十五は棚に体を向けたまま、八尋に話す。
「ああ…そうだな…」
「わかってる。明日には、僕はここから出て行かないと、八尋や社のみんな、村の人たちにも迷惑かけちゃう」
祈年祭の日程は五十五に伝えていなかった。農書に記されていたことから、五十五自身で知ったのだろう。
八尋は棚に向いたままの五十五に一歩近寄った。
「五十五、こっちを向いてくれ。お前に伝えたいことがあるんだ」
五十五はそれでも振り向かず、小さく首を振った。
「うん、わかってるよ。だけど、八尋の顔を見たら、また寂しくなって泣いちゃうから…」
「じゃあ、そのままでもいい。…聞いてくれるか?」
少しの間をあけて、五十五は頷いた。八尋ははにかむように笑って、後ろから五十五を抱き寄せた。
突然のことに五十五は驚く様子を見せる。慰めてもらうばかりで、八尋に迷惑はかけられない、諦めにも似た不安な表情を見せないようにしていた。
五十五は拒まずに聞いてくれる。そう決心して、八尋は言葉を出した。
「俺、五十五のことが好きなんだ。友達としてじゃない、一人の妖狸として、お前が愛おしくて、夜も眠れぬ日もあった」
八尋からの言葉に、五十五は聞こえるかも分からない小さな声を漏らした。初めて受けた告白、これは錯覚ではないかと思考が止まってしまう。
密着する五十五の鼓動が次第に大きくなっていくのを感じる。
八尋は抱き寄せた五十五をはなし、ゆっくり向かい合わせる。目を合わせた五十五は声も出せぬまま、八尋の言葉をもう一度待っていた。
「五十五、俺と一緒になってくれないか?」
「八尋、僕、ぼく…」
霊狐、それも主神の八尋が、たったひとりの、あまつさえ妖狸を嫁入りさせるなど、ありえない話だった。妖狸と結ばれる霊狐など、周りが認められるはずもない、恋が実るはずもない。それでも、八尋は本心でいたかった。
「…一生…お側に、いさせてください」
そして五十五も、本心を伝えた。
今のふたりが結ばれるなど、許されることではない。八尋も、五十五も、それは分かっている。
八尋が笑った。それを見た五十五も、今まで一番幸せに満ちた表情を見せた。
ふたりの口が重なり合う。
五十五は目を閉じて、背伸びをするように、自分からも口を押し寄せた。
霊狐と妖狸、交わるはずのないふたりは、確かに今、ふたりは永遠に結ばれたのだ。
「五十五…」
「なあに…?」
「夜が明けたら、俺は町屋に行く。俺が全部終わらせてくる。俺が五十五になって、妖狸の長を討る。そうすれば、町屋の長は俺だ。町屋の妖狸は俺の言いなりさ。化けた霊狐が妖狸の長になる、面白いだろ」
五十五は動きをとめて聞いていた。
「だからな、俺がいない間、お前が…お前が八尋になって、この社を守ってくれないか。これは、お前にしか出来ないんだ」
「僕が…八尋に…」
五十五は俯いて、ひとつ間をあけて答える。
「うん、いいよ。僕が八尋になって、社の神様に…化け狸が霊狐たちの、社の祭神になるってことだね。すっごく面白い」
「五十五…知ってたのか…?」
「八尋、隠すの下手だもん。何か、途方も無いことをしようとしてるのは…ちょっとは、分かってた。たぶん、八尋なら、こういう無茶なことをするって。でも、やっぱり怖いな。いつまで誤魔化せるか、バレたらどうなるか…」
「お前なら出来る。お前の力は、俺が一番知ってるんだから。…絶対、大丈夫。お前は神様になれるよ」
八尋は霊力を指先に込める。主神として祀られる八尋の化粧を、五十五の頬に描くようになぞった。五十五の頬と目尻に、朱の化粧がつけられる。
「おまじない。五十五がうまくいきますように、って。狐神、八尋からの直々の加護だぞ」
「……うん。僕、頑張ってみる」
「よく言ってくれた」
五十五は笑ってみせた。八尋は五十五の頬を撫でる。
「そういう俺だって不安さ」
「八尋が…?」
「そうだ。俺だって、あっちで上手く化けられるかどうか分からない。妖術もそれほど得意ではないしな。バレて捕まったら、と思うとな」
「あはは、じゃあ、僕からもおまじないしてあげる」
八尋の真似をするように、妖力を指に込めて、八尋の額をなぞった。緑の葉の裏のような、葉先がかけたような模様を描く。
「一夜で町屋を陥れた、大妖狸の加護だよ。これで、誰にもバレない、誰も八尋だって分からない」
ふたりは一緒に笑った。もう一度、口付けを交わす。
ねえ、と五十五が話した。
「八尋、最後にもうひとつだけ約束したいな」
「約束?」
「全部が終わって、ここに戻ってきたら…」
「ああ、もちろん。全部が終わったら…続きをしよう」
「うん…!そしたらその後は…」
「ん…?」
「八尋と祝詞を挙げたい…」
「そうだな、ふたりで祝詞を挙げよう」
ふたりで一緒に神様になる。あの幼い約束を果たすには、もう一度だけ手を離す必要があった。
ずっと一緒だ、絶対に一緒になる。どんなことがあっても忘れないように、ふたりは、この瞬間だけでも心と身体を重ねた。
そして不思議なことがおきた。ふたりは入れ替わるように、ゆっくりと姿を変えてゆく。目の前の、愛する者の姿へと変化していった。
「絶対、ぜったい帰ってきてね。僕、頑張るから。ずっと待ってるから」
不安にさせないように、八尋は出来るだけ笑って話した。それでもどこか泣きだしそうな、弱々しい八尋がいた。
「必ず戻ってくる。それまで、寂しい思いをさせるな」
八尋を少しでも安心させようと、五十五は力強く八尋を抱き寄せた。
五十五は、八尋の額に自身の額を重ねた。幼い時、ふたりが約束をするときと同じように。
あれだけ汚した二人の営みも、気づけば消えてなくなっていた。
二人は約束を忘れないように、何度も言葉を交わしながら、身を寄せて眠る。
まだ深夜とも見分けのつかないほどの真っ暗な早朝。五十五はゆっくりと目を覚ました。上体を起こすと、かけていた布団が落ち、今朝の寒さが体温を奪う。晩冬の朝四時くらいだろうか、いつもより一時間近く早く起きたようだった。
五十五が目線を下ろすと、心地好さそうに寝息を立てる八尋がいた。あの後、同じ布団で寝たのを思い出す。大人しそうに眠る八尋をみて、五十五は微笑む。
このままゆっくりしていられない。五十五は起こさないように布団から出て、寝ている八尋に布団をかけ直した。五十五は立ち上がると、自分が裸のままだったことに気がつく。ちょうどいい、と自分の身体を見渡した。耳の形、体毛の模様、尾の長さ、今までの五十五と何一つ狂いは無かった。
五十五は自身が着ていた下着、小袖、袴と着付けていく。自分の服のはずなのに、なぜか他人の匂いがする。後は旅立ちの準備だ。
土間へと移動して、旅道具を仕舞っていた開き棚をあける。籠の上に羽織りと三度笠があった。三度笠を手に取ると、羽織りの上に三つ折りにされた見知らぬ手紙が置いてあった。
―――八尋へ
手紙の最初に、そう書かれてあった。五十五は持っていくかを悩んだ。五十五である自分が、この手紙を持っていって良いのだろうかと。
手紙の折り目から、何かがひらりと落ちる。地に落とさないようにと、慌てて手で掬った。黄金色をした、長い布のような質感のある紐だった。紐からは、何故か八尋の霊力を感じた。一体どうやって作ったのだろうか。不思議に思ったが、五十五からの願いを込められた贈り物だ。持っていかないわけにはいかなかった。
「…分かった。大事にするよ。俺、お前から貰ってばかりだな」
五十五は黄金色の紐と手紙を懐に仕舞った。最後に羽織りをかぶって、籠を持って八尋の部屋へと戻る。
部屋へ戻ると、八尋は背を向けて眠っているのが見えた。足音を立てないようにゆっくりと歩き、八尋が愛用している霊刀を手に取る。刀独特の金属が擦れる音を立てながら鞘に納める。そして五十五は自身の右脇に霊刀を差した。懐に入れた黄金色の紐を手に取り、柄先に大きな輪を二つ作るように結ぶ。
これで全部だ。
背を向けた八尋に目を移しつつ、ゆっくりと部屋の障子を開けて縁側へと出る。
「行ってきます」
ただ一言だけ告げて、障子を閉める。
拝殿へと続く木戸の前まで歩いて、八尋の声を聞いた。
―――行ってらっしゃい
五十五は振り返ることなく、ひとつ頷いた。
境内へと出た五十五だが、まだ人の気は感じられなかった。まだ社の霊狐たちも眠っている時間だ。拝殿前の灯りはすでに燃え尽きて、月明かりが境内を白く照らしていた。
社の大門まで歩くと、五十五のよく知っている人物が灯りもつけずに立っていた。
「五十五どの、もう行かれるのですね」
「こんな早くから起きとるのか雪村は。大義だな」
「今の町屋…いえ、町屋の周辺はとても危険な噂も聞いております。どうか、無理だけはなさらぬように…」
「分かっておる。俺はもう行くぞ、霊狐たちが起きる」
踏み出そうとする五十五を、雪村は片手で遮るように止める。そして雪村は両手を前に組んで、子どもを見送るような表情で話す。
「五十五どの…必ず成し遂げられるよう、私もお祈りしております」
「…八尋を、頼む」
五十五が大きく礼をすると、返すように雪村が軽く頭を下げる。それ以上は語らず、雪村は自室に戻るように社務所へと歩いていく。
ここから、五十五の旅が始まる。いつ終わるのかも、何かの当てがあるわけでも無い、暗雲を進むような旅になるだろう。
ほんの少しの希望と、お前との約束があれば、俺はどんな道だって歩んでいける。
月明かりに雪が瞬く。五十五は白い息を大きく吐いて、三度笠を付け直す。
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