第3話


 八尋たちが社へと戻り、またしばらくが経った。ひと月前から、村里は見渡す限り白く染まり、田畑も山々も銀世界となっていた。

 夜更けの八尋神社の本殿。中庭に焚かれた篝に、照らされた雪が揺らめく。吹き上がる火の粉とは対照的に、赤く揺れ落ちる雪はどこか幻想的に見える。

 中庭の縁側に、立てかけるように刀を肩に寄せ、あぐらを組んでいる八尋がいる。先程まで、刀を振り続けていたのだろう。中庭に積もった雪の地に、八尋の足跡と竹片がいくつもあった。

 息も凍るような寒い夜の八尋神社。星空をも覆い隠し、先の見えない未来を象徴するかのような真っ暗闇の中で佇む八尋であったが、心中まではその限りでは無いようだ。

 あの一件から、八尋は悩み続けていた。穢れてしまった霊狐の二人は、村里の空き家で療養することになっていた。定期的に、八尋と雪村の二人で世話をすることにしていた。

 二人は、いつも通りの生活を送ることは出来ている様子だった。八尋と雪村は思いのほか安定していることに安堵していた。睡眠、食事も問題ない。一つ変わったことがあると言えば、空き家へ訪れた際、時折ツンとした匂いがしていることだった。二人が何をしていたか、八尋にも分かる。

 社へ戻れるよう、ふたりは自主的に修行を再開したが、前のように集中することができないと話していた。

八尋が二人を見ても、妖狐へと落ちる気配はなかった。だが、霊狐へと戻る気配もない。何事も無いことを八尋は願った。

 社の霊狐たちには、二人は離れた地で仕事をすることになったと説明した。町家での出来事は、とても話せることではない。特に、村人たちに知られるのはもってのほかである。事実を知る者は雪村と永明だけとはいえ、八尋は自責の念を重く受けていた。

 町屋での談話については、詳細を語らず、感触が良くなかったことのみを話した。その場の霊狐たちからは、やはり、といった雰囲気が漂っていた。八尋の流れは悪くなる一方だ。

 何とかしなければ。町屋も、霊狐も、そして五十五も。どうすればいい。どうすれば上手くいく?

 八尋は思い返しつつ、大きな溜息をついた。吐いた息が白い煙のように宙を漂う。薄っすらと雪に消えていく自分の足跡を眺め、物思いにふけていた。

 狐の足跡を見て、五十五のことを想った。五十五の足跡を見たのも、もうずっと前になるんだなと。

 五十五と一緒に山で暮らしていた、まだ野狐だった頃。八尋は、今のような雪の日に、五十五と足跡を比べて遊んだことを思い出した。どっちがどうとかでもなく、お互いの足跡を褒め合っていたことが懐かしくなった。

 八尋の見つめる足跡の向こうでひとつ影が揺らめいた。八尋が視線を上げると、狐の足跡の隣に、懐かしい狸の足跡が付いていた。

 「八尋、近頃ずっと悩んでるね」

 聞き慣れた声と共に、八尋の隣に座った。その声に、八尋は救われた気がした。

 「ちょっとな、色々起こりすぎた。どこから解決したものか、ってね」

 「でも、来てくれてありがとな。五十五」

 八尋は、五十五が残した足跡を見つめながら、隣に座った五十五の頭の雪を手で払った。

 「突然来たから、怒られるかなって思ってたんだけど。悩んでる八尋を見てたら、側に居たくて」

 どうして、いつも可愛らしいことを、こうも素直に言えるのだろうか。そうだ、お前はずっと昔からこうだったよな。

 五十五の純粋さは昔から変わっていなかった。

 「馬鹿。友達が来てくれて、怒るやつがどこにいるよ」

 八尋は嬉しさを誤魔化すように、やや呆れ笑いを見せながら答えた。

 「だって、ほら。やっぱり僕がここにいると、みんな不安がるだろうし。今はそういう…」

 本当に変わらないな。

 そんな五十五と、昔はずっと一緒だったのだ。五十五と過ごしたおかげで、夢が持てて、それに走れて、今の八尋がいる。八尋こそ、五十五の居ない世界が不安だった。どうしたらいいか分からない今の八尋には、五十五は一番求めている存在だった。

 五十五の言葉を遮るように抱き寄せた。肩にかけていた霊刀が音を立てて倒れる。五十五はビクンと体毛を逆立てた。 突然抱かれたせいか、刀が大きな音を立てたせいかはわからない。八尋とて、自分がなぜ抱き寄せたのかも、説明出来なかった。ただ五十五と近くに居たい、それだけは確かだった。流されるように、五十五もゆっくりと抱き返す。

 しばらく、パチパチと篝火の音だけが流れる。橙色に染まるお互いの姿は、どこか官能的に思えた。

 こんな事をして良いのだろうか。二人は抱き合う中、そんな疑問を浮かべている。それでも、身体を離すことは無かった。先の見えない凍える夜、二人の身体が互いを温める、そんな懐かしい感触が必要だった。

 しばらく身を寄せ合っている中、八尋はふつふつと身体の違和感とともに何かを感じた。これまでの思い出には無かった、いつ生まれたかも分からない感覚が。

 ああ、まただ。自分が何をしたいのか、今の八尋には本能的に分かっている。なんでこんな時に反応してしまうんだ。今はそんなつもりじゃないのに。

 様子を伺うように、八尋は五十五と目を合わせた。言葉にしづらそうな五十五も、自分と同じ変化をしていた。やはり、おかしいのは自分だけじゃない。

 今の八尋には、五十五が何を求めているかも分かっている。五十五にも、八尋のしたい事が分かっている。まだ春も遠い雪降る中、そんな匂いがした。一度触れてしまえば、そのまま流れてしまうだろう。

 それは、今の二人には絶対にしてはならないことだった。二人は、とてつもない切なさを覚える。落ち着かせようとする思考とは裏腹に、興奮を伝えるように心拍数があがっていく。八尋の鼓動は大きくなる。五十五の目つきが切なくなる。

 もういいよな、触れてもいいんじゃないか。友達だし、他のやつらもしてるし、五十五も一緒の気持ちだし。

 八尋の思考が悪い方へと次第に流されていく。分かっているのに、うまく戻すことが出来ない。五十五の方から来たら確実に触れてしまう。

 このままではまずい。

 熱くなった二人を覚ますように、冬の山風が八尋たちをあおぐ。葉の擦れる音の中、八尋は顔を背け、五十五を守るように身体を覆った。目尻についた雪で半目になる。

 突然の山風もすぐ収まる。何もなかったように、篝火の音が流れ始める。

 八尋は気配の消えた空を不思議そうに見上げた。

 そんな八尋の目尻についた雪を、五十五は指で払った。八尋が一言かけようとするも、五十五は視線を逸らした。恐らく、五十五が雪風を吹かせたように見せたのだろう。

 二人とも、今の気持ちに向き合うことが出来なかった。

 「ごめんな」

 「ううん、僕もごめんね。本当に困らせちゃった」

 八尋も返すように、五十五の頭にかぶった雪を軽く払う。

 「身体を冷やしてしまう。中に入ろうか」

 五十五はゆっくりと頷き、二人は立ち上がる。そうだよ、俺たちは友達だ。今まで、そんなこと思ったこと無かったし。

 でも、この気持ちは何なんだろうか。

 冷たい風に吹かれて、二人の身体は落ち着きを取り戻していた。

 一方で、二人は今まで無かった感情をどう扱っていいのか、まだ掴めていなかった。


 部屋へ戻った二人は、今まで通りの友人同士の雰囲気となっていた。八尋が茶を沸かす間に五十五が物色することも無ければ、お互い変な雰囲気を出すこともなかった。他愛の無い話をして笑う姿は、昔の二人に戻ったような感覚がした。

 「町屋についてからは、そりゃもう驚いてばっかだったな。珍しいもんもあれば、美味いもんもいっぱいあったな」

 「ああでも、一番驚いたのは人の多さかな。案内人にたまらず祭りかどうか聞いてしまったわ」

 珍しく、八尋は自分のことを五十五に話し続けていた。五十五はくすくす笑いながら聞いていた。

 「人が多いからって祭りかって聞くの、それ本当に田舎から来た人の常套句だよ。僕だって最初は驚いたけど、いっぱいお店があるからなんだなーってすぐ分かったよ」

 「んだよ、馬鹿にして。しょうがないだろ、ここらじゃ祭りくらいしか人が集まることは無いんだし。そりゃ祭りと勘違いするだろ」

 八尋は両手を首に組んで、自分を笑う五十五を見つめていた。

 「お前は、もう町屋に行くことはないのか?」

 あまり触れない方が良い話題かと思ったが、五十五は何事もない様子だった。

 「ううん、まだ何度か行くことはあるよ。買い物にも便利だし、中にいる間は化ける必要も無いしね」

 「ただ、狸の姿で居ても、周りから変な目で見られないのを思うと、やっぱり僕はあそこにいるべきなのかなあって…」

 五十五がため息をつくように話した。前ほど落ち込んでいる様子が無い分、町屋が自分の居場所ということに抵抗が薄れているのだろう。常に八尋神社の山で隠れて過ごすよりは、少しでも身体を休める場所を持ってくれることに八尋は安心する。

 「中に入るのも、そんなに簡単じゃないだろう。関所でも、随分と訪問者を警戒している様子だったぞ」

 「ここに来るよりずっと楽だよ。霊狐や雪村さん全員を騙して本殿に入る方が難しいでしょ。霊狐の山に、妖狸が入るんだもの」

 五十五は笑って、少し得意そうな表情で話した。八尋も感覚が麻痺していたが、思えば八尋神社にいる全員に気づかれないように入っているのだ。あの大きな町屋に居るもの全てに化け術をかけたという話は、本当のことなのだろう。霊術と妖術、力比べなら八尋をも上回る力を持っているに違いない。

 力比べで負けているかもしれないという思いに、八尋は霊術の修行を増やそうかと考えた。負けたくない気持ちは、やはり男の子だからだろう。

 顎下をかいてひとりで考えている八尋に、五十五は続けた。

 「ただ…少し前から、町屋の様子がおかしいんだ」

 五十五の言葉に、八尋は耳をピクリとさせる。

 「おかしいって、それはいつからだ?」

 「えっと…最後に行ったのは夏だったかな。八尋が町屋に行く、少し前くらい」

 「様子がおかしいっていうのは。例えばどんな」

 「うーん、何というかな。活気はあるんだけど、ちょっと息苦しい感じがしたかな。妖狸と妖狸同士で、何か隔たりがある感じがした」

 「なんだか、他の妖狸たちからのきつい目線とかもあったかなあ。お前、どこの子だ?とかも聞かれたことあったね。家柄とか気にするような…」

 八尋は親指を顎に添え、首を傾げて考えていた。

 「俺の時は、全く分からなかったな…妖狸同士、何か派閥でも出来ているのか」

 「あ、ちょっとそれっぽいのはあったかも。妖狸と妖狸が喧嘩してるところも、こっそり見たことあるよ。その妖狸たち、目につかないように、人払いの化け術を使って…」

 八尋が見てきた温かみも見えた景色とは裏腹に、治安の悪さを聞き、違和感を覚える。

 「久松殿は、それを許すとも思えんが」

 「たぶん、本人は知らないんじゃ無いかな。ヒトと妖狸じゃ、力が違いすぎるから…」

 八尋の中で、見えなかったものが見えてくる気がした。それでも、今後の目標を立てるには情報が少なすぎる。

 「それと八尋、町屋で何かあったこと、教えてよ」

 五十五が真面目な声色で問うた。妖狸を纏める九頭に、ふたりの霊狐を穢れ落ちさせられたことは伏せていた。

 「何かやられたんでしょ。帰ってきたみんなの様子を見たら分かるよ」

 八尋は目をそらして、少し考え込むように黙っていた。五十五を心配させないために隠そうとしていたが、八尋は正直に町屋で起こったことを話すことにした。

 「談話があった最後の日。妖狸を纏める九頭という男に、霊狐ふたりが穢れに落とされた。俺らの目の前で、化け術を使ってな」

 五十五は目を大きくして言葉を失った。何かを思い出すような仕草を見せて、まさか、と言葉を漏らす。

 「ち、ちょっと待って。今、誰にやられたって…」

 「誰に…って?」

 様子のおかしい五十五見て、八尋は首を傾げる。五十五は続ける。

 「九頭って、あの夜、僕を騙した侍の名前だよ。町屋の化け狸と呼ばれるようになった日の!」

 「なんだと!?」

 五十五の話を聞き、八尋も信じられなかった。十数年前、五十五の全てを変えたあの人物と同じ名前だという。

 「まさか、お前を騙した侍はヒトだっただろう。俺が見た九頭は妖狸だったぞ」

 「そ、そうなんだけど…」

 五十五は順序を正そうと、「えーと、えーと」と前置きする。

 「あの日の夜。九頭が刀を抜いて、追い詰めた僕を本気で斬ろうとした時、あいつに化け術をかけたんだ。その、ほら、八尋と一緒に山で暮らしてた時にやってた。相手の姿を変える化け術を…」

 八尋には見覚えがあった。熊や狼に襲われた時、五十五は相手の姿を自分たちと同じ姿に変えさせ、混乱させたり仲間割れさせたりする化け術を使っていたことを。それは一時的なもので、永久に姿を変えるわけではない。

 しかし、その時の五十五は町屋の化け狸と呼ばれるほどの力を持っている。九頭をヒトから妖狸へと落とすほどの力を使ったこともありえる話だった。

 「お前が、九頭を妖狸へと落としたかもしれないと」

 「もしかしたら…だけど。でも、霊狐を妖狐に落とすのと同じように、強い力をかけすぎるとヒトも妖に落とせるのかも…」

 九頭を妖狸に変えてしまったというのは、その頃の狸が悪者という扱いを受けていた、五十五の心が無意識に投影されてしまったのだろうか。

 「久松殿の話では、狸を追い払った侍は、その後町屋に現れることは無かったと聞いたな。そして、しばらくして妖狸が部下を連れて町屋を守ると現れた」

 妖狸へと落ちた九頭が、まだ町屋や領主の座を諦めていなかったとしたら。妖狸に襲われた町屋に、再び妖狸が現れたという話もおかしくない。

 「もしかして、今こうなってるのは僕のせいなのかな…」

 弱々しい声で、五十五は俯いた。霊狐と妖狸の間を作っただけでなく、町屋の妖狸争いの原因も自分が作ったと考えていた。

 「そんなことはない、元は九頭のせいだろ。お前は自分の身を守るために化け術を使ったんだ。それに、妖狸だからってみんなが悪いわけでもない。それは、俺が一番知っている」

 八尋は五十五を安心させるように頬を撫でる。だから顔を上げろと言うと、不安そうな表情を見せつつも、五十五は笑みを見せた。

 「派閥が出来ているとしたら、九頭側と、そうでないもう一つの陣営があるはずだが…五十五、何か知っているか」

 「ごめんね、そこまでは分かんない。他の妖狸とはできるだけ関わらないようにしてるんだ」

 「そうか…内情を知るには、どこかの派閥に入らなければ分からないだろうしな。気にするな」

 八尋も妖狸についての実態は殆ど分からない。妖狸と関わりがあったのは唯一、四辻しかいなかった。少なくとも、彼からは敵意を感じることはなかった。

 彼が味方であれば良いのだが。そう思いながら、八尋は顎元を掻いた。

 ふたりが話をしているうちに、部屋の灯りが弱く揺らめいた。いつもより長い時間を一緒に過ごしていたようだ。

 「そろそろ、僕も帰ろうかな」

 五十五が立ち上がって、羽織を着て帰り支度をする。

 「せっかくだから泊まっていけばいいのに。もうだいぶ遅いだろうし、外も寒いぞ」

 五十五は少し悩んだ後、平気だと告げた。

 「一緒に寝たら、どうなるか分かんないのは、八尋もそうでしょ」

 茶化すように五十五が笑った。八尋があえて言わなかったことを言われ、八尋は面を食らった。

 「なあ。お前は今どこに住んでるんだ?たまには俺の方から行くぞ」

 「だめだよ」と、五十五は笑って答えた。

 「僕は大丈夫だよ。それに、八尋にもあんまり迷惑かけたくないし。あと…僕んち、八尋の部屋みたいに綺麗なところでも無いしさ」

 「だが五十五…」

 「それに、他の霊狐たちにも気づかれないように転々としてるからさ。どこに住んでるっていうのも、やっぱり難しいかな」

 言うなら「この冬までは同じところに住んでいる」と、いうことだけ教えてくれた。

 やはり忙しい八尋に迷惑をかけたくない、と五十五はもう一度話す。その言葉に、八尋はそれ以上聞かないことにした。

 このまま五十五を帰したくない。何かしてあげられないだろうか。

 帰り支度を済ませた五十五が、部屋の戸に手をかけたところで、八尋は思いつく。

 「ちょっと待て五十五」

 八尋は、愛用している羽袖を手に取り、五十五の首元に巻いた。

 「今日も冷える。ここの夜道は大丈夫だろうが、気をつけてくれよ」

 五十五は巻かれた羽袖を鼻まで隠しながら、笑顔を返した。

 「ありがとう八尋。大切にするよ」

 八尋の匂いがする、と嬉しそうに五十五が話す。八尋は、やや恥ずかしそうに五十五を叩くが、その言葉が何よりも嬉しかったことは隠しきれなかった。

 五十五を見送った後、しばらく八尋は中庭で降り積もる雪を眺めていた。

 「なんだかんだ、俺も五十五に甘えさせて貰ってんだよな」

 もっとしっかりしなければ。八尋は気を引き締めるように頬を叩く。町屋の一件から、八尋が抱えた問題はさらに増えてしまったのだから。

 しかし、八尋の思いとは裏腹に、問題はさらに増え続けていった。


 「居なくなっただと!?」

 雪村の部屋で、八尋が声をあげていた。対面に座る雪村が、口元に人差し指を立てて八尋を落ち着かせた。

 八尋が奥歯を噛むような表情を見せ、沈黙が流れた。雪村の部屋の外、社務所には霊狐の気配が全く無い。雪村がいいように仕事を与え、ふたりだけの話ができるように人払いをしたのだろう。

 八尋が落ち着いたのをはかって、雪村は話す。

 「はい。八尋さまがおっしゃっていたように、ふたりの様子はあまりよろしくありませんでした。現状維持、ということで進めていたのですが…」

 「今朝方、小屋へ行くと、衣服を残してふたりの姿が見当たりませんでした。今のふたりに行くあてなどありません。つまり…」

 八尋は視線を窓の景色へと移した。今日も白くちらつく、八尋神社の山々を見る。

 「狐に戻った、ということだろう」

 雪村は否定することなく、ゆっくりと頷いた。

 「小屋に妖気の類は感じられませんでした。おそらくは、八尋さまのおっしゃる通り」

 これから、いかがなさいましょう。と雪村が尋ねる。八尋は白く染まった山から、目を向けて話す。

 「あのふたりだ、山での生活に心配することはないだろう」

 ただ、八尋は悔しかった。霊狐として、社へ戻りたいと願うふたりの姿を数ヶ月も見てきたのだ。あの事件から、八尋はふたりが霊狐へと戻れるよう、祈祷を欠かすことは無かった。ふたりの願いへの後押し、それに自分への責任感もあった。それでも、ふたりの願いも、八尋の祈りも届くことなく、狐に戻ってしまうという結果を突きつけられてしまった。

 八尋は原因を思いつく限り考えた。

 霊狐へと成るには、それを願う周りの者に加えて、本人の強い意思を繋げることにより成就する。今回、その二つは合致していたことは間違い無い。それでも、霊狐へ戻ることはできなかった。

とはいえ、妖狐へと落ちることも無かった。それは、ふたりが霊狐へ戻りたいといった願いが偽りでは無い証明にもなる。ふたりの心の中で、霊狐として元に戻ることができない決定的な何かが植え付けられていたのだろうか。

 それが町屋での出来事が原因なのは間違いない。では、いつふたりは心に植えつけられたのだろうか。町屋での最後の日、九頭たち妖狸たちが起こした化け術だけが原因とは思えない。ふたりは、何か秘密を暴かれるようにのたうち回っていた。

 八尋は、どこかで聞いた話、小屋での匂い、自身にも身に覚えのある感情からひとつ、確かめようと雪村へと尋ねた。

 「雪村は知ってたか。あのふたりが小屋で時折何をしていたか」

 八尋の問いに雪村はやや驚いた表情を見せる。少し言葉に迷いつつ、答える。

 「おそらく、身を寄せ合っていたのでしょう。八尋さまの思うようなものかどうか、お尋ねはしませんが…」

 「匂いで分かった。霊狐たちの中にも、何人かこそこそしていると思えば、同じような匂いをかすめた事もある。社で仕えている者が、身体を寄せ合うのも珍しくない」」

 八尋くらいの年から、自身や相手の性に対する欲が湧き上がるのは、八尋自身も分かっている。八尋神社にいる霊狐たちも同じ悩みを持ちながら一緒に生活している。さらに、この時代では、神社や寺の者が男色をする背景もあり、特段珍しいことではなかった。。

 だから、八尋はあえて霊狐たちが隠れて身体を寄せ合っていることに問わなかった。

 「ここにいるみんな、欲に対する向き合い方など分からん。俺だってそうだ、この情をどうすればいいなんて知らん」

 「だから、ここの霊狐が、文字通り手探りで何かしていることに何も言わん。ただ、悪いことではない、と俺は思う」

 自分の知らない身体の仕組み、性に対する知らない知識に不安を覚えるような子供のように、雪村に話した。

 「ただ、この匂い。扱いを誤れば非常にまずい。ひとたび間違ったことを覚えれば、戻ってこれない感じがする」

 「ふたりが狐に戻ったのは。おそらく、たっぷり何かを教えられたんだろう」

 もしや、あの宿。雪村は思い出すように答えた。参ったように、八尋が失笑する。

 「わざわざ離れた個室に通したのは、そういうことだろう。俺らの身体と心を利用して、とんでもないことをしてくれたよ」

 心と身体をそそのかして、霊狐を誘惑し、そこに生まれた欲を化け術で洗脳したのだろう。欲を知った自分たちは、これほど汚れた存在であったと言い聞かせるように。

 ここにいる霊狐は同じようなことをされれば、殆どの霊狐があのふたりのようになってしまうだろう。社で優秀な能力を持ったあの霊狐ですら、心の隙を突かれてしまうと簡単に妖術に侵されてしまう。

 八尋自身も、耐えられるかどうかも予測がつかない。何を教えられたのかも分からないだけに、どこか不気味さも覚える。

 「俺らの、思いもよらぬ弱点を突かれたな」

 世間知らずの子供へ、未熟な恥と思わされる仕打ちを受け、八尋は乾いた笑いを見せた。そんな話をする中、雪村はどこか参った表情で視線を落としていた。

 「それでも、私はどうすれば良いのか分かりません。私は一体どうすれば…」

 「馬鹿、それでいいんだよ。そんなもの、人から教わることじゃないだろ。それに、俺だってお前からなんて教えられたくもないよ」

 少しは落ち着け、と八尋は雪村を叩いた。雪村は真面目すぎる。こんな問題にも、何かしようと考えてしまうのだから。

 兎も角、と八尋は続けた。

 「しばらく、町屋へ行くのはやめておこう。雪村も、町屋の狸に顔を覚えられているに違いない。何を化かされるかも分からない今、お前もしばらく近づくことを禁ずる」

 五十五から聞いた、妖狸の派閥が気になった。下手に首を突っ込めば、斬られてもおかしくない。雪村まで失ってしまえば、いよいよ八尋神社は終わってしまう。神主のいない神社など、すぐに崩れてしまう。八尋はそれだけは避けたかった。

 「わかりました。ですが、八尋さまはよろしいのでしょうか」

 雪村は心配そうに尋ねた。八尋の願いは、町屋との関係を持たなければ成し得ることは無い。町屋に近づかないということは、八尋の願いを諦めるといっても過言では無い。

 「お前や霊狐、この神社が大事だ。ここを失うなんて、俺も考えたくも無い。それに…」

 「五十五のことも、諦めるつもりは無いよ」

 八尋は、五十五の名を出して言いきった。

 雪村は、八尋の願いを聞き、はい、と受け止めてくれた。

 八尋は立ち上がって、社の境内を眺める。掃除をする霊狐が数人見えた。永助に近い幼い霊狐たちが、雪を一か所にかき集めていた。彼らの表情から、後で遊ぶつもりなのだろうと伺える。

 「なぜ、俺らは襲われたんだろうな」

 ふと疑問に思い、八尋が呟く。霊狐ふたりを失った今、起きた事件の根本から考えようとしていた。

 「俺たちはあくまで話をするだけのために町屋へ行ったんだ。利害関係を結ぶ話でもなく、争うつもりも全く無かった」

 「それは文を送った時から、あちらには伝えていたはずだ。それを久松殿が、九頭に話していないとは思えない」

 思い返せば、霊狐を落としてまで敵対関係を示した九頭の行動は、あまりにも度が過ぎている。遠方から来た客人を領主の者が襲うなど、周りに知られれば多くの敵を作ることとなる。

 雪村は情報を整理するように、しばらく考え込んでいた。

 「確かに、客人として招かれた私たちを襲ったことが知られれば、領主への信頼は大きく下がります」

 「ましてや、神霊であり主神である八尋さまが襲われたとなると…報復が起きてもおかしくありません」

 八尋と雪村が、今回の事件を伏せているのは、里の者や霊狐たちに知られて何が起きることを危険視していたからだ。この事については、永明も賛成している。

 「それでも俺たちを襲ったということは、俺たちが襲われても手出ししないことを分かっているからか」

 こちらの思いを利用して、随分と泥を塗ってくれる。と、八尋は怒りを覚えた。

 八尋は息を落ち着かせて、話を戻そうとする。

 「俺たちが報復に来ないと分かってやったとしたら…」

 「町屋に近づけたくない理由があるのやもしれんと言うことか」

 八尋が自答し、雪村も続く。

 「あの九頭という男、何を企んでいるのか分かりません。町屋と関わりを持とうとする八尋さまを邪魔と思う何かが」

 八尋は五十五が話していた派閥のことを思い出した。やはり、九頭が何か起こそうとしていることは間違いない。

 「他に、八尋さまにお伝えしなければならないことが…」

 その言葉に、八尋は眉をひそめる。

 「村の、飛脚のトビさんが居なくなってしまったそうです。晩秋、町屋近くの籠屋を出たのを最後に…。村の者から、そう聞きました」

 八尋にも世話になる名前だった。

 「トビ…。飛脚が居なくなるということは」

 雪村は黙って頷いた。

 「何かを伝えられぬよう、襲われたと見て…間違いないでしょう」

 雲行きがますます悪くなっていく気がした。八尋神社の周辺で人が襲われるという話は、もう何年も聞かなかっただけに、どこか嫌な予感がたちこめる。

 「近頃、町屋へ向かう妖狸や侍が増えているようです。村の者が、そう話しているのを耳にしました」

 八尋は顎に指を置いて、静かに唸る。

 「やはり、どこか嫌な予感がするな…」

 「村の者や、社に何も起きないことを祈りましょう。八尋さまのおっしゃる通り、しばらく霊狐たちにも遠出の仕事を控えさせます」

 「ああ、そうしてくれ。少し様子を見よう」


 数週間が過ぎた。一日が終わり、八尋はいつものように自室へと戻った。今日も、霊狐から不穏な報告を受け、八尋はため息をつく。

 村の飛脚、トビが少し前から帰ってこないという話は、社の霊狐たちにも伝えられた。飛脚は、八尋神社でも世話になっている者で、特に雪村から仕事を貰う事が多いようだ。仕事柄、雪村は様々な人へ手紙を出すことが多く、それを運ぶのも彼の仕事だった。また、八尋と領主との手紙のやり取りを届けていたのも彼である。

 そんな彼が、町屋近くの籠屋へ仕事を終えた後、いつまで経っても村へ戻ってこないという話だ。街道だけでなく、山道を走ることもあるため、野盗に襲われる可能性は低くはない。とはいえ、飛脚を襲う野盗なんて、勘違いか、余程の命令が無い限り有り得ない。誰かの命令で襲われたのだとすれば、いよいよ村里の平穏のために何か動かなければならなくなる。

 それからというもの、少しでも村人が安心できるようにと、霊狐たちが数人のペアを組んで、周辺の見回りをすることとなった。

 もうすぐ一年の終わりが近いというのに、悪い話が続いている。八尋の心に、余裕が無くなっていく。

部屋を温めて、灯を消した。明日も早い、と小袖姿で布団に入る。横を向いて、やや俯き気味になって身体を伸ばした。


 後日、夜更けに五十五がまた八尋の元へとやってきた。

 特に変わった様子もなく、五十五は八尋の部屋でお茶を飲んでいた。そして話を繰り出す。

 「前、八尋とあった後、町屋に行って調べてきたんだ。それで分かったことを八尋に知らせようと思って…」

 「町屋に行ってきたのか。半月くらい経ってるとはいえ、随分早いな。お前、そんなに脚が良かったか…?」

 片道でほぼ一週間使った八尋と違い、五十五は半月で往復し、さらには現地で調査までしてきたらしい。

 「何度か行ったことあるからね、行き方は慣れてるんだ。それで話っていうのが…」

 八尋は座り直して五十五の話を聞く。

 「町屋の領主、久松さんが亡くなった。八尋と会う前から具合が良く無かったみたい。老衰に、持ってた病で、年が明けた後に…」

 「久松殿が…亡くなられた…!」

 五十五はひとつ頷いて続ける。

 「あまりに大きなことだから、町屋の人たちには知らされてないみたい。それで、これからどうするっていう話をしてるみたいだけど…。そこで、九頭が領主の代わりになって、やっていくっていう話になって…」

 「やはり九頭が動くか…久松殿が去るのを伺っていたとしか思えんな。…お前、この事をどうやって?」

 「城内の兵士に化けて、数日いたから…噂でもない、僕が全部見てきたことだよ」

 五十五の性格では思えぬような成果を果たしていた。密偵としては、これ以上はいないのではなかろうか。

 「わかった…これはいよいよ、雲行きが怪しくなるな。九頭は町屋を統べて、いったい何を企んでいる…」

 「九頭派と久松派の争いが、本格的になりはじめてる…かな。久松派は町屋を追い出されるように、町屋の外に移動させられてるみたい。妖狸同士の争いも、見えないところで増えてきてる」

 「こちらにも、その波が来ているように思える。村の飛脚、トビが居なくなったようだ。今までこんなこと、無かったんだがな…」

 「飛脚のトビさん?」

 五十五は聞き返すように繰り返した。

 「トビさんなら、僕が町屋に行く時は一緒にいたよ。町屋についてからは、一日もおらずに町屋を出てたみたいだけど…」

 「一緒にいた、とはどういうことだ?トビを知っていたのか」

 「うん。町屋に行く時は、僕が文に化けてトビさんの荷物に紛れて運んでもらってたんだ。トビさん、すごく脚早いし」

 五十五がそこまで早く町屋に行ける理由を知り、八尋はよろめく。ともかく、町屋を出るときまではトビが無事だったことが分かった。

 「これから、どうなっていくか分からないな。五十五、お前も気をつけてくれよ。危なくなったら、すぐここに来るんだぞ」

 「あはは、大丈夫だよ。ちゃんと危なくなったら逃げるから」

 五十五は立ち上がって、帰り支度をする。

 「もう行くのか?」

 「うん。八尋の話を聞いてたら、僕もぽけっとしてられなくて。明日から、この辺の山を少し回ってみようかなって」

 確かに、社の霊狐たちの行動範囲は村の周囲が限界だった。山に詳しい五十五が手伝ってくれるほど頼りになることはない。

 「助かるよ。やっぱり頼りになるな、五十五は」

 「八尋にいっつも甘えさせてもらってるもん。僕だって頑張らなきゃ」

 八尋は五十五の頭を撫でて、前に着せた朱の羽袖を巻いていく。

 「なんだか、今日の八尋、いつもより優しい感じがする。匂いも違うみたい」

 五十五は八尋の首元を嗅いでからかった。

 「ば、バカ。普通だ、ふつー。それに寒いから、これもいるだろ」

 八尋は何かを当てられたと思い込んだ様子で、誤魔化す素振りを見せた。

 五十五は笑って、じゃあねと塀を越えるように闇夜へ跳んでいった。

 八尋は見送りを終えた後、首元を掻きながら小さく唸る。

 「五十五の言う通り、なんか変かもしれないな」

 部屋に戻り、明日に備えて早めに寝ることにした。

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